2011年04月07日
風水としての東京。
日本の東の首都である東京。
かつて、「江戸」とよばれ、徳川幕府300年の拠点となった地です。
江戸に城塞がつくられたのは戦国時代に太田資長(道潅)公によるとされています。
豊臣秀吉公の命で関東に移った徳川家康公によって江戸城の規模が大きくなり、城下町として整備され、さらに徳川幕府の拠点として繁栄。
多くの災害をうけながら、明治時代には「皇居」が京都から移り、明治政府の拠点として「首都」整備されてきました。
江戸城とその周辺について書かれた本によると、京都の風水に準じて寺院、神社、街道、水路が整備されたとされ、徳川家の繁栄を願って完璧な風水が施されたとされます。
しかし、関東、日本の中心としての風水からみると、「海外との摩擦、外交政策の失策」が予想されるといいます。
事実、徳川幕府は、キリシタン政策の失敗から島原の乱が起こり、外交摩擦を防ぎ、それによって徳川幕府の失政、衰退を阻止するために「鎖国政策」を行い、江戸から西南の方角にある長崎にて「外交」を行なうとしました。
歴史的には「黒船来航」による外交政策の混乱から徳川幕府は崩壊して「無政府状態」となり、明治維新となります。
明治政府は、徳川幕府とはことなる風水を施したとされるのですが、昭和時代に外交政策の失敗から太平洋戦争となり、明治政府のあり方は崩壊。天皇象徴として民主国家となります。
風水の本では、江戸の鬼門に当たる水戸、裏鬼門にあたる尾張、西の方角にあたる紀州に徳川家の分家をおき、京都の風水の流れを東海道、中仙道で江戸にいれたといいます。
歴史的にいうと、裏鬼門の尾張ではなく西の方角の紀州から将軍をむかえて徳川幕府は再興していますが、鬼門の水戸から将軍をむかえて幕府はその役割を終えます・・・・・。
現代でいうと東京の裏鬼門の名古屋で政治改革をさけぶ首長がでて、中央政界は混乱し、さらに鬼門の東北地方での大震災、原発事故で政府自体が崩壊の危機あるとみてとれます。
運輸の面でみると東京の鬼門の成田から空港機能を南西の羽田に移したのは正解ですが、これもまた混乱していますね・・・・・。
鬼門でおきた大震災によって東京の風水機能がよくない方向にいくと、おそらく皇居の京都還幸、首都機能の大阪、阪神地域への移転もいわれるかもしれないと想像してしまいます。
政府機能は正しく機能しない現在、鳥インフルなどでパンデミックがおきたら数十万の方がわずか数日で亡くなり、社会は機能しなくなります。
それを一新するためには首都機能移転、関西への奠都も視野にはいるかもしれませんね・・・・。
そうなると、本来の日本の首都である京都、大阪、神戸、さらに広島、福岡なども注目されるかもしれません・・・・・・。
かつて、「江戸」とよばれ、徳川幕府300年の拠点となった地です。
江戸に城塞がつくられたのは戦国時代に太田資長(道潅)公によるとされています。
豊臣秀吉公の命で関東に移った徳川家康公によって江戸城の規模が大きくなり、城下町として整備され、さらに徳川幕府の拠点として繁栄。
多くの災害をうけながら、明治時代には「皇居」が京都から移り、明治政府の拠点として「首都」整備されてきました。
江戸城とその周辺について書かれた本によると、京都の風水に準じて寺院、神社、街道、水路が整備されたとされ、徳川家の繁栄を願って完璧な風水が施されたとされます。
しかし、関東、日本の中心としての風水からみると、「海外との摩擦、外交政策の失策」が予想されるといいます。
事実、徳川幕府は、キリシタン政策の失敗から島原の乱が起こり、外交摩擦を防ぎ、それによって徳川幕府の失政、衰退を阻止するために「鎖国政策」を行い、江戸から西南の方角にある長崎にて「外交」を行なうとしました。
歴史的には「黒船来航」による外交政策の混乱から徳川幕府は崩壊して「無政府状態」となり、明治維新となります。
明治政府は、徳川幕府とはことなる風水を施したとされるのですが、昭和時代に外交政策の失敗から太平洋戦争となり、明治政府のあり方は崩壊。天皇象徴として民主国家となります。
風水の本では、江戸の鬼門に当たる水戸、裏鬼門にあたる尾張、西の方角にあたる紀州に徳川家の分家をおき、京都の風水の流れを東海道、中仙道で江戸にいれたといいます。
歴史的にいうと、裏鬼門の尾張ではなく西の方角の紀州から将軍をむかえて徳川幕府は再興していますが、鬼門の水戸から将軍をむかえて幕府はその役割を終えます・・・・・。
現代でいうと東京の裏鬼門の名古屋で政治改革をさけぶ首長がでて、中央政界は混乱し、さらに鬼門の東北地方での大震災、原発事故で政府自体が崩壊の危機あるとみてとれます。
運輸の面でみると東京の鬼門の成田から空港機能を南西の羽田に移したのは正解ですが、これもまた混乱していますね・・・・・。
鬼門でおきた大震災によって東京の風水機能がよくない方向にいくと、おそらく皇居の京都還幸、首都機能の大阪、阪神地域への移転もいわれるかもしれないと想像してしまいます。
政府機能は正しく機能しない現在、鳥インフルなどでパンデミックがおきたら数十万の方がわずか数日で亡くなり、社会は機能しなくなります。
それを一新するためには首都機能移転、関西への奠都も視野にはいるかもしれませんね・・・・。
そうなると、本来の日本の首都である京都、大阪、神戸、さらに広島、福岡なども注目されるかもしれません・・・・・・。
2011年02月28日
崇源院さまのお厨子のこと
先日まで、江戸 東京博物館で陳列されていた「崇源院さまのお厨子」。
東京の祐天寺にあった品とされ、江戸 東京博物館で調べてみて、崇源院さまの供養のためにつくられたお厨子ということがわかったそうです。
崇源院さまの子である駿河大納言 忠長公が生母の崇源院さまのために駿府(静岡)の宝台院に寄進したものではないか・・・ということでした。
宝台院は、徳川秀忠公の生母の菩提寺であり、徳川家の菩提寺であったことから、忠長公が母の供養のために寄進した厨子らしいということがわかったそうです。
駿府に崇源院さまの供養所を建てたことが徳川幕府に無断であったということから父である秀忠公、兄の将軍・徳川家光公の怒りをかい、江戸でおこなわれた崇源院さまの法要には参列はできなかったといいます・・・・。
忠長公が駿府を追われ、追放の憂き目にあいます。その後も駿府に崇源院さまの供養所は残されますが、享保年間にとりこわされますが、今回みつかったお厨子のみが宝台院と宗旨がおなじ祐天寺にうつされたとされたらしいそうです。
徳川吉宗公が徳川家の祭祀を大きく変え、諸事簡略して、経費削減をしたことが大きな原因といいます。
(いわゆる仕分けですね・・・)
それ以後、崇源院さまの祭事は、江戸の増上寺にあった崇源院さまの霊拝所でおこなわれますが、先の戦災で霊拝所の建物は焼失し、墓塔がのこされます。
現在、旧崇源院さまの墓塔が現在の秀忠公の墓塔となり、崇源院さまは、合祀塔におまつりされています。
合祀塔には、天英院さま(6代将軍正室)、月光院さま(7代将軍生母)もおまつりされていています・・・・。
東京の祐天寺にあった品とされ、江戸 東京博物館で調べてみて、崇源院さまの供養のためにつくられたお厨子ということがわかったそうです。
崇源院さまの子である駿河大納言 忠長公が生母の崇源院さまのために駿府(静岡)の宝台院に寄進したものではないか・・・ということでした。
宝台院は、徳川秀忠公の生母の菩提寺であり、徳川家の菩提寺であったことから、忠長公が母の供養のために寄進した厨子らしいということがわかったそうです。
駿府に崇源院さまの供養所を建てたことが徳川幕府に無断であったということから父である秀忠公、兄の将軍・徳川家光公の怒りをかい、江戸でおこなわれた崇源院さまの法要には参列はできなかったといいます・・・・。
忠長公が駿府を追われ、追放の憂き目にあいます。その後も駿府に崇源院さまの供養所は残されますが、享保年間にとりこわされますが、今回みつかったお厨子のみが宝台院と宗旨がおなじ祐天寺にうつされたとされたらしいそうです。
徳川吉宗公が徳川家の祭祀を大きく変え、諸事簡略して、経費削減をしたことが大きな原因といいます。
(いわゆる仕分けですね・・・)
それ以後、崇源院さまの祭事は、江戸の増上寺にあった崇源院さまの霊拝所でおこなわれますが、先の戦災で霊拝所の建物は焼失し、墓塔がのこされます。
現在、旧崇源院さまの墓塔が現在の秀忠公の墓塔となり、崇源院さまは、合祀塔におまつりされています。
合祀塔には、天英院さま(6代将軍正室)、月光院さま(7代将軍生母)もおまつりされていています・・・・。
2010年10月26日
幕末の話・・・。
幕末、勤皇の志士の多くは、時の幕府によって命を落とすのですが、生き残った志士の多くは明治政府の顕官として絶大な権勢を誇ります。
土佐の郷士だった土方久元もそのひとりです。
明治になり、江戸町奉行となった土方は、町奉行所に赴任します。
門前には与力、同心が平伏するなかを進んだそうです。
そのとき、太鼓とともに
「(お奉行さまの)おなり〜」と声があがって土方は大いに動揺して、
「なにが起こったか!!」と思ったそうです。
なにしろ、幕府時代には、町奉行所から追われる身の上が追う側の町奉行(現在の警視総監にあたるのでしょうか)になったのですから、大変な時代の転換期でした・・・。
土方氏は、伯爵となるのですが、ご子息が自害、直孫にあたる土方与志氏は、1930年代にソビエト政権時代のロシアに渡り、スターリンらの前で日本の社会主義活動の弾圧を非難したといいます。
伯爵身分のソ連訪問、まして「日本政府批判」に日本中が大騒ぎとなり、宮内省(当時)は
「伯爵身分のはく奪」を発表したほどだったといいます。
まもなく、スターリンによってロシアを追われた土方氏は、ヨーロッパ経由で帰国、逮捕・収監されます・・・・。
幕末、薩摩藩が「大政奉還」を知って、浪士に命じて江戸市中に窃盗、放火をおこさせたともいいます。
薩摩藩のこの動きに怒った江戸見回り(現在でいう首都警備担当)の庄内藩(山形)が三田にあった薩摩藩邸を焼き討ちしたのはこのときでした。
「薩摩藩邸焼き討ち」を知った薩摩藩士らが大砲を江戸城のお堀まで引っ張り、江戸城の西の丸を砲撃。
西の丸が焼失したといいます。
「江戸城砲撃」を大坂城で聞いた徳川慶喜らが激怒して兵を京都へ上らせて鳥羽・伏見の戦いが起こるのですね・・・・。
2006・12・20 やまとこころ記事より
土佐の郷士だった土方久元もそのひとりです。
明治になり、江戸町奉行となった土方は、町奉行所に赴任します。
門前には与力、同心が平伏するなかを進んだそうです。
そのとき、太鼓とともに
「(お奉行さまの)おなり〜」と声があがって土方は大いに動揺して、
「なにが起こったか!!」と思ったそうです。
なにしろ、幕府時代には、町奉行所から追われる身の上が追う側の町奉行(現在の警視総監にあたるのでしょうか)になったのですから、大変な時代の転換期でした・・・。
土方氏は、伯爵となるのですが、ご子息が自害、直孫にあたる土方与志氏は、1930年代にソビエト政権時代のロシアに渡り、スターリンらの前で日本の社会主義活動の弾圧を非難したといいます。
伯爵身分のソ連訪問、まして「日本政府批判」に日本中が大騒ぎとなり、宮内省(当時)は
「伯爵身分のはく奪」を発表したほどだったといいます。
まもなく、スターリンによってロシアを追われた土方氏は、ヨーロッパ経由で帰国、逮捕・収監されます・・・・。
幕末、薩摩藩が「大政奉還」を知って、浪士に命じて江戸市中に窃盗、放火をおこさせたともいいます。
薩摩藩のこの動きに怒った江戸見回り(現在でいう首都警備担当)の庄内藩(山形)が三田にあった薩摩藩邸を焼き討ちしたのはこのときでした。
「薩摩藩邸焼き討ち」を知った薩摩藩士らが大砲を江戸城のお堀まで引っ張り、江戸城の西の丸を砲撃。
西の丸が焼失したといいます。
「江戸城砲撃」を大坂城で聞いた徳川慶喜らが激怒して兵を京都へ上らせて鳥羽・伏見の戦いが起こるのですね・・・・。
2006・12・20 やまとこころ記事より
2010年10月22日
旧江戸・府内 汐留 会津藩屋敷跡
東京・汐留にある電通ビル。
この場所は、かつて会津藩下屋敷があったところです。
隣接する日本テレビが仙台藩上屋敷があったのです・・・。
会津藩上屋敷は、江戸城・和田倉門内にあり、現在は皇居外苑となっています。
幕末、会津藩は鳥羽伏見の戦いで敗れ、藩主・松平容保公は将軍慶喜と船で大阪から江戸に行き、藩士の多くは徒歩にて大阪、京都からやっとの思いで江戸にたどり着きます。
藩主の側近だった神保修理(じんぼ・しゅり)に藩士の非難が集中し、鳥羽伏見の戦いで敗れた責任は、神保修理にあるとされます。
修理は、一切の責任をかぶり、大名小路の上屋敷から汐留の下屋敷にさがり、自刃します・・・。
こののち、会津藩は江戸追放となり、戊辰戦争となります。
板垣退助率いる官軍が母成峠から会津盆地に侵攻すると家老・田中土佐、神保内蔵助が敗戦の責任をとって自刃しました。
会津藩が降伏する一ヶ月も前でした。
神保内蔵助は、汐留で自刃した神保修理の実父でした・・・・。
そんな歴史もある汐留です。
2005・6・14 やまとこころ記事より
2010年04月11日
東京 皇居外苑 大楠公像
東京 皇居外苑にある楠正成公の像。
明治時代に時の財閥から皇室に献上されたともいい、高村光雲氏が造営に携わったといいます。
光雲氏の子息である高村光太郎氏の詩に光雲氏が模造を明治天皇に天覧した際のことが書かれています・・・・。
大楠公像とも呼ばれる像は、戦時中の金属供出をまぬがれ、現在にいたるとされています。
皇居の周囲には、大楠公を初めとして和気清麻呂公、大山巌公爵など明治の元勲の像が皇居を背にして建立されていて「皇城」をいまも鎮護しているかのようです。
皇室の守護を願った大楠公は、いまも像となって皇室、国民を見守っています。
明治時代に時の財閥から皇室に献上されたともいい、高村光雲氏が造営に携わったといいます。
光雲氏の子息である高村光太郎氏の詩に光雲氏が模造を明治天皇に天覧した際のことが書かれています・・・・。
大楠公像とも呼ばれる像は、戦時中の金属供出をまぬがれ、現在にいたるとされています。
皇居の周囲には、大楠公を初めとして和気清麻呂公、大山巌公爵など明治の元勲の像が皇居を背にして建立されていて「皇城」をいまも鎮護しているかのようです。
皇室の守護を願った大楠公は、いまも像となって皇室、国民を見守っています。
2009年11月13日
仙洞院さまの話
仙洞院さま 上杉景勝公の姉(妹ともいう)にして、長尾政景公と仙桃院さまの長女(次女ともいう)。
上杉謙信公の姪にあたり、謙信公の養子となった畠山義春公の正室となったといいます。
夫の畠山義春公は、能登にあった畠山氏の生まれですが、謙信公の養子となり「上杉姓」となり、上条上杉家を相続したといいます。
仙洞院さまは、義春公とのあいだに3人の男子をもうけます。
しかし、謙信公の死後、夫の畠山義春公が上杉景勝公に反抗し、豊臣家に出奔。
仙洞院さまは、3人の子とともに越後に残ったといいます。
長男は、景勝公の一字をもらい、「景広」と名乗り、景勝公の養子となって豊臣家に「人質」として送られたともいいます。
関ヶ原の戦いで、畠山義春公は、徳川家に味方して家臣となり「畠山姓」に戻り、3人の子を無理やり上杉家から取り戻したといいます。
後継者を失った景勝公は、直江兼続公の長女を「養女」とし、本多政重公を「婿養子」とも考えますが、側室に男子が生まれたことで、上杉家は後継者を得て、その話は立ち消えになったといいます・・・・。
畠山家に戻った3人の男子のうち、長男の景広公は亡くなり、次男である長員(ながかず)公は、「上杉姓」を名乗って徳川家の旗本となり、三男の義真公が畠山家を相続。畠山家は、徳川幕府の高家となり、幕末までつづくことになります。
仙洞院さまは、米沢で晩年を過ごし、夫に対してわだかまりを生涯解くことはなかったといいます。
墓は、米沢に残っています。
米沢上杉家と畠山、上杉家が和解したのは、景勝公、仙洞院さまの死後だったといい、畠山家は米沢上杉家のために尽力します・・・・・。
米沢の寺院には、景勝公の母である仙桃院さまが描かせたという中央に阿弥陀仏の画に左右に長尾政景公と仙桃院さまが描かれた画像が残り、仙桃院さまから息女の仙洞院さまに譲られたといいます。
そこには、長尾政景公と仙桃院さまのあいだに仙洞院さまの姉妹である上杉景虎公夫人とその子たちの法号が書かれているといいます。
仙洞院さまが父、母ら肉親の冥福を祈った品です。
そこには戦国を生き抜いた女性の祈りが残されています。
参考文献「直江兼続とお船」
上杉謙信公の姪にあたり、謙信公の養子となった畠山義春公の正室となったといいます。
夫の畠山義春公は、能登にあった畠山氏の生まれですが、謙信公の養子となり「上杉姓」となり、上条上杉家を相続したといいます。
仙洞院さまは、義春公とのあいだに3人の男子をもうけます。
しかし、謙信公の死後、夫の畠山義春公が上杉景勝公に反抗し、豊臣家に出奔。
仙洞院さまは、3人の子とともに越後に残ったといいます。
長男は、景勝公の一字をもらい、「景広」と名乗り、景勝公の養子となって豊臣家に「人質」として送られたともいいます。
関ヶ原の戦いで、畠山義春公は、徳川家に味方して家臣となり「畠山姓」に戻り、3人の子を無理やり上杉家から取り戻したといいます。
後継者を失った景勝公は、直江兼続公の長女を「養女」とし、本多政重公を「婿養子」とも考えますが、側室に男子が生まれたことで、上杉家は後継者を得て、その話は立ち消えになったといいます・・・・。
畠山家に戻った3人の男子のうち、長男の景広公は亡くなり、次男である長員(ながかず)公は、「上杉姓」を名乗って徳川家の旗本となり、三男の義真公が畠山家を相続。畠山家は、徳川幕府の高家となり、幕末までつづくことになります。
仙洞院さまは、米沢で晩年を過ごし、夫に対してわだかまりを生涯解くことはなかったといいます。
墓は、米沢に残っています。
米沢上杉家と畠山、上杉家が和解したのは、景勝公、仙洞院さまの死後だったといい、畠山家は米沢上杉家のために尽力します・・・・・。
米沢の寺院には、景勝公の母である仙桃院さまが描かせたという中央に阿弥陀仏の画に左右に長尾政景公と仙桃院さまが描かれた画像が残り、仙桃院さまから息女の仙洞院さまに譲られたといいます。
そこには、長尾政景公と仙桃院さまのあいだに仙洞院さまの姉妹である上杉景虎公夫人とその子たちの法号が書かれているといいます。
仙洞院さまが父、母ら肉親の冥福を祈った品です。
そこには戦国を生き抜いた女性の祈りが残されています。
参考文献「直江兼続とお船」
2009年10月23日
東京 新門辰五郎氏の墓
東京都内に残る新門辰五郎氏の墓。
写真でしかみていないのですが、ちょっとこぶりなような気がします。
新門辰五郎氏は、幕末に町火消の親分として名をなせ、若いときは牢屋につながれたともいいます。
侠客としても知られ、徳川家茂公が上洛するときに京都へいったともいいます。
「公方(将軍)さまをお守りする。」ということで、後の新選組の近藤勇氏らも上洛しています。
徳川慶喜公の知遇を得て、その警備もしていたといわれ、辰五郎氏の息女が慶喜公の側室だったともいわれます。
鳥羽伏見の戦いで敗れた慶喜公が大阪城から船で江戸へ逃げ帰りますが、このときに辰五郎氏の息女も同行したといい、船を警備していた武士が
「女は乗せられん」といったとか「いつのまにか息女が乗っていた」という逸話があったそうです。
江戸へ来た慶喜公が大阪城に「金扇(家康公以来の馬印)」を置き忘れたのに気づき、辰五郎氏に命じて回収させたといわれ、辰五郎氏は金扇をもって東海道を江戸へむかったそうです・・・・・。
明治になり、慶喜公は静岡に隠棲し、辰五郎氏も明治の初めに死去しています。
辰五郎氏の姪が慶喜公の縁戚の宍戸松平家の側室となったそうで、一女を産みます。
その方は永井尚志の養子に嫁して一女を産みます。
その辰五郎氏の姪の孫にあたる方が作家・三島由紀夫氏の祖母でして、三島氏には新門辰五郎氏一族の血が流れているといいます。
三島氏の祖母の弟の談によると
「祖母(辰五郎氏の姪)は、茶屋の生まれで、美しい人だった。」といいます。
(三島由紀夫の世界 村松剛氏著より)
いまも江戸の粋の逸話をつたえる新門辰五郎氏です・・・・。
写真でしかみていないのですが、ちょっとこぶりなような気がします。
新門辰五郎氏は、幕末に町火消の親分として名をなせ、若いときは牢屋につながれたともいいます。
侠客としても知られ、徳川家茂公が上洛するときに京都へいったともいいます。
「公方(将軍)さまをお守りする。」ということで、後の新選組の近藤勇氏らも上洛しています。
徳川慶喜公の知遇を得て、その警備もしていたといわれ、辰五郎氏の息女が慶喜公の側室だったともいわれます。
鳥羽伏見の戦いで敗れた慶喜公が大阪城から船で江戸へ逃げ帰りますが、このときに辰五郎氏の息女も同行したといい、船を警備していた武士が
「女は乗せられん」といったとか「いつのまにか息女が乗っていた」という逸話があったそうです。
江戸へ来た慶喜公が大阪城に「金扇(家康公以来の馬印)」を置き忘れたのに気づき、辰五郎氏に命じて回収させたといわれ、辰五郎氏は金扇をもって東海道を江戸へむかったそうです・・・・・。
明治になり、慶喜公は静岡に隠棲し、辰五郎氏も明治の初めに死去しています。
辰五郎氏の姪が慶喜公の縁戚の宍戸松平家の側室となったそうで、一女を産みます。
その方は永井尚志の養子に嫁して一女を産みます。
その辰五郎氏の姪の孫にあたる方が作家・三島由紀夫氏の祖母でして、三島氏には新門辰五郎氏一族の血が流れているといいます。
三島氏の祖母の弟の談によると
「祖母(辰五郎氏の姪)は、茶屋の生まれで、美しい人だった。」といいます。
(三島由紀夫の世界 村松剛氏著より)
いまも江戸の粋の逸話をつたえる新門辰五郎氏です・・・・。
2009年10月20日
「大日本史」のこと
大日本史というと水戸徳川家の編さんで江戸初期から明治中期まで約200年近くかけてつくられたそうです。
徳川光圀公が編さんを命じ、日本史をまとめようとして日本各地に家臣を送り、まとめさせます。
幕末、徳川斉昭公(烈公)が熱心にまとめたともされます。
このとき、光圀公が日本史の根幹はなにか・・・と悩んでいるときに、亡命中国人だった朱舜水氏を招き、「朱子学」をもとにまとめますね。
朱舜水氏は、日本の歴史の根幹は「朝廷」にあると指摘したともいい、光圀公は目を開いたともいいます・・・・。
光圀公が悩んだのが南北朝の天皇をどうするか、北朝が正統か、南朝が正統かということだったそうです。
北畠顕房公があらわした「神皇正統記」を水戸領内でみつけ、思考・検証の結果として「南朝」を正統として大日本史を編さんします。
このことは徳川幕府にとっては「北朝」の流れをくむ朝廷から「将軍」に任じされていることを否定されるのではないか。ひいては鎌倉時代からの武家政治を否定するのではという疑心暗鬼を招きます。
幕末まで、江戸の旗本、幕臣が水戸徳川家を「ご謀反のお家柄」と密かにいっていたともいい、光圀公から
「水戸徳川家は幕府ではなく朝廷の味方となるように」と遺言があったともいいます。
ともあれ、水戸藩内の親幕府派と親朝廷派の葛藤は明治維新までつづきます・・・・・。
おもうに北朝は、中国など外国との関係をもち、これを模していこうとする鎌倉幕府以来の武家政治の影響をうけ、南朝としては日本は古来から独自の文化、伝統をもち、天皇を奉じて国をまとめようとする国粋主義だったのではないでしょうか。
大日本史の編さんによって、水戸藩で「水戸学」が盛んになり、明治維新の思想に大きく関わっていきます。
南朝を正統とする大日本史が完成した後に明治天皇によって「南朝が正統」とされ、いまにいたっています。
徳川光圀公が編さんを命じ、日本史をまとめようとして日本各地に家臣を送り、まとめさせます。
幕末、徳川斉昭公(烈公)が熱心にまとめたともされます。
このとき、光圀公が日本史の根幹はなにか・・・と悩んでいるときに、亡命中国人だった朱舜水氏を招き、「朱子学」をもとにまとめますね。
朱舜水氏は、日本の歴史の根幹は「朝廷」にあると指摘したともいい、光圀公は目を開いたともいいます・・・・。
光圀公が悩んだのが南北朝の天皇をどうするか、北朝が正統か、南朝が正統かということだったそうです。
北畠顕房公があらわした「神皇正統記」を水戸領内でみつけ、思考・検証の結果として「南朝」を正統として大日本史を編さんします。
このことは徳川幕府にとっては「北朝」の流れをくむ朝廷から「将軍」に任じされていることを否定されるのではないか。ひいては鎌倉時代からの武家政治を否定するのではという疑心暗鬼を招きます。
幕末まで、江戸の旗本、幕臣が水戸徳川家を「ご謀反のお家柄」と密かにいっていたともいい、光圀公から
「水戸徳川家は幕府ではなく朝廷の味方となるように」と遺言があったともいいます。
ともあれ、水戸藩内の親幕府派と親朝廷派の葛藤は明治維新までつづきます・・・・・。
おもうに北朝は、中国など外国との関係をもち、これを模していこうとする鎌倉幕府以来の武家政治の影響をうけ、南朝としては日本は古来から独自の文化、伝統をもち、天皇を奉じて国をまとめようとする国粋主義だったのではないでしょうか。
大日本史の編さんによって、水戸藩で「水戸学」が盛んになり、明治維新の思想に大きく関わっていきます。
南朝を正統とする大日本史が完成した後に明治天皇によって「南朝が正統」とされ、いまにいたっています。
2009年09月13日
東京 宇喜田秀家公の墓
東京都板橋区に残る「宇喜田秀家公の墓」。
豊臣秀吉公の死後、五大老のひとりとして、関ヶ原の戦いで敗れた武将です。
宇喜田家は、秀家公の父の代には没落していたのを「策略」で秀家公の父が再興したといいます。
秀家公の父の弟が
「兄の前にでるときは(暗殺を恐れて)くさびかたびらを着ていた」と言わしめたといいます。
秀家公と秀吉公の縁は、秀家公の母が秀吉公の寵愛をうけたからともいい、秀吉公の養女である豪姫を宇喜田家に迎えて「秀吉公の義理の子」となっています。
関ヶ原の戦いで敗れ、捕らわれた宇喜田秀家公は、徳川家康公の命で八丈島に流され、その生涯を終えます。
正室の豪姫は、生家の加賀前田家に戻り、墓も金沢にあります。
徳川幕府が滅亡し、八丈島にあった宇喜田秀家公の子孫が明治政府の許しを得て、東京に戻ったそうです。
その折、秀家公の遺品を埋葬したのが東京に残る墓とされ、その後に板橋区内の寺院に移されたといいます。
宇喜田家が東京に戻った折、世話をしたのが豪姫の生家であった加賀前田家だったといわれています・・・・。
東京 宇喜田秀家公の墓についてはこちら
//www.city.okayama.jp/hishokouhou/tokyo/yukari/ibuki/ukita/ukita3.htm
豊臣秀吉公の死後、五大老のひとりとして、関ヶ原の戦いで敗れた武将です。
宇喜田家は、秀家公の父の代には没落していたのを「策略」で秀家公の父が再興したといいます。
秀家公の父の弟が
「兄の前にでるときは(暗殺を恐れて)くさびかたびらを着ていた」と言わしめたといいます。
秀家公と秀吉公の縁は、秀家公の母が秀吉公の寵愛をうけたからともいい、秀吉公の養女である豪姫を宇喜田家に迎えて「秀吉公の義理の子」となっています。
関ヶ原の戦いで敗れ、捕らわれた宇喜田秀家公は、徳川家康公の命で八丈島に流され、その生涯を終えます。
正室の豪姫は、生家の加賀前田家に戻り、墓も金沢にあります。
徳川幕府が滅亡し、八丈島にあった宇喜田秀家公の子孫が明治政府の許しを得て、東京に戻ったそうです。
その折、秀家公の遺品を埋葬したのが東京に残る墓とされ、その後に板橋区内の寺院に移されたといいます。
宇喜田家が東京に戻った折、世話をしたのが豪姫の生家であった加賀前田家だったといわれています・・・・。
東京 宇喜田秀家公の墓についてはこちら
//www.city.okayama.jp/hishokouhou/tokyo/yukari/ibuki/ukita/ukita3.htm
2009年09月04日
天祥院さまの話
天祥院 豊臣秀吉公の一族で、木下勝俊公の息女にして、武田信吉公の正室といいます。
木下勝俊公は、北政所のおいにあたり、「豊臣勝俊」とも名乗った人物です。
歌人としても有名です。
武田信吉公は、徳川家康公の五男で、甲斐武田氏を相続して「武田姓」となります。
信吉公は、関ヶ原の戦いの後に水戸城主となりますが、まもなく亡くなり、実弟の頼宣公が水戸にはいります。
のちの紀州藩主・徳川頼宣公ですね。
頼宣公の後、水戸に徳川頼房公が入り、水戸徳川家として幕末にいたります・・・・・。
天祥院さまの実父である木下勝俊公は、関ヶ原の戦いのあとに領地を失い、晩年は京都に隠居します・・・。
天祥院さまについて「徳川諸家系譜」には
「信吉公ご簾中 羽柴朝臣豊臣勝俊娘」とあるのみで没年などはしるされてはいません。
豊臣家から徳川家に嫁した薄幸の女性でした。
木下勝俊公は、北政所のおいにあたり、「豊臣勝俊」とも名乗った人物です。
歌人としても有名です。
武田信吉公は、徳川家康公の五男で、甲斐武田氏を相続して「武田姓」となります。
信吉公は、関ヶ原の戦いの後に水戸城主となりますが、まもなく亡くなり、実弟の頼宣公が水戸にはいります。
のちの紀州藩主・徳川頼宣公ですね。
頼宣公の後、水戸に徳川頼房公が入り、水戸徳川家として幕末にいたります・・・・・。
天祥院さまの実父である木下勝俊公は、関ヶ原の戦いのあとに領地を失い、晩年は京都に隠居します・・・。
天祥院さまについて「徳川諸家系譜」には
「信吉公ご簾中 羽柴朝臣豊臣勝俊娘」とあるのみで没年などはしるされてはいません。
豊臣家から徳川家に嫁した薄幸の女性でした。
2009年08月30日
「豊臣木下子爵家の墓」のこと
東京都内に残る「豊臣木下子爵家の墓」。
豊臣秀吉公の正室であった高台院(おね、北政所)の生家であった木下家の墓といいます。
高台院さまの生家は、木下姓を名乗り、明治まで存続しています。
秀吉公の一族は、「豊臣姓」を名乗るのですが、関白秀次公の子孫は絶え、他家に養子となります。
宗家ともいうべき秀頼公の子孫も途絶えます・・・。
徳川、毛利、伊達氏なども「豊臣」、「羽柴」の姓を賜り、名乗るのですが、のちに返上します。
(江戸時代、徳川将軍家から大名に松平姓を贈るのは豊臣家をまねたともいいます・・・・・)
豊臣一族で生き残ったのは、北政所の生家の木下家、浅野家などわずかといいます。
なかでも木下家は、江戸時代には徳川将軍家に遠慮しながらも「豊臣朝臣・とよとみあそん」を名乗っていたといいます。
明治になり、はばかることなく
「豊臣こそ本当の姓」ということがいえたそうです。
藤原氏、清和源氏の一族でも「藤原朝臣」、「源朝臣」となるなかで「豊臣朝臣」と名乗ったのでしょうか・・・・・。
(ある説では、秀頼公の子が木下家に逃れ、その子孫が藩主となったともいうそうです)
豊臣氏の末裔としての誇りを感じますね・・・。
豊臣秀吉公の正室であった高台院(おね、北政所)の生家であった木下家の墓といいます。
高台院さまの生家は、木下姓を名乗り、明治まで存続しています。
秀吉公の一族は、「豊臣姓」を名乗るのですが、関白秀次公の子孫は絶え、他家に養子となります。
宗家ともいうべき秀頼公の子孫も途絶えます・・・。
徳川、毛利、伊達氏なども「豊臣」、「羽柴」の姓を賜り、名乗るのですが、のちに返上します。
(江戸時代、徳川将軍家から大名に松平姓を贈るのは豊臣家をまねたともいいます・・・・・)
豊臣一族で生き残ったのは、北政所の生家の木下家、浅野家などわずかといいます。
なかでも木下家は、江戸時代には徳川将軍家に遠慮しながらも「豊臣朝臣・とよとみあそん」を名乗っていたといいます。
明治になり、はばかることなく
「豊臣こそ本当の姓」ということがいえたそうです。
藤原氏、清和源氏の一族でも「藤原朝臣」、「源朝臣」となるなかで「豊臣朝臣」と名乗ったのでしょうか・・・・・。
(ある説では、秀頼公の子が木下家に逃れ、その子孫が藩主となったともいうそうです)
豊臣氏の末裔としての誇りを感じますね・・・。
2009年07月27日
良雲院さまの話
良雲院 お竹の方。徳川家康公の側室、振姫さまの生母とされます。
武田家の旧家臣だった市川氏の女性とも、武田信玄公の息女ともいいます。
家康公に見初められて浜松城にて、振姫さまを産んだといいます。
振姫さまは、気性がはげしく家康公にうとまれていたともいい、蒲生家の嫁した後、徳川家に戻り、広島の浅野家に再婚しています。
弟の徳川秀忠公が振姫さまの気性を見込んで浅野家におくったともいいます・・・・・。
お竹の方は、家康公とともに駿府にあって、家康公の死後は江戸城にあったといいます。
良雲院と号して、息女の振姫さまより長命で1637年に亡くなったといいます。
時は、3代将軍・徳川家光公の時代でした。
墓は、いまも東京に残っていて、関東大震災で破損。昭和になって再建されているといいます。
その墓碑には「武田大膳太夫信玄公第十四女・・・」とあるといいます。
良雲院さまの供養塔が長野・善光寺にものこっているといいます・・・・。
武田家ゆかりの女性の話でした・・・・。
武田家の旧家臣だった市川氏の女性とも、武田信玄公の息女ともいいます。
家康公に見初められて浜松城にて、振姫さまを産んだといいます。
振姫さまは、気性がはげしく家康公にうとまれていたともいい、蒲生家の嫁した後、徳川家に戻り、広島の浅野家に再婚しています。
弟の徳川秀忠公が振姫さまの気性を見込んで浅野家におくったともいいます・・・・・。
お竹の方は、家康公とともに駿府にあって、家康公の死後は江戸城にあったといいます。
良雲院と号して、息女の振姫さまより長命で1637年に亡くなったといいます。
時は、3代将軍・徳川家光公の時代でした。
墓は、いまも東京に残っていて、関東大震災で破損。昭和になって再建されているといいます。
その墓碑には「武田大膳太夫信玄公第十四女・・・」とあるといいます。
良雲院さまの供養塔が長野・善光寺にものこっているといいます・・・・。
武田家ゆかりの女性の話でした・・・・。
2009年07月25日
実成院さまの話
実成院 おみさの方。14代将軍・徳川家茂公の生母。紀州藩主・徳川斉順公の側室だったそうです。
斉順公は、11代将軍・徳川家斉公の子でして、ご三卿の家に養子にいき、さらに紀州徳川家の養子となったといいます。
斉順公の養父の息女が斉順公の正室でしたが、子がなく、おみさの方が側室としてあがったといいます。
おみさの方がご懐妊した直後に斉順公が薨去され、紀州藩主には将軍家から斉順公の実弟が養子にきます。
うまれたおみさの方の子は、「菊千代君」と命名され、紀州藩主の後継者となり、わずか十歳にみたない年で紀州藩主となります。
これには、斉順公の養父が紀州藩の実権を握っていて、紀州藩の財政をバックに将軍家への養子をねらっていたともいいます・・・・・。
紀州藩主として菊千代から徳川慶福公と名を改めると、藩主生母としておみさの方は、紀州藩の実権を握ったともいい、「実成院」と号して権勢をふるいます。
慶福公が14代将軍・徳川家茂公となり、江戸城に入ると、実成院さまも江戸城に入ります。
昼間から「大酒」を飲んだともいい、大奥・年寄であった瀧山さまと対立。瀧山さまを毒殺しようとしたり、瀧山さまの部屋に火を放ったともいわれています・・・・。
明治維新の江戸城開城で、静寛院(和宮)さまとともに江戸城から田安徳川家屋敷に移り、さらに天璋院(篤姫)さま、本寿院さまと一緒に同居したそうです。
明治になり、毎朝には「法体姿」で手をひかれて徳川家16代当主にあいさつをしていたといい、その息女さまたちから
「じちゃま、じちゃま」といって慕われてたといいます。
将軍生母としてもっとも長命で、明治中期に88歳で亡くなっています。
墓は、上野・寛永寺にありましたが、現在は改葬されているといいます・・・・・。
斉順公は、11代将軍・徳川家斉公の子でして、ご三卿の家に養子にいき、さらに紀州徳川家の養子となったといいます。
斉順公の養父の息女が斉順公の正室でしたが、子がなく、おみさの方が側室としてあがったといいます。
おみさの方がご懐妊した直後に斉順公が薨去され、紀州藩主には将軍家から斉順公の実弟が養子にきます。
うまれたおみさの方の子は、「菊千代君」と命名され、紀州藩主の後継者となり、わずか十歳にみたない年で紀州藩主となります。
これには、斉順公の養父が紀州藩の実権を握っていて、紀州藩の財政をバックに将軍家への養子をねらっていたともいいます・・・・・。
紀州藩主として菊千代から徳川慶福公と名を改めると、藩主生母としておみさの方は、紀州藩の実権を握ったともいい、「実成院」と号して権勢をふるいます。
慶福公が14代将軍・徳川家茂公となり、江戸城に入ると、実成院さまも江戸城に入ります。
昼間から「大酒」を飲んだともいい、大奥・年寄であった瀧山さまと対立。瀧山さまを毒殺しようとしたり、瀧山さまの部屋に火を放ったともいわれています・・・・。
明治維新の江戸城開城で、静寛院(和宮)さまとともに江戸城から田安徳川家屋敷に移り、さらに天璋院(篤姫)さま、本寿院さまと一緒に同居したそうです。
明治になり、毎朝には「法体姿」で手をひかれて徳川家16代当主にあいさつをしていたといい、その息女さまたちから
「じちゃま、じちゃま」といって慕われてたといいます。
将軍生母としてもっとも長命で、明治中期に88歳で亡くなっています。
墓は、上野・寛永寺にありましたが、現在は改葬されているといいます・・・・・。
2009年07月20日
「徳川家茂公の肖像画」のこと
今日は「昭徳院(徳川家茂公)ご祥忌」ということです。
徳川家茂公の肖像は、写真が本人と確認されたものがなく、画像が残っています。
なかでも明治初期に描かれた油絵の肖像画が残っています。
これは、徳川家の命で描かれたとされた油彩画とされ、家茂公に一番近い画をされます。
家茂公の生前を知る人たちが
「よく似ている、生き写し・・」と語ったとされるものです。
家茂公の正室である静寛院(和宮)さまの墓から見つかったという湿版の写真版が画像が消失してしまっているために家茂公の姿は、油彩画を残すのみだといいます・・・・・。
徳川家茂公の肖像は、写真が本人と確認されたものがなく、画像が残っています。
なかでも明治初期に描かれた油絵の肖像画が残っています。
これは、徳川家の命で描かれたとされた油彩画とされ、家茂公に一番近い画をされます。
家茂公の生前を知る人たちが
「よく似ている、生き写し・・」と語ったとされるものです。
家茂公の正室である静寛院(和宮)さまの墓から見つかったという湿版の写真版が画像が消失してしまっているために家茂公の姿は、油彩画を残すのみだといいます・・・・・。
2009年07月08日
「お志賀の方」と「おてふの方」のこと
お志賀の方。
13代将軍・徳川家定公の側室。堀氏とされ、江戸城大奥に上がり、家定公の側室になったといいます。
家定公より年上だったとされ、いわば「姉さん女房」のような感じだったといいます。
家定公の死後、「豊倹院」と号し、江戸城の桜田御用屋敷(比丘尼屋敷ともいったといいます)に隠棲します・・・・・。
江戸城開城後に亡くなったとされます。
墓は、東京・谷中の天王寺にあるとされるそうです。
おてふの方。
14代将軍・徳川家茂公の側室として選ばれたといいます。
正室であった静寛院(和宮)さまが選んだともいいますが、家茂公が江戸城から京都へ上洛、大阪城にいったために実際には「おしとねいり」はなかったといいます。
晩年は不明とのことです・・・・・。
歴史の影にあったおふたりでした・・・・。
(参考 天璋院篤姫 新人物往来社)
13代将軍・徳川家定公の側室。堀氏とされ、江戸城大奥に上がり、家定公の側室になったといいます。
家定公より年上だったとされ、いわば「姉さん女房」のような感じだったといいます。
家定公の死後、「豊倹院」と号し、江戸城の桜田御用屋敷(比丘尼屋敷ともいったといいます)に隠棲します・・・・・。
江戸城開城後に亡くなったとされます。
墓は、東京・谷中の天王寺にあるとされるそうです。
おてふの方。
14代将軍・徳川家茂公の側室として選ばれたといいます。
正室であった静寛院(和宮)さまが選んだともいいますが、家茂公が江戸城から京都へ上洛、大阪城にいったために実際には「おしとねいり」はなかったといいます。
晩年は不明とのことです・・・・・。
歴史の影にあったおふたりでした・・・・。
(参考 天璋院篤姫 新人物往来社)
2009年07月05日
温恭院さまと本寿院さまの話
温恭院 徳川家定公。
徳川幕府・第13代将軍にして「源氏長者」として清和源氏の嫡流の地位にあった方です。
12代将軍・徳川家慶公の子として、本寿院さまを生母として生まれています。
家慶公には20人にものぼる子がいたのですが、成人されたのは家定公のみといい、本寿院さまを母とする子も家定公のほかは亡くなっています。
これは、11代将軍であった徳川家斉公の存在があったためといいます。
家斉公は、50人近くもの子がいて、多くが他の大名家の養子となったり、正室として嫁しています。
家慶公が「将軍継嗣」としては定まっていたのですが、家慶公の後の将軍職をめぐって家斉公の他の子を推そうとする家斉公派(西の丸派)と家慶公派(本丸派)がしのぎをけずっていたといいます。
そのため家慶公の子としてうまれた家定公は、たびたび「毒殺」されそうになっていたといい、それは西の丸派によるものだったといいます・・・・・。
事実、13代将軍に家斉公の側室であった専行院さま(お美代の方)が息女の溶姫さまがうんだ加賀前田家の方を「家斉公が前田家の子を将軍にしようと遺言した」といいだしたとされます。
本丸派としては、家慶公の子である家定公がおわしますので、これを疑い、専行院さまは「加賀前田家お預かり」として江戸城を追放されます・・・・。
(このことを疑ったのが広大院さま(家斉公の正室で島津重豪公息女)だったといい、家定公の将軍継嗣のために尽力したともいいます)
家慶公の弟のなかにも「将軍継嗣」を願っていたというふしもあって、家定公は、その生涯で「暗殺」という言葉を恐れたといいます。
カステラつくり、芋ふかしを好んだという家定公がお嫌いだったのが、一橋慶喜公だったといい、江戸城内で慶喜公をみて
「鬼がでた!!」とおしゃったともいいます・・・・。
家定公は、35歳で薨去され、墓は上野・寛永寺に埋葬されています。
(現在は、正室である天璋院さまの墓もそばにありますね)
一橋慶喜公とのエピソードは、生母である本寿院さまが「水戸烈公(斉昭公)」の子である慶喜公を嫌うように家定公に吹き込んだともいいます。
本寿院さまは、水戸嫌いとされ、家定公の後継者を決める際にも「一橋」ではなく「紀州藩主であった徳川家茂公」を推挙したとされます。
家定公の薨去の後も江戸城に「将軍の生母」として居住された本寿院さまは、江戸城開城後は天璋院(篤姫)さまとともに住所と転々として、東京・千駄木の徳川家の邸宅に安住します。
明治16年に天璋院さまが薨去されると、一橋徳川家の邸宅に移り、亡くなったとされます。
享年79歳。
墓は、東京・上野寛永寺に「将軍家側室」の格式でもって埋葬されたといいます。
近年、発掘、改葬されて「生前に腰椎を骨折していた」ことがわかり、晩年に転倒して、骨折し亡くなったと推測されているようです・・・・・・。
改葬された墓は、家定公、天璋院さまの墓の近くに合葬されるともいいます・・・・。
家定公、天璋院さま、本寿院さまは、いまも上野の山に眠っています。
徳川幕府・第13代将軍にして「源氏長者」として清和源氏の嫡流の地位にあった方です。
12代将軍・徳川家慶公の子として、本寿院さまを生母として生まれています。
家慶公には20人にものぼる子がいたのですが、成人されたのは家定公のみといい、本寿院さまを母とする子も家定公のほかは亡くなっています。
これは、11代将軍であった徳川家斉公の存在があったためといいます。
家斉公は、50人近くもの子がいて、多くが他の大名家の養子となったり、正室として嫁しています。
家慶公が「将軍継嗣」としては定まっていたのですが、家慶公の後の将軍職をめぐって家斉公の他の子を推そうとする家斉公派(西の丸派)と家慶公派(本丸派)がしのぎをけずっていたといいます。
そのため家慶公の子としてうまれた家定公は、たびたび「毒殺」されそうになっていたといい、それは西の丸派によるものだったといいます・・・・・。
事実、13代将軍に家斉公の側室であった専行院さま(お美代の方)が息女の溶姫さまがうんだ加賀前田家の方を「家斉公が前田家の子を将軍にしようと遺言した」といいだしたとされます。
本丸派としては、家慶公の子である家定公がおわしますので、これを疑い、専行院さまは「加賀前田家お預かり」として江戸城を追放されます・・・・。
(このことを疑ったのが広大院さま(家斉公の正室で島津重豪公息女)だったといい、家定公の将軍継嗣のために尽力したともいいます)
家慶公の弟のなかにも「将軍継嗣」を願っていたというふしもあって、家定公は、その生涯で「暗殺」という言葉を恐れたといいます。
カステラつくり、芋ふかしを好んだという家定公がお嫌いだったのが、一橋慶喜公だったといい、江戸城内で慶喜公をみて
「鬼がでた!!」とおしゃったともいいます・・・・。
家定公は、35歳で薨去され、墓は上野・寛永寺に埋葬されています。
(現在は、正室である天璋院さまの墓もそばにありますね)
一橋慶喜公とのエピソードは、生母である本寿院さまが「水戸烈公(斉昭公)」の子である慶喜公を嫌うように家定公に吹き込んだともいいます。
本寿院さまは、水戸嫌いとされ、家定公の後継者を決める際にも「一橋」ではなく「紀州藩主であった徳川家茂公」を推挙したとされます。
家定公の薨去の後も江戸城に「将軍の生母」として居住された本寿院さまは、江戸城開城後は天璋院(篤姫)さまとともに住所と転々として、東京・千駄木の徳川家の邸宅に安住します。
明治16年に天璋院さまが薨去されると、一橋徳川家の邸宅に移り、亡くなったとされます。
享年79歳。
墓は、東京・上野寛永寺に「将軍家側室」の格式でもって埋葬されたといいます。
近年、発掘、改葬されて「生前に腰椎を骨折していた」ことがわかり、晩年に転倒して、骨折し亡くなったと推測されているようです・・・・・・。
改葬された墓は、家定公、天璋院さまの墓の近くに合葬されるともいいます・・・・。
家定公、天璋院さま、本寿院さまは、いまも上野の山に眠っています。
2009年06月19日
2009年06月17日
智鏡院さまの話
智鏡院 候姫(1815〜1880)
薩摩藩主・島津斉興公と正室・賢章院さまの息女。島津斉彬公は「同母兄」となります。
天璋院(篤姫)さまの叔母にあたります。
江戸・三田にあった薩摩屋敷でうまれ、土佐・山内家に嫁します。
これは、山内家に徳川家斉公の息女が「御守殿」として迎える話がおこり、これに窮した山内家が島津家からあわてて「候姫」を迎えたといいます・・・・。
山内家で、男子が生まれますが夭折され、姫さまのみが成長され、姫さまは広島・浅野家に嫁してします。
夫君が早くに亡くなり、その実弟が藩主となりますが、これまた逝去されます。
そこで、山内家の分家から藩主として迎えられたのが山内豊信公、のちの山内容堂公でした。
容堂公は、藩主となって土佐から江戸に入り、いろいろと「ご活躍」されたといいます。
江戸の土佐藩邸の屋根に登り、「火事見物」をしていると、「智鏡院」と号していた候姫さまが
「そこもとは、火消しか(無作法はやめなされ)」といって、容堂公は屋根から降りたといいます。
また、着衣でも、
「これはいかにも高いですな(ご隠居も同然ですからもっとお安いものを)」と係りがいうと、
「ならば、いりませぬ。里(島津)へ申し聞かせましょう(それなら実家に買ってもらいますよ)」といって、土佐藩の財政を困らせたといいます。
幕末、土佐藩が「幕府派」、薩摩藩が「倒幕派」となると、土佐藩と薩摩藩のあいだに入って、なにかとまとめたとされます。
幕末、明治と土佐に行くこともなく、終生、江戸(東京)で過ごしています。
明治13年(1880)に東京でご逝去されます。
義理の孫にあたる山内容堂公は、すでにご逝去されて、智鏡院さまの墓もそのそばに建てられます。
(天璋院さまは、その3年後にご逝去されます)
現在は墓所が小学校敷地となり、隣接地に移転。
山内容堂公の隣に墓が残っています。
薩摩藩主・島津斉興公と正室・賢章院さまの息女。島津斉彬公は「同母兄」となります。
天璋院(篤姫)さまの叔母にあたります。
江戸・三田にあった薩摩屋敷でうまれ、土佐・山内家に嫁します。
これは、山内家に徳川家斉公の息女が「御守殿」として迎える話がおこり、これに窮した山内家が島津家からあわてて「候姫」を迎えたといいます・・・・。
山内家で、男子が生まれますが夭折され、姫さまのみが成長され、姫さまは広島・浅野家に嫁してします。
夫君が早くに亡くなり、その実弟が藩主となりますが、これまた逝去されます。
そこで、山内家の分家から藩主として迎えられたのが山内豊信公、のちの山内容堂公でした。
容堂公は、藩主となって土佐から江戸に入り、いろいろと「ご活躍」されたといいます。
江戸の土佐藩邸の屋根に登り、「火事見物」をしていると、「智鏡院」と号していた候姫さまが
「そこもとは、火消しか(無作法はやめなされ)」といって、容堂公は屋根から降りたといいます。
また、着衣でも、
「これはいかにも高いですな(ご隠居も同然ですからもっとお安いものを)」と係りがいうと、
「ならば、いりませぬ。里(島津)へ申し聞かせましょう(それなら実家に買ってもらいますよ)」といって、土佐藩の財政を困らせたといいます。
幕末、土佐藩が「幕府派」、薩摩藩が「倒幕派」となると、土佐藩と薩摩藩のあいだに入って、なにかとまとめたとされます。
幕末、明治と土佐に行くこともなく、終生、江戸(東京)で過ごしています。
明治13年(1880)に東京でご逝去されます。
義理の孫にあたる山内容堂公は、すでにご逝去されて、智鏡院さまの墓もそのそばに建てられます。
(天璋院さまは、その3年後にご逝去されます)
現在は墓所が小学校敷地となり、隣接地に移転。
山内容堂公の隣に墓が残っています。
2009年06月13日
「おしてだめなら、ひいてみな」・・・
江戸時代に通信手段として利用された「飛脚制度」があります。
徳川幕府が使用した「継飛脚」、徳川御三家などが使用した「大名飛脚」、町人が使用した「町飛脚」があり、手紙などの書類、為替、金銭なども運んでいたといいます。
ドラマ・水戸黄門で、水戸光圀公が旅をする資金を運ぶのが「飛脚」とされ、「為替(旅費)」を助さん、格さんがとりに行くという設定がでてきます・・・・。
幕府公認の飛脚を「定飛脚(じょうひきゃく)」ということもあり、かなり格式もあったようで、大名飛脚とともに「帯刀(刀をもつこと)」を許されていたといいます。
(なかには「公儀、大名」の御用ということで悪さをするのもいたそうです・・・・・)
明治になり、これらの飛脚制度は、明治政府の管理下におかれます。
さらに近代的に整えられてできたのが「郵便制度」とされ、その職員は、継飛脚、大名飛脚、町飛脚で働く方々だったといいます。
当然、旧徳川幕府のひとたちで、明治政府には批判的でなかなかいうことを聞かなかったらしい・・・。
弱った明治政府は、旧幕臣の前島密氏に「郵便制度」の確立を任せます。
さらに初代逓信大臣に旧幕臣の榎本武揚氏を起用します。
(薩摩、長州の下では稼げるか・・・という旧徳川幕府系の抵抗ですね・・・・・)
郵便制度は、旧徳川時代の影響で郵便(為替)を運ぶ際には「ピストル」を警備上の理由で昭和初期まで携帯していたそうです・・・・。
(明治初期は「刀」で旧武士の意地ですね)
旧逓信省でも郵便関係の省庁は、霞ヶ関(千代田区)ではなく、麻布(港区)におかれて明治政府と旧幕府の対立の延長があったともいいます。
麻布と霞ヶ関の省庁対立は、平成になってもあって、旧郵政省がなくなり、総務省管轄となっても「民営化」で〒関係は総務省でも「部局」から格下げになったそうです。
今回の総務相と〒社長の対立の構図には、明治政府(薩摩・長州)と旧徳川幕府の対立の延長かもしれません・・・・。
(「〒民営化」を叫ばれたのは、父上が旧薩摩系の方でしたね・・・・・)
チョットまとまりがよくないですが、記事にしてみました。
徳川幕府が使用した「継飛脚」、徳川御三家などが使用した「大名飛脚」、町人が使用した「町飛脚」があり、手紙などの書類、為替、金銭なども運んでいたといいます。
ドラマ・水戸黄門で、水戸光圀公が旅をする資金を運ぶのが「飛脚」とされ、「為替(旅費)」を助さん、格さんがとりに行くという設定がでてきます・・・・。
幕府公認の飛脚を「定飛脚(じょうひきゃく)」ということもあり、かなり格式もあったようで、大名飛脚とともに「帯刀(刀をもつこと)」を許されていたといいます。
(なかには「公儀、大名」の御用ということで悪さをするのもいたそうです・・・・・)
明治になり、これらの飛脚制度は、明治政府の管理下におかれます。
さらに近代的に整えられてできたのが「郵便制度」とされ、その職員は、継飛脚、大名飛脚、町飛脚で働く方々だったといいます。
当然、旧徳川幕府のひとたちで、明治政府には批判的でなかなかいうことを聞かなかったらしい・・・。
弱った明治政府は、旧幕臣の前島密氏に「郵便制度」の確立を任せます。
さらに初代逓信大臣に旧幕臣の榎本武揚氏を起用します。
(薩摩、長州の下では稼げるか・・・という旧徳川幕府系の抵抗ですね・・・・・)
郵便制度は、旧徳川時代の影響で郵便(為替)を運ぶ際には「ピストル」を警備上の理由で昭和初期まで携帯していたそうです・・・・。
(明治初期は「刀」で旧武士の意地ですね)
旧逓信省でも郵便関係の省庁は、霞ヶ関(千代田区)ではなく、麻布(港区)におかれて明治政府と旧幕府の対立の延長があったともいいます。
麻布と霞ヶ関の省庁対立は、平成になってもあって、旧郵政省がなくなり、総務省管轄となっても「民営化」で〒関係は総務省でも「部局」から格下げになったそうです。
今回の総務相と〒社長の対立の構図には、明治政府(薩摩・長州)と旧徳川幕府の対立の延長かもしれません・・・・。
(「〒民営化」を叫ばれたのは、父上が旧薩摩系の方でしたね・・・・・)
チョットまとまりがよくないですが、記事にしてみました。
2009年05月16日
慈徳院さまの話
慈徳院 お富の方。11代将軍・徳川家斉公の生母とされ、一橋徳川家の当主だった徳川治済公(徳川吉宗公の孫にあたる)の側室だったとされます。
生家の岩本家は、紀州徳川家の家臣でしたが、徳川吉宗公が将軍となり、江戸城に入ったときに紀州から幕府の家臣となったといいます。
お富の方は、江戸城・大奥に入ったのですが、大奥をたずねた一橋治済公がこれをみそめて、10代将軍であった徳川家治公に
「ぜひに一橋家に・・・・」ということで、一橋徳川家に入ったそうです・・・・・。
治済公とのあいだに長男・豊千代君が生まれ、多くの男子に恵まれます。
豊千代君は、薩摩藩主・島津重豪公の息女・茂姫と婚約するのですが、そのころに「将軍継嗣」となり、「家斉」と名を改め、茂姫ともに江戸城・西の丸に入ります。
やがて、11代将軍となった家斉公、「篤姫」ともよばれた茂姫は江戸城・本丸に入ります。
お富の方は、「大御所」となった一橋治済公とともに江戸城の西の丸に入ったとされます。
一橋徳川家は、お富の方の生んだ徳川斉敦公が相続。この斉敦公の息女が薩摩藩主だった島津斉彬公の正室で「篤姫」の養母となった英姫さまですね・・・・・。
お富の方は、大御所である治済公に先立ってご他界され、上野の寛永寺・凌雲院に埋葬されます。
「慈徳院」とおくり名をされ、一橋徳川家の墓でも「拝殿」があるほど立派だったといいます。
その墓も昭和初期に凌雲院の移転、一橋徳川家の墓所改葬により一橋徳川家の合祀墓となっているといいます・・・・。
その合祀墓は、夫ともいうべき一橋徳川治済公の墓石ということです・・・・。
生家の岩本家は、紀州徳川家の家臣でしたが、徳川吉宗公が将軍となり、江戸城に入ったときに紀州から幕府の家臣となったといいます。
お富の方は、江戸城・大奥に入ったのですが、大奥をたずねた一橋治済公がこれをみそめて、10代将軍であった徳川家治公に
「ぜひに一橋家に・・・・」ということで、一橋徳川家に入ったそうです・・・・・。
治済公とのあいだに長男・豊千代君が生まれ、多くの男子に恵まれます。
豊千代君は、薩摩藩主・島津重豪公の息女・茂姫と婚約するのですが、そのころに「将軍継嗣」となり、「家斉」と名を改め、茂姫ともに江戸城・西の丸に入ります。
やがて、11代将軍となった家斉公、「篤姫」ともよばれた茂姫は江戸城・本丸に入ります。
お富の方は、「大御所」となった一橋治済公とともに江戸城の西の丸に入ったとされます。
一橋徳川家は、お富の方の生んだ徳川斉敦公が相続。この斉敦公の息女が薩摩藩主だった島津斉彬公の正室で「篤姫」の養母となった英姫さまですね・・・・・。
お富の方は、大御所である治済公に先立ってご他界され、上野の寛永寺・凌雲院に埋葬されます。
「慈徳院」とおくり名をされ、一橋徳川家の墓でも「拝殿」があるほど立派だったといいます。
その墓も昭和初期に凌雲院の移転、一橋徳川家の墓所改葬により一橋徳川家の合祀墓となっているといいます・・・・。
その合祀墓は、夫ともいうべき一橋徳川治済公の墓石ということです・・・・。


