2006年07月10日

脳と仮想   茂木健一郎 著


私の敬愛する作家、故日野啓三氏は晩年、次々に病に冒されながらも、この世界のあらゆるものを知りたがり、分かりたがっていた。
日野氏の度重なる病は「思索の旅」があまりにも過酷な作業であった為とも思えるし、同時にその旅の過程で出会う、苦痛と引き換えに訪れる恍惚感に耽溺した為とも思える。それは一種の「アディクション」であったのかもしれない。
「ギャンブル」「薬物」「ゲーム」「酒」「買い物」「恋愛」「食べ物」「イベント」「ネット」・・・全ての依存に共通することは何か?と考えると「コミュニケーション不全」ということが思い当たる。

以前「DA・YO・NE」という歌があって、今はすっかり忘れさられているけど、世の中はそのまま「だよね〜」と思考停止させて、分かり合っているという幻想に浸ることが主流になった。キーワードだけのカードを見せ合って「同じだね〜」と言っても本当は全く違うのが人間同士なのだけれど、それを受け入れるのが辛いのか?面倒なのか?「だよね〜」くらいで人とのつながりの大切さを語られても、私はその語った人の人とのコミュニュケーシション出来なさ加減の方に気を取られてしまう。
誰かの意見や感情を自分の意見や感情だと思い込んでしまうのは怠けだ。特に「脳」が怠けてる。「人は人だから」と自分の意見を表明しないのも怠けだ。意見が食い違い、ぶつかり合っても関係は損なわれないのが本当の人との繋がりなんだ。

私は「だよね〜」と言わないで独りで考える。自分のことも厄介で理解しきれないのに簡単には「だよね〜」とは言えない。(もちろん大人として、当たり障りのない世間話くらいはできる)

本当にヤバイというくらい落ち込んだことがかつてあるが、その時も独りで暗い水の底に身を沈めたように過ごした。その時は「だよね〜」程度の付き合いの人は使い物にならないどころか邪魔だった。(もちろんノリの悪い人など向こうからも邪魔だろうが)
ただひたすら深い水の底にいるような日々を過ごし「もはやこれまで」という程フヤケた感じになった頃、私の脳の中では繰り返し繰り返し、あるシンプルな二つの幻影が全身に降り注ぐように再生されていた。

一つは子供の頃の何時とも言えない記憶の断片。
雨上がりの草の匂い。木漏れ日。汗でしっとりとする肌の感触。脚もとをすり抜けていく風。その時の擦れ纏わりつく綿のスカートのくすぐったさ。

二つ目は父からのメッセージ。
「おまえはいい子だ。特別な子だ」
これは実際に音声で聞こえるのではない。言われた経験もない。ただいつもそのように感じさせてくれたいたように思う。外からくるのではなく自身の内側から滲む出してくるようだった。

その送られてくる感覚に身を委ねるうちに身体は水底からゆっくりと上がっていき、やがて私は立ち上がり、今こうして生き直している。
「身を沈めてこそ浮かぶ瀬もあれ」
この言葉に当てはまるかわからないけど昔の人は良い事言う。

あの極度の落ち込みは心の風邪と言われる「鬱」というものなのかもしれないけど、診断をくだされてないのではっきりしたことはわからない。ただ魂の危機であったことは確かでそのまま社会復帰が出来なかった可能すらあった。
興味深く思うのはその回復過程で脳が私に送り続けた「質感」についてだ。オーバーヒートを起こした私の脳は暗黒と呼んだ休息期間を終えた頃から回復の為の情報をシァワーのように流し出した。この情報に茂木氏言うところの「クオリオ」、瑞々しく、生々しい質感が伴わなければ、何の意味もなさなかったはずだ。
どんな名医も新薬もこれに敵うものではないだろうと思う。
まだ新しい研究テーマである「クオリオ」。
あの時、私の脳の中で一体何が起きたのだろう。

本著は科学と対峙するような立場をとっていた小林秀雄まで味方につけ、机上の空論風ではなく、人の心の「たおやかさ」や「厄介さ」を掬い上げている。
茂木氏のように専門バカでなく排他的でない専門家が増えたら、難しい学問も敷居が低くなって嬉しい。
とても期待している。

追記  

勢いで書いたので愛する日野啓三氏をほったらかしで終わってしまっていた。日野啓三は「だよね〜」とは無縁の人だ。最後まで様々な知識を吸収し、魂で考え続けた。その為の孤独を清清しく受容していた。今時めずらしい「殉死」のイメージのある作家だ。いずれレビューで紹介するつもりでいる。(好き過ぎてなかなか書けない)


Posted by curious mama at 12:22  |Comments(2)TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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この記事へのコメント
curiousu mamaさん、おじゃまします。

「だよね〜」で分かりあうという感覚に思わず納得です。
それ以前にも「ネクラ・ネアカ」ってありましたね。
あの辺りからカテゴリーに嵌めてしまう方が楽だと思いはじめたのかもしれませんね。
それはされる側もする側もだけど。

でも今の若い人は、日頃自分の声と言葉で表現をしないのに、理解だけはされたがっている。
そして理解されないとキレる以外の表現を知らない。
その一方でオヤジ連中も自分の言葉で語ることが出来ない。
どこかで聞いたことあるようなことしか言えない。

表現するってことは恥かくこともあるけど、やっぱりしなきゃダメですよね。
Posted by 5011 at 2006年07月11日 12:57
私の若い頃はまだ酒の席で意見を戦わせてケンカになって、暫くは気まずいんだけど、いつの間にかまた一緒に飲んでるみたいな感じがありましたし、苦言が服を着て歩いてるみたいな頑固オヤジもたくさんいて、その時はイヤで「ゲェ〜」とか思っても後で「あんなに親身になってくれてな〜」と気づくもんですよね。お陰で根に待ちませんね。
イヤなのは保身の為に誤魔化してるような善良さです。
最近、頑固オヤジを見かけないので仕方なく自分でやってる状態です。女ですが。(笑)
Posted by curious mama at 2006年07月11日 15:26
 
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