ただ、このように紹介しても大澤真幸のことを知らない人には伝わらないと思うので、とりあえず「サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』を社会学的に解体・再編成した本」とでもしておきましょうか。社会学者・大澤真幸がサンデルの正義論を援用しつつ、その弱点を指摘し、別の「正義」の可能性を追求しています。
この本では、まず角田光代の『八日目の蝉』のエピソードを手がかりに、現代社会の「生きづらさ」を「人生を物語化できないこと」に求め、次にサンデルの「正義」をめぐる議論を検討します。
功利主義、リベラリズム、コミュタリアニズムをそれぞれ検討していくわけですが、もし現代社会に足りないものが「物語」であるならば、正しい立場としてコミュタリアニズムが導かれそうなものです。けれど、大澤真幸はコミュタリアニズム、そしてその思想の源泉となったいるアリストテレスの考えが、<資本>という現代社会の現象を捉え損ねている点を指摘して、コミュタリアニズムを退けます。
このあたりまでの議論はまあ細かいところでは異論もあるでしょうが、個人的にはそこそこ納得出来る考えです。コミュタリアンが「資本主義以前のシステム、<資本>が一般化する前の社会システムを前提にものを考えている」(158p)というのは有効な批判だと思います。
が、ここから先の議論はアクロバティックすぎる、というか否定神学的すぎるもので、最終的にはかなり問題のある理論を導きだしてしまっていると思う。
議論をすべてたどる事はできないので、結論的な部分だけを取り出すと、おそらく次のようなものになる。
1,超越性が失われ、「普遍」というものが成立しがたい現代社会では人びとは「普遍性」を求めつつもそれが得られずに「生きづらさ」がつのる。
2,しかし、「普遍性」は共通にではなく、逆説的に「特殊」なものに宿ることもある。例えば、違う文化の間であっても、そこで抑圧されている人々の間には何らかの共通するものがあり、それが「普遍性」に通じるのではないか?
3,そして、おそらくこれがイエスの教えでもある。
4,というわけで否定性の水準で「普遍性」が成り立ち、そこに連帯の根拠が見いだせる。
5,人びとの生きる「物語」としては、破局(終末)を仮定してそこから成り立つ「物語」、つまり破局が起きるものと仮定してそれを避けるための「物語」を生きるという道も可能で、そこにある意味で「自由」が存在する。
6,このような否定性を媒介にして人びとは解放されるかもしれない。「傷を負うということは、共同体が自分に付与するアイデンティティに還元できない否定性を、自分の中に刻み付けるということです。そのことで外へと開かれる可能性が宿る」(282p)
かなり荒っぽい要約なのですが、大澤真幸が「傷」や「抑圧」、あるいは「破局」といった否定性を媒介にした「連帯」や「共同体」の可能性を見ていることはわかると思います。
確かにこういった否定性を媒介にした考えというのは、現代思想ではおなじみのもので、これに説得力を感じる人もいるでしょう。
けれども、これはヨハネ黙示録を含んだキリスト教そのもの(ヨハネ黙示録は他の福音書にくらべてあとの時代に成立したと言われています)、あるいはカルヴァン派の考えそのもののようです。そして、さらには大澤真幸が『虚構の時代の果て』でとりあげたオウム真理教的なものにも限り無く近いのではないでしょうか?
共同体において抑圧された者が、「破局」あるいは「最後の審判」を想定して生きる、これはカルト教団に共通すると言ってもいいストーリーです。大澤真幸の議論はこのありふれたストーリーを、華麗に語り直しただけのようにも思えます。
もちろん「抑圧された者同士の共同体」というのは一つの共同体のあり方ですし、「連帯」の一つの可能性ではありますが、それを「終末論」によって全世界的に拡大させようとするのは筋が悪すぎる。「オウム事件から一体何を学んだんだ?」と言いたいですね。
マルクスとアイン・ランドのパラレルな関係の説明など、「なるほど」と思わせる議論もあって、面白く読める本ではありますが、結論は正直いただけないですね。
「正義」を考える―生きづらさと向き合う社会学 (NHK出版新書 339)
大澤 真幸

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