滝廉太郎の「荒城の月」のモデルは、土井晩翠の故郷である仙台青葉城であるとする説と会津若松鶴が城であるとする説と、滝廉太郎が13歳から3年半を過ごした豊後竹田の岡城であるとする説があり、そのいずれにも「荒城の月」の碑がある。
作曲家と作詞家がそれぞれ異なった城のイメージで作ったものかもしれないが、この歌のイメージにもっともふさわしい城は岡城ではないかと思う。
さてこの岡城であるが、かの源平合戦において、郷土の武将「緒方三郎惟栄(これよし)」が九州武士団を率いて、大宰府に落ちてきた平氏を九州から追い落とし、平氏滅亡のきっかけとなったあとに、豪傑で知られる惟栄が、源頼朝と仲違いをした源義経を迎え入れるため、文治元年(1185)岡城を築城したと伝えられている。しかし、頼朝の怒りを買った惟栄は群馬県沼田荘に流され、義経入城の夢は幻と消え去ったのである。
そして戦国時代、ここは大友氏の家臣であった志賀親次(1566〜1603)の居城であった。武勇がすぐれ、母が大友宗麟の娘ということもあり、大友宗麟から重用された。1584年父親度が主君の大友義統と不和になって失脚したために弱冠19歳で家督を継ぐ。翌1585年受洗。洗礼名ドン=パウロ。
1586年島津氏が豊後に侵攻してくると親次は岡城に立てこもって徹底抗戦し、島津の大群3万5千の大軍をわずか1000名の兵で何度も撃退した。敵将の島津義弘からも「天正の楠正成」と絶賛された勇猛なる武将である。
滝廉太郎は「荒城の月」を作曲したときに、このキリシタン武将のことを思い描いていたに違いないのである。
親次12、3歳のころ、 大友 義統(よしむね) の奥方の侍女で キリシタンであったイザベルという娘が、志賀道易の屋敷に追われて来た。彼女は幼少の時に洗礼を受けており、追われた後もキリシタンとしての務めを怠らなかった。 跪(ひざまず)いたり、十字を切ったりするのを目撃した親次は、執ようにその理由を質問した。彼女は自分で理解している範囲のデウスの話や教えなどを答えた。これによって親次は、キリシタンになりたいという意欲にかられ、神仏の教えを崇敬しなくなった。
さらに、イザベルからキリシタンの祈りを学び、暗記するためにそれを書き取り、キリストや聖母マリア像を集めて礼拝し、信心のため必要な品々を集め、受洗できるよう導き給えと祈っていたという。また、宗麟の娘を妻にしている熱心なキリシタンである叔父志賀親教(ちかのり) からも聖人や殉教者の物語を聞き、ますますキリシタン受洗の意欲を燃やした。
その後、父道易と臼杵を訪れた親次は、教会で フランシスコ=ガブラルに会い強く洗礼を受けたいと申し出ると共に、父の監視の目をかすめて教会に出入りした。しかし、祖母に当たる宗麟の正妻奈多氏に 嗅(か)ぎつけられ、従前よりきびしい父の監視を受けることとなった。教会側は、親次の受洗の可否を宗麟に調停してもらうことにした結果、洗礼は当分延期されることとなった。
天正12年(1584)親次は志賀氏の家督を父道易から譲られ、義統から 安堵(あんど)された。翌天正13年、7年間抱き続けて来た洗礼を受けた。洗礼は、宗麟、義統ならびに年寄衆等重臣が会合した府内の教会で行われた。監視の目をかすめ、夜間教会を訪れた親次は、豊後の上長ペドゥロ=ゴメスによって洗礼を施され、ドン=パウロの教名が授けられた。親次の受洗は祖父 道輝(どうき) を激怒させた。道輝は義統に対し、入信しないと約束した親次を厳罰に処すよう要求した。これに対し義統は親次に棄教(ききょう)を命じるが、もし服従しなければ国外に追放し、領地等あらゆるものを没収するであろうと答えた。
さらに、義統は親次の父道易にも親次の入信を阻止しなかった 科(とが)を責めたてている。一方親次は、祖父道輝に対し家督を返還する旨を申し出ることによってキリシタンを認めさせた。
またこんな話しも残っている。
大友勢が天草を攻撃したときに親次は天草勢のなかのドン・ジョバン(天草久種)だけは命を助けようと申し入れた。これを聞いたジョバンは自分だけ助かることはできないといい、全員の命を助けてくれれば城を明け渡そうと返事を送った。パウロはジョバンの言葉に応じて一同を許し、歓待したのちに安全に肥後に送り帰した。このやりとりを見た大矢野種基は、キリスト教の教えに打たれ、のちにキリシタン信者になった。
さらにこの大矢野一族から天草の乱の時に原城に立てこもった武将がでてくるのである。
だが1592年の文禄の役で朝鮮に出陣したときに、大友軍は敵前逃亡的な行動をしてしまい、これが秀吉の怒りに触れて、大友氏改易の原因になって親次も岡城を去ることになる。
この進言をしたのは志賀親次だとされている。彼はこの出兵の無意味さを知っていた。この無意味な戦争から速く離脱するように義統に進言したものと思われ、これが「敵前逃亡」とされたようである、
このような背景を知って「荒城の月」を今一度味わってみるとまた格別の思いが広がってくるのである。