2005年12月28日

緊急ではないが重要なこと

 前項の「やらねばリストとやれたらリスト」に関連して、こんな記事がありました。

 「人生を成功させる7つの秘訣」(スティーヴン・コーヴィー著 日下公人・土屋京子訳 講談社刊 1990年)に「時間の使い方のマトリックス」というのが紹介されています。

 仕事の性質を決める要因は「緊急性」と「重要性」のふたつがあり、これをX軸、Y軸としてマトリックスを作ると時間の使い方についての次の4つの象限ができます。

 第1象限 緊急で重要なこと
 第2象限 緊急ではないが重要なこと
 第3象限 緊急ではあるが重要ではないこと
 第4象限 緊急でも重要でもないこと

 人は緊急事項には反射的に対応するものですが、緊急ではない重要事項に取りかかるには、イニシアティブや前向きの姿勢が必要です。
 普通私たちは第1象限の「緊急で重要なこと」を優先して実行します。そしてこればかりに終われている人も多いのです。「危機の対応に走り回っている管理職、自分から問題を探しに行くタイプの人間、いつも締め切りに終われている労働者」はこれに時間の90%を使っています。
 そして次に優先するのは第3象限の「重要ではないが緊急なこと」なのです。つまり「第2象限」は後まわしにされます。

 でもよく考えてみると、緊急を要するように見えるのは、たいてい他人の優先順位や期待に振り回されているだけのことなのです。

 時間を有効に使う人は、緊急ではないが重要なことに時間をかけます。普通の人たちがやらなくてはと思いつつも緊急ではないのでついついやらずにおいてしまうことに時間をかけるのです。
 時間を有効に使う人は、問題を探しません。チャンスを探すのです。チャンスをふくらませて問題を小さく縮めてしまいます。

 第2象限の仕事に当てる時間をひねりだすためには、第3象限と第4象限の時間を削るしかありません。
 第2象限の仕事に取り組むには、自分から前向きに働きかけることが大事です。さもないとすぐに、第1象限や第3象限の緊急案件に振り回されてしまいます。第2象限の重要案件に「イエス」を言うためには、ほかの仕事がいくら緊急に見えても「ノー」といえなくてはなりません。

 自分の内側に〈強い使命感〉に燃える「イエス」をもっていないと、第3象限の仕事に走り回るスリルや第4象限の仕事に逃げ込む快楽に「ノー」というのは無理です。


 どうです。「わが意を得たり」という感じです。
 

2005年12月26日

マズローの欲求の5段階説と奉仕の欲求

倫理や「現代社会」の授業で紹介されるのだが、アメリカの心理学者アブラハム・マズローは、人間の欲求は5段階のピラミッド構造を持つと述べている。

 それは、下から
1.生理的欲求(physiologicl needs) 
2.安全の欲求(safety and security needs) 
3.愛と所属の欲求(love and belonging needs) 
4.自尊の欲求(esteem needs) 
5.自己実現の欲求(Self-actualization)
というものである。

下位の欲求がある程度満たされると、上位の欲求がうまれる。つまり、衣食住が満足に満たされないと、「愛と所属の欲求」や「自尊の欲求」は生まれてこないというわけである。

もっとも高位にある欲求は「自己実現」というものである。問題はその中身である。
自分の能力を磨いて、自分が抱いている望みや計画、可能性が実現されていくというのがこの「自己実現の欲求」になるのであろう。

マズローはこう述べているのだが、わたしはさらに高次の欲求が存在すると思う。
それは「奉仕の欲求」であるだろう。
これは、自分を捨てて、他人のためにあるいは社会のために奉仕して役に立ちたいという欲求である。
たとえ、その見返りがなくても、他人に喜んでもらえたらそれでいいとする「喜ばれることが喜びである」ような欲求である。
いや、時には人に喜ばれないこともあり得るだろう。

広い意味で言えばそれは「自己実現」であるともいえるが、これは別に考えたほうがいいと思う。「自己実現」はやはり自分中心の発想から抜け出ていないと思う。「自分中心」から抜け出てこそこの「奉仕の欲求」がある。
そしてそれは時には「下位の欲求」をあえて犠牲にしても求められるものかもしれない。

イエズス会の教育のスローガンは
Man for Others(他人のための人)
であるという。
ジェンダーフリーの言い方をするなら
Person for Others
であろう。
これはキリスト教教育の崇高な理念を示した表現であると思う。
 

2005年12月24日

「荒城の月」とキリシタン武将志賀親次

 滝廉太郎の「荒城の月」のモデルは、土井晩翠の故郷である仙台青葉城であるとする説と会津若松鶴が城であるとする説と、滝廉太郎が13歳から3年半を過ごした豊後竹田の岡城であるとする説があり、そのいずれにも「荒城の月」の碑がある。

 作曲家と作詞家がそれぞれ異なった城のイメージで作ったものかもしれないが、この歌のイメージにもっともふさわしい城は岡城ではないかと思う。


 さてこの岡城であるが、かの源平合戦において、郷土の武将「緒方三郎惟栄(これよし)」が九州武士団を率いて、大宰府に落ちてきた平氏を九州から追い落とし、平氏滅亡のきっかけとなったあとに、豪傑で知られる惟栄が、源頼朝と仲違いをした源義経を迎え入れるため、文治元年(1185)岡城を築城したと伝えられている。しかし、頼朝の怒りを買った惟栄は群馬県沼田荘に流され、義経入城の夢は幻と消え去ったのである。

 そして戦国時代、ここは大友氏の家臣であった志賀親次(1566〜1603)の居城であった。武勇がすぐれ、母が大友宗麟の娘ということもあり、大友宗麟から重用された。1584年父親度が主君の大友義統と不和になって失脚したために弱冠19歳で家督を継ぐ。翌1585年受洗。洗礼名ドン=パウロ。
 1586年島津氏が豊後に侵攻してくると親次は岡城に立てこもって徹底抗戦し、島津の大群3万5千の大軍をわずか1000名の兵で何度も撃退した。敵将の島津義弘からも「天正の楠正成」と絶賛された勇猛なる武将である。

 滝廉太郎は「荒城の月」を作曲したときに、このキリシタン武将のことを思い描いていたに違いないのである。

 親次12、3歳のころ、 大友 義統(よしむね) の奥方の侍女で キリシタンであったイザベルという娘が、志賀道易の屋敷に追われて来た。彼女は幼少の時に洗礼を受けており、追われた後もキリシタンとしての務めを怠らなかった。 跪(ひざまず)いたり、十字を切ったりするのを目撃した親次は、執ようにその理由を質問した。彼女は自分で理解している範囲のデウスの話や教えなどを答えた。これによって親次は、キリシタンになりたいという意欲にかられ、神仏の教えを崇敬しなくなった。
 さらに、イザベルからキリシタンの祈りを学び、暗記するためにそれを書き取り、キリストや聖母マリア像を集めて礼拝し、信心のため必要な品々を集め、受洗できるよう導き給えと祈っていたという。また、宗麟の娘を妻にしている熱心なキリシタンである叔父志賀親教(ちかのり) からも聖人や殉教者の物語を聞き、ますますキリシタン受洗の意欲を燃やした。
 その後、父道易と臼杵を訪れた親次は、教会で フランシスコ=ガブラルに会い強く洗礼を受けたいと申し出ると共に、父の監視の目をかすめて教会に出入りした。しかし、祖母に当たる宗麟の正妻奈多氏に 嗅(か)ぎつけられ、従前よりきびしい父の監視を受けることとなった。教会側は、親次の受洗の可否を宗麟に調停してもらうことにした結果、洗礼は当分延期されることとなった。
 天正12年(1584)親次は志賀氏の家督を父道易から譲られ、義統から 安堵(あんど)された。翌天正13年、7年間抱き続けて来た洗礼を受けた。洗礼は、宗麟、義統ならびに年寄衆等重臣が会合した府内の教会で行われた。監視の目をかすめ、夜間教会を訪れた親次は、豊後の上長ペドゥロ=ゴメスによって洗礼を施され、ドン=パウロの教名が授けられた。親次の受洗は祖父 道輝(どうき) を激怒させた。道輝は義統に対し、入信しないと約束した親次を厳罰に処すよう要求した。これに対し義統は親次に棄教(ききょう)を命じるが、もし服従しなければ国外に追放し、領地等あらゆるものを没収するであろうと答えた。
 さらに、義統は親次の父道易にも親次の入信を阻止しなかった 科(とが)を責めたてている。一方親次は、祖父道輝に対し家督を返還する旨を申し出ることによってキリシタンを認めさせた。

 またこんな話しも残っている。
 大友勢が天草を攻撃したときに親次は天草勢のなかのドン・ジョバン(天草久種)だけは命を助けようと申し入れた。これを聞いたジョバンは自分だけ助かることはできないといい、全員の命を助けてくれれば城を明け渡そうと返事を送った。パウロはジョバンの言葉に応じて一同を許し、歓待したのちに安全に肥後に送り帰した。このやりとりを見た大矢野種基は、キリスト教の教えに打たれ、のちにキリシタン信者になった。
 さらにこの大矢野一族から天草の乱の時に原城に立てこもった武将がでてくるのである。

 だが1592年の文禄の役で朝鮮に出陣したときに、大友軍は敵前逃亡的な行動をしてしまい、これが秀吉の怒りに触れて、大友氏改易の原因になって親次も岡城を去ることになる。
 この進言をしたのは志賀親次だとされている。彼はこの出兵の無意味さを知っていた。この無意味な戦争から速く離脱するように義統に進言したものと思われ、これが「敵前逃亡」とされたようである、

 このような背景を知って「荒城の月」を今一度味わってみるとまた格別の思いが広がってくるのである。

岡城
 
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2005年11月18日

神仏習合思想

今、高2の「倫理」の授業では日本の仏教について考えている。
日本の宗教史を考えるときに、神仏習合思想にどうしても触れなければならないだろう。
これは奈良時代に始まり、平安末期に多く見られる日本固有の神の信仰と仏教信仰との融合したものである。

最初は「本地垂迹説」という考え方が生まれた。これは本地(真理の根源)である仏が、日本では神々の姿で現れたというものである。
仏が本来の姿であって、神々は「権(かり)に現れたもの」という権現思想も同じことを表現している。

これだと仏の方が上位に位置しているように思われるのだが、元寇以降、日本の神々の方が上位に位置し、仏は仮の姿なのであるという「逆本地垂迹説」が生まれる。
この考えは江戸時代に平田神道などによってもてはやされ、さらに日本が「神の国」であるという神国思想に発展する。続きを読む
 
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キリスト教入門講座のご案内

私は自分の所属するカトリック鶴見教会でキリスト教入門講座を20年ほど担当しています。
毎週木曜日の夜午後7時から9時までです。
今日はそこでどういうことをしているかを紹介しましょう。

今は7時に集まると、簡単な夕食を取ることから始めています。妻の手作りのお弁当です。今日のメニューは「うどん」でした。

それが終わると「瞑想」になります。簡単なガイドがあって、それに従って瞑想をします。瞑想のなかで、時には過ぎ去った1週間をふり返ったり、その日の1日のことをふり返ったりします。

そしてそれが終わると「3分間生活報告」です。参加者がひとりひとり、この1週間の自分に関わる出来事のなかで「心を動かしたこと」を報告します。
いわゆる「わかちあい」です。3分間といっておりますが、別に時間制限をするわけではありません。
ひとりひとりが報告してくれたことについて、他の参加者は豊かに反応を表現しますが、報告についてコメントしたり、助言をしたり、あるいはディスカッションをすることはいたしません。
ただきくだけであります。

そしてその日の「本題」にはいるのですが、ここまででほぼ1時間つまりその日の集いの半分を使ってしまいます。

内容は3つのステージに別れています。

第1ステージ「自分と出会う、仲間たちと出会う」ここでは聖書も登場しません。

第2ステージは、「イエスとの出会い」です、新約聖書を読みあっていきます。。

第3ステージは「教会と出会う」です。教会で行われているさまざまな行事の酔って来るゆえんをたすねあてます。

と、まあ簡単に言えばこういう内容です。
もし興味をお持ちでしたら、ぜひ参加してください。その時はまたよろしくお願いします。
 

2005年11月13日

サッフォーとレスボス島


20051113b9491e1d.jpgギリシャの文化を学ぶと、3人の抒情詩人が出てくる。
サッフォー、ピンダロス、アナクレオンである。
このうち、サッフォーは女性詩人である。

このサッフォーの生涯を調べてみると、興味あることが浮かび上がってくる。

彼女はエーゲ海の島レスボス島ミティリニの良家の娘として生まれた。BC7世紀〜6世紀ころのことである。
彼女はこの島に若い女性たちを集めて、音楽や詩、踊りなどを教える学校を作った。初めての女子校である。

もともとこの地はギリシャ本土ほど、男性中心の社会ではなく、男女平等の社会が築かれていた。女性たちは教養に富み、ムーサ(音楽の女神、ミューズは英語読み)の島とも呼ばれていた。

彼女の生徒に対する異常なほどの情熱は広く知れ渡るところとなり、「レスボス島出身であるなら、同性愛者に違いない」とまで言われ、やがて「レスボス風の」という意味の「レズビアン」という言葉が、女性同士の同性愛者を表す言葉として使われるようになった。

しかし、サッフォーが果たして同性愛者であったのかどうかは疑わしい。彼女は幸福な結婚生活を営み、こどももいたと伝えられている。

また、彼女は失恋のために、崖から身を投じて死んだという言い伝えもあるが、こちらははたして真実であったかは不明である。

写真はレスボス島にある竪琴を弾くサッフォーの像である。




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エピクロスの園


200511135361ac46.jpgヘレニズムの思想家にエピクロスという人がいた。
ストア派のゼノンが禁欲主義であるのに、対照的に彼は快楽主義者といわれる。

エピキュリアンというと快楽主義者のことをいう。日本語では「快楽」というと欲望のままに行動することと理解されているが、エピクロスの快楽主義とはそういう意味ではない。

かれはアテネ郊外に庭園付きの共同体を作った。
そこは女性も奴隷もうけいれた。この時代には画期的な「人間論」をもっていたのである。

その庭園の入り口には「よそびとよ、ようこそ。ここでは快楽が至高の善であり、最高の幸福である」と述べている。

しかし、この快楽は「肉体的には苦痛がなく、精神的に心の平静さ(アタラキシア)をたもった状態」のことをいう。

彼は「感覚的な快」の状態をもとめる。「胃袋の快」はそのもっとも基本的なものであるとしているが、それは決してグルメではなく、「パンと水」だけで満足できるような質素でつましい「快」なのである。

かれは「隠れて生きよ(ラテ・ビオサス Lathe biosas)」といった。現実の生活の煩わしさから、解放された共同体をめざした。
「エピクロスの園」をユートピア的な理想郷としようとしたのである。

ピタゴラスやソクラテス、プラトンなどの「魂の不滅」を唱える哲学に対抗して、デモクリトスの原子論と唯物主義を受け継ぎ、魂などは存在しない、人間は死んだら再び原子に分解してしまうと考えた。
だから、死後の世界は存在しないし、死は恐ろしいものではなく、ただ「いまを生きよ」という。
〈われわれの存するかぎり,死は存せず,死が現に存するときは,もはやわれわれは存しないのである〉。
 死への恐れ,死後の不安から解放されるならば,それだけでも人間は〈平静不動(アタラクシアataraxia)〉の境地に入ることができるのだが,生きているうちは安んじて快楽を追求すべきである。〈快楽こそは幸福なる生活の始めにして終りなのである〉。


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2005年11月10日

アリストテレスの幸福論 −テオーリアの生活−

アリストテレスは、幸福(エウダイモニア)こそが、「われわれの達成しうるあらゆる善のうち最大のもの」であるという。

かれは、人間の生活形態を
快楽を追求する享楽的生活、
名誉を追求する政治的生活、
観想(テオーリア)を目的とし純粋に真理を探究する観想的生活
に分けて考え、このうち「観想的生活」をもっとも理想的で幸福な生活形態と考えた。

「テオーリア」とはもともとは、競技場で競技を観戦するというような意味であった。
離れたところから競技を観戦するように、客観的にものごとを見つめるという意味から、「思いをめぐらす」というような「観想」という意味となったのであろう。
これはまさに哲学者として生きるということに他ならない。

このテオーリアというギリシャ語から、英語の theory (理論)という言葉が生まれる。
 
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2005年11月06日

「わかちあい=共有(sharing)」のレベル

「わかちあい」とはなんだろうか?
share という英語の翻訳であり、日本語としてはまだこなれていないバタ臭さをもっている表現には違いない。
カウンセリングやエンカウンター・グループなどで使われる心理学的な用語であるらしい。

聖書では、初代教会の使徒たちの生活について述べたところでこの言葉が使われている。
「信じる人たちはみな一つとなり、すべてのものを共有し、財産や持ち物を売り、それぞれの必要に応じて、みんなでそれをわけあった。また、心を一つにして日々、絶えず神殿にまいり、家でパンを手でわけ、喜びとまごころをもって食事をともにし、神をたたえた。」(使徒行録2章44〜47節)

私のいう「分かち合い」はこの聖書で述べられているような「具体的な財産を共有して分かち合う」という共同生活体とは異なるだろう。

「分かち合い=共有」にはいろいろなレベルがある。
皆で時間を共有したり、空間を共有する。つまり同じ場所に集まり、同じひとときを過ごすというレベルがまず第1歩であろう。
関心や知識、問題意識を共有することもできる。
目的や手段を共有することもできる。
体験を共有するというのも大事な側面であろう。
さらに発展したら、初代教会の使徒たちのように「財産を共有し、分かち合うこと」も考えられる。この姿は私たちの憧れでもある。
運命を共有するというのはもっとも深いレベルの分かち合いになるのであろう。夫婦や家族というのはまさにこのレベルの「運命共同体」であるのだろう。「たとえ火の中水の中」でもともに生きていくことなのだから。

私たちがここでいう「わかちあい」とはこれまで述べてきた「共有」のレベルでいえば、「体験を共有する」というイメージに最も近いような気がするのである。
 
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30年間のわがコミュニティ・ライフ

私は、毎月1〜2度ずつ定期的に集まるクリスチャンのグループを30年間続けている。
私たちはこれを「コミュニティ」と呼んでいる。

一つは3組の夫婦のコミュニティであった。
これはほぼ結婚した直後の新婚カップルが、ひとりのカトリックの司祭の呼びかけで始まった。毎月1回、ほぼ日曜日か休日の午後を使って集まったこのコミュニティは15年間続いた。このグループはだいたいが持ち寄った昼食をともにすることから始まる。

もうひとつは教員のコミュニティである。異なった学校に勤めている教員たちが5人集まる。これは月2回、平日の夜、仕事を終えて、夕食を持ち寄って食事をすることから始まる。このグループは、私が教員になったときから20年間続いている。

クリスチャンのグループなので、この集いは「祈り」から始まり、祈りで終わる。聖書を読んだりすることもあるが、この集まりの中心は「わかちあい(sharing)」と呼んでいるものである。

これは、この前の集まりから、その日までの自分の生活について皆に報告することである。
自分の生活をふり返り、見直して、「生活のなかで、大きく心を動かした」をひとりひとりが短く報告する。
第1ラウンドは、ひとりひとりの報告を静かに、しかし反応を豊かに表しながら聴く。
第2ラウンドは、それぞれの報告を聴いて、感じたこと、考えたこと、心を動かしたことをありのままにわかちあう。

このような「コミュニティ」を10年から〜20年継続するとどのようになっていくであろうか?







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2005年10月22日

オススメ本「在日コリアングラフィティ」崔友本枝著


200510220f4d484f.JPG書評
『在日コリアングラフィティ ─お互いの愛で胸をいっぱいにして─』
       崔 友本枝 著  文藝書房 刊

 著者は、私と同じ教会に所属し、またカトリック学校において「宗教」を教える教員である。

 この書に表れている軽妙で率直でなおかつ親しみやすい文体は、私が接している著者の日常の姿そのものである。著者が中学生や高校生にこのようなスタイルで聖書を語っているのかと思うと、その授業を聴いてみたいという思いに駆られる。

 この書では、在日コリアンとして生きることを通じて体験してきたこと、感じたことがありのままに率直にリアルに語られている。「韓国名を名乗って生きること」「指紋押捺」「日本人に帰化するということ」「朝鮮人戦争慰安婦のこと」さらに「教科書の問題」など、在日コリアンとしてこれらのことに対する気持ちがかくまでに繊細であり、かつ豊かな感受性に裏打ちされたものであることを読んで、感動を抑えられなかった。私たちは、ここまで深く、ここまで豊かに日本人であることを味わえるのであろうか?

 日本人と結婚した在日3世の友人が帰化の申請をして、それが受理されたときの話が紹介されている。
 法務局への膨大な資料を提出し、警察の訪問を受けていろいろと質問もされたという。そしてやっと認可が下りたというので、法務局に出向くと、彼女を待ち受けていたのは「○○様、あなたは○年○月、法務大臣の許可により、帰化が許可され、日本人となりました」という宣言と「おめでとうございます!!」という担当職員たちの祝辞と笑顔と拍手喝采であったのである。
 著者とその友人は、その話を「腹が立つねぇ」といいながらも「結局二人で大笑いした」と書いてある。腹を立てながらも大笑いをしたというのに驚く。

 そういえば、この書には「告発調」がない。怒りは感じられる部分はあっても、それはなぜか日本人を告発し、責める方向には向かわない。
 私たちはこの種の本を読むときは覚悟をして読まなければならないものと思いこんでいる。日本という国がしてきたこと、日本人がしてきたことが告発され、非難されるのも当然だと思うからである。
 だからこの本を読むときにも相当の覚悟を決めて読もうとした。しかし、この本を読みすすめていくうちにそういう「覚悟」は「共感」へと置き換えられていく。それが「こういうことなのか」と一挙に解きあかされるのは、次のようなくだりである。

 在日韓国人は、韓国人でもあり、日本人でもある。しかし、日本からも韓国からもしっかりと抱きしめてもらっていない。本人たちも、どちらの国で生活しても違和感をぬぐいきれない。………私たちは、人間としてみると、なんと情けない存在かと思う。しかし、だからこそ、この人たちでなければ果たせない役割があるのではないか? イエスの十字架の勝利のように、人の目にもっとも恥ずべきことに見えるもののなかに宝が隠されている気がする。
 在日韓国人は、二つの国をある程度の距離をおいて見ている。どの家の屋根の下にも入らないので、どの家(国家)も絶対に良い、とか絶対に悪い、という国家に対する「信仰」のようなものがない。………在日韓国人は、無意識の愛国心にもっともだまされない人たちだと思う。そして、だからこそ国家や民族を越えた価値を必死で求めて生きることになる。それは、人の都合によって動かされない真理のようなものだ。

 私はこの書を他人に薦めるときにここの部分をコピーして読んでもらうことにしている。そしてこの部分を読まされた人の多くは、この書を読んでみたくなるという。
 

2005年10月07日

外在的モチベーションと内在的モチベーション

人が行動するときのモチベーション(動機付け)として2種類あるだろう。
外在的モチベーションと内在的モチベーションとがそれである。

外在的モチベーション(動機付け)とは、それをすると誉められるとか、名誉や利益などの報酬が与えられるとか、いうのがそれである。
内在的モチベーション(動機付け)とは、それをすること自体が楽しいとかおもしろいとかいうことで御sれをするケースである。それをしないではいられないような内から突き上げてくる動機付けである。

なぜ勉強をするのかという学習の動機付けの場合、外在的な動機付けは、よい点を取りたいとかよい大学に入りたいとか、勉強をして誉められたいとか尊敬されたいというのがこれである。
内在的動機付けは、勉強すること自体を楽しみとできるようなことであろう。好奇心や知的欲求、問題意識そのものに応えて学習するというのは、この内在的モチベーションに応えて学ぶことである。何の利益や報酬がなくても、学ぶことを喜んでしようとすることである。


現代の教育ははたしてどちらの動機付けを重視しているのだろうか?
外在的な動機付けばかりを強化して勉強に向かわせているのではないのか?
 
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2005年10月06日

エトスとパトス


2005100617b11755.jpg人の行動を内からつきうごかすものが二つあります。
ギリシャ語で言うと「エトスとパトス」ということになるでしょう。

エトス(ethos)とは、アリストテレスによると「習性徳」のことをいいます。いわば「習い性となった徳」のことです。道徳や倫理を意味する言葉で、倫理学のことを英語では ethics といいますが、この言葉が語源となっています。
ラテン語では mores 。これは英語の maral の語源ですね。
ethos も mores も「習俗」という意味も持ちます。道徳と習俗は切り離せない意味を持っているということでしょうか。

「何度も繰り返し行うことによって身に付いた善き習慣」ということになるのでしょう。
誉められるからするとか利益になるからするというのではなく、それが人間がするべきよいことだからそれをせずにはいられないというようなことだと思うのです。

マックス・ウェーバーは、カルバン派の「勤勉と禁欲」のエトスがプロテスタンティズムを生み、これが「富の蓄積」を結果的につくり出し、資本主義と市民革命の担い手をつくり出したと説明します。

パトスとは「情熱」と普通訳します。「やみがたい行為への欲求」という意味で使います。
ヘレニズム時代の哲学者ストア派のゼノンは、パトスは「情欲」とか「感情」とかいう意味でこれをとらえ、むしろパトスにとらわれずに自由になることという意味で「アパテイア」こそ人間の幸福であるといいます。
たしかに「よこしまな野心や欲情」もパトスには含まれます。

デカルトも「情念論」を書き、スピノザやライプニッツもこのテーマを論じています。
スピノザは「激情に駆られた人間は、自分自身の主人ではなく、感情の奴隷状態にあり、むしろ運命の家来である」というようなことをいいます。

ヘーゲルは、パトスを自由を実現する歴史を推進する力であると肯定的にとらえ、「個人全体の中に流れている意欲の全脈管を挙げて一つの対象に没頭し、その個人のすべての欲望と力とをその目的に集中させている関心」であり「これなしでは世の中のどんな偉業も成就されなかった」としています。しかし、当の個人は、自らが何に奉仕しているかについてはまったく無自覚であり、まさに「理性の狡知」によって操られるものであるともしています。

西洋の倫理では、パトスは理性(ロゴス)のコントロールのもとにあるべきだとしてロゴスの優位を説きます。
これは仏教や孔子の思想にも通じるところがあります。

「感性の解放」を唱えるのはぐっと現代になってなのでしょうか。これについてはまたいつか述べたいと思います。







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2005年10月03日

ソフィストの詭弁

古代ギリシャの話。
シチリアにコラックスという弁論術の先生がいた。
かれにはテイシアスという弟子がいたが、この弟子はいっこうに授業料を払おうとしない。
しょうがなくコラックス先生は裁判に訴えた。

しかし、テイシアスは落ち着き払ってこんなことを言ってのけたのである。
「自分が裁判に勝ったら、もちろん授業料は払わないが、裁判に負けても払う必要はないと思っている。なぜなら、裁判に負けるということは、先生の教え方が悪くて充分に弁論術を教えてくれなかったということを証明したことになるからだ。」

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2005年09月24日

君あり、故に我あり

「君あり、故に我あり −依存の宣言」(サティシュ・クマール著 尾関治・尾関沢人訳 講談社学術文庫1706)を呼んだ。

この書には次のような要約がのっていた。

9歳でジャイナ教の修行僧、ガンジー思想にも共鳴し、8000マイルの平和巡礼を行ったインド生まれの思想家は、自然に対する愛を強調した独自の平和の思想を提唱する。
デカルト以降、近代の二元論的世界観は対立を助長した。分離する哲学から関係を見る哲学へ。暴力から非暴力へ、思いやりに満ちた心の大切さを力説し、地球はひとつと相互関係と共生関係に基づく平和への新しい展望を示す。

西洋に思想と東洋の思想とを比較するときに、ある違いに気づく。

西洋文化は、精神と物質、心と体を分離し、世界を分析、分類、支配する対象物の集合としてとらえるパラダイムがあるということである。
その典型は「我思う、故に我あり」というデカルト的思考に典型があるということである。
精神と物質、主体と客体、自然と人間、個人と社会、善と悪、正統と異端、敵と味方……………。西洋思想はこの分離して分析するというところから、発想する。

それに対して東洋思想は。
たとえば仏陀、「諸法無我」というのは相互依存の現象を示す。
インドのウパニシャッド哲学の「梵我一如」。梵(ブラフマン)と我(アートマン)」が一体となる境地が「解脱」である。
たとえば、老子の「無為自然」荘子の「万物斉同」「胡蝶の夢」
たとえば聖徳太子の「和の精神」たとえば「禅の境地」たとえば西田哲学の「純粋経験」。

いずれも、我が世界や自然に溶け出して融合するという考え方であり、相互関係と相互依存の「関係を見る哲学」が東洋思想なのである。
自分が何かをゲットするということによって、自我を成り立たせ、自我は他者とは無関係に自分の意志で行動するという西洋思想に対して、東洋思想は「与えあう」ことによって存在する。
ヒンズー教では「ソーハム(彼は我なり)」「君あり、故に我あり」という。
私たちは「アニマ・ムンディ(世界の魂の一部)」なのである。

確かに自然科学は、分類して分析するというデカルト的原理の上に、主体と客体とを切り離して分析するという西洋思想のの上に発展してきただろう。
しかし、それは同時に環境破壊、生命操作や核兵器の開発を必然的につくり出す。それを留めようがないことも確かなのである。
 
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2005年09月23日

デカルトの思想と生涯 その5 クリスチーナ女王

デカルトは1643年にファルツ候の王女エリザベータと文通を始める。デカルトはこの王女に彼の著書「哲学の原理」をささげ、その著のなかで「私の公にした論文のすべてを完全に理解したのはこの王女だけである」と絶賛している。デカルトの最後の著書である「情念論」はこの往復書簡の中から生まれた。

このエリザベータとともにデカルトに惚れ込んだもう一人の王女がいた。スウェーデンの若き女王クリスチーナである。彼女は、ドイツ30年戦争に新教側に加勢して参戦し、勇猛をとどろかせて戦死したあの北欧の獅子王グスタフ・アドルフの娘であった。
この若き女王がまたすごい女性であった。
彼女は、男まさりの広い肩を持ち、馬を10時間も全力でかけさせても疲れなかったといわれる。
また30年戦争のウェストファリア講和会議で活躍して、き北ドイツの一部をスウェーデンが領有する功績を挙げたのもこの若き女王であった。政治家としても超一流であった。

その彼女がデカルトを「岩と氷しかない熊の国」スウェーデンに招くのである。デカルトはそれを何度もことわるのだが、クリスチーナは海軍の軍艦を派遣してデカルトを連れ出すことに成功する。1649年10月のことである。

1月の酷寒のときにデカルトは哲学の講義を女王に始めることになるのだが、それは朝の5時からであった。軍隊にいたときでさえ、朝の11時前におきたことのなかったデカルトにとって、それは余りに厳しすぎる条件であった。ついに彼は肺炎を患い、帰らぬ人となってしまった。

一人の女王の気まぐれによってヨーロッパ最大の知性がひとつ消えてしまったのである。

カトリック教会は、この敬虔なカトリック教徒の全著作を「禁書」にした。さらにデカルトが葬られたのは洗礼を受けていない子どもたちが眠る共同墓地であった。
彼の墓地が現在のパリ、ラテン区のサン・ジェルマン・デ・プレ教会に移されたのは100年後、フランス革命の国民議会の決定を待たなければならなかった。
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デカルトの思想と生涯  その4 代数学


20050923dad9c584.jpgデカルトは「方法序説」の付録として「幾何学」という本も著している。
「幾何学」といいながら実は代数学の書であった。


彼はこの書のなかで上の図のような代数式を用いていた。

定数にa,b,cという記号を用い、未知数に x,y,z などの記号を最初に用いたのはデカルトなのである。
さらにx3, x4 などの指数記号もデカルトに始まる、ただしなぜか2乗だけは xx という記号を用いていた。
等号(=)はまだ一般的ではなかったようだ。

もうひとつ現在の数学のなかで用いられているものがある。
「デカルト座標」である。
これは2次元平面に直交するX軸とY軸とを設定し、その座標でもって点の位置を示すものである。
一次方程式の直線とか2次曲線とかいうグラフはすべてこの「デカルト座標」をもとにして描かれる。

代数の教科書にデカルトが出現するゆえんである。
 
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2005年09月22日

デカルトの思想と生涯 その3 カリレイ事件

1630年彼はオランダにいて、「宇宙論(Le Monde)」を執筆していた。3年かけてこの本が完成に近づいていたときに衝撃的な事件が起きた。

1633年6月23日のことである。それはガリレイの宗教裁判のニュースであった。ガリレイが書いた「世界の二つの体系に関する対話」の中の地動説について、ガリレイはローマに喚問され、宗教裁判にかけられた。その結果ガリレオの書は消却され、自説を唱えることを禁じられた。

この事件は、地動説を基礎に「宇宙論」を完成させていたデカルトを驚愕のあまり、すんでのところで自分の原稿を焼き捨てさせるところであった。結局この書は日の目を見ることなく終わったのである。

そしてこの書の代わりにもっとあたりさわりのないテーマとして書き上げられたのが、あの有名な「方法序説」であったのである。1637年のことである。
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デカルトの思想と生涯 その2 学問への召命

デカルトがドイツ30年戦争中に旧教側の軍隊にいたことは前に説明したところです。

その1919年11月10日のこと。バイエルン地方のウルムというところの宿営にいたときに、ドイツ式ストーブのある部屋であるインスピレーションを感じます。
その夜寝床につくとかれは3つの鮮明な夢を見ます。

最初の夢は、強風にあらがいながら、懐かしいラ・フレーシュの母校の教会に向かっているところの夢でした。途中すれ違った友人に挨拶をしようとすると激しい風にあおられ、デカルトは教会の壁にたたきつけらます。そのときに中庭からデカルトを呼ぶ声がする「メロンをもっていってもらいたい」という声が聞こえたのです。

二つ目の夢は、恐怖に打ちのめされ「稲妻が落ちたような音を聞き」部屋が無数の閃光に包まれ留という夢でした。

三つ目の夢では、自分の机の上に置いてある辞書と詩集を見ます。

このインスピレーションと夢は、デカルトを学問への召命へと駆り立てます。学問は自分の天命であると強く感じるのです。
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2005年09月21日

デカルト その1「世界という大きな書物」

高校2年の「倫理」の授業でデカルトについて紹介しました。
デカルトといえば「われ思うゆえにわれあり」(Cogito ergo sum)の言葉で有名ですが、この人の思想と生涯を調べていくといろいろなことを発見します。

彼はラフレーシュというイエズス会の高校を卒業しますが、寄宿生活をしているときに、てんで朝がだめで起きられなくて、朝11時頃おきて学校に行ったのだそうです。
それでもとても優秀な生徒だったので、学校側もそれをゆるしていたらしい。

そのあとポワティエ大学に進み、そこを卒業すると、「世界という大きな書物」から学ぶために漂泊の旅に出ます。机の上で書物を読んでいるだけではだめだということで、旅に出るのですが、一番最初にいったところがオランダでした。

ハプスブルグ、スペインの支配下から独立して意気あがる自由の国オランダにいき、そこでオランダ軍に入隊するわけです。オランダは新教の国でした。

そこにしばらくいたあとに今度は30年戦争の渦中の旧教軍に入隊します。30年戦争は旧教と新教徒が血みどろの戦いを繰り返した「歴史上もっとも醜い戦争」といわれた戦争です。
オランダでは新教の軍隊にいた彼は、今度は旧教軍の陣営に身を投じる。

なんでこんな行動に出たのか、推測するに、宗教の立場にとらわれずに、自由な立場からこの戦争を体験する、将に「世界という大きな書物」から学ぶという精神がここに表れたのでしょうか。

それにしても11時にしか起きられなかった彼に、とうてい軍隊の生活に耐えられるとは思えないのですが、そこはどうしたのでしょうか?
 
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