2011年04月06日

百年たったら会いましょう

 親愛なるゆきちゃんへ

 あなたとあったのは研修の初日だったね。
 授業に退屈すると髪をなでていて、みんなで
 「ゆきちゃん あきたのね」と思っていましたね。
 保育士の資格をもっていて、介護の仕事の資格をとろうとがんばっていました。
 実習の授業でもがんばっていて、早坂さんと3人で国見の施設に実習のために、一緒にバスでかよっていました。
 福祉大前駅からバスに乗ってきて
 「おはようございます」といって元気にあいさつしていたゆきちゃんに私もはげまされたんですよ。
 実習のレクレーションをみんなで一緒にやったことを思い出しています。
 
あれから1年。一年ぶりの同窓会の前日におきた大震災で、あなたは23年の人生をおえました。
 新聞であなたの名前をみたときは正直どうしていいかわかりませんでした。
 同窓生のたんのさん、きたおくさんもみんなは哀しい思いでいっぱいです。
 卒業したときの送別会の二次会で「ハナミズキ」を歌ったら、
 「いいうたですね」といっていましたね。
 ハナミズキにあるように百年たったら会いましょう。
 大震災の夜、天空にはきれいな星空が見えました。
 天空の星に導かれていってほしいと祈っています。
 
 これをもって追悼の辞といたします。では、またね。

2011年04月05日

愛島 旧小豆嶋村 清水峯神社縁起のこと

 名取市愛島にある「清水峯神社(すずみねじんじゃ)」。
 この神社の縁起は、古くて「ヤマトタケルノミコト」の創建によるという。
 水に困ったミコトの一行が山のいただきに「矢」を突き刺したところ、水がわいたということで神社ができたといい、タケノウチノスクネが創建に関わったともいう。
 ヤマトタケルの一行にいた大伴氏の一族が神社の司家となったといい、かつての氏子は「大友姓」のみだったとか。愛島の大友姓を「西方」とよび、愛島から増田、ゆりあげに移住した大友姓を「東方」と呼び、いまも神社の分社が増田字後島に残っている。

 神社には「ごてんのうさん」としてスサノヲノミコトをまつるのは、ある災害と関わるという。
 平安時代の「貞観大津波」によって愛島地区が大きな災害に襲われ、海水による浸水で「疫病」がはやった。
 そこで、牛野(ゆりあげ地区)にあった「ごてんのうさん」を愛島・小豆島に移したところ、そのご利益で災厄がなくなったということが伝承としてあったらしいのです。
 牛野地区の地名の「天王」には、神社があって「播州」から神社を勧請したといい、京都の八坂神社とは同じ神さまということになっていたそうです。

 今回の大津波による震災は、平安時代の貞観大津波に匹敵するそうです。
 かつて、仙台平野を襲った大津波の伝承は、山あいの小さな神社に残っていました。
 では、また、おみょうにち。

 現在、名取市では死者 行方不明が2000人余となり、ゆりあげ地区の被害が甚大です。
 下増田地区でも仙台空港に近い北釜地区で死者 行方不明が70人余、下増田地区でも100人余の犠牲が出ています。
 謹んでご冥福をお祈りするともに、全国各地からの救援、支援に御礼申し上げます。かしこ。
Posted by natorigoro at 17:23  |Comments(2) | 名取・愛島地区の歴史物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月26日

丑寅うごく・・・。

 大震災から20日たちました。周囲はいまだ瓦礫ですが、健やかに過ごしております。
 今回の津波は、慶長大津波よりは規模が小さく、寛政大津波よりは規模が大きかったようです。
 
 伝聞では、地震当日に横浜から北東にピンクの雲がでたとかで、その20分後に地震がきたそうです。
 また、津波もピンク色をしていたそうです。
 丑寅の鬼門の東北地方で大地震、大津波が起きた後に「大化の改新」、「平城遷都」、徳川幕藩体制の確立、寛政の改革など日本史において歴史的大転換がおきたそうです。
 日本もこれから歴史的な大転換をむかえていくことでしょう・・・・。
 いまだ多くの知人が行方不明となり、その安否を心配しています。
 では、また、おみょうにち。
Posted by natorigoro at 17:42  |Comments(2) | よもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月28日

春の予感

如月のつごもりに降る泡雪に 春の予感をしばし感じる

Posted by natorigoro at 16:14  |Comments(3)TrackBack(0) | よもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月30日

またおらいねん

今年もお世話になりました。
いい年越しをしてくないん。
では、また、おらいねん。

Posted by natorigoro at 20:51  |Comments(1) | よもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月25日

伊達周宗公のはなし

 さむちゃね、また、ごめんしてくないん。

 仙台藩主に幼くして亡くなった伊達周宗(だて・ちかむね)公がいます。
 父は、8代藩主・伊達斉村公、母は正室の鷹司氏とされていて、生母は産後のひだちが悪くて亡くなったんだど。
 仙台藩主となったときは、わずか1歳だったともいい、「松平政千代」として、藩政は重臣がおこなったという。
 徳川家斉公の息女と婚約するも、未婚で16才で亡くなったというんだど。
 実は、もっと早くに亡くなっていて、伊達家親族の少年を「身代わり」に立てたという伝説がのこっています。
 周宗公の異母弟が10代藩主となり、「松平陸奥守家」は明治維新までつづいています・・・・。
 では、また、おみょうにち。
Posted by natorigoro at 15:39  |Comments(0) | 伊達家の歴史絵巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月27日

「お稲荷さん」のはなし

 むかし、父方の本家の「ずないみょうじん」のとこにお稲荷さんのおつかいが巣穴をつくってすんでいたんだど。
 よく屋敷の周りさいたもんだったんだど。
 そのうちにある家さいたニワトリが襲われりたりして、こまったことになったんだど。
 「お稲荷さんのおつかいがしたんでないの」といわれて、本家ではこまってしまったんだど。
 そしたら、本家のばっぱが赤い赤飯を炊いて、
 「おたちになってくないん〜」といってお供えしたんだど。
 そしたら、おつかいはいなくなってしまったんだど。
 みんなして、たけこまさんのとこさでもいったんだべといったんだどさ。
 昭和の中頃のはなしでした。
 では、また、おみょうにち。
Posted by natorigoro at 11:42  |Comments(0) | 名取・下増田地区の歴史物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月25日

「那智山大権現」のはなし

 むかし、なとりの高舘山に「那智山大権現」がおまつりされていたんだど。
 むかしは、「観音堂」と「那智山権現」の建物が並んであったんだど。
 神仏習合のかたちは、明治22年頃に「那智山権現」を熊野那智社として山上に移すころまであったんだど。
 この社殿の移動のときに「かけぼとけ」が社殿の下からでてきたのね。
 観音堂もすぐ上の場所に移動してしまったんだど。
 「観音ヶ崎」とよばれる場所に那智山大権現があったはなしでした。
 では、また、おみょうにち。
Posted by natorigoro at 19:40  |Comments(3) | 名取・高舘地区の歴史物語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月04日

二木正義の伝説

 霜月だちゃね。また、ごめんしてくないん。

 仙台市若林区二木に、むかし、二木正義という武士がいたんだど。
 戦国時代に、奥州から甲斐の武田信玄公のために川中島に7回もいったんだど。
 そのときに、武田公から「書状」をもらってきて帰ってきたんだど。
 のちに「阿弥陀さん」に帰依してお寺にいっぺ寄進していたんだどさ。
 一説には、甲斐から奥州の二木まで逃れてきたというんだど。
 いまも、二木の長構寺に「信玄公の書状」があるというんだどさ。
 では、また、おみょうにち。
 
 二木正義の伝説についてはこちら 

 //www3.plala.or.jp/gameticket/23rokugo.html#ryouzenin%20&%20yasaka

2010年11月01日

「岩沼藩田村家シンポジウム」があります

 来る11月3日、岩沼市の岩沼市民会館で「岩沼藩田村家シンポジウム」が開かれます。
 岩沼藩は、1660年に仙台藩主・伊達忠宗公の子である田村宗良公(1637〜1678)が現在の岩沼市の大部分と名取市、村田町の一部を仙台藩から分藩して、約20年にわたって存在した藩とされます。
 伊達騒動で、田村宗良公が閉門となり、岩沼藩は廃藩となり、のちに宗良公の子が改めて一ノ関藩3万石として分藩しています。
 忠臣蔵にでてくる「田村右京太夫」は、この田村家のことですね。
 田村家は、伊達政宗公の正室の愛姫の生家で、愛姫の遺言で、孫にあたる宗良公が田村家を再興したといいます。
 お時間のある方は、ぜひに参加してくないん。
 では、また、おみょうにち。

2010年10月26日

あれ、まぁ〜

 ようたしで市バスさのったのね。
 そしたら、市バスのなかに「仙台人物誌」の案内があったのしゃ。
 よぐみたら、観心院さんの肖像がのってたのね。
(右下のおひなさまのような女性の肖像です)
 観心院さんは、9代藩主の夫人で、雲州・松江藩主の松平不昧公の正室の実母なんだど。
 広瀬川の河川敷で、女子サッカーをしてんのみて、「モクリ コクリの碑」の案内をみて、八幡宮の前からまた、市バスさ乗ったら、観心院さんの肖像がある案内をみたのね。
 「仙台人物誌」は12月まで、仙台市博物館でごらんになれます。
 では、また、おみょうにち。
Posted by natorigoro at 18:41  |Comments(0) | よもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月25日

「額兵隊 見国隊戦死弔碑」のこと

 仙台市宮城野区にある榴ヶ岡天満宮に「額兵隊 見国隊戦死弔碑」が残っています。
 明治維新の戊辰戦争で、仙台藩士として北海道・五稜郭にいって亡くなった兵士を弔魂するために明治30年代に建立されたんだど。
 額兵隊は、仙台藩士として初の西洋式兵士ともいい、隊長の星恂太郎氏が率いて明治政府の兵士と戦い、見国(みくに)隊は、二関源治氏が隊長でいたんだど。
 二関氏は、五稜郭の戦いで戦死されて、その慰霊碑も天満宮境内に残っていんだど。
 では、また、おみょうにち。

2010年10月10日

観心院さまの話

 観心院 近衛氏惇君(かんしんいん このえし・あつぎみ)がいたんだと。
 9代藩主 伊達重村公の正室で、近衛氏の養女として仙台藩に嫁したんだど。
 生家は、広幡(ひろはた)家で、桂離宮をつくった八条宮智仁親王の子孫でもあんだど。
 重村公には、徳川家の田安家の姫と婚約していたんだけど、姫が亡くなったために近衛氏との縁から惇君が伊達家にきたんだど。

 重村公、10代藩主斉村公の没後、斉村公の子が幼いことから女性の身で仙台藩主の後見ともなったんだど。
 おりしも天明の大飢饉で餓死者が多く出たことを知った惇君が「お救い小屋」を仙台城下にこさえて、救済して、なくなったひとたちを供養するために寺院もこさえたんだど。
 また、生活が苦しいことから子どもを「間引き(胎児の堕胎、生まれた子を死なすこと)」することを知った惇君がそれを防ぐために妊娠した女性を藩に登録させ、その援助をするようにして生活費を藩から出させたんだど。
 そのために仙台藩では「こどもの間引き」がへってきていたんだど。
 この制度は、明治維新まで仙台藩で行なわれていていたんだとさ。
 
 重村公の死後、観心院(かんしんいん)と号していた惇君は、地蔵菩薩を信仰していて、その死後に地蔵菩薩像を菩提寺の大年寺に納めたんだけど、明治維新の混乱で地蔵菩薩像は行方不明になったんだどさ。
 観心院さまは、仙台の大年寺に墓が残っております。
 では、また、おみょうにち。
Posted by natorigoro at 17:38  |Comments(0) | 伊達家の歴史絵巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あめのなか・・・。

 神無月だちゃね、また、ごめんしてくないん。

 先日、雨のなか、塩釜神社にてシュウバツをお願いいたしました。

 神社につくとあめ、アメ、雨・・・。
 神社の拝殿に昇殿して、御祓い。
(なぜか、安産祈願の方が両脇におられました)
 これまた、なぜか代表して「玉ぐし」を奉てんとなりました。
 神社をあとにすると、雨はあがりました。
(塩釜さんは、龍神さまの系統なのでしょうか・・・)
 あとで、塩釜さんは安産の神さまと思い出しました。
 
 雨あがり やしろをあとに石段を 一歩また一歩あゆむ 前をみすえて
 
 では、また、おみょうにち。
Posted by natorigoro at 17:02  |Comments(0)TrackBack(0) | よもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月29日

蔵王山遠景

100929_1730.jpg 蔵王山遠景。

Posted by natorigoro at 17:33  |Comments(0)TrackBack(0) | よもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月24日

上杉にて

100924_1325~001.jpg 仙台 上杉にて。

Posted by natorigoro at 23:24  |Comments(6) | よもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月20日

藤原秋保の伝承・・・。

 仙台市・秋保温泉の地名の由来に「藤原秋保」という説があんだど。
 平安時代に秋保を治めていた領主という伝承もあんだど。
 現在は「秋生」が「秋保」と変化していったという説が有力とされています。
 伝説では、欽明天皇に「秋保の湯」を献上して、「なとりのゆ」という名を賜ったというのが秋保温泉の由来という説も残っています。
 では、また、おみょうにち。

2010年09月11日

石巻 蛇田道公神社のこと

 長月だちゃね。また、ごめんしてくないん。

 石巻市に「蛇田道公神社」という神社があんだど。
日本書紀(やまとふみまき)によると、仁徳天皇の時代に大和からエミシと戦うためにきて、亡くなった将軍をまつった神社なんだど。
 上毛野田道公(うえけのたみちのきみ)という将軍で、崇神天皇の子孫なんだど。
 将軍が亡くなったとき、夫人がその遺品を胸に自害したというんだど。
 のちに将軍を墓をエミシが暴いたとき「おろち」となってエミシにたたったというんだど。
 同じような伝承が青森・猿賀神社にも残っています。
 坂上田村麻呂将軍がエミシと戦ったときに田道将軍が現れて、勝利に導いたという伝承ものこっていんだどさ。
 上毛野氏は、後に加美郡、玉造郡、名取郡にあって「玉造軍団」、「名取軍団」の長としてあったんだど。
 では、また、おみょうにち。

2010年08月06日

「大龍山名取寺」の話

 いまの仙台市太白区南大野田に「大龍山名取寺」という寺があったんだど。
 平安時代に建立されて、江戸時代の元禄12年に伊達綱村公の命で再建されたんだど。
 天台宗の寺院だったんだけど、衰退して明治20年代に観音堂があったばりだったんだど。
 いまは、五輪塔など石碑がのこるだりなんだどさ。
 では、また、おみょうにち。

2010年08月04日

大槻盤渓氏の話

 8月だちゃね。また、ごめんしてくないん。

 幕末の仙台藩士に大槻盤渓(おおつき・ばんけい、名を清崇)というひとがいたんだと。
 幕末の文人として仙台藩を代表する人物で、ペリーの黒船来航のときに黒船に近寄って、「漢詩」を渡したりしたの。
 長州の吉田松陰とも知り合いで、仙台でもあったりしたんだど。
 土佐の山内容堂公、越前の松平春嶽公とも知り合いで、容堂公とは酒をともに飲んだんだとさ。
 明治維新では、戊辰戦争の責任をとって投獄されて、晩年は東京に住んだんだと。
 福沢諭吉とは晩年まで仲がよくて、付き合ってたのね。
 東京・高幡不動に残る「近藤勇・土方歳三」の殉節両雄之碑は、盤渓氏が文章を書いたんだとさ。
 大槻盤渓氏の先祖は、葛西氏一族で戦国時代に伊達家によって討ち死にしたんだど。
 盤渓氏のご子息である大槻文彦氏が建てた「大槻但馬守の碑」が石巻市河南町に残っていんだとさ。
 では、また、おみょうにち。
Posted by natorigoro at 16:26  |Comments(5) | よもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする