2010年01月26日

「熊野堂大館跡」のこと

 名取市高舘地区にかつてあった「熊野堂大館」。
 鎌倉時代から室町時代にかけての館跡で大掛かりな城塞でもあったんだど。
 発掘で「常滑焼」のオオツボ、皿がでてきて、当時のなとり地方と尾張地方(名古屋方面)との交易があったらしいんだど。
(熊野那智神社の懸仏に「尾張氏女」という文字もあんだど)
 中世、なとり地方にあった熊野別当とのかかわり、なとりの熊野修験道の集団の拠点ともいうんだと。
 いま、名取駅にて遺跡紹介の展示をやっています。
 では、また、おみょうにち。
 

2010年01月16日

河内守入道藤原国包

新年明けましておめでとうござりす。また、ごめんしてくないん。

むかし、河内守入道藤原国包という刀鍛冶がいたんだと。
刀には「奥州名取住河内守入道藤原国包」とあって名取郡にいた刀鍛冶だったんだど。
仙台藩のお抱えの刀鍛冶となって「大友姓」を名のっていたんだど。
名取郡の「大友姓」、「松浦姓」、「大久姓」は、九州からきた武士がルーツというのね。
鎌倉の北条氏が「元冦」の恩賞として名取郡の土地を与えたので九州から武士がきたともいうんだど。
では、また、おみょうにち。
 
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2009年12月23日

「おしらぼとけ」のはなし

 むかし、大衡村に「おしらぼとけ」というのがのこっていたんたんだど。
 明治20年代に「オシラサマ」の南限として、東京の大学に報告されていたんだど。
 明治時代に大衡村のある家に伝わっていて、「おさわり」がきつくて、何度も川さ捨てたりしても、家に戻ってきてこまっていたんだど。
 いまは、どうなったかはわかんないんだど。
 宮城県北には「オシラサマ」としてあって、宮城県南には「オカイコサマ」、「オシンメイサマ」となっているというんだど。
 宮城の「オシラボトケ」のはなしでした。

 今年もありがとうござりすた。いい年をむかえてくないん。
 では、また、おらいねん。
 
 

2009年12月19日

堀田正敦公のはなし

 6代藩主の伊達宗村公の八男で、堀田正敦(ほった・まさあつ)公がおられます。
 伊達家から堀田家に養子いった方で、幕府の若年寄を務めたんだど。
 父である伊達宗村公、兄の伊達重村公とおなじように学問好きで「博物学」にこっていたんだど。
 幕府の命で、えぞち(いまの北海道)にいって多くの調査をしたりもしたんだど。
 こんとき一緒にいったひとりが遠山景元さん(遠山の金さん)がいたんだと。
 兄の伊達重村公、おいの伊達斉村公の死後に藩主となった伊達周宗公を補佐して、仙台藩の後見にもなったんだど。
 周宗公は、わずか一才で藩主となって、「松平政千代」と古地図には名を残しています。
 堀田正敦公は、江戸で亡くなり、多くの植物、動物を描いた「図録」がいまも残っていて、博物誌に大きな歴史に名を残していんだとさ。
 では、また、おみょうにち。
 
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2009年12月01日

「ダルマ宰相」のこと

 12月だちゃね。また、ごめんしてくないん。
 「坂の上の雲」というドラマに高橋是清さん(たかはし・これきよ)というひとがでてくんのね。
 高橋家は、旧仙台藩士で、是清さんは、御用絵師の家から養子にきたんだど。
 養父母は、旧岸和田藩士で、仙台藩の足軽の株を買って仙台藩士となったんだど。
 是清さんが幼いころに仙台藩上屋敷に住んでいたんとき、屋敷のお稲荷さまに参詣にきた奥方さま(徳川斉昭公の息女で徳川慶喜公の妹らしい)のひざの上に乗ってしまったんだと。
 あとから奥方さまが是清さんを呼んで
 「かわいい子だこと」とお菓子をもらい、まわりから「高橋の子は運がいい」といわれたんだど。
 アメリカに留学して、奴隷に売られたこともあり、仙台藩が「朝敵」として明治維新で敗れたのを聞いてあわてて日本に戻ってきたともいうのね。
 これを聞いた勝海舟が
 「仙台は大藩だが、人材は少ない。留学の途中でなんで戻ってきたんだ」と怒ったんだど。
 その後、英語をいかして経済界に入り、大正時代に「首相」、「大蔵大臣」を歴任して、2・26事件で亡くなったのね。
 宮城県出身の首相は、是清さんだけなのね。
 仙台出身には日銀総裁になった富田鉄之助さんもいます。
 その容貌から「ダルマさん」と呼ばれ、経済の建て直しに力をふるった高橋是清さんの話でした。
 では、また、おみょうにち。
 
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2009年11月29日

島津大定氏のこと

 旧迫町の郷土史料に「島津大定」という人のことが書いてあんだと。
 江戸時代に佐沼にいた人物で、土御門神道を学んだひとなんだど。
 土御門神道というと、天文道との関わりが深くて、旧仙台藩には多くの門人がいたんだど。
 あまり史料には記録がないようなので、記事にしてみました。
 では、また、おみょうにち。
 

2009年11月27日

「北畠顕家公の供養塔」のこと

 「多賀城町史」という資料に「伝 北畠顕家公の供養塔」の記述があります。
 はっきりとはしないのですが、多賀城跡近くにあったそうです。 
 伝承では、南北朝時代の北畠公の供養のために後世の方が建立したそうです。
 写真でしか、見たことがないのですが、記事にしてみました。
 いまも存在するかどうかは不明です・・・・・。
 では、また、おみょうにち。
 

2009年11月18日

「陸奥奏社宮」のこと

 多賀城市に陸奥奏社宮があります。総社宮ともいって、奥州、出羽にあった「延喜式内社」をまつっている神社です。
 神社の境内にお祭りされる神社の案内がでています。
 多賀城跡の近くにあるということで、陸奥国府との関わりがあると指摘もされています。
 以前、この神社の宮司氏にお会いして、修祓をうけた記憶が残っています。
 100歳近い方でしたが、先年にご逝去されました・・・・。
 その思い出もあって記事にしてみました。
 では、また、おみょうにち。
 

2009年11月11日

仙台 伊東七十郎の墓のこと

 仙台市内の寺院に伊東七十郎の墓が残っています。
 伊東家は、伊達家の重臣の家系で、政宗公に従って多くの戦功をあげた家なんだど。
 寛文事件(伊達騒動)で、伊達兵部宗勝公の専制を批判して、家名断絶。伊東七十郎は死罪になってしまったんだど。
 そんとき、七十郎が
 「かならず伊達兵部を失脚させてみせる」と仰向けにたおれたんだど。
 それから、伊達兵部は失脚して、伊東家は再興され、伊東七十郎は「忠臣」とされたんだど。
 仙台・愛宕神社には伊東七十郎の「招魂碑」が残っています。
 では、また、おみょうにち。
 

2009年11月09日

霜月でござりす

 霜月だちゃね。また、ごめんしてくないん。

 むかし、伊達重村公が参勤交代で江戸から仙台さ戻ることになったんだど。
 んでも、使えるお金が足りなくて、困っていたんだど。
 幕府から借りることもできなくて、やむなく出発したんだど。
 やっぱり北千住あたりで、旅費がたんなくなって行列が止まったんだど。
 そしたら、重村公が
 「野宿でもして、仙台さいくべし。鳥でも鉄砲で撃っていくか」といったんだど。
 それを聞いた役人が
 「江戸の近くでそんなことされたら困る」と江戸の幕府に相談にいったんだど。
 幕府では、
 「野宿されるはいかんことじゃ」といって旅費を重村公のもとさ届けたんだと。
 その旅費で仙台までかえったんだど。
 その頃、仙台藩は、天明の飢饉のあとで、財政が苦しいころのことだったんだどさ。
 では、また、おみょうにち。
 
Posted by natorigoro at 14:21  |Comments(0) | よもやま話

2009年10月28日

「西南の役記念碑」のこと

 仙台市青葉区御霊屋にある瑞鳳寺。この境内に西南の役の記念碑があんだど。
 明治10年の西南の役で戦死した旧仙台藩士のひとたちと明治政府に徴兵されて戦死した方の慰霊碑なんだど。
 こんときに旧仙台藩士のなかに
 「戊辰の恨みをはらすべや。鹿児島さいくど」といっていた旧藩士もいたんだど。
 旧仙台藩士のなかには、旧仙台藩時代の「軍羽織」に帯刀して、これを見送った旧藩士もいたんだど。
 これらの方は、「官軍」として西郷軍と戦い、戦死された方は、明治政府の命で招魂社(いまの靖国神社や宮城県護国神社)にまつられて「英霊」となってんだど。
 軍羽織を着ていた旧藩士の方は、日清戦争のときもその軍羽織を着て、兵士を見送ったんだど。
 この方は、その服装のまま道で倒れて亡くなったんだどさ。
 旧仙台藩士の栄誉を称える慰霊碑の話でした。
 では、また、おみょうにち。
 

2009年10月27日

東京 高尾稲荷神社の話

 江戸時代 江戸・吉原の高尾太夫という絶世の美女がいたんだど。
 この女性に仙台の伊達陸奥守がいいよっていたんだど。
 大金(三千両)で高尾太夫をみうけしたんだけど、高尾太夫が操を守っていうことを聞かなかったんだど。
 ごしゃいだ陸奥守が高尾太夫を隅田川の川船で切って捨ててしまったんだど。
 高尾太夫の遺体はすぐに引き上げたけど「かしら」だけはみつかんなかったんだど。
 ようやく隅田川で見つかった「かしら」を丁重に埋葬して、その上に稲荷神社をこさえたんだど。
 これが高尾稲荷神社のおこりなんだど。
 昭和50年代に稲荷神社を再建しようとして、社殿の地下から「かしら」が入った壷が発掘されたんだど。
 いまも高尾稲荷神社のご神体として丁重におまつりされてんだど。

 高尾太夫を切った伊達陸奥守は、乱行がたたって「隠居」を命じられ、その混乱から「伊達騒動」がおきたんだど。
 江戸では、高尾太夫のうらみとはやしたて、伊達上屋敷は江戸・日比谷から芝の汐留さ移されたんだど。
 俗説では、仙台には高尾太夫のうらみで美女が少なくなったといわれたんだどさ。
 では、また、おみょうにち。

 東京 高尾稲荷神社についてはこちら
http://tea41.fc2web.com/takaoina/takaoina.htm
 
Posted by natorigoro at 15:52  |Comments(0) | 伊達家の歴史絵巻

2009年10月17日

ある別当寺の厨子の話

 郷土史の本に「ある寺の厨子」の話がありました。

 伊達綱村公が大崎八幡宮の別当寺だった寺に厨子を奉納しようとして、京都の仏師にたのんだんだど。
 京都でできたお厨子を仙台まで運んできて、途中に船に乗せて運ぼうとしたんだど。
 そしたら、船が難破して沈んでしまったんだど。
 困ったなあと思っていたら、お厨子がなとりの「ゆりあげ浜」に打ち上がっていたんだど。
 そんで、無事に仙台さ運んで納めたんだどさ。
 むかし、その寺には「龍の玉」という宝物があって、みんなして龍神さまのご加護といったんだどさ。
 では、また、おみょうにち。
 

「王義之の書」の話

 豊臣秀吉の朝鮮侵攻のときに伊達政宗公も朝鮮半島へわたったんだど。
 朝鮮王朝の王宮に攻め入って、「王義之の書」をみつけたんだど。
 そんどき、細川の殿さまも見つけて取り合いになってしまったんだど。
 話し合ってふたつに分けてそれぞれ日本さもって帰ってきたんだど。
 江戸時代になって、細川の殿さまが江戸城中で刺されてしまって絶命してしまったんだど。
 そんとき、伊達の殿さまが
 「まだ息がある。いそいで屋敷にはこべ」といって細川家に運ばせたんだど。
 江戸城中で刺されて死ぬとお家断絶になるから、伊達の殿さまがそれを救ったんだど。
 細川家では御礼としてかつて伊達家と分けた「王義之の書」を贈ってきて、またひとつにもどしたんだど。
 細川家では「仙台に足をむけてはならぬ」といって恩義を感じ、戊辰戦争のときは仙台藩に
 「はやく降伏したほうがいい」と密使を送ってきたんだど。
 白洲正子さんの本には、長崎の出島で「南蛮渡来の香木」を細川家の侍と伊達家の侍が取り合って、伊達家の侍が切られてしまったという話があんのね。
 その「香木」は細川家にいまもあるんだどさ。
 では、また、おみょうにち。
 
Posted by natorigoro at 11:02  |Comments(4) | 伊達家の歴史絵巻

2009年10月03日

世良修蔵の鞍の話

 幕末、仙台藩士によって命を失った世良修蔵の話でござりす。

 仙台の養賢堂(いまの宮城県庁付近)に官軍の総督府が置かれ、世良氏も仙台さきたんだど。
 仙台の立町に長州生まれの馬具屋がいて、世良氏をたずねて養賢堂さいったんだど。
 同郷のよしみで話がはずんで、そしたら世良氏が
 「わしゃ やまいで馬に乗れん。一生乗れんかもしれんから預かってくれ(いくさで死ぬかもしれん)」と西洋式の鞍を預けたんだど。
 馬具屋は、鞍を預かってけっていったんだど。
 馬具屋の知り合いで、大年寺(仙台藩主の菩提寺)に長州生まれの良完という僧がいて、世良のもとで働くことになったんだと。
(良完は、長州藩のスパイだったともいうのね。のちに萩野省一と名乗ったんだど)
 
 哀れ、世良氏は、福島で仙台藩士によってその命を失ったのね。
 そのくびば、白石にいた仙台藩の重臣のことさもっていったんだど。そしたら
 「めんどくせことになったな。脱藩ものがきったことにすっとおもっていたのや。仙台藩はもういくさしかねぐなった。それば傑山寺(片倉家の菩提寺)さいってうめどけ」といわれて、いったら
 「こっちゃもってきても困るちゃ。荒れ寺さでもうめっぺすぺ」といって世良氏とあと3人のくびばうめたんだど。
 明治になって、世良氏らの墓が改葬されて、立派になって、白石さのこってんだど。
 朝敵となった仙台藩は、藩の重臣の七人のくびをきって、何十人と処罰して、28万石となったのね。

 世良氏が預かってくれといった鞍は、いまは行方はわがんないのね。
 明治中期に第二師団の人(長州人)が馬具屋さいって見たという話はあったんだどさ。
 では、また、おみょうにち。
 
Posted by natorigoro at 20:54  |Comments(8) | よもやま話

「多賀の館」の話し

 資料を整理してたら、郷土史家の藤原相之助氏(故人)が
 「奈良時代 伊治公砦麻呂が伊治城で紀広純の命を落命させ、大伴真綱が逃げたのは多賀城(多賀城市市川)ではなくて多賀の舘(名取郡)のことだ・・・」と書いていたんだど。
 多賀の舘が「高舘」の語源で、陸奥の鎮所だったという説があったんだど。
 藤原相之助さんは、戦前から戦後にかけて郷土史を調べてられていて、「戊辰戦争史」についての本は「名著」といっていいほど、仙台藩の幕末をまとめておられます。
 んでも・・・。高舘の語源が「多賀の舘」というのはどうだちゃね???
 ちょっとしたはなしでした。
 では、また、おみょうにち。
 

「いけづき」の伝説

 10月だちゃね。また、ごめんしてくないん。
 
 平家物語の「宇治川合戦」にでてくる「名馬・いけづき」があります。
 この馬が「池月(大崎市岩出山)」で生まれたという伝説があんだど。
 池月でうまれた馬が平家物語にでてくるという伝説。
 一方で「いけづき」が生まれたという伝説が鹿児島にのこっていんだど。
 毛並みが「月毛」の名馬で、池田湖のそばで生まれて「池月」と呼ばれて、母馬と歩く姿にみんなで惚れ惚れしたんだど。
 子馬を関東へつれていかれた母馬が追いかけて、がけから落ちて亡くなり、母馬をまつる神社も鹿児島にあんだど。
 いけづきをめぐるみやぎと鹿児島の伝説でした。
 では、また、おみょうにち。
 

2009年09月28日

島津陸奥守のこと

 中世に名取郡、宮城郡に「島津陸奥守」という武士がいたんだど。
 名取郡の茂ヶ崎城(いまの仙台市・大年寺山)にあって、宮城郡の千代城(いまの仙台城跡)に移ったんだど。
 正式な資料に確実なことが残っていなくて、謎の武士ともいうのね。
 奥州から対馬(長崎)に移ったというんだど。
 薩摩藩主の島津家に「奥州家」というのがあって、島津陸奥守という武士がいたんだど。
 陸奥守の系統から「奥州家」と呼ばれて、戦国時代には島津宗家となって、薩摩藩主となったんだど。
 「篤姫さま」も島津氏の奥州家の流れなんだどさ。
 んでも、薩摩島津氏と「島津陸奥守」の関係を示す資料が残っていなくて、関連は不明なんだど。
 奥州にいた島津氏の話しでした。
 では、また、おみょうにち。
 

2009年09月21日

信州・諏訪 名取氏の話

 信州(長野県)に名取姓があんだど。
 伝承では、安部氏の末裔が名取姓をなのったんだど。
 武田勝頼の家臣に「安部五郎左衛門・あべごろうざえもん」という武士がいて、東北の安倍貞任の子孫といってたんだど。
 信州の名取姓は、「本姓藤原氏」となのっていて、東北のなとりから移住したともいうだどさ。
 では、また、おみょうにち。
 
Posted by natorigoro at 09:17  |Comments(3) | よもやま話

2009年09月20日

「鬼門の話・・・」

 郷土史家の飯沼勇義さんの本のなかに
「奈良の藤原京からみて、角度45度、鬼門の方角に郡山遺跡、多賀城跡がある」と書いてあります。
 奈良県橿原市に残る藤原京は、持統天皇の命で造営された日本として最初の中国式の首都というんだど。
 これには藤原不比等が大きくかかわったんだど。
(このころになとりの高舘山に熊野那智神社が創建されたのね)
 後に首都は、平城京(奈良市)に移ったんだけど、そこから角度45度の北東の方角に多賀城跡もあんだど。
 日本の律令制度がはじまった時代に奈良から鬼門の方角をみて、国府の造営するという大和朝廷の方位学(陰陽道)。
 当時の天文学、方位学のすごさだちゃね。
 では、また、おみょうにち。
 
Posted by natorigoro at 13:29  |Comments(0) | よもやま話