2011年04月06日

百年たったら会いましょう

 親愛なるゆきちゃんへ

 あなたとあったのは研修の初日だったね。
 授業に退屈すると髪をなでていて、みんなで
 「ゆきちゃん あきたのね」と思っていましたね。
 保育士の資格をもっていて、介護の仕事の資格をとろうとがんばっていました。
 実習の授業でもがんばっていて、早坂さんと3人で国見の施設に実習のために、一緒にバスでかよっていました。
 福祉大前駅からバスに乗ってきて
 「おはようございます」といって元気にあいさつしていたゆきちゃんに私もはげまされたんですよ。
 実習のレクレーションをみんなで一緒にやったことを思い出しています。
 
あれから1年。一年ぶりの同窓会の前日におきた大震災で、あなたは23年の人生をおえました。
 新聞であなたの名前をみたときは正直どうしていいかわかりませんでした。
 同窓生のたんのさん、きたおくさんもみんなは哀しい思いでいっぱいです。
 卒業したときの送別会の二次会で「ハナミズキ」を歌ったら、
 「いいうたですね」といっていましたね。
 ハナミズキにあるように百年たったら会いましょう。
 大震災の夜、天空にはきれいな星空が見えました。
 天空の星に導かれていってほしいと祈っています。
 
 これをもって追悼の辞といたします。では、またね。

2010年11月04日

二木正義の伝説

 霜月だちゃね。また、ごめんしてくないん。

 仙台市若林区二木に、むかし、二木正義という武士がいたんだど。
 戦国時代に、奥州から甲斐の武田信玄公のために川中島に7回もいったんだど。
 そのときに、武田公から「書状」をもらってきて帰ってきたんだど。
 のちに「阿弥陀さん」に帰依してお寺にいっぺ寄進していたんだどさ。
 一説には、甲斐から奥州の二木まで逃れてきたというんだど。
 いまも、二木の長構寺に「信玄公の書状」があるというんだどさ。
 では、また、おみょうにち。
 
 二木正義の伝説についてはこちら 

 //www3.plala.or.jp/gameticket/23rokugo.html#ryouzenin%20&%20yasaka

2010年10月25日

「額兵隊 見国隊戦死弔碑」のこと

 仙台市宮城野区にある榴ヶ岡天満宮に「額兵隊 見国隊戦死弔碑」が残っています。
 明治維新の戊辰戦争で、仙台藩士として北海道・五稜郭にいって亡くなった兵士を弔魂するために明治30年代に建立されたんだど。
 額兵隊は、仙台藩士として初の西洋式兵士ともいい、隊長の星恂太郎氏が率いて明治政府の兵士と戦い、見国(みくに)隊は、二関源治氏が隊長でいたんだど。
 二関氏は、五稜郭の戦いで戦死されて、その慰霊碑も天満宮境内に残っていんだど。
 では、また、おみょうにち。

2010年07月29日

「侘助蔵」の伝承

 むかし、仙台城の二の丸に侘助蔵(わびすけくら)という蔵があったんだど。
 それにはこんな話があったんだど。
 仙台のご城下に侘助という中間がいたんだど。
 すごい酒飲みで飲んでも、また飲んでもしこたま飲んだもんなんだと。
 それを聞いたお殿さまが
 「どのっけ、のむがのませてみっか」とお城さよんで酒をのませたんだど。
 名のある侍たちも
 「まげねど」といって飲んだんだけど、侘助にはかなわなかったんだど。
 しこたま、酒ば飲んで侘助は、そのまま死んでしまったんだど。
 それをみていたお殿さまがおったまげて、
 「侘助の胃の腑がどうなってか、みでみだい」と腹をさいてみたら、胃に「瓶」があったんだど。
 これはおもしろいと、お殿さまがその瓶を二の丸の蔵さ収めたんだど。
 それから、その蔵を「侘助蔵(わびすけくら)」というようになったんだど。
 その蔵は、空襲の戦災で亡くなってしまったんだどさ。
 では、また、おみょうにち。

2010年05月19日

ご神体のはなし

 仙台市内の某神社があります。
 この神社のご神体は「翁の面」とされていて、戦災にものこっていたんだど。
 能楽では「翁面」をつけると「かみさん」になるといって神聖視されていたんだど。
 能面をご神体とするのは春日神社系に多くて、歴史の古い神社に多くあるんだど。
 遠く都から運ばれたかもしんないご神体でござりすた。
 では、また、おみょうにち。

 神社についてはこちら
//www.miyagi-jinjacho.or.jp/jinja-search/detail.php?code=310010032

2010年04月06日

仙台藩神楽の伝承

 むかし、仙台藩神楽というのがあったんだど。
 仙台の亀岡八幡宮に伝わっていて、仙台藩のなかにあったいくつかの神社にお神楽としてつたえたんだど。
 「三輪流神楽」といわれて、仙台藩主の命で塩釜神社にも奉納したんだど。
 亀岡八幡宮のお神楽は、終戦時に途絶えてしまったんだど。
 仙台空襲で亀岡八幡宮が罹災したのね。
 いまは、神楽面がのこっていんだとさ。
 では、また、おみょうにち。

2010年03月27日

沼田豊前正茂密のこと

 江戸時代に大崎八幡宮の神主に沼田豊前正茂密(ぬまた・ぶぜんのしょう・しげみつ)というひとがいたんだど。
 江戸の垂加神道を学んで、大崎八幡宮のために尽力したんだど。
 沼田家は、代々、大崎八幡宮の社家の家柄で、神主だったんだど。
 戦前から戦後に大崎八幡宮の神官だった沼田仲氏は、その一族だちゃね。
 その神社での功績から、石像が大崎八幡宮内に建立されて、金比羅社のそばにのこっています。
 ぜひ、お参りしてくないん。
 では、また、おみょうにち。

2010年03月21日

仙台 和霊神社のこと

 仙台市青葉区の某ビルの屋上に和霊神社があんだど。
 この神社にはつぎのようないわれがあんだど。
 伊達政宗公の母である保春院さまが最上家からきたとき山家公頼という武士が伊達家にきたんだど。
 山家家は、伊達家の家臣となって、政宗公の長子の秀宗公が四国の宇和島さいくときに家来としてついていったんだど。
 こんとき、政宗公が秀宗公に3万石の資金をおくったのを山家公頼の子である山家清兵衛(やんべ・せいべい)が
 「政宗公にけさねどわがんねちゃ。けすぺ」と秀宗公さいったんだど。
 秀宗公は、親子だしけさねくてもいいとおもい、自分は宇和島さきて、仙台とはべつのべっかになっておもしぇぐねくて、清兵衛をきらっていたんだど。
 ある年の7月7日の未明に宇和島の山家邸に賊が入って山家清兵衛の一家が亡くなったんだど。
 カヤをつって蚊をよけていて、そのなかで亡くなったんだと。
 これを知った政宗公は、激怒して
 「秀宗が家臣にやらしたんだべ。秀宗ば伊達家から勘当する」といって、勘当したんだど。
(仙台では7月7日にカヤをつらない。七夕に雨が降るのは山家清兵衛がすんだねといったんだど)

 まもなく、宇和島で変異がおきて、気にした秀宗公が山家清兵衛一家をまつった神社をこさえたんだど。
 これが和霊(われい)神社の起こりなんだど。
 和霊神社は、四国にひろまって、土佐の坂本龍馬が脱藩すっときに祈願したのも土佐にあった和霊神社なんだど。

 仙台に戻った山家家の一族が東一番丁にあった屋敷に和霊神社をこさえたんだど。
 明治になって山家家の当主が屋敷を切り貸しして商店街ができたんだど。
 これが東一番丁商店街のおこりなんだどさ。
 和霊さんは、いまも東一番丁に残っています。
 では、また、おみょうにち。

2010年03月07日

仙台・吉・ 弁天堂のこと

 3月だ造ゃ造。また、ごめ造し造造造い造。

 仙台市青葉区吉・地区に残造弁天堂。
 むかし、仙台藩主の菩提寺であ造た大年寺の僧の隠居所だ造たと造いう臨済院の造ごり造造だど。
 臨済院造、江戸時代にで造た寺院で、明治維新の後に廃寺と造造造、弁天堂だ造が残造造いた造だど。
 八つの手造持つ弁天造まで、鎌倉の江ノ島の弁天造まの像と造に造い造の造。
 堂内に造4代藩主であ造た伊達綱村公夫妻のお位牌造のこ造造い造だど。
 国見の損に残造造い造弁天造までした。
 で造、また、お造ょうに造。

2009年11月11日

仙台 伊東七十郎の墓のこと

 仙台市内の寺院に伊東七十郎の墓が残っています。
 伊東家は、伊達家の重臣の家系で、政宗公に従って多くの戦功をあげた家なんだど。
 寛文事件(伊達騒動)で、伊達兵部宗勝公の専制を批判して、家名断絶。伊東七十郎は死罪になってしまったんだど。
 そんとき、七十郎が
 「かならず伊達兵部を失脚させてみせる」と仰向けにたおれたんだど。
 それから、伊達兵部は失脚して、伊東家は再興され、伊東七十郎は「忠臣」とされたんだど。
 仙台・愛宕神社には伊東七十郎の「招魂碑」が残っています。
 では、また、おみょうにち。

2009年10月28日

「西南の役記念碑」のこと

 仙台市青葉区御霊屋にある瑞鳳寺。この境内に西南の役の記念碑があんだど。
 明治10年の西南の役で戦死した旧仙台藩士のひとたちと明治政府に徴兵されて戦死した方の慰霊碑なんだど。
 こんときに旧仙台藩士のなかに
 「戊辰の恨みをはらすべや。鹿児島さいくど」といっていた旧藩士もいたんだど。
 旧仙台藩士のなかには、旧仙台藩時代の「軍羽織」に帯刀して、これを見送った旧藩士もいたんだど。
 これらの方は、「官軍」として西郷軍と戦い、戦死された方は、明治政府の命で招魂社(いまの靖国神社や宮城県護国神社)にまつられて「英霊」となってんだど。
 軍羽織を着ていた旧藩士の方は、日清戦争のときもその軍羽織を着て、兵士を見送ったんだど。
 この方は、その服装のまま道で倒れて亡くなったんだどさ。
 旧仙台藩士の栄誉を称える慰霊碑の話でした。
 では、また、おみょうにち。

2009年10月17日

ある別当寺の厨子の話

 郷土史の本に「ある寺の厨子」の話がありました。

 伊達綱村公が大崎八幡宮の別当寺だった寺に厨子を奉納しようとして、京都の仏師にたのんだんだど。
 京都でできたお厨子を仙台まで運んできて、途中に船に乗せて運ぼうとしたんだど。
 そしたら、船が難破して沈んでしまったんだど。
 困ったなあと思っていたら、お厨子がなとりの「ゆりあげ浜」に打ち上がっていたんだど。
 そんで、無事に仙台さ運んで納めたんだどさ。
 むかし、その寺には「龍の玉」という宝物があって、みんなして龍神さまのご加護といったんだどさ。
 では、また、おみょうにち。

2009年08月04日

仙台・米ヶ袋「縛り地蔵」のはなし

 仙台市青葉区米ヶ袋に「縛り地蔵」があります。
 むかし、伊達騒動のときに処刑された伊東七十郎を供養するためにこさえられたというんだど。
 伊東七十郎は、伊達家の家臣で、伊達兵部、原田甲斐をうらんで死んだというのね。
 その後、原田甲斐は、江戸で伊達安芸を討って、切られ、伊達兵部は土佐へ流されたんだど。
 伊東七十郎の供養碑は、川むかいの愛宕神社にも残ってんのね。
 一説では、仙台大橋で切られたキリシタンが流れついて、その墓として「縛り地蔵」ができたともいうんだど。
 むかしは、縄を巻かれて顔を見てはなんねよといわれた縛り地蔵でした。
 では、また、おみょうにち。

2009年05月17日

「仙台祭」のこと

 江戸時代に仙台市青葉区宮町に「東照宮」ができたんだと。
 むかし、徳川家康公が来たこといってできたんだと。それまであった「天満宮」は榴ヶ岡に移転させたというんだと。
 毎年、東照宮のお祭を行うようになって、「仙台祭・せんだいまつり」いって、町ごとに「山車」をだして、その豪華さを競ったんだと。
 もっとも豪華だったのが肴町の山車だったともいうのね。
 仙台藩の最大のおまつりだったんだど。

 明治になって「仙台祭」はなくなって、伊達政宗公をまつる「青葉神社」のおまつりがおこなわれるようになったんだと。
 それも明治末期から大正時代に「電柱」ができて電線が山車に引っかかるということで、山車はなくなって戦後すぐに「青葉神社のおまつり」もとだえたんだど。
 いまの「青葉まつり」は、江戸時代からの仙台祭、かつての青葉神社のおまつりを復興したのね。
 いまの「青葉まつり」は、東照宮の仙台祭がはじまりという話でした。
 では、また、おみょうにち。

2009年05月01日

萬寿院さまのこと

 五月だちゃね。また、ごめんしてくないん。

 仙台市・高松にむかし「萬寿院さま・まんじゅいんさま」のお墓があったんだど。
 萬寿院さまは、「仙姫・せんひめ」といって4代藩主の伊達綱村公の正室で、稲葉家からおこしいれしたんだと。
 春日局さまのひこまごにあたんだど。
 綱村公とは仲がよくで、男子がいたんだけど亡くなってしまい、萬寿院さまも綱村公より早くに亡くなったんだど。
 綱村公がお墓を高松にこさえて、お寺も建立したというのね。
 明治になって、お墓は、高松から榴ヶ岡に移転となって「三沢初子さま」のお墓のそばに移っています。
 御霊屋(おたまや)もあったというけど、こわされてしまったんだどさ。

 綱村公のお墓は、大年寺山にあって、萬寿院さまのお墓が大年寺山さ向いているんだどさ。
 では、また、おみょうにち。

2009年04月27日

泉区 実沢 熊野神社のこと

 仙台市泉区実沢に熊野神社があんだど。
 むかし、国分氏の家臣だった八乙女淡路(やおとめ・あわじ)という武士が実沢にいてこさえた神社なんだと。
 八乙女淡路は、江戸時代に七北田に移ったというんだと。
 地下鉄八乙女駅は、八乙女淡路が地名の由来なんだと。
 八乙女氏は、松森(泉区)から移ったともいって、松森にも熊野神社があんだど。
 実沢の熊野神社は、「いざなみのみこと」がまつられていて、これは熊野那智神とおんなじといって、なとりの熊野那智神社とおなじ神さんだちゃね。
 泉ヶ岳の山開きもあって、これから山登りにはいい時期だちゃね。
 では、また、おみょうにち。

2009年04月19日

岩切城と畠山氏の話

 仙台市・岩切に岩切城という城があったんだと。
 仙台市北部を治めていた留守氏が築城したともいうんだど。
 いまから600年も前に岩切城に畠山氏と言う武士が京都からきて、岩切城さこもったんだと。
 足利幕府内の内紛で足利尊氏に味方した留守氏、畠山氏と尊氏の弟に味方した吉良氏が戦ったんだど。
 留守氏と畠山氏は、敗れて塩釜神社に逃げ込んだけど、首をとられてしまったんだど。
 勝った吉良氏が味方した尊氏の弟が負けてしまって、吉良氏は大崎氏に敗れて逃げていったんだと。
 畠山氏の子孫は、二本松(福島)に移って、戦国時代に伊達輝宗公(伊達政宗公の父)をラチした畠山義継公の代で伊達家に滅ぼされたんだど。

 岩切城は、留守氏の拠点として続いたんだけど、戦国時代には利府城に拠点が移ってしまって、いまは跡ばりのこってんだど。
 では、また、おみょうにち。

2009年02月02日

「仙台五城楼」のこと

仙台市の地名の由来となった「同題仙遊観」いうのがござりす。
 中国の唐王朝時代の詩人が読んだ漢詩なんだと。
 その冒頭の「仙台初見五城楼」の一節から伊達政宗公がそれまでの地名の「千代・せんだい」から「仙台」にしたというんだと。
(関取の五城楼関、仙台にある五城中はこの仙台五城楼からなづけたとされます)

 仙台の地名は、中国の西安付近にいまもあるといのね。
 前漢の文帝が中国の神山であるこんろん山にあるという伝説の宮殿を模して築いた宮殿のことをうたった漢詩とされてんだと。
 
 政宗公が「仙人が住む永久に栄える地」と願って「仙台」という字を名づけたともされんのね。
 京都を「洛陽」というのと同じで仙台を「五城楼」という雅号でよぶこともあんだと。
 政宗公の「異国趣味」から「仙台」という地名はきてんのかもしんないちゃね。
 では、また、おみょうにち。 

2009年02月01日

仙台 木ノ下 白山神社のこと

 2月でござりす。また、ごめんしてくないん。

 仙台市若林区木ノ下に「白山神社」があります。陸奥国分寺の鎮守社として創建されたというのね。
 陸奥国分寺は、「文治の兵乱」で鎌倉武士によって焼失したとされてんだと。
 
 白山神社は、もともとは陸奥国分寺の七重塔跡とされる「小山」にあったんだけど、戦後の国分寺の発掘で現在地に移ったともいうんだとさ。
 「菊理姫命」をまつっていて、かつては「やぶさめ」がおこなわれていたんだと。
 そんときに宮城郡に住む氏子が「国分衆」、名取郡に住む氏子が「名取衆」として互いに競って「作物のできふでき」を占ったんだと。
 かつて、中世の仙台平野の歴史を知る上でかなめともなる白山神社でござりすた。
 では、また、おみょうにち。

2008年12月03日

斉藤報恩会・自然史博物館閉館きまる

 仙台市青葉区本町にある斉藤報恩会・自然史博物館が閉館することがきまったそうです。
 近年の博物館法の改正、財政困難もあってのことといいます。
 これからは、大学などの研究資料として収蔵品を活用されるとか・・・・。
 斉藤報恩会は、旧河南町(現在の石巻市)の大地主だった斉藤善右衛門家によって管理、運営されて、宮城県、東北地方の縄文文化の発掘にも大きな活躍をされてきました。
 「斉善・さいぜん」とよばれた東日本最大の大地主でして、石巻河南町にある斉藤家庭園も宮城県北部地震による影響で拝観停止となっています。
 また、地域の文化を支えた拠点がなくなっていくようで、宮城県としても文化的損失かもしれません・・・。
 では、また、おみょうにち。