February 08, 2012
マシンガン・プリーチャー/牧師はつらいよ 暴れ太鼓のサム次郎

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教会で恍惚と歌うクワイヤガールへうっすらとした悪意のような異物感を貼りつけていたことでもわかるように、天啓によるサム(ジェラルド・バトラー)のヤンキー先生的転身も含め宗教賛美にならないような煙幕はあちこちに張られていて、そこに食いついてくれるなよという監督の意図はそれなりに伝わってはくる。くるけれど、早くサムをアフリカに行かせたくて仕方ないのかプロローグ部分の駆け足が何だか雑だなあと思えて、例えばただの二日酔いで便器を抱えてるのかと思ったらそれが実は“罪に苛まれている”描写であったり、アフリカから来た牧師の話の何がそこまでサムを突き刺したのかも触れないし、あるいはドニー(マイケル・シャノン)を最終的にはああいうフックに使うのであればサムへの精神的依存(『傷だらけの天使』での亨のように)をもう少し掘り下げておくとか、映画が揺らぐことのできる空間をあらかじめ作っておかないものだから、単に手段が目的化していく時の危うさをサスペンスにまぶしただけの通り一遍な話に終始してしまっていて、一人の人間が新しい世界を発見して繋がる話としてはどうにも奥行きが足りてないように思う。手段の目的化と言えばそれはそのまま宗教システムに感じる欺瞞でもあるから、スーダン内戦の宗教紛争としてのある一面も含めて大きな視点では南北問題まで含めた宗教批判に軸足を移すことも可能だったと思うけれど、劇中でのNGOの扱いやクレジットロールの最後にサム・チルダース本人が突きつける極論など見ると、俺様教の教祖としてのサム・チルダースでエンターテインしたかっただけのようだからタイトル(原題ママ)に皮肉をこめるまでの二重底には手が届かったということになる。今作はマーク・フォスターの新作ということで観たのだけれどこの監督は実は脚本のクオリティに左右されてしまうところがあるように思えて、これまでも出世作でのミロ・アディカ(『記憶の棘』『キング 罪の王』の脚本家)およびデヴィッド・ベニオフと組んだ作品(『君のためなら千回でも』『ステイ』)以外はわりと空回りで脇が甘いというか、もともと作家性/スタイルでねじふせるわけでもないからセンシティヴな余白のある脚本でないと淡色のニュアンスを込められないんじゃないのかなと思ったりもした。ジェラルド・バトラーはメル・ギブソン・リーグの3Aという感じでまだまだ正気が残ってしまっている上に何よりサディストの色気が足りないので、師匠を目指してなおいっそう私生活も含めて切磋琢磨していただきたい。
February 06, 2012
人生はビギナーズ/犬は何でも知っている、夕べ一人で泣いたのも

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女性たちとのパートナーシップに火を灯すことのできないオリヴァー(ユアン・マクレガー)は、両親、特に父親による精神(親子の絆)と愛(母親への慈しみ)の不在がもたらす空洞の感情に育てられたことで、そこにどんな感情を薪としてくべてやればいいのか混乱した10歳のまま大人になってしまっている。とすれば話は単純に思えるのだけれど、そのわりにオリヴァーは父ハル(クリストファー・プラマー)を糾弾することも断罪することもしないまま時間は進むものだから(このあたり時制のシャッフルが少々ややこしい)その真意を計りかねてしまっていると、ハル最後の日々に置かれた唯一父と子の相克が示されるシーンで、父が人生に欲して手にしたものたちのリストに自分も母親も含まれていないという残酷な回想と共に、自分は父親なりに母へ託した愛情と尊厳の証しであるという事実も手渡され、と同時に父が密かに持ち得た愛は社会との闘争(ミルクやギンズバーグのインサート)でもあったのだというその背中をようやく捉えた実感をよりどころにこの映画がスタートしていたことを知るのである。だからここで描かれるオリヴァーの徹底した煮え切らなさは、単なる喪失の嘆きというよりはある意味それを理由に生きてきた欠落をもはやあてにはできないという当惑にも感じられて、アナ(メラニー・ロラン)の「あなたが失ったものを私じゃ埋められないとしたら…」という困惑と不安に「それがそんなに重荷ならもうこの関係をやめよう」と珍しく断定的にしかし駄々をこねるように言い放つ時のオリヴァーにそれが顕著に感じられて、おそらくこうして過去の彼女たちから立ち去ってきたのだろうことを思わせるのだけれど、父だけでなくおそらく母もまた父への愛を武器に闘いを試みた人であることを知るにつけ、愛は空洞に満たされる何かではなく満たす行為そのものであるという覚悟を胸に初めてその先へ踏み出すオリヴァーもまた遅れてきたビギナーなのだという回収がなされるわけで、思い返せばアナとの出会いのシーンでテリアのアーサーがオリヴァーに告げた(しゃべるのである)「今この瞬間に何か突拍子もないことが起きないとぼくらは闇におぼれてしまう、と彼女に言いなよ(Tell her the darkness is about to drown us unless something drastic happens right now)」というナンパのセリフにこの映画のエッセンスが凝縮されているのだけれど、この愛すべき回りくどさをチャーミングに思えるかどうかというけっこう際どい所を歩いている映画ではあって、私小説として晒すことへの監督の照れやわきまえがオフビートをまぶしたことでただでさえオリヴァー目線でしか描かれない母親の屈託が戯画化されてしまったように思えて、少年期のオリヴァーが不在のハルに代わってフィールズ家の夫役までも務めようとした健気とそれが呼んだ小さな自己分裂が大人のオリヴァーが抱え続ける屈託にシフトして行ったことの切実が少し分かりづらくなっていたように思う。とどことなく曖昧な気持ちのまま帰り途でパンフレットを開いてみれば“文:川勝正幸(エディター)”の文字が目に飛び込んできて、そのテキストは“喪失感を抱える多くの観客にとって、一筋の光となるのではないだろうか”という一文で閉じられているのだけれど、まさに喪の仕事をメインに据えた映画でこうして出会う悪趣味にため息まじりの苦笑いで口元を歪ませざるを得ないわけで、何だか幸せとは言えない理由のせいで忘れがたい映画になってしまったなあと今のところ複雑に想っている次第。合掌します。
January 31, 2012
ゾンビ大陸 アフリカン/赤い血潮を黒く塗れ!

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俺たちの帰るべきはあの共同墓地なんだよ、とばかりストイックなまでにジャンルミックスのノイズをそぎ落としてゾンビに再び実存の重さを背負わせることで這いずるようなスピードしか許すことなく、そうやって生死が逆転していく世界でペシミスティックに生を死守する倦んだ彷徨を灼熱のニヒルで描いてみせて、これこそがロメロの由緒正しいアップデートではなかろうかと、70’s東宝東和バッドテイストのグルーヴィーな邦題もひっくるめて傑作という言葉が思わず頭にちらついたりもした。何よりも映画として真っ当に美しく品があるわけで、予算やジャンルの制約を言い訳にしていないというか、カメラの贅沢なマルチ使いなどのぞむべくもないということもあるのだろうけれど、ショットは出来るだけ長くかつカメラはゆっくり止まることがないという計算されたスピード感がローギアなゾンビの佇まいにフィットして、ジリジリとゾンビがフレームインしてくる風情はこのジャンルで久しく味わうことのなかった日常と地続きする薄気味悪さを仕切り直している。また、駐留米軍のマーフィー中尉と現地西アフリカ兵デンベレのコンビによるバディ・ムーヴィーとしての趣も成立させて「おまえらアメリカ人は武器と兵隊を送り込んで来たかと思えば、今度は薬や医者を送り込んでくる。いったいどうしたいんだよ」なんていうセリフをデンベレにさらっと吐かせてアメリカの覇権主義を揶揄することも忘れていないし、何よりこの二人も含めて基本的にバカのやらかしによるサスペンスを維持することをせず、例えば軍の兵士が助けを求めて駆け寄る生存者2人のうち片方がゾンビに噛まれていることを知るや否やごく自然に射殺してみせたり、残弾を気にしての戦闘回避あるいは大鉈による接近戦処理であったり、一人になってしまった後の夜は木に登って眠ったりと地味だけれど納得できる描写を積み重ねることで要らぬストレスから自由であったのも好感の理由に思える。とは言え、自分の水や食料もままならないのに死にゆく母親に赤ん坊を託されてしまう絶望感で、おお、ここからは『ザ・ロード』か!と煽っておきながら少々拍子抜けする切り抜け方で済ませたり、それじゃあ意味ないだろうよ…と思わず突っ込んだ手作りアラートであるとか結果頼みで時折脇が甘くなることはあるのだけれど、こういう一直線の話をアクロバットやクリシェに頼ることなくここまでよそ見させずに演出できるこの監督はけっこうな地肩を感じさせて、ジャンル映画の枠を外したところでもそれなりの結果を残せるんじゃないかなとも思う。肝心のゴアシーンもこれみよがしにしない分だけ自然な惨劇に映って特に轢死系と斬殺系が秀逸だし、何より黒人のゾンビは白人のそれに比べてより洗練されて記号化されたように見えるというか、人格の名残が致死の存在を邪魔しないことでただそこに在るゾンビとして美しく思えて、どうしてそうなのかについて書くと少々危ういような気もするので観てもらえばわかるよということでここは控えとくけども、まあ要するに褒めちぎっているということなので昨今の品なく落ち着きのないゾンビにお嘆きの方はぜひともこちらの暗黒大陸まで。
January 30, 2012
預言者/世界は俺に反射している

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善悪を解いた場所から世界に負債を返すやり口をノワールと呼ぶとすれば最終的に収支はせいぜいがゼロになるはずだし、ジャック・オディアールはこれまでそのゼロに返済の見返りのような光を当てることで昏睡気味ともいえるハッピーエンドに仕立ててきていて、そうした結末へ向かうにふさわしいピーキーな歩調も含め彼の描くノワールが非常にしっくりきていたのだけれど、今回はいささか様相が違っているように思える。ノワールの住人はあらかじめ理想/夢と現実との落差を屈託として飼っていて、それを飼い慣らせば飼い慣らすほど闇が深くなるようにデザインされているのだけれど、ここでのマリク(タハール・ラヒム)は屈託はもちろん自我すらないまま世界(刑務所)に産み落とされていて、そこで言葉を覚え、最初の殺人と殺した相手の幽霊(客体)と同居することでようやく自我との橋渡しとなる内省を獲得し、屈託に至ってはそれがセザール(ニエル・アレストリュプ)に向けられた「ぶっ殺してやる」という言葉になるまで映画のほぼ半分近くを費やしていている。すなわちマリクは世界に貸しも借りもない存在として描かれて、赤ん坊が言葉を覚え自我に目覚め父を倒し家族を持つという世界を獲得していく物語となっているからこそ収支がプラスに転じたようなエンディングに至ったわけで、あの疑似家族の後ろに続く車の佇まいがさすがに修羅の道を予感させはするものの、本来なら光も差さないような狭くて暗い場所に落とされたノワールなればこそといえる肯定の滴には、ピカレスクとかいうよりはもっと根本的な、光を求めてより明るい方へと向かう生の確信を感じさせてこれまでの作品で描いたきたその一歩先を見やったような気がしている。物言わずとも語ってしまうという点でやはりこの監督は冴えていて、これまではファンタジックな軸足を残しながらも映画のリアリティをつきつけることで荒唐無稽とも言える物語に血肉を与えて描き切ってきたのだけれど、ここでは一見徹底して実録風に描きながらも随所にインサートされた心象の彷徨う風景によって夢見心地なグリップを離さずにいるものだから、何か一炊の夢のような儚さも持ち合わせてさえいて、そうした両面性を持ち得るための手続きとして2時間半の長尺が必要だったのだろう。例えば、これまで修羅場をくぐってきたとは到底思えない19歳のマリクにおいそれと人を殺せるのだろうかという疑問が形をとる前に執拗とも言える殺人のレクチャーが施されるし、入所時にゴミ箱に棄てられるスニーカーに始まって折々で靴のあれこれに心情を託してみせること(力関係としての靴強奪や、ショーウィンドウの高級靴)や、自分の足で歩き出したように思わせながらも、空港でのボディチェックで思わず刑務所でのそれのように口の中まで見せてしまう卑屈や銃でちょっと小突かれれば泣きわめいてしまう脆さなど、そうやって行きつ戻りさせることで物語の振幅を少しずつ拡げていくやり方をこのサイズの映画で貫いたという点でなかなか驚異的に思えるし、その両面を縫い合わせる場所をエンディングではなくマルカッジ襲撃時に設定したことで、銃弾と銃声と硝煙の中でついに自分が世界にフィットした瞬間を掴んで愉悦の表情を浮かべるシーンで突発する多幸感は忘れがたく、以降に起きることはすべてエピローグでしかないような気すらする。ただ、アメリカン・ノワールの自滅して下降するセンチメントと比べた時にフレンチ・ノワールが放つ、自己愛による甘い腐臭を現代にアップデートしてきたオディアール作品を愛でてきた身からすれば、今作は生真面目に代償を払いすぎたというか、北野武作品で言えば『3-4x10月』と『ソナチネ』および『HANABI』への距離に感じた正しすぎる累積にも似たような気がして、ではどちらをと聞かれればやはり『リード・マイ・リップス』や『真夜中のピアニスト』でのとろり沈澱する不埒や放恣を選んでしまうだろうなあという気がする。ほとんど出ずっぱりのタハール・ラヒムは無垢の揺らぎを弱点と武器とに使い分けて、デビュー作としてはまず尋常でない結果を残している。ニエル・アレストリュプはつい先だって『サラの鍵』で善良この上ない役柄だったものだからもしかしたら『冬の猿』的な展開になるのかと思いきや老いた手負いの狂犬を硬い拳のように演じていて、彼の重しのおかげでタハール・ラヒムの自由度が高まっていたのだろうと思う。傍役ではジョルディを演じたReda Katebが場末のウォーレン・ウォーツのようで好みの風情だった。2009年のカンヌグランプリが今になってしかも都内単館で前売り券もパンフレットもないままの公開というのは、昨今の非英語圏映画に対する逆風を象徴しているようでいろいろと複雑ではあるのだけれど、ジャック・オディアールという名前はこれからも暴力と人生の関わりを描いた名作を間違いなく生み出していく忘れがたい名前になるはずなので、ご存じの方で今まで乗り切れなかったもご存じでない方も、まずは劇場に足を運んで最新版の彼をご覧になることをお薦めする。
January 26, 2012
ダーク・フェアリー/おまえが死ぬんかいっ!

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オープニングの過去パートで、ブラックウッドがメイドの口に金テコを突っ込む時のガリゴリいう音がなかなか容赦ない上に『フリークス』のフリーダみたいな顔した不機嫌な女の子がサリーを名乗ってるもんだから、ああ、この子が最後にはあんなことになっちゃうのか、やっぱりデル・トロは大人が泣き叫んでも満足しないんだなと苦難と受難のフェティシズム炸裂の予感に身を乗り出したところが、キム(ケイティ・ホームズ)とかいう赤の他人のくせにサリーと親子にしかみえないブルドッグ顔の姉さんの小芝居がノイズでしかなくて、いやいやいや、だったらリプリーがニュートを抱きしめ続けたみたいにサリーから目を離すなよと、デル・トロが脚本に名を連ねたわりにはまったく発熱しない物語に、ああでもあれか、オリジナルでのグールが光を嫌ってたからやっぱり光が弱点だった『黒の怨』のトゥース・フェアリーと結びつけたのか、ならば子供受難にも持ち込めるし、そういえば『ロスト・アイズ』でもカメラのフラッシュが武器だったっけとデル・トロが盛ったのはそういう手っ取り早いところだけのように思えて、名義貸しみたいなプロデュースばっかりで何だか仕事が荒れてないかいと、『狂気の山脈にて』の頓挫など思うとけっこう心配してるんである。で、地下室の魔物の皆さんについて言えばオリジナルを律儀にアップデートし過ぎたことで英語を話すまっくろくろすけのようになってしまった上に、主に攻撃の対象となるのが子供のサリーということもあってやってることはグレムリンのような悪ふざけにしか見えないというか、要するにまったく怖くないのが致命的で、地下に蠢く異形の者といえばこれくらいやってもよかろうに、安心のデル・トロブランドというディフェンス重視なんだとしたら由々しいなあと思う。そう言えばガイ・ピアースは『アニマル・キングダム』に続いて“役立たずの善人”を振りまいて『プロメテウス』ではちゃんと役に立ってくれていることを祈らずにはいられない気分。奴ら相手に役立たずはいらないよ。
January 23, 2012
アニマル・キングダム/死んでみた、生きていた

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※ストーリーに若干触れているので観賞予定の方はスルー推奨
警察が用意した証人保護用の隠れ家でレッキー巡査部長(ガイ・ピアース)を相手におそらく生まれて初めて料理の真似事をするジョシュア(ジェームズ・フレッシュヴィル)は、レッキーとの気のおけないやりとりに劇中で唯一の笑顔を見せるのだけれど、肝心なのはこれがニッキーの死を知ってさほど間もないシーンだということで、既にその衝撃によって自意識を強制リブートしていたとは言え、それによって手にした感情のひだを愉しむような笑顔の違和感は、この映画の特に中盤までの得体の知れない不穏と不安定をコディ本家の面々というよりはこの17歳のジョシュアが醸していたことにも繋がっているように思う。オーヴァードーズで事切れた母親と並んでソファに座り「何をやった?」と問い質す救急隊員にこともなげに「ヘロイン」と答えながら視線はテレビのクイズ番組の結末を追っているという、ジョシュアの抱える感情の凍結をさっと描いてみせた秀逸なオープニングから始まって、まるで稀代のお子様横綱北尾のようにぶよぶよとして輪郭の定まらない虚ろな自己を貼りつけた表情でコディ本家のコンバットゾーンに呆けたように踏み入っていく様を見ていれば、ニッキーの死を経て自分の生命の危機に直面することで突如として肉体と精神の巧みなガンさばきを繰り出してみせるジョシュアにあてはまるのは成長とか通過儀礼とかいうよりも覚醒という言葉がふさわしく思えるものだから、エンディングでポープに果たした行為も復讐というよりは父殺しの一種のようにも見てとれる。この映画では徹底して父親は不在の者として描かれていて、ひとつジョシュアの不幸を嘆くとすれば疑似的な父親になりえたバズ(ジョエル・エドガートン)が早々に葬られてしまったことであって、レッキーが差し伸べた手については、既に覚醒の途に送り込まれたジョシュアにしてみれば逆手にとって利用する以外の意味がなかったのは言うまでもなく、かつて自分を亡き者にしようとしたスマーフ(ジャッキー・ウィーヴァー)を手をかけることなく抱擁したのは、父殺しを果たしたことでようやく見つけた居場所はそこがどれだけグロテスクであろうと血の絆の中にしかないことを知ると同時に、オレ(ジョシュア)はこいつ(スマーフ)がオレを殺そうとしたことを知っているし、この子(ジョシュア)はワタシ(スマーフ)がこの子を殺そうとしたことを知っているという、懐で突きつけられたナイフの向きを互いが確認する瞬間でもありつつ冒頭で為された甘噛みのような抱擁にはもう二度と戻れないのだという喪失の感傷にも満ちて、それはジョシュアにとって新たな修羅へ向かうのか、あるいは修羅がうごめく世界との訣別なのか切羽詰まった岐路に彼を一人立たせたまま幕を閉じる余韻の寄る辺なさからは、例えばケン・ローチの『スウィート・シックスティーン』にはかろうじて許されていた青春を燃やして暖をとる術すら奪われていて、まだ何も始まっていないというよりはいつの間にか始まっていつの間にか終わってしまっていた未来の残像だけが、おそらく最後となるであろう抱擁に一瞬だけ光を与えて幸福の静けさを錯覚させる点で何とも忘れがたい。こうした連続については、順撮りをしていればともかくその可能性があまりないだろうことを思うと、ジョシュアを演じたジェームズ・フレッシュヴィルが見せるスウィッチの入れ方はそれが映画の大切なポイントとなるだけに、感情を散歩させているような前半とすべての感情をアクションに直結させなければならない後半との切り返しは、監督が時折みせる省略と断絶のリズムに乗ったとは言え、17歳のデビュー作にしてはなかなか圧倒的なように思う。あえて背景に沈んでしまうよう巧みに演じたガイ・ピアース以外は知らない俳優ばかりで、そうやってバイアスを持たずに相貌と身のこなしを待ち受ける愉しみを充分に味わえたこともこの映画の魅力なのだけれど、すべてを本能に任せたコディ家の子供達を血の精神支配で束ねる母親スマーフを演じたジャッキー・ウィーヴァーと、出番は少ないものの善悪の定義を金に換える狡猾さをコディ家とは色の異なる邪悪で染めた顧問弁護士エズラ・ホワイトを演じたダン・ワイリーとのピカレスクなコンビネーションがこのナイーヴな映画のスパイスとなって旨味である。監督/脚本のデヴィッド・ミショッドは悪事そのものよりもその周辺の息づかいをじっくりと浸透させることで、これから起きるであろうことを想像させてサスペンスを醸成させる手管が秀逸だし、そういう風にじっくりと見せるカットのリズムはそこにはいないけれど作用するであろう人間を思い浮かべて紐付けしていく助けにもなって、キャラクターの関係性でグルーヴしていくこの映画の特徴的なベースラインになっている。最近で言えば犯罪一家という設定で『ザ・タウン』を、青い魂が世界を突破する物語として『ウィンターズ・ボーン』を思い浮かべるのは容易いけれど、ここにあるのは泣き言と尻込みと逡巡と言い訳につけこまれる女々しくて惨めな男たちばかりで、ジョシュアの選択にしたところでそれはまだ彼が“男”に枝分かれする前だから為し得た身投げのようなものであり、前述の作品にあったヒロイズムの自滅する美学や高潔な意志とはほど遠い体たらくなので、そういう面倒を抱えて這いずり回る自分を自覚しているワタシのような人間こそが劇中で炸裂するエア・サプライの虚無に呑まれてしまえるように思うので、まずはそうした輩が足を運ぶべきであるように思う。
January 16, 2012
果てなき路/その気になれば死ぬこともできた

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原題 "ROAD TO NOWHERE" がすべてを語ってしまっているにしても、その路上に邪険に放り出されでもしたのならともかく美味で滋養に富んだ食事を与えられた上に寝心地のいいベッドで眠ることを許され、そうやって予期せぬ歓待を受けた上で送り出されるものだから、このままどこへもたどり着けないとしてもそれもまあ良かろうなどと思ってしまったりもする。ただそれはあくまで用意された麻酔が効いた後の夢見心地と酔い心地による麻痺であって、それが効き始めるまでのとりつくしまのなさはちょっとした人でなしとも言えるほどで、それぞれのシークエンスは文句のないショットとダイアログで構成されているだけに、それがどうしてここまで手をつないでくれないのかについてはいっそ爽快なくらいなのだけれど、確実なのはある1つのショットを除いて、それがカメラの前であろうが彼方であろうがすべては実際に起きていた時間を綴っているということで、一見、混乱に拍車をかけるような一人二役の氾濫もそうやってすべてを均質にすることによって、虚実のないまぜや思わせぶりで翻弄しているつもりはないのだというアクチュアルな宣言のように思える。そうやって妄想や空想をことさら意識させずに潰していくのは、先に述べた唯一虚構であるがゆえ完璧に作用するあるカットを獲得するためで、キャノンのディスプレイに一瞬映り込む撮影クルーのそのカットを虚構と呼ぶのが適当でないとすればそれは祈りと言ってしまってもいいのだろうし、その祈りを捧げる相手こそが他ならぬ「映画」なのである。ワタシ達は終われないのに「映画」は終われるからこそその後ろ姿に恋い焦がれるのだし、カット!を叫ぶことで「映画」を終わらせることが出来る唯一の存在である監督は全能を誇示することを許されるはずなのに、終わらないこちらと終点するあちらとの端境に立った劇中の監督は、こちらからあちらを、あちらからこちらをフレームに収めることで「映画」を呼び寄せて祈りを託そうとするのだけれど、既に祈り文句(カット!)を手放してしまっている彼の捨て身とも言える干渉によって出口を閉じた「映画」はその後いつまでも“終わる”ことを続けていて、それは永遠に静止するヴェルマを飽くことなくクローズアップし続けるカメラの道筋となって冒頭の原題につながるように思われる。かつて、こちらのワタシ達のように終われない映画を撮ってしまったモンテ・ヘルマンがそれゆえ幽閉され続けてきたことは荒んだフィルモグラフィによって周知だしこの映画にも21年ぶりの新作、といった惹句が踊っているのだけれど、そうやって完成させたのがよりによって永遠に終わり続ける映画であるという、これでどうだ、終わったけど終わってないぜという復讐を圧倒的なマナーで成し遂げた執念のはずが、それにしてはやけに穏やかで落ち着き払っているからこそ底がまったく見えなくてなるほど怖ろしいと思うのである。というわけでまずは『断絶』のラストでモンテ・ヘルマンがいったい何を企んだのかそれを知った上でこちらを覗いてみると、40年の間続く冷たい激情が背中を撫でてくるのに気づかされるので、『断絶』未体験の方はそちらと併せた二本立てのつもりで劇場に向かわれるとより厄介な深みにはまれるように思う。ちなみに、同じ人間が3度撃たれて同じ飛行機が2度墜落した上でそれについては真顔で頓着しないようなプロットなので、ああしまったどこかで寝オチしたのかなどと自分を責めることなどないようにとお節介をしておく。
January 10, 2012
哀しき獣/返り討ちのブルー

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不義と不信に苛まれた男たちの血で血を洗う殲滅戦の虚しさを骨子に焼き付けたかったはずが、明らかにされる真の理由は命を賭すに値するとは到底思えないちんけでくだらない子供じみた見栄と意地がまき散らしたに過ぎず、だから面白いんじゃないかと言われればまあそうなんだけど、その“面白い”が緊張と緩和によるコメディラインによるものなのか、トラジコメディの振幅が滲ませる陰影なのかワタシは少々拾いきれなかった気がする。前者についてはミョン社長(キム・ユンソク)、後者については主人公グナム(ハ・ジョンウ)が背負って立つわけだけど、ハッキリ言ってミョン社長のターミネーター的狂犬が映画を喰いつぶしてしまったせいで、それを同じ土俵で迎え撃たなければならないグナムから掃き溜めの屈託や哀しみが吹き飛ばされてしまっていて、彼に貼りつけるつもりのメランコリーがペラッペラになって映画のチャームがすべてミョン社長に宿ってしまったのものだから、ミョン社長の昇天後に慌ててグナムにフォーカスしようとしたところで時既に遅く、グナムの嫁探しというサスペンスラインを中盤で少々撹乱し過ぎたこともあってラストのファンタジックなニヒルが映画を包み込むには至らなかったように思う。それとお馴染みの韓国警察新喜劇については、ちょっとした箸休めとしてなら苦笑いで済むところがこういう風に主人公の局面打開を助けるために使われてしまうと、今ひとつ真意を測りかねて身を乗り出せなくなってしまうのも否めない気がする。とは言えこの映画をある種のカオスに追い込んだ張本人であるミョン社長の勇姿だけ観ていても映画の元は取れてしまうわけで、なにしろ実写化された「バクネヤング」を初めて目にした気分なものだからミョン社長が出てくるとワクワクして仕方がないのである。自我に題目がない、本能と理性が分離していない、現象以外の死をイメージしていない、つまり死に意味を見出さない、死は肉体を壊せばやって来るもので魂や精神は関係ない、というか魂や精神を知らない。そんな風に自由を発露する人間がいかにチャーミングか、それを確認するためだけでもこの映画を観る意義があるし、壊れるように死んでいくその様はやはり「バクネヤング」のそれと同じく死だけが平等でフェアだという事実のとりつくしまのなさを体現していて震える。やたらと評判の良かった『チェイサー』を未見なものだからまずそちらを観ようと思っていたのが新宿で手持ちぶさたになったものだからついふらふらと観てしまって、正直いって140分かけて語るような物語ではないし、映画が暖まるにつれて全員が全員1980年までの渡瀬恒彦化していくような確信犯的でたらめを働いていたりするせいでこちらも腰が落ち着かないことこの上ないのだけれど、それを補って余りある破壊の精神を見つけて愛することは充分可能なように思えるので、特に今さら「バクネヤング」といった字面に反応してしまう奇特な方は是非劇場に足を運ぶべきだと思う。全勝どころか優勝もおぼつかない9勝6敗だけど、9勝の勝ちっぷりだけで大笑いできるはずである。
January 07, 2012
CUT/殺したいのは映画、殺されたいのも映画

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キスの代わりにパンチが降り注ぐR-18版『ニュー・シネマ・パラダイス』である。であるけれど、ここにあるのは追憶とか郷愁とかいった茶飲み話の類でないのは言うまでもなく、掴まえたのは映画と血の契約を交わした者だけに与えられる恍惚と負債が驚くべきことに手を取り合う瞬間であって、それは一切の共感を拒んで爽やかに孤独であった上にそれを祝福するカウントダウンまで用意されたものだから何か勝利をおさめたような気分になってしまうのだけれど、無音のまま続くクレジットロールがその昂奮を鎮めていくにつれ、そもそも秀二(西島秀俊)の被虐ともいえる映画への献身が兄の命を奪うきっかけとなっていることなど思い出してみれば、禊ぎと言うよりは鉄を鍛えるように打ち込まれた100発パンチはその熱狂の献身を静かな狂信へとより純度を高めて、ここで目にしたのは映画との抜き差しならないデモニッシュな契約の瞬間であったことに思い至ってようやく身震いなどするのである。ではそうやって悪魔を共犯に選んだ秀二が未来で撮る映画は何なのかと言えば、それこそがこの映画なのだろう。暗闇の中でしか生きられない映画の不自由と不健全と不完全ゆえに、無責任で突拍子もなく気のふれたふるまいで光を渇望する姿が切なくて美しいのであり、この映画はラストの、スタート!のかけ声に辿り着いたことによって、その暗闇と光を円環させるのに何だか成功しているように思うのだ。気がつくと西島秀俊が何か映画について絶叫しているか殴られているかしているのだけれど、そうした感情に相乗りして押し切ってしまうような雑なカットやフレームが目立つことのない実に端正な映画で、延々と殴られるシーンに時折インサートされる都会のビル群を捉えたカットは、曖昧に歪んでいく秀二の顔に対する直線的な切り返しとなってリズムを立て直すし、血で染まった洗面器の氷の真っ赤なヴィヴィッドや肉体の重さをきちんと感じさせるライティングや空間の配置など、得体のしれないことを描くからこそ必要となる揺るぎのない下支えが、予算の多寡とは関係ない映画の意志として品格を押し上げていたのだろう。西島秀俊はビルドアップというよりは意志の反映として余分が削がれた肉体も含め、狂気を正気に誤射する暴発がこらえきれず内部から冷静に噴出していく様を崇高にして怪物的に映し出す。そういえば、秀二がトイレに行くシーンでは後ろからカメラが追いかけて、おそらく肉体ダメージの描写として血尿でも映し出すのだろうと勝手に先読みなどしているとあっさりスルーされる始末で、この映画が届く範囲のことを考えると、ああこれはそういうしたり顔を潰していく映画でもあるのかとも思うので、まずはそういうしたり顔の身に覚えがある人間が観るべきなのかという気がしないでもない。
パンフを買うとシネマート新宿ロビーに常駐するアミール・ナデリ監督のサインと記念撮影が!(※1/5現在)
January 04, 2012
リアル・スティール/可愛い親には旅をさせろ

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アトムの思いがけない活躍によりシャドー機能の見直しとその参照するトレーナーのボクシングスキルそのものが重要視された結果、元ボクサーのトレーナーとしての需要が高まり、それによってロボットそのものよりそれをファイトさせるリングサイドのトレーナーがパイロットとして脚光を浴びることになる。ならば人間同士を闘わせても同じことではなかろうかとする極論が湧いて起きるのも当たり前で、ショーアップから原点回帰していく流れはかつてのボクサーたちにリアル・ファイトの居場所を与え、成功に酔いしれ目標を見失っていたチャーリーは己の真の姿をマックスに見せるためカムバックのリングに上がり、こうして続篇はリアル・スティール版『チャンプ』としてあこぎな涙を搾り取るのであった。というわけで頼まれもしない妄想を垂れ流したあげく言いたかったのは、キーワードはあこぎということである。王道を往く父と子による喪失と再生の物語にトランスフォーマーが開拓したロボ戦をぶちこんで一丁上がりである。とは言っても、チャーリーにしろマックスにしろ決定的な何かを喪失しているようには皆目見えない上に何しろマックスがすべての解答をあらかじめ用意しているものだからチャーリーの成長などお風呂で一人で頭を洗えるようになりました!程度のもので、それで事足りてしまう再生についてはいわずもがなである。そもそもチャーリーのボクシングに対する屈託が最後まで滲んでくれないから ”People’s Champion”という称号をチャーリーに二重写しできないままで、リッキーとの因縁がそこに絡んでくるのかと思えばその気配もないままだし、ゼウス陣営がアトムを欲しがる理由の曖昧さ(タク・マシドだけはアトムの正体を知っていた。不遇のまま世を去った父がプログラムしたOSを搭載していたのである、くらいのハッタリは要るんじゃない?)や、そして何より足りてないのは、鏡に映った自分を見て物憂げな内省のそぶりを見せるアトムのカットがまったく回収されなかったことで、まるでハーレイ・ジョエル・オスメントのような相貌を持ったロボットでしかも名前がアトムと来れば(あっちでの源氏名はアストロ・ボーイだとしても)彼の予期せぬ覚醒がドラマをシェイクするのだろうと当然思っていたところが見事なまでに罪作りな投げっぱなしには、それってどうなの?といまだ腑に落ちないままである。原作でのロボットはヒューマノイド型でその設定がオチにつながっていくのだけれど、そちらはトワイライト・ゾーンでドラマ化される際にリー・マーヴィンが起用されたのがうなずけるマシスン特有の不屈のペシミズム溢れる好篇で、マシスンはディックよりまだマシとは言えやはり脳天気な換骨奪胎の憂き目にあうことの多い作家なのでできれば原作を読まれることをお薦めする。とまあブツクサ言ってはみたものの、夜更かししてボーっとした頭で浅草寺の仲見世を人にもまれてそぞろ歩きしたあげく、場合によっては寝落ちしてもいい映画ということでこれを選んだところが瞼はつゆとも下りてこないまま過ごしてしまったわけで、そういう悔しまぎれもあった上での言いがかりなのは自分でも承知しているので、お正月ということで大目に見てもらえればと平にお願い申し上げる次第。ちなみにロボットは一番最初のアンブッシュとキングピンのロボットがボスボロットみたいで好き。あ、もう一つ思い出した。ノイジーボーイは実は致命的な欠陥を隠したまま売りつけられたってオチがあるもんだとばかり思ってたからそれも尻すぼんだ。ああ、もう一つあった。チャーリーがマックスの年齢をくり返し間違えては訊ねてたのは、いやコイツが11歳って計算合わないんだよな…っていう実はマックス実子じゃない説を横糸ではりめぐらす伏線なのかと思ってたら、何のことはないチャーリーのボンクラ描写に過ぎないことが分かってがっかりしたんだった。
December 31, 2011
サラの鍵/星の光のとどかぬほうへ

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クリスティン・スコット・トーマスを不機嫌な彼女として沈めていくものだとばかり思っていたので、寝た子を起こして寝かしつけるやり口に感心はしたものの、起こした後で刺し違えてみせた『灼熱の魂』に比べると、はなから贖罪をちらつかせた周到さがやや透けて見えたこともあって仕上げの滑らかさにやや心を砕き過ぎたように思えてしまう。若いスタッフのノンシャランをやり込めたり夫に向かって「真実に代償はついてまわるわ」と言いはなったはずのジュリア(クリスティン・スコット・トーマス)が、サラの息子ウィリアムのたった一度の拒絶で特に葛藤も描かれないまま腰くだけになってしまう点の喰い足りなさや、この物語の中で最も高みを旅しなければならなかったのが実はウィリアムであったことなどを思うと、ジュリアが維持する同心円から彼女が消えている時間の方がフィクションの踏み込みと熱量が豊かに思えてしまうし、彼女の個人的な事情をサラの切ない亡霊が掴まえる瞬間をピークにしていないものだからラストに用意された永続する魂の証が十分な余韻を持てなかったのではなかろうかとも思えてしまう。ヴェルディヴという史実の枠組みを利用してそこにフィクションの血肉をはめ込むことで時間を行き来するという構造を有効にするのであれば、ジュリアはもう一歩退いて観察者にするかより深くコミットさせて発見/代弁者にするか決定すべきだったように思う。これが原作脚色なのは承知だとしても、過去パートはサラ役の2人(少女期のメリュジーヌ・マヤンス、成長後のシャーロット・ポートレル)による運命に追い込まれた果てに窒息していく演技がえぐるように秀逸なので、例えばアメリカでのサラの事故シーンをオープニングに、父の告白を基に現代から過去に遡るウィリアムとヴェルディヴという史実を基に過去から現代を辿るジュリアが邂逅する場所をあのアパートにして、サラの鍵が過去と現代をつなぐ扉を開けて見せることでサラという女性の生涯を完成し、と同時にそれを翻弄した愚かな時代の告発を果たすという、あくまでも2人のサラを主軸にすることでよりいっそうの踏み込みと切り裂きを可能にするフィクションが観たかったなあと夢想してしまうのは、あのラストで免罪してしまうにはサラの生涯はあまりにも苛烈で残酷に過ぎたと思うからで、まあそれもこれもその免罪すら原罪で覆い尽くした先述の『灼熱の魂』を直近で観てしまってややこしいバイアスがかかっているせいであることを思えば、それらはこの映画の責任ではなくワタシの言いがかりに近いことではあるから、どちらも未見の方はなるべくこちらを先に観てからあちらを観れば気持ちはあるべきふさわしい所に収まるように思うのでご一考を。
とりあえず今日で2011年は終わりますが、何か終わりのないことが始まってしまったような年でもあるので、何だか非常に曖昧な気分です。おそらく本能としてワタシ達は明日も生きていこうとするわけですが、そういう気分が少しくたびれて憂鬱になった時に少しだけ背中を押してくれる光とか音とかアイディアを来年も見つけられたらいいなあと思っています。皆様にもそうした仲間が見つかりますように。
では皆さん、良いお年を!
December 29, 2011
2011年ワタシのベストテン/映画

「冷たい熱帯魚」
「ブルーバレンタイン/Blue Valentine」
「マイ・バック・ページ」
「復讐捜査線/Edge Of Darkness」
「ドライブアングリー3D/Drive Angry 3D」
「THE LAST CIRCUS」@ラテンビート映画祭
「さすらいの女神たち/Tournee」
「4デイズ/Unthinkable」
「ウィンターズ・ボーン/Winter's Bone」
「宇宙人ポール/Paul」
いつもどおり観た順。振り返ってみれば、年の初め頃に村田が叫んだ「オレも幸せになりた〜い」が今年の総意となったわけで、よって幸福の追求を邪魔する不届者はメル・ギブソンに牛乳アタックをくらうべきだし、そうやって意識的に手持ちの幸せのサイズや重さを再確認することになったせいか、自分を差し出すことで世界を告発するような映画に目が向くことが多かったような気がするのだけれど、いざ10本選ぶとこういうことになってしまうのが映画の不可思議なところで、あえて括るとすれば昨日の音楽篇と重なるけどもメランコリーに轢かれてしまいたいという欲求を満たしてくれていることであって、メランコリーを潰せるのはメランコリーでしかなかろうというまあそんな感じだし、そうしたコチラの心持ちのせいか映画館の暗闇が今年はことのほか優しく感じられたものだからここ数年では最も足繁く通ったのだろうなという気がしてる。とは言っても他人の吐き出した感情の照射を不特定多数と一緒に食い入るように見つめて自分のコントロールを手放すことで快感を買うっていうある意味不健全で不健康な愉しみのはずが、そこに優しさを感じだしたりするのはこちらが変質してしまったということなんだろうけれど、でもそれが好ましいのか憂慮すべきなのか正直言ってよく分からないので、今しばらくはこんな風に暗闇をあてに足を運ぶんだろうなあというそんな感じ。ああ、いよいよ加齢による瓦解なのか?
December 25, 2011
宇宙人ポール/We are not quite so alone

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こんなもんThe Only Onesのアレが流れた時点で早々に勝ったと思うに決まってるわけで、まあそれはそれとして、やはり『SUPER 8』の敗因が“ありがとう”成分の圧倒的な欠如と、その結果として宇宙人を宇宙“人”として描く必要なしとしたスカした余裕であったことがこれを観た後だと小気味いいくらいに分かる。この“ありがとう”は感謝の念とかそういうことよりも、それを言える相手と言ってくれる誰かとつながっているという手触りのようなもので、それが自分の人生には足りてないことを知っている人間がそれを切実に欲してみせる時、サイモン・ペグにしろニック・フロストにしろ、グレッグ・モットーラにしろ、彼らを信用してやまないのは、そのせいでぽっかり空いた穴についてなら僕等も馴染みがあるし、その埋め方についてもちょっといい方法があるんだけど知りたい?と笑って教えてくれるからに他ならず、この映画はそういうやわらかなアドバイスで出来上がっているものだからこちらも思わず“ありがとう”と返してしまっているのである。60年を監禁されてなおかつ生体解剖の憂き目に遭いながらも、ポールの地球最初で最後の旅はそうした“ありがとう”に彩られていて、出会った人々に新しいつながりを与えることで爽やかな孤独とでもいう自由をまき散らしながらそれぞれの自縛を解放していく。といった筋立てだけでもかなり深々と絆されてしまうところに、エクストリームでシニカルだけどジェントルなギャグが手際よく詰め込まれているものだからもう辛抱たまらんわけで、『脱出』や『激突!』くらいならともかく『ロレンツォのオイル』までネタに仕込むはしゃぎまくりと、やはり“ありがとう”を映画に託して来た御大のカメオによる悪ノリ、そしてそれらもろもろの総仕上げに登場してくるあの人の、ああ、初代ポールもこうして…というその排除が示すような香しき悪意についてもあちこちきちんと重心を残しているからこそ、それらをかいくぐったポールの“ありがとう”に思いの外わしづかみにされたわけで、正直言ってちょっとなめてましたごめんなさい。そしてその“ありがとう”はアメリカ映画とそれを生んだアメリカという国へ向けた憧憬の行き先でもあったからこそワタシもそこに邪気なくのっかっていけたのだし、この映画がそうやって既に一回りして助走をしたあとで派手に転がっていることの昂揚はアメリカ人よりもワタシたちみたいなアウトサイダー(そういえばかつてalien=外国人だったしね)の方が共有できることを思えば、アメリカの内なるアウトサイダーが撮ったアメリカ映画に夜道を照らしてもらってきたワタシたち日本人がこの映画を愛してしまうのは当然の成り行きなので、是非劇場へ行って自分の出自などを確認してくるべきである。くどいようだけれど、エイブラムスはアウトサイダーでいる必要がなかったわけでそれが『SUPER 8』の限界だったことを思えば、あそこで足りなかった成分はすべてここにある上に何しろ御大のお墨付きなので、それについてはもうゲップが出るくらいおかわりすればいいよという感謝しきりの傑作。
December 22, 2011
灼熱の魂/風とジェット機の歌を聴け

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※一応白文字にしておいたけれど、物語そのものが強すぎて映画とまったく切り離せないので、この映画に興味がある未見の方はこれを読まずにいることをお薦めします。
それを知っただけで生命が焼き切れてしまうほどの事実がこの映画の中には存在していて、実際にそれはワタシの目の前で起きたことだから事実と言ってしまっているわけで、それは奇譚のアクロバットや寓話のトートロジーをそれらが縋る一切の余地なく彼方に置いてきぼりにしてしまっている。そうして最後に用意されたワラの1本はラクダの背でも折るかのようにこちらの感情同化をへし折ってそれはもう全くぐうの音も出ないのだけれど、だからといってネガティヴ殺伐を為にしているわけでも何でもないことは、そうすることによってオープニングでカメラを睨みつけた少年が墓前で佇むエンディングに至るまでのもう一つの物語を紡ぐことになるからで、「彼」もまた無慈悲にして不可避の連鎖に引きずり回された一人であることを考えれば「彼」が手紙を受け取って以降スクリーンを支配する透明で静謐なトーンはある種の浄化のようにも思えるし、プールサイドですべてを知ったナワル・マルワンが自分の命を捧げることで3人の子供達は新たに見出だされることになり、それは「いつか必ず捜しに来るわ」というあの約束を果たすことでもあるから、見つけられた子供達はようやく家に帰ることを許されたのだろうと思う。ただこの映画は、図らずも結び目を作ってしまったことで多くの人たちの人生を閉塞させた一人の女性がその結び目をほどく最初で最後の機会と差し違える話であって、その結び目そのものの是非や彼女が示したほどき方を云々しているわけではなく、結び目の存在しない世界を夢想するよりは結び目のある世界を当たり前のこととしているワタシ達にオマエのいる世界を全身で意識しろと、宗教と民族とセックス/ジェンダーが政治に変わる瞬間を見逃すなと横っ面を張る一撃のように思えて、でもそこまでされてもまだ曖昧なワタシはせいぜいが嘆息を深呼吸にかえて息を整えるのが精一杯で、まあ逃げ道が見つからないのである。戯曲を脚色したとは言え、シノプシスだけ読めば荒唐無稽にすら思える展開をここまで隙のない映画として成立させた監督の地肩がどうやって培われたのか分からないけれど、舞台劇の名残とも言えるバストショットによるダイアローグとその密度を解放する移動のショットとの揺さぶりによって、重厚と言ってもいい物語がまったく膠着することなく通り抜ける身のこなしが身構える余裕も与えないままワタシ達をラストまで送り届けたあげく、凍りつくような円環を完成させたことで物語の真っ赤な血肉と漂白されたモンタージュの骨格がこの怪物を生んだのだろうと思う。この怪物は哀しくて物憂げでそれゆえ美しいのだけれど、自らを切り裂いて骨を血で染めようとして、そうしないと涙が流れていかないのだと自らを呪ってしまっているものだから、こちらもそういうつもりで観に行かないとたぶん怪物に喰われてしまうように思う。
December 20, 2011
ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコロル〜ゴーグル、それをしろ!

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ボロ雑巾のようになるまで走って跳んで転がって殴り殴られ落下して吹き飛ぶイーサン・ハントの、でもそこにあるのはプロフェッショナルの矜持でもなければ当然愛国の大義であるはずもなく、ではいったい何が彼のエンジンになっているのかと言えば、全てを終えた後でオレは必ず生きて還らねばならない、生きて還ってオレの人生が今日も一日幸せであったかどうかを知らねばならない、そしてやはり幸せであったことを知って小さく笑ってみせるのだという焦がれるような感情であって、それはミッションというよりは約束の熱量を持つものであったことがわかるエンディングはまさかこのシリーズで灯るとは思わなかった親密で温かいきらめきに溢れていて、この映画で終始途切れることのないフォーカスされた感情の仕込みとその収束はブラッド・バードならではの正しい者の手によるウェルメイドであったように思う。プロット自体はひねりがないわりにこの映画が不思議に右往左往する感じは、アクション原理ならばカットとカットの間に埋もれてしまうシーンをエンジンブレーキでもかけるようにスラップスティック気味に突っ込んでいるからで、ドバイのブルジュ・ハリファでイーサン・ハントがクライミングをせざるをえなくなるくだりやウィリアム・ブラント(ジェレミー・レナー)によるコメディリリーフぎりぎりの踏ん切りの悪さ、そのブラントとハントが貨車に飛び乗る際のじゃれあうようなドタバタ、そしてチームのメンバーで最初にスクリーンに登場するのがベンジー(サイモン・ペグ)であり、彼がチョイスしたディーン・マーティンが決定したムードが醸す“いっちょ騒いでやらかすぜ”宣言の真顔でふざける感覚はおそらくブラッド・バードが持ち込んだリズムに思われて、アクションそれ自体を目的にするのではなくそれもまた血肉の伴う会話の息づかいとして捉えていたのは、まずはこちらで動かしてみないと何も始まらないアニメーションに感情を託してきた監督の皮膚感覚によるものなのだろうし、役者の血の温もりそのものでアクションを温めるやり方はグリーングラスが示したアクションの極北に対する解答として成立していたようにも思う。まあそれもこれもトム・クルーズの成熟した諦めの悪さ、すなわち知恵そのものと化した肉体のスイングによるところが大きくて、ああまで賢そうに走れる役者をワタシは他に知らない。ジェレミー・レナーは腕まくりのワイシャツ姿というスクエアに押し込んでみるのもアリだと分かったし、それとこの人のサウスポーはなぜだか妙に艶っぽい気がする。サイモン・ペグは終始ドラえもんであったよ。ポーラ・パットンは特にカクテルドレス以降、いったんそう思ったら女装したロック様にしか見えなくなってまあそれはそれでかまわず愉しい。それにしても前作でのJJ、今作でのブラッド・バードの起用に加え、この監督がいつでも自前のバランスを取れるようにサイモン・ペグをサイモン・ペグのまま全面投入した決断が実は一番の勝因にも思えてやはりトム・クルーズの慧眼恐るべしといったところだし、その本人である自分をネタにどこまでスターがスターのままで映画は映画たり得るかを人体実験してみたといえるくらいのラディカルを漂わせつつ、何と恐ろしいことにその実験が成功してしまっているものだからちょっと吃驚していて、こういう映画に客がバカスカ入れば何だか幸せな気分になるので是非そうなって欲しいと思う。
December 12, 2011
クリスマスのその夜に/ウソつきは大人のはじまり

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ベント・ハーメルによるクリスマス・ストーリーにしてはR15+というレイティングが授けられていて、それはおそらくあのたった1回の交接シーンによるものだから羊の皮を被った狼とかそういう不穏な隠し球はないのだけれど、当然のようにクリスマスをワイルドカードに辻褄をあわせるような映画では全くない。けれど半径5メートルのさざ波を揺らしてきたこの監督にしては愛が国境を振り切るエピソードを映画の背骨にしていたりもして、これまでの何も起きないということが起きているといったミニマルの積み重ねによるポエジーで染めてきた筆使いからすれば、過去最多のキャラクターが歩き回る群像劇であることも加味してみると野心的と言ってもいい“お話”の成立が見られるし、かといってここぞという時の意を決した立ち止まり方を捨て去っているわけでもないから、切羽詰まったペーソスと静謐なメランコリーがお互いを思いやるように同居したことでエンディングでは我々の営みを照らす光を逃さぬようにつかまえていて、でもそれを奇蹟という一足飛びで済ませるような品のないことをこの監督がするはずもないから、ワタシ達は生と死を俎上にしたその下ごしらえを慈しめばいいわけで、観終わってからこの映画が85分しかなかったことに気がついて、その過不足のない芳醇にちょっと驚いたりもしたのである。そしてこの監督にしては民族紛争にしろイスラム教徒の移民にしろかなり直接的に描いていて、それは同時代的に本来抱いている感情なのだろうけれど、そうした他人の都合で弱者とされてしまう人々へのさりげないけれど揺るぎのない共感がホリデー・ムーヴィーらしからぬ透明度と硬度を高めていたように思う。と書いてみれば何やらやけに神々しい映画のように思えてしまうけれど、基本的にそれらすべては極めてチャーミングな泣き笑いと気まずいドタバタのうちに行われて、例えばあるシーンでのちょっとした長回しは“みなさん、これがいわゆる針のむしろというやつです”とでも言いたげな茶目っ気に溢れて、ワタシはどうしても笑いを噛み殺すことができずにちょっと吹かせていただいたよ。いやほんとに可笑しかった。
December 09, 2011
震える舌/あなたにほめられたくて
![]() | あの頃映画 松竹DVDコレクション 「震える舌」 SHOCHIKU Co.,Ltd.(SH)(D) 2011-11-23 by G-Tools |
こちらに余分でいかがわしい耐性がついてしまったせいで、世の喧伝や記憶に残っているほどのオカルトホラーという感じはさほどなく、小さな子供が酷い目に遭う描写は確かにキツイけれど、例えば『鬼畜』などに比べれば運命の残酷な不条理というよりは病状の顕れとして収まっているし、今ならいろいろな意味でアウトな描写も含めて子役に対する野村芳太郎のエクストリームな演出を愉しむだけの余裕は持てるわけである。では闘病ものというよりは看病ものと言ってもいい映画のどこにサスペンスがあったかというと、市井の人を演じていながらやたらギラついて常に一瞬即発の雰囲気を漂わせる渡瀬恒彦のマイホームパパとはほど遠い狂犬演技がそれを生んでいて、看病の重荷で疲弊して次第に粗野が剥き出しになっていくあたりのやさぐれ感は真骨頂で、絵に描いたような善人の蟹江敬三に対してさえいきなりぶん殴りそうな不穏をまき散らすものだから、一番怖いのは病気じゃなくてお前だよとやたらハラハラした。でもそうした諸々を圧倒しての再発見は主治医を演じた中野良子に尽きるわけで、そう言えばワタシにとって『野性の証明』は薬師丸ひろ子ではなく彼女に精神支配された映画だったことなど想い出し、完全に独立した精神で独り遠くを見ていて、けれどこちらを見る時は涼しく笑っているような女の人に焦がれる気持ちがそんなガキの昔から既にあったのかと今さらながら気づいたりもしたのである。どれだけ深刻な事態になろうと鈴を転がすような美しい声で患者を励まし、決して冷静を失わない言葉に思いやりをこめて狂犬渡瀬をなだめつつ、白衣の袖を小さく腕まくりした細腕はためらいなく処置を施して重篤に立ち向かう。一瞬停止した心臓を渾身の心臓マッサージで蘇生させた午前4時、病室を出て一人廊下を歩く背筋の伸びた後ろ姿はハードボイルドとしか言いようがなく、入院先の主治医が彼女であればまず間違いなく100%恋してしまうに決まっていて、そしてただ一言「大変ようございました」と美しい言葉で頭を撫でてもらいたいがためにそれはもうみっともないくらい従順な患者となって、かといって病気が治ったら退院しなければならないのだというアンビヴァレンツに苛まれ悶々として喜ぶのである。素敵じゃないか。
December 04, 2011
50/50 フィフティ・フィフティ/何しろ死ぬのは初めてなもので

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思わず腑に落ちたのがキャサリン(アナ・ケンドリック)の「親は替えられないのだからあなたが接し方を変えないと」という病気と向き合うには直接関係ない言葉だったりもして、要するにこれが闘病記と言うよりは病気をきっかけに生き方を更新する話だからこそ、あぶねえ〜死ぬかと思った…という想い出し笑いをつかまえられたわけで、不謹慎を承知で言えばそれは実体験を基に脚本を書いたウィル・レイサーが生還したからこそ可能な俯瞰なのだろうと思う。だからある種の達観によって物事を大目に見ている懐の深さが周囲に居た善かれと思いつつ少し悪しき人たちをことさら突き放していないせいで、性善の匂いがそこはかと消えないきらいはあるにしても、そうやって嫌みになりそうな空気をやんわりと吸収するアダム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)のフニャモラな茫洋と、僕は今笑っているから君たちもここで描かれていることを笑ってくれてかまわないと後押しするためのカイル(セス・ローゲン)による道化のバランスが巧妙なものだから、ワタシ達は過度な罪深さや同情によるセンチメントを背負わされることなくこのオフビートな人生のリブートを見守って自身の感情をシミュレートなどしてみればいいわけである。ただ、そうやって難病/闘病もののあからさまなクリシェを避けておきながらの、少々お膳立てが過ぎたように思えるハッピーエンドが何らかのご褒美のように映ってしまうのが気にはなっていて、監督によればこのエンディングはモニタリングの結果加えた注釈のようなものらしいから、当初はもっとオルタナティヴな余韻を持たせたエンディングだったのだろうと思う。ワタシの好みで言えばそうやって全てが善きことに収束しないやり方になるのだけれど、映画が公開されれば当然脚本家の体験を基にした実話ということが喧伝されるわけで、これもまた不謹慎を承知で言えば、ならばモデルの彼が無事生還していることと併せてハッピーエンドとした方がパッケージとして完結するよねという製作側の思惑でもあるのだろう。いずれにしろ初期エンディングはDVDに収録されるらしいので機会があれば確認してみたいと思う。それとこれも蛇足のように思えたのがカイルの部屋にあったガン患者とつきあうために〜的なHow to本の描写で、このためにカイルの道化は努力と気づかいの反映であることがバラされて善人カイルの側面描写になっているのだけれど、カイルについては悪玉のガン細胞に対する善玉の単細胞としてあくまで自然の為す采配の象徴としてのみ運命と綱引きして欲しかったので、これを作為としたのはけっこう残念だなあと思った。ジョセフ・ゴードン=レヴィットはその清潔で哀しいなで肩が『(500)日のサマー』と被ろうがどうしようが別に関係ないねという余裕の泣き笑いで、『インセプション』『メタルヘッド』と来て今作から『ダークナイトライジング』へと転がって、もう本人愉しくて仕方ないんだろうなと思う。セス・ローゲンはまあ役得ということで。アナ・ケンドリックは『マイレージ、マイライフ』でのスクウェアなイメージの一刻も早い払拭ということもあって胸チラ含め隙だらけのチャーミングを選択したのだろうけれど、ワタシは彼女を見るとその相貌にどうしてもトム・クルーズがちらついてしまうこともあって、潔癖性ならともかくいわゆる片づけられない女であることの信憑性についてはどうもしっくり来ないままだったよ。それと『トータル・リコール』が引き合いに出されるシーンについて、ワタシとしては『イグジステンズ』直結だったわけで、レディオヘッドとパール・ジャムが同居する選曲も含め、インディペンデントの楽屋オチ的ノリを避けた湯加減が良くも悪くも頃合いなので、いっそ風邪でも引くつもりで出かけるとお大事にと言って帰されるのがありがたくもお節介かなとほんのちょっとだけ聞こえないように舌打ちの真似ごとをした、気がする。ところでこういう映画を観るとまたしてもよぎってしまうけれど、こんな風な伊藤計劃氏の笑い話をほんとに読んでみたかったと思うよ。
December 02, 2011
タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密/キスより世界の秘密が好きさ

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原作詳細未読で大貫妙子の歌と犬の名前がスノーウィっていうのを知ってるくらい。タンタンが少年記者っていうのも何となく知ってたけど子供新聞の記者ってわけでもないんだよね?だから小林少年とか正太郎くんみたいにことさら子供扱いされることもなく大人と渡り合う大人子供であれば当然そこにジュブナイルの伸びしろは用意されてないわけで、本来こうした冒険はその移動が成長を連れてくるはずだけど、肝心のタンタンがそうした役回りに興味を示さないものだからこの映画ではハドック船長がその役割を担わされていて(あっさり「ぼくらは負け犬だ」と子供のイージーで投げ出すタンタンを叱咤することで自らを鼓舞し再び胸を張る)、とは言えそのハドックにコメディリリーフとしてのキャラが強調され過ぎていることと対立項としてのサッカリンに“盗人にも三分の理”的な厚みが用意されていないせいで因縁話としてのねじれが発生してこないものだから全員が全員ただの騒いでいる人たちにしか見えなくて、だから大騒ぎとしてはとても愉しいのだけれど、そうしたただの大騒ぎから血と肉の揺れる活劇にジャンプするにはどうにも物わかりが良すぎて心ならず過剰がはみ出す時の多幸感が最後まで訪れてくれないのである。確かに枷を外されたカミンスキーのやり過ぎはあちこち見もので実写ではありえないカットが縦横無尽だけれども、正直言ってもう見世物としての3DCGには食傷気味だし、何よりスピルバーグがそこから先の階段を昇らなかったのが少し期待外れだなあと思う。そう言えばものすごく昔になるけど、スピルバーグがディカプリオのタンタンを画策してるような話を聞いたような気がして『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』がその前哨戦だったのか代替品だったのかわからないけれど、そっちの方がよっぽど気持ち悪そうだから観てみたかったのにと思うよ。大人子供って言ったら何しろディカプゥ最強だし。嫌いだけど。あとあの羊皮紙?そんなに大事なもんなら手にしたらすぐポケットなりなんなりにしまえよってすごくイライラした。それだけはもう忘れないくらいイライラした。ホントに。
November 27, 2011
テイカーズ/掘った奪ったコケた

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死んでも誰も悲しまないような人たち、と言ってもそれはアウトローであるがゆえにというよりは、それだけ脇が甘けりゃ死ぬわなという呆れ顏だったりもして、まだ撃たれたら自分で救急車を呼ぶ甲斐性のあるマット・ディロンはともかくとして余所じゃいまだに坊や扱いのポール・ウォーカーがジョージ・クルーニーを気取ってる時点で明らかに人材不足なわけで、おまけにいつまでたってもオレもオレもとあちこちかぶせてくるから誰が主人公なのか全然分からないまま、じゃあ最後に生き残った人が主人公でいいよもうって思ってみればこれがまた煮え切らないというか踏ん切りが悪いというか、こういうのがほろ苦い余韻なんだと思ってるこの監督のボクはバカじゃないぞ!アピールはクライマックスにレザボア・プレイをはめ込む程度の可愛げだからまあ仕方ないにしても、せめてマット・ディロンは捜査に専念させてやれよと思わせる無駄な錯綜は『クラッシュ』や『クロッシング』への卑屈なあこがれなのかと思ったところで、ああそうかマット・ディロンの○○もいわゆるひとつのテイカーであったか、そうやってテイカーに格差社会を投影してみせたのかそりゃ気が利いてるわと、船頭多くして船山に上った脚本チームに棒読みで降参。でも『ミニミニ大作戦(The Italian Job)』を気取ったついでにミニクーパーのそれを人間に置き換えたヤマカシ的遁走は買うし、この先どこまで堕ちていくのか愉しみにすらなるヘイデン・クリステンセンの安っぽさがピカピカと金メッキのように輝いていたのでシネパトス的には合格ラインをクリアしていたようには思うよ。と点が甘くなるのもご近所で『マーガレットと素敵な何か』を観ながら終始、そんなん知らんがな…と呟き続けていたからで、端から見れば単なる記憶喪失の情緒不安定でしかないソフィー・マルソーが、ワタシはワタシをこんなに好きになれたの!だからもうワタシを好きになっていいのよ!ありがとう世界!ありがとうワタシ!とゴールする、邦画なら柴咲コウあたりが被害者意識丸出しで演じそうなセルフカウンセリング映画に見事撃沈されたものだからなおのこと三原橋の薄闇が恋しくなったのである。何とも恐ろしい映画である。
November 23, 2011
ラブ・アゲイン/愛のアはアスホールのア

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久しぶりでおきゃんなジュリアン・ムーアを楽しみに出かけてみたところが、ある意味『コンテイジョン』を凌駕するオールスターキャストそれぞれのやむにやまれぬ純情がこらえきれずに片っ端から炸裂していく時の爆風が嬉々として人生の澱を吹き飛ばしていく緩急自在の通過儀礼型コメディで、何しろスティーブ・カレル(逆襲のボンクラ)、ライアン・ゴズリング(改悛のボンクラ)、ジュリアン・ムーア(怒って泣く女)、ケヴィン・ベーコン(善良なる寝取り屋)、ジョン・キャロル・リンチ(暴走パパ)、マリサ・トメイ(元アル中シングル教師)、エマ・ストーン(ネタバレ自粛)な上に、アナリー・ティンプトン(おぼこな女子高生)とジョナ・ボボ(13歳の初恋爆弾)といった端々(と言ってもジョナ・ボボこそが爆風なのだけれど)まで含め、出番の多寡によらずすべてに生き生きとしたキャラクターが与えられていてコメディでここまで見事なアンサンブルが決まるのも珍しいなあと思わせる、拾いモノとか掘り出しモノとか言ったら申し訳ない類の傑作であったよ。前半はナンパ師ライアン・ゴズリングとダサ夫スティーブ・カレルの『ベスト・キッド』式ビフォーアフター物語で笑いを取って何となく映画の行く末を見切らせておきながら、終盤に向かう辺りでのやや反則気味とも言える爆弾投下で一瞬にして煙幕をはりつつそれがハッピーエンドの糧になるという脚本が巧妙だし、何より日なたと日陰が急変するコンビネーションのセンスで可笑しみをつかまえているから誰かがことさら自虐と被虐の犠牲になることもないまま全員が役得と思える多幸感(クリーンなケヴィン・ベーコンは現状レアだし)に包まれているのがとてもいい気分で(ほとんど台詞らしい台詞もない妹ちゃんがテレビの前で踊るシーンですら忘れがたい)、本来ワタシは自虐と被虐の過剰でドライブする笑いが好みなのだけれど、それを封印しながらの大騒ぎにはそろそろ今年の10本をどうしようかなというこの時期にして少し気持ちがザワついてしまったのである。でもそんな映画が現時点で全国10館公開(東京1館)であるという不幸に苛まれているものだから、観られる人はおのれの幸せをかみしめつつ是非劇場へ向かうべきかと。それにしても ”You Miyagied me” みたいに動詞になってるなんて(いつのまにか体得してた!の意)ここまで『カラテ・キッド』が心のアイコンになってるとは思わなかったよ。
November 21, 2011
コンテイジョン/咳が出てきた日

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拉致犯も機密漏洩者も略奪者も押し込み強盗もデマゴーグも全てはパンデミックの一部であるとして、個々を問い詰める視線を避けようとしているせいで対立から生まれるサスペンスはさほどあてに出来ず、あるとすればそれは自己犠牲の獲得や達成についてまわるものとしてなのでサスペンスそのものは小さな震えに過ぎないのだけれど、よく知った顔を惜しみなく出し入れすることで小さくても確実な震えは波紋となって最後まで途切れずにいたように思うし、この監督特有のいったん尖らせたエッジをあえて丸めた画作りによる人工的な親密感もあって、大きな話を小声で話すその語り口の心地よさそのものを愉しむ映画だと言ってしまっても良い気がする。役者というのは死に様に関しては特に気合いが入るのか、グウィネス・パルトロウの献体っぷりやケイト・ウインスレットの泣きながら歯を食いしばる孤独な献身、死の谷を殉教覚悟でジャンプしてみせたジェニファー・イーリーといったあたりはそれぞれが小さなピークになって素晴らしかったのだけれど、やはり一人掲げるとすれば残酷なまでに善の遂行を課せられたマット・デイモンその人であって、ここのところこのずんぐりむっくりもさもさ仕様で登場する時の彼は、まるで善きことが受難とも思えるような仕打ちを小さな笑みで耐え抜いて神々しくすらあり、ここでもそうした期待を裏切ることなくあたふたと絶望の銃弾をかいくぐり、最後にはその結晶ともいうべき瞬間を世界の絶望とは一切関係なく愛娘のためだけに披露してみせて、ここまで来るとソダーバーグはマット・デイモンが何でも打ち返すのが愉しくて遊んでいるとしか思えないくらいである。ただ、ジュード・ロウの役回りについてはそこにネットの功罪を一緒くたに混ぜ込んだことでその造型に少々カリカチュアが過ぎてしまい、前述した語り口のバランスとトーンが乱れてしまったのがもったいない気がした。ただ、ネットの趨勢と気分を映像化するにしても結局はこうして実体化した人間に代弁させるしかないという困難はついて回るし、だからといってシミュレーションのパネルからは外すことができるはずもないという点で苦肉の策であったのだろうとは思う。ところで、社会不安によるパニック描写として商品の買い占めシーンが連ねられる中、懐中電灯と乾電池が買い物カゴに突っ込まれるカットインがあって、ああ…と8ヶ月前のことが一瞬で蘇ったし、劇中での“レンギョウ”を“うがい薬”に置き換えてみることも容易なのだけれど、あの時を過ごした後ではそうした振る舞いを愚かなことと斬って捨てるのはもうワタシ達には無理なわけである。残念ながらワタシ達はそういうことやああいうことをしてしまう生き物なのだから賢くはなれなくても善くはあろうとすべきだしそれも難しければせめて悪しくはなるまいと背筋を伸ばさねばならず、となるとワタシ達が気に留めるべきはやはりマット・デイモンの愚直ということになのだろうし、それがソダーバーグなりの人間賛歌なのだと思えばボノの歌声からいつしか鬱陶しさも消えているような気もしたのである。残念ながら高速で走りまわる感染者は出てこないけども、この国で8ヶ月前に起きたこと、ではなく8ヶ月前から起き続けていること、とあらためて上書きしておくためにも観ておいた方がいいように思う。
November 18, 2011
恋の罪/円山町オッパイブルース

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『冷たい熱帯魚』で役者達があれだけ暴れ回りながら底が抜けなかったのは、高橋ヨシキが持ち込んだ“黒い報告書”テイストのぎらついた表面張力の奏功によっていたことがとてもよくわかる。今作に高橋ヨシキは不参加ながらも実録ものとして、ダークハーフが互いを喰いつくそうと繰り広げる血と体液の相克と、その境界に知らず踏み込んでしまうことで浸蝕されていく女刑事の地獄巡りをコンプレックスとオブセッションのエキセントリックなつるべ打ちで描く!もんだとてっきり思ってたところが、実際のところは神楽坂恵(菊池いずみ役)という女優に対して映画1本くれてやるから覚醒してみろっていうスパルタ根性ドキュメントのように思えて、あたしゃその噛ませ犬かいと本気でムカついてるように見える冨樫真(尾沢美津子役)はまだいいとしても、完全に脱ぎ損となった水野美紀(吉田和子役)に至っては言えばもっと何でもやってみせたような気がするだけに少しもったいない気がしないでもない。劇中でたびたび映し出され唱えられる詩もその字面だけ追えば、最後に堕ちていった先で愛という観念と肉体が出会う場所をダークハーフ(いずみと美津子)の融合になぞらえたのだろうけれど、2時間以上費やした挙げ句に結局はクリーナーたる婆さんがすべてかっさらってしまうというこらえ性のなさに、だったら洋館の階上には○○のミイラが!とかいうオチでも良かろうにと思ってしまったわけである。愛の居場所とセックスの関係についてもどちらかと言えば男性目線のクリシェと紋切りと代償行為で片づけていたように思うけれど、こういうのって女性はしっくりくるんだろうか。鼻で笑ったりしないんだろうか。などといささか消化不良だったこともあって、こういう愛と肉体をリブートする話となると「六月の蛇」など想い出したものだから観賞後の夜中に再見したのだけれど、やはりこうした題材にはある種の暴力的な中性感覚が必要なんじゃないかなあと思ってみればそれは塚本晋也から石井隆にもつながって、この映画に愛がのたうつ哀しさゆえの艶が発酵しなかった理由はそんなところにもあるんじゃないかという気がした。また、男連中のキャラクターが雑過ぎるのもその一因で、特にカオル(小林竜樹)のいでたちや振る舞いの記号にすらならないハズし方にかなり潮が引いたし、いずみの夫(津田寛治)にしても二面性の神経症的な描き込みが足りてないせいで終盤のドシャメシャが全然活きて来なくて、女優陣の調教で手一杯だったのか何なのか共に書割みたいにペラッペラだったけどそれが意図的なのかどうか分かりかねたのも少しばかりストレスになった。それと一つ、あそこは笑顔で小学生から「ハイ、100円ね」って取らないとダメだと思ったよ。
November 15, 2011
マネーボール/オレをバカだと褒めてくれ

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共にオレvsオレでない世界の話ではあるけれど、この映画の解法を「ソーシャル・ネットワーク」に求めるとビリー・ビーンの背骨を見誤るような気がするのは部屋に貼られたジョー・ストラマーとクラッシュのポスターによるこれみよがしのアピールが腑に落ちたからで、ビリー・ビーンのメランコリーはザッカーバーグの遁走よりはジョー・ストラマーの自爆するセンチメントを渇望しているように思えるものだから、となればビリー・ビーンが独り口ずさむのはおそらく“レベル・ワルツ”のはずで、だからこの映画のピークはアスレチックスの20連勝でも聖地(フェンウェイパーク)への凱旋でもなく、車内に溢れる愛娘ケイシーの歌が“レベル・ワルツ”をそっと上書きして、よく闘ったねとビリー・ビーンの頭を撫でていく瞬間だと思うし、思いのほか執拗にフラッシュバックされる若き日のビリー・ビーンを見るにつけこれはブラッド・ピット自身の闘争の歴史であるように思えてきて、メインストリームのハンサム野郎的なハイプに対し敢えて分の悪い闘いをねじ伏せることで落とし前をつけ、世界のコントロールを手に入れていく道程とその孤独なども滲んできたりするのである。だから魔法の数字を武器に負け犬が一発逆転を果たすといった「がんばれ!ベアーズ」ミーツ「ソーシャル・ネットワーク」などを夢想すると烈しく肩すかしをくらうのは、これがパンクの特攻精神が世界の怠惰と過去の呪縛をデストロイしていく孤独なレベル・ムーヴィーであるからで、ベネット・ミラーがとても丹念に端正に撮っているからまったく喧嘩腰ではないのだけれど、まだいろいろと落とし前をつけていない人間が観るとおかしな具合に背中を押して来る瞬間があって少々厄介な気がする。何度か耳にするブラッド・ピットの歎息がとってもいい。
November 13, 2011
インモータルズ −神々の戦い−/夢見る女じゃいられない

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オープニングのシークエンスで、テーブルサッカーゲームみたいに監禁幽閉されたタイタン族のみなさんが拘束具の間からもういい加減勘弁してよ〜と目をぱちくりさせる時のチャームでああこれは大丈夫かもしんないと少し気を許した後は、神話の常としてグダグダと他愛のない話が続いていくとしても、人間にちょっかい出していいのは私だけだと泣いたり怒ったり情緒不安定なゼウス(ルーク・エヴァンズ)の実子虐待ぶりにアテナさん乙…と同情してみたり、「ガンモ」のバニーボーイみたいな被り物ゆえどうにも憎めない怒りんぼ大王ハイペリオン(ミッキー・ローク)と胸筋腹筋バカのテセウス(ヘンリー・カヴィル)による密室対マンにはターセム意外とアクションつなげられるじゃんと思ったり、オリンポス軍団降臨時の、あ〜、今の速すぎてよくわかりませんでしたね、スローでもう1回観てみましょうかっていう圧倒的な力量差による瞬殺をハイスピード撮影で捉えた斬殺圧殺撲殺のケレンがすばらしく弾んだ上に、凶悪なタイタン族に神々がボコられて汚らしく屠られていく時の歪んだ昂奮にはうっとりしたし、蒸茹責めや強制宦官責めなどの各種拷問を始めとする人体破壊、というかこの映画の目論見はハイアートとしての人体破壊という非常にエレガントな挑戦に尽きるのでこうやって点と点でしかキャッキャできないのはある意味仕方なくて、でもお金をいただいた分は神経を障らせていただきますよという興行師の確信犯的なサービス精神は十分持ち合わせていたから、映画としての鋼線は途切れているにしても暗闇で愉悦に浸る見世物としては至極真っ当だったように思う。ちなみにこれはターセムには特に肩入れしてない人間の感触なので、この監督の好き嫌いはあまり気にすることなく飛び散る血とあふれ出す内臓と転がる首の密やかな吐息を愉しめばいいと思うし、エロの気まずさについてはバストトップすらない安心設計なのもうれしいところなので、これはアートムーヴィーだからとたらし込んでデートコースに突っ込んだあげくパートナーの思わぬ嗜好の発見など愉しんでみる野郎どもが続出することを願わずにはいられないのであったよ。

November 07, 2011
フェア・ゲーム/わたしは悪くないという呪文

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本来が実話ベースだからさほど右往左往する話ではないにしても、終盤に登場するヴァレリー・プレイム(ナオミ・ワッツ)の父親がその後ろ姿の背格好からしてあの人だろうと思っているとまさにあの人なわけで、その孤高のランドマークがサスペンスを落ち着かせたあげくの泣いたカラスがもう笑った的な夫婦喧嘩とその顛末による収束が何を今さらという安全地帯からのブッシュ政権批判と相まったこともあり、いくら贖罪めいてみてもその先にあるのは絶望的な現実であると既に知覚した『4デイズ』など見知ってしまった後では何だか感傷的で言い訳がましい映画だなあと思ってしまうのである。ポリティカル・スリラーをホーム・ドラマの緊張に重ねていくことで銃後のサスペンスはそれなりに醸成されていたように思うのだけれど、イラク人科学者たちをめぐる悲劇については政権の非道を訴えるフックとして使った後で他人事のように投げ出してしまっていて、本来であればその傷の一端を負うはずであろうジョー・ウィルソン(ショーン・ペン)の悔恨と慟哭がつねにヴァレリーにしか向かっていないことで政権というよりはアメリカそのもの身勝手さの象徴となったせいか、“あの人”登場後の失地回復に向かう夫婦の足取りにこちらはからきし士気が上がらないばかりでなく、ショーン・ペンのリベラル殉教を少し鬱陶しいとすら思ってしまったのである。だからあのイラク人女性医師については玄関口で追い返すべきではなかったし、実話から離れたとしても現在の視点で織り込める解答は示すべきだったと思うからワタシは何よりあそこで決定的に落胆したわけで、2010年に撮られた映画のメッセージとしてはあまりに無責任すぎるように感じた次第。『グリーンゾーン』もそうだったけど、あの戦争に関する、システムの前に途方に暮れて立ち尽くす善良で無力な僕たちの話には正直言って気乗りがしないので、リベラルによる徹底的に自虐的な検証が匂うもの以外は回避したい気分なのだけれど、この映画もそれが匂ったから観てみたわけだからワタシの嗅覚もからっきしってことなんだけどね。
November 04, 2011
ゴモラ/どうせそのうち死ぬんだから今死ね

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エンディング、蜂の巣にされたマルコとチーロが放り込まれたバケットを見せしめのごとく掲げるブルドーザーは、2時間15分続く映画のまだまだ序盤のシーンにおいて掠め取ったドラッグで酩酊するその2人の、チーロの後ろの方にひっそりと映り込んでいたようにも思えて、既にあの時からブルドーザーはあそこでずっと2人が屠られるのを待っていたのだとすればそのブルドーザーこそがカモッラであり、競争相手の中国人業者に仕立ての技術を講義して朝帰りするパスクワーレをうかがうように脇を通り過ぎるトラックもまたカモッラなのかもしれず、カモッラというのがそうやって人々の生活基盤へ自律的に伝染する疫病のような意志の集合体であることを考えれば、マフィアのタイプとしてそのシステムやヒエラルキーあるいはファミリー・サーガを描くよりもその感染者たちを描くに徹した方が疾病の病状をドキュメントできると監督は判断したわけで、そうしてみると惹句で引き合いに出されている「ゴッドファーザー」や「シティ・オブ・ゴッド」というよりは、現在絶賛レトロスペクティブ中のフレデリック・ワイズマンによるドキュメンタリーにどちらかというと接近しているように思う。ワイズマンが劇中において断罪を回避し続けるようにこの映画も終始徹底して視点は報告者のドライであって、死者に感傷が施されることは一切なくただただ感染者の成れの果てとして描かれるのみである。だから映画を構成する5つのエピソードの中で唯一カモッラの告発と訣別を漂わせた産業廃棄物処理のパートのみが、もともと映画が持ち合わせた骨太と相まってコスタ・ガブラスなど思わせる極めて映画的に収束するドラマとなっていて、何かしら抵抗の刻印を残さずにはいられなかった監督の意思表示なのだろうと思う。ほとんどの銃撃シーンはワンシーンで捉えられて下心のカット割りなどしていないので、前述した2作品などあらかじめ刷り込んでしまうとやや呆気なく思えるかもしれないけれど、例えばパスクワーレが乗った中国人のメルセデスをタンデムのバイクが銃撃するシーンのまさに瞬殺であるとか、ドン・チーロ急襲時の銃弾が震わす空気の衝撃、マリア銃撃カットの筆のはらいなど凝視すればするほど息が詰まってしまいそうだし、時折用いられる長回しは淡々と立ち止まらないがゆえに目をそらせず後を引いて、完全に心をへし折られたドン・チーロがふらふらと建物からさまよい出て次第に歩を早めて小走りになって逃げ去っていくシーンのあての無さは痛切で秀逸である。そしてエンドロールでマッシヴ・アタックがビートを打ち込み始めた瞬間、スクリーンいっぱいに映し出される真っ赤な“GOMORRA”の文字が連れてくる昂揚は、結局はオマエも吐いた唾に魅了されたんだよな?という嘲りのような気がしてどうにも返す言葉がないのであったよ。
November 02, 2011
ウィンターズ・ボーン/白と黒と血の夢を見た

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※核心にふれたかもしれないので観賞前スルー推奨
益体のないプライドと子供じみた血の契りと夢見がちな悪事とで、ここの男たちは出来上がっている。そしてそのいつ果てるともないお守りをしながら家族というなけなしの体裁を整え、いつもの夜を迎えいつもの朝を待つ日々をやりくりしているのは女たちである。男たちはそうした夜や朝が黙っていても転がり込んでくるのだと思っているのだろう。冗談じゃない、それはわたしたち女が必死にたぐり寄せているからやってくるのだ。ただ、それについてはもう仕方がないことなのだと放り出している、この世はどこを見渡しても女と男しかいないようだから。リー(ジェニファー・ローレンス)は17歳にして(だからというべきか)そのことに怒り、抗っている。男たちに対してであると同時に、女たちに対してもである。どちらかと言えば女たちに対してなのだろう。自分の怒りと抵抗を理解しているはずなのに丸め込もうとするからだ。目をつぶっていろと言うからだ。男どものすることだからだと言いくるめるからだ。そうやって事あるごとにリーに立ちはだかるメラブ(デイル・ディッキー)は、リーを蹴り出すことによって世界の掟から遠ざけようとしているように思える。男たちに率先してリーを殴り蹴りすることで男たちのでたらめな決着が降りかかるのを防いでいるように思える。だからこの映画のピークはメラブがリーに世界の掟を突きつける非情と、そのメラブがリーの代わりにチェインソーを振るうことで示す女たちの痛切で抜き差しならない連帯とで顕されている。この映画は役者の眼が誰も彼も尋常でない光と色を湛えているのだけれど、終始歯を食いしばったようなリーの眼つきに対峙する時の、全身で拒絶を示しながらも憐れみと哀しみを宿したメラブの眼こそが絶望の闇を一瞬だけ照らす救済の灯りであって、ラストでアシュリーがかきならしたバンジョーの音色のように一瞬でかき消えてしまうような儚さであるとはいえ、その灯りが照らした日だまりを掴まえた瞬間、リーと映画はまるで寝かしつけるように世界をねじ伏せることになる。斯様に男たちの分が圧倒的に悪い中で伯父のティアドロップ(ジョン・ホークス)だけが眠ったふりをして目を覚ましていて、中盤でリーに向かって、ジェサップ(リーの父)を殺した犯人が分かったとしてもオレには黙っていろ、面倒に巻き込まれるのはごめんだと言い放つのだけれど、ラスト直前でティアドロップは突然、ジェサップを殺した犯人をオレは知っているんだとリーに告げて去っていくわけで、となると最初の発言は言外に、お前が犯人を知ったとしたらオレはそいつを殺さなければならなくなると含みを持たせていたような気がするから、リーが彼女なりに落とし前をつけたようにオレも殺された弟の落とし前をつけるということなのだとしたらラストの日だまりがいっそう切ない温もりを感じさせるわけで、できればそうした因縁についてはこれ以上考えたくないのが正直なところではある。役者たち、特に女優陣は映画の隅から隅まで代替え不能な相貌に溢れてそれは愉しくも恐ろしいほどで、その中にあってジェニファー・ローレンスの等身と顔つきは序盤でこそ一瞬なじみが遅いのだけれど、隣家の獲物(肉)を物欲しそうにする弟ソニーに「いやしい真似をするんじゃないよ!」と厳しく言い放つシーンで、ああこの娘はこうやってギリギリの自尊心を保つことで日々綱渡りをしているのだと思った瞬間、バランスを維持した体と凛とした顔つきは因習と怠惰に浸蝕されていない証であってそのコントラストによって世界を切り裂いているのだと思って以降は終始の肩入れで、彼女以外にも前述のデイル・ディッキーに始まりゲイル役のローレンス・スイーツァーやミーガン役のケイシー・マクラレンから6歳のアシュリー・トンプソンに至るまでルックとアクションのがさついたスムースは完璧である。世評などによって既にどこかで嗅いだ匂いを『フローズン・リバー』に見つけた方もいるだろうけれど正解である。となればこの映画も傑作と言い切ってしまいたいので、もう1度観て確信するつもりでいる。
October 30, 2011
ミッション:8ミニッツ/シカゴに引っ越した男

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※ネタバレはしてないハズだけど念のため観賞前スルーで
エクストリームな意匠の向こうで疼いているのは起死回生で想いの丈を綴る感情の発火で、胸の真ん中あたりにあるはずの僕はもうそこにはなく、でもかつてそこに確かにあったのだという喪失を背負いながら、細く美しいテンションで張られたワイアーで足を傷つけてメランコリーの血を流しつつそれを渡りきってみせる物語は『月に囚われた男』との双子の相似を思わせて、この2作によって幻視するリアリストとしてのダンカン・ジョーンズが決定づけられたような気がする。前作のエピローグに記されていた身もフタもない答えは映画を観念で弄ぶことを許していなかったし、今作でも仮エンディングの清冽なファンタジーでいくらでも閉じてしまえるところをある意味下世話といってもいい落とし前を付け加えていて、それも監督のプラグマティックな体質を考えれば至極納得できる話にも思えるけれど、もしかしたら、意味合いは異なるとはいえキッス&スチル&エンドというアイディアを既にものしていた1歳違いのショーン・エリスのデビュー作など頭にちらついて、脚本にはなかったらしいその先を描き加えたのかもしれないなとほほえましく妄想などしてみるのである。ジェイク・ギレンホールは軍人と歴史教師の行き来を眉毛が下がるほどハートは上がる彼ならではのメソッドで演じて見せて、監督がしのばせた“僕の実在”が帯びる微熱を見事に放射していたように思う。で、これをやりたくても出来ないのが善人キャラ時のジム・キャリーで〜、とついでだから悪口を言っとく。コリーン・グッドウィンを演じたヴェラ・ファーミガは、ジェイク・ギレンホール以上に厄介な役どころを吐息のようなタイトで感情を詰めていて神経戦を好む監督に重宝されるのがうなずけるから、クリスティン・スコット・トーマスやオリヴィア・ウィリアムズあたりと組ませて『インテリア』のような映画で冷や汗などかかせてもらえればワタシはおそらく悶絶するはずである。撮影中の監督は今作について、“イギリスのインディペンデントとはまったく作り方が違う「ザ・ハリウッド・フィルム」だよ(笑)”と語っていたし、それに加えて他人の脚本だったこともあっていきなりのセルアウトでなければいいなあと少しだけ危惧していたのだけれど、この“ひとりぼっちの反乱”こそがダンカン・ジョーンズの映画に通底する握りこぶしなのだと確認できたのが何より喜ばしいし、少しこじつけてデヴィッド・ロバート・ジョーンズという人もそうしたアゴの上げ方で世界に対峙してきたことを思えば、なおさらダンカン・ジョーンズの描く時間が愛おしく思えてくるのである。それにしても“ソースコード”と少し英語っぽく口にした時の心地良い発語感は捨てがたく、加えて劇中でジェフリー・ライトが発音する "source code” の耳あたりも不穏で謎めいてエレガントだから、今後ダンカン・ジョーンズを語る上で必要な場合は『ソースコード』という呼称にしようと勝手に決めた次第。『月に囚われた男』くらいスマートな邦題が浮かばないのならそのままほっとけばいいと思うんだけど、基本的に観客は衆愚だっていう認識から抜けられないのなら、苦笑いできる程度でもいいからもう少しだけ愉しくこの阿呆どもを踊らせてくれよとお願いしたい。
October 26, 2011
カウボーイ&エイリアン/JC:「日本語だとモチハモチヤニマカセトケって言うんだよな、合ってる?」

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『ヒドゥン』を真ん中に据えた上で悪玉は『プレデター』的な単独犯にとどめる基本設定によって、善玉エイリアンが悪玉エイリアンを追いつめる過程でジェイク・ロネガン(ダニエル・クレイグ)とその嫁が戦いに巻き込まれ嫁は瀕死の状態となり、寄生型の善玉エイリアン(悪玉にパートナーを抹殺された♀)はこの戦いで寄生していた人間体が使用不能に損傷したためジェイク嫁に転移。現地協力者が必要な嫁スーツの善玉エイリアンは衝撃で記憶を喪失したジェイクに復讐のストーリーを吹き込み、武器を与えて味方につける。一方何らかの目的で女性ばかりをアブダクトをする悪玉エイリアンは老保安官(ハリソン・フォード)や酒場店主(サム・ロックウェル)、保安官助手(ポール・ダノ)らの嫁を連れ去り、ジェイクの復讐を知った彼らは同行を申し出て、嫁奪還に燃える男たちの追跡劇が開始されるのであった。その途上、襲撃されたインディアンの村で追撃の仲間を加えつつ、その協力で悪玉エイリアンの巣を発見、迎え撃つ悪玉エイリアンはケルベロスのようなクリーチャー犬を解き放ち、まさに『恐竜グワンジ』にあったような投げ縄とライフルによる無骨な戦いを繰り広げる最中、次第に記憶が戻りつつあるジェイクは瀕死の状態にある嫁のフラッシュバックに混乱しながらも嫁スーツの善玉エイリアンに言いようのない感情を抱いていく。果たして、すべてが終わった後で記憶の戻ったジェイクは嫁スーツの善玉エイリアンを抱けるのか?愛せるのか?刮目して待て!と妄想ジョン・カーペンター版など垂れ流したのは他に書いておくべきこともなかったからで、やはりこの監督はのんべんだらりと設定を食いつぶすだけで話を立体的に積むことができないんだなあとする必要もない確認などしてみたのである。言い出すときりがないけど、何のスイッチもなくキャラクター設定(特にハリソン)を変えたり追加設定の説明もしないとか、脚本の行間を埋めるとかいった以前の手間を惜しみすぎ。これが原作にどれだけ準拠してたのかわからないけど、いっそのことスタークの先祖でも投入して『ワイルド・ワイルド・ウエスト』的スチームパンク展開にしちゃえばまだ笑えるだけマシだったのになと思う。はっきり言ってこれと猪なら自爆する甲斐性があった分だけ猪を推すよ。
October 25, 2011
人喰猪、公民館襲撃す!/地域格差を猪首に背負って、今宵も魅せます、ひと屠り

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構造そのものはジョーズの黄金律で、猪には『オルカ』的な呪詛がキャラクターとして加えられて眼のアップで感情を示唆する辺りはもろにそんな感じな上に猪に孫娘を殺された伝説の老ハンターなども早々に登場していて、では猪とじいさんが恩讐でつながれたドラマを土着の禁忌などに絡めて重厚につかまえたりもしてるのか?と訊ねられれば、いや全然!と眼すら合わせず即答するものである。何かこう向こうの人は『グエムル』がそうだったようにモンスター相手にマジになるのは照れくさいのか何なのか緊張と緩和のメソッドが誤作動しているとしか思えず、それがトレマーズ程度のキャッキャウフフにとどまるならともかく、ちょっと目を離すと行き先知らずの悪ふざけがサービス精神を乗り越えてしまっていて、ワタシは幸いにして序盤で行われた坂滑りの天丼処理に好感を抱けたのですんなり入りこめたのだけれど、確かにある種の奇人変人ゴングショーと化している部分もある上にそのそれぞれに意味ありげな厚みを与えているものだから、これはあれか彼や彼女が『ドリームキャッチャー』のようにラストで集結するのかとちょっとだけワクワクしたりもしたのだけれど、エピローグに用意された恐るべき回収など知ってみればやはりこれは悪ふざけとしか言いようがないから誰かに烈火のごとく怒られたとしてもワタシはいっさい仲裁するつもりはない。そもそもただ猪が暴れるだけなのに上映時間120分という時点で(まあ『ジョーズ』も2時間あるけど)、いかに枝葉を刈り込んでないか容易に想像がつくというものである。猪は生活レベルの恐怖が乖離しない程度のサイズでジェヴォーダンやレイザーバックみたいなクリーチャー化もされてない点でこちらサイドについてはそれなりに正気なのだけど、人喰を名乗るわりにはゴアシーンがほとんどなくて、一番酷い画が猪とは関係ないひき逃げシーンなのも混迷の度を増すばかりかと。知らない役者ばかりの中で刑事役のパク・ヒョックォンという俳優の飄々とした感じが(サングラスしてる間は)尾美としのりみたいでワタシにとってのありがたい補助線になってくれてた。でもこういうの観ると「ファントム・ピークス」を映画化しないのがホントにもったいないと思うから、早いとこ樋口真嗣あたりに撮らしちゃいなよ。
October 23, 2011
ランゴ/オレがカメレオンだった頃、おまえはトカゲだった

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後ろの席が年少さんと思しきキッズとお父さんだったのでちょっとだけやな予感はしてたんだけど、やはり年少さんは程なくおむずかりのご様子でコツコツとこちらの座席などお蹴りになられて、ああこのままだったらちょっと言わないとダメかなあ、めんどくさいなあせっかく愉しいのにと振り向くタイミングを計ってたところがサッと潔く自主退場されたご様子で、わざわざ初日に来るくらいだから愉しみにしてたんだろうにかわいそうだなあと思ったよ、キッズじゃなくてお父さんが。これはワタシやアナタの映画なのに!動物を擬人化したCGアニメとなれば入口は広いように思うけど、これは「初めてのぼうけん」「初めてのさよなら」「初めてのウソ」「初めてのチュウ」と言ったボクが初めて世界とつながるお話ではなくて、全ての初めてを使い果たした我ら大人が、ではオレはそれについてどんな物語を紡げるんだろうと自問自答してみたところが胸がチクチクするばかりで、じゃあこの胸のチクチクを消すにはどうすればいいんだろうと悪戦苦闘する話だから、まだまだやわらかでいい匂いのする何かしか胸につまってないキッズには必要のない話だっだよね。というわけで動かしてなんぼのアニメーションなのに何かと立ち尽くすところが多い映画なのだけれど、ほとんど実写と見まがうほどの皮膚感および質量感が佇まいの説得力をじわり保持していて、まあここで言う実写というのはマペット感と言う意味に近いのだけど、アップになればなるほど骨格と肉と何よりその外装に圧倒されると同時にそれらがあくまで活劇の縦横無尽で動き回る快感はあらかじめの愉しみをちょっと超えてた気がする。それもこれもまずはキャラクターデザインの素晴らしさがあってのことで、とりあえず頭に浮かんだのはジム・ヘンソンの『恐竜家族』あたりだけど、それに加えて『ラビリンス』のようにファンシーよりは心持ちバッドテイストに振れたジム・ヘンソンの諧謔とシニカルを封じ込めたキャラクターは脇役に至るまでウィアードでヴィヴィッドでチャーミングだし、最初にランゴが闖入する酒場のまるでカンティーナ酒場のような詰め合わせ感はあちこち目移りしてワクワクだったよ。仮に冒頭のモノローグがなかったとすればその後で現れるオープンカーに乗ったあの人による夢オチという見方もあったわけで、まあそこまで丸めるのはやりすぎにしても、終盤の見せ場で登場する西部の精霊がまんまあの人(さっきのあの人とは違うあの人)であるとかいったような、そういう類の手の平で転がされる映画ではあるのでジム・ヘンソン系のパペットムーヴィーや「ミート・ザ・フィーブルズ」あたりにときめいていた方ならわりかし絆されるように思うから、CGアニメとは思わずに足を運ぶと思いのほか食いついてしまうんじゃなかろうか。西部の精霊は顔があの人なのに声が本人じゃなかったのがちょっと残念だったけど、これで心おきなく日本語吹替が観られるからもう一度観ようかなと思ってる。カメ好きには町長たまらんし。それにしてもBEANSをマメータって言い換えちゃう字幕はどうなんだろ。こういうことされるとオバンバとか思い出しちゃうからできればやめてくんないかなあと思うし、そういうのはクレジット・ロールの "ミザルー" モロパクリをロス・ロボスが演奏してるみたいなでたらめとはちょっと意味が違うから。
October 21, 2011
一命/ア・ヤング・パーソンズ・ガイド・トゥ・エビゾウ

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海老蔵が二度吐き出す“ほぉ〜ぅ”を聴く(聞くじゃなくてね)ためだけでも観るべきじゃなかろうか。開幕早々に役所広司と対峙するシーンですでに海老蔵の質(たち)が異次元すぎて一体どうすんだろと思っていたところへの最初の“ほぉ〜ぅ”である。それは実存の埒外でただひたすら澱まぬことを叩き込まれてきた人間にしか乗せられない軽みであって、ここを合図に始まる理不尽のオンパレードは、あれ?役所広司は悪くないんじゃね?とボスキャラ不在で混乱の拍車がかかり、かたや海老蔵はと言えば不幸をもたらす妖精のように関わる者みなに死の粉をふりかけつつカタストロフィのうちに死に場所を見つけ、“ただ春を待っていただけなのに”とうそぶいて自爆テロで陶然と果ててみせる勝手が最高で、よく考えてみればこの映画の中で本懐を遂げるのは唯一海老蔵だけなのである。原作からすれば海老蔵と役所広司をそっくり入れ替えると年齢設定その他パブリックイメージも含めてそれなりにしっくりとくるはずだけれど、そうすると海老蔵が醸す言外の不穏が悪役の着ぐるみに収まってしまうことで定型に堕ちてしまうのがもったいないということになる。となればここで行われたのは海老蔵を役所広司にとってのタイラー・ダーデンとすることで、昼日中から猫を抱いて鮑を喰うおのれの屈託を自覚しつつ、倦みきった太平の象徴である赤備えの破壊願望を心中にかき抱く男のファンタジーを海老蔵が体現していると妄想することで、行き当たりばったりのダブルスタンダードや海老蔵のスラップスティックともいえる浮世離れにもうなずけたりもするのである。だからこの映画の締めが海老蔵ではなく役所広司なのは当然で、赤備えを手入れしてくれたのかと問われた役所広司の返答に、何かが決定的に変質したことによる正体不明を感じて殿様が一瞬垣間見せた怪訝だけがこの映画で失われたすべての命の代償となるわけで、世情にあてはめて教訓めいたメッセージをそこに探すのも否定しないけれど、それよりは海老蔵という音と形を愛でることで心ざわめいてみた方が何かやたらと得した気分になる気がするのである。映画俳優としての海老蔵は、懐は果てなく広いわりに間口はかなり狭そうだから容易に使いこなせないとは思うけど、例えば北野監督あたりがランダ大佐みたいな役をひねり出してやれないもんかなあと思う。ちょっとワクワクするんだけど。
October 16, 2011
キャプテン・アメリカ/善人がなかなかいないのは若死にしてしまうからだ

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ミッドセンチュリーの妄想を!ただし想定内で!そう、あれよあれ、『ロケッティア』みたいのひとつよろしくと白羽の矢が立ったジョー・ジョンストンがそうした期待に思惑通り応えてみせて、アヴェンジャーズの学級委員長という厄介な役どころである意味一番危険なスクエアを抱えた男の来歴に傷など付くことのないよう匠の仕事で仕上げてさすがのアルチザンっぷりである。決して便利屋とか言わないように。本来が、まっすぐな輝きと美しい憧憬でオール・アメリカン・ボーイのスピリットを撮りたい監督だからブルワーカー使用に至るスティーヴ・ロジャース(クリス・エヴァンス)の物語などはお手のものだし、何より国威発揚に関わる生臭さを風俗の再現としてファンタジックに濾過することで取り除いてみせて、時代錯誤とも言えるプロパガンダ・マシーンに何とかアヴェンジャーズへの橋渡しが出来るくらいの説得力を与えていたように思う。ただそんな風に肝心のヒーローにどうにもケレンが足りないものだからヴィランの放埒に自由を感じてしまうのもやむない話で、潜入工作のわりにはド派手な星条旗の間抜けなシールドを背負ったキャップに対して、「ふん、オレの未来に国旗などないぜ」と言い放つレッドスカルのクールとハイドラのポストモダンを少々かっこよく描きすぎたせいもあってか、どうせこっちが勝つんだからその辺どうでもいいでしょ?とでもいうあまりにも適当な負けっぷりが映画の失速につながってしまっているのがもったいないなあとは思った。ハワード・スタークが『ロケッティア』のハワード・ヒューズまんまだったのをはじめバットモービル、ブラスターライフル、ウォーマシンといった各種意匠のイージーなはめ込みは請負仕事の気楽な開き直りのような気もするのだけれど、男の子の魂はまっすぐなままに弄ぶことを良しとしない監督の気概、例えばドーピング・マッチョと化したスティーブを力の快感に溺れさせてみたり、あるいはそのあげくバッキー・バーンズを喪わせてしまったりといったヒーローが抱える実存の憂鬱をフックにするつもりはないという決意については、そのせいでドラマが薄くなろうとも譲るつもりがなかったようで、クリス・エヴァンスが漂わせる善人の哀しみがある程度奏功したこともあって監督のファンタジーはぎりぎり持ちこたえていたようには思うけれど、善人が善人のままに生きるには何かと困難な世の中だよねえと、ワタシは善人でなくてよかったとつくづく胸をなでおろしたりもしたのである。ちなみに3Dほとんど関係ないので近くに2D環境があればそちらで是非。
October 13, 2011
探検隊スペシャル! 伝説の人喰いサンタをバトンルージュに追え!! /「レア・エクスポーツ」&「ラスト・エクソシズム」

「レア・エクスポーツ」
こちらはこちらで妖精という名のじいさんたち(たち!複数!要注意)が全裸で雪山をワラワラと走り回ることになるわけで、その掲げる旗印が猿の話とは天と地の開きがあるにして、素っ頓狂に底の抜けた話を下支えするのは自分の野心に対する尊敬の念とでもいう“勢い余った異論”の噴出であって、猿の話にひっそりと苛ついたのは“落ち着き払った正論”を滔々と説くツッコミどころのなさをドラマだと言い張る無邪気に対してだったのかとあらためて思ったりもした。ワタシたち観客がいようがいまいが正論はどうせそこにあるのだけれど、異論は他者に向かうことでようやくその存在を認められるわけで、そもそもそれこそが表現の必然なんだろうよとまたぞろ愚痴っているわけである。猿の話が少しでも揺れたとすればそれはアンディ・サーキスの凄みがそうさせたに過ぎないんだし。まあそういう斜め読みもここのところ『THE LAST CIRCUS』『4デイズ』といった“勢い余った異論”だけで出来上がったような映画を立て続けに観たせいもあって、だからこんな風に語り手が自分で笑いを噛み殺しながら差し出してくるような映画にはことさら優しい気持ちを抱いてしまうんだろう。まあ噛み殺すも何も全然笑ってないんだけど、無表情に滲む可笑しみはカウリマスキのそれ(他にフィンランドの可笑しみを知らない…)にも似て、これが彼の地のお笑い感情線なのだとしたらフィンランドの人とはけっこううまくやれそうな気さえするのである。というわけで映画の中身についてほとんど書いてないけど、要するに冒頭で述べたワラワラとした顛末に至る話であって、そこにムラムラっと来た方にはまず間違いのない映画のはずなのでHT渋谷レイトショーのみというハードルの高さに喘ぎつつ8階まで登攀されることお薦めする。

「ラスト・エクソシズム」
モキュメンタリーなんていう言葉が出回るとっくの昔からこの国は水曜スペシャルという世界に誇る置換装置を持ちあわせていて、まさにその直撃世代であるワタシからしても、撮影の対象者そのものがカメラを奪取して撮影するという禁じ手に近い暴走やある種のヒルビリーホラーとも言える極めて映画的などんでん返しなど合格点を与えるにやぶさかではない予想外の意欲作となっているし、子供の頃からため込んだ屈託を笑顔で押し殺しつつ家族のために人生を演じてきた男がそうした自分を解き放ってみせたラストでの突撃は、映画ならではの“映ってしまった”瞬間の埒外の美しさを獲得していてこれだけで既にワタシは十分である。ただもう一度言っておくけれど、ここで言うワタシとは前述の置換装置を持ちあわせている世代のワタシなので、丸腰の方がどうさばくのかその点についてはあしからずということでどうかひとつよろしく。
October 10, 2011
猿の惑星:創世記(ジェネシス)/ウソでもいいからホントのことを

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まるでピルグリム・ファーザーズが新大陸から旧大陸を一瞥するようなエンディングはオープニングとまっすぐで正しい円環となって、果たして北緯40度に近い森林とその植生でどれだけ幸せに暮らせるのかと野暮な疑問が湧いたりもするのだけれど、実際この映画の存在理由はこの後にあって、※(ネタバレ誘発につき自粛、ちなみに冒頭に書いたエンディングが終わっても絶対席を立たないように)最終的には冷戦後の世界が核戦争以外でどうすれば自滅可能なのかを描いていてそれはテクノロジー信仰へのしっぺ返しという少々使い古された自業自得なのだけれど、そもそもシーザーのブレイクスルーもテクノロジーの産物であることを考えれば「進化は、彼らを選んだ」という惹句はけっこうなミスリードであって、実際には適者生存の物語でも何でもないこと、ましてやエイプによる暴力革命では到底ないことを謳っていてそれは何だか生真面目すぎるくらいだ。ところで、こうやってスリップストリームだったものをメインストリームにブラッシュアップする時、物語の品格までも積み上げたいのか内省する個の葛藤でドライブするのが常道のようになっていて、それはライミの『スパイダーマン』辺りがとば口だったように思うのだけれど、そのブラッシュアップがCGの進化によって可能になったことを併せて考えてみる時、流麗で隙のない大嘘の映像とそれを取り繕うように仕立てられたドラマの熱量が醸す正論のとりつく島のなさを感じ続けているのは正直なところで、まあ要するにすきま風が恋しいのである。それはかつての拙さを愛でるとかいったノスタルジックな感情ではなく言ってみれば余白で揺らされる快感の問題で、今作もまた余白の揺らぎまでも(アンディ・サーキスによる肉体言語の凄みはあるとは言え)精巧で完璧なCGによる生真面目な感情によってコントロールしてしまっているように思えるから、リブートされたこのシリーズに次作があるとしても、オリジナルシリーズが発明した代理戦争としての寓話という、余白に投影するプラットフォームはおそらく成立しないように思う。例えそれが幻想だとしてもネットの直接性によって世界はどんどん剥き出しにされる一方だからそもそも寓話自体が成り立つ世の中では既にないのかもしれなくて、もしやギリアムなどの苦戦もこうしたことと関係があるのかもしれず、今になってみればバートンが2001年版でやろうとしたのはまさに寓話の再現であったように思えるから、それを強烈にダメ出しされたバートンがお伽の世界に退行した理由も何となく分かったような気がする。というわけで次作ではシーザーとコバがエリックとチャールズ(もちろんX-MENね)にも似た決裂を経て凄惨な内ゲバに転じ、”Ape shall never kill ape”を唱えるに至るを描くのに期待を込めて一票入れとく。ちなみに今回のリブートにおける設定ラインだとタイムワープなどという奇襲は通用しないように思われるけど、既に宇宙船は行方不明になってるようなのでその辺りを一体どうやってさばくんだろうか、と気になるくらいにはこのリブートを愉しんではみたわけで、あれこれ愚痴ったのもこの映画が誠実であったことの証ではあるにしても、やはりワタシは現実がより無様に転ぶ姿を観て泣いたり笑ったり怒ったりしたいから、結局のところ映画に求めるのは今回のサブタイトルに尽きるんだよねえ。
October 05, 2011
パレルモ・シューティング/ a ghost is born

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世界を規定することへの強迫観念については『アメリカ、家族のいる風景』で既に抜けたように思っていたのだけれど、三つ子の魂百までというか、それは観ているこちらもまったく同様にしても、移動する速度においてのみ世界は一瞬固定されるとする確信の物語はかつての三部作の成熟しつつも未だ聞きわけのない補完とも言えるから、四半世紀近く前からの知り合いでもない限りこれを最前線の話として捉えるのは少し厄介なような気がする。デジタル/非デジタル問答をそのまま実存の生/死に被せていくことについても、ここで語られたことだけ取り上げてみれば少々乱暴な比喩のようにも思えるけれど、ヴェンダース自身は率先してデジタルがもたらす拡張と退行に意識的に歩んで来たからこその回答を示したわけで、そう考えれば新作が3Dであることもやたらと腑に落ちたりもするのである。ただ、この映画に関してはそうしたことはともかく、とくにこのタイミングで観ることになったワタシたちにとっては(2008年製作)、はからずも或るアメリカの友人の遺書であり彼に向けた弔辞にもなり得ている点で忘れがたい作品になっていて、役柄といい自身のラストカットといい残されたワタシたちにとってはある意味幸福な符合と言ってもいい気さえする。と言ったようにすくい上げるべきあれこれは確かにある映画だけれども、今回は珍しく多用していたクローズアップのせいもあってか、ワタシは主役の相貌の薄さと最後までなかなか噛み合えず、本来がミュージシャンで職業俳優でないとはいえ、その薄さに感情の回答が滋養となって肉付けされていく役柄なだけに中盤までの薄さはある程度意図的に思えたのだけれど、特にフラヴィア(ジョヴァンナ・メッゾジョルノ)や例のアメリカの友人が刻む感情に対峙させた時、彼の重心があやふやなせいで観ているこちらが何だか浮き足立ってしまうのだ。ただ、全体としてヴェンダースが自身の執着や妄執を投影する演出においてやや淡泊になっている気がすることもあって、余計にそう思うのだろうという気もするのだけれど。お気に入りのミックステープのような挿入曲は相変わらずで、Grinderman、Bonnie Prince Billy、Iron&Wine、Calexico、Portishead、Will Oldham、Beirut、Beth Gibbonsといったあたりのややアヴァン・テイストなメンツがずらり。とりあえずサントラをクリック、と思ったらさすがに2008年作品のせいか品切れらしいのでamazon.comでと思ったらそっちも品切れのためBayにて落札。Grindermanの書き下ろし2曲が聴きたいだけだからiTunes探せば済むんだろうけど、手元にディスクがないと落ち着かない人間はこういう時にめんどくさい。
October 03, 2011
リミットレス/世界はかくもバカには冷たい

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原作の原題 ”THE DARK FIELDS”が意味していた薄暗い仄めかしから ”LIMITLESS”の昂揚へとスイッチされたように思えた予告篇を観て期待半分で出かけたのだけれど、ニール・バーガーの輝度の高い幻視力とブラッドリー・クーパーが醸す涼しげなルーズの食い合わせが思いのほか喉ごしが良くて、原作の焼き切れ方を改変したエンディングについても※(ネタバレ誘発につき自粛)考えようによってはより恐怖が増しているようにも思えるし(明日の朝目覚めた時にオレは素面に戻ってしまっているのではなかろうか?という怯えを抱えて一生過ごすわけだ)、まあそれもあのハイパーな笑顔がある種ミュータントのそれだと思えば、人生の訳知り顔から自由になった男の話としてファンタジーはしなやかに鍛えられていたのだけども。加えて、まるで『ハングオーバー』なオープニングや記憶喪失後のシークエンスなどの確信犯的なブラッドリー・クーパー転がしもやっぱりこいつは無精ひげ生えてなんぼだろうという演出の正確な把握によるもので、今回かなり引き気味とはいえデ・ニーロ(シャレでアレックス・ストリーターの例の指輪でもしといてくれれば面白かったのに)ともそれなりに渡り合っているし、そういえば『ミッドナイト・ミート・トレイン』でもそうだったように、そうありたくてもなれない自分への憐憫とその憐憫を餌に生きている自分に気づく程度には頭が回ってしまう哀しさの質で、この人は“〜くずれ”とでも言ったやさぐれ方がしっくりくるように思える。関係ないけど、今読んでるジョナサン・フランゼンの『コレクションズ』では次兄チップを完全にブラッドリー・クーパーに脳内変換してる。(もっと関係ないけど、チップの妹デニースはカット・デニングス、長兄ゲイリーはサム・ロックウェルとかいった置換がしっくりくる愉しい小説なので読み終えてしまうのがもったいない。)スクリーンに浮遊する文字列はフィンチャーのもろもろで、分身の術は最近だと『NEXT』(ケイジのあれ、言うまでもなく断然こっちがスマート)で見かけたりはしたけども、ニール・バーガーはそれら幻視と現実との馴染ませ方がとてもスムースだし超絶思考の表現についても飛び道具頼みにしていなくて、現実がしっかりと足枷になるようなウエイトを忘れていない点で鼻白むことがないのは『幻影師アイゼンハイム』同様。ところで原作はサスペンスやパラノイアのニューロティックなスピード感が支配する快作なのに、文春はどうして新装復刊しなかったんだろうなあ。
September 30, 2011
4デイズ/戦争のやぶれかた

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H(サミュエル・L・ジャクソン)のナイフ一閃以降の身の置き所のなさといったら、それゆえ傑作になったとはいえ、善悪や正義の禅問答はともかくとしてアメリカ人は「テロとの戦争」には勝てないことをここまでぶっちゃけた取りつく島のなさには正直言って泡を食った。映画のプロットとして考えればキャリー=アン・モス演じるヘレン・ブロディFBI捜査官の思想と倫理が観客側の補助線になるわけだけど、観客もろとも彼女をあっさりと噛ませ犬にして突きつけるのは、お前らはお前らが戦いの先に目指すところのお前らであるがゆえその戦いに勝つことは出来ないという絶望的な事実で、ではお前らにひとつ聞いてみるが、生命は地獄の底までも等価であるべきだという合理的かつ破壊的な認識を武器にできるか?※(ネタバレ誘発につき自粛)こいつはついさっきモールを爆破して53人殺したわけだが、それに対処する方策としてオレがこいつのカミさんを1人殺すのに何か問題があるか?放っておけば1000万人死ぬわけだが、それをくい止める方策としてこいつのガキを2人殺すのに何か問題はあるか?知らない53人より目の前の1人が大事か?どこかの1000万人より目の前のガキ2人が大事か?もっとクリアに想像しろよ、戦争は合理的でない方が負けるぜと詰め寄られてブロディはというかH以外は瓦解してしまうのだけれど(ブロディは1000万人は死んでも仕方ないと叫ぶ)、日本公開版ではその非合理の結末が完璧な冷徹で描かれているのに対し、北米版の結末が言われている通り非合理の肯定ヴァージョンなのだとしたらそれはあきらかにおためごかしの逃避であると同時に、こんな危険な脚本を十全に演じ切りながらもサイコパス扱いで貧乏クジを引かされる羽目になったサミュエル・L・ジャクソンへの侮辱ですらあるようにも思う。それくらいこの映画はギリギリのところを歩いていて、それゆえすべての息づかいが映画にへばりついているためにこれ以上はあれこれ晒してしまえないのだけれど、おそらくは映画が達成してつきつけたその切っ先ゆえに本国ではDVDスルーとなった今作を幸いにも劇場で目撃できる機会をみすみす逃すのは間抜けに近いと言い切ってしまいたいので、(微妙に寸止めしてるとはいえ)ゴア描写や貧弱な公開規模を理由にせず、歯などくいしばって即刻劇場に向かうべきである。そう言えばこの監督が映画化したブレット・イーストン・エリス「インフォーマーズ」のDVDリリースが吹っ飛んだままなのでそちらも何とかなって欲しいし、『戦争のはじめかた』『ケリー・ザ・ギャング』と、この監督の描く造反有理はもっともてはやされるべきだと思う。
September 28, 2011
さすらいの女神たち/わたしたちは泣きながら生まれてきたというブルーズ

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ジョアキム(マチュー・アマルリック)のまるでティーンエイジャーのように浮ついた体つきがまとう軽みは、人生に悔恨などない代わりに想い出もない、とうそぶくデラシネを証明するかのようで、その軽みゆえ空に舞上げられたまま地面に降り立つことができず疲れれば風の中で眠り、最後の時においてのみ地上に降りるのだ、と言えばどこかで耳にしたそのフレーズは『欲望の翼』で引用された「地獄のオルフェウス」からの更なるいただきだけれども、ここでのジョアキムは最後の時を待たずして地面に降り立ち大地のたおやかな重みに包まれて眠りにつき、なおかつ目覚めることさえ許されたあげく生きることの重たさをほぼ初めて全身で味わいその多幸感に圧倒されて泣くのである。ふらふらと舞い続けるジョアキムの重しとなったミミ(ミランダ・コルクラシュア)もまた、異国のステージで独り自分を証明するバーレスクのダンサーたちがまとわざるを得ない寄る辺のなさに喰われ始めているのだけれど、ジョアキムのメランコリーに共鳴することで互いの孤独にひそむ肌合いをいち早く感じ取り、優しく静かに彼をたぐり寄せることで自分の今いる場所を確かめていく。躁鬱で振幅する前半の端々でミミは孤絶した不穏分子として描かれているからこの映画をどこかでキックするのが彼女であることは想像がつくのだけれど、あんな風に愛や憐憫の湿度とはほど遠い透明な魂の交歓に至るところまで追いつけなかったのに加え、その転換に至る瞬間をミミに車のハンドルを握らせるというただそれだけで捉えたマチュー・アマルリックの目筋と采配にはちょっと目が眩んだし、ヨーグルトのフタを剥がしそれを舐めて窓から捨てるというアクションのみで、既にしてジョアキムが人生の助手席を堪能し始めていることまでうかがわせていてあそこは大好きなカットになった。今回は役柄からしてこうあって欲しいマチュー・アマルリック感に溢れているせいで観客が勝手に彼のナルシシズムを育ててしまう危険もあったはずだけれど、それについては口ひげを生やすというただそれだけを楯に見事に回避していて、あれがいつもの無精ひげであったらもっと軽々しく愛玩を許してしまっていたはずである。ところでこの映画の生命線とも言えるバーレスクのステージシーンは、アングルを決めたらやたらとカットで割らず押し込むように撮り続けることでライブの震えを逃すことなくダンサーの肉体そのものが存在証明となる様を捉えていて、この辺りは映画の素養とはまた異なるマチュー・アマルリックのロックンロール・フーチークー感がかなり奏功しているように思う。『カリフォルニア・ドールズ』的な大団円が用意されていればそれはそれでストレートにハッピーな幕引きになったかもしれないけれど、あの廃ホテルに流れていた真っ白に浄化された時間の夢うつつを味わったあとでは全てが蛇足のように思えるし、最後の最後にこれはオレの映画だ!と刻印する愉悦は然るべき監督の取り分だろう。何しろそれだけの旅はしてきたのである。
September 25, 2011
来季に向けて/「世界侵略:ロサンゼルス決戦」&「プリーストin 3D」

『世界侵略:ロサンゼルス決戦』
この映画に限ったことではないけれど、あの国の戦争は出前専門だったせいか、祖国を守る戦いがいまここで!とかいった本土決戦への歪んだ渇望みたいなもんがどうしても断ち切れないでいるんだろう。だから宇宙からやって来た侵略者も役回りとしてはせいぜいがヨーロッパ戦線におけるナチスといったところで、筋書きとしては鉄板の『コンバット』フォーマットである。叩き上げの暗い目をした軍曹と清潔な思想を持つエリートの少尉という組み合わせもそのままだし、だから映画が向かうのは侵略者に対する勝利というよりは軍曹が抱えるトラウマの払拭というやけにこじんまりとしたゴールになっている。したがって映画の前半はこの小隊に所属する歩兵それぞれの事情を描きわけてキャラクターを色づけしようとするのだけれど、はっきり言ってそれがあまり成功していないせいで戦場で交錯するはずのドラマが思惑ほどには見当たらなくなってしまっているし、ではその平坦を異星人との異種格闘技戦がカヴァーしているかというと、本来主眼はそちらにないものだから全てがほどほどに済まされてしまっていて、あれだけ計画的な侵攻を果たしておきながら、肝心の司令機能を分散させない、あるいはそのバックアップすら準備していないという異星人のボンヤリしたエラーによる決勝点にことさら喜んだあげく、民間人のお父さんを救えなかったことなどいつの間にか雲散霧消しているし、退却NO!とばかり俺たちは勝つまでやめない、だから負けないとかいう無茶苦茶な言い分が、それがどれだけ世の中の人に迷惑をかけてきたのかなど思いが至るはずのない無邪気な海兵隊さん達のある日のスケッチであったよ。『第9地区』は100年かかっても考えつかない国だわ、やっぱり。

『プリーストin 3D』
めんどくさいからネタバレする。プリースト(=修道会の戦士)vsヴァンパイアの戦いのはずが、なぜかヴァンパイアの親玉は本来敵であるプリーストとヴァンパイアをハイブリッドさせることで、進化したヴァンパイアとしておなじみのデイウォーカーを自ら創り出したあげくその雑種風情に自らの種族を委ねる始末で、肝心の戦いそのものも善玉プリーストとデイウォーカーたる悪玉プリーストが何かよくわからない個人的な因縁のうちに決着してしまうから、本来の敵となるはずのヴァンパイア各員に至っては単なる鉄砲玉の家畜扱いという敵としての尊厳のかけらもない悲惨さだし、それと同時にそもそも善玉プリーストは修道会の内紛からも飛び出しているわけで、ヴァンパイアは蚊帳の外にまあ何かもう勝手にやってろという内ゲバで自家中毒する話である。そうやって、だってこれやりたいんだもんと瞬間にばかり気を取られて既に起きたこととこれから起きることに対して責任をとるつもりがないのだとしたら物語はどこにも運ばれるはずなどなく87分間延々と手続きだけが繰り返されて、マギー・Qのオッパイだけが何とか現実に浸蝕してきた感じである。あ、もう一つだけ正しかったのは犬死に俳優ブラッド・ドゥーリフの見事な消し方で、それについては文句がない。それにしても“プリースト”でググるとこんな映画のオフィシャルサイトがwikiすら押しのけてトップでヒットするなど、やれることはすべてやった上で敗北を受け入れようという大SONYの、5点差をつけられた8回表にすら大矢直伝のマシンガン継投を繰り出すベイスターズにも似た往生際の悪さこそを不思議監督真弓は学ぶべきである。ちなみにあのマシンガン代走は駄々をこねているだけでレジスタンスではないことにも早く気づいていただきたい。でも西村で遊ぶのは許す、面白いから。
September 22, 2011
ザ・ウォード 監禁病棟/その女、ことさら凶暴につき

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上映前のシネパトス場内に流れていたサントラがギュ〜ギョ〜ビャンビャンするどころかやけに品の良いアンビエント風味のアコースティックだったので、ああ他人の脚本な上に自家製サントラまでも封印なのかと、らしくない端正なオープニングクレジットを眺めながらちょっと遠い目になっていたのだけれど、いざ始まってみればやはりカーペンターらしい強いところのある映画で、それは硬く握った拳の中に重心があるとでもいうか、例えばイーストウッドの映画にも通じるような気もするのだけれど、要するにそれは物語を遂行する意志を各人に(時に過剰に)背負わせることで生まれる覚悟によって語り口が密かに発熱する時のドライブ感であって、イーストウッドの場合、そこに託されているのは死生観というか命の輪郭のようなものだけれど、カーペンターの場合それは言うまでもなく疑心暗鬼である。読んで字のごとく疑いの心がゆえに暗闇に見てしまう鬼であり、カーペンターはこれまでに幾多の鬼たちをつかまえてワタシ達に晒してきたわけで、自身の筆によらないとは言え、カーペンターのそうしたエッセンスを反映させた脚本によって今作もやはり鬼をつかまえる話になってはいるけれど、少々結末で裏返すことの逆算に気を取られたためか、前半でのあちらとこちらとの越境について暴走あるいはミスリード含みでの振り回しが足りてない点で、やはりフォロワー止まりのお仕着せというそしりは免れないなあと思ってしまう。もしかしてこの脚本チームが自分たちの監督作として書いたものだったとしたらごめんなさいだけど。その分、人員は明らかに足りてないものの後半はドシャメシャな肉弾戦で暴れ回り、いつ果てるともない攻防が『ゼイリブ』のような催眠性で永遠に続いてしまえばいいのにと思わせるも、幽霊(いちおうそう呼んでおく)を物理的に破壊するという暴挙など織り交ぜたわりには滑らかとも言える着地と伝統芸的カーテンコールまで披露して思いのほか行儀良く幕を閉じる。『ドライブアングリー3D』でも思ったけれど、アンバー・ハードは特に暴力的な身のこなしに見映えがして、でもそれはアクションが切れるというよりは角度が美しいように思えて、今作でも冒頭でパトカーに押し込まれる時に波打つ下半身の抗いぶりにグッと身を乗りだし、あとはそのまま彼女だけ観ていても間違いはないくらいである。ちなみに『ゴースト・オブ・マーズ』以来10年ぶりの!と喧伝されてはいるけれど、その間にTVシリーズとは言え異形の傑作『世界の終わり』を撮っているわけで、ああした幻視がまだ脳内に蠢いてるのであれば是非それを白日の下に晒してもらいたいものだし、出来れば『世界の終わり』をセルフリメイクすることでシッチェス映画祭における血のスタンディングオベーションを映像化してくれたら、それはもうだらしないくらいに呆けて狂喜するはずで、この映画はそんな風に益体もない妄想をこの先も抱いていいのだと思わせてくれただけて何だかもうありがたいのである。というわけで素面の人には薦めないよ。
September 20, 2011
第8回ラテンビート映画祭/「MISS BALA/銃弾」

夜の浜辺で一度解放されたラウラが再び犯罪組織のリーダーであるリノの車へ戻ってきてしまうシーンは、その後で行われた警察長官への彼女のある行動を見るにつけ、ラウラなりに反逆の契機をうかがう決意を固めたからなのだろうと思っていたのだけれど、上映後に行われた質疑応答でプロデューサー氏は、ラウラは現在のメキシコという国を象徴しており、ラウラが再び舞い戻ってしまうシーンは全てが腐敗にまみれた国ではもはやどこに逃げようがないがゆえの諦めを示しているのだと話していて、ああそれほどまでに救いがない話にせざるを得ないのかと、現実を測る目盛りへの彼我の落差をあらためて重たく感じたりもした。となれば惨殺される麻薬取締官が最後につぶやく“ちくしょう”と共に、彼女の乾坤一擲の耳打ちは善なるものの抗いとして記憶はされるものの、最終的に勝どきをあげるのはリノによる狡猾で邪なヴァイタリティであって、この映画が観客に求める認識は“私たちは圧倒的に敗れている”という勧善懲悪や因果応報などといったおためごかしからは圧倒的な対極にある事実である。だからこの映画では、全てのシークエンスは必ずそのどこかにラウラが居合わせる現場によって構成されて、彼女の肩越しのショットを利用することでラウラを不運で不幸なレポーターとして仕立てているし、一部始終を晒すために多用される長回しもその意図としてはすこぶる効果的で、例えば中盤の市街戦はそれがどれだけ悲惨な描写であろうと映画としての昂奮を止められるはずのないくらい綿密で荒々しく、なかでも無慈悲に乾ききった着弾と跳弾のサウンドエフェクトは一瞬『プライベート・ライアン』がよぎるくらいに陶然とする。ちなみに映画祭のオフィシャルサイトでもパンフレットでもこの映画を紹介するに際し“着飾ることにしか興味がなかった平凡な若い女性が、事件の目撃者となったことをきっかけに、凶暴な野獣となっていく様をリアルに描く”とあって、特に“凶暴な野獣となっていく”というくだりについては、映画祭という一発勝負で客を呼び込むための惹句とはいえ、でたらめに近いとも言えるハッタリに苦笑いすらしてしまうのだけれど、確かに暴力的な描写はあちこちにあるとはいえラウラに背負わされたシビアで哀しい現実の重さからすると、例えば『そして、ひと粒のひかり』といった映画を引き合いに出して語られるべきだとも思うので、これから映画祭が開催される京都や横浜の方はそうした映画のニュアンスなどとどめた上で必要以上に腰を引くことなく臨んでもらえたらと思う。
September 18, 2011
第8回ラテンビート映画祭/「BLACK BREAD」&「THE LAST CIRCUS」

[ BLACK BREAD ]
スペイン内戦の熾烈が子供たちの生を抉った映画というと『デビルズ・バックボーン』『パンズ・ラビリンス』がまず挙げられるところで、“大人たちの嘘が、僕を悪魔にしていく。”という惹句からしてこの映画もそうした系譜に連なるのかなと思っていたのだけれど、実際のところは一切のファンタジーを排することで逃避を許さない静かに破壊的な映画で、それをイニシエーションと呼ぶにはあまりにも残酷な決意を主人公アンドレウが宿すに至ったある殺人をめぐる波紋を政治と禁忌が理想と無垢を喰い散らかしていく様と共に描いていて、その内にどこかで身をかわしてくれるだろうなどと密かに期待するこちらの逃げ腰を許さないような映画となっている。“戦争で恐ろしいのは飢えや殺されることじゃない。理想を思う心が空っぽになってしまうことなんだ”といった真摯で美しい言葉が紡がれる一方で“あんたが子宮にいる間にあんたの母親は豚に喰われてしまえば良かったんだよ!”などという絶叫が反響し、その狭間で主人公アンドレウが確信していくのは人間が抱える陽の当たらない感情の存在についてであり、ラストの余韻はどこかジョージ秋山にも通じる寄る辺のなさである。既に闇に喰われてしまっている従姉ヌリアの造型に比べると、希望の残り火として描かれる肺病病みの青年がもう少し立体的であればと思ったのだけれど、まあそれも結局は消えゆくかぼそい善を象徴していたということなんだろう。今回はプレミア上映ということで来年には一般公開される予定らしいので、ロードショー時にはあらためて観ることになりそうな気がする。

[ THE LAST CIRCUS ]
映画祭サイトのあらすじを読んだ限りでは、『モナリザ』タイプの“ボンヤリ中年、恋の大暴走”のように思えて、ベネチアで脚本賞受賞なんていう記載があるしイグレシアもいい加減メインストリームに向けて宗旨替えしたのかと思ったら、何の事はない“狂”という字を乱発しない限りは実際のあらすじなど成立しないわけで、さすがにそれについては少々気が引けた消毒済のあらすじだったのだろう。というわけで正確には“ボンヤリ気狂い中年ピエロ、恋のサーチ&デストロイ”である。真説『きちがいピエロ』である。正調『ピエロ・ル・フ』である。とは言ってもハビエルが病院を脱走するまでは、ああ、そういうことってあるよねえ程度でまだ済んでいたのだけれど(そういえばこちらも発端はスペイン内戦である、一応)、素っ裸で森の中に潜伏したハビエルがサンダ化して以降は不倶戴天の敵となったセルヒオをガイラに『サンダ対ガイラ』の死闘が繰り広げられて、それはいつの間にか『ガイラ対ガイラ』へと転がり、でも心根ではそれがどれだけ歪だろうと共にサンダであるという、言っていることがわかるだろうか、獰猛なまでに無責任でありながら同時に愛の深淵をめぐる話でもあり、ラストに至っては苦行の果てに到達した一瞬の悟りなのか、これか!人生ってヤツはこんななのか!アハハ、ふざけんなよ!アハハ、まあいいか!アハハという泣き笑いの哄笑にいつの間にか胸を打たれていることに驚愕し、これはもうロードショー公開以外はその対象にしないというマイルールをねじまげてまでも、ベスト10に突っ込まざるを得なかろうと呻吟しているわけである。これはもう横浜でもう一度観ないとだめか。あ、それとコジャック最高。
September 16, 2011
ゲット・ラウド/葛藤しろ、なければ作れとジャックは言った

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80年代のいわゆる産業ロック全盛時について毒づくシーンで、きちんと字幕に反映されてなかったけども“ゲートエコーとかリバーブとかドラム最悪だろ”みたいに言ってて、それキミ共演者(U2)にも喧嘩売ってるよねとほほえましいジャック・ホワイト、エンディングでは3人でなぜかアコギ抱えてしかもザ・バンドの「ザ・ウェエイト」をがなる始末で、しかもそのシーンでヴォーカルのキーを確認するジャック・ホワイトとジ・エッジに少しばかりあわてながら“歌えないんだ”“全然歌えないんだよ”と泣きを入れるジミー・ペイジ、目の前で「胸いっぱいの愛を」のリフを弾くジミー・ペイジの手元に身を乗り出す他2名、こういうメチャクチャいかしたバンドがいてさと事も無げにホワイト・ストライプスのネタ元(ワタシはまったくこのFlat Duo Jetsというデュオを知らなかったけれど、確かにかなり強力)を明かすジャック・ホワイト、自分のコレクション部屋で14歳の頃のアイドルレコード(リンク・レイ「ランブル」)を嬉々として引っぱり出してはしゃぐジミー・ペイジ、母校を訪ねて青春プレイバックしつつ最初のギターはエクスプローラー(!)だったんだよと目を伏せるジ・エッジ、といった風に歴代ギターヒーローによるギターサミットとかいう大仰なノリでも何でもなく、自分史が結果的にロック史に絡まっていった様を抑制の効いた語り口と的確にツボを捉えたサウンドデザインで描いていて、冷静に熱を込めた制作陣の手さばきが予想以上に心地よいドキュメントフィルム。ジミー・ペイジに関しては挿入されるフッテージのどれもこれもがグルーヴィーかつグラマラスで、そうした側面まで含めて一切を断絶させたパンクの功罪について何とはなしに想いをめぐらしたりもした。他2名に比べるとブルースの関与という点でジ・エッジはいささか傍流な気もするけれど、この人の試みは要するにジョン・マクガフの定量化なんだなと思ったらちょっとだけ親近感が湧いた。ジャック・ホワイトはと言えば80〜90年代をなかったこととすべく原理主義者の潔癖と忠誠でもって実は決して広いとはいえないストライクゾーンをぶち抜いているわけでジミー・ペイジが目をかける理由がとてもよく分かる気がするし、このフィルムを観る限りではおそらくジ・エッジはジャックの描くファミリー・トゥリーには記されていないように思える。ところでこういうフィルムはオッサンが遠い目をして酒の肴にするよりは10代のヤツが目をキラキラさせて観るべきだと思うので、学生はギターケース下げてきたら1000円でOK!とかそういう気概を大人は見せるべきだと思うんだけどな。ロックを好事家の嗜みにしたらダメだと思うよ。
September 15, 2011
監督失格/観客失格

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今夏の六本木において紙兎ロペがほぐした空気にいきなり冷や水をぶっかけていた予告篇ほどの異物感がことさら溢れていたわけでもなく、それは監督による喪の仕事としてはそれ以上でも以下でもなかったように思う。喪の仕事としてはね。ただ問題はそこじゃなくて、終盤にさしかかるあたりからごく自然に何気なく開始される遺体発見のシークエンスにおいて、そこに至るまでに繰り広げられていた、カメラとその前にキミがいれば映画になっちゃうからね、そのかわりそれは全然現実じゃないけどだって現実なんていらないし、というカメラへの信頼と愛情と信仰がもたらしていたすべての蜜月に対してカメラが突如逆襲する恐ろしい瞬間を捉えてしまっている。アシスタントが(監督ですらない)床に転がしたカメラがおかまいなしに撮り続けるフィックスのカットはそこに何者の意志も介在しないと言う点で既に映画ですらなく、この恐ろしさは思いがけず神の目を借りてのぞき込んでしまった畏怖にも近くて、それはカメラをインスタントな神の目代わりに昂揚していた不埒への天罰のようにも思える。当然この映像を再生したであろう監督はその後で映画を手放してしまったし、何より衝撃的なのは由美香ママの事後の変貌であって、おそらく由美香ママは娘はこの世の全てのカメラに殺されたと思っているのかもしれず、諦念と呪詛の入り交じる漆黒を宿してカメラに向けるその目は小さなブラックホールのようで、監督にしたところでカメラ越しでなくこの目を正視できたのかどうか怪しく思えさえする。こうした恐ろしい映画にどういう理由で東宝がここまで入れあげるのかよく分からないのだけど、これを一風変わった愛の形とその記録として転がすに際し、監督と女優の背景に関する小骨は周到に取り除いてあるから喉に刺さったりということはないように思うけれど、それにしてはどう丸め込めば喪失と再生の物語として受け流すことが可能なのか見当がつかずにいるので、今のところ誰にも薦めないでいる。逆に最初からエクストリームな気分の方には、『食人族』や『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のラストが正真正銘半径3メートルのリアルであったヴァージョンを想定してもらえればと思う。ちなみに例のシーンで由美香さんは映されないので(前半に意味深なデスマスク調のカットがあってドキッとはした)、そこに腰の引けてた方はご安心を。まあその分だけ業があちこちに深々と飛び散ってしまってはいるんだけど。
September 11, 2011
ゴーストライター/名無しさん@ググレカス

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この魚、皮がうまいんだよねえといった場合、ワタシとしては俎上の魚を褒めているのか貶しているのかよくわからないわけで、何だかまあそんな風な映画であった気がするにしても、やたら芝居がかった音楽を台詞代わりに最初の死体に至る無言のオープニングからワンカットで人が死ぬエレガントを余韻だけで捉えたエンディングに至るまで、皮に関してはさすがに美味しい。じゃあ、身は不味いの?という話になれば、ポランスキーはオブセッションであるとか恐怖症(フォビア)であるとかを今そこにあるものとして描き切ってきたからこそその名前を聞くと胸がざわつくわけで、この映画についてもポリティカルサスペンスの意匠を借りながら、ゴーストライターの更なるゴースト化、要するに浸蝕され裏返り途方に暮れるアイデンティティクライシスの物語なのかと勝手に思い込んでいただけに、次第に前任者の鋳型に嵌められていく恐怖が決して十全とは言えないサスペンスのフックでしかないことに少々落胆したのが正直なところだし、想定されるこの映画のメイン客層からすれば特に疑問もないのだろうけれど、やはりああいうGoogle無双および、例えばそれを逆手にとってミスリードを誘う手段にするならともかく、本来ならそこに多大な労力とサスペンスを生んだであろう追求の結果をあらかじめ用意されたリンクのクリックで済ませてしまう無邪気なディープスロート化は、どちらかと言えばオールドウェイヴな足取りの物語から謎解きのコクを奪ってしまうように思う。とは言えゴーストと呼ばれてきた男が実体化して何者かになり得た瞬間を捉えたラストのシークエンスには駆け上る緊張と命がけの洒脱が溢れて見事だし、いったんサスペスのくびきを離れたところでは、人生に背を向けたその影を照らす鈍色の光が終始均一にひっそりと降り注いで、明けない夜の夢のような催眠性に弛緩する喜びは確かにある。2週続けてのオリヴィア・ウィリアムズは、彼女の屈託そのものが実は映画の回答となる影の主役とも言える扱いに正面から応えてみせて、ポランスキーらしいアンサンブルの交錯をユアン・マクレガーとの間に紡いでの好演。ところで、USBメモリがマウントされた瞬間のアラートと防壁作動はすごく面白かったのに何であんなオチにしたんだろう。原稿そのものの物理的な威力の発動ということにしておけばもっとハッタリが効いたのになあともったいなく思った。でも、突然の雨に使用人が被っていた帽子をやむをえず被らざるを得なくなったユアンが、被る前に一度その匂いを嗅いでみるところなどそういう神経の障らせ方はいちいち的確だし、映画全体がポランスキー自身のメランコリーな愚痴ともとれないこともないので『戦場のピアニスト』や『オリバー・ツイスト』よりは90年代エクストリーム(『赤い航路』『死と処女』『ナインスゲート』)に手を挙げてしまうような方はさらり耽溺を。
September 08, 2011
ときめきに死す/沢田研二 スーパースター・ジュリー@銀座シネパトス
初期北野映画の既視感はやっぱりこれだったなあと再確認。ブルートーンや省略と突発のミニマルはともかく、緩慢に死地へと向かう共同生活は『3-4x10月』『ソナチネ』のプロトタイプにも思える。3人が最初に食事するシーンで遠景に見える屋上の格闘がずっと気になってて何か脈絡を見落としてたのかと思って確認したけども、これは例の裏焼きと同様に不穏/不安定を煽るノイズだったんだろうとようやく納得。食事のシーンで食器や咀嚼の音を強調するのは『家族ゲーム』と一緒で、その他にも衣擦れとか言った生活音のレベルがせり出してくるサウンドデザインもある種の神経の障り方をしてちょっと唸ったし、沢田研二の肉体がソリッドじゃないだけに茫洋として得体がしれないのも記憶とマッチしてる。相対する杉浦直樹の下世話には映画の湿度が下がりすぎないよう蹴りを入れるあえてオールドウェイヴな煽りが効いてて演技も演出も冴えてるなあと思ったけど、逆に樋口可南子はこんなに薄っぺらかったかなあというほどで一番80年代につかまっちゃってる感じ。教団の建物はやっぱり中央大だった。東京に住んでるとこうやって時々でも観る機会に恵まれるけど、やっぱり観たい時に観られるようできるだけ早いDVDの再発を切望してるので、是非とも突然やる気を出した松竹さんに続いていただきたい。で、松竹さんはとりあえず『海燕ジョーの奇跡』と『われに撃つ用意あり』もお願い。
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![]() | あの頃映画 松竹DVDコレクション「この子の七つのお祝いに」 SHOCHIKU Co.,Ltd.(SH)(D) 2011-11-23 by G-Tools |
September 04, 2011
ハンナ/ NO MUSIC, NO KISS, NO BATTLE, NO LIFE

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私はハンナ。16歳。ドイツのライプチヒに住んでて学校で一番仲がいいのはルディとクララ。文学とスポーツ、中でもテニスと陸上が好き。トルーディっていう犬を飼ってるの。得意なのは外国語と近接白兵戦と射撃。今じゃパパにも負けないわ。そんな彼女がこの秋、ベルリンで鮮烈デビュー!というわけでハンナのPVとしてはほとんど完璧である。というのも劇中においてアイザック(トム・ホランダー)が「悪魔は細部に宿る("The Devil is in the Details ")」と言ってのけてこれはケミカル・ブラザーズによるトラックタイトルにもなっているのだけれど(口笛のあれ)、問題はいつも細部から生じるのだとするこの言い回しの意味を意図的に違えてみれば、細部から悪魔を追い出してしまっている、あるいは細部に悪魔を獲得できなかった点でハンナのPV(=お伽話)としての機能をはみ出すつもりがないように思えるからである。それは例えばセクシュアリティについて、山小屋でエリック(エリック・バナ)が百科事典のシロナガスクジラの項をハンナに読んできかせているシーンで“雄の精巣”を言いよどむエリックにハンナはニヤッとしてみせたりするものだから、この父娘はこの隔絶された世界でもどのようにしてか第二次性徴をクリアしたのだろうと思ってみるのだけれど、そのかなり後のおぼこ描写でセックスのあれこれについては素通りしているだろうことが判明して、ならばいっそハンナ(シアーシャ・ローナン)のスキニーな体型を利用してその第二次性徴の未達という推測など与えてみれば、出生の秘密による成長特性への付加データとなって面白かったようにも思うし、また、一度スイッチが入ってしまえば現場処理能力が冷徹で合理的な最短距離で発揮される証として例えばコンテナ戦で乱入したソフィーを楯に突破を計るとかいった、要するにあずみ的展開の快楽など欲したところでセクシュアリティ同様にノイズ扱いされてしまうのだろうし、そうした分別くささによって青春の殺人者としてのデモニッシュはかなり意図的に排除されていたように思える。そしてそれはあらかじめ復讐の十字架を背負わされたヒロインとしてのハンナを演出するために彼女を包囲する物語をツイストしていない点にも明らかで、考えてみればエリックがハンナに叩き込んだ各種スキルはハンナが生きのびるためというよりはマリッサ(ケイト・ブランシェット)抹殺のためのそれであって、マリッサ抹殺のあかつきにはハンナの矛先をどう収めるつもりだったのかを考えればそこに漂うのはエリックの狂信化した私怨でしかないようにも思えるから、ある時点でマリッサとエリックの正邪をスイッチして実はマリッサが振りかざすハンナ奪回の一念は潜在的母性のなせる業であったなどとしてみれば少々センチメンタルであるにしても物語の厚みは増していたかもしれないけれど、そうした時にハンナに与えられる庇護される子供としての無力感は、やはりクールなトランスアクションとしての『ハンナ』を失速させるノイズになってしまうということなんだろう。と書き連ねればワタシがこの映画を愉しまなかったように映るかもしれないけれど、上記もろもろの神経を使って小骨を取り除いたこともあってシアーシャ・ローナンを愛でるにあたっては文句なしである。箱乗りジョーカーを一瞬想起させるタンデムシーンはともかく、ケミカルのビートと追いつ追われつする疾走シーンですらリリカルが溢れているし、どれだけ突き放しても乾ききれないジョー・ライトの体質とも相まって彼女の異物感が支配するシーンの緊張はシャープで気高くて妖しくすらある。オリヴィア・ウィリアムズはかつてキャリー・マリガンを導いたような役割を果たすのかと思いきや割と余白のない役だったのが残念。でも車中でのボウイの合唱は良かったな。あともう少し細部についてだけれども、都市ゲリラとしての作法(民家への押し込み方やネットカフェでの情報収集など)については前半部でシミュレーションの断片くらいは忍ばせておいてもらえた方が実践の危うさをサスペンスに変えられたようにも思える。あまりに無双すぎると絆されなくなっちゃうし、その辺のさじ加減への審美眼についちゃこの国は鬱陶しいくらいにうるさいからね。
August 30, 2011
残暑見舞い三題/「インシディアス」&「ピラニア3D」&「七つまでは神のうち」

『インシディアス』
ゴーストストーリーを撮るにあたってパロディやメタ、ジャンルミックスを極力排除するとしたらどのようなホラーマナーを成立できるかという点で、かなり愛すべき着地になったように思う。オーソドックスな家憑きホラーを思わせる導入パートでは主に夜間の神経戦が繰り広げられ、次に引っ越した先では白昼堂々猛然とアタックが行われてこの現象が家憑きではない理由が解明される。ここでのいくぶんトシオ@呪怨を思わせたりもする直接性は怖さの質という点でいえばやや実効性を薄めていくのだけれど、最終パートでの戯画化された異界に先導するシフトチェンジとしてはとてもスマートなやり口に思えるし、特にタイニー・ティムの「チューリップ畑でお散歩」にあわせて黒くて小さいヤツが踊るシーンのモンドなファンタジーにはちょっとやられた。ネタバレになるので異界については触れないけれど、悪夢世界としての『恐怖の足跡』や『センチネル』の結界突破を想起させるセンスとイメージは大変に好みだし、スプラッタを封印した怖さの探究のうちに辿り着いた先がこうしたクラシックである点、ワンとワネルのコンビ(はっきり言ってパラアク組が何をしたのかわからんけど)にはサム・ライミ的王道を歩んでもらいたいなあとなお期待してしまう。それと、ちょっとしたサプライズがあるのでクレジットロールは最後まで観ること。日曜日の六本木は小さめのスクリーンということもあってけっこうな客入りで、叫び声というよりはうめき声がところどころ漏れていたよ。

『ピラニア3D』
正し過ぎる!これ正解!100点!快楽の一点張り!映画は覗き見だ。暗闇の共犯だ。やはりアジャはやる男だ。でもって確信した。『ジャッカス3D』『ドライブアングリー3D』と観てきて確信した。3Dは映画のネクストステージじゃなくてエクスプロイテーション専用機だ。バカのカタパルトだ。飛び出すバカ。ああキャメロン残念。キミは奥行きに埋もれて愚痴をこぼしてればいいよ。バートンアリスの100倍は誠実な映画。

『七つまでは神のうち』
冒頭から現実味が曖昧なままいくつかのエピソードがうつむき加減に進んで行って、ただその現実味というのはお話のリアリティという意味ではなく物語における現実の軸足をどこに置けばいいのか不安定なままだということで、最終的にはその不安定の理由=ネタバレということになるのだけれど、その境界線が切れ切れになっている感じを捉まえられるかどうか、あるいはサスペンスホラーという見かけ上フーダニットとホワイダニットを手探りに進んだ場合、その切れ切れがプロットの失敗に映らないかという点でけっこうなギャンブルを仕掛けたなあという感じ。ただ、そうした野心の遂行にしてはところどころで腰が高い気がしたものだから膝を打つところまではいかなかったかなあ。あとこれに限ったことではないけれど、劇中で子供が描いた絵として提示される絵が、子供が描いたように大人が描いた絵にしか見えないのがとても萎える。さすがにそのあたり『インシディアス』はぬかりがなかったけども。
August 29, 2011
あしたのパスタはアルデンテ/自由を一粒あなたに会いに

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例えば『キンキーブーツ』のような、やったらできた型オフビートOJTコメディと高をくくっていると(ワタシだ)、これが通りいっぺんの人生賛歌というよりは人生を決意した者への賛歌であるにおいて、思いもよらない奥底までそっと撫で回されたあげく陶然と裏返され、いつのまにか無防備といってもいいあけすけで映画を抱きしめてしまっているのにちょっと驚いたりもする。邦題の確信犯的ミスリードもまあ仕方なかろうと思えるのは、物騒で突拍子もない原題 “Mine Vaganti=浮遊機雷(要するに触ると危ないヤツ)”のせいもあって、これは一族内で爆弾呼ばわりされているおばあちゃんのことなのだけれど、となれば実はこの映画、影の主役となっているのはこのおばあちゃんなのである。冒頭のピストルを持った花嫁(若かりし日のおばあちゃん)が銃声と共に失った想いによってその後の人生はおばあちゃんにとってのサイドストーリーに過ぎなくなり、ここに登場する息子、娘、孫たちはある意味その諦めの中に存在しているとはいえ、おばあちゃんはおばあちゃんなりの誠実で一族と会社を切り盛りしてひっそりと消えていくつもりでいたところが、2人の孫の人生への造反ともいえる行動が引き金となることで、最後の最後でおばあちゃんはその爆弾の本領を発揮して優雅で密やかにビタースウィートな自爆をしてみせるのである。ただ、そうした泣き笑いによる雨降って地固まる程度の収束で済ませなかったのがこの映画を抱きしめる理由でもあって、自爆した欠片の一片一片が秘め続けた想いの煌めきを反射してキラキラと輝きだすグランドフィナーレが連れてくる多幸感は、そうした終着をまったくあてにしていなかったこともあって少しばかり唖然と鷲づかみされ、そしてなおたたみかけるようにクレジットロールの入口でスプリット気味に描かれるのは若かりし日のおばあちゃんが(おそらくは)自身の決定的な喪失の場面に向かって疾走する場面で、ほとんど絶望を抱えながら走る彼女は哀しいくらいに美しくて、もうこのあたりではいいかげんダメを押されてグラグラである。とこうして書いてみると何か神経症的なコメディのように映ってしまうかもしれないけれど、お祖母ちゃんの物語はあくまで映画の通奏底音であって、それに乗っかっているのはゲイ騒動をフックにした陽性でウェルメイドなオフビートコメディで、それだけにシリアスと手を取り合って着地する大団円が説教くさくなることなく深々と刺さるのである。そうした中、かつてのおばあちゃんがそうだったように自由と世界の隙間で涙をふくアルバはおばあちゃんの物語を敢えて引き継いだかのようでもあり、すべてを丸く収めないそうした傷の残し方すらも愛おしく思える。観ている間はあれだけニヤニヤクスクスさせておきながら、それと同じくらい手触りとして残るのは切なさであるというのはコメディとして極めて優秀な証しだし、冒頭でワタシが述べたようなバイアスで敬遠しているとかなりもったいないことになるように思う。それにシネスイッチ銀座だと予告篇で『さすらいの女神たち』まで観られて既にマチュー・アマルリックが鼻血が出るくらいにうっひょーとチャーミングだし、これだけでも得した気分になるので是非。
August 24, 2011
ツリー・オブ・ライフ/Heaven Up Here

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ジャックが「ごめんな、お前は弟なのに」と小さな天啓を発露するシーンに至って恐竜Aが恐竜Bの頭を踏み抜くのを思いとどまったシーンが、ああっ!と頭に浮かび、神は恐竜にすら慈悲の階段を昇る足元を照らしてらしたのかと腑に落ちる以前に、まったくもうそこまでやるのか!と驚嘆したわけだけど、彼らの絶滅についてはわりとすんなりお見過ごしになられていて、まあ太古の昔からこの世は苦難に満ちているわけである。とはいえオブライエン家が格闘していたのがエディプス・コンプレックスをピューリタニズムでこじらせた苦難であることを思えば、それは主にアングロサクソン系固有種の問題であるにしても、父殺しの魅惑と誘惑で荒野を彷徨う流血する父性こそがアメリカの原罪であると言い切ってみる時、このマクロ/ミクロコスモスの参照図は北米限定ということで普遍からは外れるけれどそれなりに納得できるところではあるし、思っていたほど補助線としての宗教が目障りでなかったのは母親がその母性によって神の意志を代弁していたからで、ラストで天使たちによって天上に召されていく母の姿にそれは明らかである。としてみれば一応の道筋はつくにしても、卑近なところでは冒頭で触れた劇中のシークエンスにもかかわらず現在のジャックが19歳で死んだR.L.に対して抱き続ける割り切れなさの正体が今ひとつ判然としないことや、音楽家を目指した父親の夢想の挫折と実利主義への転換にその反動からくる屈折が今ひとつ重層的でなく紋切り型に過ぎる事、そして何より象徴としての母親を頼りすぎたことで実はジャックも父親も自身では何も答えを提出していないように見えてしまう点で、それは要するに困った時の神頼みということだよねと意地悪くケツをまくれてしまうのが、これだけの道具立てをした割には胸に風穴が開いた気が少しもしない理由なんだろうと思う。それと一つ、あそこで水中に漂うのがマスカレードマスクじゃなくてシュミーズであったならば、パルムドールは獲れなかったかもしれないけれどワタシは土下座したんだけどね。それともう一つ、これを3Dで撮ってれば『アバター』とは全く別の出発点になった気がするんだけどなと真剣に思う。当然パルムドールじゃなくてラジー賞だろうけど。
August 19, 2011
モールス/小さな恋のダークナイト

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さほど期待してなかったこともあるから期待以上の出来だったというのは容易いのだけれど、こうしたエクストリームなジャンルのアメリカ映画には珍しく、記号化に抗って境界線に立ち続けた点において特に期待以上だったということで、スウェーデン版から北米版への翻訳ということでいえばそれを逐語訳で図ったことの善し悪しがついて回るのは仕方がないところかなと思う。例えば『ぼくのエリ』で舞台立てとなった集合住宅に圧縮されていたコミュニティの憂鬱は、最近で言えばデンマーク映画『光のほうへ』とも通底する北欧型高福祉国家特有の空気である気もして、『ぼくのエリ』ではその鬱血をエリが切り裂くことでオスカーは足を踏み出せたのだけれども、そうした空気の醸成がアメリカにおいては難しいことに気づいたマット・リーヴスが軸足をコミュニティから少年と少女の邂逅にシフトしたのは賢明だろうと思う。ただ、そうやってコミュニティの血中濃度を薄めたことでアビーを追いつめる役割が別途必要になり、ここではイライアス・コティーズ演じる刑事がその役を担うのだけれど、彼がこの憂鬱に参加している理由が今ひとつ判然としないこともあって醸されるのが並のサスペンスにとどまってしまっているのが惜しい気がする。そもそもアメリカ映画に登場するコミュニティとしての集合住宅というと、例えば『フリーダムランド』や最近では『陰謀の代償 N.Y.コンフィデンシャル』であるとかいった破綻した社会計画の象徴としての低所得者用団地のイメージが強いものだから、ここで描かれた郊外型コンドミニアムが舞台としては今ひとつしっくりこないという理由もあるかもしれず、オーウェンに覗きなどさせて近接の不穏など色づけてはいるけれど、ならばいっそのこと前述したような荒廃する団地を舞台に置き換えてしまった方がアメリカの憂鬱を込められた気はするにしても、そうなるとマット・リーヴスがこだわったヴィジュアルの逐語訳が達成出来なくなってしまうということなんだろう。クロエ・モレッツという刷り込みに加えてアビーを女の子として成立させるという設定のアレンジが人外の妙味を薄めたせいか、オーウェンとの逃避行もファンタジーとしての綺麗事のうちにすんなり収まってしまっていたけれど、これについてはエリという装置を手に入れてトランクに“閉じこめた”オスカーの危うい万能感すら滲ませた『ぼくのエリ』が放った異形の心中をやはり推したいと思う。とは言っても『ぼくのエリ』を未見な方はおそらく初見の昂奮を味わえるだろうし、既に観てしまった方は確認作業としてもそれなりに愉しめるはずで、特にリチャード・ジェンキンスが演じた父親(『ぼくのエリ』でいうホーカン)周辺の描き方はシリアルキラーとしての息づかいやカークラッシュのシーンなど特に逐語訳を外れた部分が素晴らしくサスペンスフルでそこに限っただけでもマット・リーヴスの手腕は冴え渡っているし、となればなおさら逐語訳でないエリを観てみたかったなあと思ってしまったりもするのだ。
August 16, 2011
真夏の夜のケイジ祭り/「デビルクエスト」&「ドライブアングリー3D」

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ニコラス・ケイジとロン・パールマンによる中世コスプレ・バディムーヴィーというただそれだけで十分ざわつくではないか。ワタシはざわついたので観に行って2人をアシェラッドとビョルン(@「ヴィンランド・サガ」)になぞらえたりしては、それなりにざわついて帰ってきたので非常に満足である。とは言っても、冒頭で絞首刑の死体をがっつり映したりペストの罹病及び死体描写に特段の執着を感じさせたりと、レイティングなんか気にしないでダークに踏み込むぜ!という気概は買うにしても、余計なことはしでかさないかわりに必要なこともやらないことが多々あるねというセナ節がそれなりに炸裂した結果、ファンタジー映画としてはやけにコンパクトな95分のうちに大団円と相なって当然のごとくすべてにおいてぺらぺらに薄っぺらい。結末なんてたかが知れてるわけだから(既に邦題でネタバレしてるし)えぐみを実らせるとすれば道中で繰り広げられる善悪の心理戦にしかないのだけれど、何しろ旅の仲間の背景描写がほとんど為されてないこともあって神経の障り方に全くフックが効いてないのが致命的で、ああやってわざわざ前フリしたんだから詐欺師ハガマーは一度は逃亡してみせないとダメだろうとか、カイにしても何らかの因縁くらい用意してやらないと成長譚としてのラストが腰高のままだろうとか、あと10分くらい話を太らせるだけでだいぶ手触りが違うとは思うんだけど、まあそこはそれ、ケイジ・ムーヴィーの成分濃度はそのヘアスタイルで判別できることを頭に入れておけば、こうしてヅラの装着がナチュラルであればあるほど堅気な映画であるに違いないのだから、後ろ指さしてネタを転がそうと躍起になるこちらがいやらしいのである。ならばそうした向きにおあつらえのケイジ・ムーヴィーが用意されているわけで↓

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ニコラス・ケイジにおいては1)ファミリーパフォーマー 2)エクストリームパフォーマー 3)アクターと大きく3つのキャリアに分類できるわけで、結論から言えばこの映画は 2)エクストリームパフォーマーとしてのケイジの希少な成功例かつ代表作となる傑作である。まあどこからどう見ても頭の悪そうなタイトルな上にダメ押しで3Dまで冠されて、こんな70年代東宝東和またはジョイパックフィルム的グラインドハウス感がケイジマニア以外どういう客と親和するのか皆目見当もつかないまま一体どうするつもりなんだろうと心にもない危惧と大事故への期待を抱きつつ、日没後に1日1回人目を憚るように上映される日劇2に足を運んでみれば、どうするつもりも何も「アバター」以来何か映画の未来的な切り口で語られる3Dを、いやいやいやいや3Dなんて所詮こけおどしでしょ、何真面目な顔して語っちゃってんのププッと、でたらめを徹底的に助長するツールとしての3Dが重力の恩恵あるものすべてスクリーンから飛び出すべしとけしかけて、それに応えた血と銃弾と爆風がエグゾーストノイズと共に客席へ降り注ぐと同時に、カーマニアを集めた役者陣が現場でヴィンテージのマッスルカーを見て血流が渦巻いたのか、ケイジを始め片っ端からこのでたらめに加勢すべく殺って殺られてまた殺ってのバトルロイヤルアンサンブルを奏でていて、こうした“わかってる”監督と役者の化学反応に、出会いって大切だよねと思わずしみじみしてしまったりもするのだ。あのシーンがたまらんとか悶絶したとか未見の方の興をそぐようなことはしないけれど、The Raveonettesの ” You Want the Candy “ が流れるシーンでケイジのあまりに壮絶な底の抜け具合がハイアートに転換する瞬間と ” That's The Way (I Like It) “ が流れる中を監査役(ウィリアム・フォクトナー)が登場するシーンの絶妙なハズレっぷりは珠玉なので、この2曲が流れ出したら刮目していただきたい。アンバー・ハードはさすがカーペンターが新作で主役に抜擢するだけのことはある胆力をみせつけて相手構わずまあよく殴る殴る。ウィリアム・フォクトナーは「ダークナイト」の冒頭でジョーカーにショットガンをぶっ放していたクールっぷりは相変わらずながら、ポーカーフェイスが次第にオフビートに転じる様はクリストファー・ウォーケンの系譜に連なって大変に好みである。話の設定自体はこの3人さえ揃えばいくらでも続きが可能だから是非とも続篇を製作するべきだし、なぜなら製作して大失敗してそこでようやく完結するのが正しい運命に思えて仕方ないからで、その折りには深々と嬉しげにため息を漏らさせていただきたい。それはそれとして、シネパトスで鍛えた嗅覚を実らせた日活と東宝のちょっとした太っ腹のおかげで大変に幸福な気持ちにさせてもらったし、こればかりはスクリーンで観ないとまったくこれっぽっちも意味のない映画なので、格好の暑気払いとして足を運ばれてみるのはいかがだろうか。ケイジマニアでなくてもいろいろと思いの外なところのある映画だと思うよ。
August 10, 2011
エッセンシャル・キリング/もう森へなんか行かない

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下手くそなプレイヤーが操るスーパーマリオのように、ムハンマド(ヴィンセント・ギャロ)は極寒の河に落ち倒木の下敷きになりトラバサミを踏み抜きながら、虚ろと言うよりは何も映さない空っぽの目をして歩き続けるのだけれど、それはどこかロマンティックな自由への逃走であるとか政治的な遁走であるとかいうことではおよそなく、ただひたすら迷子として放り出されているだけで、それがどれくらい放り出されているかというと「アンナと過ごした4日間」のラストでやらかしたド〜〜ン!を83分に渉って増幅したと言えばこの映画の徹底した寄る辺のなさが伝わるだろうか。そしてワタシ達はムハンマドがどれだけ生死を賭けて奮闘しようと二度と家に帰れないであろうことを既に知っている以上、この道行きに定型の救済など用意されているはずもなく、お仕着せを着せられて裸馬に乗せられたムハンマドがまるで精霊流しのように送り出されるに至っては、マーガレット(エマニュエル・セニエ)による罪のない善意がまるでブラックに転化していく様に思わずこみあげてきたのは疼くような笑いだったわけで、本質とはかくも滑稽で無様なものであり、我々はそれを隠蔽するために社会や制度といったすべてのシステムをまとっているのであって、私が行っているのはそのスカートめくりのようなものであるというイエジー・スコリモフスキによる異能の確信が凄まじく凝縮された厳酷苛烈な映画である。ところで疼くような笑いと言えば、本質を剥き出されある意味素っ裸になったムハンマドが釣り人や林道で出会った女性へ行う行為は、仮に動物相手であれば(餌を横取りしたり、乳を搾ったり)サヴァイヴァルのスキルとして描かれるところを、着衣の人間相手にしでかしたことで生じるその悪趣味な断絶に哀しみゆえの可笑しさを塗した説得力が愉しくて仕方ない上に、この期に及んでヴィンセント・ギャロを愛玩的に可愛いと思う映画に出会った衝撃もあって、ついフラフラと2回観てしまったりもしたよ。
※もう少しいろいろ書く気でいたんだけど、何しろ「ナッシュビル」を観て頭がトロトロに煮えてしまったのでこれで精一杯。ソフト化の前哨としての公開ならありがたいけど、こんなキチガイ沙汰をスクリーンで観る機会自体おそらく二度とないはずなので、もう一度は観ないと心穏やかに眠れやしないな。
August 07, 2011
復讐捜査線/目を瞑り地獄を夢見ろ

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かつてこれほど哀切と戦慄がこめられた牛乳のぶっかけシーンがあっただろうか。牛乳をぶっかける必要がこれまでにどれだけあったのかはともかくとして、少なくともワタシの映画史では既に燦然と輝き出しているし、これが観たくて新宿ミラノで2回目を居残ったくらいである。そして今、このシーンで下げることのできる溜飲を世界で一番持ち合わせているのが我々日本人であることを思えば、少なくともこの映画は東北を絨毯爆撃のように巡回すべきである。とまずは一通り吠えておかねばならない映画であるのと同時に狂犬のカムバックとしてもファンタジックに仕上がっていて、何より敵の姿が見え始め攻勢に転じて以降のプレッシャーの与え方に漂う狂気は、それはもうマッド・マックス以来連綿と続く“相手が悪かった…”と敵に嘆かせるメル・ギブソン節の真髄であって、ここではそれが文字通り捨て身で為されることでカタルシスの醸成が面白いように進んだあげく、前述のミルク責めでとめどもなく決壊するわけである。ただ、この映画が優秀なのはそうしたトム・クレイブン(メル・ギブソン)の暴走を愛でる余裕を可能にする強度を物語が備えているからで、マーティン・キャンベルが脚本と共に沈んでしまうことの多い監督であることを考えると、その辺りはウィリアム・モナハンがキャラクターの造型やプロットの縦糸と横糸に辣腕をふるったように思える。なかでもレイ・ウィンストン演じるジェドバーグとの関係には、人生への対処について善悪と立場を超えたところで邂逅したことによる密やかな共犯関係を色づけし、フレンチ・ノワールで垣間見えるホモ・ソーシャルの香りすら漂わせたきめ細かな湿度が心地良い。ただ、親子鷹ともいえるエマ(ボヤナ・ノヴァコヴィッチ)との関係に、母親の不在が一切描かれないことの不穏とファザーコンプレックスを一層しのばせてみることで、次第に浮かび上がる彼女の実像に鉛の重さを与えることも出来たのではなかろうかと、中盤が陰謀論の構築に追われてしまったのが少々もったいないような気がしないでもない。とは言っても、ショッカー演出に近いアクションの炸裂と幻覚とも言える執拗なフラッシュバックによる昂奮をジェドバーグが彷徨う暗闇の足枷によって鎮静したバランスによってハッピーエンドともいえる幻想を可能にしたわけで、この余韻はおそらく怒り肩な邦題からは及びもつかないはずのものだから、メル・ギブソンの復活を喜ぶにしろ、前述した溜飲を下げるにしろ、是非とも劇場に足を運ばれることをお薦めする。ちなみにワタシはこれを新宿ミラノ1のスクリーンで観賞する僥倖に恵まれたのだけれど、近い将来コマ劇場跡にシネコンが出来た時に、新宿ミラノが現在のような曖昧で愛すべき編成のままどこまで生き残れるのか非常に気をもんでいる。封切り館として、ビジネスというより興行の気分を残す最後の牙城なもんだから。
July 25, 2011
夏休み特選午後のロードショー〜ムカデ人間&モンスターズ/地球外生命体

『ムカデ人間』
おそらくは万人が抱くと思われる、どうせムカデ人間だから…、でもムカデ人間なんだろ?という諦めと嘲りによる“どうせ”と“でも”を禁句にして完成させたのであろう、我々は今まさにムカデ人間を生み出している!という己の野心に対する尊敬の念のみがただひたすらに届いてくる傑作である。切り離してばかりの人生を送ってきた男がつなげ始めることによって人生に逆襲していく映画である。人間の価値は尊厳の獲得とその発揮であることを関西弁で教えてくれる映画である。異国の人里離れた邸宅で口と尻に死体を縫合されたまま独りぼっちで取り残されるという、人間の想像力の限界を超えた絶望と虚無のつづれ織りである。ワタシなら静かに発狂する。もう助かりたいとも思わない。助かったところで口と尻にはでかい穴が抉られてしまっているし、さらに見ず知らずの日本人のウンコまで喰ってしまったとあれば、そこまでトンチンカンに苛酷な運命を与えた世の中に自分の居場所などあるはずがないばかりか、復讐に命の火を燃やそうにも仇はこの世にいないのである。初めて目にする素晴らしい瀬戸際ではないか。ところでロウバジェットでエクストリームな映画における拙さの愛玩はまったく観客の寛容によるものだから、最初から拙さを愛でてもらうことをあてにしたような映画はまったく好きではないのだけれど、そうした点でもこの映画は清々しいくらいに自立していて一切の甘えがなく、ミニマルで抑制の効いたカットのたたみ込みと不穏で生々しい色調のコントロールによる品格に、こんなはずじゃなかったと呻く客が多発するはずである。よって一刻も早く呻かれることをお薦めする。それにしてもこのマッド・サイエンティストは一から十までチャーミングすぎて、冒頭の野グソ狩りからワタシの心は常にあなたと共にあったよ。

『モンスターズ/地球外生命体』
そういうことってあるよね、と思わず象さんのポットまで引っぱりだすラストの衝撃は、実はあとからじわじわとやってきて、眼前で2体のクトゥルフが交歓する様を目撃した人間が、その想像を超えた多幸感でオーヴァーロードしたあげく深層心理が一気に剥き出しにされる瞬間は一歩間違えばギャグになる寸前で見事に収束し、天啓とはまさにああいうことかと膝を打つことになる。というわけであんな風にダブルでご本尊を拝めただけでも大満足なのだけれど、そのクトゥルフ詣での旅に描き込まれた不穏の醸成、それは何かかなりよくないことが起きているという感覚の覚醒と、だがそれはここでは起きないだろうという鈍麻のコンビネーションに揺らされる気怠い快感につながって、異邦人カップルの廃墟巡りがなぜここまで蠱惑的に映るのか、サマンサ(ホイットニー・エイブル)ならずとも、帰りたくないっ…とつぶやきたくもなる。近くの対象に対してはVFXを極力控えるというルールの徹底は、おそらく手練れのVFXマンらしいギャレス・エドワーズが体得したリアルの作法なのだろうし、そのおかげでフィクションの線引きが非常に重心の低いところで維持されて、例えばガスマスクというアイテムだけで相応のサスペンスを生み出して見事だったと思う。果たしてリスタートする「GODZILLA」でもこうした戦法が通用するのか、何より今度は「GODZILLA」そのものを見せないわけにはいかないのだけれど、この映画を観る限り、たとえば平成ガメラで樋口真嗣が行った“路地の向こうに見える怪獣”という視点など持ち込んでくれそうな気もするから、どうせならポスト怪獣映画としてのエクスペリメンタルをやり尽くしてくれればいいと密かに期待することに決めた。
July 23, 2011
サンザシの樹の下で/somewhere beyond love

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“セックスのつながりさえ無ければ、本当はきっとうまく行くにちがいない。ずっと調子よく空想なんか必要なく、空想よりもっといい所で暮らせるのさ”というのは清志郎の記した名フレーズの一つだけれど、この“もっといい所”を掴まえていたとも言えるチャン・イーモウの新作は、サスペンスフルといってもいい感情の敷きつめ方と神経症的な織り目の精緻によって、例えばハネケとはネガポジの関係にあるとは言え同様の強度を成立させているように思う。文化大革命という背景によってジンチョウ(チョウ・ドンユイ)とスイ(ショーン・ドウ)の恋愛はそのまま無垢で無辜な共犯関係となってしまうのだけれど、セックスの可能性をあてにしないその関係はそのまま肉体の限界と精神の自由(“もっといい所”)を謳うことで取り巻く世界へのレジスタンスとなり得た上に、あえて死によってそれを永遠に成就させることでチャン・イーモウが示したのは非常時の恋人たちによって更新されていく神話の仄かながら消えることのない灯りであったように思える。それらの発火装置となったチョウ・ドンユイはエル・ファニングに負けず美しい首を持ちながらその魅せ方も知らぬまま、解放した感情の行き先だけを見据えて次第に社会を縦断していく様を、彼女に関する色彩設計でいえば青や白の調和から結末で見せる紅の覚悟への変遷で描いて、チャン・イーモウの女優達に見出す凛としてしなやかな意志はここでも確実に継承されている。ちなみに彼女についてまわる馴染み感は何なんだろうと考えていたら、フリッパーズ期の小沢健二に本当によく似ていることに気づいてようやく得心した。そして一つ(一応伏せとく)スイは白血病によって病死してしまうのだけれど、この臨終の場面でのスイの衰弱しきった瀕死の病人としてのメーキャップが異様にリアルで、ここには美しく死ぬアリバイとしての白血病は欠片も見当たらず、既に土気色の皮膚には死斑が浮き始め目は半開きとなり命を失ってモノに変わりつつある様を真正面から描いていて、それだからこそ最後に紅を身につけたジンチョウとの痛切な対比と、本来ならウェットが過ぎてしまうであろうラストのカットに静謐で端正な余韻を持たせることに成功したのだろう。この映画は神話であり寓話であり、さすればファンタジーであるかもしれないけれど、そこに血と涙を通わせるのはやはり撮る側の強靱な意志と切実な覚悟によってであり、それこそはおそらくジブリの新作に決定的に欠けていたもののように思う。ちなみに英語でつけたサブタイトルはジュリアーノ・ジェンマ主演による『ミラノの恋人』の英語原題で、ここでのステファニア・サンドレッリは彼女のキャリアハイとも言えるくらい美しさと聡明を同居させていて、あまり観ることのないジャンルではあるけれど悲恋の物語としては真っ先に挙げることにしている映画なのでDVD化を切望して止まない次第である、とついでにアピール。
July 20, 2011
コクリコ坂で取り憑いて

『エクソシズム』←盛大にネタバレしてる!
ある種のマッド・サイエンティストものになっていてちょっと意表をつかれた。現世の人間の卑劣と残酷に死者が生者と共闘して復讐を果たす、というデル・トロ節はスパニッシュ・ホラーのお家芸になっていてこれはそのかなりな亜種なわけだけど、人間が悪魔を出しに使うというというオチを大事にするあまりそこから逆算しすぎたフックの脆弱と、日常感にとらわれすぎたショッカー描写をことさらフラットに埋め込んでしまったせいで何とも気の小さい臆病な映画になってしまってる。せっかくのG描写も品が良すぎてしつこさが足りないし、弟の事故シーンなどは両親ともどもフレームに押し込んでワンカットで撮るくらいのケレンがあっても良かった気もして、正邪の対比などいわゆるJホラー的表現を駆使すればもっと嫌らしい映画になったのになあともったいなく思った。黒沢清監督あたりが一度解体して早春スケッチブック・ミーツ・エクソシストなどとしてみれば非常に愉しそうな気がするんだけどなあ。

『コクリコ坂から』
何につけ、坂をすいすいと下っていくばかりの映画であってこれのどこがファンタジーを排したジブリなのかよくわからないくらい良かれと閉じまくった箱庭で、異母兄弟の悲恋もプチ学生運動のうねりも事を荒立てないように気を使うばかりだし、とてもじゃないけれどこの熱量がこめられていたとは思えないから、だったら御大の幻視で動かせば良かったのにと思ってしまう。それにしてもメルが泣き崩れた時の涙とか酷かったなあ。あ、でもカット・デニングス成分としてのメガネ美大生にはちょっと絆されたけど。
July 18, 2011
ロシアン・ルーレット/真説 蜘蛛の糸

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本来ハネケが「ファニー・ゲーム」で行ったタイプのセルフ・リメイクが妥当だったはずが、アメリカに舞台を移すことでオリジナル版(「ザメッティ」)の動力となっていた“飢え”をあてにできないことに気づいたゲラ・バブルアニが正面突破を避けたことで「ザメッティ」にあった東欧暗黒奇譚とでもいう不条理リアリズムが霧散してしまっている。この飢えは当然ゲラ・バブルアニが発信していたもので、それはゲラの弟ギオルギが演じた主人公セバスチャンのみならずギャンブラーたちをも支配していて、あのアンダーグラウンドな空間にあったのは手慰みに倦んだ退廃というよりはさらに墜落を求める人買いたちのギラギラとした目つきであったことが、あの映画に艶めかしいともいえるデモニッシュを宿らせていたように思う。ゲラ・バブルアニがそこで叩きつけた飢えは、自身の才能を確信しながらも母国グルジアの状況および渡仏後の様々な阻害によって育まれたものであることは容易に想像がつくし、そうした意味で「ザメッティ」はゲラが世界に向けた宣戦布告であったことは間違いがないと思う。したがって、殺到したリメイクのオファーに対し自身が監督することを条件にしたのは当然なのだけれど、そうしたルサンチマンの塊をアメリカ映画の汎用に翻訳するにあたって、サービス精神と言うよりはむしろ失敗の許されない不安のあらわれとしてプロットを鍛えすぎてしまっている上に、そこに貼りつけたのがベン・ギャザラでありミッキー・ロークでありジェイソン・ステイサムであるという記号であれば、映画の背中を見失うことはないかわりにかつて闇から洩れていた妖しい息づかいはどこからも耳にすることが叶わなくなっている。ミッキー・ロークに関するシークエンスは全くの蛇足だし、彼の頭をぶち抜くわけにいかない理由があったのかどうなのか、メインのプロットであるロシアン・ルーレットについてまで決定的な改悪がなされて興をそいでしまっているのはかなり残念。細部についても、「ザメッティ」でセバスチャンの髪の毛を自宅で母親がカットしていたり、入館時の身体検査で靴の踵を破壊され、おそらく一張羅の革靴であったのだろう、萎縮していたセバスチャンが一瞬気色ばんだりと、貧しさによる彼の屈託をさりげなく挿入していたシーンがこちらのヴィンスについては全くカットされていて、ただでさえ倦んだ日々のさらに底を踏み抜く悪意が手ぬるくなってしまっているように思う。ただ、今作がゲラ・バブルアニにとってのイニシエーションというか、スタジオのオーダーにどこまで対応できるかが問われていたのだとすればそれについては手堅くクリアしていたように思うので、ふたたび野心を灯してくれることを愉しみにしたいとは思っているし、ワタシがいろいろと愚痴っぽいのは「ザメッティ」を観てしまっているからなので、そちらを未見の方はとりあえず今作を観てゲラ・バブルアニを知った上で何か侮れないものを感じたなら「ザメッティ」に遡ってみることをお薦めする。そんな悠長なことを!と言われるのであれば、では「ザメッティ」である。間違いなく。有名どころ以外のキャストでは、ヴィンスのセコンド役ジャックを演じたアレクサンダー・スカルスガルドの血も感情も薄い感じがけっこう好み。
July 17, 2011
ラスト・ターゲット/あさきゆめみしゑひもせす

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「コントロール」と今作を観るにつけ、アントン・コービンは実在化に失敗する人間に共振しているのだなあと思うけれど、その失敗にセンチメンタルな色合いをことさらしのばせないドライな手触りは彼の写真にも似通って、ただ映画になるとその追い込まなさが追い込めなさに映るような気もするものだから印象としてはおおよそ感がぬぐえないというか、対象への寄り添い方としてはスムースで心地いい分、あるべき混乱の消化については既に監督の内部で済まされていて、それをさらけ出さないダンディズムが自身の基調なのだとすれば、やはりシンパシーには至らないなあと思ってしまう。物語としてはほとんど「ソナチネ」のラインを辿りながらも、緩慢な自殺に収束するニヒルを嫌ったのか原作がそうなのか、寄る辺なき人生の末路にわりと容易く落とし前をつけてしまっていて、こういう周辺情報はノイズになる気もするけれど「コントロール」製作のために自宅を売り払ったとかいう話を知った上でなお前作に感じた一蓮托生の稀薄さからは、映画を撮ること自体が彼のセンチメントでロマンスな発現なのだなあとうがった印象を持ってしまうし、例えば「ソナチネ」を成り立たせていた混乱を飼い殺すことへの憧憬に照らしてみると、やけに物わかり良く遁走も居座りもしない彼の映画はやはりフォームが勝ってしまっているように思える。ただそういう足りなさに悔いが残るかというとそうしたわけでもないのは、閉じ方のストイック(さっき言ったダンディズムだ)の揺るぎのなさがまあ言っても無駄だろうと思わせるからで、確かに美しい箱庭であるのは認めるけれど、やはり箱庭は台無しにされることを前提に築かれて欲しいし、それが精緻であればあるほどこみ上げてくる破壊の衝動をスクリーンのあちらとこちらで共有するのが暗闇で抱くワタシの夢なのだけれど、アントン・コービンは独り見る夢に満足して他人の夢に飢えていないようだから、ならばワタシも夢見てやることをしないのだ。
July 13, 2011
陰謀の代償 N.Y.コンフィデンシャル/俺の屍を越えてゆけ、俺の目の黒いうちに

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これをExpendablesと言ってしまうのはさすがに失礼なのでExtendables程度にとどめるにしても、引っぱりすぎて引くに引けなくなった名優たちの終わらない日常がうかがえていろいろと味わい深い。最近アル・パチーノの新作はシネパトスでしか観ていない気がするし、レイ・リオッタは元からこんなフィット感だったにしても、ジュリエット・ビノシュまでもが東銀座リーグ参加である。ようこそ、シネパトスへ。というわけで若手の野心的な作品にExtendablesが群がって小さなパイを貪り食ってしまうという構図はアレを想起させたりもするし、今回はとりわけアル・パチーノのおじいちゃん度が結構えげつないことになっていて、この映画は2002年の現在と1986年の過去が交錯することで悲劇を生んでいくストーリーなのだけれど、1986年当時既におじいちゃんにしか見えないアル・パチーノが16年経って2002年になったところでおじいちゃんのままなものだから、大人になったジョナサン(チャニング・テイタム)に「どうだ、オレを覚えているか」みたいに因縁めいた事をいったところで、「アンタだけそのまんまやないけ!」と慣れない関西弁でツッコミの一つも入れたくもなるのが人情というもので、それが理由というわけではないにしても2002年パートをExtendablesが食い散らかしたゆえ、16年の時を超えたフーダニットは特に衝撃も与えないまま意外なほど静かなトーンで幕を閉じてしまう。ただ、犯人とその動機のアイディアについては悪くはないから、1986年パートでもう少し仕込みの手続きをきちんと踏んでおけば(例えば、いつも3人で身を寄せ合っていた〜ジョナサンへの淡い想い〜秘密へのやるせない反発)16年前の亡霊が甦っていく日々を愛憎に満ちた波紋で揺らすことができたようにも思う。そう思うのは少年達が犯した失敗を描く1986年の日々に立ちこめる鬱屈したイノセンスを血と涙で切り取った内圧が印象的だったからだし、2002年パートにしてもストーリーから離れたところではそれなりに暴力の気配を充満させていたように思えるから、それだけに屋上でのあのレザボア・プレイでそれを暴発させてしまったのが、今オレはアル・パチーノとレイ・リオッタを操っている!という昂揚は痛いほど分かるにしても、そこではしゃぐとエンディング届かないよねとたしなめたい気持ちは意地悪でもなんでもなくあったりする。こうして隙あらばフックを叩き込んでくる手練の中に放り込まれた上に受け身の役を余儀なくされたチャニング・テイタムの分が悪いのはある程度仕方がないにしても、例えばイーサン・ホークやホアキン・フェニックスが体現する血の色気が決定的に欠けているので立ち尽くす姿もモッサリとして退屈に映ってしまっている。レイ・リオッタは感情の死んだ目をぎらつかせるやり口がいつもどおりで、彼に任せておけば事態は間違いなく殺伐とするからねという定型はやはり希有。ジュリエット・ビノシュは死んでも誰も悲しまない役を意図通り平面的に演じてカメオ程度だけれど、それでも十分に鬱陶しい。他には2002年パートでジョナサンの相棒を演じたジェームズ・ランソンの薄っぺらくていかがわしい身のこなしがいいなあと思ってちょっと調べてみれば、ああそうだったかと「ケン・パーク」のオナニー小僧テートだったことが判明して、あまりに真っ当な成長ぶりに彼をMVPとすることに即決定。というわけでそういう映画なものだから正面切って薦めることはしないけど、シネパトス限定の地下鉄効果音がやけにしっくりくる映画ではあったので、そうと聞いて絆される方は是非。ちなみに北米含め全世界最速封切りがここ東京のシネパトス。誇らしいのか申し訳ないのかよく分からん。
July 10, 2011
BIUTIFUL ビューティフル/命をやろう、夢をくれ

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これまで露悪と偽悪の物語を過剰で濃厚な関心事として紡いできたアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥとロドリゴ・プリエト、そしてギジェルモ・アリアガのチームからギジェルモ・アリアガが脱退し、これまでアリアガがアクロバット気味に維持してきたフィクションの危ういラインを果たしてどうするのかと思っていたら、いともたやすく底が抜けていたというよりは、その抜けていく底こそを描こうとした点でイニャリトゥの抜き身を晒したような映画になっている。なっているけども、これまで翻訳を果たしていたアリアガの転換と切り返しがなくなったことでその身も蓋もなさは見方によってはニヒルを漂わせてしまっていて、本来語られるはずの、善くあることの継承(これはマッカーシーが「ザ・ロード」でやろうとしたことだし、雪山での亡き父との邂逅はまるで「血と暴力の国」の夢語りのようだ)が、暴走する諦念として映ってしまっている気がしないでもない。このタイトルに予告篇のテイストを加味すれば、余命いくばくもない男が我が身を振り返った時に初めて気がつく世界の美しさ、といった誤読ともいえない予見が容易に可能なのだけれど、イニャリトゥはウスバル(ハビエル・バルデム)に死者と対話するというスーパーナチュラルな能力を授けたことで一方の背骨となるべきメメント・モリを過剰なポエジーとして横溢させてしまっているせいで、ウスバルが抱く死への畏れが世界の風景を更新するのを妨げてしまっているように思うし、もし仮にその不在(死)ですら世界を彩る美しさの一部なのだと本気で言うつもりであれば、浜辺に打ち上げられた死体の数々についてもその不在は昇華されるべきで、地下室から浜辺に至る一連のシークエンスに塗された叙情がその手だてなのだとしたら、それら文字通り累々と横たわる屍を超えて到達したプロローグからエピローグへ円環する彼岸の透徹から判断するに、抜き身のイニャリトゥはかなり際どいところで完結してしまっているとしか思えず、地獄巡りをするために地獄を生み出すその業の深さを鞘に収めるつもりが今後もないのだとしたらイニャリトゥは少々危ういことになっていく気がするけれど、そうした内実を自覚した上で新たなフィクションの宣言を果たすのであれば再び「アモーレス・ペロス」の活劇を期待できるような気もする。そうした意味でイニャリトゥにとって分岐となる作品には間違いないけれど傑作と言うには無防備すぎるので、イニャリトゥの独白を一部の隙なく焼き付けていくロドリゴ・プリエトのカメラを観る愉しみなどあらかじめ用意しておいた方がいいように思う。ところでハイとリウェイの関係はあきらかにツイストし過ぎだった気もするけれど、そこまでして執拗に逃げ道を塞ぐイニャリトゥの気質それ自体は興味深いし、そうした意味でもやはりこの無防備は捨て置けないなと思う次第。ああ、今度はデル・トロプロデュースでホラーっていうのもいいかもしれないなあ。
July 07, 2011
X-MEN : ファースト・ジェネレーション/汚れっちまった悲しみに〜他一篇

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ヘルボーイにとってのブルーム教授、あるいはマイク・タイソンにとってのカス・ダマトといったようにモンスターと契るには理想/ルールの管理責任者としての父性が必須であり、それに加えて、両の手を血で汚したことのないチャールズ(ジェームズ・マカヴォイ)が説くモラルなど実のところエリック(マイケル・ファスベンダー)にとっては童貞に女体指南されるような上滑りであった気もして、最終的には父殺しすら果たすことになるエリックの暗黒フォースがチャールズを圧倒するのは分かり切っていたからこそ、その破局をクライマックスとした時点でマシュー・ヴォーンの頭にあったのは「ラストキング・オブ・スコットランド」での失敗する青二才としてのジェームズ・マカヴォイだったのだろうし、結果はご覧のとおりでその慧眼こそがまず讃えられるべきである。また、今作は歴史に埋め込まれた話としてのプロダクションデザインが秀逸で、衣装(特にエリック!)周りやフランク・ロイド・ライトな研究所、バックミンスター・フラーなセレブロといったミッド・センチュリー風味が見目麗しかったのだけれど、ショウ周辺のデザインについては当時としての先進性を考証しすぎたのか「私を愛したスパイ」的ハイテクのいなたさが寸足らずに思えたのが少々もったいない。ただ、それはそれとして「メルキアデス・エストラーダ」で発掘し「アンノウン」で確認したジャニュアリー・ジョーンズのちんまりとした手乗りエロがワタシのけっこうなツボであることを今作で確信したのが一番の収穫であったわけで、彼女をエリックがいたぶり始めた瞬間、なにしろ一瞬にして双方に漲る海千山千感がワタシのハイライトであったよ。

『マイティ・ソー』
こちらはこちらで、何だったらシェイクスピアやっちゃっていいからとケネス・ブラナーを仕立てた製作陣の慧眼と、とは言ってもねえ、と仰々しさをバカバカしさにすり替えたケネス・ブラナーの目端が思いのほか利いた上に、もうそろそろよかろうとアヴェンジャーズ前提でS.H.I.E.L.D.を前面に出せた役得もあってか、抜けが良くてけれん味のある英雄譚に仕上がって思いのほか爽快で愉しい。ただ、そこまでこの映画をドライブした立役者が実は画像のムニュムニュした娘であるという点にこそワタシは絆されたわけで、没収された彼女のiPodにDLされていた30曲の中身を知ってクラクラしたくて仕方がなかったりもするのである。とか思ってチェックしてみたら熱量の放射がいろいろと正し過ぎて想像以上にこっち側な彼女だったし、そのうえムニュムニュだったりしたらそりゃもう "Could you be my little movie star, Could you be my long lost girl" ってことでますます絆された次第。
July 05, 2011
光のほうへ/わたしたちはあきらめさせられている

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あらかじめ背負わされた負債の瞬間で時間を止められたまま大人になることを余儀なくされた兄弟が、それでもその呪縛から浮かび上がろうとあがき続けるその姿はまさに原題(『SUBMARINO』= 水の中に無理矢理頭を沈められる拷問)そのもので、それを終始血の気の失せたようなトーンで淡々と捉えたイメージ自体は一見静謐と言ってもいい諦念に包まれているように思えるのだけれど、実のところその正体は極限で麻痺した感情の絶句によるものであって、それでも長兄ニック(ヤコブ・セーダーグレン)は、自分と同じようにあがく人間に消極的で歪なやり方ながら手を差し伸べることで自らの奈落への転落にかろうじて抗っている。一方でニックの弟(ペーター・プラウボー)は、かつて負債の中心にいた亡き三男マーティンの名前を自らの子供に与えた時点でいくばくかの勝算を持って負債の清算に挑んだようには思えるけれど、その名前の呪縛ゆえか自らを名乗ることも許されないまま(劇中ではニックの弟/マーティンの父、としか呼称されない)、結局はさらなる負債の再現に怯えつつ敗走し、実子マーティンを呪縛の連鎖から解き放つ最後の手段として自らを断絶することとなる。この物語が少々風変わりなのは、兄弟の物語でありながらその相克にはほとんど時間を割いていないことで、冒頭で描かれる子供時代ではあれほど身を寄せ合っていた兄弟が、ニックは自分に甥が居たこともましてやその名前がマーティンであることすら知らないほどに絶縁してしまっていて、ただそれは互いへの憎しみや怒りというよりは一緒にいることで過去が悪しき共鳴をして増幅することに耐えられなかったからなのだろうし、それゆえ、兄と弟の物語がそれぞれひとしきり語られた後で互いが持ち寄った解答を答え合わせでもするかのような結末は、筋書きの悲惨からすれば不思議なほど穏やかで満ち足りた気分にさえ包まれて、それはまさに秀逸な邦題が指し示す通りである。それに加えてこの映画が掴まえているのは社会に飼い殺されていく屈託の倦んだ空気でもあって、それが福祉政策のセイフティ・ネットでがんじがらめになった果ての不幸なのかおいそれとは語れないにしても、ベント・ハーメルやトーマス・アルフレッドソンといった北欧の監督たちはとりわけ憂鬱と倦怠を醸成する術に長けているように思えるものだから、この監督にしてもそれら固有の息づかいに繋げてみたい誘惑に駆られてしまう。役者については、少年時代の兄弟を演じた2人(まるでクリストファー・ウォーケンとボビー・ギレスピー!)の血の薄いピュアネスが秀逸でできればもう少し観ていたいと思ったほどだし、長じてからは特に弟を演じたペーター・プラウボーがどこかチェット・ベイカーの影なども時折思い浮かべさせて、要するにそれはジャンキーの哀しみとでたらめということだけれども、最後に差した光を呼び込んだのは蒼白の彼が滲ませた翳りによるところが大きかったように思う。そして彼がマーティンと共に暮らす部屋の暗がりにはニック・ケイブ&ザ・バッド・シーズのポスターが傾いているわけで、そうした一点についても手抜かりはないことを納得された方は、映画館の暗がりで兄弟と共に窒息してみてはどうだろうか。傑作と吠えてしまうよりは、そうやって薦めてみたいと思う。
July 04, 2011
ハングオーバー !! 史上最悪の二日酔い、国境を越える/そうしろと囁くのよ、私のデブが

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のっけから恐縮なので一応伏せとくけども、これは大団円の場面で“デーモン(demon)”と“ザーメン(semen)”で韻を踏んでまで笑いを取りにいくような映画であって、大ヒット作の続篇だろうがなんだろうがトッド・フィリップスは1ミリたりとも日和らないどころか、結局この人がやりたいのはポリティカリー・アンコレクトなレジスタンスであるにしても、そうした知能犯的な気配を消してみせる術が巧みすぎるがゆえにただのバカ絵巻になってしまうといういつものパターンながら言い訳らしき素振りは一切ないというジャンルへの殉教っぷりに胸が熱くなりっぱなしである。ファレリー兄弟の場合モラルを越境することで最終的には自爆を回避しているけれど、トッド・フィリップスは自爆することでモラルもインモラルも等しく焼け野原にしていて気分としては垂直から水平への思考変遷に沿っているようにも思えるものだから、“飲む打つ買う+キメ”のキックにこだわり続けるのは、煮詰まったら自爆して見晴らしを良くしようぜというある意味ビートニク的な解釈ともとれて、毎度行われる肉体改造はその簡便な翻訳のようにも思える。となれば、可能な限り六本木まで足を運んですべてをさらけ出した無修正ヴァージョンを観賞するのが筋というものだろうから、なぜバンコクが舞台として選ばれたのか想いをめぐらして胸をはずませたあげく、焦げ臭い香りにつつまれていただければと思う。強くそう思う。
June 29, 2011
メタルヘッド/ハートがクソ痛いぜ、ライアン!

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名前はヘッシャーを名乗っているがドラえもんである。ただこのドラえもん(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、のび太(デヴィン・ブロシュー)が頼んでもいないのにジャイアン(ブレンダン・ヒル)の車にポコチ○の絵を落書きするわガソリンで焼き討ちするわで、その結果のび太はとばっちりを全力でぶちかまされることになるどころか、挙げ句にこのドラえもんはしずかちゃん(ナタリー・ポートマン)を犯っちゃったりするんである。物語自体は、母親を失って内向するのび太の鬱屈をドラえもんが焚きつけた怒りにのせて解放していく喪失と再生を描いていて特に目新しい余韻があるわけでもないから、見どころとしてはメタルヘッドなドラえもんがのび太と周囲の人々をシェイクしていくイカれた暴走っぷりということになるのだけれど、それでドライブするにはドラえもんが自ら化けの皮をはぐのが少し早すぎるというか、ドラえもんの中には実は人間が入っていてホントはけっこうイイやつだったりもするんだぜという種明かしを我慢しきれなかったのが何だかもったいない気がする。実際、主従関係が完全に逆転している間にドラえもんがのび太に施す暗黒スパルタは、ペルソナを異様に生き生きと貼りつけたジョセフ・ゴードン=レヴィットと一向にめげないいじめてくんを好演したデヴィン・ブロシューとのジャッカスな漫才と化して爽快ですらあるからドラえもんの人間宣言はもう少し曖昧に不穏のままでもよかったんじゃないかなとも思う。ドラえもんとのび太のおばあちゃん(パイパー・ローリー!)との邂逅も、野良犬が一宿一飯の恩義でなついている程度にとどめた方がエンディングがもっと破壊的な落差を持ち得たと思うんだけど、少し逆算をしすぎたためにシフトダウンしてしまったのがやはり惜しい。とは言っても、惜しいと言うのはそれ以外のあれこれについてはかなり満喫したからに他ならず、冴えない一日が終わっていく夕方の西日のような屈託であるとか、性急で手に負えない血の逆流であるとかを瞬発力で捉える術は感覚的に持ち合わせた監督だと思うし、冒頭で捉えたのび太のバイク疾走シーンなどはちょっとばかり見とれてしまう流麗さがあって、監督の兄ちゃんによるカメラともどもこの兄弟の名前は頭に叩き込んでおいた方がいいと思う。ブリーフをはいた爆破魔であるジョセフ・ゴードン=レヴィットはただひたすら役得とも言えてフォロワーはマストなのは言うまでもなく、ナタリー・ポートマンの地味でおぼこなホワイトトラッシュっぷりはある意味そそるし、そしてどれだけ酷い目に遭うかが存在証明となった厄介なのび太役を小さな背中に怒りと哀しみをためこんで演じたデヴィン・ブロシューの体を張った健気からはなぜかライアン・ダンの在りし日の勇姿など想い出してしまって、何はともあれこんな心持ちに連れて行ってくれる映画を悪く言うことなんて出来るはずがないので、ライアン追悼の意味も込めて是非ともお薦めさせていただきたい。あ、ちょっといい放屁シーンもあるし。誰のってブリーフの王子様の。
June 26, 2011
きみのためなら死ねる二題 〜 SUPER 8/スーパーエイト & スカイライン −征服−

『SUPER 8/スーパーエイト』
子供らのキャラ配置からしてみればエイリアンをスロースのごとく従えたアリス(エル・ファニング)がいつ現れるんだろうだと思ってたものだから、わりとあっさり殺戮に手を染めるどころか人まで喰うエイリアンに拍子抜けしたあげく、ああ、きっとスロースを妄想し投影する必要のない子供だったエイブラムスにやはり「グーニーズ」は無理だったのか、ルサンチマンを抱え仮想敵を打ち砕くために映画で武装した子供ではなかったのかと、大きなお世話だろうが勝手に落胆してみたのである。この映画に際しての、スタイルの踏襲とパターンの遂行のラジカルな徹底という試み自体はとてもよく分かるし、結果として紋切り型に任せきりにする心地よさまでくらいまでは手が届いてそれはそれで愉しいのだけど、では踏襲と遂行の徹底のその後でキミはどこにいたんだろうと訊ねてみればどうも一人で黙って先に家に帰ってしまったような他人行儀が物足りないのだなあと、キミの師匠は5時の鐘が鳴ってもあれこれ理由を見つけては家に帰らなかった子供のはずなのに残念だよと思ってしまうのだ。これについては、男子チームに異物としての美少女を投入した時の関係性の揺らぎとか距離をつめるのに一歩踏み出す時のためらいと戸惑いとかいった思春期デリカシーの薄さにもつながり、何だかエイブラムスはいろいろと弱点を晒してしまったなあという気がして、体質としてはあくまでアレンジャーであってプレイヤーではないんだろうなあと思ったりもした。それにしてもエル・ファニングの首はまるでトム・ヴァーラインのごとくほぼ完璧なラインでそれ自体が独立した生き物のように息づいて、僥倖に恵まれればそっと両手で甘締めしてしまうのはおそらく必至であるから、その罪作りな首を確認しに劇場へ向かうのもまた愉しかろうと思う。

『スカイライン −征服−』
これはまたあちこちいろいろと仕方のない映画で、予算がないからモブ・シーンもないし籠城ものにするしかなかったとか、おそらく尺を稼ぐためであろう余分な人間関係とそれを生み出すための冗長なシークエンスが満載であるとかやたら言い訳がましくて、要するにこれはパイロット・フィルムも兼ねたチャプター1なわけで、はなから閉じる気のないエンディングはお金が集まればさらに驚愕の出し物をお見せできますよという続篇への煽り満々なわりに、果たしてあの苦笑いの先に一体何を期待すればいいのか、あなたの子供が出来たのと言われてドン引きした男にどの面下げてヒューマニズムの未来を託したのか正気を疑うワタシはおそらく正気である。ただ、興行のやり口としてはあながち間違いではない気がするし、それ以外の殆どを間違ってしまった自爆についてはいっそ清々しく思えるので、それらもろもろの確認作業としてはアリだと考える。考えるだけだけど。
June 24, 2011
東京公園/井川遥のいる街で

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クランクイン直前で流れた例の映画の後で立ち上がった一見セルアウト気味の企画だし、正直言って傭兵気分で撮った映画なのかなあと思って情報や期待については手ぶらでのぞんだのだけれど、これがあにはからんや物騒なところもキチンとしのばせつつ喪失と再生をクリアで背筋の伸びた緊張と共に描いた佳篇に仕上がって思いがけない収穫で、浅はかな思い込み誠に申し訳ない。ここでは主にそれぞれの決壊をきっかけに女性達が自らの女性性に対するケジメを描いてるものだから、「サッドヴァケイション」にあった怪物的な母性に比べればワタシを含め男たちは終始いい気なもんである。といいながらも、冒頭では平面的すぎるように思えた志田光司(三浦春馬)は、女性達の懐から人生のあわいのようなものを手に入れることで自分の足場を切り出して奮闘しきりの大健闘なのだけれども。この平面からの移行について言えば、それはそのまま映画の中で切り返しのショットで会話をしていた者たちが次第に一つのフレームに肩を寄せ合っていくのと同じ変化であって、その絶頂とも言えるあるキスシーンはそこに至るシークエンスを含めて和洋問わず近来あまりお目にかかっていない、状況ではなく状態としての官能を醸していて、※知らずに観た方が絶対いいと思うので以下反転しつつ役名および俳優名も自重、一度キスをしてほんのわずか離れた顔が昂揚に包まれつつ困惑と確信の中間地点で静止したまま、互いに二度目のキスこそが必要であることが分かっているくせに、果たしてそれを相手は望んでいるのか、許してくれるのか、拒まれるのか、男性の背中ごしからのショットによって終始さらけ出されたままの女性の顔に浮かぶ世界の果てで待ち受けているかのような切実さからは死ぬことすら覚悟したような喘ぎが聞こえてくるようだし、その決着までの予想を超える長回しは放置/羞恥の様相さえ呈していて、まさかこんな風に揺らされるとは思ってもいなかっただけにこのセンシュアルには虚を突かれつつも快感しきりである。そしてもう一つ、役者達が口にする言葉について、それは会話調のリアルというよりは当然映画のセリフとしてデフォルメされた結果なのだけれど、監督の演出が役者の解釈をどこまで促した結果なのか分からないにせよ、発語感や区切り方、イントネーションといった作用による日本語のライブ感がおりおりでやたら耳に心地良く、そしてそれを体現して最も成功していたのが富永美優を演じた榮倉奈々で、映画の采配を握る役どころを道化のハレと哀しみと共に的確に嫌味なく捉えていたものだから、今まで見ず知らずだった彼女のちょっとばかりファンになってしまった。原作付きの題材やキャストなど、監督のフィルモグラフィーにおいては少々異質なものを感じるかもしれないけれど、例えば潮風公園に映り込んだ波頭の禍々しさや海風の吹きすさぶ大島で小西真奈美の頬をつたう涙、そしてそれが連れてくるダークサイドのショットなど監督の刻印はあちらこちらに押されていて思った以上にざわついたところのある映画なので、ワタシのように食わず嫌いのまま敬遠されることのないようお薦めしておきたい。
June 19, 2011
ロスト・アイズ/そこにいるのにそこにいない男

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スーパーナチュラルなテイストはどちらかというと装飾的なノイズとして扱われるため、ギレルモ・デル・トロの名前が冠される時に抱く「郷愁ホラー」的な色合いは今回見受けられないけれど、最終的には時空を超えてつながる愛の話としてまとめあげた点について言えばやはりデル・トロのテイストが効果的に塗されたように思える。かといってそれを大上段に掲げるというよりは、それを伏せ続ける道筋で織り込まれるジャーロ系のサービス(デル・トロによればこのあたりも確信犯らしい)に攪乱されるのはやはり愉しいもので、ゾンゲリア以来久々のアレを見られただけでもけっこうな充足である。そのアレを施す描写のためとはいえ母親をああした形でいきなり介入させたことやサスペンスとしてはミスリードにすらならない隣家の親父など、スマートを目指した場合の余分はあちこち散見されるにしても、そこはそれジャンルへの気概という点でもデル・トロの遺伝子は受け継がれたようでワタシに関して言えば愛すべき範疇に収まっているように思える。ただ、透過する視線へのコンプレックスが盲目の女性へのフェティシズムを呼び起こして生まれたモンスターという設定は、より過剰に煮詰めればより濃厚なアクをすくえたような気もするだけにもう少し早い内から追い込みをかけても良かったかなあと少々もったいないし、「裏窓」的に転がすのかと思われた隣家の娘のあまりにも小道具的な退場など、そのあたりについては整理整頓が足りないがゆえの食い足りなさがモヤモヤと残ったのは確かである。ただ、オマエほんとは視えてんだろ?以降繰り広げられるスプラッタ版「暗くなるまで待って」の明滅するハイテンションのキレとそれに続く哀切で美しい救済は、監督がこのジャンルにおいて必要な幻視の過剰を持ち合わせていることの証明のように思えたものだから、今度はデル・トロのフィルターが外れたところで何が転がり出るのか期待しつつ、出世払い込みで少しばかり吠えてみた次第である。
June 14, 2011
さや侍/あちらとこちらで抜き差しならぬ

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不確定要素としての野見さんをベタな決めごとに放り込むことで偶発を誘うやり口は、言い方は悪いけれどそれはもう動物映画に近いわけで、おまけに映画の主導権を握るのは子役となれば、いわゆる「子供と動物には勝てない」という映画やテレビの通説を弄んでみせたのだと思いたい。そうやって、自分を拒絶しつづける“映画的なるもの”に全力で辛辣な悪ふざけと逆襲をしているのだと思いたい。そしてそのとどめとしてのラストの遺書読みは、結局キミらはこんなんでも泣いちゃうのかな?という底知れぬ皮肉なのだと思いたい。だからこれがすべて額面通りなのだと言われたら少しワタシは困ってしまうし、遺書読みは素直に泣くところだと言われたら、いやでもその連綿と読み上げたあれこれを光と影に置き換えたのが映画という説明の芸術なんだと思ってるんだけどなどと言ってしまうかもしれないので、とりあえずはワタシが思いたいように思っていようと思う。ああ「道」をやりたかったのかな、もしかして。ちなみにカステラを持って行くシークエンスは、あれだと殿様にも若君にも何が起きているかまったく見えないと思うんだけど、そういうのはいいのかなあ、いいのか。
June 13, 2011
アリス・クリードの失踪/死にたくなければ嘘をつけ

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※極力ネタバレは回避したけれど、ほとんどネタでできあがっているような映画なので観賞予定の方はスルー推奨。それ以外の方は自己責任で。
車を盗むところから監禁部屋のしつらえ、そしてアリス・クリードの誘拐までをほとんど無言の内に片づける冒頭10分足らずのモンタージュで魅せる手際の良さと迷いの無さは誘拐犯2人のみならず映画の作り手もまた明晰なプロの流儀を持ちあわせていることを示していて、このプレゼンの効力のおかげか、この後で起きるいささかあざといともいえる瓦解と融和についてもすべては起こるべくして起こっているのだと観客は自ら補正しつつ物語に添うように仕向けられていた気もして、となればこちらの妄想までも封印された点で実は監禁されていたのはワタシ達なのでなかろうかと、腑に落ちると言うよりは実にうまいこと逃げられたラストに対して悔しまぎれの拍手など送ってはみる。ところで、この映画にクライムサスペンスを期待している方には申し訳ないけれど、ここにはクリード家との交渉による駆け引きもないし、誘拐もので一番の難所のはずである身代金の受け渡しについても描写すらなくクリアしていて、この映画におけるサスペンスは犯罪の成否それ自体がもたらしているわけではないのである。では何がサスペンスを持続させるのかと言えば、それは例えば「人間性クイズ(c)お笑いウルトラクイズ」でシチュエーションに閉じこめられた上島竜平や井手らっきょが捨て身で身悶える時のそれに近いとも言えて、ここではアリス(ジェマ・アータートン)とダニー(マーティン・コムストン)とヴィック(エディ・マーサン)の3人は大団円以外で三すくみになることは許されておらず、そこにいない1人の影を意識させつつ残りの2人を対峙させ、その都度そこに的確なフックを用意することで必ず主従の関係を成立させた結果、そこで従者が主人に対して繰り広げる虚実と愛憎の入り乱れた捨て身の振る舞いがいつしか従者を主人に仕立てたあげく、今度はそこにいなかった1人を従者とすることでその主従関係は数珠繋ぎに転がっていって、こめかみの疼くようなグルーヴを生み出すことになる。そのフックについては2つの大ネタを放り込んだ後はその慣性を利用するにとどめて無用な上塗りはせず、偶然を利用した辻褄にも極力頼らない(二点ほど気になったけど)、為にすることのない脚本はやはり賞賛されるべきだし、神経戦を助長するサウンドデザインとそのまま閉塞に陥らないような空間の取り込みも含めたミニマルで静的な采配は、ダンカン・ジョーンズやショーン・エリスあたりの英国若手勢に共通するトーンのようにも思える。マーティン・コムストン(「SWEET SIXTEEN」のリアム!)は何でもしてしまうがゆえに何者にもなれない卑近の哀れをなで肩と半開きの口元で演じて、実は潜在的Mを思わせるガチムチのエディ・マーサンとの相性はアテ書きとも思える説得力に溢れて香ばしい。ジェマ・アータートンは肉を切らせて骨を断つ肉体装備のせいかいくら脱いでもエロくないマグロっぷりがわりと圧巻。ネタバレを回避するとこれが限度なので自重するけれど、予告篇などから思い描いたイメージの予想を良い意味で裏切るというよりは裏切らないままさらにその先で舌を出すような映画なので、興味を持っていた方にはそのままお薦め。興味のなかった方については、監禁拷問系では一切ない上に野郎2人のファンタジーが曖昧に炸裂する話でもあるので、この際是非興味をもっていただければと思う。100分があっという間だよ。
June 07, 2011
レイキャヴィク・ホエール・ウォッチング・マサカー/裕木奈江41歳、嫌いなものは工藤夕貴40歳

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やおらモロトフ・カクテルを作り始める裕木奈江と聞いて眉がピクッとした方の懐にはわりと頃合い良く収まるはずで、人種やらゲイやらのけっこうな差別ネタをオフビートギャグのフックにしたり(ゲイいじりは緊張と緩和のお手本のようなシークエンスで、劇場ではあちこちで笑いが漏出)、予算上フッテージでごまかしたとは言えあそこでリチャード・ハリスとシャーロット・ランプリングのアレを突っ込んでくる錯乱したサービス精神(「大陸横断超特急」のラストみたいなもんである)であったりとか、スラッシャーとしてのヴァリエーションにはいささか乏しいものの(捕鯨砲のアングルにはグッときたのでできればワンカットで収めて欲しかった)、終わってみれば、アクシデント的な綻びをアテにしないわりと真っ当におかしな映画を観たなあという充足感はシネパトスというロケーションにもフィットして思わぬ収穫。思わぬとは言っても、ではワタシが何を思って何を思わないのかという説明をしないと事故に遭う方も多発しそうなので、とりあえずはガンナー・ハンセンと裕木奈江の共演(というほどからまないけど)というシュールな字面に、ああワタシたちはいつのまにかこんなにも遠くまで来てしまった…、とでもいう泣き笑いにも似た気配を感じ取れた方であれば事故をかわせると思うのでいかがかと。
June 05, 2011
クロエ/ある娼婦の親密な墓碑銘

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※少々ネタバレがあるので観賞予定の方はスルーを。そしてオリジナルの「恍惚」を既にご覧になってる方、似て非なるリメイクに仕上がってるので同様にご注意を。
オリジナルの「恍惚」では、原題となっている ”Nathalie/ナタリー” という女性そのものは登場しないにも関わらず、その夫と妻と娼婦にナタリーを含めた四角関係を成立させることで女性2人が孤独の共犯として剥き出された哀切な偏愛を紡いでいたけれど、このリメイクではかなり割り切ったアレンジが施された結果、クロエ(アマンダ・セイフライド)はクロエのままにキャサリン(ジュリアン・ムーア)が生み出したパラノイアの落とし子のように描かれているから、主にこの女性2人が鏡像と虚像の間で沈澱していく熱量を交換する時の軋みを手がかりにしたサスペンスで逃げ切ろうとしていたように思える。したがって、キャサリンが正気に戻ってしまえばあとは実像がそれ以外を排除する物語になっていくのは当然としても、オリジナルにはないまるで「エスター」のような終盤には少し虚をつかれたのだけれど、キャサリンの母性に向かってひたすら退行するがゆえにくびきから放たれて自由に凶暴化していくクロエは越境者の切実と殉教者の超然をまとって、愛する人の中へ消失することで共に生き続けることを陶然と選択する。そうした意味では、キャサリンの背景にくらべてクロエのそれは娼婦であることの他はまったく描かれないこともあってかクロエはある種キャサリンのイドの怪物のような存在にも思えて、ならば彼女の消失は本来キャサリンの蘇生を示唆するはずなのだけれど、そうした言質など与えるつもりのないラストで家族が見せる三者三様、特にキャサリンの笑みにはりついた朦朧と上気する彼岸の昂揚はハッピーエンドの手打ちとはほど遠い死の匂いを感じさせて、振り返ってみれば遺書のようにも思える冒頭でのクロエのモノローグが思わず胸に落ちる。今回のジュリアン・ムーアはかつて「SAFE」「エデンより彼方に」「フリーダムランド」などで差し出していた現実の灯りを見失って漂流する切ない魂を胸に抱いてやはり寄る辺ないし、今作に限らず彼女は自分の裸が官能というよりは棘のように刺さることを意識して脱いでいるから、こうした即効性の痛みを伴う作品でこそ存分にささくれるように思う。アマンダ・セイフライドは、フレームに独りでいる時の異物感が際立っていながら他者が入り込んでくるととたんにそれを収めてしまうのが不思議で、だからといってマイナスに作用すると言うよりはその残像で振り回していくことの強みが勝っていて、たゆんとした横乳と張りつめた横顔を含めた彼女の身のこなしだけで入場料の元は取れた気がしてる。ちなみにピアノ弾きの音大生って普通にアイスホッケーやっちゃうもんなのか。手とか壊したらどうするんだろうとか思うけどカナダだとやっちゃうのか。それはさておきジュリアン・ムーアが脱いでいる作品にハズレはないし、くわえてアマンダ・セイフライドの切ないグラインドまでがスクリーンに大写しとなるので彼女たちの男気に応えるべく是非とも劇場へ。
June 02, 2011
アジャストメント/おれの天使はおまえの悪魔

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ディックの風呂敷は畳むことを前提に広げてないというか、それでがんじがらめに包まれたあげく、ああ、オレが見えない、オレはどこだって身悶えする話のはずが、風呂敷の柄が妙に気を惹くものだからつい後先考えずに広げてしまう輩が後を絶たないわけで、そうした意味でこれもまた立派なディック映画とは言える。まあ、畳んだというよりは丸めてポケット突っ込んで照れ笑いするような愛嬌があったからさほど害はなかったにしても、実際のところ害そのものを求めて観に行くような客からすればこのふんわり仕上げにはジャンルと殉教する意志が見当たらないものだから、それだけで撮りきったような「NEXT」や「運命のボタン」(ディックじゃないけど)の無責任な熱量に比べれば他人行儀になってしまうのも仕方なかろうというところ。そもそも昔やんちゃをしてた下町育ちの下院議員とかいう役柄に今さらマット・デイモンがフィットするかといえば、キミは未来の大統領なんだといわれた時の運命の不可思議によるそぐわなさも含めてそれはどちらかと言えばマーク・ウォルバーグだろうという気はして、マット・デイモンの低重心では運命の変転を刻みづらいこともあってせいぜいがちょっと気の利いたSF小咄的なところに落ち着いてしまった気もする。もしもマット・デイモンのスクウェアを活かすとすれば、彼とハリー(アンソニー・マッキー)の役柄を入れ替えて調整局の愉快な面々の話にした上でマット・デイモンの善人ゆえの葛藤で揺らしてみればその帽子の似合わなさも含めた異物感も焼きついて、運命の書とかどこでもドアとかいったSF的ガジェットももう少し前面に打ち出せたのになあと思うし、単なるスラップスティックと化した終盤など観てみればなおのことそうやって妄想したくもなる。それにしてもツッコミどころというかそれだけで出来ている満身創痍な映画ではあって、その哀れな犠牲となったエイドリアン視点による裏ストーリーなど考えてみれば、まさに禍福はあざなえる縄の如し!と膝を打っている場合などではなく、脳天気に「卒業」を気取ってみせた2人への呪詛をワタシ達はエイドリアンと共に吐き続けなければいけないと思うのだ。現実を改変された男へのレクイエムとして、ディックの読者であればそうするのが礼儀である。
May 30, 2011
マイ・バック・ページ/敗者の美学という衒学

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川本三郎が綴った不発する青春の独白に妻夫木聡と松山ケンイチをあてがうのが山下敦弘と向井康介のコンビだとなれば、すくい取るのは敗戦処理の憂鬱であって欲しいと思っていたのだけれど、その希望はある程度満たされつつそこから明確にはみ出していたのがある種の落とし前であった点については、ラストのシークエンスがワタシたちをどこに引き戻したかを考えてみれば山下&向井の確信は明らかだったように思う。結局、冒頭でタモツ(松浦祐也)が沢田(妻夫木聡)に投げかけた言葉が本当の意味で届いたのは最後の焼鳥屋においてであって、その瞬間に初めて沢田は自らの喪失と欠落が持つ本当の意味とそれが世界に対してどれだけ罪深いことであったのかについて想いが至り、当然ながら瞬時にそれらを受け止めることなど不可能なまま決壊するのである。ただ、映画でそれを為すためには、どこかへ行って何者かになることなど許されないまま沢田は右往左往するしかなく、そうしてみれば徹底的に昭和顔を揃えたキャストの中で妻夫木聡のモダンでスウィートな空気は残酷なくらいにただそこに居ることを要求され続けてある意味晒し者だったと言ってもいいし、言うまでもなく沢田=川本三郎であることを思えば、原作においてすら自ら果たすことができずにいたように思えた断罪がここでようやく為されたのだとも言える。そしてもう一つの落とし前、これは殺害された自衛官の鎮魂でもあるように思えて、絶命のその瞬間までを捉えたカットはまったく無意味に殺されなければならなかった彼の尊厳としてどうしても必要だと山下&向井は判断したのだろう。それにしても無垢と無邪気の描き分けについては終始残酷とも言えて、例えば唐谷義朗(長塚圭史)を運ぶ車中の会話であるとか、17歳の倉田眞子(忽那汐里)の方が圧倒的に人間を見通していたことのやり取りなど(原作では沢田の兄が発した言葉を彼女にあてがった脚色が光る)、沢田は終始転ばされ続けたあげく鏡像だったはずの梅山にまであっさりと裏切られる。そうやってつきつけられるのはイノセンスゆえに彷徨していたつもりの自分が実はイノセンスなどとっくに失っていたという事実であって、その喪失を受け入れることによる再生をうかがわせたラストについては先に書いたとおりで、この映画がなけなしの共感を用意しているとすればまさにこの瞬間にしかないといういささかピーキーな構造は、かなり危ういながら妻夫木聡の気迫によってぎりぎり成立していたように思う。最後にこれは落とし前というか覚悟というか、山下&向井のコンビはこれまでの作品で手放さなかった他人事の薄情視線をあっさりと捨ててこれまでになく対象に踏み込んでしまっている。しまっている、と書いたのはもう後戻りする気もないように思えるからで、自分たちの新しい文法についてすでに心当たりがあるのかどうかは次作を観てみないことにはわからないけれど、「松ヶ根乱射事件」を観て書いた“こんなものを収穫しちゃって監督はこれから先どうするんだろう、一から違う畑を耕さなけりゃならんだろうなどといらぬ心配”の答えというか違う畑がこれであったならやはりワタシ如きが心配することもなかったなという安堵は確かにあるし、熊切和嘉の「海炭市叙景」と期せずして呼応したかのようなフィルム撮影には昭和が逃がしきれなかった焦燥の熱が閉じこめられて、ここのところの日本映画ではなかなか味わうことのできないそうした異物感をノスタルジーやセンチメントでなくメランコリーとしてあふれさせた点についても冒険の成果として迎えられるべきだと思う。韓ちゃんが壁の花としてじくじく咲いてるのも良い。
May 27, 2011
ファースター 怒りの銃弾/「てっぱん」米国復讐篇

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開演前の劇場に流れる挿入歌 ”I Wanna Be Your Dog” のリズムに合わせたつもりか通路を挟んだ席のシニアが地団駄踏むようにフロアをツッタンツッタンと鳴らしてみれば、それはかつてここがニコラス・ローグをこけら落としに選んだ劇場であることなど今さら誰が知るのかという生温いやさぐれ感にあふれて、しかも本編はロック様(ドウェイン・ジョンソン)主演の復讐アクションとくればなおのこと諸行無常ではあるけども、それよりはトム・ベレンジャーとかビリー・ボブ・ソーントン、あるいはMusic by クリント・マンセルといったクレジットに賭けてみたところが脳天気のかけらもなく乾いた屈託でドライバー(ドウェイン・ジョンソン)を彩ってなおかつ剥き出しのガンアクションとタイトなカーチェイスでデコレートされた、どちらかといえばスマートと言ってもいいしつらえの当たりクジであったよ。黒幕探しについてはキャストの格がそのまま反映されるからどんでん返し的な妙味はないし、そこで転がす映画でもないからその手堅さは特にマイナスにはならないけども、キラー(オリヴァー・ジャクソン=コーエン)とリリー(マギー・グレース)のカップルは正気に戻さずタッグのまま絡ませてみればもっとツイストできたように思えてちょっともったいないなあとは思った。ドウェイン・ジョンソンについては肉体言語に頼らずとも佇まいでモノを言っていて、これは監督の切り出し方によるところが大きいにしても、フラッシュバック時のお兄ちゃん大好きな弟の見せ方などでスイッチは入るし、この映画が次第に湛えていく罪と赦しという揺らぎについても的確に背負ってみせていたように思う。ビリー・ボブ・ソーントンは堕ちっぷりの貫禄ではやはり頭抜けていてドウェイン・ジョンソンがみせる鉄塊のような復讐心との対比が映画に影と不安定をもたらしている。ドライバーの目的はただ復讐の一点であることから彼は逃げも隠れもせずただひたすら直線距離での遂行を果たすため、追っ手の警察との間に頭脳戦のサスペンスが生まれないのは仕方がないけれど、それを逆手に取った段取りの省略、例えば最初に血祭りに上げるオフィスシーンや殺し損ねた相手を病院に再襲撃しての猪突猛進、には思いがけない新鮮さがあってこれは脚本と演出の完全な勝利だったし、また、こうした映画にはお約束のいきなり現れては心を通わせてしまう後ずさりのフックとしての女性もさらっとはねつけながら、複雑な生い立ちとその哀しみも邪魔にならない程度に塗したりもして、そうした出し入れのおかげでドライとウェットのバランスがとれたことで主人公の造型が非常に立体的になっていた点もドウェイン・ジョンソンの好演につながったように思う。そして何よりラストの鉄板オチは、伏線はあったとは言えそこで使っちゃうのか!というバカ映画の残滓でもあって、そうやっていきなり明後日の方向に気を取り直した映画の後ろ姿に思わず頭を垂れてみたりもしたのである。というわけでシネマスクエアとうきゅう以外にどこでいつまでやってるのか知らないけれど、こういう映画は後先考えず無責任に薦めることにしているので騙されたと思って騙されてみてはいかがだろうか。それと一つ、最近のトム・ベレンジャーをスクリーンで観るたびに誰かを頭に浮かべつつもはっきり言い当てることが叶わなかったのだけれど、これを観てやっとつかまえた。竜雷太だ。
May 22, 2011
4月の涙/名前しか知らないあなたのために

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かつてフィンランドで内戦があったことなど知らないままに、あらかじめ引き裂かれた戦時下の恋人たちとしてその幾分おぼつかない足取りも含めてルートは定まっているのだろうと高をくくっていると、白衛隊(体制ブルジョア)の准士官アーロが捕虜となった赤衛隊(革命労働側)の女兵士ミーナを連行した野戦裁判所の判事エーミルが手慰みに針を落としたレコードがサティの「グノシエンヌ」であったあたり、戦時下のサティというその小さな違和感から以降、判事と兵士と捕虜それぞれの確信と葛藤で物語は階級闘争から性的な政治闘争へと変質していく。当初はアーロとミーナが結んだ意志を試すためかと思われた判事の闖入だけれども、その知識階級の憂鬱が作りだした予期せぬトライアングルは結局その意志を示した者だけが生き残るあっけないともいえる敗者復活戦となって、最初からここに辿り着くつもりだったのかいささか怪しいところはあるにしても、愛よりは生の一粒を照らすことで内戦の時代にケリをつけたようには思える。ただ、それを語るのにヴィスコンティ的苦悩という類型を持ち出したことで焦点が少々はぐらかされた気はしていて、アーロが提示した献身する愛に対してみたところでミーナのそれは生(を成り立たせるもの)への信念に尽きるように思えるものだから、先ほどはトライアングルと言ってはみたもののそれらは微妙な角度でズレたまま燻っているのでその拮抗の正体は見えにくいままだし、それを明らかにすることは目的ではないかのような演出もなされるものだから、トライアングルが砕け散る様に何らかの終焉が託された予感が湧かないことについて物足りなく思えるのは正直なところ。しかし、そうした口数の少ない語り口には時折はっとするような幻想性が織り込まれるし、荒んだ時代の鈍色をつかまえ続けるカメラが終始誠実に映画の背筋を支えていた点は特筆しておくべきだと思う。アーロを演じたサムリ・ヴァウラモは当初は少し甘すぎるように思えたけれど、それゆえその献身は痛切が色濃くなっていくし、ミーナを演じたピヒラ・ビータラは脱ぐこともまた闘争であるという覚悟が凛として気高く映る。少々手堅くまとめすぎた予告篇に加えて、フィンランド内戦という遠くの話でもあるゆえ今ひとつ気がのらない方もいるかもしれないけれど、この映画は良くも悪くもそこからこぼれおちたものが妙味になっているので、サティとかヴィスコンティとかそういったタグで引っかかりを覚えた方は足を運ばれてみることをお薦めする。
May 16, 2011
ブラックスワン/アロノフスキー先生の人体実験:バレエ編

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夢から覚めた夢を見た、とでも言いたげなオープニングシークエンスから始まって、ニナ(ナタリー・ポートマン)は彼女のベッドで目覚める度により深くて邪な夢に沈みこんでいるかのようで、その度に肉体は変容しオルターエゴはより実体化していくのだけれど、内なるデーモンの解放とその克服といった芸術家の肖像的な体裁を脱ぎ捨ててこの映画が本当に血を流し始めるのは、夢の先導役だったベス(ウィノナ・ライダー)が実は夢の残骸であったことに気づいて遁走訣別するあたりからで、挙げ句ベスが吐き捨てた“内なる空っぽ”に深々とオルターエゴ(正体はすべての唾棄された夢)を取り込んで蘇生を果たしたニナが一気に夢のとばりを突き抜けて我々ギャラリーの陣取る客席に舞い降りた瞬間の恍惚は、まるでヒース・レジャーが人知れずジョーカーを誕生させた瞬間に新たに定義された現実と妄想が身震いしながら鼓動を始めた時の快感を想像する手がかりなのではなかろうかとも思えるし、結果として前作以上に研ぎ澄まされた精神の官能を肉体で謳ったドキュメントになっていたことは、最後にニナがあの言葉をつぶやくことを許していたことで明らかである。ナタリー・ポートマンはその容貌から受けにまわらざるを得ない役柄が多かったけれど、ここではそれを逆手に取った被虐の逆襲で圧倒していて、でも泣き顔が「レオン」の頃のままなのにはちょっとだけホッコリした。ウィノナ・ライダーは「僕が結婚を決めたワケ」の時にも書いたけど、凋落する小悪魔としてのパブリック・イメージを巻き込んでのタイプキャスト上等!という快演で(怪演じゃなく)切り売りするように自分を差し出すやり口は前作でのミッキー・ロークのようでもあり、その腹のくくり具合もあってウィノナ株は引き続き買いである。怪演だったのはニナの母親を演じたバーバラ・ハーシーで彼女のキャラクターについてはその狂信性をあえてホラーマナーで綴じちゃってるものだから、ラストでの母娘のこれみよがしな切り返しショットではもしかしたらこれ全部母親のジェイコブズ・ラダー的世界なのかとちょっとだけドキドキした。日劇のスクリーンにナタリー・ポートマンのマスターベーションが大写しになる光景は壮観で、主演女優がオスカー獲った“バレエ映画”ということで足を運んだ堅気の方々にとってはちょっとした事故にあった気分だろうけども、それを期待するような客にとってはまちがいなく僥倖となる作品なので是非。と言わなくてもここをご覧いただいてるような方はほっといても足を運ばれるだろうけども。ちなみに鏡像のズレに関してはショーン・エリスが「ブロークン」で愛すべき風呂敷を広げているので、奇特な方はこちらも是非。
May 08, 2011
アンノウン/底抜嫁取大合戦伯林巻

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※ふんだんにネタバレしてるので観賞予定の方は回避を。そしてパンフの樋口氏テキストは少しネタバレしてるけども注意書きがないので気をつけないと!
ブルーノ・ガンツとフランク・ランジェラが正対するシーンではデニス・ホッパーとクリストファー・ウォーケンのアレがちらついてここだけ別の映画のような空気が流れ出したものだから思わず座席で座り直してしまって、ベルリン、シュタージ、エスピオナージュ、などと小さく口にして発語感を愉しみたい気分にかられてはみたけれど、それ以外はいつか観た記憶喪失者の自分探しリスペクトでさすがに体は正直だ体は忘れてないぞ華麗なシフトチェンジとアクセルワークでベンツのタクシー無双、やっぱりいきなりだと密室コンタクトはちょっと勘が戻らないなこうなったら目玉えぐるしかないかそれで正解?といった風に窮地に陥れば陥るほど現場処理的記憶だけが率先して甦ることでこれも植物学者無双。だけどああオレの両手はもしかしたら血にまみれているのかという自問自答よりはとりあえずウチの嫁奪還、ウチの嫁に触んな!という煩悩で大暴れしたあげくそれまでつましく生きてきた老人や移民難民を殺戮に巻き込んでいく無駄にデカイ背中のわりにあっけなくスタンガンでくずれおちる脇の甘さはいかんともしがたく、でも現地調達した美人が意外と肝が据わってて人殺しを躊躇しないどころか伝説の暗殺集団のボスまで殺ってくれてラッキー!といった具合に、本家の背骨となってた理詰めで可能性をこじ開けたり潰したりしていく快感よりはわらしべ長者かバタフライエフェクトかという出たとこ勝負の何が出るかな感で逃げ切ったあげく、嫁が妄想嫁だと分かった瞬間にオレは未来しか探さない男だ、それにオレは世界の食糧問題を救ったんだぜ祝!オレの再出発と乗り込むドイツの新幹線には現地調達した美人がかたわらにたたずみ駅でお別れかと思いきやあらお持ち帰りね、ところで現地調達された美人よ、キミの連れはキミの家族をボスニアで葬ったような輩と同類だぞ、ということでキミに矜持という日本語を贈ろう。「メルキアデス〜」でバリー・ペッパーの嫁を演じた妄想嫁はデカイ背中が大暴れするだけのことはある小作りないやらしさがツボで、豪快な死に様と併せて実質的にはワタシの主役となって現地調達した美人とのタッグでデカイ背中のモッサリ感に華を添えてみれば、目指すつもりのない荒唐無稽に乗っ取られた映画が悔しまぎれに吐き散らす言い訳の口封じに何とか成功したかどうかというところで、逃げ込んだクラブで流れるのが「ブルーマンデー」だったりというあてがいのその辺りを気にしない人はわりといけるんじゃないかな。宇宙人も出て来なかったし。
May 07, 2011
GW手抜き気味映画メモ Part2

「ザ・ホークス/ハワード・ヒューズを売った男」
「クロッシング」を観て卑近な小悪党を演じる時のリチャード・ギアは捨て置けないなと思ったものだからちょっとだけ愉しみにして足を運んでみればこれが思わぬ収穫で、行きはよいよい帰りは怖いという具合に入口と出口がまったく味わいの異なる映画になっていて、特に予期せぬ出口に向かってサスペンスが加速する終盤は、これが大筋で実話だと知った上で観てみればエルロイ的アンダーワールドの暗黒臭も漂って思わず身を乗り出してしまったりもしたのである。ところでジュリー・デルピーが演じたニーナはこの事件の後でアルトマンの「ロング・グッドバイ」でクールビューティな毒婦アイリーンを演じていて、ワタシは彼女のこうした出自はまったく知らなかったから思わぬリンクになったし、そういえば劇中でサスキンド(アルフレッド・モリナ)がバーのカウンターで電話をかけるシーンがあるのだけれど、そのカットやライティングがまんま「ロング・グッドバイ」の例のシーンだったりもして、そんなこんなで70年代の緩くて熱い空気感の醸成もあって「無情の世界」が久しぶりにスクリーンで沁みた。というわけで2006年の作品を今さらしかもわざわざGWにプログラムするだけのことはあったにしても、都内単館(全国2館!)というハードルの高さで気軽に薦められないのがちょとばかりもどかしいなあと思う次第。
「ジャッカス3D」
放屁圧でピロピロピロとスクリーンを飛び出てくる吹き戻しを見た瞬間、誰にも告げるつもりのない闘いに確かに勝った気がした。とは言え、こんな屎尿糞尿吐瀉物にまみれた映画に2200円払うなど金をドブに捨てるようなもんだと言われればめんどくさいから否定はしないけど、この映画はそのドブに、屎尿糞尿吐瀉物で溢れたそのドブにわれ先に飛び込んでその金を浚っているのであり、そうした意味ではこれほど誠実な映画はないのではなかろうか。少なくともワタシはその誠実に打たれた一人である。しかも誠実ついでに新宿ミラノでは金色のロゴが箔押しされたゲロ袋までいただいたのである。素敵じゃないか。
May 06, 2011
GW手抜き気味映画メモ Part1

「ファンタスティックMr. FOX」
完成は前後したけども「ダージリン急行」では既に父さん不在だから、一家総出のタスク・フォースものとしてはこれが最後になるのかな。これまでは父さんの反抗期を真ん中に据えてたけども、ここではひとたび「だって俺たち野生動物だし」と唱えてみれば母さんから息子まで加担してのレジスタンスは、ワイルドでスマートな父さんサイコーと!いうファザコン花火打ち止めの見事な一発。とは言え実はけっこうなツイストだった寝返りネズミのリンチもあっさり呑み込んじゃった黒い味わいはさすがの滋味だし、ジャーヴィス・コッカーによるネタ提供のブルーグラスバンドはロバート・クラムデザインにも見えて相変わらず嫌みなくらい洒脱で、すみからすみまで才能とセンスの美しい発露と幸福なダンディズムにあふれた愛すべき仕事。
「ミスター・ノーバディ」
これだとビッグバンとビッグクランチの無限ループじゃないの?とかまあ、ここまでバカげたことをそうとは気づかせないままぶちまけ続ける妄想の強靱なキープ力にはほとほと恐れ入る。ただまあ、失敗した恋愛とその人生が死屍累々と横たわる分岐の果てを2時間以上観せられた後では、しかもそのモザイクがやたら緻密であるだけに最後の最後でこれが僕のベストエンドだ!とか言われたところでそこから浮かび上がるだけの運命の浮力を感じられない徒労感が昂奮を上回ってたのは正直なところ。それと何より乗り切れなかった一番の理由はジャレッド・レトがジム・キャリーに似ていると思ってしまったことで、彼が善人を演じる時によくやるちょっと困って途方に暮れた風に「ごめん、ぼくピュアなもんだから…」って赦しを請うような顔つきが本当に苦手なのに加えて、映画の空気がこれもまた割と苦手な「エターナル・サンシャイン」に通じる無邪気で図々しいひたむきさに通じる気もしたものだから、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い物言いはワタシの目がそうした理由で曇っていたからであると頭に入れてもらった上で、逆に言えば「エターナル・サンシャイン」がウェルカムなら愉しめるだろうねとそういう風に薦めれば間違いないんだろうと思う、多分。
May 01, 2011
キッズ・オールライト/青春の光と影とブルー

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バイク・ライディングやベッドシーンといった要するに下世話にアゲるシーンにボウイの、しかもPanic in DetroitやWin、Black Country RockなんていうRCA期の非シングル曲をインサートしてみたりポールのレコードコレクションに「ハンキードリー」をしのばせてみたり、あげくジョニ・ミッチェルの「ブルー」語りで奈落に導いてみたりと、監督の年齢からしてワタシ同様に後追いで虜になったくちだろうけれど、それが懐古趣味としてではなくその先に延々と転がって行ったロック・ミュージックと併走してきたリスナーであることはオープニングとエンディングに貼りつけた2曲のチョイスでもすごくよく分かるし、そうやって何を見て何を聴いて年を重ねたのか、そしてそこから滲むロックンロールの社会と世界へのガンのとばし方は無条件で信頼できて、おまけにジュリアン・ムーアが愉しそうに脱ぎまくっているとあればそんな映画を嫌いになれるはずがない。セクシュアリティやフェミニズムといった特にアメリカでは政治的な色合いを帯びてしまうような話を当事者が表現する時、ことさら攻撃的であったりあるいは客体化の手段として自嘲/自虐してみたりということが間々あってそう言う時はこちらも距離が測れずに困惑してしまうのだけれど、この映画はイズムそれ自体を問題にすることなく、まあ結局はこちらも似たようなもんですよという打ち明け話のようでもあって、ただそこにノンな人たちへのおもねりは全くないことを親たちに対する子供たちの目つきで表明しているのがとても清々しく思えるし、運命を自身の選択として受け入れた親たちに比べて気がついたらそこに放り込まれていた子供たちがぐらぐらと揺れながらも自分の歩き方をすることで家族を結びつけていく姿勢がとても綺麗で最後にタイトル(” THE KIDS ARE ALL RIGHT ”)がストンと胸に落ちてくるようになっている。役者はみんな文句なしで、紫色のTバック始め今回の脱ぎ要員であるジュリアン・ムーア(ジュールス)の愛すべきダメっぷりと、おそらく監督の投影であろう一家のタフな支柱でありながら家長はつらいよと流す涙と止まらぬため息で彩るアネット・ベニング(ニック)の切なさ、そのブロンドとスキニーで透明な屈託に血を通わせて脱アリス大成功のミア・ワシコウスカ(ジョニ)、最後のセリフでいいとこ総取りのジョシュ・ハッチャーソン(レイザー)、そして真摯と俗っぽさの両端をぎりぎり保ったままファンタジーのようにこの家族を通り過ぎることを求められるという、実は一番記号的で厄介な役回りに説得力をもたらしたマーク・ラファロ(ポール)のジェントルなハイカロリー、といった面々によるアンサンブルを束ねた、ほのめかしやあてつけを巧妙に織り込みつつ言葉で感情をむき出すことに腰を引かない脚本の、特定の個人で自閉しない采配が絶妙だったと思う。ちなみにR15+は主にジュリアン・ムーアとマーク・ラファロによるピンクコメディのせいで、ブルーバレンタインのそれとは全く意味合いが違うのでキッズも臆せず観ちゃえばいいと思うよ。
April 29, 2011
メアリー&マックス/きみがぼくを知ってる

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うんち色のあざがなくなって生まれ変わった気分のメアリーにダミアンが冷や水を浴びせるシーンは、自分が知ってる自分と世界が知ってる自分のズレをうまく表していて、メアリーはこのズレを孤独として抱えている。それに対してマックスは自分が知ってる自分しか知らない、けれど世界が知ってる自分を意識できないのが病気のせいであることは教えられていて、もう一人の自分を見つけようと一人静かに闘っている。メアリーのズレはワタシたちにも馴染みのそれで、ワタシたちはそのズレを埋めるというよりは無視したり気づかないふりをしてごまかす術を身につけてどんどん鈍感になっていく。だからその鈍感がもたらしたメアリーの失策は自分のことのように恥ずかしくて痛いし、斯様にワタシ達は闘っている人に対して鈍感である。マックスは自分の闘いそれ自体は厄介だなあと感じているかもしれないけれど、そうした闘いを強いられる自分をまったく憐れんでいないし、自分を見つけるということは世界を見つけてあげるということでそれは世界をありのままに受け入れられるのかという問いかけであり、マックスは世界を“許す”ことでその答えとして、最後には闘いに勝ちさえしてみせる。一方、鈍感なワタシ達の代表であるメアリーも地獄巡りの遠回りで底を見ていて、ある絶望のシーンに流れる「ケセラセラ」が最初はやや皮肉めいて聴こえるのだけれど、次第にそれが、世界がワタシを受け入れないのではなくワタシが世界を拒否していたのだというメアリーの確信を後押しするように聴こえ始めると、それに続く“赦し”ともうひとつのフォビアの解放からメアリーがマックスの穏やかな栄冠を目にするラストに至るまでのドミノ倒しのような多幸感にはちょっと息がつまりそうにさえなる。ロウでチャーミングなクレイアニメーションは、語られる痛みを緩和すると言うよりはかなりキツイところにも届いて思わぬ痛覚を刺激するし、何より実写としての息づかいは彼や彼女が一生懸命動いて生きているという命の証のようでもある。そしてマックスがいるニューヨークには(ネット前夜という時代設定によるとしても)いつもツインタワーが見えているものだから、あの出来事が起きなかったもう一つの正気で善い世界の話にも思えて、余計に気持ちが晴れたような気がしている。上映館はまだ少ないようだけれど、せっかく連休もあることだし、一日くらいはこの映画のためにとっておいていただいて是非とも劇場へ。
April 25, 2011
ブルーバレンタイン/愛という名の悪癖

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タイトルからあたりまえのように思い浮かべるのはトム・ウェイツが沈み込むようなメランコリーで愛の亡霊を歌ったそれだけども、この映画はそれに遡る日々、すなわち瀕死の愛が力尽きていく日々にかつての美しい記憶が楔のように打ち込まれて解体されていく様を無慈悲といってもいい直視で描いてみせながらも、朽ちていく感情にすら明かりを灯したヴィヴィッドは切れば血の出る証ともなって、この振幅に巻き込まれる映画の快感は気がつけば自分に還る痛みのような気もするものだから、この親密さは諸刃の剣とも思えてどこか腰が引けてしまう気がしないでもない。そしてそこから完全に無傷であるという自信もさほどワタシにはない。愛を信じるディーン(ライアン・ゴズリング)と失くしたシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)という対比に加え、フラッシュバックにおいてもディーンのポジティヴに対しシンディのネガティヴという色づけはかなり意図的でストーリーだけ拾ってみればシンディの分が悪くならざるを得ないのだけれど、ここではなぜ?どうして?の解釈があまり意味を持たない気がしていて、なぜならこの映画が突きつけるのは愛という口約束による契約はそれが破棄されないとしても両者が等しく敗者となるだけでそこに勝者はいないのだという寄る辺の無さだからで、ディーンの善性が愛を追いかけるほどにその罪は深まっていくという残酷によって、世界のすべてから拒絶されたエンディングにおける後ろ姿の救いがたい寂寥と、それに続くおそらくは彼の脳内投影であろう幸福な記憶をすべては一場の夢と言わんばかりの祝祭で彩ってしまう突き抜けたニヒルは凄まじいばかりで、愛の喪失ということではカサヴェテス以来の語り部ではなかろうかとすら思っている。車の中で繰り広げる昔の相手についての応酬や緩やかに瓦解していくラブホテルでのシークエンス、すべてが決壊する病院事務室での立ち回りなど、主に密室においてカメラの存在を一切感じさせずに抜き身で差し違えるような演技と演出の疼くような昂奮は、砂を噛むような閉塞感を生々しさと共に捉えることで、明るく開放的に描かれる幸福な記憶との強烈な対比となり、終わりがあることを既に知らされている始まりをことさら美しい無垢によって提示することでメランコリーの純度を悲痛なくらいに高めていて、あげくこちらも身動きがとれなくなって完全に捉えられた後で解放と言うよりは放り出されることになる。ミシェル・ウィリアムズはどこか心の底が抜けてしまっている女性(最近で言えば、彼女以外みるべきところのない「ブローン・アパート」もそう)を、それを自分で知りつつ漂泊してしまう屈託で演じ、脱ぎっぷりの良さとあわせてジュリアン・ムーアの跡目としてはやはり期待大。ライアン・ゴズリングは、哀しみが暴発する時のやるせなさを男たちの悪夢として共感させるうつむき加減に忘れがたい翳りを与えて、オスカーにノミネートされなかったことについてはどうにも理解に苦しむ。浮遊するアコースティックノイズを映画のファンタジックな色づけとすることでかなり決定的な役割を果たしたGRIZZLY BEARによるサウンドトラックはライアン・ゴズリングによるアレも収録とあって帰りに即購入。始まったばかりの人たちは他人事のようにやり過ごして反面教師とすればいいし、そうでない人たちは共感や拒絶の意思表示で身の振り方を確認しておくのもいいと思うし、いずれにしても無傷で戻られんことを祈る次第。
April 23, 2011
引き裂かれた女/パパママごめんねあたしヤンキー

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文字通り身を引き裂いて自分を一度亡き者とし、しおらしく涙など流してみせた後で、今では私もこんな風に笑えるの、と貼りつけられたガブリエル(リュディヴィーヌ・サニエ)の笑顔を延々と見続ける内に、それは次第に、私もう全然大丈夫みたいだわ、いいえ大丈夫どころじゃなくて生まれてから今までで一番冴えてるみたい、ううん、冴えてるっていうんじゃなくて世界がわかったって感じ?あ、世間とか言う意味の世界じゃなくてこの世界の成り立ちってやつが見えるのよ。多分もう私は失敗とか不幸とかいった二文字とは永遠に無関係で、誰よりもすべてをうまくやれるに決まってるわ、ていうか、ポール。変な前髪したポール。アワ・フェイヴァリット・ショップの頃のポール・ウェラーですかぁ。あ、それでポール?笑えない。言ってて自分で全然面白くないし、前髪もっと長いし。まあストライプオンストライプは着こなすしクルマの趣味もいいけど、兄さん殺してるなんて、それ先に言ってよ、聞いてないよって感じ。そんなキレキレくんならあれくらいやるでしょ、余裕で。それとサン・ドニ。「許してくれ、君を守るためなんだ、…僕から」とか言って自分を守れっつうの、ってもう死んじゃったか、あのさピューリタニズムか退廃かの二択しか思い浮かばない貧困を反省しろってことよね、要するに処女か娼婦かってことでしょ、ならその両極の出合う場所がアタシだ。スノッブのパワーゲームだかなんだか知らないけど今この瞬間のうのうと生きてるのはアタシだ。勝ち抜いたのはアタシだ。多分もうアタシは負けない。負ける理由がない。一度死んだから死ぬわけもない。だからアタシ最強、という天啓をガブリエルが宣言するに至る麗しくも面妖なビルドゥングスロマンをあなたに。
April 19, 2011
悲しみのミルク/ペルーのスケーターズワルツ

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主人公ファウスタはペルーの女性たちと先住民に刻み込まれた暴力と恐怖による負の歴史を体現する者として描かれて、それは今も決して取り払われてはいないにしろ、もうひとたび世界とつながろうとする密やかな意志による小さな再生を示唆して映画は終わるのだけれど、ペルーの歴史と現実に対して無意識がすぎるワタシのような人間にしてみれば、この物語を寓話と呼ぶにはあまりに余白がなさ過ぎてその美しさや切なさも含めすべての感情をそのままに受け止めざるを得ないせいか、何か全身を使って観終えたような疲労感は心地よくもあり厄介でもあり、生と死を彩るマジックリアリズム的祝祭などという記号めいた期待を抱いたワタシにはそれなりのしっぺ返しとなった気がする。冒頭で死にゆく老女が歌う怨歌とでもいうのだろうか、この歌詞がかなり強烈で物見遊山な気分の横っ面をいきなり張り飛ばすのだけれども、この映画が歩き出す場所の暗闇と悲痛の宣言として曖昧にぼかすことをしなかった字幕は素晴らしいと思う。暴力の侵入を拒むためにファウスタが自ら体内にしのばせたジャガイモは、同時に彼女の内に沈澱する不安と恐怖を閉じこめる栓となって自家中毒を呼び、そうやって内と外から苛まれてきた彼女にとって唯一のバランサーだった歌が搾取され約束が破られた時に初めて彼女は外部の他者に向けて異議申し立てをしてみせて、暴力装置(軍人)とそれが生み出した富(真珠)を自分の存在の対価として取り戻してみせる。これら彼女の変遷についてはノエという庭師が導師の役割で彼女の混沌を秩序立てていくことで、ペルーの亡霊を透視できないワタシたちも共に理解を進めていけるわけで、このあたりは脚本・監督をこなしたクラウディア・リョサ(マリオ・バルガス=リョサの姪!)の冷静な熱意による采配が奏功しているのは確かだと思う。ただひとつ、ファウスタが暮らすコミュニティでの彼女の扱われ方について、様々なオブセッションに囚われた彼女の行動は傍目に見てもややエキセントリックに思えるのだけれど、周囲の人々は彼女を異物して扱うわけでも病人の特別扱いをするでもなくごく自然に接しているのが不思議に思えてきて、彼女を捉えたペルーの亡霊をなぜ他の人々は目にしていないように見えるのか、あるいは既に目にした後でやり過ごせたのかを考えると、“寄せて”しまう彼女のような存在を日常とするような生き方が元々あるのだとすれば、彼の地においてそれはマジックなどではないリアリズムそのものなのだろうし、冒頭で述べた余白のなさは、それを捉まえた映画の強さから来るものなのだろうと思う。「シルビアのいる街で」で夢うつつが透過していく様を映したナターシャ・ブライエのカメラは、ここではまるで正反対の生々しさで静かに渦を巻く感情を定着させてあけすけなほどで、土地の力を抑え込んだカメラの地肩の強さは相当なものに思える。というわけで、先ほども書いたけれど神経がある種の疲れ方をする映画であって、揺らされる感情もふだんは気がつかないでいる場所にあるもののようなので誰彼なしにお薦めしようとは思わないけれど、ここまで読んで腰の引けてない方および「エンジェル ウォーズ」もこれも同じ映画を名乗ることの不思議など味わってみようかという方については、足を運ばれてみることをお薦めする。
ついでに「エンジェル ウォーズ」手抜きメモ
April 17, 2011
キラー・インサイド・ミー/死にたい奴ぁ 俺んとこへ来い

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このトンプスンの原作に貼りつけられることの多い惹句で「私が出合った中で最高の、身も凍るようなような犯罪小説 − スタンリー・キューブリック」という一文があるのだけれど、あれを読んで犯罪小説(=crime novel)などと間抜けなことをキューブリックが言うはずがないと思って調べてみれば、案の定原文は “probably the most chilling and believable first-person story of a criminally warped mind I have ever encountered” となっていて、当たり前だけれども「犯罪に倒錯する精神の一人称小説」と的確に述べているわけで、ではなぜこんなことをくどくどと書くかと言えば、出来上がった映画の均され具合が先の日本語惹句の紋切りに似通ってしまっていた気がしたからである。原作文庫本の巻末に収められている解説でスティーヴン・キングが軽々と喝破しているように“ルー・フォードという人物において、ここでトンプスンははじめてアメリカの重大なソシオパスの姿を描いて”みせたのであり、では原作で何がスリリングでチャーミングだったのかといえば彼がしでかしたあれこれというよりはその頭の中を開陳した独白部分においてであったわけで、映画化の噂を聞き最初に名前を目にした時に感じた、これら突き抜けて純度の高い悪意に手垢をつけることなくポップに抽出するにはこの監督は少々律儀にすぎやしないだろうか、最終的には世界への信頼を謳ってしまう人間が笑いながらそれを断ち切れるのだろうかという危惧はやはり、“いま(頭の中で)起きていることの震え”というよりは“すでに起きたことの現場”を差し出すにとどまっていたように思える点で残念ながら当たってしまっていた気がするし、やはりクローネンバーグやコーエン兄弟のように“日なたの暴力”を掴まえることができないと殺人という寄る辺なき行為をポップカルチャーのイコンとして定着させるのは難しいのだろうなと思う。今回脚本を手がけたジョン・カランは「ストーン」(監督作品)でツイストした野心を見せつけていたりしたものだから、仮に彼が演出まで手がけていればオブセッションの浸蝕と共にもう少し異形の味わいが増したかも知れず、そうしたギャンブルでのるかそるかした映像を観てみたかった気もする。ただ、差し出された“すでに起きたことの現場”については、ルー・フォードを演じたケイシー・アフレックの素っ頓狂なエヴリマンの真顔のズレがかなり的確だし、ネッド・ビーティ、イライアス・コティーズ、ビル・プルマンといった好みの面々を取り込んでの再現性についてはかなり愉しめる。ジェシカ・アルバはといえばジョイスという役に埋め込まれた捨て犬の奉仕と従順を演じるには少々毒婦らしきゴージャスが過ぎてルーの妄想に呼応しないせいか、対照としてのエイミー(ケイト・ハドソン)が現実から妄想に引きずり込まれていく時の落差に熱気が感じられなくなり、そのために例の手紙のシークエンスもさほど機能しなくなってしまっているものだから、例えばミシェル・ウィリアムズのようなタイプキャストの方がよりよく堕ちたのではなかろうかという気がする。ちなみに今作でも頑ななガードの下でジェシカのバストトップは死守されて、まあ、見えたところで局面が変わるわけじゃないけども、カメラワークであるとかそこで下着つけたままかよといった攻防が見え隠れして鼻白むものだから、そんなに嫌なら一人で先に家に帰れと言いたい。ところで劇場に置いてあった新聞紙サイズの企画チラシに載っているおすぎのテキストがあまりに適当すぎて、これが完全犯罪を全うするための美学を貫いているように見えるんだとしたら何か違う映画を観たんだろうとしか思えないし、そもそも原作は発表当時全米で話題なんか全く呼んでないのである。こんなの書かせたり読ませたりしていったい誰が得するんだろう。こういう映画を気にとめる好事家とおすぎの親和性なんてゼロだと思うんだが。
April 10, 2011
ザ・ライト ― エクソシストの真実 ― /悪魔が種蒔きゃ神が刈る

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「首が180度まわって緑色のゲロでも吐くと思ったか?」などと『エクソシスト』を揶揄するセリフがあるわりに、憑かれたのが少女であり、悪魔払いに懐疑的なニューフェイスとベテランの邂逅、そしてニューフェイスに影を落とす母親の記憶といったようにあちらと構造が何やら似通っているし、そもそも今作の設定で期待していたのは宗教的疾患を取り除く臨床医としてのエクソシストの物語だったりしたものだから、次第にエクストリームにズブズブと足を取られたあげくのルーカス神父(アンソニー・ホプキンス)の絶叫に至っては、ならばこの映画に決定的に足りてないのはカラス神父のメランコリーだと、どこかブルース・キャンベルに似た神学生マイケル(コリン・オドノヒュー)の青臭さを決定的に汚しておかなかった不備を嘆いたあとで、キミらはアンソニー・ホプキンスの表面張力に少し甘えすぎだろうと少しくだを巻いてみたりもする。また、バチカンのエクソシスト養成クラスの近代的な描写であるとか、儀式の最中に鳴った携帯にそのまま応対するルーカス神父の現場処理的感覚とか、宗教上の実践と言うよりは職務のドライな遂行であるというツイストで面白くなりかけたりもしたものだから、お決まりの葛藤よりは現実をすり抜けて行く低い姿勢の意志を描いてみればよかったのにと、これもまた少し残念がってしまうわけだ。多少おぼつかないながらも風変わりな足取りを追ってみたくはなる序盤に比べて、アンソニー・ホプキンスが登場した瞬間に映画の重心が決定的に定まってしまうために、終盤で幻覚や幻聴と対峙するマイケルの相克になかなか重心が移っていかない点でこのタイプキャストは功罪ということで言えば少々罪作りであるように思えるし、ロマンス要員というわけでもなく結局最後まで何の役にも立たないアンジェリーナ(アリーシー・ブラガ)や訳あり感がやたら重厚すぎるマイケルの父(ルトガー・ハウアー!)など、そもそも采配のバランス自体があまりうまくいっていないように思う。ワンカットでの事故シーンやモルグのファンタジック、ローマの沈鬱な色調など映画の佇まいとしては所々でそれなりに好みだったものだから、実話ベースということで過剰なドラマを拒絶しながらも結局はそれを欲しがっているように見えてしまう優柔不断が残念に思える。ところでルトガー・ハウアーの静かな倦怠ぶりはちょっと驚くほどの変貌なので、できれば彼をアンソニー・ホプキンスにぶつけて欲しかったなあとそれについても悔いが残る。
このカットなんかあまりにアレなんだけど

April 08, 2011
手抜き気味映画メモ2題

「お家をさがそう」
結論としては "Home is where the heart is" で終わる話だし、主人公夫婦は終始真っ当であり続けるからその成長を見守る話でもない。ロードムービーといいつつ移動する無為の快感もさほどあてにしてるわけでもない。では何なんだろうと考えれば、こうした全肯定をしてみること自体がサム・メンデスにとってはフレッシュでラジカルな出来事だったんだろうなあという気がして、夫婦百景を虚仮にするやり口もカリカチュアの軽さがあって独善のかわし方などはそれを知り尽くした人のやり口でさすがだなあというところだけど、最後のモントリオール・パートで思わず垣間見せるダークな味わいなどやはりこの人の本領はこっちだろうということで、他のパートに比べて明らかにギアの入り方が違うのは因果なもんだねえと愉しくもなる。
「イリュージョニスト」
恐ろしく緻密な初期衝動が動かす「絵」の愉悦に浸っていれば良かった「ベルヴィル・ランデヴー」から一転、あえて枷でもするように他人の手による(といってもジャック・タチという他人だけど)物語の再構築に挑んでみせた後であらためてわかるのは、シルヴァン・ショメが動かせばセルのゆらぎに宿るのはやはりデモニッシュな瞬きであって、これとてもその眼差しが勝っていることにより、タチ本人があまりに自分がむき出しになってしまっているという理由で映像化しなかったオリジナル脚本から喪失がもたらす哀切なケセラセラを抽出することで、通り一遍のペーソスにとどまらない深みと痛みを与えているように思える。ヴィークルへのフェティシズムや大衆演芸への偏愛に溢れているのは相変わらずだけど、アリスの顔が思いのほかディズニー記号だったことだけが少々惜しいかなというところ。それと、小ネタがあるので最後まで席を立たないように。
April 03, 2011
わたしを離さないで/あなたに似た人

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明日とか未来とかいった時間が永遠に担保されない、それでいて厭世や絶望だけに塗りつぶされない透明な凪のような静けさを真摯かつ効果的に原作から引き継いで、ワタシ達はみな壊れものであるがゆえに切実であるという事実を苛烈な早回しで凝縮してみせて思いがけず忘れがたい。外部の進行設定をほとんど描かないことでシステムへの糾弾と反逆といったディストピア・ムーヴィーの呪縛から逃れている点も原作のトーンに添っていて、ルーシー先生の言動を通していくらかの異議申し立てが為されはするものの、ここで描かれるのは世界の一切とつながることをあらかじめ拒絶された彼や彼女たちの懸命な生の遂行と尊厳の全うであるからこそ、最後にキャシー(キャリー・マリガン)とトミー(アンドリュー・ガーフィールド)とがエミリー先生(シャーロット・ランプリング)とマダムに図らずも打ち込んだ、私たちを忘れないでという記憶の楔は、少なくともキャシーだけは勝ち目などないことに気づいていたとしても、それは切なく哀しいただ一度のテロリズムだったとも言えて、キャシーの遺書とも言えるエンディングのモノローグで綴られる正確で残酷な世界の認識は既に孤高の高みにあって気高く、傲慢を承知でそれこそが善く生きた証であったのだと言い切ってしまいたいと思う。そのキャリー・マリガンは違和感と苛立ちを飼い慣らして一人歩く矜持が終始映画の重心となっての圧倒的支配。アンドリュー・ガーフィールドについては原作での無軌道なトミーとはイメージが少々異なるけれど、ラブ・ストーリーを軸に進行する脚色に際して必要なアレンジだったのだろうし、坊主頭になってからは文句なしにいい。3人の中ではルース(キーラ・ナイトレイ)が最もティピカルだったこともあって役者は少し割をくったように思える。SFの意匠からは遠く離れつつどこでもないどこかを薄皮で隔てて表出したパラレルを捉えたカメラが秀逸で、深い抑制とわずかな解放を交互の歩みにしてできれば時間を止めてしまいたいのだろうとも思わせるテンポと相まって、グロテスクな話を陶然と語る快感に終始満ちている。と言ったところで無条件でお薦めすることにまったくやぶさかではないのだけれど、ワタシは原作を3度読んでいてある程度自動的に補完してしまっているものだから、映画でのみ接した場合にフックが足りてないと思える点があるだろうことも想像がつくし、何よりタイトル由来に関する肝心なシークエンスが改変されてしまっていることについては、終盤でこの関わりを収束するにはこのシステムの社会運動的な側面を絡めねばならず、そうすると先述したキャシー達とエミリー先生との邂逅がシンプルに突き刺さらなくなる点でやむを得ないことも承知できるので、幸いにして文庫化もされていることでもあるから観賞の前後を問わず原作を読まれることを是非お薦めする。それとエンドクレジット途中で席を立つとちょっともったいないので最後まで落ち着いて座っていよう。
March 30, 2011
手抜き映画メモ3題

「GONZO ― ならず者ジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンのすべて」
これもまたある種のオン・ザ・ロードによるビートニクの肉体言語であって、オレはオレだ、ではオマエは誰だ?と殴り込まれた頃のアメリカにはそのトリックスター的な繰り出しを愛してみせるだけのバランスがあって、そうやって狂気が正気に裏返るダイナミズムを体現した男の神話は、すべてを並列化することに躍起な今となっては、ないものねだりのロマンスに包まれた分だけ余計チャーミングに思えて、まるでモキュメンタリーに見えてしまうくらい存在が決まりすぎなものだから、今なら東電記者会見最前列にでも放り込んでしまいたいくらいだよ。
「マイキー&ニッキー」
「ハズバンズ」あたりを思い浮かべてぼんやり観ているとニッキーの愛人宅あたりから雲行きがどうにもおかしくなり、このホモソーシャルに対する一線を越えて執拗な突き上げは女性監督にしか持ち得ない視線だろうと思えてくる。身勝手な共犯性や感傷に対してまあ容赦ないのだ。加えてニッキー(ジョン・カサヴェテス)が悪魔顔全開に品性を暴走させることで仕方なくマイキー(ピーター・フォーク)に寄りかかるよう仕向けたあげく用意された、情と非情が断末魔する結末の何と詮無きことよ。ただ、夜が更けるにつれ無精髭が伸びて体は疲れるままに精神だけが昂揚していく時の熱っぽさを掴まえたヴィクター・ケンパーは「ハズバンズ」のカメラでもあって、役者といいショットといいカサヴェテスの映画のようでいながら決定的に感じる奇妙な違和感を、しかもそれをスクリーンで愉しめるとなれば滅多にない機会ではあるし、ネッド・ビーティが殺し屋を演るなんていう贅沢もあるのでこれはちょっとお薦め。
「攻殻機動隊S.A.C.SOLID STATE SOCIETY 3D」
電脳インターフェイス部分の3D化に比べると手書き部分のそれはさほど目立たず、行われたとしても奥行きの深化程度にとどまって立体紙芝居的3Dになってないことに逆に安心した感じ。このSSSはリリース当時「笑い男」「個別の11人」に比べると、そのテーマ性ゆえサスペンスが活劇につながる妙味を抑え込んでいたこともあって今ひとつ乗り切れなかったんだけども、今回スクリーンで見直してみると少々重たい足取りも映画としてのサイズにマッチしているし、何より「GHOST IN THE SHELL」(残念ながら「イノセンス」ではなく)を愉しんだのと同様に攻殻機動隊の新作をスクリーンで観られたという昂ぶりは自分でも意外なくらいだった。これで続篇への布石はしっかりと打てたと思うけど、攻殻に限らずこれから生み出されるすべての物語は311以降の気分と相対することが要求されることになるので、既に福岡が首都になっている攻殻の世界がそれに対してどのような答えを用意するのかについて興味深く思ってる。
March 27, 2011
ザ・ファイター/ヘッド、ボディ、鍋、フライパン

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ボクサーとしてのミッキー・ウォードは、この映画の先にあるアルツロ・ガッティとの思わず泣いてしまいそうなほど神々しい打ち合いを繰り広げた壮絶な3番勝負でボクシング史に名を刻むことになるのだけれども、この映画の切り上げ方をみればこれはミッキー・ウォードの自伝というよりは彼と愉快な仲間たちが繰り広げた一歩進んでは二歩下がる泣き笑いの成長譚なのであって、感情をむき出しに真っ向から打ち合うようなやりとりはまるでボクシングそのものなものだから、ああ、この映画で描かれたそれぞれこそが ”ザ・ファイター” だったのだなあと締めくくる浪花節に対してワタシはかなり率先して積極的である。そうした意味で自らの幻影との終わりなき戦いに倦んでしまったディッキー・エクランド(クリスチャン・ベール)の物語が中心軸なのは明らかだからこの映画のピークは彼が出所後にシャリーン(エイミー・アダムス)の家に押しかけた時のやりとりであり、あそこでディッキーは負けを認めることで終わりなき戦いに終止符を打つと同時に新たな闘いのチャンスを拾うわけで、遠ざかっていくディッキーを遠景に捉えたカットこそが喪失の痛みに満ちたディッキーの巣立ちの瞬間であることを思えば、その後の(事実として勝つことが既知である)タイトルマッチはそのご褒美みたいなもので、本当の意味でのハラハラドキドキは実はシャリーンvsアリス&小姑ティファニー軍団だったりもするのである。この辺り、結局は自分の尻ぬぐいに汲々とする男衆を精神支配する母系家族の図は移民の物語にはよく見受けられるし、これくらい女の人のタフをあてにしてしまえる世の中の方がその逆よりは平和なんだろうなとは折々に思うことがあって、もちろんそれは男衆が自分の益体の無さを自覚した上での話ではあるけども。唯一ケレンのない正気な役柄だったこともあって賞レースでは一人置いてきぼりになったマーク・ウォールバーグだけども、彼の出自など辿ればボストンの捨てばちはディッキーとして投影されているはずだからクリスチャン・ベールの一人勝ちを何より喜んでいるだろうし、彼のジャン・マイケル・ヴィンセント的風情を愛するファンとしては権威の箔づけなど全く不要だと思っているから、今後も一層いなたさに磨きをかけていただきたいと思う。常に辺境で疲れる女メリッサ・レオは今回屈託にすら火を点けて男どもをあぶり出し、泣く怪物をガシガシと演じて独壇場で、ここまで自然にホワイトトラッシュを憑依させる術には相変わらすメソッドのあざとさもない上に受賞スピーチのやらかしなど含め人生投影型としてのホンモノ感が急激に滲みつつあるので、今後殺到するであろうアテ書きオファーから何を選ぶのかとても気になるし愉しみだ。ファイトシーンについては、ミッキーのファイトスタイルがインファイターなこともあってステップやコンビネーションなどテクニカルな描写をさほど必要としない点も奏功した上に、ウェルターにしてはやや太すぎる気がするにしてもみっちりと作り込んだ身体は見映えがするし総じて鼻白むことのないクオリティだったと思う。ただ、マーク・ウォールバーグ自身は撮る気満々の続篇では、冒頭で触れたガッティ戦が、すなわちこんどは愉快な仲間たちではなくファイトそのものがメインになるはずだし、そのガッティは非業の死を含めボクサーとしてのチャームもストーリーもミッキーを大きく上回る存在なので、クリスチャン・ベール級のメタモルフォーゼが可能でないとガッティ役は成立しないだろうといった点で既に少々気がかりではある。3本見比べた印象としてはソーシャルには及ばないにしてもスピーチには勝ってると思うし、無骨とはほど遠く実は女々しい男たちに銃後の女性がハッパをかけていく話でもあるので、特に女性におかれては汗くさそうとか言わず声援を送るべく足を運んでいただければと思う。それにしてもあのなんちゃってハイジャンプシーンだけはいまだに意味が分からん。
March 21, 2011
トゥルー・グリット/過ぎたるを追い、来たらざるに向かえ

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矜持を持たない者は死んでいく時代の話であり、ここではそれぞれ清廉と自在と信念とを矜持の糧とする人間たちによる小さな離れ業が神話に置換される手続きを描いてワタシはその証人になることについて何らやぶさかではない。ルースターがマティを抱えて荒野を疾走する様は「ノーカントリー」のエンディングにおけるベル独白にもつながって、西部劇がというよりは漂泊の大地を小宇宙と見立てた点でマッカーシー作品との通底も見てとれて、やはりこの兄弟監督の旅は自分たちのマジックリアリズムを成就するための道程なのだなあとあらためて腑に落ちたりもした。「ノーカントリー」以降、オリジナル脚本作品では相変わらず神経症的なオフビートでスウィングするけども、脚色作品での打って変わった冷静さは自らを縛りつけることで生まれる予測不能な内圧をコントロールする緊張の裏返しでもあり、結果として異様なくらい均質に流れる物語の質量はそのままに比重は増していって、それは情報量というよりは感情の総合が実を厚くしているのであり、これは最近のクローネンバーグにも通じる感覚であるようにも思う。そうした事情でオーソドックスに徹しているとはいえ、一本道の膠着に浮力を与えるエピソードにはやはり手癖がにじんで、縛り首の死体〜熊男登場のくだりはまるで白日夢のようにマティのみならずワタシも軽く酩酊させられて、このあたりは「ノーカントリー」で言えばモーテル襲撃に先立つやたら弛緩したプールシーンなど思わせる。ジェフ・ブリッジス(ルースター・コグバーン)とヘイリー・スタインフェルド(マティ・ロス)については言うまでもなく役得である。マット・デイモンについては、ラビーフという男の潔癖性の理想主義者にしてコメディリリーフという役どころの徹底が、この兄弟にしては珍しく少々追い込みが足りていないのがもったいない気がした。ジョシュ・ブローリンは出番の少なさにも関わらず、トム・チェイニーという男の卑しい空虚をそれがニヒルなどといった人間性の表出を一切滲ませることなく演じて凄みすらある。ルースターの天敵ネッド・ペッパーを演じたバリー・ペッパーも、粗にして野だが(もしかしたら)卑にあらずといった悪党を、追う者と追われる者の違いこそあれルースターとは同じ穴のムジナであろうと印象づけることにまで成功していて、さすがトミー・リー・ジョーンズと二人芝居で渡り合っただけのことはあるし、彼がマティを投げ飛ばして汚れたブーツで彼女の顔を踏みつけるシーンのエロティシズムは白眉とも言えた。14歳の少女による復讐劇という行き先のはっきりした映画でありながら正義の遂行とかいった説教臭いあれこれは14歳のプラグマティストが自ら一蹴して爽快なので、今、街中の曖昧な不安で悶々としている方は何も考えずに110分間暗闇で物語の力に身を任せるといいと思う。日常を一切たぐりよせる必要がないという点でも最良の浮世離れで、言うまでもなくワタシもそうさせてもらった。
March 15, 2011
神々と男たち/祈れ、嘘でもいいから

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これならむしろ下世話な実録テイストの方が傷は浅くて済んだのにと思ってしまうくらい、ホワイトアウトしていく後ろ姿に張りつめた透明な覚悟には、彼らがそれを望んではいないとは言え殉教という言葉でもあてがわない限り、その下した決断を埋葬する場所などワタシには到底見つかりそうもない。この映画が思いつめたように純度を高めているのは、これが宗教というシステムの軋轢ではなくあくまで信仰とその代償についての話に徹しているからで、そもそもがそれら信仰の礎としての神はふるいにかけて数多から選ばれるというよりは、(人種的民族的地理的に)気がつけばそこに居る存在なはずで、そう考えてみれば神も教義もある種のマクガフィンにすぎず、肝心なのは自分の鋳型を抜いてその強度を高めていく行為としての信仰なのだろうと思う。そしてその鋳型は強靱であろうとするほどにどこかしら似通った型に育っていき、この映画ではそれを獲得しているであろうキリスト教徒とイスラム教徒の2人がクリスマスの夜に邂逅するシーンでそれを認めている。ただ厄介なのは、信仰の埒外にいる人間にはその鋳型が屹立しすぎるがゆえに畏敬というよりは不可知の脅威を感じさせる存在に映ってしまうことで、ここではアルジェリア軍の隊長の視線にそれが代用されてその畏れが儚い拮抗を崩し悲劇を生んでしまう様を内部よりは外部からの透徹した視線で描いているから、ワタシのように宗教や信仰と無縁な者にも席は用意されて参列を促されていた気がしている。基本的に音楽は出演者自身による聖歌のみ使用されていて、修道院長クリスチャン(ランベール・ウィルソン)がリードして歌い出す瞬間に震える空気には背筋が一瞬で伸びたりもするのだけれど、唯一「白鳥の湖」が挿入されるシーンでは、それまで叙事に徹していた映画が突然叙情に決壊することで待ち受ける結末へ向けての異様なまでの緊張に満ちたスウィングになっていて、全編にわたってまるで宗教画のように光と影を掴まえたキャロリーヌ・サンプティエの解釈とも相まって忘れがたい場面として刻み込まれる。物語の主人公である修道院長クリスチャンが自分の内にどれだけの高みを得ていたかについてはナレーションされる遺書の一部でもうかがえるけれども、2001年当時この出来事に言及した曾野綾子が意訳したその遺書の全文がパンフレットに掲載されていて、信仰の到達点ともいえる壮絶な(ワタシにはそうとしか思えない)自由を綴った文章にかなり深々と抉られるので、できればここに転載してしまいたい誘惑にもかられるのだけれど、そうもいかない事情はご存じだろうから劇場に足を運ばれた後で是非一読されることをお薦めする。
本日(3/15)は午後6時過ぎから計画停電ということでもろもろの対応をするも、結局直前回避ということに。すべてリアルに起きていることだという認識がまだ薄い気がするけれども、何か決定的に取り返しのつかないことが起きてしまったという足元の危うさは常に感じてもいるわけで、自分に都合のいいように麻痺してるんだろうか。とりあえずは少しテレビを見ないようにしよう。

March 07, 2011
シリアスマン/死ぬまでにわかること

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ノーマルでもアヴェレージでもましてやアンラッキーでもない、シリアスと冠された点でやはりこれまで同様に自分で自分の首を絞める人間の話となっていて、ではただひたすらシリアスであろうとしただけのラリー・ゴプニック(マイケル・スタールバーグ)がどの首を絞めたのかと言えば、それはただ愚直なまでに社会的な生き物であろうと宗教や家庭や仕事に差し出し続けた首であって、とは言えそもそも本人が首を差し出している意識すらない分、ここまでストレートに底意地の悪い翻弄はフィルモグラフィでも初めてだろう。そしてなお質が悪いのはシリアスからの逸脱を促す素振りであれだけ誘っておきながら、ではと意を決して踏み出してみれば(”F”が”C-”になった瞬間がそれだ)神なき世界(まあ実際には神はいるのだが。ジェファーソン・エアプレインとして)は途端に因果ですらない埒外から牙をむいて医師の不吉な宣告とそれでも足りないとばかり竜巻にラリーの街を襲わせて、そうしたすべてのアリバイは冒頭で掲げられる、身に降りかかる出来事をあるがままに受け入れよ、という言葉に尽きてしまうのだけれど、それでもなおラリーはそのシリアスマンたる所以で世界の理(ことわり)を探し続けるのである。ラリーが巨大な黒板を数式で埋めつくして導き出した答えは「予測不能」であったけども、実のところ世界の理は鉛筆で書かれた”F”というたった一文字のアルファベットで保たれていて、そうと知らずそれを”C-”と書き換えたばかりにラリーは世界に弾き出されてしまうわけで、世界はワタシたちの与り知らない理由で存在していて、それを運命と呼ぼうが偶然と呼ぼうが勝手だけれどどっちみち期待には添えないのであしからずという注意書きのような映画であったよ。ただそうやってわざわざ注意してくれる点でこの兄弟の映画はただのニヒリズムには陥っていないから、その注意書きを愉しみに観続けてしまうんだけども。今回はコーエン組の役者もいなくてなじみのない役者ばかりだったけれども、それだけ兄弟の審美眼で統一されていて、食えないノーブル野郎として描かれるサイ・エイブルマン(フレッド・メラメッド)は何だかギンズバーグそっくりにあてつけてるし、ラリーの息子ダニーを演じたアーロン・ウルフはジョン・タトゥーロが13歳だったらこうだろうなというオフビートをフニャフニャとつかまえてるし、出てくる全員がすこぶるイイ顔(画像の子などセリフもないのにこの滋味)のオンパレードである。最近のコーエン兄弟作品にしてはあからさまに人が死なないし(夢オチとしてはある)、基本的にはサバービアもののオフビートコメディなのでホラ話の強度にはいささか欠けるけども、まさかこのタイミングで兄弟の出自をプレイバックするような作品にお目にかかれるとは思ってなかったし、それだけ "虐" に関するエッセンスはギュウ詰めなので「トゥルー・グリット」公開前に是非おさらいを。
March 04, 2011
アンチクライスト/僕の妻はやさぐれシャルロット・フォー・エヴァー

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さすがに清々しいとまでは言わないけれど、こんな風に正面衝突してくるような映画はこちらも身を挺して迎えるべきだろう。半ば意識的に宗教のラインを持たないワタシのような人間であっても "ANTI CHRIS♀" とあれば、ああ、♀の人がのっぴきならなくなる話か、くらいには気がまわるわけで、ただこの映画はそういうノンシャランだろうがなんだろうがおかまいなく同じようにのっぴきならない態度を要求してきて、こうした見境のない交錯はワタシの知っているラース・フォン・トリアー作品ではおそらく初めてだろうと思う。監督自ら露見してるから書くけども、これは彼が患った鬱病のセラピーとして綴ったシナリオをどちらかと言えば徒然に映像化したのだという。だからなのかどうなのか、シャルロット・ゲンズブールは過去のトリアー作品で内罰にのたうっていた女性たちとはいささか趣が異なり、トリアーが執拗に女性たちを内罰に閉じこめる心理の襞をまとって現れたある種の解答のように描かれて、それだけに寄る辺のなさは一層凄まじいし、内罰の極みともいうべきシーンまでもがご丁寧に用意されている。ではここでのウィレム・デフォーがトリアーの代行者なのかというとおそらくそうではなく、トリアーが憑依しているのはシャルロットにであって、嫌忌の対象に沈み込んだ上でもろともに決定的な罰を受けることにより、自らのオブセッションそのものの浄化を切望したようにも思えて、それはまるでカラス神父の戦法のようだ。となればラストで丘を登ってくる顔のない女たちはトリアーが深層で葬り続けてきた女性達でシャルロットの後を追って召されて行くのだと考えてみると、ホラーマナーであればウィレム・デフォーを取り殺すところを復讐の気配が一切ないのも諒解できる。ただ、ラストの解釈は別とすれば憑き物ホラーとして愉しむことも全く可能なわけで、荘厳で静謐な悲劇をハイスピードで捉え続けるプロローグから森に向かうあたりまではわりと真っ当な喪失と再生の話を予感させはするものの、以降のドシャメシャな展開は時折スラップスティックに震えたりもして、これに関してはシャーロットの発射台に徹したウィレム・デフォーの献身的な嬲られ方が感動的ですらあり、何とも独創的な足枷拘禁といい生き埋めプレイといい、正気が狂気に問答無用に蹂躙される時の哀しみとおかしみまでも漂わせて、まったく意味なく生き残った彼が野原でベリーをついばむシーンでは、結局は腹が減ってしまう存在に過ぎないワタシ達のまぬけさ加減に笑いをこらえたりもした。そして何よりも期せずしてイザベル・アジャーニの後継をシャルロットに見出したことで、麗しきエクストリーマーの系譜はカモン!バッチコイと保たれたわけで、臆することなくその晴れ姿を目に焼き付けていただければ幸いである。
March 01, 2011
英国王のスピーチ/フィンチャーの没スピーチ

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言ってしまえば悪い魔法使いが王様にかけた魔法を良い魔法使いがといていくお話で、加えてここでのロバの耳は既にしてあまねく知れ渡っているとなれば寄り道のしようもないものだから、フリアーズによる「クィーン」が醸していた透明な緊張に「シングルマン」でのコリン・ファースの佇まいなど勝手に重ね合わせてしまっていたワタシは少々肩すかしをくらった次第だけれど、ロバの耳のロバの耳っぷりをこれほど誇示しながらも全般にわたって異物を異物と思わせない底意地の“良さ”はおそらく確信犯であって、ピーター・モーガン的フィクショナルであればライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)を異物の触媒に仕立てることで波紋を広げ、それらが誘う共鳴そのものを描いていたところを、あくまで共感の強度を高めるに徹した叙述の勇気を認められてのオスカー(とくに脚本&監督)だったのだろうし、そこにはハリウッド映画が脱ぎ捨ててきた教条主義の香りもそこはかとして、圧勝した「ソーシャル・ネットワーク」との対比で言えば、おそらくはないものねだりとしてでも繋がりの先にある手触りを信じようとした/信じていたいということなんだろうと思う。ただ、先だっての「あしたのジョー」で丹下段平の物語をまるきり切り捨てることで商品としてのデオドラントを果たしていたのと同様に、ここではローグの物語がジョージに影を落とさないよう配慮することで性善の明かりを保っているのだけれど、連邦の自治領上がりの医師免許すら持たない男がなぜ言語療法を生業とするに至ったか(戴冠式のリハーサルシーンで端緒は語られる)、そしてジョージとの邂逅でローグの屈託も実は解かれていくのだという采配までも巻き込んだ共闘の物語に仕上がっていたらもう少しグッサリとやられていたような気がするものだから、今のところは頼まれもしないのにフィンチャーの落胆を肩代わりしてしまっていたりもする。そういえば、王となった父を迎えて思わず「パパ」と言いかけて「陛下」と言い直した小さな女の子が、後に毅然とした孤高のうちに "Duty First, Self Second" と言い放つことになるわけで、そうしたあれこれなど想ってみるためにも事前事後は問わないから前述の「クィーン」もあわせてご覧になれば、即席にしても感慨は深まったりもするものだし、ワタシがここで今ひとつ煮え切らない理由などもお分かりいただけると思うので未見の方は是非。
February 20, 2011
ヒアアフター/デス・イズ・ノット・ジ・アンサー

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ジェイソンが去ってしまった絶望をなだめるために、ジョージ(マット・デイモン)はマーカスに向かって「一人になってしまうのを怖れてるんだとしたら、そんなことはないよ。ほんとにそんなことはない。どうしてかというと彼は君だからだし、そして君は彼だからだよ」とジェイソンのそれではなく彼自身の言葉を紡いでみせた瞬間に映画がようやく身を起こして、これもまた最近のイーストウッド作品に顕著な、行って戻ってまた出かけていく話であることに目が開く。このマーカスとのシークエンスに先立ち、ジョージはマリー(セシル・ドゥ・フランス)とのファースト・コンタクトで永遠の水中に漂う彼女の静謐で光に満ちた半身を幻視したことにより、自身の抱える絶望的な違和を生み出しているのは、あちら側に残したままの半身を自ら閉じこめ疎外しているこの自分自身のせいなのかもしれないと覚醒し、初めて他者(マリー)を求めて自ら歩み寄り怖れることなく手を差し出す。そしてそこから予感させるのは半身を差し出した者同士による共闘の物語ではあるのだけれど、いつにも増して事前事後予後でいう予後の物言いにとりつく島がないために、映画の最中があれだけ抜き差しならない緊密だったにもかかわらず、そこで目にしたもの以外は何も持ち帰らせてもらえないという厳然とした叙事はある種奇形ですらあるし、そこまでも描いちゃうか!というあのキスシーンに至っては筆が滑るギリギリの寸止め感に思わずクラクラしてしまう。自分で自分の葬式を出した「グラントリノ」以降、新たな匿名性と引き換えに獲得した語り口は透明な酩酊の度合いが増しているように思えて、でもそれがまったく顔にも足取りにも出ない素面であるだけかなり厄介さは増して、真の自由を手に入れた人間はそうでない人間にとって畏怖の対象でもあることを思えば、ああワタシは一介の観客で良かったと安全地帯からその行状を見物できるのがひたすら愉悦ではある。ところで先ほど言った筆滑り感だけれども今作はそこが見所だとしても過言ではなくて、そもそもマリーの恐怖と絶望を観客に共有させるための津波がその役割を凌駕する独自のスペクタクルを持ってしまったりとか、料理教室での目隠しプレイにしても残酷な予兆に向けてひた走るはずがなぜあそこまで執拗になぶり合う必要があるのかとか、要するに端々のフックが強烈すぎるわりにその回収自体は端正に行われるので、自分が一体何の映画を観ているのかところどころで怪しくなってしまうのである。ただそれで混乱して途方にくれたかというとそういうわけではなく、そうしたすべての回収としてあのキスシーンを用意したんだよと言われれば、なるほどそうだったんですね、ボーイ・ミーツ・ガール以上に希望であふれた話などないですものねと間抜けな相づちなど打ってしまったりもするわけで、ここまでご覧になって、ん?何か今回はイーストウッド・ミーツ・シャマランだって聞いたけどボーイ・ミーツ・ガールって何だよ?と訝しんだ方は是非劇場に足を運んでその正体をご覧いただければと思う。ちなみにブライス・ダラス・ハワードが出ているからといって「レディ・イン・ザ・ウォーター」を想い浮かべたりする必要はまったくないはずである。ないはずだけれど、彼女のフィルモグラフィを承知でキャスティングしてることを思えばますます喰えない監督ではある。






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