August 11, 2006

秋山好古・秋山真之銅像・・・梅津寺

松山市駅から伊予鉄道高浜線で18分、梅津寺駅下車、徒歩5分と結構行きやすい場所にあった。
ここ梅津寺には海水浴場あり(駐車場代が確か1000円/hだったかな)、遊園地あり(寂れてて今にも潰れそう)。


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−秋山好古−
松山藩士秋山久敬の三男として松山市中徒歩町に生まれる。
海軍軍人秋山真之の実兄。
明治10年陸軍士官学校、16年陸軍大学を経て騎兵科を志す。
20年フランスへ留学。
日清戦争では騎兵第一大隊長、後に騎兵学校長となり、明治陸軍の騎兵科を「戦略機動集団の騎兵」として強化発展させ、騎兵の父と仰がれた。日露戦争では騎兵第一旅団長となり、世界最強のコサック騎兵と奉天会戦等で戦い、敵の退路をおさえる陸戦最後のダメ押しに大功があった。第一及び近衛師団長を経て、大正5年大将となった。朝鮮軍司令官、教育総監、軍事参議官と陸軍の要職をつとめた。
その後乞われて北予中学(現松山北高)の校長となり、後進の育英に尽力した。
司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に弟真之とその親友正岡子規の三人が主人公となり、それぞれの人間と人生が語られている。
この像は昭和45年1月に再建された。
※2枚目の写真は満州を睨んでるそうです。






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−秋山真之−
松山藩士秋山久敬の五男として市中徒歩町に生まれる。
好古は実兄。
15歳で上京し、親友の正岡子規と下宿した。その後、明治19年海軍兵学校に入学し、同校を首席卒業。日清戦争を経て米国に留学、マハン戦術(近代米国海軍戦術)を究めた。
日露戦争で連合艦隊司令長官東郷平八郎の作戦主任参謀として活躍、日本海海戦ではバルチック艦隊を迎え、伊予水軍伝来ともいわれる「丁字戦法」を駆使し、意表を衝く敵前旋回で敵艦隊を撃滅し、戦局の大勢を決した。なお、この時掲げたZ旗の「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ」の文は真之の作である。
大正6年中将に進んだが、翌年病死。
この像は、石手寺境内にあったものを昭和43年9月に移転した。


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※この「智謀湧如」は東郷平八郎献辞のもの。



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