2005年07月20日

『アースダイバー』続き

書き途中だった中沢新一, 『アースダイバー』(講談社, 2005)のお話の続き。

私は京都に住んでいます。で、学会などでときどき東京に行くわけですが、東京に行くたびに思うのが、「なんでこんなに坂道が多いのか!」ということ。京都市は盆地なので、市外に行くにつれて上り坂は増えますが、それでも、基本的に平坦です(おかげで自転車が活躍する)。他方、東京は違う。至るところ、上ったり下ったり。

で、何故こうなるかといえば、それは東京という街の「下層」を考えてみると納得できます。

東京という街は、今でこそ「関東平野」と呼ばれて真っ平らな土地にあるかのように思えますが、数千年ほど昔、縄文時代まで遡ると、全然違う。当時は今より海面が高く、洪積層という堅い台地(武蔵野とか)を至るところで海がえぐり、複雑な入江状の土地を形成していました。今、東京を流れている川はことごとく、当時は入江だったのです。したがって、当時の東京は「岬」だらけでした(現在では、その入江を、沖積層と呼ばれる層が埋めています)。東京一帯がリアス式海岸だったわけです。

... という話は、地質学や考古学の分野ではよく聞く話(だから、縄文時代の貝塚は、現代では割と内陸で見つかる)。

ところが、この縄文時代の「土地の無意識的記憶」を、現代の東京という都市と「共時的」に論じてしまう、とんでもない都市論が登場しました。それが、中沢新一, 『アースダイバー』。

例えば、地質学や考古学では、土地の過去を文字通り過去として、過ぎ去ったものとしてのみ語り、現在の都市と直結させることはありません。言わば、「他者としての過去」として論じます。仮に繋げるとしても、そこに様々な変化の連鎖を媒介させて初めて縄文時代の東京と21世紀東京を「できるだけ間接的に=遠く遠く」関係付けます。縄文はまさに「遠すぎる過ぎ去った過去」にすぎないのです。文字通り丁重に掘り起こし、わざわざ保存の対象にしなければならないほどに。

ところが、中沢氏の著作では、そうしたいわゆる歴史(学)的手法とは全く違った形で「東京」が論じられます。その手法が、「アースダイバー」として土地の無意識的記憶に潜る彼独自の方法です。
東京という都市は、「無意識」をこねあげてつくったこの社会にふさわしいなりたちをしている。目覚めている意識に「無意識」が侵入してくると、人は夢を見る。アースダイバー型の社会では、夢と現実が自由に行き来できるような回路が、いたるところにつくってあった。時間の系列を無視して、遠い過去と現代が同じ空間にいっしょに放置されている。スマートさの極限をいくような場所のすぐ裏手に、とてつもなく古い時代に心の底から引き上げられた泥の堆積が残してある。この不徹底でぶかっこうなところが、私たちの暮らすこの社会の魅力なのだ。
 表通りにはパリとそっくりなすてきなお店の並ぶ代官山の裏山には、猿楽町の遺跡群が泥の堆積のようにうずくまっている。それと同じように、そこに暮らしている人々の心も、さまざまな時間を同時に生きている。(pp. 12-13)
こうした感覚に基づいて、中沢氏は「アースダイバー用の地図」、つまり、縄文時代の頃の海岸線が記された東京地図を片手に、東京の街の「下層」へと潜っていきます。そして、入江だらけの東京を「岬」だらけの土地、として見なします。(中沢氏は、岬という土地が持つ一種の宗教性を強調しています。そして、現代でも、その「岬」には、多くの神社が残されているそうです)
東京を歩いていて、ふとあたりの様子が変だなと感じたら、この縄文地図を開いてみるのである。するとこれは断言してもいいが、十中八九そのあたりはかつて洪積層と沖積層のはざまにあった地形だということがわかる。そういうところはたいてい、沖積期の台地が海に突き出していた岬で、たくさん古墳がつくられ、古墳のあった場所には後にお寺などが建てられたり、広大な墓地ができたりしている。…つまり、そういう場所からは、死の香りがただよってくるのだ。
 東京はけっして均質な空間として、できあがってなどはいない。それはじつに複雑な多様体の構造をしているが、その多様体が奇妙なねじれを見せたり、異様なほどの密度の高さをしめしている地点は、不思議なことに判を押したように、縄文地図においても洪積層と沖積層がせめぎあいを見せる、特異な場所であったことがわかる。(p. 15)
中沢氏がダイブするのは、「湿地の縄文的エロティシズム(歌舞伎町)と乾燥地の弥生的文化(伊勢丹)」とが隣あう新宿、「古墳という死者の王国に佇む慶応大学の敷地」三田、「あらゆる排泄物が、無数の水路を通じて地下世界の伽藍へと流れ込む」渋谷などなど。

ここで中沢氏の記述を、単なる「かつての東京はこうだった」的な類いのそれと同一視してはいけません。中沢氏の記述は、縄文的な土地の無意識的記憶(=意識の下層であると同時に、土地の下層であるという、二重の下層)と、現代の土地という意識的記憶(=意識の表層であると同時に、土地の表層であるという二重の表層)という垂直軸を、時間軸を無視してアースダイブによって直結させているのです。かつて構造主義が流行ったとき、こぞって多くの論者が「共時的」という形容詞を濫用しましたが、中沢氏こそが、まさに「共時的」な思考を実に自然に駆使できていることがよく分かります。

赤塚さんが縣'Zinでこの本を取り上げておられますが、赤塚さんだけでなく、こうした思考ができる考古学者に是非、様々な土地をアースダイブしてほしいものです。ただ、多くの考古学者は、きっとこうした思考を「荒唐無稽」として斥けてしまうだろうなぁ。「縄文と今の間にはいろいろあった、もう、現代とは直結していない」っていう、言うまでもない常識を持ち出して。違うのよ、そういう「都市の表層の意識」には浮かんでこない「都市の無意識」が問題なのだから。
 

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「アースダイバー」は、陰陽二元論的な世界だ。しかも連想は自由だ。 縄文を陰に、弥生を陽に、低地(谷戸)を陰に、台地を陽に、湿気は陰、乾燥は陽、地下は陰、地上は陽、無意識は陰、意識は陽、といった具..
アースダイバーをダイブする(2)【marginBlog】 at 2005年08月16日 22:47
研究計画書を、院試とその後に続く、修士論文の為に作成しました。 その為に読み込んだ文章やら、書籍の主要なものが下記のこれら。 実際はもっと多くの論文、論考に目を通します。 ..
和辻・オギュスタンベルク・中沢新一・澤田允茂・岩村和夫・永田一征【日々これケセラセラ】 at 2005年12月11日 22:26
アースダイバーposted with amazlet on 06.04.09中沢
宝の地図 アースダイバー【未来の成功のためのレッスン】 at 2006年04月09日 16:50
この記事へのコメント
芝、道上寺、東京タワー。「死霊の王国」という切り口もよいが。僕ならば鳥瞰的に海に面した「芝」という土地神のランドマークとして巨大古墳から東京タワーにつなげたいような気がしますが・・。いずれにしろ考古学的には許されない領域でしょうね。
Posted by akatsuka at 2005年07月20日 17:37
赤塚さんのblogを読んでいると、とても「遠望を見渡す」思想の方だなぁと感じます。他方、中沢氏の本を読んでいると、「見晴らし」という観点はあまり出てこず、その代わり、垂直に「覗き込む」視線、垂直に「見上げる」視線が突出する(その視線の先にあるのは、この世ならざる世界なのでしょう)。その違いが「景観」に対する眼差しの差を生んでいるのでしょうか。

とまれ、中沢氏とはまた違った「アースダイブ」、これからも楽しみにしております。いや、ダイビングではなくむしろハングライダーのようなものになるのかもしれませんが。
Posted by さとう at 2005年07月21日 00:47
アースダイバーは本屋で見つけた時に、ありゃりゃと思ったけれど、批判は読んでからと思うものの、買う気もしないので、図書館に予約したら多分1年先くらいって事で、何時になる事やら。
Posted by アーム at 2005年07月24日 21:35
「ありゃりゃ」が意味するところは何なのでしょう?
Posted by さとう at 2005年07月25日 00:16
で、結局この記事は誉め殺しということでFA?
トンデモ擁護の典型的パターンをパロっているようにしか思えず、マジレスを控えてきたのですけど。
Posted by はやかさ at 2005年07月27日 22:39
それは過剰解釈。

事実としてはトンデモであっても、
思想としてはトンデモではないと思ってます。

っていうと「事実なき思想はそれ自体がトンデモだ」という声が飛んできそうですが。
Posted by さとう at 2005年07月29日 00:49