2006年08月14日
波多野宗教哲学の根本問題
今度の学会で会場が一緒になる桶川さんが、ご自身のblog「屋根裏部屋の思考」の中で
私の秋の日本基督教学会の発表のタイトルは「波多野精一における無と他者」。彼の宗教哲学において、「無」と「他者」とがどうつながり、それぞれがどういう意味において用いられ、かつ、その思想全体がどのような意味を持っているのかを明らかにしようと思っています(まぁ、実を言えば7月に出身研究室の集まりがあり、そこで草稿を発表してしまったので、もう大方できているといえばできているんですが)。
というわけで、その波多野論のイントロ部にあたる「波多野自身の問題設定」について、ちょっとご紹介。以下、既に書き上げた草稿からのコピペなので、文体が変わりますがご寛恕ください。
波多野の宗教哲学の方法とその基本的姿勢は、「宗教哲学はあくまでも宗教体験の理論的回顧、それの反省的自己理解でなければならぬ」(全集4, p. 4)という言葉に凝縮される。
この姿勢は宗教哲学に限られないのだが、「我々は知りつつ生き、また生きつつないし生きることによって何ものかを知る。これが即ち体験である」(全集3, p. 315)。しかし、その体験を体験の中で体験として事実的に反復するのではなく、それの反省的自己理解を通じて、その体験の本質を把握するのが彼の哲学的方法である。波多野の言葉を借りれば、「体験の立場に立つものは宗教が他と混同を許さぬ固有の意味内容を有するを知る。かかる意味内容を反省に上せ、それの理論的理解を原理へと推し進めて行くものは本質の観照把握に到達してはじめて満足を見る。この本質の理解こそが宗教哲学である」(全集3, p. 315)。波多野は、人間の体験の中で、もっとも深くもっとも高次の体験を宗教だと考える。そのため、どのように宗教なるものが体験の中で必要とされ、また発生してくるか、その生成の現場を反省的に取り出そうとする。
さて、その体験の主体が有する主体性の基本的な働きは生きることであり、自然的に生き、文化的に生きる。当たり前である。だが、波多野はこの主体の生そのもののうちに、主体の生を蝕む悲劇性、逆説を見る。いささか長くなるが、波多野の宗教哲学の出発点となる認識であるので、引用してみよう。
こうした逆説的関係を解決すべく建設される他者との共同態が、「文化」である。文化的生を生きる体験においては、実在的他者との直接的関係は、主体-客体という表象的関係に変換され――ハイデッガー流にいえば世界像の時代、「主体は主体性を、したがって固有なる自己主張を飽くまでも保存し、ただ他者のみ自然的実在性を離れて客体となる。しかるに客体の存在は主体へのそれであるに過ぎず、それの本質は主体に対して可能的自己ないし自己表現である」ことになる(全集4, pp. 324-325)。
しかし、「客体の世界は主体そのものを壊滅に導くべき直接的交渉を緩和するために生まれた。しかしながら主体が互いをに他者を無きものにする努力と行為とにおいて成立する以上、かくの如き中立地帯は独立性と優越性との確保によってはじめて維持される。文化の徹底は……他者の主体性が、全く姿を消した場合にのみ望みうる」(全集4, p. 165)。結局、客体と化した他者は「第二の自己」の域を超えない 。
波多野は、文化ですら克服しえなかったこの他者を巡る逆説が解決を見るのは、宗教においてだと考える。つまり、宗教体験において体験された他者経験にこそ、その解決の道があると考えるのである。宗教が文化主義を克服する、最も高い体験だと言われる所以である。
(なお、一点指摘しておこう。既に見たように、波多野は、主体が存立するためには、実在的他者の存在が障害であると同時に不可欠であると主張する。先に例に挙げた時間論であれば、その構造は極めて説得的であるのに対し、実在的他者に関しては、「主体は他者を離れて単独に孤立しては存立しえぬ」という事実性のみが強調され、その根拠が十分に考察されているとは言い難い。その点が惜しまれる。)
さて、こうしたアポリアを克服するためには、どのような経験が必要とされるのか。
波多野がそこで取り上げるのが、神秘主義である 。文化主義は、他者を客体――主体から見られた像、畢竟、主体による主体の経験の投射像――として捉えた結果、却って他者性を喪失した。他方、波多野は神秘主義とは「直接性の完全なる実現、それへの努力ないしそれの体験」として定義し、神秘主義が他者との直接的関係を持つことで、その両義性を解消しうるか否かを検討する。文化主義の間接的他者(=客体)理解とは異なり、「生の共同は分離における一致、対立における合同であり、この事は直接性の存在によってはじめて成立する」からである。
……で、この波多野の検討が果たしてどのような帰結を生むのか、また、その検討は正当なものなのかどうか、といったことを論じるのが私の発表になる…はずです。
これは私自身の研究発表のウォーミングアップでもある。公的な発表の前に屋根裏部屋で行う下準備を、少しでも他の研究者と共有することが、この研究会の目的の一つだったわけなので、今回は本番前に未整理な考えをここで発表し、みなさんのコメントをいろいろといただきながら発表の準備ができればと思う。とおっしゃっていました。そういえば「文明と宗教」研究会向けの文章も久しくUPしてなかったので、これを機に、私も学会発表の準備段階のものをちょいと公開してみることにします。
私の秋の日本基督教学会の発表のタイトルは「波多野精一における無と他者」。彼の宗教哲学において、「無」と「他者」とがどうつながり、それぞれがどういう意味において用いられ、かつ、その思想全体がどのような意味を持っているのかを明らかにしようと思っています(まぁ、実を言えば7月に出身研究室の集まりがあり、そこで草稿を発表してしまったので、もう大方できているといえばできているんですが)。
というわけで、その波多野論のイントロ部にあたる「波多野自身の問題設定」について、ちょっとご紹介。以下、既に書き上げた草稿からのコピペなので、文体が変わりますがご寛恕ください。
波多野の宗教哲学の方法とその基本的姿勢は、「宗教哲学はあくまでも宗教体験の理論的回顧、それの反省的自己理解でなければならぬ」(全集4, p. 4)という言葉に凝縮される。
この姿勢は宗教哲学に限られないのだが、「我々は知りつつ生き、また生きつつないし生きることによって何ものかを知る。これが即ち体験である」(全集3, p. 315)。しかし、その体験を体験の中で体験として事実的に反復するのではなく、それの反省的自己理解を通じて、その体験の本質を把握するのが彼の哲学的方法である。波多野の言葉を借りれば、「体験の立場に立つものは宗教が他と混同を許さぬ固有の意味内容を有するを知る。かかる意味内容を反省に上せ、それの理論的理解を原理へと推し進めて行くものは本質の観照把握に到達してはじめて満足を見る。この本質の理解こそが宗教哲学である」(全集3, p. 315)。波多野は、人間の体験の中で、もっとも深くもっとも高次の体験を宗教だと考える。そのため、どのように宗教なるものが体験の中で必要とされ、また発生してくるか、その生成の現場を反省的に取り出そうとする。
さて、その体験の主体が有する主体性の基本的な働きは生きることであり、自然的に生き、文化的に生きる。当たり前である。だが、波多野はこの主体の生そのもののうちに、主体の生を蝕む悲劇性、逆説を見る。いささか長くなるが、波多野の宗教哲学の出発点となる認識であるので、引用してみよう。
主体の主体性は、動作の中心であること、即ち自己の存在を維持貫徹し増進拡張すること、簡単にいえば自己主張、に存する。すなわちそれは自己の存在への存在に存するというべきであろう。しかるにこのことは主体がそれに向かって自己を主張する相手の存在を包含する。すなわち主体性は他者への生、他者への存在である。このことは日常の体験の極めて明白に教える所である。我々は根源的には人に対してあるが、また場合によっては物に対してもある、いずれにせよ何ものかに対してある。……主体性即ち実在性の両面――即ち一方自己主張であるものが他方他者との関係交渉であること、他者への生としてのみ自己の存在への存在が成り立つこと――ここに生の最も根本的な問題が宿っている。(全集4, pp. 412-413)主体は、飽くなき自己実現、自己拡大を求める。ゆえに、他者との関係交渉はその障害であり、主体にとって他者よりの圧迫侵害であり、さらにいえば存在の喪失である。だが、他方で、
主体はそれとの関係交渉に立つ他者が無くしては虚空に飛散消失して壊滅に帰せねばならぬゆえ、即ちそれの行くえを遮ってそれに抵抗を与え緊張を促しつつそれの自己主張を誘発する実在者を俟ってはじめてその実在性は維持されるゆえ……実在的他者は主体にとって実在性および生の内容の、したがってあらゆる存在の、維持者ないし供給者であるといわねばならぬ。……主体は存在を獲得しつつしかも同時に喪失する。(全集4, pp. 291-292)他者が主体の存立にとって障害であると同時に必要不可欠であるという両義性。実をいえば、波多野宗教哲学はことごとく、この問題構造の解明とその解決を逡巡するのである。たとえば、これを時間論に置き換えてみよう 。ひたすらに自己の生の拡大を目指す「現在」、これが主体に相当する。それに対し、他者に相当するのが「将来」である。「将来は絶えず流れ去る現在、絶えず無くなり行く存在を補給しつつ維持する役目を演じると同時に、またそれの過去への絶え間なき移り行きの原因」でもあり(全集4, p. 292)、その結果、主体は過去という「生の壊滅・存在の喪失・非存在への没入」の末路を辿る。ここでもやはり、構造は全く同一である。主体を成立せしめるとともに主体を壊滅へと追いやる他者との逆説的関係。
こうした逆説的関係を解決すべく建設される他者との共同態が、「文化」である。文化的生を生きる体験においては、実在的他者との直接的関係は、主体-客体という表象的関係に変換され――ハイデッガー流にいえば世界像の時代、「主体は主体性を、したがって固有なる自己主張を飽くまでも保存し、ただ他者のみ自然的実在性を離れて客体となる。しかるに客体の存在は主体へのそれであるに過ぎず、それの本質は主体に対して可能的自己ないし自己表現である」ことになる(全集4, pp. 324-325)。
しかし、「客体の世界は主体そのものを壊滅に導くべき直接的交渉を緩和するために生まれた。しかしながら主体が互いをに他者を無きものにする努力と行為とにおいて成立する以上、かくの如き中立地帯は独立性と優越性との確保によってはじめて維持される。文化の徹底は……他者の主体性が、全く姿を消した場合にのみ望みうる」(全集4, p. 165)。結局、客体と化した他者は「第二の自己」の域を超えない 。
……かくの如く他者としての客体が自我のうちに全く取り入れられることは、後者にとっては、却ってたしかに自滅である。実在は主体の共同において成り立ち、共同はいつも他者を必要とする以上、自我の一人舞台は実はあらゆる実在の、従って自我そのものさえの没落を意味する。(全集4, p. 170)こうして他者のアポリアは、いささか平板化された感も拭えないが、文化において解消されるどころか深刻になる。
波多野は、文化ですら克服しえなかったこの他者を巡る逆説が解決を見るのは、宗教においてだと考える。つまり、宗教体験において体験された他者経験にこそ、その解決の道があると考えるのである。宗教が文化主義を克服する、最も高い体験だと言われる所以である。
(なお、一点指摘しておこう。既に見たように、波多野は、主体が存立するためには、実在的他者の存在が障害であると同時に不可欠であると主張する。先に例に挙げた時間論であれば、その構造は極めて説得的であるのに対し、実在的他者に関しては、「主体は他者を離れて単独に孤立しては存立しえぬ」という事実性のみが強調され、その根拠が十分に考察されているとは言い難い。その点が惜しまれる。)
さて、こうしたアポリアを克服するためには、どのような経験が必要とされるのか。
波多野がそこで取り上げるのが、神秘主義である 。文化主義は、他者を客体――主体から見られた像、畢竟、主体による主体の経験の投射像――として捉えた結果、却って他者性を喪失した。他方、波多野は神秘主義とは「直接性の完全なる実現、それへの努力ないしそれの体験」として定義し、神秘主義が他者との直接的関係を持つことで、その両義性を解消しうるか否かを検討する。文化主義の間接的他者(=客体)理解とは異なり、「生の共同は分離における一致、対立における合同であり、この事は直接性の存在によってはじめて成立する」からである。
……で、この波多野の検討が果たしてどのような帰結を生むのか、また、その検討は正当なものなのかどうか、といったことを論じるのが私の発表になる…はずです。
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この記事へのコメント
興味深く読ませていただきました。お恥ずかしながら、私は波多野誠一を一つも読んでいないので、彼の宗教哲学がいかなるものかについて全く知識がありません。しかし、貴稿をお読みするかぎり、大変本格的な宗教哲学的思索が展開されているようですね。以下、適切なコメントにはならないかも知れませんが、知らないがゆえの素朴な感想と質問をさせて下さい。
他者との葛藤とその止揚に文化の本質と見るところは、一見フロイトらの社会契約論的な文化論を想起させますが、実例としてあげられている時間論を見るとより広い哲学的射程をもった洞察であることが感じられます。ここでは触れられていませんが、時間をめぐる逆説を文化はどのように解決するのでしょうか。議論の筋道からすれば、他者としての将来を客体化するということになりましょうが、これは具体的に言えばどういうことでしょうか。たとえば暦や時計、スケジュール表やなどの発明、将来を組み込んだ社会制度の制定といったことを想像しますが、波多野はどう述べているのでしょうか。
貴稿を読ませていただく限り、波多野の宗教学的考察が一般の文化人類学的な考察と決定的に違う点は、やはり宗教の位置づけでしょう。後者では、宗教は文化と同一視されたり、その重要な一機構として扱われる場合が多く、その意味で宗教は文化の矛盾をそのまま背負ってしまうことになりがちなのに対して、波多野の議論では、宗教が文化の矛盾を克服するという役割によって説明されています。文化論に解消されない宗教論である点が大変おもしろいと思います。先の時間論で言えば、時間の他者性を消去しようとする文化制度の根本的な無力を補う/超えるものとして、宗教があるのでしょうが、それはどんなものなのでしょう。このあたりは波多野宗教哲学の基本中の基本だからいちいち言うまでもないのでしょうが。
それにしても、こうした考察が可能になるのは、佐藤さんが言われるように、彼が特に神秘主義を取りあげたことによってでしょう。しかし、神秘主義だけが宗教ではないはずなので、ここで当然宗教の類型論のようなものが必要となるはずです。たとえば、ベルグソンの「開かれた宗教」と「閉じられた宗教」のような。波多野はキリスト教をベースに思考しているのでしょうが、そのあたりの宗教の類型をどのように考えているのでしょうか。
勉強不足の初歩的な質問ですいません。佐藤さんの発表の方向とずれていたらお許しください。
他者との葛藤とその止揚に文化の本質と見るところは、一見フロイトらの社会契約論的な文化論を想起させますが、実例としてあげられている時間論を見るとより広い哲学的射程をもった洞察であることが感じられます。ここでは触れられていませんが、時間をめぐる逆説を文化はどのように解決するのでしょうか。議論の筋道からすれば、他者としての将来を客体化するということになりましょうが、これは具体的に言えばどういうことでしょうか。たとえば暦や時計、スケジュール表やなどの発明、将来を組み込んだ社会制度の制定といったことを想像しますが、波多野はどう述べているのでしょうか。
貴稿を読ませていただく限り、波多野の宗教学的考察が一般の文化人類学的な考察と決定的に違う点は、やはり宗教の位置づけでしょう。後者では、宗教は文化と同一視されたり、その重要な一機構として扱われる場合が多く、その意味で宗教は文化の矛盾をそのまま背負ってしまうことになりがちなのに対して、波多野の議論では、宗教が文化の矛盾を克服するという役割によって説明されています。文化論に解消されない宗教論である点が大変おもしろいと思います。先の時間論で言えば、時間の他者性を消去しようとする文化制度の根本的な無力を補う/超えるものとして、宗教があるのでしょうが、それはどんなものなのでしょう。このあたりは波多野宗教哲学の基本中の基本だからいちいち言うまでもないのでしょうが。
それにしても、こうした考察が可能になるのは、佐藤さんが言われるように、彼が特に神秘主義を取りあげたことによってでしょう。しかし、神秘主義だけが宗教ではないはずなので、ここで当然宗教の類型論のようなものが必要となるはずです。たとえば、ベルグソンの「開かれた宗教」と「閉じられた宗教」のような。波多野はキリスト教をベースに思考しているのでしょうが、そのあたりの宗教の類型をどのように考えているのでしょうか。
勉強不足の初歩的な質問ですいません。佐藤さんの発表の方向とずれていたらお許しください。
Posted by 桶川利夫 at 2006年08月23日 11:08
いやいや、大変貴重なコメント、ありがとうございます。
ですが、あぅあぅ…、今しばらく返信お待ちを。土曜日夜には可能かと。
ですが、あぅあぅ…、今しばらく返信お待ちを。土曜日夜には可能かと。
Posted by さとう at 2006年08月26日 03:28
たくさん仕事をかかえてお忙しいことと思います。どうぞご無理のないように。お時間のある時で結構ですので。
Posted by 桶川利夫 at 2006年08月27日 00:55
白頭庵です。
桶川氏同様、とても興味深く拝読いたしました。波多野精一の宗教哲学に真正面から切り込みながら、気負いのない瀟洒な語り口で、しかも論点を押さえたクリアな論考で、早く続きが読みたくなります。
いわゆる鬱の状態でコメントするので、ご論考に対して適切なことはとても言えず、邪魔するようなことになるかもしれませんが、感想めいたものを。
他者と自己をめぐる逆説的構造が、時間論においてより鮮明になるという論点は、おそらく、波多野宗教哲学を読み解く鍵になってくるのでしょう。現在を生きるわれわれは、この逆説を生きているということですね。
将来が現在を補給し維持すると同時に、現在が過ぎ去り滅する原因でもあるという逆説に対して、波多野がいかにして永遠を論じていくか、過ぎ行く時が有のもろさというか、はかなさというか、そのアポリアを浮き彫りにするのに対して、波多野は永遠をどう論じていくか、ご論考を読ませていただいてにわかに興味が湧いてきました。以前に宗教哲学三部作をざっと読んだときには、永遠と時をめぐる議論の方ばかりに気を取られていて、それを論じるまでの筋道が僕の中ではほとんど完全にすっ飛んでしまっています。
西洋の永遠=有という理解に深入りしている僕にとって、波多野宗教哲学は、もう一度読み直してみなくちゃならないものに思えてきました。
感想にもなりませんでしたね。学会発表のご成功をお祈り申し上げております。
桶川氏同様、とても興味深く拝読いたしました。波多野精一の宗教哲学に真正面から切り込みながら、気負いのない瀟洒な語り口で、しかも論点を押さえたクリアな論考で、早く続きが読みたくなります。
いわゆる鬱の状態でコメントするので、ご論考に対して適切なことはとても言えず、邪魔するようなことになるかもしれませんが、感想めいたものを。
他者と自己をめぐる逆説的構造が、時間論においてより鮮明になるという論点は、おそらく、波多野宗教哲学を読み解く鍵になってくるのでしょう。現在を生きるわれわれは、この逆説を生きているということですね。
将来が現在を補給し維持すると同時に、現在が過ぎ去り滅する原因でもあるという逆説に対して、波多野がいかにして永遠を論じていくか、過ぎ行く時が有のもろさというか、はかなさというか、そのアポリアを浮き彫りにするのに対して、波多野は永遠をどう論じていくか、ご論考を読ませていただいてにわかに興味が湧いてきました。以前に宗教哲学三部作をざっと読んだときには、永遠と時をめぐる議論の方ばかりに気を取られていて、それを論じるまでの筋道が僕の中ではほとんど完全にすっ飛んでしまっています。
西洋の永遠=有という理解に深入りしている僕にとって、波多野宗教哲学は、もう一度読み直してみなくちゃならないものに思えてきました。
感想にもなりませんでしたね。学会発表のご成功をお祈り申し上げております。
Posted by 白頭庵 at 2006年08月28日 04:16
濃厚なコメント、ありがとうございます。
まず、時間論と文化について。予想されたとおり、波多野は文化が発明した時間を「客観的時間」(いわゆる計量可能な時間、しかも、空間的表象で捉えられた時間)と位置づけます。ただ、波多野はこの時間を非常に低く評価しています。客観的時間においては、あたかも主体はその舞台から引っ込み、時間だけが無人の舞台で流れていくかのように感じられる。その時間は生きられる時間ではなく観られる時間となる。ところが、実際には主体は消えてしまうわけではないので、実は主体は、時間という他者と没交渉(というか、無活動に伴う交渉の停滞)を招いてしまい、結果、主体は自己実現もなにもせずに悪しき停滞、悪しき無終極に陥ってしまう…と言われています(『時と永遠』第3章)
> 文化制度の根本的な無力を補う/超えるものとして、宗教があるのでしょうが、それはどんなものなのでしょう。
実は、私自身は、宗教哲学に多く見られる(そして、私もその片足を突っ込んでいる京都学派において露骨に展開される)一種の「宗教が一番上」「宗教が一番究極的な意味に関わる」主義は、一旦カッコにいれないといけないと考えています。そのため、波多野の宗教哲学も、故意に「できるだけ宗教固有のものを脱臭し、普遍的な人間存在論などに持っていけないか?」と考えています。宗教なき宗教哲学――そういったものですね。少なくとも、文化・宗教・その他のカテゴリー間の上下関係のみならず、そうした線引き自体の妥当性を一旦脱構築してみないといけない。(「宗教に固有のカテゴリー」なる言説批判ですね)
…ということを考えていますので、波多野の論調をそのまま引き継ぐのは無理だろうなぁというのが、私の見解です。
で、それが可能などうか、なのですが、まさに白頭庵さんが「現在を生きるわれわれは、この逆説を生きている」とおっしゃっていますが、まさにその《事実性》と《人間存在の構造》そのものに、一種の《他者問題の深淵》と《他者問題の解決への一口》が同時に含まれている点を、可能な限り宗教体験を前提としないような形で展開できれば…と思っているのですが(その場合、波多野と別の人を比較したりしながら、ですが)、そうした研究はとりあえず今後の課題にせざるをえないようです。
> 当然宗教の類型論のようなもの
波多野はまず、宗教の本質を次のように定義します(その意味で、最近評判の悪い「宗教本質論」の時代を生きた人です)。
「理性の普遍妥当的価値を、私たちにおいて、また私たちを通して、その価値内容を実現する超越的、絶対的実在の顕現として体験することに宗教の本質は存する」(「宗教哲学の本質およびその根本問題」)。
で、この本質定義に沿って、波多野は類型論を展開していきますが、そんなに本格的なものではなく、むしろ、極めてシンプルで、ニ項対立的な図式です。
それは「イデアリズム」と「人格主義」という図式です(その中間地帯が「神秘主義」)。前者は自己から出発し、超越的なものをイデア的存在において体験します。後者は他者より出発し(=他者によって自己を規定させ)、超越的なものを人格的他者において体験します。すさまじく大雑把にいえば、この二分法です。前者の例がプラトニズムで、後者の例がキリスト教です。まぁ、こういう分類そのものが極めてキリスト教ベースであることは否定できませんね。ただ、シンプル故に汎用性に優れた図式であり、波多野はこの二分法でざくざく論を進めていきます。ただし、あくまで「宗教体験」の分類であって、実定的宗教共同体の分類ではない点には注意が必要です。宗教は第一には、自己の体験の出来事である、というのが彼の前提のようです。
> 永遠と時をめぐる議論の方ばかりに気を取られていて、それを論じるまでの筋道
実は今回の発表では、ほとんど「永遠」の問題は触れない予定なのです。波多野といえば時間論、という一種の定番をあえて踏み外し、波多野宗教哲学を「存在論」と「愛論」で読み解いていこうといのが、今回の企てです。成功するか否かはともかく、ではありますが…
まず、時間論と文化について。予想されたとおり、波多野は文化が発明した時間を「客観的時間」(いわゆる計量可能な時間、しかも、空間的表象で捉えられた時間)と位置づけます。ただ、波多野はこの時間を非常に低く評価しています。客観的時間においては、あたかも主体はその舞台から引っ込み、時間だけが無人の舞台で流れていくかのように感じられる。その時間は生きられる時間ではなく観られる時間となる。ところが、実際には主体は消えてしまうわけではないので、実は主体は、時間という他者と没交渉(というか、無活動に伴う交渉の停滞)を招いてしまい、結果、主体は自己実現もなにもせずに悪しき停滞、悪しき無終極に陥ってしまう…と言われています(『時と永遠』第3章)
> 文化制度の根本的な無力を補う/超えるものとして、宗教があるのでしょうが、それはどんなものなのでしょう。
実は、私自身は、宗教哲学に多く見られる(そして、私もその片足を突っ込んでいる京都学派において露骨に展開される)一種の「宗教が一番上」「宗教が一番究極的な意味に関わる」主義は、一旦カッコにいれないといけないと考えています。そのため、波多野の宗教哲学も、故意に「できるだけ宗教固有のものを脱臭し、普遍的な人間存在論などに持っていけないか?」と考えています。宗教なき宗教哲学――そういったものですね。少なくとも、文化・宗教・その他のカテゴリー間の上下関係のみならず、そうした線引き自体の妥当性を一旦脱構築してみないといけない。(「宗教に固有のカテゴリー」なる言説批判ですね)
…ということを考えていますので、波多野の論調をそのまま引き継ぐのは無理だろうなぁというのが、私の見解です。
で、それが可能などうか、なのですが、まさに白頭庵さんが「現在を生きるわれわれは、この逆説を生きている」とおっしゃっていますが、まさにその《事実性》と《人間存在の構造》そのものに、一種の《他者問題の深淵》と《他者問題の解決への一口》が同時に含まれている点を、可能な限り宗教体験を前提としないような形で展開できれば…と思っているのですが(その場合、波多野と別の人を比較したりしながら、ですが)、そうした研究はとりあえず今後の課題にせざるをえないようです。
> 当然宗教の類型論のようなもの
波多野はまず、宗教の本質を次のように定義します(その意味で、最近評判の悪い「宗教本質論」の時代を生きた人です)。
「理性の普遍妥当的価値を、私たちにおいて、また私たちを通して、その価値内容を実現する超越的、絶対的実在の顕現として体験することに宗教の本質は存する」(「宗教哲学の本質およびその根本問題」)。
で、この本質定義に沿って、波多野は類型論を展開していきますが、そんなに本格的なものではなく、むしろ、極めてシンプルで、ニ項対立的な図式です。
それは「イデアリズム」と「人格主義」という図式です(その中間地帯が「神秘主義」)。前者は自己から出発し、超越的なものをイデア的存在において体験します。後者は他者より出発し(=他者によって自己を規定させ)、超越的なものを人格的他者において体験します。すさまじく大雑把にいえば、この二分法です。前者の例がプラトニズムで、後者の例がキリスト教です。まぁ、こういう分類そのものが極めてキリスト教ベースであることは否定できませんね。ただ、シンプル故に汎用性に優れた図式であり、波多野はこの二分法でざくざく論を進めていきます。ただし、あくまで「宗教体験」の分類であって、実定的宗教共同体の分類ではない点には注意が必要です。宗教は第一には、自己の体験の出来事である、というのが彼の前提のようです。
> 永遠と時をめぐる議論の方ばかりに気を取られていて、それを論じるまでの筋道
実は今回の発表では、ほとんど「永遠」の問題は触れない予定なのです。波多野といえば時間論、という一種の定番をあえて踏み外し、波多野宗教哲学を「存在論」と「愛論」で読み解いていこうといのが、今回の企てです。成功するか否かはともかく、ではありますが…
Posted by さとう at 2006年08月29日 04:08
なるほど。わたしなどすぐに「宗教は……」というふうに考えてしまいますが、そういう問いかたをしないことでしか見えてこないものもあるのかも知れませんね。
さとうさんのおっしゃる「宗教なき宗教哲学」という構想は、さとうさんのお仕事に一貫して流れている態度で、大変興味深く感じています。
さとうさんのおっしゃる「宗教なき宗教哲学」という構想は、さとうさんのお仕事に一貫して流れている態度で、大変興味深く感じています。
Posted by 桶川利夫 at 2006年09月02日 00:42
正しい哲学と宗教とは何か?命ある物は命を繋げる事が使命であり宿命、どんな哲学、宗教でも人類が命を繋げる事にマイナスなら間違っているしプラスなら人類にとって正しい、しかしながら人類は精神進化が遅れているので精神進化しない限り滅亡は間近でしょう。進化とは欲望をコントロールする事ですよ。
Posted by 日本人 at 2009年09月23日 09:40












