2007年05月19日

比叡山麓音羽川砂防ダム群(4)

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第3回にて、「石積堰堤の先、さらに砂防堰堤を3つ超えた先には滝がある」という話をたよりに、石積堰堤(ダム5)の次のダム6横にかけられたトラロープをよじ登り、さらに音羽川上流を目指します。ダム上の水流を注意深く歩き、ダム6真下を覗き込んでみました。結構怖い。っていうか、見てお分かりの通り、靴が濡れるくらいの浅さとはいえ、石畳のダム天井面。こけたてたらどうするんだ、私。


【トラロープを登った代償】
otowa52.jpgダム6の上。これまでかろうじて残っていた踏み跡もここで完全に途絶え、あとは歩ける自然地形を自分で探していくしかありません。とりあえず、ここは無理に斜面を遠巻きにするよりは、沢を遡行したほうがラクそうです。

この時点で、実は私は大きな失敗をいくつかしていたことを報告しないといけません。まず、靴。その日はいていたのは、歩きやすいやわらかいものとはいえ、革靴。ここまで激しい自然だと思わなかったので、山登り用の靴にしなかった。まぁ、それでも何とかなる。第二の失敗は、軍手がないこと。山の道なき道を進む場合、木を手がかりに斜面を沿って歩くことも多いので、軍手があると便利です(枝に蜘蛛の巣とかイモ虫とかもいるし…)。虫刺されも防げますし。これは、結構大きな失敗。そして第三に、最大の失敗として、ロープの下に荷物を全部置いてきたこと。っていうか、リュックタイプでなく、街中でも普通に使うトートバッグで来た時点で間違いなんですが、これがあると大きく行動が制限されるため、ダム6から上へのアプローチを探している途中で、乾燥していた石積堰堤ダム5辺りに、財布とデジカメ以外の荷物を放置。

で、その荷物の中に入っていたのが、ペットボトルの水分地図

…地図置いてきたらダメじゃん。その日は、全体を確認するのに便利な1/25,000のコピーと、それより非常に詳しいgoogle mapのプリントアウト(これに、細かい堰堤も全部書き込まれている)を持参してきたのですが、ぜーーんぶ、ロープの下。

荷物を放置 → ダム6付近を捜索 → ロープ発見 → 興奮 → 登る → 自分エライ!スゴイ! → あぁ〜〜〜

という順序。ま、まぁ、あれだ、この先そう長くないだろうし、沢に沿っていけばいいだけだから、迷うことはないでしょう。14:00少し前に砂防学習ゾーン入り口を出発し、現時点で14:40。写真撮りながらだから時間がかかっていますが、歩くだけならもっと高速移動できるので、水分はなくても何とかなるでしょう。

にしても、山に慣れた人が読んだら、確実に呆れられるか、「山をなめるな!」と激怒されそう…

otowa53.jpgというわけで、ダム6から先へぐんぐん進む。この辺の沢は開けた場に広がっており、問題なく歩けます。で、沢は森の中へ。そして、森の中から、水の流れ落ちる音が。また堰堤のようです。(写真では確認しにくいですが、奥の陰の中に、すでに堰堤が見えています)


【ダム7】
otowa54.jpgダム7。トラロープで登ったダム6と構造、石の種類、積み方など、非常に似ています。おそらく、同じ時期に造られたものなのではないでしょうか。ただ、ダムの高さはやや低め。ダムの上に木が生えています。

さて、このダム7の写真は少なめです。というのも、ダム7から目を南の岸へと向けると、そこには、すごいものがあったからです。


【大石積遺構群】
otowa55.jpg何の予告もなく、立派な石垣どーーーん!

しかも、一列じゃなく、谷間の斜面にそって、何重にも長い石垣が重なっています。まるで、巨大な階段のよう。一体、何これ!?

otowa56.jpgこんな感じで、谷間の一箇所だけ、石垣が低くなっていて、それがずーっと上まで続いている。全部は上りませんでしたが、少なくとも7段くらいは確認できました。

石は、完全に自然石のみ。コンクリは未使用。その造りは、ダム5の自然石積堰堤に非常に似ています。同時期のものでしょうか。コメントでwatanabeさんが「ダム5は素人のものとは思えない」と書かれていましたが、もしこの石積群も同じ手によるものだとしたら、間違いなく職人のものです。っていうか、何でこんなところにこんなものが?昭和初期の砂防・治山事業なんでしょうか?

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この複雑な石積の組み合わせ。治山施設にしては、あまりに複雑で、機能性が高い。すごいな、これ…。石段と石段の間は、歩きやすい通路状になっており、斜面の水平移動は非常にラクでした(垂直移動にやや手間取りましたが)。

otowa58.jpgそして、石段の中には、このように人工的に造られたせりだし部まである。石垣の途中に木がそだって、木の成長に伴って、それが盛り上がって石垣をふくらませて変形・崩壊させてしまう、ということはしばしばありますが、このせり出しは、明らかにそうした事故ではなく、最初から設計されたものでしょう。まるで、城郭です。実際、この山林をもう少し上まで登ったところには、応仁の乱期の中世山城が確認されています。

当時は京都から滋賀へ抜ける道が今より少なく(戦国期のメインルートである山中越えは、信長が整備したもの)、この一帯も、比叡山〜滋賀へ向かうための要所だったためです。また、尊氏と後醍醐天皇が京都で争ったとき、この向かい側の北岸にある雲母坂を通って比叡山へ逃げる後醍醐天皇を逃がすため、家臣の千種忠顕が陣を構え、戦死した場所も近くあります。今でこそ単なるハイキングコースでしかない山林ですが、そこには、戦いの痕跡が埋もれ、おびただしい死者たちが眠っているのでしょう。

が、さすがに残りが良すぎますし、山城遺構にしては沢に近すぎるので(普通、山城の遺構は、山頂を中心に同心円状+尾根に沿って広がる)、やはり沢関連の近世〜近代の遺構かと思われます。また後で触れますが、この山中には江戸〜明治期に石切場があったことも報告されていますので、その関連遺構かもしれません。識者の見解を請う。


【ダム8〜9】
otowa59.jpg石段によって作られた道に沿っていくと、またも堰堤が見てきました。ダム8としましょう。今度は、総コンクリ製です。結構、高さがあります。


otowa60.jpgまた、この辺りは、谷の深さに比べて、川幅が狭く、非常に切り立った印象を受けます。険谷の向こう岸、つまり北岸を登っていけば(登れるような崖ではないですが)、雲母坂に着くと思います。斜面が急なため、だいぶ雲母坂が近くなってきました。しばしばハイキングの人などが通る道ですが、よもや、その足元の沢の中に、人がいるなんて思わないよなー。山の上から見たら、ヒバゴンの親戚とかに見えるのかな、私。

それにしても、コンクリをはいずり落ちてくる植物。日光を求めてのことなのでしょうか、無茶苦茶な生え方です。

otowa61.jpg石段を利用して高度を稼ぎ、ダム8を超える。その先、上流側も、延々と沢と深い森が続いています。見てのとおり、かなり険しい沢になっています。実際には学習ゾーン入り口から1km程度しか歩いてないはずなのですが、ずいぶん山奥まで来てしまった感じ。京の街が、遠いです…

otowa62.jpgその先を進むと、さらに堰堤。ダム9とします。ダム8が総コンクリだったのに対し、ここはダム6や7と同じ、石積コンクリ補強型。手前の水叩きの造りなどもやはり同じ。同一時期に、同一事業で造られたのでしょう。

ところで、参考にしたwebページには、「石積堰堤(ダム5)を越え、さらに三つの堰堤を越えたら滝がある」と書いてあったはずですが、もうこれがその三つ目。滝はどこ…?

otowa63.jpgちなみに、南斜面には、このダム9辺りまで石垣が伸びていました。長さにすると、50〜100mくらいでしょうか。一部、崩落はありますが、全体としてみれば、よく残っているのではないでしょうか。

otowa64.jpg滝に遭遇することもなく、ダム9を超えます。幸い、ダム9にはダム5以来久しぶりとなる階段が設置されており(何故、同じ造りのダム6にはなかったのだろ)、越ダムも容易です。といっても、階段は倒木で覆われていたので、その脇の斜面を登りましたけど。

さて、今回歩いた場所を確認しておきましょう。左上のピンクの線が、尾根の雲母坂。紫線が石積遺構群の位置。ちょっと高いところまで描きすぎたかもしれません。実際には、音羽川寄りの3本分の領域に、7本以上の石段が連なっています。昭和の石積堰堤→トラロープの冒険→不明の大石垣遺構群、とめまぐるしくネタが変わる川。ほんと、飽きません、この音羽川。次回、滝は見つかるのか?

>第5回へ
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ダム5の石積堰堤のずっと先にあるという滝を目指し、第4回にて、ダム7~9南岸一帯に広がる謎の石積遺構群を通過し、ダム9を越えたところまでやってきました。そして、ダム9を登ると、その向こうにこれまでの...
比叡山麓音羽川砂防ダム群(5)【pensie_log】 at 2007年05月21日 23:11
この記事へのコメント
いよいよ佐藤さんもクセノフォンみたいに野外派哲学者に。
いっそ外人部隊に入隊して『アナバシス』第二巻を書いちゃうとか。
Posted by ’Ωκεαν?? at 2007年05月20日 20:12
私は野外派というほど激しいことはやってませんが、歴史上の哲学者には、実は結構従軍経験ある人がいます。デカルトやウィトゲンシュタインが代表ですね。有名な神学者の中にも、「従軍チャプレン」として戦争に赴いた人もいます。

私が専門で研究したリクールというフランスの哲学者(1913年生まれ)は、若い頃、兵役につき、ドイツの捕虜となり、収容所で「恐ろしくヒマな、強いられた自由時間」を大量に与えられて、当時のドイツの最先端の哲学を摂取したそうです。

うーん、でも、私は部隊でやっていける体力も根性もなさそう…
Posted by さとう at 2007年05月21日 23:37