2007年12月13日
石炭フェティシズム
現在、南山宗教文化研究所で「科学・こころ・宗教」という研究プログラムがすすめられているそうですが、そこの公式blogで、先ごろアメリカで開催されたAAR(アメリカ宗教学会)の参加報告が、研究員の寺尾寿芳氏によって数回に分けて連載されています。
その中で、(恐ろしく個人的関心から)非常に興味深かったのが、「石鹸、石炭、レイヨン――近代産業の奇跡的な諸要素」というセッションへの参加報告。特に、近代において「石炭産業」と「民間信仰」が密かに結びついていたという発表があったことが報告されており、これが非常に興味深い。
寺尾氏によるまとめによれば、
たとえば、我が国においても、江戸時代、『雲根志』の著者として知られる奇石収集家・木内石亭が「霊異類」と呼ぶ石類に見られるように、石が呼び起こす奇跡的な「力」について論じられることはあります(今でも、「この石に触ると病が治る」なんていう逸話の残る石は多いです)。が、そこでの「力」とは、神話的な歴史性や物語が石に「付加」されて発現する力にとどまり、石それ自体の物質的力ではない(水銀などの実用的な鉱物は「采用類」と呼ばれ、記述はされますが、その「力」へのフェティッシュな眼差しは薄いと思う)。
でも、東西を問わず、実用的鉱物への崇拝といった事例は、確かに断片的には目にすることがあります。それが、近代産業革命において、石炭フェティシズムとして具体的に発現した事例があったとすれば…これは面白い。産業技術と宗教的領域とが、「物質」を契機としてくっつきうるという事実。
googleで検索したら、Richard Callahan氏の大学での教員紹介ページがみつかり、そこでの情報によると、Work and Faith in the Eastern Kentucky Coal Fields: Subject to Dust(Bloomington: Indiana University Press, 2008)という本が刊行予定らしい。これは、要チェックだ。
*木内石亭における石の神話性については、たとえば以下を参照。
内田好昭「神代石の収集」『うごくモノ 「美術」以前の価値とは何か』(東京文化財研究所 編, 平凡社, 2004)
追記:寺尾氏によるセッション参加報告のうち、私が取り上げなかった「石鹸」研究については、kaprosさんがコメントをなされています。
その中で、(恐ろしく個人的関心から)非常に興味深かったのが、「石鹸、石炭、レイヨン――近代産業の奇跡的な諸要素」というセッションへの参加報告。特に、近代において「石炭産業」と「民間信仰」が密かに結びついていたという発表があったことが報告されており、これが非常に興味深い。
寺尾氏によるまとめによれば、
ミズーリ大学のRichard J. Callahan氏が「石炭の力――中央アパラチア地帯における発展と魔術化」という表題で、19世紀アメリカの中央アパラチア山脈地帯での石炭産業の発展と民俗文化の衰退について報告した。発表によれば、従来山間地は迷信などが猖獗を極め、正統信仰から逸脱しがちな地域とされていたが、石炭産業の展開に伴い都会との差異が次第に縮まったのであり、学校教育も衛生面を中心に社会訓練の場となった。しかしそれは単純な合理性の勝利ではなく、石炭という岩がもつ「力」に魅力を感じる主観的フェティシズムなのであり、魔術性は姿を変えて継続したともいえるとされる。この研究、是非ともきちんと読んでみたい。私たち(と強引に一人称で語る)石オタのあいだで石フェチを論じる際に注目されるのは、(結晶構造も含めた)その造形的・視覚的美しさであったり、痕跡としての歴史性であったり、ランドスケープの中での存在感だったり、それを巡って語り紡がれてきた物語的要素であったり、いずれにせよ、そこでの石は「静的な存在者」として把握されている。あるいは、せいぜい、人間の行為や思考を誘発する(動かない)エージェンシーが論じられる程度。化石燃料のような「それ自体として物理的・化学的な力をもった石」へのフェティッシュな欲望については、あまり注目されてこなかったように思います。
たとえば、我が国においても、江戸時代、『雲根志』の著者として知られる奇石収集家・木内石亭が「霊異類」と呼ぶ石類に見られるように、石が呼び起こす奇跡的な「力」について論じられることはあります(今でも、「この石に触ると病が治る」なんていう逸話の残る石は多いです)。が、そこでの「力」とは、神話的な歴史性や物語が石に「付加」されて発現する力にとどまり、石それ自体の物質的力ではない(水銀などの実用的な鉱物は「采用類」と呼ばれ、記述はされますが、その「力」へのフェティッシュな眼差しは薄いと思う)。
でも、東西を問わず、実用的鉱物への崇拝といった事例は、確かに断片的には目にすることがあります。それが、近代産業革命において、石炭フェティシズムとして具体的に発現した事例があったとすれば…これは面白い。産業技術と宗教的領域とが、「物質」を契機としてくっつきうるという事実。
googleで検索したら、Richard Callahan氏の大学での教員紹介ページがみつかり、そこでの情報によると、Work and Faith in the Eastern Kentucky Coal Fields: Subject to Dust(Bloomington: Indiana University Press, 2008)という本が刊行予定らしい。これは、要チェックだ。
*木内石亭における石の神話性については、たとえば以下を参照。
内田好昭「神代石の収集」『うごくモノ 「美術」以前の価値とは何か』(東京文化財研究所 編, 平凡社, 2004)
追記:寺尾氏によるセッション参加報告のうち、私が取り上げなかった「石鹸」研究については、kaprosさんがコメントをなされています。
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