2012年05月27日
◆直訳「歎異抄」 第120回――瞑想しながら俗世に生きる――殿岡秀秋筆
◆直訳「歎異抄」 第120回 殿岡秀秋筆
●直訳「歎異抄」 第120回 引用『現代語 歎異抄』(朝日新聞社2008年7月発行)
★瞑想しながら俗世に生きる
☆原文第十八条 ――布施の多少ーその5
「かつはまた檀波(だんは)羅(ら)蜜(みつ)の行(ぎょう)ともいいつべし」
☆辞書から
かつ=および、ならびに、そして
檀波(だんは)羅(ら)蜜(みつ)=六波羅蜜の一。他人に金品や教えを与えることによって、悟りに達する修行。
とも=「と」で受ける語を強めて言い表す
いいつ=言う
べし=当然のなりゆき、または、そうなるはずの事柄を述べるのに用いる
☆直訳第十八条 ――布施の多少ーその5
「そして布施は六波羅蜜の一、他人に金品や教えを与えることによって、悟りに達する修行ということができる」
☆Comment
森達也監督ドキュメンタリー映画「A」(1998年公開)でオウム真理教の広報副部長(当時)の荒木浩氏が「もう一度出家したい」と言ったのを忘れることができません。
現世の煩わしさから逃れるために出家したのに、事件の対応に追われて、現世にいたより、ずうっと現実的対応をせざるをえなくなったので、「もう一度出家して」静かな悟りの世界を希求して過ごしたいという意味のことを言いたかったのでしょう。
どうしたら現世の煩わしさから逃れることができるのでしょうか、出家してもほとんどの僧侶には無理でしょう。真に悟った顔をした坊主に出遭ったことがありません。
この人は悟りを開いたのではないかと思ったのは、テレビで観た故大石順教尼さんくらいです。
まだ、きっとほかにもいらっしゃるでしょう。それでも出家した人たちのうちのごくわずかな人だろうと想像します。
それならば出家しなくてもいいでしょう。そして僧侶と同じような修行(たとえば座禅や瞑想)を生活に少しずつ繰り込みながら俗世に生きた方がいいと、ぼくは想います。
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年5月27日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ)
2012年05月26日
★吉本隆明さんの詩篇からーエリアンの詩―その3−殿岡秀秋筆
★吉本隆明さんの詩篇から(『吉本隆明全著作集1 定本詩集』から)
その39
★エリアンの詩 その3
――〈エリアンは生きてゐたら廿五歳になつたはずだ〉――
3
孤独な夜よ!
もういちど暁がやつて来るのかしら
独りぼつちの城郭のなかに
青磁色の光が差しこんでくるのかしら
そうすれば
変つた夜具の色彩や
捨てられた憧れなど
わたしの処へ還つてくる!
孤独な夜よ!
暗い電灯の影の下で
数々の物語を編み出してゐた
わたしの夜よ!
いつか蟲などが鳴き出して
それからは
眠るよりほか術がなかつた!
〈エリアンよ!
可哀そうなエリアン!
閉ぢろ! おまへの瞼を
そうしておまへの心を!〉
☆辞書から
城郭=城と曲輪(くるわ)。城とそれを囲む外囲い
青磁色=青磁のようなくすんだ青緑色。
青磁=釉(うわぐすり)に含まれる鉄が還元されて、緑青色あるいは黄みを帯びた青色を呈する磁器
☆comment
孤独な夜にいて、はたして夜明けがやってくるのか、と考えています。ただひとりで城のような囲いをつくっているところへ、青緑色の朝日が差し込んでくるのだろうか。
そうすれば変わってしまった夜具の幼いころにつかっていた布団の色彩や、そのころにはあって、大きくなるときに捨ててしまった憧れなどが私のところに還ってくるのではないか。
孤独な夜に、暗い電灯の下で、わたしは多くの空想の物語を生み出してきたのだ。
夜も深くなって虫が鳴き出して、それからはただ眠るよりほかに方法がなかった。
〈エリアンよ!わたしの思春期の痛ましい記憶よ。死に近く、死にきれなかった可哀そうなエリアンよ。おまえの瞼をとじなさい。そうして傷つきやすいおまえの心もとじて、眠りなさい〉
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年5月26日より)http://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ)
2012年05月25日
藤富保男さん『詩の窓』第17回―詩は作像することが肝要ー殿岡秀秋筆
藤富保男さん『詩の窓』第17回――
藤富保男『詩の窓』(思潮社2011年12月25日発行)より
引用は特にことわりのないかぎり本書からです。
藤富保男さん『詩の窓』第17回――3−2「ひと捻りの繋ぎ」より
★詩は作像することが肝要
「対象を見たときに感じ取る能力は誰にでもある。そこからの連想力である。例えば孔雀を見る。羽根をひろげたので綺麗だと、カメラに収める。これは誰でもできる鑑賞である。孔雀の拡げた羽根はまるで万華鏡みたいだと喩えると、ちょっと印象に幅がでる。喩えるということは、サッカーで言えば、パスを出すことである。NのボールがTにわたったということである。ここに一行の詩がある。
『火事とは孔雀のひろげた尾羽根の上の一輪の薔薇の花である』(マックス・ジャコブ、入沢康夫訳)
もともとボールをもっていたNは火事で、孔雀の羽根という語がTになっている。そして何とボールはゴールネット、すなわち薔薇の花に吸いこまれて行く。このスピードはまさに詩のスリルである。」(137頁)
「詩の場合は、〈観〉と〈見〉がないと像ができない。作像することが肝要である。描くことを先にしないと、感情や理論の厚着ができて、ついつい説明になってしまう。それはもはや詩ではない。むしろ個人の所感か理屈である。」(140頁)
☆辞書・事典から
万華鏡=三枚の鏡板を組んだ三角柱の中に種々の色ガラスや色紙の小片を入れたもの。回しながらのぞいて模様の変化を見る。
スリル=恐怖や興奮でぞくぞくしたり、はらはらしたりするような緊張感。戦慄
観=目に映った印象。
観見=宮本武蔵も「目の付けようは大キに広く付ける目也」。観見二ツの事。観の目つよく、見の目はよはく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也」と本書の136頁にある。
☆comment
「孔雀の拡げた羽根はまるで万華鏡みたい」というのは比喩です。藤富保男さんは「詩は比喩の文学である」(本書60頁)と書いています。
「火事とは孔雀のひろげた尾羽根の上の一輪の薔薇の花である」という詩は火事を喩えています。孔雀の尾羽根ではたりずに薔薇の花まで比喩にもってきています。比喩に比喩を重ねています。そこに藤富保男さんははらはらしたりするのです。
この詩もそうですが、藤富保男さんは「作像することが肝要である」と詩でもっとも大切なことを述べています。その道を真剣に追求してきたので、それは一つの詩の道であるとおもいます。
ただ、「イメージを描かないのは説明であって詩ではない」と言いきってしまうのはどうでしょうか。
ぼくは藤富保男さんが言っている理論・理屈に近い、思考する詩を創ろうとしています。
ただ、そうではあっても、思考を作像することにぼくは心を砕いています。
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年5月25日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ)
2012年05月24日
フロイト『ヒステリー研究』と詩の理論 その118―自分の症状を言語化するといいー殿岡秀秋筆
フロイト『ヒステリー研究』と詩の理論 その118
テキストは、ヨーゼフ・ブロイアーとジークムント・フロイト共著『ヒステリー研究下』(ちくま学芸文庫 2004年2月10日発行)です。引用もとくに断りのないかぎり本書です。
☆ 第三章 理論的考察(ブロイアー)
★自分の症状を言語化するといい
「たとえばある人が食事をしていたときに抱いた激しい情動に対して『反応による除去』がなされなかったとする。その結果、なんとか食事をしようとしているときに、喉が締めつけられる感じや嘔吐が生じる。しかし、患者はこれを純粋に身体的な症状であると感じる。そののち長期間にわたってヒステリー性の嘔吐が続く。これが消失するのは、催眠下で情動がよみがえり、それについて語られ、それに対する反応がなされたのちのことだ。なんとか食事をしようとすることが、そのたびにあの思い出を喚び起こし、そして嘔吐という行為を生じさせたことに疑いの余地はない。しかし、その想い出は意識のなかにはっきりとは入ってこない。その想い出はいまや情動を失っており、他方、嘔吐のほうが完全に注意力を惹きつけてしまっているからだ。」(72頁)
☆辞書から
情動=怒り・恐れ・喜び・悲しみと同時に、顔色が変わる、呼吸や脈搏が変化する、などの生理的な変化が伴う。
反応=ある働きかけに応じて起こる相手の変化や動き
除去=とりのぞくこと。
ヒステリー=神経症の一。精神的な原因で、運動麻痺(まひ)・失声・痙攣(けいれん)などの身体症状や健忘・痴呆などの精神症状を示すもの。ヒステリーの語は、女性に特有の疾患との誤解から子宮に原因があると誤って信じられていたため、古典ギリシア語で「子宮」を意味する語から名づけられた。19世紀後半にシャルコーの催眠術による治療を経て、フロイトにより精神分析的研究が行われ無意識への抑圧などの考察がなされた。その後しばらくヒステリーの治療は精神分析を主体としたものが主流であった。しかし1990年代より、精神疾患を原因で分類するのではなく症状で分類する方法が主体になり、1994年に発表された精神障害の診断と統計の手引き第四版では、この言葉は消失し、解離性障害と身体表現性障害に分類された。このような経緯に加えて、「ヒステリー」が一般用語として雑多な意味に用いられていることから、現在の精神医学では基本的には「ヒステリー」という用語を使用していない。
催眠=暗示により人工的につくられる睡眠に似た状態。催眠状態では受動的な注意の集中がみられ、暗示にかかりやすい
☆comment
食事のときに、怒り・恐れ・悲しみなどの激しい感情の変化があったとします。その怒りなどを言葉や行動にして放出する(反応による除去)をしなかったとします。すると、食事のときに嘔吐感が生じます。患者はその原因を情動のせいにしないで身体症状だとみなしたとします。すると原因を把握していませんから長期間のヒステリー性の嘔吐に悩みます。その症状がなくなるのは催眠下で情動について語る(反応による除去)ことによってです。それまでは情動についての想い出がよみがえることで嘔吐をくりかえします。しかし、嘔吐する本人は、その情動についての想い出をはっきりとは意識しません。本人は嘔吐に注意がいっていて、その原因である情動体験は、情動の興奮が嘔吐という身体症状に転換してしまっていて、激しい感情をうしなっているために、本人がその存在に気づかないのです。
どうしたらいいのでしょうか。優秀な精神科医に診察を受けることができれば幸運です。しかし、なかなか出会うことは難しいかもしれません。それに精神科医の門をたたかない人も大勢います。
この人たちに対して、自分で原因を探るようにいうことは、難しい面があります。人は自分の精神疾患を他人に指摘されたくないのです。医者の場合は専門家をもとめてわざわざ尋ねたのですから、何か言われても許容する場合が多いでしょうが、素人に偉そうにこうした方がいいよ、と言われていい気分のする人は少ないでしょう。
どうしたらいいのでしょうか。
ぼくは自分で自分の精神疾患を見つめるのがいちばんいいとおもいます。
ぼくはそのために、毎朝瞑想して自分の過去を想起する旅を続けています。精神がまともな人などほとんどいないのではないでしょうか。とくにものを書くような人はほとんどそうです。病状として手に負えない人は少ないでしょうが、何か精神に問題をかかえている人が多いと考えていいのではないかとおもいます。
そのことについて、ものを書く仲間から指摘されて、こうしたらいいよ、などと言われたらいい気分はしません。
どうしたらいいかというと、自分で自分の症状をしっかりとみつめて、言語化(反応による除去)していくことがいいとおもいます。それを詩にしたら、なおいいとぼくはおもいます。
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年5月24日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ)
2012年05月23日
詩論―詩と小説のちがいー詩は表現であるとともに自己治療である―殿岡秀秋筆 詩と小説のちがい その7
殿岡秀秋
★詩は表現であるとともに自己治療である
吉本隆明さんは「詩とは何か」(全著作集5文学論2第一部141頁)で、中村光夫の『文学入門』(新潮文庫)文を引用したあとで次のように述べていますので、ここに引用します。
「ここでは、詩の本質が歌であり、歌は言葉以前の肉声――または叫び声であるという個処に着目したい。ほんとのことを口に出せば世界は凍ってしまうならば、それができない社会では、絶えず、ワァッとかウオウとかい叫びをこころに禁圧していとも考えられるからである。日常の会話でも対者から言葉をおさえられたとき、意識は言葉にならない叫びのようなものを呑みこむ。そして破瓜症の状態は、あたかも禁圧が叫びから言葉にまで及んだこととにていて、たえず何ごとかが口からつぶやかれるのである。」
☆辞書・事典から
破瓜症=統合失調症の一種。女子に限らないが、思春期から二十歳前後に発症することからこう呼ばれる。
思春期前半に発症することが多い。解体した思考や行動(まとまりのない思考や行動)が主体である。激しい症状がない場合もある。未治療の場合、周囲に関心を持たず不活発になり、外部と接触しなくなる。
精神分裂病の一型で,破瓜期,つまり青春期に多く発病するところからこの名がある。始まりは緩慢で,特別な誘因もない。意欲の低下,感情の鈍麻,思考における連合弛緩,自閉傾向など,いわゆる欠損症状が病像の前景を占めながらしだいに高度になり,その間に独語,空笑(ひとり笑い),常同行為(同じ運動が目的なしに反復されるもので、大脳辺縁系の異常が考えられる。その動作には、口をもぐもぐする、口唇を舐める、自らで咬む、くんくん嗅ぐ、身震いする、床を引っ掻く、直立する、走り回る、旋回運動をする)などが現れるが,幻覚,妄想,興奮などはほとんど,または断片的にしか見られない。緊張型(緊張病)や妄想型にくらべると治療は困難で,一定の人格変化をあとに残すことが多い。
禁圧=権力で圧迫し、禁止すること。
☆comment
ほんとのことを口にすることができない社会では、叫びを権力が圧迫して禁止していると考えられると吉本さんは言います。日常の会話でも相手から発言を抑えられたときに、意識は言葉にならない叫びのようなものを呑みこみます。
それが高度化すると統合失調症の破瓜症の状態に似てくると言います。独りごと、一人笑い、目的のない同じ動作の繰返しなどの症状は、権力や相手の禁圧が叫びだけでなく、言葉の発語にまで及んだからだというのです。それでたえず何ごとかが口からつぶやかれるのです。
その言葉の復活が必要です。その叫び声に言葉をちかづける必要があります。それは自己表現であるとともに、自己治療につながるものだと、ぼくは考えます。
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年5月23日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ)
★詩は表現であるとともに自己治療である
吉本隆明さんは「詩とは何か」(全著作集5文学論2第一部141頁)で、中村光夫の『文学入門』(新潮文庫)文を引用したあとで次のように述べていますので、ここに引用します。
「ここでは、詩の本質が歌であり、歌は言葉以前の肉声――または叫び声であるという個処に着目したい。ほんとのことを口に出せば世界は凍ってしまうならば、それができない社会では、絶えず、ワァッとかウオウとかい叫びをこころに禁圧していとも考えられるからである。日常の会話でも対者から言葉をおさえられたとき、意識は言葉にならない叫びのようなものを呑みこむ。そして破瓜症の状態は、あたかも禁圧が叫びから言葉にまで及んだこととにていて、たえず何ごとかが口からつぶやかれるのである。」
☆辞書・事典から
破瓜症=統合失調症の一種。女子に限らないが、思春期から二十歳前後に発症することからこう呼ばれる。
思春期前半に発症することが多い。解体した思考や行動(まとまりのない思考や行動)が主体である。激しい症状がない場合もある。未治療の場合、周囲に関心を持たず不活発になり、外部と接触しなくなる。
精神分裂病の一型で,破瓜期,つまり青春期に多く発病するところからこの名がある。始まりは緩慢で,特別な誘因もない。意欲の低下,感情の鈍麻,思考における連合弛緩,自閉傾向など,いわゆる欠損症状が病像の前景を占めながらしだいに高度になり,その間に独語,空笑(ひとり笑い),常同行為(同じ運動が目的なしに反復されるもので、大脳辺縁系の異常が考えられる。その動作には、口をもぐもぐする、口唇を舐める、自らで咬む、くんくん嗅ぐ、身震いする、床を引っ掻く、直立する、走り回る、旋回運動をする)などが現れるが,幻覚,妄想,興奮などはほとんど,または断片的にしか見られない。緊張型(緊張病)や妄想型にくらべると治療は困難で,一定の人格変化をあとに残すことが多い。
禁圧=権力で圧迫し、禁止すること。
☆comment
ほんとのことを口にすることができない社会では、叫びを権力が圧迫して禁止していると考えられると吉本さんは言います。日常の会話でも相手から発言を抑えられたときに、意識は言葉にならない叫びのようなものを呑みこみます。
それが高度化すると統合失調症の破瓜症の状態に似てくると言います。独りごと、一人笑い、目的のない同じ動作の繰返しなどの症状は、権力や相手の禁圧が叫びだけでなく、言葉の発語にまで及んだからだというのです。それでたえず何ごとかが口からつぶやかれるのです。
その言葉の復活が必要です。その叫び声に言葉をちかづける必要があります。それは自己表現であるとともに、自己治療につながるものだと、ぼくは考えます。
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年5月23日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ)
2012年05月22日
いのちを考えるセミナー 芹沢俊介さん講演ーー情念について その4――殿岡秀秋筆録
2012年4月18日
いのちを考えるセミナー
芹沢俊介
◆情念について その4
ここでもう一度アランにもどります。
動物は情念をもちません。葛藤をもちません。心の葛藤があってはじめて意識があります。
意識および思考の停止状態は心の葛藤の喪失です。そのときには情念に支配されてしまいます。人間が物となったように、ただ、習慣になった行為だけします。意識がないままトイレにいって顔をあらいます。その際に、思考が働いていないのです。
人間とは懐疑によって目をさますものなのです。葛藤という状況にいたって目を覚ますのです。
習慣化するのは、きめたとおりに行うので、無意識の行動になります。考えないですむので経済的な行動です。そこに懐疑はないのです。
意識は葛藤があってはじめて存在します。
情念に左右されているのは、情念にふりまわされているのです。ものをこわしたりするのは、情念を所有していないのです。自己をコントロールできていないのです。
情念は葛藤によって激化します。ところが、情動は葛藤を生まないのです。情動は衝動にすぎないからです。
対象が明確にあることで、葛藤が生まれます。動揺が生み出されていきます。
情念をコントロールしたいが、情念の不意打ちのドラマがおきてしまうことがあります。
恋の告白をできないのは臆病ではないか、自分は臆病なゆえに告白できないのではないか、と悩むと屈辱は自分への怒りになります。
要するに人間は自分を処して生きたいのです。恋は情動(衝動)を超えようとします。自分は意志的でありたいのです。恋のこころが情動を乗り越えようとします。自分への約束や誓いによって自分を拘束しようとします。それが苦痛になります。誓ったこと事態が苦痛になるのです。
それが他の拘束を踏みにじってしまうことがあります。つまり大胆になるのです。
イプセンの戯曲では、恋愛状態で自分に抑制をかけているところへ、恋敵があらわれると決闘になるといいます。
恋をしてしまうと、情動を抑制しようとする自分に誓いをたてます。それが苦しみになると、恋の相手以外の、ほかの場面の拘束が緩んでいってしまうのです。それで考えてもしない決闘にいたってしまうのです。
自己統御していたとおもう恋愛から、逆に破綻が生じてしまうのです。ヨーロッパのお芝居によくあるテーマです。自己喪失行動をとってしまうのです。
ヨーロッパは理性を最高の形態におきます。デカルトがそうです。
今は感情と理性を対立的に考えないようにするのがいいとおもいます。虐待を受けた子どもは情動や情念をコントロールする能力がない場合が多いのです。その子は理性を鍛えることもできないのです。歓びと幸せと快感を経験していないからです。苦しみと痛みと悲しみばかりだからです。
☆殿岡質問
フロイトの理論によりますと、情動の興奮が残っているときに、消えればいいけれど、消えないで残っていると肉体の症状に転化するといいます。つまりヒステリーになる可能性があります。
そのさいの「情動」は、激しい怒り、悲しみ・屈辱感という風にぼくは理解しました。
芹沢さんの答え
フロイトは性欲を情動の基本におきました。情動のなかには感情があるのです。感情の激しいものが情動なのだというのがフロイトの理解です。フロイトは性欲の情動を消費されないとヒステリーになっていくと考えました。
(この項おわり)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年5月22日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ)
2012年05月21日
思考する詩を求めて ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」を読む第19回ーランボーふうー殿岡秀秋筆
思考する詩を求めて ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」を読む
第19回
ヴァレリー『若きパルク/魅惑』改訂普及版 中井久夫訳(みすず書房2003年発行)より。引用もとくに断り書きのない場合は本書です。
★ランボーふう
くすぐられた乙女の布(きぬ)裂く叫び、
その眼、その歯、濡れた眼(ま)瞼(ぶた)、
火と戯れる魅惑の胸も、
委ねる唇に光る虫も、
最後のものも、それ護る指も
みな土に帰り、また双六(すごろく)に加わる!
(海辺の墓地 第16節)
☆(『若きパルク/魅惑』改訂普及版 「ヴァレリー詩ノート」より)
「くすぐられた乙女の布(きぬ)裂く叫び……」ヴェルレーヌ、ランボーふう」とあります。
☆辞書・事典から
魅惑=人の心をひきつけ、まよわせること。
委ねる=一切を他人にまかせる。身をささげる。
護る=守る=大切な物が失われたり、侵されたりしないように防ぐ。
土=地球の陸地の表面をおおう物質。風化した岩石の細かいくず、生物の遺骸およびその腐敗物、微生物などよりなる
双六=盤双六。エジプトまたはインドに起こり、中国から奈良時代以前に伝わった室内遊戯。盤上に白黒一五個ずつの駒(こま)を置き、筒から振り出した二つの采(さい)の目の数によって駒を進め、早く敵陣にはいった方を勝ちとする。中古以来、賭博(とばく)として行われることが多かった。江戸末期には衰退。(2)絵双六。紙面に多くの区画を作って絵をかき、数人が采を順に振って出た目の数によって「ふりだし」から駒を進め、早く「あがり」に着いた者を勝ちとする。江戸時代に起こり、道中双六など様々な種類がある。
☆解釈
「くすぐられた乙女の布を裂くような叫び声
その眼、その歯、濡れた瞼、
人をひきつけ迷わせる火と戯れるようなその胸も
いっさいを他人にまかせるその唇に光る虫も、
最後のものも、それを守る指も
みんな生物の遺骸となって土に帰るか、
また、賭博の双六遊びに加わるのだ
☆comment
これがランボーふうだそうです。いつかランボーの詩にも取り組んでみたいです。
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年5月21日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ)
第19回
ヴァレリー『若きパルク/魅惑』改訂普及版 中井久夫訳(みすず書房2003年発行)より。引用もとくに断り書きのない場合は本書です。
★ランボーふう
くすぐられた乙女の布(きぬ)裂く叫び、
その眼、その歯、濡れた眼(ま)瞼(ぶた)、
火と戯れる魅惑の胸も、
委ねる唇に光る虫も、
最後のものも、それ護る指も
みな土に帰り、また双六(すごろく)に加わる!
(海辺の墓地 第16節)
☆(『若きパルク/魅惑』改訂普及版 「ヴァレリー詩ノート」より)
「くすぐられた乙女の布(きぬ)裂く叫び……」ヴェルレーヌ、ランボーふう」とあります。
☆辞書・事典から
魅惑=人の心をひきつけ、まよわせること。
委ねる=一切を他人にまかせる。身をささげる。
護る=守る=大切な物が失われたり、侵されたりしないように防ぐ。
土=地球の陸地の表面をおおう物質。風化した岩石の細かいくず、生物の遺骸およびその腐敗物、微生物などよりなる
双六=盤双六。エジプトまたはインドに起こり、中国から奈良時代以前に伝わった室内遊戯。盤上に白黒一五個ずつの駒(こま)を置き、筒から振り出した二つの采(さい)の目の数によって駒を進め、早く敵陣にはいった方を勝ちとする。中古以来、賭博(とばく)として行われることが多かった。江戸末期には衰退。(2)絵双六。紙面に多くの区画を作って絵をかき、数人が采を順に振って出た目の数によって「ふりだし」から駒を進め、早く「あがり」に着いた者を勝ちとする。江戸時代に起こり、道中双六など様々な種類がある。
☆解釈
「くすぐられた乙女の布を裂くような叫び声
その眼、その歯、濡れた瞼、
人をひきつけ迷わせる火と戯れるようなその胸も
いっさいを他人にまかせるその唇に光る虫も、
最後のものも、それを守る指も
みんな生物の遺骸となって土に帰るか、
また、賭博の双六遊びに加わるのだ
☆comment
これがランボーふうだそうです。いつかランボーの詩にも取り組んでみたいです。
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年5月21日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ)
2012年05月20日
◆直訳「歎異抄」 第119回――信仰のあり方と布施について――殿岡秀秋筆
◆直訳「歎異抄」 第119回 殿岡秀秋筆
●直訳「歎異抄」 第119回 引用『現代語 歎異抄』(朝日新聞社2008年7月発行)
★信仰のあり方と布施について
☆原文第十八条 ――布施の多少ーその4
「念仏もうすに化仏(けぶつ)をみたてまつるということのそうろうなるこそ、『大念仏には大仏をみ、小念(しょうねん)には小仏をみる』(大集(だいじつ)経(きょう)意)といえるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられそうろうやらん。」
☆辞書から
化仏=衆生(しゆじよう)を救うために、さまざまな姿となって現れた仏
みたてまつる=見奉る=その動作の対象を敬う謙譲表現を作る。
大念仏=大勢の人が集まって大声で念仏を唱えること。
大仏=大きな仏像を指す通称
念=浄土教で、称名念仏すなわち阿弥陀仏の名号をとなえること。
小仏=小さい仏像。
大集経=だいじっきょう=詳しくは『大方等大集経』(だいほうどうだいじっきょう)といい、大乗仏教の経典である。
ことわり=理論・理屈
なんど=など
ばし=〔係助詞「は」に副助詞「し」の付いた「はし」の転〕体言またはそれに格助詞の付いたもの、および動詞の連用形またはそれに接続助詞「て」の付いたものなどに接続する。上の語や語句をとりあげて強調する意を表す。…でも。疑問・推量・禁止・命令・仮定などの文中に用いられることが多い。
ひきかける=掛けて他の物を覆う。引き合いに出す。
やらん=文末にあって、「…(の)だろう」「…(の)だろうか」の意を表す。
☆直訳第十八条 ――布施の多少ーその4
「念仏申し上げるときに阿弥陀仏を観ることができることがありますが、大声で念仏を唱えると大きな仏を観て、小さな声で念仏を唱えると、小さな仏様を観るということが大乗経典に載っていて、親鸞聖人も教行信証に引用していますが、仮にこの理論にひっかけて学生(がくしょう)たちは布施の多少が、大小の仏の差となると言っているのでしょうか。」
☆Comment
布施の多少は、浄土の救いとは関係がないと唯円は主張します。極く当然のことです。しかし、教団運営は布施に大きく依存しています。これは昔も今も変わりません。
本書では(『現代語 歎異抄』)では、「仏法は『僧伽(そうぎゃ)』(求道者の集まり)の共同体を生みますから、それを維持するために、必ず喜捨や寄進の問題が発生します。師や僧侶に対して、感謝の意味で差し出す喜捨は、そもそもは純粋なものでしょう。しかし、逆に喜捨することで、自分になんらかの利益をもたらそうとする発想は間違いです。」(235頁)と書いています。
確かに信者のそのような発想は間違いかもしれません。しかし、信者に喜捨や寄進を勧めているのは教団自身ではないか、という問題が語られていないように思えます。
どうしたらいいのでしょうか。一般論はわかりません。
ぼくは教団に属さないようにしています。ぼくは父母の墓に毎月お参りしています。そこで祈りを捧げます。このとき父の好きだった日本酒一合をおいていきます。これは別の日に墓参りにきた次兄がもってかえって飲みます。それがぼくのささやかな喜捨です。
そして毎朝の瞑想のなかで亡き父母に祈ります。これがぼくの信仰です。こうして教団への寄進がぼくの暮らしに大きな影響を及ぼすことがないようにしています。これはぼくの信仰のあり方であって、人それぞれだとおもいます。
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年5月20日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ)

