2012年02月09日
藤富保男さん『詩の窓』第2回――孤独を表現しない詩人の孤独ーー殿岡秀秋筆
藤富保男さん『詩の窓』第2回――
藤富保男『詩の窓』(思潮社2011年12月25日発行)より
引用は特にことわりのないかぎり本書からです。
藤富保男さん『詩の窓』第2回――1−3「詩の光沢」より
★孤独を表現しない詩人の孤独
◎「詩に政治の風景を導入し、または詩を利用して社会に苦情を訴えようとする傾向が主流化してきたのはいつごろだったろう。
詩で何を描こうが勝手であるが、思想とその価値、あるいは苦悩の吐露、精神の荒廃を詩のリアリティのように思い込んでいる若い人がいることは事実である。
それらは詩の一面でしかない。詩は叙情の館であると思っている人もいる。これも一面にすぎない。
ぼくはいつか『詩的冗談こそが詩が描く王宮である』と書いた。もちろん、こういう考えの角度に座っているぼくも詩の一面を打ち出したにすぎない。」(32頁)
☆辞書から
思想=人がもつ、生きる世界や生き方についての、まとまりのある見解。多く、社会的・政治的な性格をもつものをいう。〔哲〕〔thought〕単なる直観の内容に論理的な反省を施して得られた、まとまった体系的な思考内容
思考=〔哲〕〔thinking〕意志・感覚・感情・直観などと区別される人間の知的作用の総称。物事の表象を分析して整理し、あるいはこれを結合して新たな表象を得ること。狭義には概念・判断・推理の作用による合理的・抽象的な形式の把握をさす。
☆comment
政治詩はぼく(殿岡)の選ぶところではありません。これは社会主義リアリズムと呼ばれている傾向の詩です。
思想とその価値、あるいは苦悩の吐露、精神の荒廃はぼくの詩に近いでしょうか。
苦悩の吐露は、これまでのぼくの詩の中核をなしてきました。これからは「思考する詩」に向かって突きすすもうと想っています。それも詩の一面にすぎないことはいうまでもありません。
詩が叙情によることは多くの詩にあります。しかし、それだけが詩ではないのももちろんです。
藤富保男さんは、『詩的冗談こそが詩が描く王宮である』と書いていますが、それも詩の一面を打ち出したにすぎない、と自らことわっています。
それでは詩的冗談とは本当は、どのようなものを指すのでしょうか。
◎「ナンセンスとはセンスを打消すことだ。ナンセンスは一つの道徳でもある。自分のなかに律をもたねば真のナンセンスを打ちたてられないのである。これはある意味では、きびしい試練であり、ナンセンスをつきつめて行くということは、むしろ明るいことではなく、隧道(ずいどう)のように長い暗い道であるかもしれない。」(37頁)
☆辞書から
ナンセンス=意味のないこと。ばかばかしいこと。また、そのさま
センス=物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚。
道徳=ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。
律=おきて。法律。特に、古代、犯罪・刑罰について定めた刑法典。 出家した者が守るべき規則。
☆comment
ナンセンス(意味のないばかばかしいこと)とは、センス(能力・判断力)を打消すことだそうです。ナンセンスは一つの道徳(善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範)でもあるそうです。自分のなかに律(おきて)をもたねば真のナンセンスを打ちたてられないのだそうです。
意味のないばかばかしいことはひとつの正しい行為をするための規範であり、それがなければ真のナンセンスは打ち立てられないとはどういうことでしょうか。
「きびしい試練であり、ナンセンスをつきつめて行くということは、むしろ明るいことではなく、隧道(ずいどう)のように長い暗い道であるかもしれない」
トンネルのように暗い長い道のりを行くことが意味のないばかばかしいことをつきつめていくことになるとはどういうことでしょうか。そこにはしかも正しい規範があることが必要なのです。
◎「ライト・ヴァースは笑いの詩であると断定できない。笑わない人でも心で笑える人がいるように、涙を流さないが、心で泣く人だっている。笑いと悲しさは顔にあらわれないかもしれない。しかし、この二つの感情がライト・ヴァースにはかくされていることは見逃せないだろう。――中略――藤富流にいうと(ライト・ヴァースは)『軽業詩』ということになるだろうか。ぼくの手のうちを少し公開するならば、
*笑われても、こんな楽しい自分がいる。
*笑っても、こんなつまらない自分しかいない。
*淋しさを耐える自分に人は知らん顔をしている。」(41頁)
☆辞書から
ライト=軽い、手軽な
ヴァース=[verse](散文のプローズに対して)韻文。詩。
☆comment
ぼく(藤富)の軽業詩を笑われると、楽しい自分がいるそうです。藤富さんは自分の詩の中に、深刻なものを見つけられてはうれしくないのです。ナンセンスな詩を書いているなと笑われると、うまくいったと歓ぶ詩人が藤富さんなのです。
自分で笑っても、自分をつまらないとしか思えないのです。そんな淋しさに耐える自分に、読者である人々は知らん顔をしている。自分の淋しさに人々は気づかないのです。気づかせないように詩をかいているからです。
自分は孤独だと表現する詩人や作家はたくさんいます。ぼくもその独りです。
藤富保男さんは孤独を決して表現しないのです。そこで律(おきて)を作りました。孤独を表現しないでナンセンスを表現することにしました。、そこには厳しく自分を律するおきてを作りました。それをまもって詩を書くというのが、孤独な道を選んだ藤富保男という詩人です。
(この項つづく)
(http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年2月9日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
藤富保男『詩の窓』(思潮社2011年12月25日発行)より
引用は特にことわりのないかぎり本書からです。
藤富保男さん『詩の窓』第2回――1−3「詩の光沢」より
★孤独を表現しない詩人の孤独
◎「詩に政治の風景を導入し、または詩を利用して社会に苦情を訴えようとする傾向が主流化してきたのはいつごろだったろう。
詩で何を描こうが勝手であるが、思想とその価値、あるいは苦悩の吐露、精神の荒廃を詩のリアリティのように思い込んでいる若い人がいることは事実である。
それらは詩の一面でしかない。詩は叙情の館であると思っている人もいる。これも一面にすぎない。
ぼくはいつか『詩的冗談こそが詩が描く王宮である』と書いた。もちろん、こういう考えの角度に座っているぼくも詩の一面を打ち出したにすぎない。」(32頁)
☆辞書から
思想=人がもつ、生きる世界や生き方についての、まとまりのある見解。多く、社会的・政治的な性格をもつものをいう。〔哲〕〔thought〕単なる直観の内容に論理的な反省を施して得られた、まとまった体系的な思考内容
思考=〔哲〕〔thinking〕意志・感覚・感情・直観などと区別される人間の知的作用の総称。物事の表象を分析して整理し、あるいはこれを結合して新たな表象を得ること。狭義には概念・判断・推理の作用による合理的・抽象的な形式の把握をさす。
☆comment
政治詩はぼく(殿岡)の選ぶところではありません。これは社会主義リアリズムと呼ばれている傾向の詩です。
思想とその価値、あるいは苦悩の吐露、精神の荒廃はぼくの詩に近いでしょうか。
苦悩の吐露は、これまでのぼくの詩の中核をなしてきました。これからは「思考する詩」に向かって突きすすもうと想っています。それも詩の一面にすぎないことはいうまでもありません。
詩が叙情によることは多くの詩にあります。しかし、それだけが詩ではないのももちろんです。
藤富保男さんは、『詩的冗談こそが詩が描く王宮である』と書いていますが、それも詩の一面を打ち出したにすぎない、と自らことわっています。
それでは詩的冗談とは本当は、どのようなものを指すのでしょうか。
◎「ナンセンスとはセンスを打消すことだ。ナンセンスは一つの道徳でもある。自分のなかに律をもたねば真のナンセンスを打ちたてられないのである。これはある意味では、きびしい試練であり、ナンセンスをつきつめて行くということは、むしろ明るいことではなく、隧道(ずいどう)のように長い暗い道であるかもしれない。」(37頁)
☆辞書から
ナンセンス=意味のないこと。ばかばかしいこと。また、そのさま
センス=物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚。
道徳=ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。
律=おきて。法律。特に、古代、犯罪・刑罰について定めた刑法典。 出家した者が守るべき規則。
☆comment
ナンセンス(意味のないばかばかしいこと)とは、センス(能力・判断力)を打消すことだそうです。ナンセンスは一つの道徳(善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範)でもあるそうです。自分のなかに律(おきて)をもたねば真のナンセンスを打ちたてられないのだそうです。
意味のないばかばかしいことはひとつの正しい行為をするための規範であり、それがなければ真のナンセンスは打ち立てられないとはどういうことでしょうか。
「きびしい試練であり、ナンセンスをつきつめて行くということは、むしろ明るいことではなく、隧道(ずいどう)のように長い暗い道であるかもしれない」
トンネルのように暗い長い道のりを行くことが意味のないばかばかしいことをつきつめていくことになるとはどういうことでしょうか。そこにはしかも正しい規範があることが必要なのです。
◎「ライト・ヴァースは笑いの詩であると断定できない。笑わない人でも心で笑える人がいるように、涙を流さないが、心で泣く人だっている。笑いと悲しさは顔にあらわれないかもしれない。しかし、この二つの感情がライト・ヴァースにはかくされていることは見逃せないだろう。――中略――藤富流にいうと(ライト・ヴァースは)『軽業詩』ということになるだろうか。ぼくの手のうちを少し公開するならば、
*笑われても、こんな楽しい自分がいる。
*笑っても、こんなつまらない自分しかいない。
*淋しさを耐える自分に人は知らん顔をしている。」(41頁)
☆辞書から
ライト=軽い、手軽な
ヴァース=[verse](散文のプローズに対して)韻文。詩。
☆comment
ぼく(藤富)の軽業詩を笑われると、楽しい自分がいるそうです。藤富さんは自分の詩の中に、深刻なものを見つけられてはうれしくないのです。ナンセンスな詩を書いているなと笑われると、うまくいったと歓ぶ詩人が藤富さんなのです。
自分で笑っても、自分をつまらないとしか思えないのです。そんな淋しさに耐える自分に、読者である人々は知らん顔をしている。自分の淋しさに人々は気づかないのです。気づかせないように詩をかいているからです。
自分は孤独だと表現する詩人や作家はたくさんいます。ぼくもその独りです。
藤富保男さんは孤独を決して表現しないのです。そこで律(おきて)を作りました。孤独を表現しないでナンセンスを表現することにしました。、そこには厳しく自分を律するおきてを作りました。それをまもって詩を書くというのが、孤独な道を選んだ藤富保男という詩人です。
(この項つづく)
(http://plaza.rakuten.co.jp/poetry2005/=詩を作る楽しみ)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年2月9日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)

