2012年02月05日
時空を駆けて(6)ユーラシア群青のトライアングル(イスファハーン、サマルカンド、アーグラ
*************セルジューク朝((A)****************
セルジューク朝がカズナ朝を制して出現した時、周辺の都市は、当然、この王朝にトゥルクメンを統制する力を期待した。
それに応えるように1040年トゥグリル ベクは、先ずダンダーンカーンの戦いでガズナ朝を破った。これによってセルジューク朝は完全にホラーサーンの覇権を確保した。
その後、ニーシャープール以外の都市でも進んでセルジューク朝の支配を受け容れた。トゥルクメンを取り締まることが出来るのは彼等しかいなかったから。
セルジューク朝は、都市の商人達から軍資金や武器の供給を受け、マドラサに学んでいた優秀な人材を次々に登用して勢いを増しながらイスラーム世界に羽を広げようとしていた。
つまりセルジューク朝は、平和を愛する人々から暴走するトゥルクメンを制し、支配することを求められて登場してきた王朝ということになる。
それにしても11世紀セルジューク朝が、最初に拠点とした町が、3世紀ササン朝のシャープル1世の創った町ニーシャープールだったとは。。。ペルシャ古代史上、最隆盛期を創り上げたササン朝文化の影が色濃く残る町だ。
いや、そのササン朝もそれより以前、何百年、何千年という時の流れの中で、幾多の先人民族達の残した、めくるめく文明の遺産の上にあった。なにしろそのルーツをたどっていくと、シュメールにまで辿りつくのだから。。。
その文明や文化が、セルジューク朝というパワーにリンクしたとしたら。。。それを橋渡しした人物がいたとしたら。。。
それは自ずと、その後のセルジューク朝の文化に独特の色調と密度を暗示するだろう。
さあ!核心に近付くためにred_pepper号を、今回の最初のメイン ステージであるイスファハーンに着陸させよう。
何故、セルジューク朝でなければならなかったのか。
トゥグリル・ベクがこの町にやってくる直前、先に述べたように金曜モスクはブワイフ朝のもとで大きく手が加えられ、市壁も築かれ、その市壁にそって町も発展した。
しかし、イスファハーンとの関わりはそこまでだった。何故なら当初シーラーズに都を構えたブワイフ朝は、この頃になると都はバクダードに移されかなり形骸化していたから。
ニーシャープールから移動して、この町イスファハーンをはっきりと自分達の拠点、つまり首都にする意思をもって築き上げた初めての王朝は、セルジューク朝のトゥグリル ベクだった。
1055トゥグリルは、バクダードに入りブワイフ朝のアミールを追放して、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受けた。こうして事実上、およそ現在のイランとイラク地方の帝王となった。
当初、確かにセルジューク朝の軍事力の根幹はトゥルクメンだった。しかし、彼等は必ずしも君主の意のままに動く集団ではなかった。不満があれば容赦なく反乱を起こした。彼らは、君主の継承問題にも介入してくるような集団だった。
そんな中1063年トゥグリル ベクが、カスピ海の南、現テヘランの近く、レイ近郊で謎の死を遂げた。
この後トゥルクメンは、トゥグリル ベクの甥アルブ アルスラーンの即位に反対して大規模な反乱を起こした。結果は反乱軍トゥルクメンの敗退となる。
この時、勝利したアルブ アルスラーンを擁立したのはグラーム(奴隷)出身のアミールたちと、ペルシャ出身の官僚たちだった。その中にニザーム アルムルクという男がいた。
私はいよいよここで、注目の人物を紹介しなければならない。彼無くしてセルジューク朝のことは語れないからだ。
体制を確固たるものにするためには、例え、かっての敵であろうと相手に才能や力量を認めれば、躊躇なくそれを取り入れる。そういう人事、図式は当時の遊牧民の常識だった。
勝利したとはいえセルジューク朝の情勢は、その後もトゥルクメンの軍事力が無視出来ないものとなっていた。いつ反乱に転じてもおかしくない深刻なものとなっていたのだ。どうしても行政の実務を担当する強力な部門が必須となった。
その部門で多く登用されたのがペルシャ人の官僚たちだった。まだ不安定な、発展の途上にあるセルジューク朝が、万全を期してイスラーム世界で主権を握るためには、実務にたけた書記官僚を登用することは、この時、軍事力を維持する以上に焦眉の急を要していた。
そういう背景のなかで、ペルシャ人官僚のひとりであった、ニザーム・アルムルク(1018?〜1092)が浮上した。彼の前身は、トゥグリル・ベクによって滅ぼされたガズナ朝のホラーサーン総督だった。ここでは、ガズナ朝に仕えたという前キャリアが認められ登用されたのだ。
彼はアルブ アルスラーン(在位1063年〜72年)の擁立に向けていち早く動き、アルスラーンの即位に特に功績をあげていた。
この人選が、その後のセルジューク朝の命運を決めることとなる。
(続)
セルジューク朝がカズナ朝を制して出現した時、周辺の都市は、当然、この王朝にトゥルクメンを統制する力を期待した。
それに応えるように1040年トゥグリル ベクは、先ずダンダーンカーンの戦いでガズナ朝を破った。これによってセルジューク朝は完全にホラーサーンの覇権を確保した。
その後、ニーシャープール以外の都市でも進んでセルジューク朝の支配を受け容れた。トゥルクメンを取り締まることが出来るのは彼等しかいなかったから。
セルジューク朝は、都市の商人達から軍資金や武器の供給を受け、マドラサに学んでいた優秀な人材を次々に登用して勢いを増しながらイスラーム世界に羽を広げようとしていた。
つまりセルジューク朝は、平和を愛する人々から暴走するトゥルクメンを制し、支配することを求められて登場してきた王朝ということになる。
それにしても11世紀セルジューク朝が、最初に拠点とした町が、3世紀ササン朝のシャープル1世の創った町ニーシャープールだったとは。。。ペルシャ古代史上、最隆盛期を創り上げたササン朝文化の影が色濃く残る町だ。
いや、そのササン朝もそれより以前、何百年、何千年という時の流れの中で、幾多の先人民族達の残した、めくるめく文明の遺産の上にあった。なにしろそのルーツをたどっていくと、シュメールにまで辿りつくのだから。。。
その文明や文化が、セルジューク朝というパワーにリンクしたとしたら。。。それを橋渡しした人物がいたとしたら。。。
それは自ずと、その後のセルジューク朝の文化に独特の色調と密度を暗示するだろう。
さあ!核心に近付くためにred_pepper号を、今回の最初のメイン ステージであるイスファハーンに着陸させよう。
何故、セルジューク朝でなければならなかったのか。
トゥグリル・ベクがこの町にやってくる直前、先に述べたように金曜モスクはブワイフ朝のもとで大きく手が加えられ、市壁も築かれ、その市壁にそって町も発展した。
しかし、イスファハーンとの関わりはそこまでだった。何故なら当初シーラーズに都を構えたブワイフ朝は、この頃になると都はバクダードに移されかなり形骸化していたから。
ニーシャープールから移動して、この町イスファハーンをはっきりと自分達の拠点、つまり首都にする意思をもって築き上げた初めての王朝は、セルジューク朝のトゥグリル ベクだった。
1055トゥグリルは、バクダードに入りブワイフ朝のアミールを追放して、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受けた。こうして事実上、およそ現在のイランとイラク地方の帝王となった。
当初、確かにセルジューク朝の軍事力の根幹はトゥルクメンだった。しかし、彼等は必ずしも君主の意のままに動く集団ではなかった。不満があれば容赦なく反乱を起こした。彼らは、君主の継承問題にも介入してくるような集団だった。
そんな中1063年トゥグリル ベクが、カスピ海の南、現テヘランの近く、レイ近郊で謎の死を遂げた。
この後トゥルクメンは、トゥグリル ベクの甥アルブ アルスラーンの即位に反対して大規模な反乱を起こした。結果は反乱軍トゥルクメンの敗退となる。
この時、勝利したアルブ アルスラーンを擁立したのはグラーム(奴隷)出身のアミールたちと、ペルシャ出身の官僚たちだった。その中にニザーム アルムルクという男がいた。
私はいよいよここで、注目の人物を紹介しなければならない。彼無くしてセルジューク朝のことは語れないからだ。
体制を確固たるものにするためには、例え、かっての敵であろうと相手に才能や力量を認めれば、躊躇なくそれを取り入れる。そういう人事、図式は当時の遊牧民の常識だった。
勝利したとはいえセルジューク朝の情勢は、その後もトゥルクメンの軍事力が無視出来ないものとなっていた。いつ反乱に転じてもおかしくない深刻なものとなっていたのだ。どうしても行政の実務を担当する強力な部門が必須となった。
その部門で多く登用されたのがペルシャ人の官僚たちだった。まだ不安定な、発展の途上にあるセルジューク朝が、万全を期してイスラーム世界で主権を握るためには、実務にたけた書記官僚を登用することは、この時、軍事力を維持する以上に焦眉の急を要していた。
そういう背景のなかで、ペルシャ人官僚のひとりであった、ニザーム・アルムルク(1018?〜1092)が浮上した。彼の前身は、トゥグリル・ベクによって滅ぼされたガズナ朝のホラーサーン総督だった。ここでは、ガズナ朝に仕えたという前キャリアが認められ登用されたのだ。
彼はアルブ アルスラーン(在位1063年〜72年)の擁立に向けていち早く動き、アルスラーンの即位に特に功績をあげていた。
この人選が、その後のセルジューク朝の命運を決めることとなる。
(続)

