2012年03月03日

時空を駆けて(14)ユーラシア群青のトライアングル(イスファハーン、サマルカンド、アーグラ

*******アルタン ウルク:黄金の一族(B)********

イラン、アナトリア方面は、既にオゴデイ時代からが軍を派遣し、この地つまり中東全体をそれなりに威圧していた。

モンケがモンゴルの拠点からこの時、弟フレグに期待したものは、その先、エジプト以西、つまりヨーロッパ制圧だった。

しかし。。。運命とは分からないものである。

とりあえずここからは、時空船red_pepper号はフレグに焦点を合わせよう。何しろイスファハーンに近付かなければならない。


フレグがモンゴル高原を後にしたのは1253年のことである。

フレグは慎重に軍を進めた。征西とはフレグにとって、モンケによって弾圧されたばかりのオゴデイやチャガタイ家の領地を通って行くことであり、彼は再度両家のモンケ一族への忠誠を確認しながら進まなければならなかった。

フレグは、ゆっくりと中央アジア一体の安定化を図りながら進んだ。

そこから先、イラン、アゼルバイジャン、グルジア、アナトリアなどの権力者達に、モンゴルへの協力を呼びかけた。

彼は、「ヤギ」(敵)か、「イル」(味方)か、をはっきりすることを求めた。

フレグの陣営には多くの首長たちが集まった。ほとんどの勢力がモンゴル側についた。従わなかったのはイスマイール教団王国だった。

フレグに率いられたモンゴル軍は、無差別な殺戮を重ねたのではない。

フレグの情報収集、時間をかけた根回し、そして冷静な見極めのもと、勝つべくして勝つ戦を目指す姿勢は、創祖チンギス以来脈々と生きていた。

しかし一旦「ヤギ」すなわち敵とみなすと容赦なかった。

こうしてフレグが取りかかったのは、イスマイール教団の消滅だった。

1092年セルジューク朝の宰相であり、スンニ派であったニザーム アルムルクが、バクダードへ向かう途中暗殺された。

この暗殺を命じたのは、熱狂的なシーア派のイスマイール教団の長、ハサン サッファーブだった。

彼はコム(テヘランの南150キロ)に生まれたペルシャ人だった。若い時からイスマイール派の中心地、当時ファーティマ朝のカイロに留学した。

帰国すると独自の教えを成す一派を組織し、拠点をイラン北部のアルボス山脈中の天嶮の要塞アラムートに置き政敵を暗殺でもって倒すことから暗殺教団とも呼ばれた。

優秀な若者達を集め、訓練して有能な暗殺者にしたてながら、防衛線として構築した山城は、東はアフガニスタンから西はシリアにまで及んだ。

暗殺第一号が、すなわちニザーム アルムルクだったのだ。

ニザーム アルムルクの死から164年を経て、イスマイール教団を消滅させるべくモンゴルが現れた。その間、暗殺教団による恐怖から、シーア派に改宗した人々も多かったことだろう。

西暦1256年1月1日、フレグ軍はイランに入った。

しかしこの日に至るまでフレグの目論みは、一気呵成なものとはまるで違っていた。じりじりと軍を進め有形無形の圧力をかけたのだ。

この圧力に耐えかねたイスマイール教団側は、一戦を交える前に内部で政変を起こした。第七代教主ムハンマド三世が側近に殺害されたのだ。モンゴルとの和平による生き残りをはかった一派によるものだった。

しかし、その先頭に立ったムハンマド三世の息子フルシャーもまた一筋縄ではいかない男だった。フルシャーによるモンゴルとの交渉は、交渉そのものがモンゴルの鋭鋒をかわすための陰謀だった。

フレグがイランに入って1年近くたった1256年11月19日、イランを中心に166年にわたり、十字軍でさえ果たせなかった堅固なアラムートの拠点は、フレグ軍によって破壊され消滅した。

フルシャーは、はるばるモンゴルの拠点カラ コルムの宮廷にまで行って取り入ろうとしたが、かって教団が自分の命をねらったとしてモンケはこれを許さず、フルシャーは帰途に殺害された。

暗殺者教団の拠点として怖れられていた山城群が取り除かれたことで、イランの東西を貫く通商路の安全が確保され、そのことによってユーラシア東西交通も格段に活発化した。
 
      (続)
Posted by red_pepper at 04:41  |Comments(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
 
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