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    <title>夙川日記　</title>
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      <title>時空を駆けて（44）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Thu, 24 May 2012 11:22:32 +0900</pubDate>
      <description>　　　　***********ムガル帝国まで（１）*********インドはユーラシアという視点からに見れば、地形的に大きく海に張り出している。早くからあった多くのインド亜大陸へのムスリム勢力侵入のコースにはふたつのコースがあった。ひとつは、ペルシャ湾岸からアラビア海をとおって、インド西岸へと拡大していくコースで、最初にイスラーム化されたのはインダス河口のシンド地方（現パキスタン領）だった。もうひとつは、イランからアフガニスタンを経て、北インドへと伸びていく陸路のコースである..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
　　　　***********ムガル帝国まで（１）*********<br /><br />インドはユーラシアという視点からに見れば、地形的に大きく海に張り出している。<br /><br />早くからあった多くのインド亜大陸へのムスリム勢力侵入のコースにはふたつのコースがあった。<br /><br />ひとつは、ペルシャ湾岸からアラビア海をとおって、インド西岸へと拡大していくコースで、最初にイスラーム化されたのはインダス河口のシンド地方（現パキスタン領）だった。<br /><br />もうひとつは、イランからアフガニスタンを経て、北インドへと伸びていく陸路のコースである。<br /><br />ユーラシアの遊牧騎馬民族を追ってきた時空船red_pepper号としては、一旦ティムールの時代を飛び越えて600年以上バックしながらそのままインドへ向かおう。<br /><a name="more"></a><br />そして、少しチンギス　ハーンの時代を絡めながら9世紀から13世紀のあたりをホバーリングしよう。<br />red_pepper号の時空計は、その先にしっかりとタジ　マハールを指している。<br /><br />ヒンドゥー教一色のようなインドのド真ん中に、何故イスラーム建築のシンボル、タジ　マハールという美しい建造物が、ひときわ存在感をはなっているのか私自身ずっと不思議だった。<br /><br />ヒンドゥー教は確か世界で最も古い宗教だった筈だ。<br />そんな宗教を背景に成り立っていたインドという国に、どうしてイスラームが入ってきたのだろう？<br /><br />衰退の一途をたどっていたアッバース朝に従っていた、旧ペルシャ系貴族の子孫サーマーン家が、自立して王朝を創立したのは875年だった。<br /><br /><a href="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/E382B5E383BCE3839EE383BCE383B3E69C9D.jpg" target="_blank"><img src="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/E382B5E383BCE3839EE383BCE383B3E69C9D-thumbnail2.jpg" width="235" height="320" border="0" align="" alt="サーマーン朝.jpg" onclick="location.href = 'http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/upload/detail/image/E382B5E383BCE3839EE383BCE383B3E69C9D-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />この王朝はアラブ人の征服以来、影を潜めていたペルシャ文化を初めてイスラームと結びつけて独特の文化を創った。<br /><br />この王朝は、首都ブハラをイスラーム世界の知識人が集まる、ペルシャ色の濃い世界的な学問の都市にした。<br /><br />驚いたことに、セルジューク朝に手を加えられ、現在の姿の原型を創ったイスファハーンの金曜モスクより200年以上早い。<br /><br />977年セピュクテギンが、サーマーン朝から自立してガズナ朝を創立した。<br /><br /><a href="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/E382ABE382BAE3838AE69C9D.jpg" target="_blank"><img src="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/E382ABE382BAE3838AE69C9D-thumbnail2.jpg" width="223" height="320" border="0" align="" alt="カズナ朝.jpg" onclick="location.href = 'http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/upload/detail/image/E382ABE382BAE3838AE69C9D-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />このカズナ朝こそ、ムスリム政権としてインド侵入を開始した最初の王朝だった。<br /><br />そして、台頭していく過程のセルジューク朝を悩ました王朝でもあった。（2012年01月31日ブログ　*****遊牧騎馬民族*******（3-C））<br /><br /><br />この王朝は、セピュクテギンの息子ムマフムードの統治下（998－1030）で、領土を拡大しながら最盛期を迎える。それは同時にヒンドゥー聖地の破壊と略奪を意味した。<br /><br />この王朝も1030年のマフムードの死によって弱体化は免れなかった。<br /><br />1147年頃にはガズナ朝からゴール朝が自立した。<br /><br />先のカズナ朝のインドへの侵入から、更に踏み込んでインド亜大陸への進出に意欲をもやしたのはゴール朝の、後にスルタンとなるシハーブッディーン（在位1203年―1206年）だった。<br /><br />1192年遂にシハーブッディーン軍は、インドのヒンドゥー系の王侯からなるラージプート諸国軍を破った。<br /><br />この事実は、インド亜大陸に初めてムスリムの侵入を認めることとなった。<br /><br />カズナ朝の陸路によるムスリム勢力のインド侵攻へのはじめての試みから、およそ200年が経っていた。<br /><br />この時のゴール朝によるイスラームの力を象徴して建てられたのがジャームのミナレット（クプト　ミナール）だ。<br /><br /><a href="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/E382B4E383BCE383ABE69C9D.jpg" target="_blank"><img src="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/E382B4E383BCE383ABE69C9D-thumbnail2.jpg" width="221" height="320" border="0" align="" alt="ゴール朝.jpg" onclick="location.href = 'http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/upload/detail/image/E382B4E383BCE383ABE69C9D-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />この後ゴール朝シハーブッディーンの武将アイバクは、デリー、カーリンジャル、中央インドを経てベンガルまで兵を進めこれらインドの地の大半を占拠していった。<br /><br />1206年肝心のシハーブッディーンがガズナへの帰途、暗殺された。<br /><br />この事態を受けてアイバクは、デリーを都とする自らの王朝を創設した。アイバクの出身がマムルーク（奴隷軍人）だったので一般に奴隷王朝と呼ばれる。<br /><br />これにより、デリーを中心にインドのイスラーム化が5代にわたって進むことになった。<br /><br />1211年、奴隷王朝はアイバクを継いだイルトゥトゥミッシュがスルタンになった。<br /><br />しかし、セルジューク朝を呑み込む形で台頭してきたホラズム　シャー朝が1215年ゴール朝の最後の君主を廃し、ゴール朝は完全に滅亡した。<br /><br />皮肉にもこの時点で、根っこはゴール朝と同じであった筈の奴隷王国は残った。<br /><br />時空船red_pepper号は、ふたたび1218年にやって来た。<br /><br />チンギス　ハーンがホラズム　シャー朝に450人の商業使節団を送り込んで、全員が殺害された事件のあったあの時点である。<br /><br />ユーラシア全体を巻き込んだそれはスケールといい、各地に及ぼした衝撃といい、それまでの歴史の混沌を超える怒涛の幕開きとなっていった。<br /><br />ホラズム　シャー朝のスルタン、ムハンマドがその後、チンギス　ハーンの命令により彼の武将達に追い詰められて黒海南部まで逃げに逃げた挙句、ホラズム君主、ムハンマドは逃亡先のカスピ海の南東部の町ゴルガーンの近くの、アーバースクーン島で病死したことは先に記した。（ブログ2012年02月23日***ホラズム　シャー朝とチンギス　ハーンの出現（A）***/　2012年02月26日***ホラズム　シャー朝とチンギス　ハーンの出現（B）***）<br /><br /><br />今回red_pepper号は、行く先をインドから目を離さない。<br />急ごう！<br /><br />このときムハンマドの息子ジャラールッディーンは、インダス川を越えてインドに逃れ奴隷王国のスルタン、イルトゥトゥミッシュに助けを求めたが、スルタンはそれには応えなかった。<br /><br />これを追ってきたのがチンギス　ハーンの次男チャガタイ　ハンの一軍だった。<br /><br />モンゴルが初めてインドに足を踏み入れたのはこの時だ。<br /><br />しかし彼等は、逃げるジャラールッディーンを追って、そのままインドを去ってイラン方面へ行ってしまった。<br /><br />とは言え、チャガタイ　モンゴルはこれ以降も何度もインドに侵入を図っている。<br /><br />更にチンギス　ハーンの孫フレグの創ったイル　ハン国も、インドに攻撃をかけた。つまりチャガタイ　ウルスも、フレグ　ウルスもインドを無視出来なかったことは事実だ。<br /><br />1328年チャガタイ　ウルスの軍隊がパンジャーブ（現在パキスタン）に侵入、ムルターンを占拠して、デリーなど北インド各地を掠奪したのを最後にチャガタイ　ウルスもフレグ　ウルスも弱体化していった。<br /><br />その後にインドに侵入してきたのがティムール朝の勢力だった。<br /><br /><br />*********ムガル帝国まで（２）********<br /><br />ティムールが、インド遠征に発した孫のピール　ムハンマドが、インドの慣れない気候風土で悪戦を強いられ、窮地に陥っていることを知らされたのは、1398年サマルカンドにおいてだった。<br /><br />ティムールはこの時、中国遠征に向けて20万の兵とともに殆ど準備が終わっていた。<br /><br />彼にとって中国遠征こそ最大にして最後のゴールだった。この時でさえ初めの計画から10年の遅れをとっていた。しかしピールの窮地を放っておくことは出来なかった。<br /><br />ティムールは1年近くをインド遠征に費やし、1399年武将のヒズル　ハーンをラホール　ムルターン長官に任命してサマルカンドに帰還した。<br /><br />1414年ヒズル　ハーンはデリーに入り自らのサイイド朝を創始した。<br />つまり自分のものにしてしまったのだ。<br /><br />これをティムール朝に取り返そうとしたのが、ティムールの第4子シャー　ルフ（在位1409年―1447年）だった。<br /><br />彼はこの時、アフガニスタンのヘラートを都にして中央アジアとイランを支配する強力な政権を確保、維持していた。<br /><br />しかしシャー　ルフは、サイイド朝を取り戻す前に他界してしまう。<br /><br />その後インドでは、弱体化したサイイド朝に代わって台頭してきたのはアフガン系のローディー朝だった。<br /><br />1526年このローディー朝に、とどめを刺してムガル朝を創始したのがティムールから5代を下ったバーブルだった。<br /><br />といえばいとも簡単にカッコよく聞えるが現実はそうでもなかった。<br /><br />red_pepper号は、ここから少しスピードを加えていこう。<br /><br />タージ　マハルが待っている！(続)<br /><br />

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
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      <title>時空を駆けて（43）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Sat, 19 May 2012 10:12:57 +0900</pubDate>
      <description>****************ティムール（完）*****************このヘラートのアブル　カースィム　パーブルが死ぬと、それまでおとなしくタブリーズにいたカラコ　ユンルの君主、ジャハーン　シャーが隙を衝いて反旗をひるがえした。彼等は、1458年極度の混乱に陥っていたホラーサーンに進攻し、一時的にヘラートも占領した。ティムール朝にとって幸運なことに、ジャハーン　シャーは数カ月すると西に帰って行った。こうしてヘラートは、サマルカンドの政権にいたアブー　サイードが領有..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
****************ティムール（完）*****************<br /><br />このヘラートのアブル　カースィム　パーブルが死ぬと、それまでおとなしくタブリーズにいたカラコ　ユンルの君主、ジャハーン　シャーが隙を衝いて反旗をひるがえした。<br /><br />彼等は、1458年極度の混乱に陥っていたホラーサーンに進攻し、一時的にヘラートも占領した。<br /><br />ティムール朝にとって幸運なことに、ジャハーン　シャーは数カ月すると西に帰って行った。<br /><br />こうしてヘラートは、サマルカンドの政権にいたアブー　サイードが領有することになった。<br /><br />1467年カラコ　ユンルと、ウズン　ハサン率いる新興のアクコ　ユンルの戦いでカラ　コユンルが破れジャハーン　シャーが敗死したことを知った、ティムール朝のアブ　サイードは、1469年自らアクコ　ユンルを倒すべく大軍を率いて西に向かった。<br /><a name="more"></a><br />結果は大敗を喫しアブ　サイード自身も殺害されてしまった。これ以降、ティムール朝が西に向かうことは2度となくなった。<br /><br />これによりイラン高原西部におけるアクコ　ユンルの覇権が確立した。<br /><br />ティムール朝で、その後30年近く続いた二つのティムール政権、サマルカンドとヘラートを双方とも滅ぼしたのは、北の草原地帯から南下してきた旧モンゴルのジョチ　ウルス系のウズベク族、シャイパーニー　ハーンだった。<br /><br />サマルカンドは1500年に、ヘラートは1507年に堕ちた。<br /><br />こうしてペルシャの香りをたっぷりと含んだ文化、とりわけ建築を中央アジアの舞台に引き込んだティムール帝国は滅亡した。ティムールの死から103年後の事だった。<br /><br />しかしここでティムールの王国が途絶えた訳ではなかった。<br /><br />ティムールの血は、5代を下ってバーブルの中に脈々と流れ、引き継がれていた。<br /><br />話は大きく後退するが、ティムールには長子ジャハーン　ギールがいた。その彼に嫁ぎながら、若くして寡婦となったカンザデという女性がいた。ティムールはこの女性の賢さと魅力を高くかっていた。<br /><br />しかし彼女は、遊牧民のしきたりに従って第三子ミラン　シャーのもとに再度輿入れをした。<br /><br />私はこのバーブルという男には、ティムールの心をも捉えたカンザデの血が、細く糸のように途切れずに流れていたと密かに、しかし確と思っている。<br /><br />そのバープルがサマルカンド陥落後、ウズベク族を逃れアフガニスタンから北インドに入り、デリーを中心にモンゴル帝国すなわちムガル帝国を創っていく。<br /><br />従ってこの後、波乱万丈、数奇な運命が待ち受けているムガル帝国の皇帝達の中にもカンザデの血は流れていたと私は勝手に思っている。<br /><br />そのインドへの足がかりを作っていたのは、1398年第二子ピール　ムハンマドを助けるためにインドを遠征した、他ならぬティムールだった。<br /><br />ティムールは一貫してモンゴルを敬い、アルタン　ウルク（黄金の一族）にこだわった。<br /><br />この帝国の名前がムガル、すなわちモンゴルとあるのは、そういう意味で、ティムールの思いが受け継がれたのかもしれない。<br /><br />あれほど中国遠征を渇望した裏には、ティムールが自身を世界征服者としてのチンギス　ハーンと重ねていたことは確かだろう。<br /><br />その向こうに彼は、高度な文化や美術を中国に期待したのだ。彼の美意識の集大成としてそれらを故郷に持ちかえり、最初の妃ウリジャイの廟を創るつもりだったのでは！？<br /><br />サマルカンドの金曜モスクは、ティムールの死後、民衆によって付けられたもう一つの名前がある。<br /><br />「ビビ　ハヌム」である。最初の王妃という意味だそうだ。<br /><br />遂に想いに手が届かなかったティムールの苦笑が、断腸の想いとともに伝わってくるようだ。<br />（ティムール・完）<br /><br />*******アクコ　ユンル（白羊朝）*****<br /><br />ティムール撤退後、現在のトルコ東部、イラン、イラクそしてアゼルバイジャンのほぼ全域を制したのは、アクコ　ユンルのウズン　ハサンだった。<br /><br />彼はその後ペルシャ全土を統一して、タブリーズを首都とした。<br /><br />加えてオスマンの東進を阻むため、ベネツィアと同盟関係を結んだ。<br /><br />このころウズン　ハサンはビザンツを滅ぼし、西部アナトリアで台頭してきたオスマン朝のメフメト2世（在位1444年―1446年、1451年―1581年）への警戒を強めた。<br /><br />しかし、1472年勝利を得たのはメフメト2世だった。<br /><br />大きく威信を損なわれたウズン　ハサンを継いで位についたヤークープ（在位1478年―1490年）の統治の間は比較的安定した治世だった。<br /><br />しかし、王朝として統一的な統治制度が整えられるにはあまりにも時間が足りなかった。ヤークープの突然の死によって、アクコ　ユンルが再び王朝の体を成すことはなかった。<br /><br />各地の王族が権力を巡って争い、次第に求心力を失い勢力を擦れ減らしていく様がここでも見られた。<br /><br />1501年アクコ　ユンルは、サファビー神秘主義教団の長、イスマーイールの下に完全に潰えた。<br />（アクコ　ユンル完）<br /><br />

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
          </item>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/archives/10758068.html</link>
      <title>時空を駆けて（42）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Thu, 17 May 2012 11:34:51 +0900</pubDate>
      <description>         ****************ティムール後*****************ティムールが没すると、彼の子孫は、代替わりの度に王位をめぐって激しく争い、次第に求心力を失っていった。それは同時に領地も失っていくことを意味した。特に西方のティムール朝離れは早かった。ティムールの遺産を消耗するのに100年もあれば充分だった。</description>
            <content:encoded><![CDATA[
         ****************ティムール後*****************<br /><br />ティムールが没すると、彼の子孫は、代替わりの度に王位をめぐって激しく争い、次第に求心力を失っていった。<br /><br />それは同時に領地も失っていくことを意味した。特に西方のティムール朝離れは早かった。<br /><br />ティムールの遺産を消耗するのに100年もあれば充分だった。<br /><a name="more"></a><br />チンギス　ハーンの場合、4人の息子は全て同じ母ボルテの下に育てられ巣立って行った。これに対し、ティムールの場合は4人の息子は全て母親が違っていた。しかもそれぞれひとりっ子だった。<br /><br />ティムール帝国が短命に終わったのは、そういうことも関係していないだろうか。<br /><br />ティムールの第一子ジャハーン　ギールはティムールが生涯、正妃とするはずだったウリジャイを母にもった。<br /><br />第二子ウマル　シャイフと第三子ミラン　シャーはティムールの意思とは関わりなく、時の総督から、片や戦利品として、片や奴隷として与えられた女達だった。<br /><br />ティムールはウリジャイの手前もあって、彼女の存命中にこの二人の息子を手元に置くことはなかった。<br /><br />ティムールがこの2子を引き取ったのは、次男ウマル　シャイフ13歳、3男ミラン　シャー7歳の時だった。ウリジャイが亡くなって5年以上経っていた。<br /><br />ウリジャイが亡くなった後、時を経て正妃として迎えたセライ　ムルクは、その後ティムールの第4子シャー　ルフの生母となる。<br /><br />ティムールが歿した後、特にハリル　スルタンを中心に、後継者争奪をめぐって世俗的な混乱が、サマルカンドを中心に渦巻いた。<br /><br />この間、東アナトリアで台頭してきたカラコ　ユンル（黒羊朝）の長カラ　ユースフが、ティムールの孫アブー　バクルを破って1408年タブリーズを占拠した。<br /><br />シャー　ルフ（在位1409年－1447年）が、サマルカンドを手に入れ、それまでの後継者争いに決着を付けたのは1409年、ティムールの死から5年も経っていた。<br /><br />事実上身内の結束力が破壊したに等しいなかで、ティムールの創った王朝の広大な領土をひとりで抑え、奪還し、統治していく過程は、シャー　ルフにとって決して安穏な日々ではなかった。<br /><br />とはいえ、彼は熱烈なイスラーム教徒であり、ペルシャの学芸、美術を奨励したので、いつしかヘラートがペルシャ学芸の中心となり荘厳なモスクが建設された。<br /><br />シャー　ルフがヘラートの新たな支配者となったのは、父ティムールによってこの町が早くに征服されていたからだ。<br /><br />ティムール朝はこの時期、事実上、都をサマルカンドとヘラートとふたつもったことになる。<br /><br />シャー　ルフは、サマルカンドも制圧し、ティムール朝の最終勝者となった。にもかかわらずこの後サマルカンドに戻ることは無かった。<br /><br />彼は、ヘラートに留まりこの都は素晴らしく繁栄した時代を迎える。<br /><br />もう一つの都、サマルカンドにはシャー　ルフの長子ウルグ　ベクが知事として残った。<br /><br />その後もカラ　ユースフは勢力を広げ、1419年には東方イスラーム世界の西半分をカラコ　ユンル朝のものとした。<br /><br />シャー　ルフは翌年から3度も遠征して自分の治世の続く間、何とかこの地を鎮めることが出来た。<br /><br />結局1447年、イラン中部で起こした身内の内乱を討伐するために西へ向かったシャー　ルフは、テヘラン南部のレイで没した。<br /><br />それはまた一族争乱の始まりでもあった。<br /><br />最終的にそれまでサマルカンドにいたシャー　ルフの嫡子ウルグ　ベク（在位1447年－1449年）が後継者となった。<br /><br />ウルグ　ベクは偉大な文化人であり政治家ではあったが、軍人としては祖父ティムールにも、父シャー　ルフにも遠く及ばなかった。<br /><br />この希有ともいえる文化人であった彼は、サマルカンドを文化都市として蘇らせることは出来たが、軍人としての力及ばず、混乱する国内を統率できないまま、2年後に息子アブドル　ラティーフに殺害される。<br /><br />彼が政争に巻き込まれなければ、世界的な天文学者として歴史家として名を馳せていただろう。<br /><br />彼の政権は僅か2年しか保持出来なかったとは言え、皇子という立場にいた凡そ30年間、恵まれた環境に身を置くことが出来た。<br /><br />その間、自らペルシャ語で『チンギス四汗国史』を記し、天文台を建設し、ティムールの代から未完成だった建造物を完成させた。<br /><br />その様はフレグが創ったイル　ハン国の首都、タブリーズから学術、美術がヘラートとサマルカンドに移された感があった。<br /><br />サマルカンドの「王家の墓」グル　エミールは、決してティムールの意図したとおりに出来上がった訳ではない。ティムール自身はこの廟に眠るつもりなど全くなかったのだから。<br /><br />このグル　エミールを、ティムール家の墓として整えたのはウルグ　ベクだった。<br /><br />私が先の旅でティムールの墓として案内された、彼の棺が横たっていた地下墓は、長男ジャハン　ギールの廟に隣接する形で、サマルカンドから80キロ離れたシャフリ　サブスの外れの緑の中にあった。<br /><br />ティムールは、本当は、この自分の故郷シャフリ　サブスに眠りたかったのではないだろうか？それは己の死後に起こった一族の争乱を知らないからこそ描く事の出来た夢だった。<br /><br /><br /><a href="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/E383ACE382AEE382B9E382BFE383B3E5BA83E5A0B4E381ABE38081E382A6E383ABE382B0E38080E38399E382AFE381ABE38288E381A3E381A6E69C80E5889DE381ABE5BBBAE381A6E38289E3828CE3819FE3839EE38389E383A9E382B5.jpg" target="_blank"><img src="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/E383ACE382AEE382B9E382BFE383B3E5BA83E5A0B4E381ABE38081E382A6E383ABE382B0E38080E38399E382AFE381ABE38288E381A3E381A6E69C80E5889DE381ABE5BBBAE381A6E38289E3828CE3819FE3839EE38389E383A9E382B5-thumbnail2.jpg" width="320" height="208" border="0" align="" alt="レギスタン広場に、ウルグ　ベクによって最初に建てられたマドラサ.jpg" onclick="location.href = 'http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/upload/detail/image/E383ACE382AEE382B9E382BFE383B3E5BA83E5A0B4E381ABE38081E382A6E383ABE382B0E38080E38399E382AFE381ABE38288E381A3E381A6E69C80E5889DE381ABE5BBBAE381A6E38289E3828CE3819FE3839EE38389E383A9E382B5-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />サマルカンドの中心的な広場であるレギスタン広場に真っ先に、美しいミナレットをもつマドラサ(大学)を建てたのもウルグ　ベクだった。着手したのは1417年彼が23歳の時だった。<br /><br />同じレギスタン広場に、ウルグ　ベクのそれより、およそ200年後に建てられた、マドラサ、シャール　タール(1617年)、そして内装が目も眩むばかりの金で覆われているティラ　カリ（1645年）がある。<br /><br /><a href="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/E383ACE382AEE382B9E382BFE383B3E5BA83E5A0B4EFBC9AE5A5A5E383BBE38386E382A3E383A9E38080E382ABE383AAE38081E6898BE5898DE58FB3E382B7E383A3E383BCE383ABE38080E382BFE383BCE383AB.jpg" target="_blank"><img src="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/E383ACE382AEE382B9E382BFE383B3E5BA83E5A0B4EFBC9AE5A5A5E383BBE38386E382A3E383A9E38080E382ABE383AAE38081E6898BE5898DE58FB3E382B7E383A3E383BCE383ABE38080E382BFE383BCE383AB-thumbnail2.jpg" width="320" height="205" border="0" align="" alt="レギスタン広場：奥・ティラ　カリ、手前右シャール　タール.jpg" onclick="location.href = 'http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/upload/detail/image/E383ACE382AEE382B9E382BFE383B3E5BA83E5A0B4EFBC9AE5A5A5E383BBE38386E382A3E383A9E38080E382ABE383AAE38081E6898BE5898DE58FB3E382B7E383A3E383BCE383ABE38080E382BFE383BCE383AB-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />この三つの建造物は、今では無くてはならないもののように、レギスタン広場でそれぞれの存在感を誇って美しい。<br /><br />これらが、それぞれイスファハーンのイマーム　モスクが完成した年（1617年）、とタージ　マハルが完成した年（1653年）とほぼ重なるというのが興味深い。<br /><br />この広場が、もともとキャラバン　サライであったと聞くと、急にあたりがざわめいて、さまざまな人間模様が活き活きと浮かんでくるようだ。<br /><br />ウルグ　ベクの死から2年後、1451年サマルカンドで王位を継いだのは、ティムールの3男ミラン　シャーの孫アブー　サーイード（在位1451年―1469年）だった。<br /><br />この頃になるとティムール帝国は、益々明確に２つに割れていた。<br /><br />片やサマルカンド政権、片やヘラート政権である。<br /><br />サマルカンド政権の中心に、ミラン　シャーの孫アブー　サイード、ヘラート政権の中心にシャー　ルフの孫アブル　カースィム　パーブルがいた。（続）

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
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      <title>時空を駆けて（41）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Tue, 15 May 2012 06:28:42 +0900</pubDate>
      <description>                 *********ティムール（N）**********暫らくして、ようやくエジプトを初め周辺国の安定を見極めると、ティムールは４年振りのサマルカンドへ向けて帰還を決意した。ティムールがアナトリアを引き上げようとしている矢先、飛び込んできたのは最年長の孫ムハンマド　スルタンの危篤の報だった。取る物も取りあえずタブリーズの手前で動けなくなったムハンマド　スルタンの幕舎に駆けつけたティムールだったが、時すでに遅かった。オスマン　トルコと最前線で戦っ..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
                 *********ティムール（N）**********<br /><br />暫らくして、ようやくエジプトを初め周辺国の安定を見極めると、ティムールは４年振りのサマルカンドへ向けて帰還を決意した。<br /><br />ティムールがアナトリアを引き上げようとしている矢先、飛び込んできたのは最年長の孫ムハンマド　スルタンの危篤の報だった。<br /><br />取る物も取りあえずタブリーズの手前で動けなくなったムハンマド　スルタンの幕舎に駆けつけたティムールだったが、時すでに遅かった。オスマン　トルコと最前線で戦った時の傷が元となった。<br /><br />祖父を支えるために、わざわざサマルカンドから駆けつけて、逝ってしまったムハンマド。。。<br /><br />ティムールの慟哭を残したまま旅発った若者は享年29歳だった。<br /><a name="more"></a><br />ティムールが告別式を終えた後、サマルカンドで自らの宮殿となる筈だった建造物を、急遽ムハンマド　スルタンの廟にすることを決めたのはこの時だった。<br /><br />現在のグル　エミールは、こうしてティムールの想定外の運命に沿うように形を変えてしまった。<br /><br />1404年春、チムールは全軍にサマルカンドへの帰還を命じた。<br /><br />5年振りに戻ったシャフリ　サブスはその名のとおり緑深く、草原を吹いてくる風はティムールを、ひととき慰めたことだろう。<br /><br />50メートルの高さを誇る白い宮殿、アク　サライは殆ど出来上がっていた。とはいえ着工から既に24年を経ていた。<br /><br />この頃になるとさしもの権勢を誇ったモンゴル大帝国も、その4分の3を失っていた。<br /><br />宗家であった元も北へ引っ込んでしまい、オゴタイ　ハン国、チャガタイ　ハン国の大部分はティムールが奪った。<br /><br />フレグ　ウルス（イル　ハン国）は崩壊している。残るキプチャク　ハン国も最早、衰退の一途をたどっていた。<br /><br />ティムールを置いてこの機を待つ者はなかった。<br /><br />1404年11月、ティムール軍団がサマルカンドを出発した。<br /><br />孫のバーイ　カラーとハリル　スルタンが軍を率いて従った。オトラルまで極寒の行軍は68歳を超えたティムールには厳しかった。<br /><br />それでも1405年1月14日、ティムールは一面深い雪を冠ったオトラルの砦の館に入った。<br /><br />ティムールの最後の目標であった中国との戦いを目前に、そこから先、ティムールを待っていたものは己の死との戦いだった。<br /><br />ティムールは後継者をピール　ムハンマドに定め, 後に続く孫達がしっかりと自分の志を継いでいくよう言含めた。幕僚達にも誓わせた。<br /><br />そこまでだった。オトラルに到着した翌月、1405年2月ティムールの命の灯は消えた。奇しくもこの地は、チンギス　ハーンが大規模な征西に打って出るきっかけをつくった地だった。<br /><br />チンギス　ハーンとその一族に続いて、文明の狭間に取り残されていた遊牧民の歴史への挑戦を示し、先人の文化をさえ凌ごうとした彼の生涯はこうして幕を下ろした。<br /><br />この後、ティムールの遺志とは裏腹に動き出したのは、壮絶な後継者争いだった。<br /><br />ティムールが最も頼みとしこの遠征に同行していたバーイ　カラーとハリル　スルタンがサマルカンドに向かい、先ず、ハリル　スルタンがハンを宣言した。<br /><br />正式の後継者指名を受けたピール　ムハンマドはそのとき、遠くカブールにいた。<br /><br />彼はティムールの崩御を知るとすぐにサマルカンドに向かった。そしてアム河を渡ったところで待ち伏せていたハリルの軍に撃破された。<br /><br />ティムールの長男ジャハーン　ギールを父に、カンザデを母にもつサラブレット中のサラブレット、ピール　ムハンマドにとって予想もしなかった結末だっただろう。<br /><br />ティムールの死により西方からの脅威が消滅した明の永楽帝は、目を南に向けた。そこにはかってクビライが開いた南海航路があった。<br /><br />しかしその構想は、モンゴルのそれとは全く違っていた。<br /><br />モンゴルの政策概念が世界に向けて、つまり常に外を向いていたのに対して、明の政策は皇帝と宦官の私的な結束に支えられた、極めて内向きなものだった。<br /><br />クビライ時代、公に交易を目的とした海路に、艦隊など登場することもなかったモンゴルだったが、永楽帝の時代になると、艦船を統括する総司令官として鄭和が登場する。<br /><br />彼が、大船団を率いて遠征航海に出るのは、ティムールの他界した同年1405年である。<br /><br />モンゴル帝国のもとで生まれた銀を軸とした経済システムが瓦解した後、鄭和の時代は、新たな交易システムを模索した時代でもあった。<br /><br />しかし、鄭和の遠征がこの新しい時流に大きな影響を与えたという目立った記録は無い。<br /><br />明朝はこの後、海洋交易を禁じるという海禁政策をとることになる。<br /><br />ヨーロッパ諸国が、新規開拓を求めて次々と探検者達を大洋に送り出した大きな原因のひとつは、中央アジアの戦乱や海禁によって、東からの交易の道を断たれたからだ。<br /><br />コロンブスや、ヴァスコ　ダ　ガマが海洋探検家として華々しく歴史の舞台に踊り出すのもこの頃である。<br /><br />ティムールの死からおよそ1世紀という時が流れていた。(続)<br /><br />

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
          </item>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/archives/10752443.html</link>
      <title>時空を駆けて（40）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Sun, 13 May 2012 07:00:07 +0900</pubDate>
      <description>                  *********ティムール（M）**********ティムールはその後も黒海に隣接するグルジア、黒海とカスピ海に挟まれた内陸アルメニアを制したが、オスマン　トルコのバヤジットだけはどこまでも挑戦的だった。このためティムールは全軍をシリアに向けた。シリアはエジプトと、オスマン　トルコを結ぶ通り路になっていた。ここを抑えることでエジプトを本国に封じ込め、オスマン　トルコのバヤジットを孤立させることが出来る。しかしこの時、さしものティムール軍も..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
                  *********ティムール（M）**********<br /><br />ティムールはその後も黒海に隣接するグルジア、黒海とカスピ海に挟まれた内陸アルメニアを制したが、オスマン　トルコのバヤジットだけはどこまでも挑戦的だった。<br /><br />このためティムールは全軍をシリアに向けた。<br /><br />シリアはエジプトと、オスマン　トルコを結ぶ通り路になっていた。ここを抑えることでエジプトを本国に封じ込め、オスマン　トルコのバヤジットを孤立させることが出来る。<br /><br />しかしこの時、さしものティムール軍も疲労の極に達しようとしていた。叱咤激励するティムールとて同じだった。<br /><br />シリアのアレッポに向かうティムールの軍に合流しながら、父ミラン　シャーの犯した罪の赦免を請うた息子アブー　バクルは、この時率先してティムールの役に立とうとしていた。<br /><a name="more"></a><br />10月、ゆっくりと時間をかせぎながらシリアのアレッポに辿りついたティムール軍の前に、敵方の守備軍が堅固な城砦から打って出て来た。<br /><br />今回のティムール軍の先頭には、インドから連れ帰った戦象が占めた。アレッポ軍は総崩れだった。<br /><br />勢いに乗ってティムール軍が向かった先はエジプトである。<br /><br />エジプトのマムルーク朝はファラジがスルタンを継いでいた。ティムールを軽視した彼は、エジプトからわざわざ北上してシリアのダマスクスを戦場にした。<br /><br />ティムールによる猛々しい象を駆使したアレッポ陥落の報をうけると、急に怖じ気付いたファラジのとった行動は、3人の特使にゆだねた暗殺だった。<br /><br />百戦錬磨のティムールは、本能的にこの目論を見破った。<br /><br />ファラジの全面降伏の意志を無視してティムールは、主軍をエジプト軍の総攻撃に向けた。ダマスカスを包囲したのだ。<br /><br />今度はダマスカスの町の人々が、エジプト軍勢を無視して降伏の意志を伝えてきた。<br /><br />ティムールはここで、当時イスラーム世界で最高の歴史学者と謳われたイヴン　ハルドゥーンに会いたい旨を伝えさせた。<br /><br />彼はマムルーク朝に仕え、今回も遠征に従っているとの情報を得たからだ。ティムールは彼の名声を各地の知識人から聞かされて知っていた。<br /><br />実現したのは年が明けた1401年の一月だった。彼との会談はティムールにとってほろ苦いものだった。<br /><br />直接的ではなかったが「文明の深みにはまった者や、国家は、同じ様にそこを目指して付き進んでくる次の連帯集団によっていずれ滅ぼされる」という趣旨のものだったから。<br /><br />ダマスカスが門を開き、公に降伏したのはそれから5日後のことだった。<br /><br />門を入るティムールは、その後も何度か会っていたイヴン　ハルドゥーンから譲り受けた驢馬にまたがっていたという。<br /><br />礼にティムールは、ハルドゥーンをエジプトまで無事送り届けた。<br /><br />さて、ダマスカスの街でもティムールの興味をかき立てたものは、やはり建築、ウマイヤドモスクだった。<br /><br />どうしてもサマルカンドが、そしてその先の中国が気になる。<br /><br />即刻サマルカンドに戻るにしても、ダマスカスの守備を任される武将は、もはやこの時ティムールの側にはいなかった。<br />この街を無傷のまま残せないのなら。。。ティムールはファラジに対する復讐もかね、軍を置く代わりにダマスカスを殲滅した。<br /><br />もちろん、その前に必要な人材、絹織物、武器、ガラス、陶器などの職人、建築工匠などをサマルカンドに送ることを忘れなかった。<br /><br />気持ちはサマルカンド、そしてその先の中国を熱く見つめている自分から、これほどの時間を奪った諸々を恨みながら、ティムールがタブリーズに帰還すると、今度はオスマン　トルコのスルタン、バヤジットの無視できない動静が待っていた。<br /><br />バヤジットはいよいよ攻めてくる意志を見せつけていたし、殆どの領土を失い、オスマンによって脅威を与え続けられているビザンツ帝国の皇帝、マヌエル2世からは、救援を懇願する密書が届いていた。<br /><br />最早、事態をこのままにして西方を去るわけにいかなくなった。<br /><br />ティムールは、サマルカンドに留めておいたムハンマド　スルタンに、中国遠征のために残しておいた軍隊を率いて西へ来るよう急使を送る一方で、バヤジットに対しては和平を保つための条件を申し入れた。<br /><br />バヤジットが、ティムールの息子の治める西の領域を侵さない約束を取り付けることだけが、ティムールにとって偽らざる本音だっただろう。和平の申し入れは無視された。<br /><br />1402年ムハンマド　スルタン軍がスルターニーエにやって来た。<br /><br />戦場はアンカラになった。<br /><br />ティムールはこの戦いに、亡き長男ジャハーンギールの息子ムハンマド　スルタンを先頭に、その弟のピール　ムハンマド、亡き二男ウマル　シャイフの息子バーイ　カラー、　そして3男のミラン　シャーとその息子アブウ　バクル、4男シャー　ルフの参戦する軍団となった。<br /><br />まさにティムールの手持ちのカードを全て切ったのだ。結果はティムール軍の大勝利だった。<br /><br />バヤジットは脱出を図ったが、追いすがるティムールの騎兵に馬から引きずりおろされ捕虜としてティムールに拘束された。そして、翌年1403年獄中で謎の死をとげた。<br /><br />ティムールにとってこれが終わりではなかった。<br /><br />彼は再び西方の混乱が東へ向かおうとする彼の足を引っ張らないよう、しっかりと周辺の火種を消してからでなければサマルカンドには戻れないと思ったから。<br /><br />そんな彼にとって最大のネックは、トルコのエーゲ海を臨むイズミールだった。キリスト教色の強いこの町は、事実キリスト教徒達が最後の砦と頼む町でもあった。<br /><br />しかしロードス島からの救援艦隊が到着したのは、イズミールの街が崩落し始めた時だった。<br /><br />攻防戦は２週間で終わった。（続）<br />

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
          </item>
        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/archives/10749958.html</link>
      <title>時空を駆けて（39）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Fri, 11 May 2012 10:25:22 +0900</pubDate>
      <description>　　　　　　　　　　　********* ティムール（L）*********ほとんど土地に附着した文化をもたなかった遊牧民であるティムールは、こうして武力だけでなく、文化の面でも先進定住民族をしのぐ、トゥルク系遊牧騎馬民族の王国を打ち立てようとした。サマルカンドはその象徴だった。とは言え、彼が実権をにぎって以来、北へ南へ、西へ東へと戦場を駆け巡った35年という間、ティムールがサマルカンドに戻って安穏な日々を過ごしたのは、全部あわせても僅か2、3年だったと言われる。そのわずかな..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
　　　　　　　　　　　********* ティムール（L）*********<br /><br /><a href="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/E382B5E3839EE383ABE382ABE383B3E38389E383BBE382B0E383ABE38080E382A8E3839FE383BCE383AB.jpg" target="_blank"><img src="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/E382B5E3839EE383ABE382ABE383B3E38389E383BBE382B0E383ABE38080E382A8E3839FE383BCE383AB-thumbnail2.jpg" width="234" height="320" border="0" align="" alt="サマルカンド・グル　エミール.jpg" onclick="location.href = 'http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/upload/detail/image/E382B5E3839EE383ABE382ABE383B3E38389E383BBE382B0E383ABE38080E382A8E3839FE383BCE383AB-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />ほとんど土地に附着した文化をもたなかった遊牧民であるティムールは、こうして武力だけでなく、文化の面でも先進定住民族をしのぐ、トゥルク系遊牧騎馬民族の王国を打ち立てようとした。<br /><br />サマルカンドはその象徴だった。<br /><br />とは言え、彼が実権をにぎって以来、北へ南へ、西へ東へと戦場を駆け巡った35年という間、ティムールがサマルカンドに戻って安穏な日々を過ごしたのは、全部あわせても僅か2、3年だったと言われる。<br /><br />そのわずかな間を縫うようにして彼は、シャヒー　ジンダやグル　エミール金曜モスク、そしてシャフリ　サブスにはアク　サライなど宮殿や廟や寺院を建てた。<br /><br /><br /><a name="more"></a><a href="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/098.JPG" target="_blank"><img src="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/098-thumbnail2.JPG" width="240" height="320" border="0" align="" alt="098.JPG" onclick="location.href = 'http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/upload/detail/image/098-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br /><a href="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/100.JPG" target="_blank"><img src="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/100-thumbnail2.JPG" width="240" height="320" border="0" align="" alt="100.JPG" onclick="location.href = 'http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/upload/detail/image/100-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />もちろん留守中の工事の進行は、現場責任者にまかせることとなったが、彼等とてティムールの意に添うよう、そこには常に命がかかっていた。<br /><br />それでも、ティムールの心の中は東方、つまり中国遠征への思いが片時も離れることは無かった。そこへ向ける彼の心の眼差しは、渇望に近くギラギラと熱かった。本人の知る由もない残された時間は後6年だった。<br /><br />中国遠征に関しても、その途上そこで刺激される建物に出会った場合、それらを、形をかえてもサマルカンドにもってくる心つもりがあった。<br /><br />そこにはウリシャイの廟を描いていたのかも知れない。そのための用地も確保しておこうと思った。<br /><br /><br /><a href="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/043.JPG" target="_blank"><img src="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/043-thumbnail2.JPG" width="240" height="320" border="0" align="" alt="043.JPG" onclick="location.href = 'http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/upload/detail/image/043-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>  <br /><br /><br /><br />インド遠征のピール率いる本軍が凱旋したのは、それから凡そ1カ月後だった。<br /><br />サマルカンドで彼等を迎えたチムールはこの時、西から駆けつけたひとりの女性と思いがけない再会をした。<br /><br />それは長男ジャハーンギールに嫁ぎながら、ジャハーンギールの早世により寡婦となり、その後モンゴルのしきたりに従って、3男のミラン　シャーに第二妃として嫁していたカンザデだった。<br /><br />タブリーズからの必死の脱出と見えた彼女のもたらした西からの報せは、ティムールを驚愕させるものだった。<br /><br />ペルシャからイラクを任された3男ミラン　シャーは、長男ジャハーンギールも次男ウマル　シャイフも他界した今、現在の長子である自分こそ帝国の継承者であることを父ティムールに示したかった。<br /><br />ミラン　シャーは、先ずバクダード奪還へ動いた。彼の挑戦は完全に失敗に終わった。北のグルジアもミランの敗退で、今ではタブリーズの脅威となっていた。<br /><br />その後、ミランは酒と賭博にのめり込んでいった。<br /><br />更にティムールがシーラーズやバクダードやグルジアで奪った莫大な財宝を保管してある城内に入り込み、それらをことごとく賭博や側近や奴隷にばらまき、徹底して散財したというものだった。<br /><br />ティムールが中国遠征に集中しようとしていた矢先、ピールの要請を受けてインド応援遠征をしている間、全く知らなかったこととはいえ、この報せは今までの征西のほとんどを費やして築いた西部帝国の崩壊につながるものだった。<br /><br />ちなみにピールは、ジャハーンギールとカンザデの間に出来た第二子であり本当の母と子だった。ピールにとっても思いがけない再会だっただろう。<br /><br />ティムールはこの時、息子ミランの狂気は、あの男の中に半分は流れている奴隷女の血だと吐き捨てるように、自身に言い聞かせた。<br /><br />しかも今そのミランの第2子ハリル　スルタンが、シャディー　ムルクという奴隷女となんとしても結婚すると言っているという。<br /><br />ティムールは「女を殺せ」と妻セライ　ムルクに命じた。<br /><br />しかしティムールは振り上げたこぶしを下ろさざるを得なかった。シャディー　ムルクはその時、既に、ティムール家の一子を宿していると聞かされたからだ。<br /><br />1398年中国では洪武帝が死に、孫の恵帝が南京で即位した。しかし都から離れたところでは不穏な動きが目立ち始めた。特に1395年には燕王軍の動きは騒乱を広く展開しつつあった。<br /><br />中国のこの内乱状態は、ティムールにとってまさに機は熟し切っていた。<br /><br />しかし。。。<br /><br />ティムールはミランが破壊した西方の情勢が良く分からないまま、それゆえに気になって動くことが出来なかった。<br /><br />西に放った密偵が持ち帰る情報は深刻だった。カンザデが告げたことは本当であったばかりでなく、事態は一層深刻度を増していた。<br /><br />オスマン　トルコや、トルクメン、バクダード、果てはエジプトまでがしきりに動き出しているというのだ。<br /><br />ティムールは、軍団の後ろに象の一群を引き連れて４度目の征西に向かった。<br /><br />ティムールは、スルターニーエの城内へ進みながら、ミラン　シャーの処遇を考えると、萎えていく気力に抗うことが出来なかった。<br /><br />そこには63歳という自分の年齢と、中国遠征へ向けて孫のムハンマド　スルタンや　息子シャー　ルフを従えた計画と、それに伴う準備が万端整っているというのに、いざという時に届かない彼の想いへの焦りが大きく占めていた。<br /><br />ミラン　シャーは、長子アブウ　バクルや、ティムールの正妃セライ　ムルクの必死の取りなしで辛うじて死刑は免れた。<br /><br />しかし、エジプト、イラク、ペルシャ、グルジア、オスマン　トルコを鎮めるのは容易なことではなかった。<br /><br />とは言え、それをしておかなければ安心して中国へ向かうことが出来ない。<br /><br />このジレンマを解消するために、それまで幽閉していたミラン　シャーの身を解き戦場に同行させざるを得なかった。<br /><br />更にこの時、ヘラートにいた4男シャー　ルフも呼んだ。（続）<br /><br />☆写真は上から、グル　エミール/アク　サライ・アク　サライ/シャヒー　ジンダ/

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
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      <title>時空を駆けて（38）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Wed, 09 May 2012 07:11:22 +0900</pubDate>
      <description>　　　　　　　　　　　**********ティムール（K）**********パンジャーブからデリーに至る各地では、ティムールが本軍として侵入したことで態度を硬化させた。そんななかでもティムールのカルチャーショックは、好奇心を刺激することを忘れない。いや何よりもそれが先行していたかもしれない。ここでも新しい形の建築を探し、さまざまな分野の工匠を捕えた。デリーでの戦いは双方にとって過酷を極めた。ティムールはここの戦場で、初めて敵側の象を武器とする戦いを目の当たりにする。武器に身..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
　　　　　　　　　　　**********ティムール（K）**********<br /><br />パンジャーブからデリーに至る各地では、ティムールが本軍として侵入したことで態度を硬化させた。<br /><br />そんななかでもティムールのカルチャーショックは、好奇心を刺激することを忘れない。いや何よりもそれが先行していたかもしれない。ここでも新しい形の建築を探し、さまざまな分野の工匠を捕えた。<br /><br />デリーでの戦いは双方にとって過酷を極めた。<br /><br />ティムールはここの戦場で、初めて敵側の象を武器とする戦いを目の当たりにする。<br />武器に身を固めて異様な形に出来上がった象の大軍を前に、ティムール側の馬はたじろいだ。<br /><a name="more"></a><br />ティムールは急遽戦略を変え大きな壕と柵を造らせ、集めたラクダの背にガソリンをかけてその上に火をつけた。そんなラクダの大群を、それまで悠々と前進していた象の大軍に向けて放った。<br /><br />大混乱のなか多くの象がにわか作りの柵を越え壕に落ちた。柵を破った象の足の裏には鉄菱がくいこむ仕掛けになっていた。<br /><br />シャーの逃亡したデリーは、翌日マイダー門を開き降伏した。<br /><br />ティムールは、こうしてアレキサンー大王もチンギス　ハーンも果たせなかったインドの征服を成した。<br /><br />それでも62歳のティムールにとって、その心は中国征服の渇望から離れることはなかった。<br /><br />彼は足早に帰国の途についた。軍団の後ろには100頭余りの象ばかりでなく、数万人の捕虜が続いた。デリーで<br />集めた工人や職人たちだった。屈強な男達は財宝を運んだ。<br /><br />そのなかには高名な知識人、そしてティムールの心をとらえたジャムナ寺院の図面もあった。<br /><br />サマルカンドに着いたのは1399年4月末だった。1年にわたる遠征だった。<br /><br />旅の埃を洗い流すと、翌日から、しきりにティムールの脳裏を占めて離さないジャムナ寺院をもとに、自身でデザインを考え、自身が現場監督となって即新しい建築が始まった。<br /><br />現在、「金曜モスク」とも「ビビ　ハヌム」とも呼ばれている建物である。<br /><br />金曜モスクの建立にあたって彼は、インド遠征の際連れ帰った職人ばかりでなく、大工、石工、タイル職人のほとんどが現イランのシーラーズ、ヤズド、イスファハーン、タブリーズなどから動員された凡そ200名の職人達を駆り立てた。<br /><br />彼等は、強制的に連行された名匠ばかりでなく、なかには王朝の保護を求めて自発的にやってきた腕利きの人々もいたという。<br /><br />元来の大きさが109×167メートルだったと言われるこの金曜モスクは、19世紀末の地震によって壊滅的な廃墟となった。<br /><br />それにしても、地震後の金曜モスクが今日見られる姿に修復されるためには、相当の時間とお金と苦労が費やされたに違いない。<br /><br />史料によると、崩壊前の金曜モスクは、建物の四隅にはそれぞれ高いミナレットが立ち、建物内部は480本の石柱に支えられ、イーワンや回廊、ミナレットを備え、建物の表面は青を主としたタイルが施された、東方イスラーム世界のモスクの特徴を採り入れた正に、ペルシャス　タイルのモスクだった。<br /><br />伝えられるところによると、ティムールは殆ど出来上がっていたにも関わらず、入口のイーワーンの高さが気にいらず、直ちに建て直しを命じたという。彼の美へのこだわりは半端ではなかった。<br /><br />尚、床は石板で舗装されていたが、これらの石はインドから凡そ100頭の象に運ばれて来たものだった。<br /><br />ティムールはおよそ300年後、インドに豊富なこれらの石を使った、タージ　マハルという世にも美しい建造物が現れるなど想像もしなかっただろう。<br /><br />ティムールがこうして世界一美しい都を心に描きつつ、建設を進めていく過程で、まわりの薄汚れた民家や住民が疎ましく映ると、命令一下、住民達の困惑やうろたえをよそにそれらは一夜のうちに払いのけられた。<br /><br />この世界一美しい町つくりにティムールの王族、軍人、官僚、イスラーム知識人なども積極的に協力、参加し、活発な建築活動を支えた。<br /><br />ティムールはイランやインドのような先進的な定住文化圏を、単に武力で征服するだけでなく、文化面でそれを凌ごうとしたのではないだろうか。<br /><br />ひとつ例をとると、グル　エミールや金曜モスクのドームの形は他所のモスクには見られない規則的な波がうっている。そして、その上に精緻で美しい文様が施されている。あれはティムールがいつも冠っていたお気に入りのモンゴルの兜からヒントを得たとか。<br /><br />このようにティムールは先人の範を求めず、自らの独創性を気兼ねなく加えて、その過程は彼自身の美意識の赴くままに、新しいデザインや意匠をこらしながら自身の好みに従って建築を試みていった。（続）<br /><br /><a href="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/E382B5E3839EE383ABE382ABE383B3E38389E383BBE98791E69B9CE383A2E382B9E382AF.jpg" target="_blank"><img src="http://up.blogs.dion.ne.jp/red_pepper/image/E382B5E3839EE383ABE382ABE383B3E38389E383BBE98791E69B9CE383A2E382B9E382AF-thumbnail2.jpg" width="232" height="320" border="0" align="" alt="サマルカンド・金曜モスク.jpg" onclick="location.href = 'http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/upload/detail/image/E382B5E3839EE383ABE382ABE383B3E38389E383BBE98791E69B9CE383A2E382B9E382AF-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/archives/10744576.html</link>
      <title>時空を駆けて（37）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Mon, 07 May 2012 07:11:56 +0900</pubDate>
      <description>　　　　　　　　　　　**********ティムール（Ｊ）**********キプチャク軍は敗走し、トクタミシュはヴォルガを超えて更に北方へと逃亡した。ティムールは追跡を断念した。これ以上トクタミシュに振り回される愚を思ったかもしれない。気持ちに余裕が無かったのかもしれない。55歳を迎えたこの時のティムールにとって、征西、中国侵攻戦略、そしてサマルカンドの建設、どれひとつ達成されたものはなかった。どれもが中途半端のままだった。本人の知るよしもないことだったけれど、彼に残された..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
　　　　　　　　　　　**********ティムール（Ｊ）**********<br /><br />キプチャク軍は敗走し、トクタミシュはヴォルガを超えて更に北方へと逃亡した。<br /><br />ティムールは追跡を断念した。<br /><br />これ以上トクタミシュに振り回される愚を思ったかもしれない。気持ちに余裕が無かったのかもしれない。<br /><br />55歳を迎えたこの時のティムールにとって、征西、中国侵攻戦略、そしてサマルカンドの建設、どれひとつ達成されたものはなかった。どれもが中途半端のままだった。<br /><br />本人の知るよしもないことだったけれど、彼に残された時間はあと14年だった。<br /><a name="more"></a><br />イランのシーラーズでは、反ティムールの動きを強化する新しい王が現れた。バクダードのスルタン　アフマドも不穏な動きを始めたという。<br /><br />このままほっておくと何のための征西だったか分からなくなる。サマルカンドからの報せはティムールの心に重くのしかかるものばかりだった。<br /><br />ティムールはクンドゥズチャの会戦の翌年、1392年再び征西へ向かった。<br /><br />先年に辛酸をなめた経験から、同じ国々を通るティムールに対して戦況は厳しいものだった。しかしティムールの意志は屈することはなかった。<br /><br />1393年春、シーラーズを攻略するとティムールは忠臣を裏切ったシャー　マンスールを初め、一族を処刑した。<br /><br />彼はそこからバクダードを目指した。しかし肝心のスルタン　アフマドはエジプトへ逃亡した後だった。<br /><br />ほとんど無血占領のバクダードからサマルカンドに豊かな富を初め、多くの芸術家や工人が送られた。<br /><br />1394年黒海沿岸やグルジアを壊滅させ、ひととき、ほっとしたのも束の間、敵前逃亡したトクタミシュが、ロシア諸侯国の援助を受けながら再び南下しているという。<br /><br />ティムールは、キプチャク軍そのものはコーカサス北部を超えて破ったが、再びトクタミシュ個人の追跡が始まった。拠るべき地を失ったトクタミシュは遥か北方の森林地帯に姿を消した。<br /><br />この5年の征西で高い文化をもつ古都をめぐり多くの刺激をうけ、その土地々々で得たものも計り知れなかったティムール。しかしその間、自らの大切なものも失った。<br /><br />それは、アルメニアの会戦に派遣した二男のウマル　シャイフを戦死させたことだった。ティムールの4人の息子のうち、長男ジャハンギールに続く２人目の息子の夭折だった。<br /><br />ティムールは、オスマン　トルコにもエジプトにも友好を申し入れていくつもりだった。<br /><br />しかし、両国に派遣した使者がもたらした反応は、ティムールを安堵させるものではなかった。<br /><br />オスマン　トルコは、スルタン　バヤジットが自ら育て上げた精鋭中の精鋭イェニチェリ軍団という親衛隊を盾に、ビザンツ帝国の首都コンスタンチノープル攻囲を続けていた。<br /><br />彼はティムールを不気味に見下していた。<br /><br />エジプトのスルタン　パルクークは、ティムールの使節を殺害した上、亡命中のアフマドを全面援助してバクダード奪還を公然と述べたてていた。<br /><br />そんな中にあって、ティムールがサマルカンドへ踵を返した心の先には、やはり中国遠征があった。<br /><br />サマルカンドもまだ町として完成した訳ではなかった。はやる気持ちのまま過ぎていく時間は、ティムールにとって無情だった。<br /><br />このころ、またもやそんなティムールの足をひっぱる報せが届いた。<br /><br />ティムールからアフガニスタンのカブール、カンダハル、そして北インドを与えられた孫のピール　ムハンマドは、その地の征服に全力を傾けていた。<br /><br />1397年秋、インドのパンジャブ地方に入ったピールは、それまで殆ど無抵抗だった進撃を、ムルタン（現パキスタン領）で完全に阻まれた。<br /><br />ピールの軍を苦しめたのは、第一にこの地の人々の今までに見せなかった抵抗だったが、それ以上にこの季節の太陽のもたらす熱暑と、それに伴う炎のような突風が砂塵とともに襲ってくるとき前進出来なくなってしまった。それはピール軍から戦う意志さえ奪って行くかのようだった。<br /><br />1398年4月サマルカンドでこの報せを受けた時ティムールは、中国遠征に向けて20万の兵とともに殆ど準備が終わっていた。<br /><br />ティムールにとって渇望に近かった中国遠征は、この時すでに初めの計画から10年近く遅れをとっていた。<br /><br />なんの前触れもなく、自分の夢と現実の狭間に突き落とされるのはこれで何度目だろう。それでもティムールは決心した。「インドには俺が行く」と。<br /><br />この時の決心がそれから凡そ125年後、インドにティムール一族の存続を許すことになるムガール帝国建設の道をつくるきっかけになるなど、彼には思いもよらないことだっただろう。<br /><br />ならば、ムガール帝国は別名、新ティムール王朝ということになるのでは？<br /><br />この時のティムールの決心がなければ、時空船red_peppr号が、この後タージ　マハルまで飛ぶこともなかっただろう。<br /><br />続けよう。<br /><br />カブールまでやって来たティムールとその軍団は、ピールがムルタンは陥落させたものの、今度は水に苦しめられているということを知らされた。<br /><br />インド亜大陸の雨季は、凄まじい音とともに雨を大地に叩きつける。<br /><br />そんな雨は、５つの河の交差点のような地形にあるムルタンを容易に水であふれかえる町にする。その光景は、砂漠の地からやって来た者たちにとって脅威でさえあった。その虚を衝いて敵は逆襲してくる。<br /><br />5万の軍を連れたティムールは、ガンダーラのあたりから南下して10月の末サトレジ川の近くでかろうじて窮地を脱したピールの軍と合流した。<br /><br />しかし、インド征服を目指すピールにとってそれは、まだ入り口に立ったにすぎなかった。（続）<br /><br /><br />

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
          </item>
        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/archives/10741579.html</link>
      <title>時空を駆けて（36）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Sat, 05 May 2012 07:06:10 +0900</pubDate>
      <description>             **********ティムール（I）**********この辺りは紀元前3000年代シュメ-ル人の都市国家としてスタートし、華やかな歴史の足跡を残した町だ。762年以降バクダードは、イスラーム国家として君臨し、1258年にチンギス　ハーンの孫フレグに陥落させられるまで、アッバース朝の都として栄えた。陥落後は、メソポタミア地方の一地方都市のように成り下がってはいたが、香り高い文化に敏感なティムールにとっては興味をそそる地域だっただろう。この時、ティムー..</description>
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             **********ティムール（I）**********<br /><br />この辺りは紀元前3000年代シュメ-ル人の都市国家としてスタートし、華やかな歴史の足跡を残した町だ。<br /><br />762年以降バクダードは、イスラーム国家として君臨し、1258年にチンギス　ハーンの孫フレグに陥落させられるまで、アッバース朝の都として栄えた。<br /><br />陥落後は、メソポタミア地方の一地方都市のように成り下がってはいたが、香り高い文化に敏感なティムールにとっては興味をそそる地域だっただろう。<br /><br />この時、ティムール自身はすぐには動かなかった。<br /><a name="more"></a><br />タブリーズに残ったまま、バクダードのスルタン、アフマドには、帰順を進めるために、そしてムザッファル王国のシャー、ザイヌル　アビディーンには、タブリーズまで来るよう、バクダードとシーラーズにそれぞれ使者を送った。<br /><br />先ずバクダードから使者が戻ってきた。<br /><br />報告によると、これらティムールの使者達に対してバクダード側は、にべもない対応で遂には城壁から矢を射かけられ一歩も進めなかったという。<br /><br />シーラーズに派遣された使者は、ザイヌル　アビディーンにより捕えられ、抑留されたという。<br /><br />これを知ったティムールは、軍団に南への進行を命じた。まず向かった先はイスファハーンだった。<br /><br />ティムールはここで領主ザイヌル　アビディーンの非礼の償いを住民に求めた。「街が保有するすべての武器と馬、そして賠償金を出せ」という具合に。<br /><br />代表者たちはその場で恭順の意を表した。<br /><br />事件は、翌日の夜遅くこの町イスファハーンの一角で起こった。住民達が暴動を起こしたのだ。ティムールの兵も多く殺害された。<br /><br />このことを知ったティムールの反撃は凄まじかった。<br /><br />この惨劇は、かろうじてイスファハーンを逃げ出した人々によって、シーラーズを初め国の隅々にまで伝えられた。<br /><br />しかし、ここにいたってもムザッファル王、ザイヌル　アビディーンからは何の意志表示もなかった。<br /><br />ティムールはシーラーズへ自ら軍を向けた。<br /><br />シーラーズへ着いたティムールは、ザイヌル　アビディーンの逃亡を知った。追跡にも値しない男だと思った。<br /><br />君主を失ったシーラーズは無条件降伏だった。<br /><br />しかしバクダード攻略は、山越えの難しいこの冬が過ぎる春まで待つことにした。<br /><br />シーラーズにはその間もティムールを飽きさせない建築があり、絵画があり、学問の中心地でもあり、高名な詩人ハーフィズがいた。<br /><br />ティムールはここでハーフィズに逢っている。彼は文化や芸術に対して愚鈍になれるような男ではなかった。<br /><br />工芸品、建築物以外の具体的な造形表現を拒絶するアラブ文化圏とは異なり、ペルシャが魅力ある独自の絵画芸術を発達させる出発点は、モンゴル支配時代、つまりフレグ　ウルス時代に遡る。<br /><br />ティムールの豊かな文化に囲まれた、ひとときの心穏やかな日々は、東からもたらされた使者の報告によって吹き消された。<br /><br />次男ウマル　シャイフと3男ミラン　シャーに任せていた東の領地に、キプチャク軍やモグール軍が押してきたというのである。<br /><br />ティムールはムザッファル一族に改めて忠誠を誓わせると、軍勢とともにサマルカンドに向かった。その軍団の中には大勢の工人や学者が含まれていた。<br /><br />ティムールがずっと心に秘めていた最終ゴールは、モンゴルの元を追放した明朝を征服する事だった。<br /><br />彼の頭の中には、どこまでもチンギス　ハーンの版図が熱く、明確に描かれていた。<br /><br />しかし。。。<br /><br />これから先、彼のそんな思いを阻み、逆行させる事件や人物が途切れることなく彼の行く手に待ち受け、彼の人生を狂わすことになる。それはまるで何かからの逆襲のようだった。<br /><br />先ず彼の行く手を大きく阻む者として現れたのは、キプチャク　ハンの生き残り、トクタミシュだった。<br /><br />モンゴルの血の正統性を振りかざしながら、それゆえにこれまで何度も窮地を救ったティムールだったが、トクタミシュはその度にティムールを裏切った。<br /><br />ツキを無くした男トクタミシュが、それでもティムールを傍流として上から目線で見る時、そこには理屈ではおさまらない男の嫉妬が渦巻いていた。<br /><br />業を煮やしたティムールは、遂にトクタミシュの息の根を止めるつもりで追跡を始めた。<br /><br />全軍を率いての砂漠、雪と氷のウラル山脈、飢餓、睡眠不足などなど、3000キロをこえる強行軍は過酷を極めた。<br /><br />1391年6月、ティムールはトクタミシュの本陣を発見。<br /><br />そこはウラル山脈から伸び出した丘陵。はるか西方にはヴォルガ河があった。<br /><br />ティムールは、今すぐにもとはやるミラン　シャーとムハンマド　スルタンを前に、慎重な作戦と最大限のコンディションを整えて翌朝、総攻撃に出た。<br /><br />しかし。。。<br /><br />このクンドゥズチャの会戦、結果は、ただの徒労に終わってしまった。（続）

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
          </item>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/archives/10738766.html</link>
      <title>時空を駆けて（35）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Thu, 03 May 2012 07:02:27 +0900</pubDate>
      <description>　　　　　　　　　　　**********ティムール（H）**********ティムールは軍事面において、パルラス部を主体に広がった各領地の防衛のために、中核となるサマルカンドを多くの部族をつかって整備強化しその総管理は自らやった。新しい町つくりには、ティムールが青写真を自ら描き、自ら現場に出向いて監督指揮するようになった。彼の美意識の覚醒は、若き日サマルカンドに足を踏み入れた時から始まっていた。愛して止まなかった妻ウリジャイを失い、ジャハーン　ギールまでも失ったティムールに..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
　　　　　　　　　　　**********ティムール（H）**********<br /><br />ティムールは軍事面において、パルラス部を主体に広がった各領地の防衛のために、中核となるサマルカンドを多くの部族をつかって整備強化しその総管理は自らやった。<br /><br />新しい町つくりには、ティムールが青写真を自ら描き、自ら現場に出向いて監督指揮するようになった。<br /><br />彼の美意識の覚醒は、若き日サマルカンドに足を踏み入れた時から始まっていた。<br /><br />愛して止まなかった妻ウリジャイを失い、ジャハーン　ギールまでも失ったティムールにとって、自らキュレンゲとしてハンとなった1370年以降、建築造形美を追求し、駆り立て、没頭することは、自らの魂のバランスを保つには唯一の拠り所だったかもしれない。<br /><a name="more"></a><br />真っ先に手がけたのは、シャフリサブスに宮殿を建てることだった。<br /><br />この地はティムールの故郷であり、ウリジャイの在りし日、共にスィートホームを語りあった場所だった。<br /><br />当時、先ずは始まった粗末な泥レンガの家、それはティムールにとってあくまでの仮の住まいだった。<br /><br />この後、ティムールは、サマルカンドの古い城壁の修復、新しい城砦、シャヒー　ジンダ大廟群、グル　エミール廟、ビビ　ハヌム大寺院、そしてシャフリ　サブスのアク　サライ（白い宮殿）の造営などおよそ35年にわたって瞠目の美しい王国を築き上げていくのである。<br /><br />しかし。。。<br /><br />世界一美しい都、世界の中心となる筈の都サマルカンドは、そう簡単にティムールの思いのままに出来た訳ではなかった。<br /><br />先ず莫大な建設費に関してはホレズムやモグールの戦利品をあて、足りない分を税で補おうとした。<br /><br />しかし住民はこの重税に反発した。そもそも町つくりそのものが、何も知らない住民にとって唐突だった。<br /><br />更なる反発は、工事現場に強制的に駆り出される賦役労働だった。<br /><br />容赦のない要求や変更が容赦のない日数で命じられた。怨嗟の渦がサマルカンドを覆い始めた。<br /><br />ティムールは構わなかった。一個の煉瓦、一本の木といえど、意に沿わないものは許さなかった。<br /><br />正妃セライ　ムルクが男子を産んだのはそんな時だった。名はシャー　ルフと名付けられた。1377年のことである。<br /><br />ティムールはこの時、サマルカンドを核とした世界帝国を思い描いていた。<br /><br />先ず、3男のミラン　シャーを伴って向かった先は、ホラサーン（現在のアフガニスタン）のヘラートだった。力において、そこは最早ティムールの敵ではなかった。<br /><br />138１年、ホラサーンのヘラートを拠点としていたクルト朝を攻撃、征服すると、後の支配を息子ミラン　シャーに任せて、ティムール自身はサマルカンドに帰国した。<br /><br />この時征服したヘラートの町が後に、ティムール朝のサマルカンドに並ぶ、もうひとつの首都となり、更にムガル朝への足がかりとなっていく。<br /><br />さて、ティムールが連れ帰った大勢の捕虜は、軍団と、サマルカンド建築集団に分けられた。<br /><br />そして、ヘラートを占領したミランのもとへ花嫁がやって来た。<br /><br />ジャハーンギールを失った時、妻カンザデは20歳そこそこだった。<br /><br />ティムールは、シャフリ　サブスにいた孫のムハンマド　スルタンと、ピール　ムハンマドと、嫁のカンザデをサマルカンドに引き取るつもりだった。<br /><br />しかし、モンゴルのしきたりを振りかざすティムールの正妻セライ　ムルクの強い意向で、寡婦となったカンザデは、ジャハーンギールの弟ミラン　シャーの妻となることになった。<br /><br />カンザデは、自分の実の息子ふたり、ムハンマド　スルタンとピール　ムハンマドをセライ　ムルクのもとに置いて嫁ぐより他なかった。<br /><br />ヘラートをミランに任せたティムールの意志は、一気に西に向いた。<br /><br />カスピ海南岸一帯、イランのムザッファル朝、更に、更に。。。<br /><br />サマルカンドを発ったのは1384年だった。<br /><br />カスピ海南岸沿いに軍を進ませて行ったティムールにとって、フレグ　ウルス（イル　ハン国）の都、タブリーズやソルターニーエの美しい町やモスクの佇まいは衝撃だっただろう。<br /><br />タブリーズは、人々が商業や手工業で暮らしをたてて来た町というだけでなく、この地は東西の交流に便利な位置にあるため、インド、ホルムズ、バクダード、モスール、その他の地方からあらゆる物が集まってきた。<br /><br />そしてそれらを求めてイタリア、とりわけジェノヴァの商人達が待ち受けている。そんな活気にあふれた町だった。<br /><br />オルジェイトウの大霊廟のあるソルターニーエは、ティムールが訪れた当時まだかなり魅力的な佇まいを残していただろう。<br /><br />美意識が強く、建築に強い興味と関心をもっていたティムールが、ソルターニーエで、オルジェイトウの大霊廟に出会った時の衝撃はどれほどのものだっただろう！<br /><br />ティムールにとって、この征西の興味と関心はそういう意味でも、尽きないものだったただろう。<br /><br />タブリーズで、懐柔策を探るつもりでティムールの前に現れた聖職者や町の代表者だったが、ティムールが彼等に下した命令は全市民の身代金と、あらゆる仕事に役立つ職人、有名な学者、詩人、画工、楽士を集めてサマルカンドへ送ることだった。<br /><br />タブリーズからアゼルバイジャン地方への侵攻へ向かったティムールはグルジアの、チフリス（現トビリシ）を制しながら、ここでも町を破壊することよりも、初めて出会う異国の文化に深い興味を寄せた。<br /><br />グルジアは、4世紀以来のキリスト教文化の国だったのだから。<br /><br />とはいえ戦火の治まった町チフリスからも、多くの戦利品と捕虜の一団がサマルカンドへと送られていった。<br /><br />ほとんど土地に附着した文化を持たない、もともと遊牧民である彼にとって、これ以降も繰り広げられていくこれら一連の行動は、自分を襲った大きなカルチャーショックを埋める作業とどこかで繋がっているように見える。否、そのものだったかも知れない。<br /><br />チンギス　ハーンの関心は「経済」にこそあった。そのためには、宗教、文化への不介入さえ掲げていた。ティムールとの決定的な違いだ。<br /><br />1387年ティムールは、黒海南部のエルズルムやエルジャンジンを経て、パン湖とレザーイエ湖を回って再びタブリーズに達した。<br /><br />ともあれ、イル　ハン朝解体後に支配権を握っていたジャライル王国北部はこの時制圧した。<br /><br />彼が次に目を向けた先はシーラーズのムザッファル朝とバクダードのスルタン、アフマドだった。(続)<br />

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
          </item>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/archives/10736131.html</link>
      <title>時空を駆けて（34）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Tue, 01 May 2012 07:36:52 +0900</pubDate>
      <description>           **********ティムール（G）**********サマルカンドの人々は今こそ強力な統率者を求めた。彼等はクリルタイ（大会議）を開くことになった。大半の意見がティムール擁立に固まっている中で、チンギス　ハーンが直系でないことに不満を漏らす者もいた。ティムールは会議が煮詰まって迎えが来て、大勢の人々の前に立たされるとハンの位を言い渡された。しかし。。。ティムールの口からは意外な言葉が出た。「受けるわけにはいかない」と。そして一瞬静まり返った人々に向かっ..</description>
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           **********ティムール（G）**********<br /><br />サマルカンドの人々は今こそ強力な統率者を求めた。彼等はクリルタイ（大会議）を開くことになった。<br /><br />大半の意見がティムール擁立に固まっている中で、チンギス　ハーンが直系でないことに不満を漏らす者もいた。<br /><br />ティムールは会議が煮詰まって迎えが来て、大勢の人々の前に立たされるとハンの位を言い渡された。<br /><br />しかし。。。<br /><br />ティムールの口からは意外な言葉が出た。<br />「受けるわけにはいかない」と。そして一瞬静まり返った人々に向かって言った。<br /><a name="more"></a><br />「このモンゴルという国は、チンギス　ハーンの血を正しく引く男だけがハンという位につく資格がある。その方こそシュルガトミン　ハンである。俺は、今では臣下であるお前達と変わらぬ。ただ幸いなことにチンギス　ハーンの血をもつ妻を迎えた。そのような立場でキュレゲンとしてシュルガトミン　ハンを助けることが出来るなら、このたびの皆の推挙を受けよう」と。<br /><br />逆らう者など誰もいなかった。1370年、ティムール34歳の春だった。<br /><br />ティムールの権力に対する冷静さと賢明さが、これ以降の中央アジアの歴史を根底からゆり動かして行く。<br /><br />ティムールは、死ぬまでこのキュレゲン（娘婿）の立場を貫き、生涯ハーンを名乗ることはなかった。<br /><br />しかし誰もが認める、チャガタイ　ウルスの実力者であり支配者だった。<br /><br />ティムールが、サマルカンドを世界一の美しい都にしようと心に決めたのはこの頃だった。<br /><br />もともとティムールは強烈な美意識の持ち主だった。その彼の感覚と行動は1370年代に入るとひたすら造形の美、つまり建築美に向けられていった。<br /><br />建築は、移住を旨とする従来の遊牧の生活とは相いれない筈のものだったが。。。<br /><br />サマルカンドへの想い、それはティムールの造形の美、つまり建築美に対する強烈な美意識の持ち主であることが証明されていく道程の幕開きであり定住文化圏への侵入の始まりとなった。<br /><br /><br />民衆の総意を得てからの、ティムールの統治者としての動きも早かった。<br /><br />練りに練った彼の人生の青写真は、強靭な意志とともに世界制覇に向けて動き始めたのだ。<br /><br />ティムールのやり方は先ず正確な情報を出来るだけ多く集めて、冷静に作戦を練る。<br /><br />戦という名のもとにティムールには彼に続く配下を出来るだけ失いたくないという想いがあった。中には戦わずして平和交渉をしてくる領主もいた。相手に与える脅威も作戦の内だった。<br /><br />まるでモンゴルの、それもフレグの手法とそっくりそのままではないか！<br /><br />やがて。。。<br /><br />ホラズムの領主は、周辺の援助も得られないまま、ティムールの圧倒的な力を知った。彼は領土を失うことを怖れてティムールに和議を求めて来た。<br /><br />条件は娘のカンザデを輿入りさせ、婿への贈り物としてヒヴァと周辺を譲るというものだった。<br /><br />カンザデが、ウルゲンチから大勢の侍女達と共にサマルカンドに連れて来られたのは、以前から息子ジャハーンギールの嫁にと思っていたティムールの意志に添ったものでもあった。<br /><br />15歳の彼女は噂よりはるかに美しかった。そしてティムールの前では、戦いに破れた自分の一族の命乞いをする強さと優しさも兼ね備えていた。<br /><br />ティムールの最大の敵モグール軍の動静をさぐり、作戦を練っているうちに時が経ち、新居となっていたヒヴァから、ジャハーンギールとカンザデの間にムハンマド　スルタンが誕生したとの知らせが届いた。<br /><br />ティムールにとって初孫だった。この幼子を最高の環境で育てるために、彼は親子3人を自分の故郷シャフリ　サブスに呼び戻した。<br /><br />一方ティムール自身が居を移していたサマルカンドには、この頃自分が二人の女に生ませた、ウマル　シャイフとミラン　シャーをこの町に引き取り、これまで同様それぞれに後見人を付けた。<br /><br />父と初めて一緒に暮らすことになった時、ウマルは13歳、ミランは7歳、だった。<br /><br />モグール軍を一掃するために天山山脈の山麓に展開した戦いに、ティムールはウマル　シャイフを伴った。<br /><br />およそ2年をかけた戦いが当面の目標をほぼ達成した頃ティムールは、ウマルを旧モグール軍の守備のために残してサマルカンドへの帰国に向かった。1376年のことである。<br /><br />しかし。。。<br /><br />帰国の途中、晴れやかな凱旋将軍ティムールを待っていたものは、長男ジャハーンギールの死というあまりにも唐突な知らせだった。<br /><br />つい先ごろティムールにとって二人目となる孫ピール　ムハンマドの報せを受け取ったばかりだったというのに。。。<br /><br />ジャハーンギールは父の凱旋に備えて支度をはじめた矢先に、突然みまかったという。（一説には落馬による死とも言われる）<br /><br />にわかには信じがたい現実に押し潰されそうになりながら、ティムールはサマルカンドの幕舎に戻った。<br /><br />そんな父を迎えたのは9歳になったミラン　シャーだった。（続）<br />

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
          </item>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/archives/10733188.html</link>
      <title>時空を駆けて（33）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Sun, 29 Apr 2012 05:14:00 +0900</pubDate>
      <description>               **********ティムール（F）**********フサインの2万を超える軍隊に対して、そのわずか1割足らずの兵しかないティムールは、それでもきっぱりとマー　ワラー　アンナフルの奪還を目指した。そのために先ずカルシの町を狙った。この時、あまりに歴然とした力の差に「従う者だけで良い」とティムールは言った。結果的に、全員が付いてくることになった。精鋭を率いて切られた攻勢の火ぶた。ティムールの戦略の前には、カルシ攻略は雑作のない事だった。この後、フ..</description>
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               **********ティムール（F）**********<br /><br />フサインの2万を超える軍隊に対して、そのわずか1割足らずの兵しかないティムールは、それでもきっぱりとマー　ワラー　アンナフルの奪還を目指した。そのために先ずカルシの町を狙った。<br /><br />この時、あまりに歴然とした力の差に「従う者だけで良い」とティムールは言った。結果的に、全員が付いてくることになった。<br /><br />精鋭を率いて切られた攻勢の火ぶた。ティムールの戦略の前には、カルシ攻略は雑作のない事だった。<br /><br />この後、フサインはティムールをはっきりと反逆者と呼んではばからなくなった。<br /><a name="more"></a><br />しかしフサインは、ティムールの知略の前にはあまりにももろかった。ティムールは事もあろうに、モグール軍に働きかけサマルカンド再攻略を促したのだ。<br /><br />こうしてティム－ルを陥れるための大きな賭けを仕掛けた筈のフサインは、逆にモグール軍の動きを察した時、サマルカンドをティムールに明け渡し、自領であったアフガニスタン北部のバルフへと去った。<br /><br />この間、思いがけないことがモンゴル国の宗家として繁栄していた元で起こっていた。建国以来およそ170年続いたこの国も崩壊の兆しを見せ始めていたのだ。<br /><br />台頭してきた明の勢いに押されたトゴン　テムル（順帝）は、1368年大都（北京）から一族をひきつれて逃げ出し、最終的にチンギス　ハーンの故地カラコルムへ引っ込んでしまった。<br /><br />この中国情勢の激変のためモグール軍は、サマルカンドから東へと引き上げて行った。<br /><br />ティムールがサマルカンドに帰還したのは、元のモンゴル族がカラ　コルムへ向けて撤退を始めた年だった。<br /><br />サマルカンドの町を行き来する人々の間に一時の安堵がよぎる。しかしモンゴルが国としての体を果たせなくなった以上この町にとってもそれは不安定なものだった。<br /><br />ティムールは「機は熟した」と思った。<br /><br />彼はモグール軍に翻弄されながらいつしかチンギス　ハーンの生きざまや軌跡に憧れていた。今や自らがモンゴルの王、ハーンとなるという具体的な志へと踏み込んだのはこの頃からだった。<br /><br />しかし、モンゴルの世界において「ハーン」たるものはチンギス家の「血」を引くものでなければならなかった。<br /><br />チンギス　ハーンに与えられた世界支配権は、チンギス　ハーン及び彼の男系子孫にしか与えられないという習慣は、その後長く根強く残った。いわゆるアルタン　ウルク（黄金の一族）でなければ認められなかったのだ。<br /><br />チンギス　ハーンの直系でもない彼は、頭にチンギズ　ハーンの男系子孫を置くことによって世界支配権を獲得し、在りし日の英雄の夢の続きを織り紡ごうと考えた。<br /><br />そのような経緯で連れてこられたのがシュルガトミシュという男だった。チンギスの第三子オゴデイの血を引くが、つまりはその傍流の傍流という人物だった。<br /><br />修行者となって托鉢をしながらモスクを点々としていたというシュルガトミシュの過去など、ティムールにとってどうでもよかった。血筋さえ確かであれば。<br /><br />当惑したのは、いきなりティムール国のハンに据えられた男だけではなかった。<br /><br />半ば強制的にこの男に、ハンとしての臣従の礼をせまるティムールと、それを否も応もなく受け容れさせられるパルラス部の戦士たちにも、容易には呑みこめない当惑があった。<br /><br />だがティムールはシュルガトミシュをハンとしてうやうやしく立てながら、最早、立ち止まることも後ろを振り返ることもなかった。<br /><br />実際の権力者でありながら、名目上はチンギス家の補佐役に徹したのだ。名を捨てて実をとるとはこのことか！？まるでティムールの幻想舞台だ！だがこれが単なる幻想に終わらない。<br /><br />ティムールが次にやったことは、フサインのいるバルフ（現アフガニスタン北部）を1万余の軍勢で取り囲む事だった。1369年の秋だった。<br /><br />それは。。。戦いを交えるまでもなかった。フサインは自軍の隊長に殺されたのだ。<br /><br />しかしティムールは、いきなりアミールを名乗ることはしなかった。部族長や隊長たち全員の意志で推挙されるのを待った。<br /><br />フサインとその隊長達の戦利品はすべて将兵たちに分け与えた。いやひとつ、というかひとりだけ手に入れた。<br /><br />それはフサインの後宮にいたセライ　ムルク　ミフレバンという女性だった。ティムールは彼女を自らの正妃として迎え入れた。<br /><br />セライ　ムルクは、チャガタイ　ハンの君主だったカザン　ハーンの娘とされるから、アルタン　ウルクの血をひいていたことになる。<br /><br />こうして彼は、アミール　チムール　キュレゲンとなった。キュレゲンとはチンギス　ハーン一族の女婿を意味する。<br /><br />ティムールは「誰もが認める世界支配権を握る」という己のコンセプトに、一歩ずつ近付きながら頭の中に次第に明確にチンギス　ハーンを重ねていった。そのために焦るようなことはしなかった。<br /><br />そして、その時がきた。<br /><br />モグール軍が再び西へ、マー　ワラー　アンナフルへ、サマルカンドを目指して動き始めたのだ。（続）<br />

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
          </item>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/archives/10730706.html</link>
      <title>時空を駆けて（32）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Fri, 27 Apr 2012 07:00:24 +0900</pubDate>
      <description>**********ティムール（E）**********ティムールはこの時再び、ウリジャイ母子とともに、ヒンドゥー　クシュ山系のコーヒー　バーバー南麓の村に潜んでいた。気持ちが落ち着いてくると、勝てる筈の戦いのチャンスを、フサインに気を遣ったばかりに逃してしまったことが改めて腹立たしく悔まれた。そんなティムールを慕って集まってくるシースタンの戦士達もいた。そんな所在ない日々を送っていたティムールのもとにサマルカンドからの密使が駆けつけた。モグール軍の馬がほとんど病で倒れ、使え..</description>
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**********ティムール（E）**********<br /><br />ティムールはこの時再び、ウリジャイ母子とともに、ヒンドゥー　クシュ山系のコーヒー　バーバー南麓の村に潜んでいた。<br /><br />気持ちが落ち着いてくると、勝てる筈の戦いのチャンスを、フサインに気を遣ったばかりに逃してしまったことが改めて腹立たしく悔まれた。そんなティムールを慕って集まってくるシースタンの戦士達もいた。<br /><br />そんな所在ない日々を送っていたティムールのもとにサマルカンドからの密使が駆けつけた。モグール軍の馬がほとんど病で倒れ、使える馬はわずかしかいなくなり、兵士達は徒歩で次々と東へ引き上げ始めたというのだ。<br /><a name="more"></a><br />ティムール一が帰国を決め、家族とシャフリ　サブスに入ったころは年が明けて再び春が巡って来ていた。<br /><br />妻子をシャフリ　サブスに落ち着かせチムールがサマルカンドに行くと、以前よりも華やかさが増したとはいえ、この町は大変なことになっていた。<br /><br />この町を守った市民達の指導者、ウラマー達が殺されたというのだ。<br /><br />ティムールがこの町に一層の華やかさを印象付けられたものは、ティムールより一足先にこの町に戻っていたフサインと、彼がハンとたてたカビル　シャーを歓迎するためのものだった。<br /><br />フサインが再び実権を握ろうとしていたのだ。この時ティムールの気持ちを抑えたのは、出がけに聞いた兄を気遣う妻ウリジャイの優しい言葉だった。<br /><br />結局サマルカンドの町は、行政をフサイン、軍事をティムールという両輪で率いることになった。フサインの体制が軌道にのって落ち着いた頃ティムールはシャフリ　サブスに戻った。<br /><br />先ず手がけたことは、ウリジャイと自分のために粘土作りの仮住まいをつくることだった。<br /><br />そんな時フサインからの使者がやって来た。<br /><br />携えてきた命令は、総督イリアスを殺してハン位を奪ったカマルが、モグール軍とともに再び不穏な動きを起こしている。これをけん制するために出陣せよというものだった。<br /><br />ティムールは北に進み、シル河沿岸に駐留した。敵の動静を伺いながら警備強化をしていた。<br /><br />そんなある日、馬でシャフリ　サブスからティムールの本営を目指して疾駆してきた男がいた。ウリジャイに仕える男だった。<br /><br />使者は、息子ジャハーンギールのいいつけで、ウリジャイの死を告げにきたのだった。<br /><br />驚愕するティムールが使者から聞き出して分かったことは、彼女が亡くなったのは20日も前の事だという。<br /><br />ジャハーンギールはすぐにフサインに報告し父ティムールの帰りを待った。しかし何時まで経ってもなんの動きもないので、腐敗のはじまった骸を庭の隅に埋めたというのである。<br /><br />ティムールは副将ムーザに以後の行動を指示し、フサインにも連絡の使者を出すと、現地からケッシュまで直線距離でおよそ２００キロの道のりを、休む間も惜しんで、草原や丘や岩山を超え２日で走り抜けた。<br /><br />そうしてたどり着いたシャフリ　サブス。<br /><br />ジャハーンギールが涙で迎えた我が家に待っていたものは、ティムールにとって耐えがたい悲しみの現実だった。<br /><br />二人目の子供を流産した後、それでなくとも病弱な身を夏の暑さが死へと駆り立て、ウリジャイは逝ってしまった。<br /><br />ティムールが台頭していく中で、ウリジャイは、ティムールと共に野に伏し、戦いの時も憩いの時も、苦しみの時も悲しみの時もティムールの側らで彼を支え、常に馬の背に跨って夫に従った遊牧民の妻であった。最も過酷な運命の中で、辛苦を分かち合い共に生きた女性だった。<br /><br />二人で過ごした安穏な日々は殆ど無かった、けれどティムールが生涯を通して最も愛した女性だった。<br /><br />ティムールが完全にマー　ワラ―　アンナフルの実権を握るまであと4年を待つことなく、1366年ウリジャイはこの世を去った。<br /><br />失意の底にいたティムールの元にサマルカンドから収税吏がやって来た。フサインからの使いだった。「税金を納めよ」というのである。<br /><br />加えて伝えた。「これ以上納税を延長することはアミール　フサインに対する謀反」だと。「応じぬ場合は裁判にかける」とまで言った。<br /><br />ウリジャイの死を誰よりも先に知っていたフサインからは、悔みの言葉すら聞かされなかった。<br /><br />ティムールのなかで何かが切れた。<br /><br />過去5年にわたってティムールとフサインの間を繋いできたのは、フサインの妹ウリジャイの存在があってこそだった。もはやその絆は断たれた。<br /><br />言い渡された税額はとても一度に払えるものではなかった。ティムールはウリジャイが婚礼の時に付けていた黄金や真珠のアクセサリーを全てかき集めると収税吏に渡した。<br /><br />そして言った。「これをフサインに渡すがいい。いいか、これで貸し借りはなくなったと伝えよ」ウリジャイを失った年の秋のことだった。<br /><br />ティムールはジャハーンギールを連れてすぐにシャフリ　サブスを出た。脱出と言った方が当たっている。<br /><br />税の不足や任務放棄を謀反といいたててフセインがこの先、どんな難癖を付けて来るか分からなかったからである。(続)<br /><br />

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
          </item>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/archives/10728213.html</link>
      <title>時空を駆けて（31）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Wed, 25 Apr 2012 06:56:33 +0900</pubDate>
      <description>                **********ティムール（D）**********フサインが、カズガンの館に人を集め新しいハンにカビル　シャーを推し、自分はティムールと共にアミールとして仕えると言ったのだ。カビル　シャーとはチャガタイの血をひいてはいるが、これまでフサインの庇護の下にいて全く表舞台には出てこなかった人物である。　すべてフサインの独断専行だった。　ティムールは妻と子を、カンダハルを遥か下に見下ろす小さな村からシャフリ　サブスに迎えた。このときウリジャイは、..</description>
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                **********ティムール（D）**********<br /><br />フサインが、カズガンの館に人を集め新しいハンにカビル　シャーを推し、自分はティムールと共にアミールとして仕えると言ったのだ。<br /><br />カビル　シャーとはチャガタイの血をひいてはいるが、これまでフサインの庇護の下にいて全く表舞台には出て<br />こなかった人物である。　<br /><br />すべてフサインの独断専行だった。　<br /><br />ティムールは妻と子を、カンダハルを遥か下に見下ろす小さな村からシャフリ　サブスに迎えた。<br /><br />このときウリジャイは、二人目の子供を流産し体調をこわしていた。しかしこの間ティムールは、ウリジャイの回復に充分に気を回してやることは出来なかった。<br /><a name="more"></a><br />13年を費やしてようやく自分のものと言えるようになった国と地位と部下達。それをしっかり押さえ、固めておくためには、フサインのように何事も人任せに出来なかったのだ。<br /><br />一方、フサインは祖父カズガンの時代を再びとりもどしたという自負心に酔っていた。<br /><br />皮肉なことに、それより先にティムールはトグルクによってチャガタイの長官に任命されていた。<br /><br />しかし、トグルクとの信頼関係が壊れてしまった状況下ではどうすることも出来ないまま、フセインに入りこむ口実を与えてしまった。<br /><br />この間、遠くに退いた筈のモグール軍の総督イリアスは、着々とサマルカンド奪還に動いていた。<br /><br />ティムールが愛してやまなかったサマルカンド。。。<br /><br />この町は、紀元前10世紀頃から商才にたけたソグド人のオアシスの町として発展した。紀元前4世紀アレキサンダー大王率いる軍隊が押し寄せて来た時も、最後まで抵抗をみせたのはソグド人だった<br />。<br />サマルカンドは6本もの幹線を結ぶ交易の町であり、ソグド人が営み守って来た町であり、ゆえに価値のある高度な文化を備えた町であり、それだけ人も富も集まる誰もが注目する魅力的で重要な町だったのだ。<br /><br />イリアスは帰国して1年後、1365年には再び12,000人の軍を率いてサマルカンドに向けて動き始めた。<br /><br />その情報をいち早くキャッチしたのはティムールだった。しかしフサインはそのことを伝えても動こうとしなかった。<br />ティムールはなんとしても自分の国を守らなければならないという、突き上げるような想いがあった。<br /><br />彼は絶対にサマルカンドを戦の場にしたくなかった。そのために、町から東北へ進みシル河を渡った辺りに自分の軍を進めた。そして草原とゆるやかな丘陵が連なる辺りを戦場に選んだ。<br /><br />遅ればせながらフサインが軍を連れて、ティムール軍に合流した。しかし戦いを前にして彼等を襲ったのは猛烈な春の嵐だった。雨の続いた翌朝、モグール軍はそんな彼等の虚を衝いた。<br /><br />戦況が自軍にとって不利だとみたティムールは、背後に回ってまっすぐ敵将めがけて突進した。そして敵将のひとりを倒した。<br /><br />あたりにティムールの声が炸裂した。「敵将は死んだ。銅鑼をならせ、太鼓をたたけ、全員にこのことを知らせよ」逆転したティムール軍だったが、それでも立ち直れないフサイン軍を応援しなければならなかった。<br /><br />混戦の中、しばらく様子を見ていたイリアスは、銅鑼の音を合図に彼の予備軍並びに全軍に引き上げを命じた。<br /><br />ティムールは総攻撃をかけるのはこの時しかないと判断して、フサインの同意を求めた。しかしフサインは、「ティムールに命令される覚えはないと」一蹴してしまった。<br /><br />ティムールの軍だけでは到底勝ち目はないと判断した彼は、フサインに対する怒りで煮えかえり悶々としながらも、ここは引くしかなかった。<br /><br />三日目の朝、再び総攻撃をかけるモグール軍の銅鑼が鳴り渡った。<br /><br />フサインはこの期に及んでティムールに、共にヒンドゥー　クシュを超えて逃げようと言って来た。ティムールには、最早まともに取り合う気持ちさえ失せていた。<br /><br />彼はフサインと行動を共にすることなく、妻子をつれてシャフリ　サブスへ戻った。<br /><br />阻む者のいなくなったモグール軍は、悠々とサマルカンドへの道を進んだ。今や、彼等にとって急がなければならない理由などどこにもなかった。<br /><br />誰の胸にもよぎるのは、フサインもティムールもいなくなったサマルカンドでの快楽の日々だった。<br /><br />こうしてイリアスとモグール軍は春爛満のサマルカンド郊外に到着した。しかし。。。思いもよらない事態が起こった。彼等はここから一歩も動けなくなったのだ。<br /><br />起ちあがったのは市民達だった。商人や職人達から成る自治組織は、前回味わったモグール軍による略奪や、憎悪すべき支配を受けるくらいなら、正面から戦って死を選ぶことを潔とした。<br /><br />この町の富や財宝が目当てのモグール軍にとって、それらを生みだす職人や商人を一気に襲撃することはためらわれた。そうこうするうちに町は夏を迎えていた。<br /><br />モグール軍にとって再び思いもかけないことが起こった。彼等の馬に疫病が流行りはじめたのである。（続）<br />

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/red_pepper/archives/10725775.html</link>
      <title>時空を駆けて（30）ユーラシア群青のトライアングル（イスファハーン、サマルカンド、アーグラ</title>
      <pubDate>Mon, 23 Apr 2012 09:23:19 +0900</pubDate>
      <description>          **********ティムール（C）**********ティムールはサマルカンドを守るために、遂に起ち上がった。町の秩序を破壊し、略奪の限りを尽くしていたモグール軍は、不意を突かれた。その報せが、この時ペンジケントに移動していたトグルクの耳に届いた。彼はティムールを「反逆者」と呼び「直ちに捕えて処刑せよ。必要ならば援軍を送る」という知らせをサマルカンドに放った。ティムールは、最強の軍団に追われる身となった。</description>
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          **********ティムール（C）**********<br /><br /><br />ティムールはサマルカンドを守るために、遂に起ち上がった。<br /><br />町の秩序を破壊し、略奪の限りを尽くしていたモグール軍は、不意を突かれた。<br /><br />その報せが、この時ペンジケントに移動していたトグルクの耳に届いた。<br /><br />彼はティムールを「反逆者」と呼び「直ちに捕えて処刑せよ。必要ならば援軍を送る」という知らせをサマルカンドに放った。<br /><br />ティムールは、最強の軍団に追われる身となった。<br /><a name="more"></a><br />信頼を得ていた筈のトグルクのこの意志を知った時、それは彼にとってすんなりとは納得出来ないものだっただろう。しかし事態は焦眉の急を要していた。<br /><br />ティムールはその夜のうちに家族だけを連れてサマルカンドを脱出した。1363年早春のことだった。<br /><br />ティムールは途中シャフリ　サブスで息子ジャハーンギールを家臣に預け、妻ウリジャイと10人の部下と共に、先ずは、義兄フサインと合流するために動いた。<br /><br />しかしそこから始まったトグルクからの逃避行は、厳しいカラクム砂漠（現在のウズベキスタンとトルクメニスタンにまたがる）と、そこを取り巻く変わりやすい気候に翻弄されて困難を極めた。<br /><br />フサインとは会えたものの、双方とも敵の襲撃にあった。<br /><br />必死でそれを振り切った後、気にするウリジャイの気持ちを察して、ティムールはシャフリ　サブスに残した息子ジャハーンギールを連れ戻すことにした。<br /><br />その後で、再びフサインの後を追うことを約束して二人の男は別れた。<br /><br />しかしシャフリ　サブスへ戻る途中に待ち受けていたものは、盗賊に変身した村人よる襲撃、そして監禁だった。<br /><br />彼等は、兵は奴隷として売り、夫婦はその身代金を狙ったのだ。二人の地獄のような拘束期間は62日間続いた。<br /><br />その間、妻ウリジャイは自らも毒虫に悩まされながら、精一杯ティムールを支え続けた。いや彼女の存在そのものが、この時のティムールにとって大きな支えだった。<br /><br />二人が解放された理由は、ティムールとウリジャイの身分を知った村人達がサマルカンドで起こっていた争いに、関わりの無い自分達が、村や町ごと巻き込まれることを恐れたからだ。<br /><br />こうしてティムールはおよそ半年ぶりにサマルカンドに戻って来た。<br /><br />しかしモグール軍の闊歩するサマルカンドの町に長居は出来なかった。ティムールを慕う男達を連れて、彼は妻と息子ジャハーンギールと共にフサインのいるカンダハルに向かった。<br /><br />ヒンドゥー　クシュ山脈の支峰の峠ハーワークといえど、冬の迫った海抜3550メートルの急峻な壁を越えて行く厳しさは、想像を超えるものだっただろう。<br /><br />フサインは、カンダハルを遥か下に見下ろす小さな村にいた。ティムールは彼を頼るしかなかった。<br /><br />春を待って出陣するというフサインに従って、ティムールは、この地でやっとしばしの安らぎを得る。<br /><br />しかしここから先の戦いが、モグール軍の長、トグルクとの戦いである以上、周辺をあまねく倒していかなければならない。少なくともフサインはそう思った。<br /><br />彼の横暴な態度や手法に戸惑っている間にシースタン軍の襲撃にあった。ティムールは矢の尽きた己を奮い立たせて、剣で向かって行ったところ降り注ぐ敵方の矢が、チムールの右足をグサリと刺した。<br /><br />鞍の上でその矢を引きぬいた途端、今度は後ろから飛んで来た矢が右手の指の骨を砕いた。ティムールは、こうして生涯引きずることになる障害をここで負った。<br /><br />ティムールは、先にモグール軍からマー　ワラー　アンナフル及びサマルカンド奪回に向かったフサインに続くことが出来なかった。この時負った傷はそれほどの重傷だった。<br /><br />悶々として日を過ごすティムールの下に、久々にフサインから使者が送られてきた。モグール軍との対戦で困難を極めるフサインからの応援要請だった。<br /><br />このときウリジャイは二人目の子供を身ごもっていた。自分の身よりもティムールの身を案じる妻を残して、ティムールはフサインの待つ戦場へと向かった。<br /><br />サマルカンド奪還を目指すフサインと合流はしたものの、この辺りからティムールは、戦のやり方がフサインと合わなくなってきた。<br /><br />何事も戦術が後手、後手に回るフサインは、ティムールに対して口だけは横柄な聞き方をした。それでもティムールは、義兄フサインを立てた。<br /><br />やがてサマルカンドとシャフリ　サブスに平穏が戻って来た。戦況の形勢不利を見越したモグール軍が動いたのだ。<br /><br />この動きは1362年、総督トグルクがタシケントで死去し、イリアスが跡を継いだ時と繋がる。<br /><br />そのイリアスが、モグール軍を引き連れてシル河を越え遠く東のアルマリクへ引き上げて行ったのだ。<br /><br />アリマリクの町は、元々チンギス　ハーンの次男チャガタイがウルスを構えた時中心となった都市だ。その後トグルクが拠点とし、彼の骸はこの町に葬られたという。<br /><br />現在、中国の新疆ウイグル自治区イリ・カザフ自治州グルジア県と呼ばれている辺りらしい。はっきりとした所在は未だに分かってない。<br /><br />フサインとティムールの関係が微妙になってきたのはその後の事だった。（続）<br />

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            <category>旅行</category>
      <author>red_pepper</author>
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