2008年06月18日

宮崎勤死刑執行に思うこと

事件から20年。
逮捕以前から随分と震撼とさせられた連続事件でした。

死刑というのは、あまりにも呆気なく執り行われるものなのですね。
死刑を執行します、という予告でもあれば、また別なのかもしれませんが、執行しました、という事後発表のみです。
まあ、予告などあれば、逆に社会が混乱するでしょうから、致し方ないとは思いますが。

いえ、死刑について何かを述べようというのではありません。

事件の背景、というものに、やはり意識を向けてほしいと、秋葉原の事件のときから強く思っていましたので、一言だけでも申し述べさせていただきたいと思った次第です。

宮崎勤の事件から先日の秋葉原の事件まで、似通った猟奇的事件がいくつか起きています。

一概に全てを同一線上に置くことはできません。
が、被害者に対する怨恨ではない、という意味で同質です。

なぜこのような人間が育ってしまったのか、ということに深く考えを致さないまま、いつでもこのように終わってしまうのです。

そのような人間が育つことは、人間の数に較べれば、滅多に無いことだから探究しなくてもいい、と言えばそれまで。
私は、そのような意見の側にはありません。

ですので、生い立ち、というものの探究はどうしても必要である、と考えます。

秋葉原の事件では、犯人の気持ちが分かる、という人たちが、けっこうな数、登場しています。
実は私もその一人です。
殺人の気持ち、ではありませんよ。
自己卑下の気持ちです。

例えば私はこう感じました。
加藤容疑者がネットに書き込みをしていた自分を貶める言葉の多くは、おそらく、幼い頃に、親から言われていた言葉ではないか、と。あるいは、親から受けた仕打ちに対する自分の感想、心の傷ではないか、と。

宮崎勤の事件は、秋葉原に較べますと、あまりにも猟奇的過ぎますので、全く同様に観察するわけにはいきませんね。
時代背景も違い過ぎます。宮崎のころは、まだ世の中はバブル期でした。崩壊直前ではありましたが。

どのような育てられ方をしたのか、どのような言葉を日々聞きながら育ったのか、どのような家庭環境だったのか、それらを知ることは、大切だと思います。
育てる側にも、育てられた側にも。

もっと言えば、その親もまた、どのように育てられたのか、どのような家庭環境だったのか、心の傷はどのようなものなのか、を辿るところまでいくかもしれません。
自分の子供の心に傷を与える親は、その親自身が心に傷を持っているものだからです。

これは決して特殊なことではないと思います。
大小の差はあれ、どんな家族にもあることです。
ですがその反面、深い愛情のもとで生きている家族も確かにいます。

心の傷、愛情に満たされていない心、それが歪みとなって現れている場合、どうしても、それに蓋をしたまま、というわけにはいかないわけです。

無理矢理と穿り出す必要はありませんが、そのことが心の病となったり、生活に支障をきたすのであれば、しっかり見つめたほうがよいと、私は思っています。

人生に成功している場合、生活や心が別のもので満たされている場合には、その歪みは出難いかもしれません。それでもどこかで、何かしらの苦悩を感じていることもありましょう。

秋葉原の事件のあと、25歳にもなって甘えるな、と仰るコメンテーターや有識者の方々がけっこうおられました。
私としましては、まだ、そんな感想しか持てないのですか?という思いでした。

養育、教育の成果というのは、二十歳を過ぎて現れる、とも言いますよね。
その通りかな、と思います。

また、幼い頃に与えられなかった親からの愛、というものは、25だろうと、30だろうと、40だろうと、60だろうと、70歳だろうと、いつまでも求め続けてしまうものなのです。

そういったことを自ら解決するための書物は、近頃たくさん出ています。
引き寄せの法則もそのひとつだ、と私は感じています。私自身、救われましたので。

知識や情報を様々、取捨選択し、組み合わせて、自分自身を見つめることができればよいのですが。
こういった人たちには、話を聞いてもらう、ということも重要ですので、友人だと迷惑のかかることもありますから、能力の高いカウンセラー、という存在は大きいと思うのですね。

宮崎勤は、結局、何の反省もないまま、死んでしまったわけですが、これもやはり問題ありますね。
少しでも、反省と謝罪の気持ち、そして自分はどういった人間だったのか、を解き明かしてからのほうがまだ良かったわけです。もちろん、それでもどうにもならないほどに病み、異常であること、もあるわけですが。

このような事件の場合、愛情不足が大きな部分を占めていると思われますので、甘えるな、ではなく、まず甘えさせてあげる、ということなのですよ。
そこからの自立のときが、また難しいかもしれませんけれど。

加藤容疑者も、自分の家族という存在が、自分を認め、理解し、受け止めくれる場であったなら、と思われる様子ですよね。
彼女がほしい、ということですが、あれは、母親の愛を欲しているという表現ではなかったのかな。本人は気付いていないかもしれませんが。
ナイフを購入したお店の人の会話。加藤容疑者は笑っていましたね。あれは、人と話せて本当に嬉しかったのだと思いますよ。また、店員さんが、容疑者に興味関心を持って質問したり、相槌を打ったり、してくれていたみたいで、受け止められているという感覚に、善良な心が反応していたのだと思いますよ。単純に。
そのあとで、人を殺そうという気持ちが持続していたというところの心境は、私には理解できませんが。

事件を起こしてしまったら、悲しいかな、後の祭りですけれど。
でも、だからこそ、同様の、同質の心の闇、傷を抱えている人たちにとっても、また、これからの親子関係、子育て、ということに於いても、犯人の生い立ちの探究は、どうしても必要である、と思えてしかたがありません。

一言だけ、が長くなってしまいました。
この記事を読まれて、気分の悪くなった方には、ごめんなさい。

Posted by アンボワーズ at 10:26  |Comments(0)TrackBack(0) | 社会に思うこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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