2006年12月10日

「伝道」再考

キリスト者をやっていると、避けられないテーマがこの「伝道」である。何をもって「伝道」とするのか、日本で「伝道」がふるわない=キリスト者が増えない、のはなぜか・・・etc。私の所属教会が加盟する教団では、「伝道」の方針を巡って長年紛争を続けているくらいだから、結構重いテーマでもあったりする。

実は、最近では「伝道」という言葉に代わり、「宣教」や「福音化」という言葉が使われることも多い。どれも、英語で言えば「Mission」なのだが、日本語としては微妙にニュアンスが違うのだ。
「伝道」=ノンクリスチャンにキリスト教の教えを伝え、クリスチャンになるよう導くこと。
「宣教」=伝道の意味に加え、クリスチャンとしてキリスト教の教えを社会的に実践すること。(→キリスト教による社会運動、政治運動の根拠となる)
「福音化」=宣教と同じような意味で、カトリックが用いる用語。
※そういえば、かつて「布教」なんて言葉もあったけど、これはさすがに使いませんな。

私は、どちらかというと「宣教」のスタンスを取る者だが、教会での職分もあって、伝道的なことにも力を入れていると言えばそうだろう。ただ、伝道といってもどこかの新興宗教みたいに「引きずり込む」のではなくて、あくまで「求める人」を正しく福音へ近づけるための手助けをしていく、ということであって、それ以上のことができるとも思っていない。

しかし、である。この「伝道」にこだわる人たちは、数の上でキリスト教がふるわないことをやたら問題にする。そして、それを現にある教会の「信仰の貧しさ」「社会活動への傾倒」に理由づけて批判する。でも、それは本当だろうか。私はいくらも社会的な活動に熱心な教会を見てきたが、多くは教会としての礼拝や信仰的な活動をより熱心に行なっている所が多かった。一方で、教会的な活動に力を入れていても、社会的・地域的なつながりを持たず、教勢がふるわない教会というのも多い。本当に「信仰が足りない」「他のことにかまけている」から「伝道」が成り立たないのなら、これはおかしいことだ。

私は、これはやはり日本の社会的・文化的土壌の中で、「キリスト教的なもの」が理解されにくいという「壁」の存在が大きいように思う。神に乞い願うと、現世的なご利益が「降って」くる日本の宗教観からすれば、「神との真摯な対話と悔い改め」という重い信仰は、理解(というより受容)までに幾重もの「壁」を突き抜ける必要があるのだろう。その意味では、理屈での理解というよりもむしろ「感化」、感化というならば、人の生き様を通じてそれを伝えるしかない。とするならば、「伝道」というのはトラクトを配るとか、熱心に口説くというのではなく、キリスト者としての「生き様」を教会の内外で「晒していく」ことそのものではないのか。その意味で、宣教はまさに伝道なのではないか。

話は変わるが、現在私が学ぶ大学は「ミッションスクールでないキリスト教主義大学」を標榜している。つまり、学生に伝道はしないがキリスト教主義(?)で教育する、ということである。しかし、必須科目で聖書の中身を教えるとか、教会の歴史を教えることがキリスト教主義教育でもないし、ましてや各学部の専門科目をキリスト教主義的に教えるなんてことはできない。そうするならば、大学の雰囲気やキリスト者の教職員、先輩、後輩、同級生の姿勢を通じてキリスト教の「感化」を学生に及ぼす、それを受けて信ずるにせよ信じないにせよ、学生にキリスト教という「躓き」を与えて多いに悩んでもらう、そういうことしかないように思う。

学内では、しばしばキリスト教と創立者の掲げた「良心教育」の理念を切り離し、キリスト教なき良心教育の可能性を議論する向きもあるが、それはナンセンスであろう。所詮、理屈で考えた「良心」などありえない。「大いなるもの、抗えないもの」の「感化」を受け、それに自らの心を大いに揺さぶられ、悩み苦しみ、その中から紡ぎだすものが「良心」なのだ。霊的な働きのない哲学論争の中から「良心」など導きだせやしない。私の学校の場合は、その核心が「キリスト教」の「福音」であり、そこからの「感化」は学生各自の思想信条の如何に関わらず与えられるべきものである。「信ずる」「信じない」の二分論は陳腐な議論でしかない。この点で、私は非常に保守派なのかもしれない。

以上、とりとめもなく「伝道」について思うことを書いてみた。

この記事へのトラックバックURL

※この記事への新規トラックバックは受信されません。
※この記事への新規コメントは投稿できません。