2005年03月25日
護憲・改憲両派に感じる著しい違和感
ドイツ在住のジャーナリスト、美濃口坦氏がインターネットメディア『萬晩報』で発表した最新のコラム『憲法と「世直し運動」(1)(2)』(2005年3月23日・24日配信)を読んだ。そこに書かれていたことは、ごく「まっとうな」政治学と法律学を学んだ私が感じていた、いわゆる「護憲派」「改憲派」双方に対する「著しい違和感」をみごとに代弁してくれる内容であった。この読後感が減退しないうちに、私自身の言葉によってもこの「著しい違和感」を文字にしておきたいと思う。 政治学や法律学の基本を学んだものにとって、憲法とはまさに国家の「最高法規」であり、それ以上でもそれ以下でもない。ましてや、憲法は精神論でも徳目でもなく、美しい文学書や歴史書でもない。あくまで、主権者がその国家統治の道具である政府に命令し、過大なパワーを制御するための道具である。それは、専制国家であれ、民主国家であれ変わりのない大原則であろう。
一方で、日本人は多かれ少なかれ、憲法というものに大きな幻想を抱いているような気がする。護憲派は、いまの憲法が平和国家・日本の精神的源泉であるかのような言い方をするし、改憲派は、改正憲法で日本の伝統や国柄を高らかに謳い上げろという。ごく「まっとう」な政治学や法律学を学んだ私からすれば、どちらも著しい違和感を感じざるを得ない。
まず護憲派に言おう。確かに、敗戦から復興への時代の節目にあって、日本国憲法が成立した経緯は特殊なものであり、国家の最高法規であること以上に、「ある一時代」の人々にとって高い理想や精神を体現する象徴となったことは想像に難くない。しかし、時代は移り、日本国憲法下で育った世代は民主政を当然のものとしてとらえ、自らの内にある「良心」を基盤に民主政に参加しうる段階に達している。むしろ、市民が主権者である民主国家において、その基盤が憲法ではなく市民の「良心」にあることは「普通」である。市民はその「良心」に基づいて、政治的行動をし、必要とあらば法律を作り、あるいは憲法を改正するのである。その側面を見ずして、「ある一時代」の「憲法幻想」に基づく護憲運動を展開したとしても、後の世代の人たちにとっては、戦前の国家主義と同じく「価値観の押しつけ」として忌み嫌われるだけだ。この価値観の「齟齬」が、護憲運動の世代的広がりを欠く原因ではないだろうか。
次に改憲派に言おう。憲法は自分の懐古趣味を語る場所ではない。さまざまな考え方、行動様式を持つ人々がともに暮らす国家を運営するルールだ。ご自分たちの家族観や道徳観をお持ちになるのは結構だが、ルールとしての意味のない、単なる徳目の押しつけは憲法の趣旨を逸脱している。はっきり言って、そんなものを作ったら「国際社会の恥」である。悪いことは言わない。憲法を懐古趣味の理想郷になどするな。徹頭徹尾、民主国家の「最高法規」として、味気はないが贅肉もない、実利一番の内容を考えてみたらどうだろうか。
そして、私自身の考え方は「超消極的現状維持派」である。いまの段階で「最高法規」としての憲法を弄る必要性を感じていない。9条と自衛隊の絡みがあるが、今までの憲法解釈の範囲で結構だし、それを逸脱するのは反対だ。また、今のような状況で安易に憲法を変えてもいいことが思いつかない。まして、いままでつらつら書いているように、個々人の「良心」に依拠する民主国家のありようが護憲・改憲を叫ぶ人々、そして立法担当者そのものに浸透していない中では、どうせロクなものができないからである。
私は、ぜひ「超消極的現状維持派」に賛同する人たちとともに、個々人の「良心」に落とし込む形で、これまでの戦後民主主義の歩みとその成果を見つめ直したい。その上で、「最高法規」としての憲法を考慮の中に入れるのか否か、じっくり考えてみたいと思っている。
一方で、日本人は多かれ少なかれ、憲法というものに大きな幻想を抱いているような気がする。護憲派は、いまの憲法が平和国家・日本の精神的源泉であるかのような言い方をするし、改憲派は、改正憲法で日本の伝統や国柄を高らかに謳い上げろという。ごく「まっとう」な政治学や法律学を学んだ私からすれば、どちらも著しい違和感を感じざるを得ない。
まず護憲派に言おう。確かに、敗戦から復興への時代の節目にあって、日本国憲法が成立した経緯は特殊なものであり、国家の最高法規であること以上に、「ある一時代」の人々にとって高い理想や精神を体現する象徴となったことは想像に難くない。しかし、時代は移り、日本国憲法下で育った世代は民主政を当然のものとしてとらえ、自らの内にある「良心」を基盤に民主政に参加しうる段階に達している。むしろ、市民が主権者である民主国家において、その基盤が憲法ではなく市民の「良心」にあることは「普通」である。市民はその「良心」に基づいて、政治的行動をし、必要とあらば法律を作り、あるいは憲法を改正するのである。その側面を見ずして、「ある一時代」の「憲法幻想」に基づく護憲運動を展開したとしても、後の世代の人たちにとっては、戦前の国家主義と同じく「価値観の押しつけ」として忌み嫌われるだけだ。この価値観の「齟齬」が、護憲運動の世代的広がりを欠く原因ではないだろうか。
次に改憲派に言おう。憲法は自分の懐古趣味を語る場所ではない。さまざまな考え方、行動様式を持つ人々がともに暮らす国家を運営するルールだ。ご自分たちの家族観や道徳観をお持ちになるのは結構だが、ルールとしての意味のない、単なる徳目の押しつけは憲法の趣旨を逸脱している。はっきり言って、そんなものを作ったら「国際社会の恥」である。悪いことは言わない。憲法を懐古趣味の理想郷になどするな。徹頭徹尾、民主国家の「最高法規」として、味気はないが贅肉もない、実利一番の内容を考えてみたらどうだろうか。
そして、私自身の考え方は「超消極的現状維持派」である。いまの段階で「最高法規」としての憲法を弄る必要性を感じていない。9条と自衛隊の絡みがあるが、今までの憲法解釈の範囲で結構だし、それを逸脱するのは反対だ。また、今のような状況で安易に憲法を変えてもいいことが思いつかない。まして、いままでつらつら書いているように、個々人の「良心」に依拠する民主国家のありようが護憲・改憲を叫ぶ人々、そして立法担当者そのものに浸透していない中では、どうせロクなものができないからである。
私は、ぜひ「超消極的現状維持派」に賛同する人たちとともに、個々人の「良心」に落とし込む形で、これまでの戦後民主主義の歩みとその成果を見つめ直したい。その上で、「最高法規」としての憲法を考慮の中に入れるのか否か、じっくり考えてみたいと思っている。
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