2010年01月19日
アドボカシー
アドボカシー。NGO関係者はよく使う言葉。しばしば、「公共政策を変える、動かす、オルタナティブな代替案を実現する」諸活動の意味で用いられるけれど、よくよく考えてみれば、本来の意味合いがごそっと抜け落ちているような気が。
そもそも、さまざまな公共政策の策定〜実施のプロセスの中で、「最も弱い立場に『立たされた』人たち」の側に立ち、プロセスの中に参加できるようサポートしていくことが本来の意味合いであったはず。また、政策プロセスに働きかける側の活動のみでなく、政策プロセスそのものの「あり方」をも包含して指す意図も含まれていたはずだ。
どうも最近、「アドボカシー=政策提言」のような理解が広まる中で、NGO自身がいろいろな意味でアドボカシーを矮小化してはいまいか。政府とぶつかりあうことを忌避し、政策プロセスやそれを司るガバナンスのありようにタッチしないで、程々の政策提言で程々の成果を狙うような「ヌルい」活動になっていまいか。
研究会での先輩や師匠のコメントを聞きながら、そんなことを考えた。「公共政策を決定する要素に、権力やニーズではなく価値観を持ち込むとしたら、それは『〈最も弱く、小さくされた人々〉を想起すること』ではないか?」と大学の礼拝説教で問いかけた、師匠の同僚教員(政策ネットワーク論、カトリック信徒)の言葉を思い出した。
そもそも、さまざまな公共政策の策定〜実施のプロセスの中で、「最も弱い立場に『立たされた』人たち」の側に立ち、プロセスの中に参加できるようサポートしていくことが本来の意味合いであったはず。また、政策プロセスに働きかける側の活動のみでなく、政策プロセスそのものの「あり方」をも包含して指す意図も含まれていたはずだ。
どうも最近、「アドボカシー=政策提言」のような理解が広まる中で、NGO自身がいろいろな意味でアドボカシーを矮小化してはいまいか。政府とぶつかりあうことを忌避し、政策プロセスやそれを司るガバナンスのありようにタッチしないで、程々の政策提言で程々の成果を狙うような「ヌルい」活動になっていまいか。
研究会での先輩や師匠のコメントを聞きながら、そんなことを考えた。「公共政策を決定する要素に、権力やニーズではなく価値観を持ち込むとしたら、それは『〈最も弱く、小さくされた人々〉を想起すること』ではないか?」と大学の礼拝説教で問いかけた、師匠の同僚教員(政策ネットワーク論、カトリック信徒)の言葉を思い出した。
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