2010年02月10日
2010年02月09日
名将の品格
2010年02月07日
図説「信長の謎」の謎?!
気になったのは、「桶狭間の合戦」をどう説明しているか。
近年、桶狭間の合戦については、軍事史研究家の藤本正行氏の「正面攻撃説」が有力視され定説化されそうな勢いがある。
これに対する反論も目立ってきたが、少なくとも「桶狭間の合戦」研究書は99%、藤本氏の説を紹介している。
が、
やはり思った通り「信長の謎」には藤本氏の紹介がない。
藤本氏の「正面攻撃説」への反論である、橋場日月氏などの説は紹介しているのだが。
その藤本氏は自身の著作の中でかなり、小和田氏の論を批判。
これに対し、小和田氏は以前から、藤本氏を徹底無視の態度。
私自身はお二人とも尊敬しているのだけど…
死せる織田信長、
いまだに多くの謎を持って、歴史学の徒を惑わす。
(ΘoΘ;)
ところで、ぼくは次の
赤紙仁王さま
新説「織田信長は、将軍を暗殺していた?!」
多くのの歴史研究書や歴史学者が見落としている点がある。
今回は、織田信長上洛の謎を追う。
上洛前後の信長の動きを見てみよう。
永禄10年(1967年)
8月 北伊勢に出兵
9月 稲葉山城を攻略(美濃を制圧)
11月 「天下布武」の印章を用いる
永禄11年(1568年)
2月 北伊勢の神戸氏、長野氏を制圧
7月 足利義昭を迎える
9月 上洛戦開始〜上洛
10月 畿内を平定
足利義昭、征夷大将軍に就任
信長の全生涯の中で、最もあわただしい期間である。
美濃を制圧するまで10年以上の歳月を費やした信長だが、制圧後は1年を待たずして上洛、京近畿をまたたくまに制圧してしまった。
なぜこれほど、あわてて上洛したのだろうか。
信長は、永禄2年の上洛で13代将軍足利義輝に拝謁している。
ところがこの義輝は永禄8年5月19日、三好三人衆と松永久秀によって殺される。
出家していた足利義昭は、朝倉氏を頼って逃げる。
だが、実は永禄11年4月、三好三人衆は足利義栄(よしひで)・義輝の従兄弟を第14代将軍として擁立してしまったのである。
このことは、多くの歴史書や歴史学者が黙殺してしまっているため、信長関係の歴史小説やドラマなどにも義栄はめったに登場してこない。
だが、三好の傀儡(かいらい)将軍とはいえ、朝廷から正式に任命された将軍である。
つまり、新将軍とすべき足利義昭を擁した信長の軍団が上洛戦を開始した時、正式な将軍が京には存在していたのである。
つまり信長と義昭は、三好と義栄の政権が長期安定化しないうちに多少無理を承知で上洛を急いだのではないだろうか。
信長が入京した直後、義栄は摂津富田の普門寺で病没したとされるが、あまりにもタイミングが良すぎる死である。
信長の命を受けた者が暗殺したのではないかと、私は推測している。
かつて、仮病を使って、自分の実の弟・信行を暗殺した信長。尾張統一のため、多くの親戚兄弟を葬りさった信長。
武田信玄や上杉謙信など、信長の軍団と直接対決する直前に謎の急死をとげた大名は数多い。
私は信長が暗殺部隊を有したと推理している。
その部隊長の特定作業もすでにしている。
(この人物については、別の機会に論説したい)
そんなことがあるわけないと思っている方には、いくつもの具体的証拠を挙げてみる。
当時、敵対する大名の当主を暗殺しようした例は多い。
信長自身も最初の上洛時に、美濃の斎藤義龍が差し向けた暗殺部隊と遭遇した記録がある。(信長公記)
また、有名な例としては、六角氏が差し向けた鉄砲名人・杉谷善住坊から二連銃で狙撃されたこともある。
また決定的な証拠として、信長が弟・信行(何度も反抗した)に対し、3名の暗殺隊を組織したことが記録に残っている。「池田家履歴略記」がそれで、信長の乳兄弟・池田恒興(後の姫路城主の祖)がとどめをさしたと記録されている。
明智光秀は、信長殺しで汚名を着せられているが、その信長自身の栄光もまた、血によって築かれているのである。
今回も私のオリジナルな仮説です。
無断転載を禁ず。
2010年02月06日
新説「織田信長、上洛の謎を解く」
永禄11年(1568年)7月、将軍候補・足利義昭を迎えた織田信長は、4万の兵を率いて上洛(京都を制圧して天下に号令する)戦を開始。
六角氏や三好三人衆を撃破した信長は、なんなく京に入る。
京に入り、新しい天下人となった信長に取り入ろうと、名物・家宝を献上する者が列をなしたという。
松永久秀が「つくもかみ」、今井宗久が「松島の茶壷」という大名物を献上したのもこの時。
そんな中で、連歌師の里村紹巴(じょうは)は、扇子を二本だけ差し出して、歌の下の句で問いかけた。
二本(日本)手に入る 今日のよろこび
これに信長が上の句を付けて答える。
舞い遊ぶ
千代万代(ちよよろずよ)の扇(おうぎ)にて
これを聞いた京町衆は、信長の教養に驚き喜んだという。
歴史のテキストや小説、ドラマなどでもおなじみの名場面だ。
しかし、私はこの歌の問答に驚くべき意味が隠されていることを発見したのだ。
そもそもこの紹巴は、明智光秀が本能寺の変の直前、愛宕山の連歌会にも登場する人物。
(私は彼が朝廷のスパイだと推定するが、この新説は別の機会に発表したい)
私はこの「二本」にはもう一つの意味があると推理する。すなわち、日本の二つの主権(国王)、将軍(幕府)と天皇(朝廷)である。
鎌倉・室町・江戸の各幕府は、他国との外交・通商において、日本の主権は誰かという問題に常に悩んでいた。
たとえば、足利義満は明(みん、中国の王朝)に対して「日本国王」と称し、皇位簒奪(こういさんだつ)を狙っていたと言われる。
慶長12年(1607年)、徳川秀忠と朝鮮国王との外交文書には、「朝鮮国王」あてに日本国王ではなく、「日本国源秀忠」とのみ記している。
以来、将軍は外交権は持つが、天皇に遠慮して国王とは名乗っていない。(鎌倉幕府以来、源氏の子孫が幕府を開く将軍となっているので「源」の姓を使用)
幕末にペリーの黒船が来て、アメリカとの外交通商を求めた時、この矛盾(二つの王権が日本に両立)が爆発して明治維新が起きた。(私の説ですが・・)
紹巴は京の町人代表であり、朝廷(天皇)側の人間。
つまり、紹巴は信長に対して、
「天皇と将軍の二本のうち、どちらの味方なのか」
と問いただしているのではないか。
実は、信長は「桶狭間の戦い」の前年、永禄2年(1559年)にも上洛したことがあり、将軍足利義輝に拝謁しているが、朝廷にはなんの挨拶もしていない。父信秀は勤皇家で知られているが、朝廷側としては信長の態度がつかめず、探りを入れたと私は推測する。
では、信長の解答を分析してみよう。
舞い遊ぶ 千代万代(ちよよろずよ)の扇(おうぎ)にて
「舞い遊ぶ」
信長が舞いや踊りが大好きだったことは多数の文献に残る。
「千代万代」
千年も万年も永く、という意味はもちろんだが、国歌「君が代」の中の歌詞「君が代は、千代に八千代に」(君=天皇の御代は、千年八千年も永く続くように)と、数字が違うだけで意味あいはまるで同じ点に私は着目した。
「千代万代」とは、天皇に対する崇敬の表現なのはあきらかではないか?
実際、信長上洛の前年1567年11月、正親町天皇は信長に綸旨(りんじ・上洛の大儀名分を天皇として下達したもの)を与えている。
信長上洛については、足利義昭の将軍擁立のみが取りざたされているが、実は天皇からも要請されていたのだ。
では、もう一度信長の解答を整理してみよう。
「私は、おおぎまち天皇の御代が千年も万年も永く続きますよう、(天皇の手の平の上で)舞い遊びましょう(天下を平定してみせましょう)」
京の町人衆が喜ぶのも道理だ。
この後、信長と将軍足利義昭との仲は急速に悪化し、室町幕府は追放滅亡する。
その一方で、元亀元年(1570年)の浅井朝倉との講和、天正8年(1580年)の石山本願寺との講和など、信長は危機的状況におちいると必ず、おおぎまち天皇に調停をたのむようになる。
それだけ、信長は朝廷と親密な関係となったのだ。
だが、それも本能寺の変まで。
「本能寺の変」については、その黒幕をめぐって昔からうわさがたえない。
これについては、あらためてまとめる予定。
今回の新説は、紹巴の歌の解釈も含めて完全に私のオリジナルです。
よって、無断転載無断掲載を禁じます。
転載する場合など必ずご連絡ください。
2010年02月05日
新説「秀吉と小六」証拠発見!
太閤記に、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が矢作橋で蜂須賀小六と出会った記述がある。
ところが、この当時はまだ矢作橋がなかったため、歴史学者の多くはこの出会いを否定している。
私は、小六が川並衆の頭領であり、軍事土木技術の専門家であることに着目して、この出会いのときの矢作橋が船橋であることを検証した。
事実、「信長公記」には、武田家を滅ぼした信長が徳川家康の領地を通過する際、船橋をかけさせた記録がある。(家康は莫大な金と人材労力を使って天竜川に船橋をかけた)
ところが、蜂須賀小六自身が船橋を作ったという史料を発見した。
「武功夜話」(前野家文書)の中に、問題の記述があった。「伊木山に登る」という章。信長の美濃攻めの戦いである。
美濃方の犬山城が落ち、川で待ち受ける蜂須賀小六、前野将右衛門らに、美濃の諸隊が船で敗走してくる。
以下は、「武功夜話」より抜粋の文。(加来耕三訳・新人物往来社)
「蜂須賀小六は船頭衆に指図をすると、船をこぎ寄せる。たちまち弓、鉄砲を撃ち合う船合戦となった。この合戦で一日にして敵船十有余隻を分捕り、船橋も、この日におわった」
また、「於久地の合戦」という章には次のような記述がある。
「於久地城という、川や沼に囲まれた難攻不落の城を攻めるため、前野らは竹林の竹を切り、竹束を作って浮き橋をこしらえた。」
まさに、これは私の新説の通り、蜂須賀党が工兵部隊の役割をかねていたことを立証するものだ。
さて、この武功夜話(前野家文書)は矛盾する記述も多く、歴史学者の評価も二分されている。(偽書説もある)
しかし、織田信長の前半生の詳細な記録などは、瞠目する部分が多く、参考とする者も多い。
前野将右衛門の一族は、後に関白秀次事件に連座して没落する。そのため、蜂須賀小六ほど知られていないが、常に小六と共に秀吉を助けた武将である。
豊臣秀吉を描いた津本陽の歴史小説「夢のまた夢」(文春文庫)は、将右衛門の描写で幕を開ける。
「将右衛門は蜂須賀小六と義兄弟の縁をむすび、木曽川川並衆の頭領として不羈奔放に生きてきた男だけに、体格がいい」
*補足
船橋を作ったり、沼を渡って城を攻める軍事技術を有した蜂須賀・前野の川並衆。
織田信長の配下武将としての秀吉最後の仕事、高松城の水攻め(堤防を築いて城を水没させた)にもその威力は遺憾なく発揮された。
家康が野戦の名人なら、秀吉は天下一の城攻め名人。
だが、逆に言えば、蜂須賀らのいない秀吉軍団は弱かった。
天正18年(1590年)、秀吉の北条征伐(小田原攻め)の方面軍として、石田三成が2万3千人の軍団を率いて武蔵の忍(おし)城を攻略したことがある。
このとき、三成は秀吉をまねて水攻めを考え、堤防を作ったが決壊してしまい、多数の死傷者が出て結局城を落とせなかった。
関が原の戦いで家康に戦いを挑んだ三成だが、いくさべたと言われるようになったのは、このときの一件からのこと。この失敗により、秀吉は三成に二度と大軍の指揮を任せることはなくなり、行政官僚としての道を歩ませることになる。
逆にもしこのとき、蜂須賀らの川並衆を三成の補佐につけていれば水攻めに成功し、大軍の指揮官となったかもしれない。
そうすれば、関が原で勝てたかも・・・
その時、歴史が動いたのだ。
2010年02月04日
2010年02月03日
新説「太閤記の謎を解く!」
「太閤記」は江戸時代に成立した、豊臣秀吉の伝記。
いまでも、小説やテレビドラマ、映画化が繰り返される。
ただ、一代で日本を統一した英雄であるがゆえに、特に前半生の部分には誇張や矛盾が多く、史料価値は乏しいとされる。
「太閤記」で一番好きなシーンは、流浪の少年・木下藤吉郎(後の秀吉)と野武士・蜂須賀小六(後に大名)が矢作橋で出会うシーン。
五条の橋で出会って戦った牛若丸と弁慶ほどの華麗さはないけど、心躍る
英雄どうしの邂逅シーン。
ところが当時、矢作川には橋がまだなかったのだ。
だから、この出会いは、後世の創作。歴史学者や歴史のテキストはそう断言する。
これを知った時、子供心に悲しかった![]()
しかし、しかし、しかし!
実は昨日、偶然にも、この二人がやはり矢作橋で出会った可能性を証明する古文書を発見したのだ![]()
それは、埼玉県立近代美術館で開催された企画展「美術館は白亜紀の夢を見る」「中田・栗橋両宿間利根川船橋図」安永5年1776年作成の絵図面だ。
解説にこうある。
「江戸時代、江戸への攻撃を防ぐため、大川には橋をかけなかった。十代将軍家治の日光(東照宮)社参の時に、船をつないで臨時に橋をかけた」
利根川に54艘の舟を並べて、その上に橋をかけた様子の絵図面である。(撮影不可なのが残念)
実は蜂須賀小六は、木曽川の川並衆の頭領で千人以上の兵力を有し、美濃の斉藤道三や尾張の織田一族からも一目置かれていた。
有名な「墨俣の一夜城」も、小六の一族が上流から大量の木材を流して、それを受け止めて組み立てたもの。
高松城の水攻めでは、城の周囲に短期間で堤防を築いた。
北条氏の小田原城攻めでは、一夜で城を作った(ように見せかけた)。
つまり、蜂須賀小六は軍事土木工学の専門家であり、その部隊は近代戦の工兵隊のようであった。しかも、河川の専門家。
平和な江戸時代でさえ、軍隊が移動できないように大川に橋はかけなかった。小六の戦国時代なら、なおさら国境などの川に橋はなかったはず。
では、なぜ織田信長や秀吉の軍団は、驚異的なスピードで他国へ進撃できたのか。
それは、「短時間で橋を作る」技術、すなわち、船橋の軍事技術を持つテクノクラート集団・蜂須賀党を味方としていたからではないか。
おそらく、軍事演習で小六が矢作川に船橋をかけた時、その場に藤吉郎がいたのだろう。
戦国当時の軍事技術は最大機密であるため、いまだに謎が多い。有名な信長の鉄甲船でさえ、織田側の史料はほとんどない。船橋の技術も最高機密。だからこそ、「矢作橋」の出会いとして伝承されたのだ。
そして、長く平和が続く江戸時代。
徳川幕府にのみ、「船橋」の軍事技術は伝わっていた。例の絵図面となって。
(他の大名に船橋の技術を知られたら、いつでも橋をかけられて、江戸を攻撃されるおそれがある)
ではいったい誰が、徳川家に船橋の技術を伝えたのか。
関が原や大阪の陣を経て、徳川家康の天下となる。
木下藤吉郎(秀吉)と親しかった大名のほとんどがつぶされる。加藤家、福島家、宇喜田家、大谷家、石田家、安国寺・・・・など多数。
だが、なぜか、蜂須賀家だけは四国最大の大名として明治の世まで残ったのだ。
*以上が、今回の新説の概略です。
これまでも、歴史上の謎や超常現象に新仮説を立て、いくつかの誌上に発表してきました。この新説も、もうすこし史料を掘り起こして今後、補強していくつもり。
なので、この新説「矢作橋=船橋説」の無断転載、無断転用を禁じます。転載する場合、ご連絡ください。
*織田信長が家康の領地を通過する際、相当な費用と大人数を使って、大変な苦労をして天竜川に船橋をかけた記述が、信長公記にある。
*この後、蜂須賀小六が直接に船橋を作った史料を発見しました。他にも、新しい発見あり。下のカテゴリーの「新説の日本史」をクリックしてみてください。
2010年02月01日
ショコラを溶かすと何になる?
あら不思議!
o(^o^)o
きょう、ある卒業生からの頼み。
就活中の会社のエントリーシートに
「あなたをよく知る6人の人にあなたを一言で表すキャッチフレーズを考えてもらってください」
という欄があるらしくて…
もちろん、いくつか考えてすぐ送ったけど、なかなかユニークな会社もあるもんだね〜
就活は大変だけど、自分を見つめ直せるし、社会人としての常識を学ぶ良い勉強の場でもある。
さて、ショコラを溶かすと…
しあわせな香りがひろがる〜!
では、氷が溶けたらなんになる?
氷が溶けたら、春だよね〜!
(水になるのは単なる物理現象)
どうか良い就職を!
そして良い人生を!
\(^O^)人(^O^)/
