2011年11月21日
朴ミンギュさんの5回目の命日
朴さんの孫娘のようだった、資料館スタッフまるふくさんが、現在留学中のフィリピンから、パクさんの命日にと、写真と思いを寄せてくれました。
(写真は、どてらを着て、大好きだったタバコをおいしそうにくゆらすパクさん)
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スタッフまるふく@フィリピンです。
私達の資料館では、日本の加害の歴史について様々な資料を展示していますが、展示のメインのひとつが朝鮮人被爆者に関するものです。原爆が投下された当時、長崎には多数の朝鮮人労働者がいました。強制的に連れてこられた人も少なくありませんでした。岡正治さんら市民の調査で、そのうちの約2万人が被爆、約1万人が死亡したことがわかっています。このブログをご覧になられる方ならすでにご存知かもしれませんが…。
私は10年くらい前に来館者として資料館に行くまで全く知りませんでしたよ!本当にショックでした。
前置きが長くなりました。11月21日は、朝鮮人被爆者であり、被爆体験の語り部であり、朝鮮人被爆者協議会の会長でもあった朴ミンギュさんの命日です。朴さんは、私達の資料館にとっても、とても大切な方でした。2006年にお亡くなりになってから、「朴さんがいてくださったら」と思うことが何度もありました。
朴さんは、1926年に釜山近くの密陽(ミリャン)で生まれてから、14歳で単身渡日して各地で厳しい労働に従事し、長崎で被爆されました。
戦後は、朝鮮人被爆者として、同胞の被爆者の支援を、李奇相(リ・キサン)さんや岡正治さんらとともに続けてこられました。「朝鮮人被爆者協議会」の会長を務めながら、全国から訪れる修学旅行生たちに被爆体験を語る活動も熱心にされていました。2001年に徐正雨(ソ・ジョンウ)さんがお亡くなりになってからは、ただ一人の朝鮮人被爆者の語り部でした。そして祖国統一を切望しておられました。
個人的な話になるのですが、私が朴さんに出会ったのは2001年の冬でした。この年の夏には徐正雨さんが亡くなられています。私は徐さんの追悼集会で初めて、徐さんの苦難に満ちた人生を知り、ひどくショックを受けました(私、ショックを受けてばかりいますね)。強制労働や被爆の苦しみばかりでなく、戦後も制度的・社会的に差別を受け続け、生きていても楽しくないとまで語った徐さん。侵略と差別はこんなに人の人生を奪ってしまうのだと痛感しました。徐さんに会ったことのなかった私は、長崎で1人だけ残った朝鮮人被爆者の朴さんに会って、体験を直接聞かせてもらおうと思ったのでした。
結局、朴さんの温かくおおらかな人柄に魅せられて、しょっちゅうご自宅に入りびたるようになったのですが、朴さんは、私におやつをすすめながら、いろんな話をしてくださいました。
故郷のこと、子どもの頃の皇民化教育のこと、14歳で親と別れて単身で日本に渡ったこと、各地で厳しい労働に従事したこと、そして長崎に来て被爆したこと……。
戦後の生活、同胞の被爆者を支援してきたこと……。
在日コリアンの被爆者である朴さんは、様々な差別や困難にぶつかりながらも明るく、力強く、人々への信頼と愛情を持ち続けながら生きてこられました。
今、改めて朴さんが生涯をかけて取組んでこられたことを、受け継いでいかなければならないと感じています。
朴さんの証言などは、資料館に展示されていますし、『原爆と朝鮮人』や朴さんの追悼集にも詳しく載っています。関心をお持ちの方は資料館にお問い合わせください。
まるふく(文&写真)

