2040年08月26日
<重要!!>このブログはもう更新しません
いつもこの長いだけがとりえのブログを見てくださってありがとうございます。
管理人の通りすがりです。
諸事情あって、ブログをLOVELOGからFC2ブログに移行することに決めました。
引越し先のアドレスは以下です。
http://blacknightgo.blog.fc2.com/(PC)
http://blacknightgo.blog.fc2.com/?m(携帯)
2011年9月19日をもって、こちらのブログの更新を停止します。
以後、引越し先のブログしか更新しない形にしますので、
どうぞよろしくお願いいたします。
こちらのブログは、更新はしませんが、削除もしないで残しておくつもりです。
管理人の通りすがりです。
諸事情あって、ブログをLOVELOGからFC2ブログに移行することに決めました。
引越し先のアドレスは以下です。
http://blacknightgo.blog.fc2.com/(PC)
http://blacknightgo.blog.fc2.com/?m(携帯)
2011年9月19日をもって、こちらのブログの更新を停止します。
以後、引越し先のブログしか更新しない形にしますので、
どうぞよろしくお願いいたします。
こちらのブログは、更新はしませんが、削除もしないで残しておくつもりです。
2035年12月16日
mixiのコミュニティでコメント募集中
2010年に、宮下奈都の「スコーレNo.4」という文庫をバリバリ売ろうと思っているんですけど、
そのアイデアの一環として、mixiのコミュニティでコメントを募集しています。
コミュニティ名は『宮下奈都「スコーレNo.4」』です。
宮下奈都の作品を、特に「スコーレNo.4」と読んで良かったと思った方、コミュニティにコメントをしてもらえると嬉しいです。
またこれから読んでみようと思っている方も大歓迎です。
周りの人にも、こんな話があるよ、と伝えてもらえるとなお嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
http://blogs.dion.ne.jp/white_night/archives/8985017.html
そのアイデアの一環として、mixiのコミュニティでコメントを募集しています。
コミュニティ名は『宮下奈都「スコーレNo.4」』です。
宮下奈都の作品を、特に「スコーレNo.4」と読んで良かったと思った方、コミュニティにコメントをしてもらえると嬉しいです。
またこれから読んでみようと思っている方も大歓迎です。
周りの人にも、こんな話があるよ、と伝えてもらえるとなお嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
http://blogs.dion.ne.jp/white_night/archives/8985017.html
2030年05月16日
2015年05月02日
索引 あ行〜か行
ランキングに参加しています。それぞれバナーをクリックしてくれると嬉しいです。




思ったわけです。ただ感想を書いているだでではダメだな、と。割と俺は本を読んで欲しいと思っているわけで、それならいつ俺がどの感想を書いたのか、という索引があったほうがいいな、と思ったわけです。というわけで、御利用ください。
あと、こんなサイトも。

福岡在住の書店員タカクラさんのHPとブログです。
たかくら&みえぞう尊遜日誌
本屋タカクラの日記
そして、字数を超えたので、索引を三つに分けました。こちらは、あ行〜か行です。どうぞ。続きを読む


思ったわけです。ただ感想を書いているだでではダメだな、と。割と俺は本を読んで欲しいと思っているわけで、それならいつ俺がどの感想を書いたのか、という索引があったほうがいいな、と思ったわけです。というわけで、御利用ください。
あと、こんなサイトも。
福岡在住の書店員タカクラさんのHPとブログです。
たかくら&みえぞう尊遜日誌
本屋タカクラの日記
そして、字数を超えたので、索引を三つに分けました。こちらは、あ行〜か行です。どうぞ。続きを読む
2015年05月01日
2011年09月19日
つぶやきのクリーム(森博嗣)
内容に入ろうと思います。
本書は、森博嗣の100のフレーズに、それぞれ2ページずつの補足が書かれている、という体裁の本です。まえがきで森博嗣はTwitterに触れていて、別に森博嗣自身はTwitterをやる気もないし、たまに見ても大した呟きを見つけられないけど、要するに、100のフレーズはそういう「呟き」のようなものだ、という感じです。
僕はこれまで、森博嗣の小説だけではなく、エッセイもたくさん読んできたの、森博嗣的思考と言うのには結構触れてきた人間だと思う。だからこそ、少なくとも僕には、新鮮だ、という感じの内容ではありませんでした。それは、これまで出版された本と内容が同じだ、というようなことを言いたいわけではありません。似たようなことももちろん書いている部分もあるだろうけど、内容が似通っているというわけではありません。それは、思考の方向性というか、森博嗣の立ち位置というか、視点の置き方とか、そういうものが、やっぱりブレないなぁ、凄いなぁ、という感覚だ、と思ってください。だからこそ、本書に限らず森博嗣のエッセイを初めて読むという人には、こういう思考・立ち位置・視点には驚くだろうなぁ、と思います。
本書で描かれていることも、なるほど、と感じられるものもあれば、そういう見方もあるのか、と感じられるものもあり、あるいは、それについては僕自身は興味がないなぁ、というものももちろんあるわけなんだけど、基本的にやっぱり、森博嗣の思考には共感できる部分が多いし、自分もナチュラルにそういう風に思考出来る人間になりたいものだ、と思うものが多いです。
どの作品(小説を含めてもそうだけど、基本的にエッセイを指しているつもり)でもそうだけど、森博嗣は、常識や慣習にナチュラルに疑問を抱く。何故そうなのか、何故そうしなくてはいけないのか。多くの人は、その疑問を感じることがない。その疑問を抱かない方が、つまり、常識や慣習に唯々諾々と従っている方が、楽だと知っているのだ。
僕はどちらかといえば、疑問を抱いてしまう方だ。もちろん、森博嗣ほどではない。僕も常識や慣習に流されている部分はたくさんあるだろう。とはいえ、そういう感じだから、生きづらさを感じるのだろうと思う。森博嗣ほど能力があれば、常識や慣習に疑問を抱いても、そう強い生きづらさを感じずに済むのかもしれないなぁ、とか思ったり。あるいは、ただ単純に年齢や環境の問題、というのも大きいかもしれないけど。
個人的には、森博嗣のような思考の人が増えてくれると僕は生きやすいのに、と思う。世の中はもっと、森博嗣の思考のような、合理的な判断で回って欲しい、と感じてしまう。世の中は、そうなってはいない。余計なものがたくさんくっついてくる。山とかを歩いていると、服に何か植物がついているようなことがあるけど(なんて植物なのか知らないけど、そういうやつありますよね?)、それに近い。知らぬ間にくっついている。僕は、気づけば取るようにしているけど、たぶん気づいていないものも多いはずだ。森博嗣はきっと、そういう服についてしまうような植物に全部気づき、そして、服についたそれをどうやって取るかという思考よりも、それが服につかないようにするにどうすればいいか、というようなことをずっと考えているような人である(あくまで僕のイメージですけど)。
そういう人が増えてくれれば、つまり、余計なものをそぎ落とすためにどうしたらいいか、というような方向性の人が増えてくれれば、僕自身はきっともっと生きやすくなると思う。余分なものがたくさんある方が、経済はうまく回るんだろうし、それによって恩恵を受けられる人もきっとたくさんいるのだろう。僕は、そういう部分には強く興味を持てないから、もう少し余分なものが世の中から減ってくれたらいいのにな、といつも思っている。
森博嗣の言っていることは、少なくとも僕にとっては、赤道直下の国でコートを着ている人に『何でそんなもの着ているの?』、と聞くようなものに近い。つまり、凄く当たり前のことを言っているように感じられる。もちろん全部ではない。自分がこれまで考えたことがなかったような方向性の思考ももちろんたくさんある。でも、すげぇ当たり前だよな、と感じられるものも非常に多い。
赤道直下の国でコートを着ている人からすれば、『みんなが着てるから』とか『そうするのが普通だから』とか、あるいは『それがルールだから』なんていう答えを返す人もいるかもしれない。赤道直下でコートを着ることが『普通だ』と思えない人には、その人の言っていることは理解出来ない。恐らく森博嗣が世間を眺める視点は、こういう位置にあるのではないだろうか、と思う。恐らく、実に多くの人間がおかしなことをしている、そんな風に見えているんだろうなぁ。僕も、たまにそう思うことはある。森博嗣のように、なんでもかんでもそういう視点から見えてしまうというのも、ある意味では羨ましい。でも、それはそれで相当の『覚悟』みたいなものが必要とされるんじゃないかなぁ、という気もする。僕は、森博嗣は天才だと思っているのだけど、その天才さは、一般の人からすれば『覚悟』が必要としか思えない場所に、飄々と(あるいはそう見えるように)座っているからだったりするのかなぁ、という気もする。わからないけれど。まあ森博嗣からすれば、こうやって森博嗣のことを分析しようとしている人間は、ゴミでしかないんだろうなぁ。いや、僕はそれでいいんですけど。
いつものように、内容を抜書きしてあーだこーだ書こうと思うのだけど、ちょっと躊躇してしまう。それは、本文中に、
『評論家口調で、「これはおすすめできない」と書いている人は、自分がすすめるも
のにどれくらいの自信があるのだろう。どの程度の責任を感じているだろう。おそら
く、なにも考えていないにちがいない。それゆえ、無害といえば無害である。』
『偉い人の話を聞いて、それをそのままブログに引用しても、これっぽっちも偉さには近づけない。』
というような記述があるからだ。
いや、別に、本の内容をブログに書くことについては、以前から森博嗣は不快感(と表現していい感覚なのかは不明だけど)を示していた。僕も、別にそれを知った上でブログで感想を書いているし、抜き書きもしてきた。だから、本書だけ躊躇する、というのは、少なくとも僕も理屈には合わない。だからまあいつも通りやるんだけど、まあでも、先に引用した二つについても、言っていることは非常に共感できてしまうんで厄介なんですよね。
さて、本書には、電子書籍や書店に触れた部分がある。
『いよいよ、印刷された書籍は出る幕がなくなってしまう。こうなることは、二十年もまえから予測されていたことで、今さらそれがどうだ、という議論はしたくないけれど、ようやく大衆が移り始めた感じは見える。書籍が書店で売られるシステムをもっと合理化していれば、まだまだ存続の可能性はあっただろうけれど、残念ながら、時既に遅しとなった。』
『売れない商品、売れ残り商品を沢山並べている店、それが書店である。』
書店で働いている者としては反論したい部分もあったりするのだけど、でもそう見られているということは自覚すべきである。結局のところ、書店がなくなって困るのは、書店で働いている人間だけなのかもしれない。もちろん、書店で働いている者としては、そうではないと信じたいところだけど、でも今のままだと、書店はちょっとどうにもならない。既に王手をかけられている状態、と言ってもいいだろうと思う。森博嗣の予測はきっと当たるのだろう。少なくとも、何かとんでもないパラダイムシフトでも起こらない限りは。そして、そんなパラダイムシフトが起こりそうな予感は、少なくとも僕には感じられない。
僕はこれからも書店で働く者として、自分が信じる方向に精一杯努力をするつもりだけど、しかし悲観的な感覚は決してなくなることはないだろうなと思う。
物を売る立場の人間として、面白い話もあった。
『世の中には、一流よりも二流の方が圧倒的に多い。二流の感性の受け手は、一流よ
りも二流の作品の方に安心する。みんなも良いと言う。だから、それが良いものの典
型にある。』
『近頃の傾向として、易しくて理解できるものを好む、軟らかくて食べやすいものだけを好きになる、というのがある。そんな気がするだけだろうか。』
『良い品物だから売れる、欲しいものだから買う、というメカニズムは
むしろマイナ。』
物を売る立場の人間としては、売れるものは何でも売らなくてはいけない。しかしその一方で、売れていくものが決して質の高いものであるわけではない、という感覚は常にある。
僕個人としては、良い物をたくさん売ることで、より良い物が生まれやすい環境を生み出せたら、あるいは、良い物をたくさん売ることで、良い物を見分ける力を学べる環境を生み出せたら、と思っているのだけど、なかなかそうはいかない。作中で森博嗣も、良い物はそんなに売れない、と書いている。これは、僕の実感とも一致する。なかなか難しい。そこそこのものばかりが売れていく世の中で、どうして良い物を作ろうという人が出てくるだろう。一応断っておくけれども、僕自身が少なくとも本に関しては良い物を見分ける力が普通の人よりはあるよ、なんてことを主張したいわけでは全然ないのですよ。
仕事といえば、こんなフレーズもある。
『作業に取りかかる以前に、ほとんどの仕事のグレードは決まっている。』
このフレーズ自体は、特別新鮮なわけではないけど、でもこれを、ペンキ塗りの話から導き出すという補足の話は非常に面白いと思う。
また、こんな思考もある。
『一般に、自由人と呼ばれるような人は、不自由を我慢する能力がなく、我慢ができないからなんとか自由になろうとする。そのうち、比較的能力がない人は、犯罪者になる。残りの比較的能力のある人は、社会で成功する。』
非常にスマートにまとめるなぁ、という感じがしました。僕は、不自由を我慢する能力がまったくない人間だけど、能力はそう高いわけではないから、いつしか犯罪を犯すかもしれない。これは謙遜とかではなくて、自分が犯罪を犯すかもしれない可能性というのは、考えているのだ。それぐらい、不自由に対する耐性がない。今はたまたまラッキーなことに、不自由さをほとんど感じずにいられる環境なのだけど、それが様々な偶然によって成り立っているということもちゃんと知っている。環境が少しでも変われば、僕はどうなるかわからない。
自由については、こんなフレーズもある。
『「自由なんていらないよ」という人にかぎって、金だけは欲しがる。』
これは、この文章だけだと、どんな状況を説明しているのかちょっとわからないかもしれない(僕は分からなかった)。でも、補足を読むと、なるほど、と思わされる。森博嗣は大学の助教授という職を去って以降、さらに人に会わなくなる生活をしているようなんだけど、個人ブログを見ている、というような記述があった。恐らくそういうところからの観察もあるのだろうな。森博嗣の周囲の観察力は高いよなぁ、といつも思う。
森博嗣と考え方が近くて、嬉しいなぁ、と思うような思考も多い。
『国を愛することは、具体的にどのような心理なのか、僕は今一つ理解できない。僕は、故郷を愛したり、どこかの地域を贔屓にしたりといった経験がない。「先祖」というものが何かも、またそれに縛られる思想も理解できない。人が創り出した文化、つまり伝統は大事だと思うが、それがその「場所」にあるとは思わないのだ。高校野球で、自分の県の高校を応援する気持ちが僕にはまったくわからない。説明してもらったことはあるけれど、まったくこれっぽっちも納得できなかった。』
『僕の場合、眠ることや食べることが人生の目的だとは考えていない。生きるために
は、眠ること食べることが必要だから、ある意味では「しかたなく」寝ているし食べ
ている、という感じがしている。』
『親の死に目にあえないことの何が問題なのだろう?』
『子供は自由だというが、大人ほどではない。』
『死というものが、これほど特別視されるのは、やはり「いつ訪れるか」がわからな
いからだろう。生きられる時間が決まっていれば、死はもっと日常のものになってい
たはずだし、死を迎えるための方法も確立されていたのではないか。最期の日は、少
なくとも誕生日以上のイベントになっていたはずだ。』
こういう思考は、周りの人間に通じることもあるし、通じないこともあるけど、僕にとってはどれも普通のことで、そうではない風に考えられる方が不思議だなぁ、と思うこともある。
まあそろそろ、具体的な引用はやめようかな。
森博嗣の思考に触れると、自分の甘さとか弱さとかに気付かされる。でも、もうそれでもいいか、という感覚も出てきてしまう。森博嗣のようにはなれないよなぁ、と思ってしまうのだ。自分の本分に沿って生きればいいか、と思う。別に森博嗣は、僕に何かを強制させようとはしない。けど、森博嗣のような思考・生き方に触れると、なんとなく自分のダメさ加減が怖くなる。けど、もう諦めよう。速やかに諦めよう。
というわけで、受け取る人次第でしょうけど、僕にとってはやはり森博嗣の思考は、心地いいと同時にざわざわさせられる、そういうものです。森博嗣の思考に触れると、自分がどれだけ多くのものに縛られ、そしてそれが不自由さを生み出しているのか、ということに気づくのではないか、と思います。是非読んでみてください。
森博嗣「つぶやきのクリーム」
本書は、森博嗣の100のフレーズに、それぞれ2ページずつの補足が書かれている、という体裁の本です。まえがきで森博嗣はTwitterに触れていて、別に森博嗣自身はTwitterをやる気もないし、たまに見ても大した呟きを見つけられないけど、要するに、100のフレーズはそういう「呟き」のようなものだ、という感じです。
僕はこれまで、森博嗣の小説だけではなく、エッセイもたくさん読んできたの、森博嗣的思考と言うのには結構触れてきた人間だと思う。だからこそ、少なくとも僕には、新鮮だ、という感じの内容ではありませんでした。それは、これまで出版された本と内容が同じだ、というようなことを言いたいわけではありません。似たようなことももちろん書いている部分もあるだろうけど、内容が似通っているというわけではありません。それは、思考の方向性というか、森博嗣の立ち位置というか、視点の置き方とか、そういうものが、やっぱりブレないなぁ、凄いなぁ、という感覚だ、と思ってください。だからこそ、本書に限らず森博嗣のエッセイを初めて読むという人には、こういう思考・立ち位置・視点には驚くだろうなぁ、と思います。
本書で描かれていることも、なるほど、と感じられるものもあれば、そういう見方もあるのか、と感じられるものもあり、あるいは、それについては僕自身は興味がないなぁ、というものももちろんあるわけなんだけど、基本的にやっぱり、森博嗣の思考には共感できる部分が多いし、自分もナチュラルにそういう風に思考出来る人間になりたいものだ、と思うものが多いです。
どの作品(小説を含めてもそうだけど、基本的にエッセイを指しているつもり)でもそうだけど、森博嗣は、常識や慣習にナチュラルに疑問を抱く。何故そうなのか、何故そうしなくてはいけないのか。多くの人は、その疑問を感じることがない。その疑問を抱かない方が、つまり、常識や慣習に唯々諾々と従っている方が、楽だと知っているのだ。
僕はどちらかといえば、疑問を抱いてしまう方だ。もちろん、森博嗣ほどではない。僕も常識や慣習に流されている部分はたくさんあるだろう。とはいえ、そういう感じだから、生きづらさを感じるのだろうと思う。森博嗣ほど能力があれば、常識や慣習に疑問を抱いても、そう強い生きづらさを感じずに済むのかもしれないなぁ、とか思ったり。あるいは、ただ単純に年齢や環境の問題、というのも大きいかもしれないけど。
個人的には、森博嗣のような思考の人が増えてくれると僕は生きやすいのに、と思う。世の中はもっと、森博嗣の思考のような、合理的な判断で回って欲しい、と感じてしまう。世の中は、そうなってはいない。余計なものがたくさんくっついてくる。山とかを歩いていると、服に何か植物がついているようなことがあるけど(なんて植物なのか知らないけど、そういうやつありますよね?)、それに近い。知らぬ間にくっついている。僕は、気づけば取るようにしているけど、たぶん気づいていないものも多いはずだ。森博嗣はきっと、そういう服についてしまうような植物に全部気づき、そして、服についたそれをどうやって取るかという思考よりも、それが服につかないようにするにどうすればいいか、というようなことをずっと考えているような人である(あくまで僕のイメージですけど)。
そういう人が増えてくれれば、つまり、余計なものをそぎ落とすためにどうしたらいいか、というような方向性の人が増えてくれれば、僕自身はきっともっと生きやすくなると思う。余分なものがたくさんある方が、経済はうまく回るんだろうし、それによって恩恵を受けられる人もきっとたくさんいるのだろう。僕は、そういう部分には強く興味を持てないから、もう少し余分なものが世の中から減ってくれたらいいのにな、といつも思っている。
森博嗣の言っていることは、少なくとも僕にとっては、赤道直下の国でコートを着ている人に『何でそんなもの着ているの?』、と聞くようなものに近い。つまり、凄く当たり前のことを言っているように感じられる。もちろん全部ではない。自分がこれまで考えたことがなかったような方向性の思考ももちろんたくさんある。でも、すげぇ当たり前だよな、と感じられるものも非常に多い。
赤道直下の国でコートを着ている人からすれば、『みんなが着てるから』とか『そうするのが普通だから』とか、あるいは『それがルールだから』なんていう答えを返す人もいるかもしれない。赤道直下でコートを着ることが『普通だ』と思えない人には、その人の言っていることは理解出来ない。恐らく森博嗣が世間を眺める視点は、こういう位置にあるのではないだろうか、と思う。恐らく、実に多くの人間がおかしなことをしている、そんな風に見えているんだろうなぁ。僕も、たまにそう思うことはある。森博嗣のように、なんでもかんでもそういう視点から見えてしまうというのも、ある意味では羨ましい。でも、それはそれで相当の『覚悟』みたいなものが必要とされるんじゃないかなぁ、という気もする。僕は、森博嗣は天才だと思っているのだけど、その天才さは、一般の人からすれば『覚悟』が必要としか思えない場所に、飄々と(あるいはそう見えるように)座っているからだったりするのかなぁ、という気もする。わからないけれど。まあ森博嗣からすれば、こうやって森博嗣のことを分析しようとしている人間は、ゴミでしかないんだろうなぁ。いや、僕はそれでいいんですけど。
いつものように、内容を抜書きしてあーだこーだ書こうと思うのだけど、ちょっと躊躇してしまう。それは、本文中に、
『評論家口調で、「これはおすすめできない」と書いている人は、自分がすすめるも
のにどれくらいの自信があるのだろう。どの程度の責任を感じているだろう。おそら
く、なにも考えていないにちがいない。それゆえ、無害といえば無害である。』
『偉い人の話を聞いて、それをそのままブログに引用しても、これっぽっちも偉さには近づけない。』
というような記述があるからだ。
いや、別に、本の内容をブログに書くことについては、以前から森博嗣は不快感(と表現していい感覚なのかは不明だけど)を示していた。僕も、別にそれを知った上でブログで感想を書いているし、抜き書きもしてきた。だから、本書だけ躊躇する、というのは、少なくとも僕も理屈には合わない。だからまあいつも通りやるんだけど、まあでも、先に引用した二つについても、言っていることは非常に共感できてしまうんで厄介なんですよね。
さて、本書には、電子書籍や書店に触れた部分がある。
『いよいよ、印刷された書籍は出る幕がなくなってしまう。こうなることは、二十年もまえから予測されていたことで、今さらそれがどうだ、という議論はしたくないけれど、ようやく大衆が移り始めた感じは見える。書籍が書店で売られるシステムをもっと合理化していれば、まだまだ存続の可能性はあっただろうけれど、残念ながら、時既に遅しとなった。』
『売れない商品、売れ残り商品を沢山並べている店、それが書店である。』
書店で働いている者としては反論したい部分もあったりするのだけど、でもそう見られているということは自覚すべきである。結局のところ、書店がなくなって困るのは、書店で働いている人間だけなのかもしれない。もちろん、書店で働いている者としては、そうではないと信じたいところだけど、でも今のままだと、書店はちょっとどうにもならない。既に王手をかけられている状態、と言ってもいいだろうと思う。森博嗣の予測はきっと当たるのだろう。少なくとも、何かとんでもないパラダイムシフトでも起こらない限りは。そして、そんなパラダイムシフトが起こりそうな予感は、少なくとも僕には感じられない。
僕はこれからも書店で働く者として、自分が信じる方向に精一杯努力をするつもりだけど、しかし悲観的な感覚は決してなくなることはないだろうなと思う。
物を売る立場の人間として、面白い話もあった。
『世の中には、一流よりも二流の方が圧倒的に多い。二流の感性の受け手は、一流よ
りも二流の作品の方に安心する。みんなも良いと言う。だから、それが良いものの典
型にある。』
『近頃の傾向として、易しくて理解できるものを好む、軟らかくて食べやすいものだけを好きになる、というのがある。そんな気がするだけだろうか。』
『良い品物だから売れる、欲しいものだから買う、というメカニズムは
むしろマイナ。』
物を売る立場の人間としては、売れるものは何でも売らなくてはいけない。しかしその一方で、売れていくものが決して質の高いものであるわけではない、という感覚は常にある。
僕個人としては、良い物をたくさん売ることで、より良い物が生まれやすい環境を生み出せたら、あるいは、良い物をたくさん売ることで、良い物を見分ける力を学べる環境を生み出せたら、と思っているのだけど、なかなかそうはいかない。作中で森博嗣も、良い物はそんなに売れない、と書いている。これは、僕の実感とも一致する。なかなか難しい。そこそこのものばかりが売れていく世の中で、どうして良い物を作ろうという人が出てくるだろう。一応断っておくけれども、僕自身が少なくとも本に関しては良い物を見分ける力が普通の人よりはあるよ、なんてことを主張したいわけでは全然ないのですよ。
仕事といえば、こんなフレーズもある。
『作業に取りかかる以前に、ほとんどの仕事のグレードは決まっている。』
このフレーズ自体は、特別新鮮なわけではないけど、でもこれを、ペンキ塗りの話から導き出すという補足の話は非常に面白いと思う。
また、こんな思考もある。
『一般に、自由人と呼ばれるような人は、不自由を我慢する能力がなく、我慢ができないからなんとか自由になろうとする。そのうち、比較的能力がない人は、犯罪者になる。残りの比較的能力のある人は、社会で成功する。』
非常にスマートにまとめるなぁ、という感じがしました。僕は、不自由を我慢する能力がまったくない人間だけど、能力はそう高いわけではないから、いつしか犯罪を犯すかもしれない。これは謙遜とかではなくて、自分が犯罪を犯すかもしれない可能性というのは、考えているのだ。それぐらい、不自由に対する耐性がない。今はたまたまラッキーなことに、不自由さをほとんど感じずにいられる環境なのだけど、それが様々な偶然によって成り立っているということもちゃんと知っている。環境が少しでも変われば、僕はどうなるかわからない。
自由については、こんなフレーズもある。
『「自由なんていらないよ」という人にかぎって、金だけは欲しがる。』
これは、この文章だけだと、どんな状況を説明しているのかちょっとわからないかもしれない(僕は分からなかった)。でも、補足を読むと、なるほど、と思わされる。森博嗣は大学の助教授という職を去って以降、さらに人に会わなくなる生活をしているようなんだけど、個人ブログを見ている、というような記述があった。恐らくそういうところからの観察もあるのだろうな。森博嗣の周囲の観察力は高いよなぁ、といつも思う。
森博嗣と考え方が近くて、嬉しいなぁ、と思うような思考も多い。
『国を愛することは、具体的にどのような心理なのか、僕は今一つ理解できない。僕は、故郷を愛したり、どこかの地域を贔屓にしたりといった経験がない。「先祖」というものが何かも、またそれに縛られる思想も理解できない。人が創り出した文化、つまり伝統は大事だと思うが、それがその「場所」にあるとは思わないのだ。高校野球で、自分の県の高校を応援する気持ちが僕にはまったくわからない。説明してもらったことはあるけれど、まったくこれっぽっちも納得できなかった。』
『僕の場合、眠ることや食べることが人生の目的だとは考えていない。生きるために
は、眠ること食べることが必要だから、ある意味では「しかたなく」寝ているし食べ
ている、という感じがしている。』
『親の死に目にあえないことの何が問題なのだろう?』
『子供は自由だというが、大人ほどではない。』
『死というものが、これほど特別視されるのは、やはり「いつ訪れるか」がわからな
いからだろう。生きられる時間が決まっていれば、死はもっと日常のものになってい
たはずだし、死を迎えるための方法も確立されていたのではないか。最期の日は、少
なくとも誕生日以上のイベントになっていたはずだ。』
こういう思考は、周りの人間に通じることもあるし、通じないこともあるけど、僕にとってはどれも普通のことで、そうではない風に考えられる方が不思議だなぁ、と思うこともある。
まあそろそろ、具体的な引用はやめようかな。
森博嗣の思考に触れると、自分の甘さとか弱さとかに気付かされる。でも、もうそれでもいいか、という感覚も出てきてしまう。森博嗣のようにはなれないよなぁ、と思ってしまうのだ。自分の本分に沿って生きればいいか、と思う。別に森博嗣は、僕に何かを強制させようとはしない。けど、森博嗣のような思考・生き方に触れると、なんとなく自分のダメさ加減が怖くなる。けど、もう諦めよう。速やかに諦めよう。
というわけで、受け取る人次第でしょうけど、僕にとってはやはり森博嗣の思考は、心地いいと同時にざわざわさせられる、そういうものです。森博嗣の思考に触れると、自分がどれだけ多くのものに縛られ、そしてそれが不自由さを生み出しているのか、ということに気づくのではないか、と思います。是非読んでみてください。
森博嗣「つぶやきのクリーム」
伊藤Pのモヤモヤ仕事術(伊藤隆行)
内容に入ろうと思います。
本書は、「モヤモヤさまぁ〜ず2」「やりすぎコージー」などの人気番組を手がけるテレビ東京のプロデューサーで、
「モヤさま」で呼ばれるようになった「伊藤P」という呼称で親しまれている著者による、自身の仕事術について書いた本です。
本書はまず初めの章で、万年最下位のテレビ局であるテレ東という環境が自分にどんな影響を与えたのか、という話が出てきます。僕はここの部分が一番好きだったんですけど、詳しいことは後で書きましょう。
それから、プロデューサーというのは結局何をする人で、どんな部分に気を配らなくてはならないのか、企画はどんな風に考えてどうそれを上に通すのか、またそもそもプロデューサーである前にサラリーマンである自分は、サラリーマンとしてどうあるべきで、どんな風にやってきたのか、ということなどを、自身が手がけてきたあるいは関わってきた番組の話なんかを織りまぜながら書いている作品です。
それと同時に、さまぁ〜ずの二人、テレ東のアナウンサーである大江アナ、大橋アナ、構成作家の北本かつら、新入社員当時の上司である近藤さんによる寄稿もある、という構成です。なんと巻末には、伊藤Pの奥さんまで文章を寄せているという豪華版(?)です。
さて、内容については後でおいおい触れるとして、本書を読んだ感想を率直に書こうと思います。
本書には、正直に言って、さほど大したことは書いていないな、と感じました。
でも同時に、本書を読めば読むほど、この人と一緒に仕事したい!!!と思わされました。
これが僕の正直な感想です。こういうタイプの本って、凄く珍しい気がします。この、『この人と一緒に仕事したい!!!』という感覚こそが本書の真髄であって、読むべき価値がある、と思いました。
例えば比較として、僕が大好きな作家である森博嗣のことを引き合いにだしてみようと思います。
僕は、森博嗣という作家が非常に好きです。小説も大好きですが、エッセイなどでその思考に触れられることも凄く好きだったりします。森博嗣は、凡人と同レベルでは語れないほどの高みにいる、と僕が感じられる人で、その思考の断片は、僕の感覚を凄く素敵なところにまで連れて行ってくれます。研ぎ澄まされた、鋭さをギリギリまで隠したような思考や言葉には、快感さえ覚えます。
ただ、じゃあ森博嗣その人に会ってみたいかというと、そういうわけでもありません。もちろん、森博嗣の思考に触れることが出来るなら会ってみたい。でも、僕の印象では、森博嗣は興味のない対象には開かないだろうし(鉄道や模型など、自身の興味のある対象に関わる人に対しては開くのだろうけど)、であれば会ったところでその思考に触れることは出来ないだろうなぁ、と思ってしまうのです。森博嗣と遜色のない天才であれば向きあって話が出来るかもしれないけど、自分がそうではないことは知ってるし。
だから、森博嗣の場合、書かれている言葉や思考は凄いと思うし、それに浸りたいと感じるのだけど、直接会ってみたいとか、一緒に何かをやりたい、という感じにはならないんですね。
一方伊藤Pは、書いていることは平凡です。もちろん伊藤Pには、様々な番組を成功させてきたという実績があるからこそ、その平凡さは『究極の平凡さ』なのだと分かります。ここで僕がいう『究極の平凡さ』というのは、様々にあれこれ考え続けてきた結果、最終的に辿りついた結論が平凡なものだった、というものであって、それ自体に価値がないなんて風に思っているわけではありません。組織の中で様々な経験をし、誰も進んでいない道をひたすら進み続ける人間が言う『平凡さ』には、平凡な人間がただ口にするだけの『平凡さ』とはかけ離れた価値があると思います。
それでも、やっぱり言っていることは平凡で、書かれている言葉そのものに強く反応する、ということはありませんでした。
でも、読めば読むほど、伊藤Pに会いたくなる。この感覚は、小説やエッセイを読んでて頻繁に感じるものではない。作品と著者を切り離して考える僕は、作品がよくても著者自身にはそこまで強く関心を持てない、ということはよくある。ましてこの作品は、書かれている内容自体は平凡なのだ。なのに、伊藤Pにどうしようもなく会いたくなるし、一緒にお酒とか飲みたいなぁという感じがするし、この人と何か一緒に仕事をしてみたい、という感覚になる。
僕は人生の中で、この人と何か一緒に出来たら面白いだろうな、と感じられた人が数人いる。直接知っている人もいれば、名前だけ知っている人もいるけども、僕を問答無用で惹きつけ、その人と一緒に仕事をしている人が羨ましくて仕方がない、という人がいる。僕の中で伊藤Pも、その中の一人に入りました。本書の中で、確か大江アナだったと思うけど、伊藤Pは人たらしです、みたいなことを書いてたんですけど、ホントその通りだと思うし、本書もまさに『人たらしの本』だと思いました。読むだけでその人と一緒に仕事をしたくなる本なんて、そう多くはないですよね!
僕が本書を読んで一番好きだったのが、第一章の『最下位局・テレビ東京で育って』です。ここで書かれていることは、なんとなく自分にも当てはまるような部分があって凄く納得出来たし、共感できる気がしました。
テレビ東京は、47年間連続で、視聴率最下位の局です。それには様々な理由があるけども、局の事情でテレ東には出演しないとなってしまった芸能人が結構いるとか、番組の制作費が他局の十分の一ぐらいしかないなど、どうにも仕方のない部分が付きまといます。
その中で伊藤Pは、『TBSを超えよう、日本テレビに勝ってやる、という考えそのものは空虚です。「どうやって勝つか」がないかぎり、やたら勝ちを目指してもしょうがない。』と言います。
勝ち方を考える、という言い方を本書の中でよく伊藤Pが使いますが、これは最下位だからこそ発想できたことでしょう。これが、例えば2位とか3位なら、「何がなんでも1位になるぞ」となったはずです。それ自体は悪くないと思います。でも僕は、そういうのがあまり好きになれない。数字で負けていても、別の基準で勝っている。それは、ただの自己満足に過ぎないかもしれない。でも、数字だけで物事を判断してしまう/されてしまうことがあまり好きではない僕は、この『勝ち方を考える』という発想が凄く好きです。
僕も、最下位とは言わないまでも、そういう底辺のレベルからスタートして、今もそのレベルにいる人間です。
僕が本屋で働いていて、文庫と新書の売り場を任されているんですけど、僕がいつ店は、大手チェーンでもないし、店自体が凄く広いわけでもない。元々知名度があったわけでもないし、優秀なスタッフがいたわけでもない。僕は、今働いている店で初めて書店員になったので、書店のイロハはまったくわからない。それなのに、書店の仕事をまともに教えられるような人間は誰一人いなかった。基本的にやる気のない担当者ばかりで、売り場は基本的にどこも死んでいる。売上を伸ばそうという関心を持つ社員は誰一人いない。
そういうところから僕の書店員人生は始まりました。最下位とは言わないまでも、決して良いと言える環境ではありません。
でも僕は、そこがスタート地点だったことに、今では感謝しています。
僕は今、『定石』を無視した売り場を作っている、と自分では思っています。書店には、こういう場合はこうすべきだ、というような、囲碁・将棋でいうところの定石がたくさんあるはずです。ただ僕はそれを全然知らない。誰も僕にそんなことを教えてくれなかったのです。だから、全部(とは言い過ぎかもだけど)自分で考えた。どういう売り場であればお客さんに楽しいと思ってもらえるか、また来たいと思ってもらえるか、あそこだったら面白い本があるかもしれないと思ってもらえるか。そういうことをあーだこーだ考えて、色々実行して、それで今に至っています。
その過程で、普通の書店ではありえないだろうことを様々にやってきました。失敗したものもありますが、今でも継続しているものもあります。ウチの店に他店の書店員の人が来ると、こんなやり方初めて見たと言われて僕がびっくりすることもあったりします。
僕は、自分のやり方が正しいのか、ずっと不安です。もしかしたら、『定石』通りに売り場を作る方がより売上が上がるのかもしれない。でも僕には、その『定石』がどうしても正しいと思えないものが多い。どうしてそんな風にしているのか疑問に感じることが多い。これは、その『定石』をまるで知らなかったからこそ出来た発想だろうと思うんです。もちろん、自分の今のやり方が大間違いである可能性だってある。それを判断する基準が売上なのかもだけど、数字だけで判断されてしまうのもなんか嫌だ。もちろん数字は大事だけど、伊藤Pが言っているように、視聴率で勝てなくたって別の視点での勝ちを追い求めたっていいのではないか、と思ってしまう。
伊藤Pはこんなことを書いている。
『もし視聴率を15%獲ろうとなったら、ターゲットをそこまで絞らず、いろんな人を巻き込む考えを持ち込まないといけません。でも万人受けを狙うと、熱を持って支持してくれる固定ファンを取りこぼしてしまう危険性がある。どちらを選ぶか?僕の番組にあるのは、もちろん「好きな人だけ見てくれればいい」という方法論です。』
僕はさすがに、『好きな人だけ来てくれればいい』なんてことは言えませんが、本書の中で僕が一番共感したのがこの部分です。
僕は今、どこの書店も、視聴率15%を狙って売場作りをしているように感じてしまう。もちろん、そうじゃない書店だってたくさんあるだろうけど、大多数の書店はそうではないかと思う。
僕は、視聴率15%を狙う書店の数は、もっともっと少なくていい、と思っているんです。みんなが同じ本を売って、売れている本ばっかり売れてしまう、という今の現状が、僕は正直怖い。僕は、『書店は、お客さんが本を選ぶ力を養う場を与えなくてはならない』ということをずっと考えて売場作りをしてきたつもりなんだけど(だって、リアル書店にしか持ちえない存在価値って、もうそれぐらいしかないんじゃないかと思ってるんです)、今の流れは、『お客さんから考える力をいかに奪うか』となってしまっているように思うんです(さすがにこれは言い過ぎかもだけど)。
もちろんそれは、書店というのは薄利多売で、かつ超斜陽産業であるという事実を無視しては考えられないことで、とにかく売上をガツガツ獲っていかないと店自体の存続が危うい、という事情があるから仕方のないことだとは思う。でもなぁ、と僕は思ってしまうのだ。
もっと、視聴率5%を目指す書店が乱立していいと思う。お客さんは、どの書店に行くか、というところから選択を始める。視聴率5%でいいなら、15%を目指すより、より個性を強く出来るし、尖ることも出来る。本書には、『ガイアの夜明け』を立ち上げたプロデューサーの言葉として、『テレ東はお客さんを差別するべき』という言葉が出てくるんだけど、テレビ局や書店に限らず、もっとそういう方向性があってもいいんじゃないかな、と感じる部分は結構あったりする。
みんなが視聴率5%を目指す売り場を作るのはそれはそれで困る。でも、みんなが視聴率15%の売り場を作るのもそれはそれで困ると思う。で、今は、視聴率15%を目指している書店が多すぎるんじゃないかな、と僕は思っている。なんか知り合いの書店員の人が読んだら色んな反論をぶつけられそうな文章を書いてみたけど、ずっと考えていたことを書いてみました。
本書では、帯にも書いてあるんだけど、『1%の天才』というフレーズが出てくる。正確に引用するとこうです。
『自分の才能が100%だとしたら、99%は凡人。でも、1%はものすごい天才だ』
で、その1%の天才を心の底から信じて仕事をしなさい、ということです。
僕の1%ってなんだろうって考えると、僕が自信を持って人に言えることは、『長い感想文をほぼ毎日のように書ける』ということかな、と思います。僕はそれ以外の部分については、まるで自信がない。感想文にしたって、良い文章を書けていると思えることなんてほとんどなくて、ただ量を書いているだけという自覚がある。でも、毎日のようにこんだけの分量の文章を書ける俺って凄くね?とは思ってる。その部分があるからこそ、本の良し悪しを独断して売り場で勧めることが出来るし(人に本を勧めるって行為は、凄く怖いんですよ)、自分のやっている仕事にも多少なりとも意味を見つけられるかな、という気はしている。たぶん、この自分の中の1%を信じることが出来なくなったら(具体的に言えば、長い文章を書けなくなったら)、怖くて書店員の仕事なんて出来なくなるんじゃないか、と思っている。
本書には、僕の大好きなテレビ番組である「モヤさま」の裏話的な話も載ってて面白い。僕は今もうほとんどテレビは見てなくて、心の底から見たいと思える番組はホントに「モヤさま」ぐらいしかない。この番組の空気感がホントに好きで、ずっと見てしまう。
「モヤさま」に興味のない人には意味がわからないだろうから、具体的にあーだこーだ書くことはしないけど、本書に出てくる「モヤさま」の色んな裏話を読んでいると、伊藤Pだからこそ、あの番組の空気感をずっと長いこと継続させられているんだろうな、と思いました。ホント、伊藤Pと仕事が出来る人は幸せだと思います。
本書は、誰がどう読むかで色んな捉え方があるんだろうけど、僕はPOPのフレーズとして、「最下位の仕事術」っていうのを思いつきました。万年最下位の立ち位置にいたからこその発想と、それを膨らませ続けたことでどうなっていったのか、という話だと思いました。
冒頭でも書きましたけど、本書を読むと、伊藤Pに会ったり一緒に仕事をしたくなったりすると思います。そういう魅惑的な作品です。自分が上司であれば、伊藤Pのような立ち位置を目指そうと思ってもらえたらいいし(本書で伊藤Pは、『人の上に立つものは、媒介であれ』と言っています)、自分がまだ部下の立場であれば、こういう上司をなんとしてでも探しだそう!というモチベーションになってくれたらいいなと思います。是非読んでみてください。
伊藤隆行「伊藤Pのモヤモヤ仕事術」
本書は、「モヤモヤさまぁ〜ず2」「やりすぎコージー」などの人気番組を手がけるテレビ東京のプロデューサーで、
「モヤさま」で呼ばれるようになった「伊藤P」という呼称で親しまれている著者による、自身の仕事術について書いた本です。
本書はまず初めの章で、万年最下位のテレビ局であるテレ東という環境が自分にどんな影響を与えたのか、という話が出てきます。僕はここの部分が一番好きだったんですけど、詳しいことは後で書きましょう。
それから、プロデューサーというのは結局何をする人で、どんな部分に気を配らなくてはならないのか、企画はどんな風に考えてどうそれを上に通すのか、またそもそもプロデューサーである前にサラリーマンである自分は、サラリーマンとしてどうあるべきで、どんな風にやってきたのか、ということなどを、自身が手がけてきたあるいは関わってきた番組の話なんかを織りまぜながら書いている作品です。
それと同時に、さまぁ〜ずの二人、テレ東のアナウンサーである大江アナ、大橋アナ、構成作家の北本かつら、新入社員当時の上司である近藤さんによる寄稿もある、という構成です。なんと巻末には、伊藤Pの奥さんまで文章を寄せているという豪華版(?)です。
さて、内容については後でおいおい触れるとして、本書を読んだ感想を率直に書こうと思います。
本書には、正直に言って、さほど大したことは書いていないな、と感じました。
でも同時に、本書を読めば読むほど、この人と一緒に仕事したい!!!と思わされました。
これが僕の正直な感想です。こういうタイプの本って、凄く珍しい気がします。この、『この人と一緒に仕事したい!!!』という感覚こそが本書の真髄であって、読むべき価値がある、と思いました。
例えば比較として、僕が大好きな作家である森博嗣のことを引き合いにだしてみようと思います。
僕は、森博嗣という作家が非常に好きです。小説も大好きですが、エッセイなどでその思考に触れられることも凄く好きだったりします。森博嗣は、凡人と同レベルでは語れないほどの高みにいる、と僕が感じられる人で、その思考の断片は、僕の感覚を凄く素敵なところにまで連れて行ってくれます。研ぎ澄まされた、鋭さをギリギリまで隠したような思考や言葉には、快感さえ覚えます。
ただ、じゃあ森博嗣その人に会ってみたいかというと、そういうわけでもありません。もちろん、森博嗣の思考に触れることが出来るなら会ってみたい。でも、僕の印象では、森博嗣は興味のない対象には開かないだろうし(鉄道や模型など、自身の興味のある対象に関わる人に対しては開くのだろうけど)、であれば会ったところでその思考に触れることは出来ないだろうなぁ、と思ってしまうのです。森博嗣と遜色のない天才であれば向きあって話が出来るかもしれないけど、自分がそうではないことは知ってるし。
だから、森博嗣の場合、書かれている言葉や思考は凄いと思うし、それに浸りたいと感じるのだけど、直接会ってみたいとか、一緒に何かをやりたい、という感じにはならないんですね。
一方伊藤Pは、書いていることは平凡です。もちろん伊藤Pには、様々な番組を成功させてきたという実績があるからこそ、その平凡さは『究極の平凡さ』なのだと分かります。ここで僕がいう『究極の平凡さ』というのは、様々にあれこれ考え続けてきた結果、最終的に辿りついた結論が平凡なものだった、というものであって、それ自体に価値がないなんて風に思っているわけではありません。組織の中で様々な経験をし、誰も進んでいない道をひたすら進み続ける人間が言う『平凡さ』には、平凡な人間がただ口にするだけの『平凡さ』とはかけ離れた価値があると思います。
それでも、やっぱり言っていることは平凡で、書かれている言葉そのものに強く反応する、ということはありませんでした。
でも、読めば読むほど、伊藤Pに会いたくなる。この感覚は、小説やエッセイを読んでて頻繁に感じるものではない。作品と著者を切り離して考える僕は、作品がよくても著者自身にはそこまで強く関心を持てない、ということはよくある。ましてこの作品は、書かれている内容自体は平凡なのだ。なのに、伊藤Pにどうしようもなく会いたくなるし、一緒にお酒とか飲みたいなぁという感じがするし、この人と何か一緒に仕事をしてみたい、という感覚になる。
僕は人生の中で、この人と何か一緒に出来たら面白いだろうな、と感じられた人が数人いる。直接知っている人もいれば、名前だけ知っている人もいるけども、僕を問答無用で惹きつけ、その人と一緒に仕事をしている人が羨ましくて仕方がない、という人がいる。僕の中で伊藤Pも、その中の一人に入りました。本書の中で、確か大江アナだったと思うけど、伊藤Pは人たらしです、みたいなことを書いてたんですけど、ホントその通りだと思うし、本書もまさに『人たらしの本』だと思いました。読むだけでその人と一緒に仕事をしたくなる本なんて、そう多くはないですよね!
僕が本書を読んで一番好きだったのが、第一章の『最下位局・テレビ東京で育って』です。ここで書かれていることは、なんとなく自分にも当てはまるような部分があって凄く納得出来たし、共感できる気がしました。
テレビ東京は、47年間連続で、視聴率最下位の局です。それには様々な理由があるけども、局の事情でテレ東には出演しないとなってしまった芸能人が結構いるとか、番組の制作費が他局の十分の一ぐらいしかないなど、どうにも仕方のない部分が付きまといます。
その中で伊藤Pは、『TBSを超えよう、日本テレビに勝ってやる、という考えそのものは空虚です。「どうやって勝つか」がないかぎり、やたら勝ちを目指してもしょうがない。』と言います。
勝ち方を考える、という言い方を本書の中でよく伊藤Pが使いますが、これは最下位だからこそ発想できたことでしょう。これが、例えば2位とか3位なら、「何がなんでも1位になるぞ」となったはずです。それ自体は悪くないと思います。でも僕は、そういうのがあまり好きになれない。数字で負けていても、別の基準で勝っている。それは、ただの自己満足に過ぎないかもしれない。でも、数字だけで物事を判断してしまう/されてしまうことがあまり好きではない僕は、この『勝ち方を考える』という発想が凄く好きです。
僕も、最下位とは言わないまでも、そういう底辺のレベルからスタートして、今もそのレベルにいる人間です。
僕が本屋で働いていて、文庫と新書の売り場を任されているんですけど、僕がいつ店は、大手チェーンでもないし、店自体が凄く広いわけでもない。元々知名度があったわけでもないし、優秀なスタッフがいたわけでもない。僕は、今働いている店で初めて書店員になったので、書店のイロハはまったくわからない。それなのに、書店の仕事をまともに教えられるような人間は誰一人いなかった。基本的にやる気のない担当者ばかりで、売り場は基本的にどこも死んでいる。売上を伸ばそうという関心を持つ社員は誰一人いない。
そういうところから僕の書店員人生は始まりました。最下位とは言わないまでも、決して良いと言える環境ではありません。
でも僕は、そこがスタート地点だったことに、今では感謝しています。
僕は今、『定石』を無視した売り場を作っている、と自分では思っています。書店には、こういう場合はこうすべきだ、というような、囲碁・将棋でいうところの定石がたくさんあるはずです。ただ僕はそれを全然知らない。誰も僕にそんなことを教えてくれなかったのです。だから、全部(とは言い過ぎかもだけど)自分で考えた。どういう売り場であればお客さんに楽しいと思ってもらえるか、また来たいと思ってもらえるか、あそこだったら面白い本があるかもしれないと思ってもらえるか。そういうことをあーだこーだ考えて、色々実行して、それで今に至っています。
その過程で、普通の書店ではありえないだろうことを様々にやってきました。失敗したものもありますが、今でも継続しているものもあります。ウチの店に他店の書店員の人が来ると、こんなやり方初めて見たと言われて僕がびっくりすることもあったりします。
僕は、自分のやり方が正しいのか、ずっと不安です。もしかしたら、『定石』通りに売り場を作る方がより売上が上がるのかもしれない。でも僕には、その『定石』がどうしても正しいと思えないものが多い。どうしてそんな風にしているのか疑問に感じることが多い。これは、その『定石』をまるで知らなかったからこそ出来た発想だろうと思うんです。もちろん、自分の今のやり方が大間違いである可能性だってある。それを判断する基準が売上なのかもだけど、数字だけで判断されてしまうのもなんか嫌だ。もちろん数字は大事だけど、伊藤Pが言っているように、視聴率で勝てなくたって別の視点での勝ちを追い求めたっていいのではないか、と思ってしまう。
伊藤Pはこんなことを書いている。
『もし視聴率を15%獲ろうとなったら、ターゲットをそこまで絞らず、いろんな人を巻き込む考えを持ち込まないといけません。でも万人受けを狙うと、熱を持って支持してくれる固定ファンを取りこぼしてしまう危険性がある。どちらを選ぶか?僕の番組にあるのは、もちろん「好きな人だけ見てくれればいい」という方法論です。』
僕はさすがに、『好きな人だけ来てくれればいい』なんてことは言えませんが、本書の中で僕が一番共感したのがこの部分です。
僕は今、どこの書店も、視聴率15%を狙って売場作りをしているように感じてしまう。もちろん、そうじゃない書店だってたくさんあるだろうけど、大多数の書店はそうではないかと思う。
僕は、視聴率15%を狙う書店の数は、もっともっと少なくていい、と思っているんです。みんなが同じ本を売って、売れている本ばっかり売れてしまう、という今の現状が、僕は正直怖い。僕は、『書店は、お客さんが本を選ぶ力を養う場を与えなくてはならない』ということをずっと考えて売場作りをしてきたつもりなんだけど(だって、リアル書店にしか持ちえない存在価値って、もうそれぐらいしかないんじゃないかと思ってるんです)、今の流れは、『お客さんから考える力をいかに奪うか』となってしまっているように思うんです(さすがにこれは言い過ぎかもだけど)。
もちろんそれは、書店というのは薄利多売で、かつ超斜陽産業であるという事実を無視しては考えられないことで、とにかく売上をガツガツ獲っていかないと店自体の存続が危うい、という事情があるから仕方のないことだとは思う。でもなぁ、と僕は思ってしまうのだ。
もっと、視聴率5%を目指す書店が乱立していいと思う。お客さんは、どの書店に行くか、というところから選択を始める。視聴率5%でいいなら、15%を目指すより、より個性を強く出来るし、尖ることも出来る。本書には、『ガイアの夜明け』を立ち上げたプロデューサーの言葉として、『テレ東はお客さんを差別するべき』という言葉が出てくるんだけど、テレビ局や書店に限らず、もっとそういう方向性があってもいいんじゃないかな、と感じる部分は結構あったりする。
みんなが視聴率5%を目指す売り場を作るのはそれはそれで困る。でも、みんなが視聴率15%の売り場を作るのもそれはそれで困ると思う。で、今は、視聴率15%を目指している書店が多すぎるんじゃないかな、と僕は思っている。なんか知り合いの書店員の人が読んだら色んな反論をぶつけられそうな文章を書いてみたけど、ずっと考えていたことを書いてみました。
本書では、帯にも書いてあるんだけど、『1%の天才』というフレーズが出てくる。正確に引用するとこうです。
『自分の才能が100%だとしたら、99%は凡人。でも、1%はものすごい天才だ』
で、その1%の天才を心の底から信じて仕事をしなさい、ということです。
僕の1%ってなんだろうって考えると、僕が自信を持って人に言えることは、『長い感想文をほぼ毎日のように書ける』ということかな、と思います。僕はそれ以外の部分については、まるで自信がない。感想文にしたって、良い文章を書けていると思えることなんてほとんどなくて、ただ量を書いているだけという自覚がある。でも、毎日のようにこんだけの分量の文章を書ける俺って凄くね?とは思ってる。その部分があるからこそ、本の良し悪しを独断して売り場で勧めることが出来るし(人に本を勧めるって行為は、凄く怖いんですよ)、自分のやっている仕事にも多少なりとも意味を見つけられるかな、という気はしている。たぶん、この自分の中の1%を信じることが出来なくなったら(具体的に言えば、長い文章を書けなくなったら)、怖くて書店員の仕事なんて出来なくなるんじゃないか、と思っている。
本書には、僕の大好きなテレビ番組である「モヤさま」の裏話的な話も載ってて面白い。僕は今もうほとんどテレビは見てなくて、心の底から見たいと思える番組はホントに「モヤさま」ぐらいしかない。この番組の空気感がホントに好きで、ずっと見てしまう。
「モヤさま」に興味のない人には意味がわからないだろうから、具体的にあーだこーだ書くことはしないけど、本書に出てくる「モヤさま」の色んな裏話を読んでいると、伊藤Pだからこそ、あの番組の空気感をずっと長いこと継続させられているんだろうな、と思いました。ホント、伊藤Pと仕事が出来る人は幸せだと思います。
本書は、誰がどう読むかで色んな捉え方があるんだろうけど、僕はPOPのフレーズとして、「最下位の仕事術」っていうのを思いつきました。万年最下位の立ち位置にいたからこその発想と、それを膨らませ続けたことでどうなっていったのか、という話だと思いました。
冒頭でも書きましたけど、本書を読むと、伊藤Pに会ったり一緒に仕事をしたくなったりすると思います。そういう魅惑的な作品です。自分が上司であれば、伊藤Pのような立ち位置を目指そうと思ってもらえたらいいし(本書で伊藤Pは、『人の上に立つものは、媒介であれ』と言っています)、自分がまだ部下の立場であれば、こういう上司をなんとしてでも探しだそう!というモチベーションになってくれたらいいなと思います。是非読んでみてください。
伊藤隆行「伊藤Pのモヤモヤ仕事術」
2011年09月18日
私たちが星座を盗んだ理由(北山猛邦)
内容に入ろうと思います。
本書は、5つの短編が収録された短篇集です。
「恋煩い」
アキはもう一年近く、ホームの向かい側で本を読んでいる一つ上の先輩に片想いをしている。
子どもの頃から仲の良かったトーコとシュン。アキはシュンに告白されたことがあったけど、アキにはシュンは合わないと思った。シュンはトーコと付き合ったらいい、とずっと思っているのだ。それからも、三人仲良く遊んでいる。
トーコがアキに、片想いが叶うといううわさ話を教えてくれた。普段はそんなことに耳を貸すことのないアキだが、今はどうしようもなく、そのおまじないにすがってしまっている…。
「妖精の学校」
目覚めると、白いワンピースのようなものを着せられた男女がたくさんいる島にいた。それまでの自分の名前をすっかり忘れてしまって、ヒバリという名前を与えられた。
クラス委員長のウミネコを初め、いろんな人から、この島での生活やルールを教えてもらった。僕達は、この島でクラスことで、いずれ妖精になるんだそうだ…。
「嘘つき紳士」
膨大な借金にまみれている俺は、ボロボロになった携帯電話を拾ったことで名案を思いついた。その携帯電話の持ち主だった男になりすまして、遠く離れた地にいる遠距離恋愛の相手に振り込め詐欺を働こうと思いついたのだ。
なんでもないメールのやり取りを繰り返す。俺も後から知ったことだが、携帯電話の持ち主は事故死していた。彼女はまだそのことを知らない。何も知らない女性を騙しているという罪悪感に押しつぶされそうになりながら、着々と準備を進める俺…
「終の童話」
そいつに触れると石化してしまう。そんな怪物が、貧しい村を襲った。
ウィミィを子どもの頃から面倒見てくれたエリナも、石化してしまった。ウィミィは、崖スレスレで石化してしまったエリナの元へと毎日通った。
村はどんどん変わっていった。様々なことが起こった。悲劇から十年以上だったある日、西の国から奇跡を運んでくる男が現れた…。
「私たちが星座を盗んだ理由」
十数年ぶりに再会した夕兄ちゃん。看護婦になっていた姫子は、子どもの頃、夕兄ちゃんがどうやって星座を消したのか、長年の謎を聞いてみることにした。
病弱だった姫子の姉に首飾りを贈ることにした夕兄ちゃんは、姫子の姉に、首飾り座が消えたと信じこませた。一体どうやって…。
というような話です。
まあまあ面白かった、という感じでしょうか。全体的に小粒な感じはしました。どうしても北山猛邦って作家は、派手な仕掛けを満載にする本格ミステリ作家、という印象が強くあるんで、小粒に思えてしまうのかもしれません。
「恋煩い」は、読み始めてすぐに、この設定ならこういう話が作れるなぁ、と思ったことがそのまま当たりました。まあ妥当な物語、という感じがします。ラストのオチは一番秀逸だと思いました。
「妖精の学校」は、ラストが不親切すぎてちょっと好きになれないかなぁ。これ、もう少しラストの提示の仕方を変えてくれたら、もう少し面白い印象の物語になったんじゃないかなぁ、と思うんだけど。
「嘘つき紳士」はなかなか巧く出来ていた気がします。どういう風に話が転がっていくのか分からない感じはありました。
「終の童話」は、本作中、ミステリとしては一番完成度が高いような気がしました。これ、もう少し細部を丁寧に書いて中編ぐらいの物語にしたら、もっといい作品になったんじゃないかな、という気もします。
「私たちが星座を盗んだ理由」は、ちょっとモヤモヤする感じはありました。僕があんまり星座に興味がないからでしょうか?
ファンタジックな設定の物語と、現実を舞台にした物語とか交互に出てくる感じで、多彩な感じはします。デビュー作以来の印象が強いからか、ファンタジックな作風の方がなんとなく著者に合っているような感じがします。
スルッと読むにはなかなかお手軽なミステリかな、という感じはします。興味がある方は読んでみてください。
北山猛邦「私たちが星座を盗んだ理由」
本書は、5つの短編が収録された短篇集です。
「恋煩い」
アキはもう一年近く、ホームの向かい側で本を読んでいる一つ上の先輩に片想いをしている。
子どもの頃から仲の良かったトーコとシュン。アキはシュンに告白されたことがあったけど、アキにはシュンは合わないと思った。シュンはトーコと付き合ったらいい、とずっと思っているのだ。それからも、三人仲良く遊んでいる。
トーコがアキに、片想いが叶うといううわさ話を教えてくれた。普段はそんなことに耳を貸すことのないアキだが、今はどうしようもなく、そのおまじないにすがってしまっている…。
「妖精の学校」
目覚めると、白いワンピースのようなものを着せられた男女がたくさんいる島にいた。それまでの自分の名前をすっかり忘れてしまって、ヒバリという名前を与えられた。
クラス委員長のウミネコを初め、いろんな人から、この島での生活やルールを教えてもらった。僕達は、この島でクラスことで、いずれ妖精になるんだそうだ…。
「嘘つき紳士」
膨大な借金にまみれている俺は、ボロボロになった携帯電話を拾ったことで名案を思いついた。その携帯電話の持ち主だった男になりすまして、遠く離れた地にいる遠距離恋愛の相手に振り込め詐欺を働こうと思いついたのだ。
なんでもないメールのやり取りを繰り返す。俺も後から知ったことだが、携帯電話の持ち主は事故死していた。彼女はまだそのことを知らない。何も知らない女性を騙しているという罪悪感に押しつぶされそうになりながら、着々と準備を進める俺…
「終の童話」
そいつに触れると石化してしまう。そんな怪物が、貧しい村を襲った。
ウィミィを子どもの頃から面倒見てくれたエリナも、石化してしまった。ウィミィは、崖スレスレで石化してしまったエリナの元へと毎日通った。
村はどんどん変わっていった。様々なことが起こった。悲劇から十年以上だったある日、西の国から奇跡を運んでくる男が現れた…。
「私たちが星座を盗んだ理由」
十数年ぶりに再会した夕兄ちゃん。看護婦になっていた姫子は、子どもの頃、夕兄ちゃんがどうやって星座を消したのか、長年の謎を聞いてみることにした。
病弱だった姫子の姉に首飾りを贈ることにした夕兄ちゃんは、姫子の姉に、首飾り座が消えたと信じこませた。一体どうやって…。
というような話です。
まあまあ面白かった、という感じでしょうか。全体的に小粒な感じはしました。どうしても北山猛邦って作家は、派手な仕掛けを満載にする本格ミステリ作家、という印象が強くあるんで、小粒に思えてしまうのかもしれません。
「恋煩い」は、読み始めてすぐに、この設定ならこういう話が作れるなぁ、と思ったことがそのまま当たりました。まあ妥当な物語、という感じがします。ラストのオチは一番秀逸だと思いました。
「妖精の学校」は、ラストが不親切すぎてちょっと好きになれないかなぁ。これ、もう少しラストの提示の仕方を変えてくれたら、もう少し面白い印象の物語になったんじゃないかなぁ、と思うんだけど。
「嘘つき紳士」はなかなか巧く出来ていた気がします。どういう風に話が転がっていくのか分からない感じはありました。
「終の童話」は、本作中、ミステリとしては一番完成度が高いような気がしました。これ、もう少し細部を丁寧に書いて中編ぐらいの物語にしたら、もっといい作品になったんじゃないかな、という気もします。
「私たちが星座を盗んだ理由」は、ちょっとモヤモヤする感じはありました。僕があんまり星座に興味がないからでしょうか?
ファンタジックな設定の物語と、現実を舞台にした物語とか交互に出てくる感じで、多彩な感じはします。デビュー作以来の印象が強いからか、ファンタジックな作風の方がなんとなく著者に合っているような感じがします。
スルッと読むにはなかなかお手軽なミステリかな、という感じはします。興味がある方は読んでみてください。
北山猛邦「私たちが星座を盗んだ理由」
2011年09月15日
孤島の誘拐(戸梶圭太)
内容に入ろうと思います。
舞台は、本土から離れた孤島。そこは既に限界集落であり、未来への希望など何も無いような環境だった。
島で唯一の医者だった熊亥永太郎氏の葬儀には、やはり薄井家の連中は来なかった。薄井家は宝くじに当たって大金持ちになって以来、島の人間すべてを泥棒であるかのように扱い、薄井家は島中の人間から嫌われていた。
その薄井家の次男、善貴ももちろん島で嫌われているのだけど、その善貴を心底嫌っているのが、石狩という、島で善貴についで若い男だ。父親の介護のために泣く泣く戻らなくてはならなかった石狩は、父親から引き継いだ畑から取れる作物で僅かながらの収入を得ているが、その畑に善貴はしょんべんをしやがったのだ。
どうにか善貴に復讐してやれないかと、善貴を見張ることにした石狩。後をついていく途中で気づかれ、一緒に善貴の隠れ家まで行くことに。話してみると実はそんなに悪い奴じゃないようだと思えてきて、石狩としては複雑な気持ちである。
善貴と別れた翌日、善貴の隠れ家に行ってみようと思い立った石狩は、隠れ家の近くで死んでいる善貴を発見してしまう。マズイ。どう考えてもマズイ。自分が疑われてしまう要素にまみれている。そう思った石狩は、色々工作しようと目論むも、ちょっと目を離した隙に善貴の死体が消えてしまったのだ!
なんで!どうして死体が消えるんだよ!
一方薄井家には、善貴を誘拐したというメッセージが届き…。
というような話です。
サクサク読むにはいいんじゃないかな、と思う作品です。
物語は、割とギャグ的に進んでいきます。特に堀部って刑事が出てきてからの脱力感はなかなかのもの。石狩を含む数名が、超とんでもない事態に巻き込まれているんだけど、なんでかユーモラスな感じで話が進んでいきます。
かなりドタバタなストーリーです。善貴の死をきっかけに、複数の人間の思惑が絡みあって、刑事の目からみると事件は単純ではない。実際は、善貴の死を巡って、複数の人間が暗躍しているので、全体としてはチグハグな感じになる。でも、堀部って刑事がそれに輪を掛けてちぐはぐな印象を与える刑事なので、もはやカオス。
そういうドタバタ感の演出はなかなか面白いなぁと思ったんですけど、孤島で誘拐っていう設定がもう少し活かされるストーリーだと面白かったかな、と思います。このストーリーだと、どうしても孤島でなければならなかった、という説得力が弱い気がします。孤島でなくても、どこか山奥の村とかそういう設定でも十分成り立つような気もしました。せっかく、孤島で誘拐、っていうなかなかに魅力的な設定なのだから、ちょっともったいないかなぁという気がしました。
ラストも、もう少しやりようがあるような気がしたなぁ、と思いましたけど、まああれはあれでいいのかもしれません。
スイスイと楽しく読める小説だと思います。
戸梶圭太「孤島の誘拐」
舞台は、本土から離れた孤島。そこは既に限界集落であり、未来への希望など何も無いような環境だった。
島で唯一の医者だった熊亥永太郎氏の葬儀には、やはり薄井家の連中は来なかった。薄井家は宝くじに当たって大金持ちになって以来、島の人間すべてを泥棒であるかのように扱い、薄井家は島中の人間から嫌われていた。
その薄井家の次男、善貴ももちろん島で嫌われているのだけど、その善貴を心底嫌っているのが、石狩という、島で善貴についで若い男だ。父親の介護のために泣く泣く戻らなくてはならなかった石狩は、父親から引き継いだ畑から取れる作物で僅かながらの収入を得ているが、その畑に善貴はしょんべんをしやがったのだ。
どうにか善貴に復讐してやれないかと、善貴を見張ることにした石狩。後をついていく途中で気づかれ、一緒に善貴の隠れ家まで行くことに。話してみると実はそんなに悪い奴じゃないようだと思えてきて、石狩としては複雑な気持ちである。
善貴と別れた翌日、善貴の隠れ家に行ってみようと思い立った石狩は、隠れ家の近くで死んでいる善貴を発見してしまう。マズイ。どう考えてもマズイ。自分が疑われてしまう要素にまみれている。そう思った石狩は、色々工作しようと目論むも、ちょっと目を離した隙に善貴の死体が消えてしまったのだ!
なんで!どうして死体が消えるんだよ!
一方薄井家には、善貴を誘拐したというメッセージが届き…。
というような話です。
サクサク読むにはいいんじゃないかな、と思う作品です。
物語は、割とギャグ的に進んでいきます。特に堀部って刑事が出てきてからの脱力感はなかなかのもの。石狩を含む数名が、超とんでもない事態に巻き込まれているんだけど、なんでかユーモラスな感じで話が進んでいきます。
かなりドタバタなストーリーです。善貴の死をきっかけに、複数の人間の思惑が絡みあって、刑事の目からみると事件は単純ではない。実際は、善貴の死を巡って、複数の人間が暗躍しているので、全体としてはチグハグな感じになる。でも、堀部って刑事がそれに輪を掛けてちぐはぐな印象を与える刑事なので、もはやカオス。
そういうドタバタ感の演出はなかなか面白いなぁと思ったんですけど、孤島で誘拐っていう設定がもう少し活かされるストーリーだと面白かったかな、と思います。このストーリーだと、どうしても孤島でなければならなかった、という説得力が弱い気がします。孤島でなくても、どこか山奥の村とかそういう設定でも十分成り立つような気もしました。せっかく、孤島で誘拐、っていうなかなかに魅力的な設定なのだから、ちょっともったいないかなぁという気がしました。
ラストも、もう少しやりようがあるような気がしたなぁ、と思いましたけど、まああれはあれでいいのかもしれません。
スイスイと楽しく読める小説だと思います。
戸梶圭太「孤島の誘拐」
2011年09月14日
女子は、一日にしてならず(黒野伸一)
内容に入ろうと思います。
OLの奈美恵は、とにかく超絶的に太っている。会社からの帰りがけに、肉まんとピザまんを11個食べて、しかも帰ってから普通に夕飯をバクバク食べるくらい太っている。
会社では、仕事は出来る有能な人間だと一定の立ち位置にはいるものの、周りから蔑んだような感じで見られているのは知っている。強く生きてきた奈美恵は、そんな視線を蹴散らすようにしていくのだけども。
同じ会社で秘書をしてる腐れ縁の西陣がとある場所に取材に行くからついてきてと言ったのがFB。「Fat is Beauteful」の略で、とにかく太った女性が集まって飲み食いするだけの場だ。
成り行きで入会することになった奈美恵。そこが主催するお見合いパーティで彼氏をゲットした奈美恵だったが…。
というような話です。
まあ、さらっと読むにはいいんだろうけど、というような感じの作品です。
スイスイ読めることは確かですね。
後半はやっぱり、ちょっと都合の良い展開かなぁという気がしました。
まあ分かりやすくて、そういう作品を求めている人にはいいんだろうけど。
僕はやっぱり、痩せている人の方がいいです。痩せすぎているのも困っちゃうけど。
黒野伸一「女子は、一日にしてならず」
OLの奈美恵は、とにかく超絶的に太っている。会社からの帰りがけに、肉まんとピザまんを11個食べて、しかも帰ってから普通に夕飯をバクバク食べるくらい太っている。
会社では、仕事は出来る有能な人間だと一定の立ち位置にはいるものの、周りから蔑んだような感じで見られているのは知っている。強く生きてきた奈美恵は、そんな視線を蹴散らすようにしていくのだけども。
同じ会社で秘書をしてる腐れ縁の西陣がとある場所に取材に行くからついてきてと言ったのがFB。「Fat is Beauteful」の略で、とにかく太った女性が集まって飲み食いするだけの場だ。
成り行きで入会することになった奈美恵。そこが主催するお見合いパーティで彼氏をゲットした奈美恵だったが…。
というような話です。
まあ、さらっと読むにはいいんだろうけど、というような感じの作品です。
スイスイ読めることは確かですね。
後半はやっぱり、ちょっと都合の良い展開かなぁという気がしました。
まあ分かりやすくて、そういう作品を求めている人にはいいんだろうけど。
僕はやっぱり、痩せている人の方がいいです。痩せすぎているのも困っちゃうけど。
黒野伸一「女子は、一日にしてならず」
2011年09月12日
開かせていただき光栄です(皆川博子)
内容に入ろうと思います。
舞台は18世紀ロンドン。瀉血となど、まだ医学的に正しくない治療法が世に広まっていた時代、解剖によって人体をくまなく観察し、その観察によって医学を前進させようとする男がいた。
その男の名を、ダニエル・バートンという。
まだ解剖が一般的ではなく、そもそも外科医が床屋と同じ程度の扱いをされていた時代、周囲からの悪評をものともせず、墓掘りから死体を買い、防腐剤を開発し、幾多の標本を生み出し、正しい医学的知見を見出してきた。
ダニエルが開いている解剖教室は、実は兄ロバートのものだ。
ロバートは、内科医として上流社会へと喰い込み、ダニエルの後ろ盾となっている。とはいえ、ダニエルの仕事を純粋にサポートしているわけではなく、ダニエルが作る標本や、ダニエルが発見する医学的知見を、すべて自らの名の元に発表することが目的だ。ダニエルもロバートのそんな行いに気づいてはいるが、ロバートの後ろ盾なしには解剖教室を続けることが出来ないもの事実だ。
ロバートのその行いは、ダニエルの弟子たちも苦々しく感じている。
ダニエルには5人の弟子がいる。一番弟子であり、最も業績を上げているエドワード・ターナー(エド)、細密画が得意で、解剖中絵を描くことを任されているナイジェル・ハート、そしてあと三人、お喋りのクラレンス・スプナーと、太っちょのベンジャミン・ビーミス、そして痩せっぽちのアルバート・ウッドの五人だ。彼らはみなダニエルのことを心から尊敬していて、ロバートの悪行に苛立ちながらも、ロバートなしでは解剖教室が成り立たないというジレンマを受け入れている。
ある夏の日、ダニエルの解剖教室には三つの死体が存在した。
一体は、いつものように墓掘りから買った死体だ。妊娠六ヶ月の母体という、極めて珍しい死体で、ダニエルはこの解剖を心待ちにしていた。
しかしそこに、ロンドンの治安を守る存在である犯罪捜査犯人逮捕係(通称 ボウ・ストリート・ランナーズ)がやってきた。妊娠六ヶ月のその死体は、ラフヘッド家という高名な地位のお嬢様であり、それでボウ・ストリート・ランナーズが動いているらしかった。
彼らがやってくる前に死体を暖炉に隠した弟子たち。ボウ・ストリート・ランナーズの二人を追いやって、さて解剖の続きを、と思った時、今度は治安判事の使いの者がやってきた。
アン=シャーリー・モアと名乗ったその女性は、治安判事ジョン・フィールディングの姪であり、女でありながら盲目の治安判事の『目』として動き回っている。解剖をしようと暖炉から引きずりだした<六ヶ月>の死体の包みをアンに開けられてしまったのだが、なんとそれは、四肢のない少年の死体にすり替わっていた。
アンが一旦退いた後で、<六ヶ月>の死体を見つけるために再度暖炉の中に入ったところ、そこで第三の死体を発見した。その死体は、顔を潰され判別できなくなっていた…。
というような話です。
これは凄い作品だったなぁ。ミステリとして、相当よく出来ている、と思いました。
本書で最もメインとなるのは、もちろんミステリ的な部分です。このミステリ的な部分の作り込みはなかなかのものです。この部分については、ちょっとしたことがネタバレになりそうな気がするんで、極力なにも書かないままで終わらせたいところですが、ちょっとは何か書きましょう。
冒頭で現れる三つの死体。一つは解剖教室で買い取ったものだけど、後の二つは謎。しかし、この三つの死体について、少しずつ様々なことが明らかになっていく。初めはそれぞれ、まったく繋がりがないとしか思えない状況だ。たまたま三つの死体が解剖教室に揃ってしまっただけ、という感じがする。しかし、もちろんそんなことはない。謎の二つの死体だけではなく、解剖教室で買い取った<六ヶ月>の死体までも、物語に深く関わっていくことになる。
本書では、様々な人間が、少しずつ嘘をつく。それがさらに状況を謎めいたものにする。嘘をつく人間はそれぞれ、自らの良心に従って嘘をつく。皆それぞれに大切なものがあり、守りたいものがある。そのために些細な嘘が降り積もっていくことになる。盲目の治安判事であるサー・ジョンは、視力を失った代わりに研ぎ澄まされた鋭敏な聴力を持つといわれ、相手の言葉が嘘かどうか分かる、と評判だ。しかしそんなジョンさえも困惑させるような展開が次々とやってくる。
三つの死体以外にも、まだまだ死体は増え、謎めいた状況も積み重なっていく。それらは少しずつ解けていく。しかし、解けていく端から、また絡まっていく。疑わしい人物がはっきりしてきてからも、サー・ジョンは予断を持たない。あらゆる可能性を捨てず、細かな点を決してないがしろにせず、少しずつ真相に迫っていく。
事件そのものの展開も魅力的ながら、このサー・ジョンの探偵としての手腕には驚かされる。サー・ジョンは盲目で、アンという姪を右腕として、アンが見たものすべてを忠実に語らせることで視力を補っている。自分の目でものを見ることが出来ない、というハンデを、様々なやり方で補っている。それは、鋭敏な聴力だったり、相手に触れることだったり、あるいは驚異的な記憶力で矛盾点を見つけ出したり、ということだ。また、探偵としての能力だけではなく、人間としても信頼がおける。この時代のイギリスでは、国が強い警察組織を持つことを危惧する市民感情が強く、公的な警察組織というのはほとんどなかった。賄賂によって犯罪を見逃すような、そういう不敬の輩が跋扈する時代だった。その状況を変えたのが、サー・ジョンの異母兄であるヘンリー・フィールディングだ。彼は警察組織の改革に乗り出し、賄賂によって犯罪を見逃すような状況を一掃した。ジョンはそんな兄に協力し、今に至っている。サー・ジョンに采配なら信頼が出来ると、市民からも厚い信頼を得ている人物である。
パズルのピースがぴったりと合わないような謎めいた出来事が頻発する事件と、それを追うサー・ジョン。その攻防が本書の大きな魅力の一つだと思います。
また、強く関心を惹かれる題材が、ダニエル主導による解剖だ。ダニエルには、モデルとなる実在の人物がいる。ジョン・ハンターという、本書のダニエルとほぼ同じ境遇(兄が内科医で解剖教室を持ち、それを弟のダニエルが回していて、成果をすべて兄に取られる、というような状況)だった実在の解剖医だ。
本書の巻末に、「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」という本が、参考文献のトップに載っている。僕はこの本を読んだことがあって、本書の冒頭を読んですぐ、あーあの本の人がモデルなんだな、と分かった。それぐらい、本書で描かれるダニエルは、ジョン・ハンターと酷似している。
「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」を読んだのは結構前なので、もう内容を詳細には覚えていないけど、解剖学の祖、どころか、近代医療の祖というような存在だったはず。それまで治療といえば、呪いと同じようなことしかしていなかった。まったく効果がないことが後世証明された瀉血(病気になるのは体内の血の巡りが悪いからだ、という説に立って、体内の血を抜く治療のこと)がメインの治療法としてまかり通り、確かある有名な人(名前は忘れた)も、瀉血をされすぎたせいで死んだ、というようなことが何かの本に書かれていたような気がします(「解剖医〜」だったかなぁ)。
ジョン・ハンターはそんな状況を変える。解剖によって得られた知見を重視し、それまでの学説に一切こだわることなく、自らが辿りついた正しい治療法を広めた。初めの内は、医者の間では、ジョン・ハンターのやり方は異端だと言って相手にされなかったのだけど、その効果が少しずつ広まっていくにつれて、治療法も広まっていった、という感じだった気がします。
本書では、ダニエルの解剖にかける気概みたいなものが随所に描かれます。もっと解剖をしなければ、死因も死亡推定時刻も確定出来ない、そのためにはもっと死体が必要だ、今のロンドンでは死体を確保するのは本当に厳しい、なんとか法律を変えられないかと、ダニエルは何度もサー・ジョンに詰め寄ります。生活のほとんどを解剖に捧げているという感じで、五人の弟子もそんな師を強く尊敬している。ミステリの部分だけでなく、実在の人物をモデルにした、当時の『解剖』に関わる状況を見事に描いて見せている点も素晴らしいと思いました。
また、解剖に限らず本書では、18世紀当時のロンドンの雰囲気というものを細部まで描き出そうとしています。もちろん僕は当時のロンドンのことなんて知らないわけですが、なるほどそんなこともあったのか、と思うような細かなエピソードが、メインのミステリの部分とはさほど関係のない部分についても描写されていて、当時のロンドンの雰囲気を正確に描き出そうとするその意気込みが伝わってきました。
例えば、と言って具体的に書けることは多くないんですけど(ホントに細かい部分での描写が多いので、なかなか読後記憶に残っているものは多くはないんです)、例えば『窓税』というものを僕は初めて知りました。本書で詳しく描かれているわけではないんだけど、恐らく窓を一つ作る毎に税金が掛かるのでしょう。だから、刑務所には窓がないし、ある少年が住んでいた部屋は、窓税を払いたくないがために、レンガをいくつか取り払って窓の代わりにしている、という有様。そういう、ストーリー的には特別必要ではないけど、当時のロンドンの雰囲気を醸し出すのに役に立っている描写がそこかしこでされていて、それが僕は一番凄い点ではないか、と思いました。もちろん、過去のある時点を舞台にした小説(時代・歴史小説なんかはそうですね)では、その当時の風俗や雰囲気なんかをいかに描写するかが作家の腕の見せ所になるんだろうけど、本書はその当時のロンドンのことをまるで知らない人にも、なるほどこんな感じだったんだろうな、と思わせる雰囲気が漂っていて、それがミステリの部分と非常に巧く絡みあって、全体として非常に質の高い作品になっていると思いました。
事件を引き起こした動機や、最終的な着地点なんかも、この当時のロンドンだからこそ、というような部分が含まれていて、ただ単にジョン・ハンターをモデルにしたくて18世紀のロンドンを舞台にしたわけではないということが分かります。本当に細部にまでこだわりのかんじられる作品で、僕は皆川博子の作品を初めて読みましたけど、これはちょっと他の作品も読んでみるべきかもしれないな、と感じました。
ミステリとしての質の高さと、18世紀ロンドンの雰囲気の描写の質の高さ、そして実在の人物を舞台にした『解剖』の状況を取り巻く描写が見事に絡みあった絶妙な作品だと思います。装丁も本当に素敵だと思うし、タイトルもなかなか洒落てますね。出てくるのが外国人ばっかり(当然ですが)なので、外国人作家の作品を苦手とする僕にはちょっとどうかなと思ったんですけど、冒頭でダニエルの弟子五人の名前を覚えるのにちょっと苦労した以外は、スムーズに読むことが出来ました。是非読んでみてください。
皆川博子「開かせていただき光栄です」
舞台は18世紀ロンドン。瀉血となど、まだ医学的に正しくない治療法が世に広まっていた時代、解剖によって人体をくまなく観察し、その観察によって医学を前進させようとする男がいた。
その男の名を、ダニエル・バートンという。
まだ解剖が一般的ではなく、そもそも外科医が床屋と同じ程度の扱いをされていた時代、周囲からの悪評をものともせず、墓掘りから死体を買い、防腐剤を開発し、幾多の標本を生み出し、正しい医学的知見を見出してきた。
ダニエルが開いている解剖教室は、実は兄ロバートのものだ。
ロバートは、内科医として上流社会へと喰い込み、ダニエルの後ろ盾となっている。とはいえ、ダニエルの仕事を純粋にサポートしているわけではなく、ダニエルが作る標本や、ダニエルが発見する医学的知見を、すべて自らの名の元に発表することが目的だ。ダニエルもロバートのそんな行いに気づいてはいるが、ロバートの後ろ盾なしには解剖教室を続けることが出来ないもの事実だ。
ロバートのその行いは、ダニエルの弟子たちも苦々しく感じている。
ダニエルには5人の弟子がいる。一番弟子であり、最も業績を上げているエドワード・ターナー(エド)、細密画が得意で、解剖中絵を描くことを任されているナイジェル・ハート、そしてあと三人、お喋りのクラレンス・スプナーと、太っちょのベンジャミン・ビーミス、そして痩せっぽちのアルバート・ウッドの五人だ。彼らはみなダニエルのことを心から尊敬していて、ロバートの悪行に苛立ちながらも、ロバートなしでは解剖教室が成り立たないというジレンマを受け入れている。
ある夏の日、ダニエルの解剖教室には三つの死体が存在した。
一体は、いつものように墓掘りから買った死体だ。妊娠六ヶ月の母体という、極めて珍しい死体で、ダニエルはこの解剖を心待ちにしていた。
しかしそこに、ロンドンの治安を守る存在である犯罪捜査犯人逮捕係(通称 ボウ・ストリート・ランナーズ)がやってきた。妊娠六ヶ月のその死体は、ラフヘッド家という高名な地位のお嬢様であり、それでボウ・ストリート・ランナーズが動いているらしかった。
彼らがやってくる前に死体を暖炉に隠した弟子たち。ボウ・ストリート・ランナーズの二人を追いやって、さて解剖の続きを、と思った時、今度は治安判事の使いの者がやってきた。
アン=シャーリー・モアと名乗ったその女性は、治安判事ジョン・フィールディングの姪であり、女でありながら盲目の治安判事の『目』として動き回っている。解剖をしようと暖炉から引きずりだした<六ヶ月>の死体の包みをアンに開けられてしまったのだが、なんとそれは、四肢のない少年の死体にすり替わっていた。
アンが一旦退いた後で、<六ヶ月>の死体を見つけるために再度暖炉の中に入ったところ、そこで第三の死体を発見した。その死体は、顔を潰され判別できなくなっていた…。
というような話です。
これは凄い作品だったなぁ。ミステリとして、相当よく出来ている、と思いました。
本書で最もメインとなるのは、もちろんミステリ的な部分です。このミステリ的な部分の作り込みはなかなかのものです。この部分については、ちょっとしたことがネタバレになりそうな気がするんで、極力なにも書かないままで終わらせたいところですが、ちょっとは何か書きましょう。
冒頭で現れる三つの死体。一つは解剖教室で買い取ったものだけど、後の二つは謎。しかし、この三つの死体について、少しずつ様々なことが明らかになっていく。初めはそれぞれ、まったく繋がりがないとしか思えない状況だ。たまたま三つの死体が解剖教室に揃ってしまっただけ、という感じがする。しかし、もちろんそんなことはない。謎の二つの死体だけではなく、解剖教室で買い取った<六ヶ月>の死体までも、物語に深く関わっていくことになる。
本書では、様々な人間が、少しずつ嘘をつく。それがさらに状況を謎めいたものにする。嘘をつく人間はそれぞれ、自らの良心に従って嘘をつく。皆それぞれに大切なものがあり、守りたいものがある。そのために些細な嘘が降り積もっていくことになる。盲目の治安判事であるサー・ジョンは、視力を失った代わりに研ぎ澄まされた鋭敏な聴力を持つといわれ、相手の言葉が嘘かどうか分かる、と評判だ。しかしそんなジョンさえも困惑させるような展開が次々とやってくる。
三つの死体以外にも、まだまだ死体は増え、謎めいた状況も積み重なっていく。それらは少しずつ解けていく。しかし、解けていく端から、また絡まっていく。疑わしい人物がはっきりしてきてからも、サー・ジョンは予断を持たない。あらゆる可能性を捨てず、細かな点を決してないがしろにせず、少しずつ真相に迫っていく。
事件そのものの展開も魅力的ながら、このサー・ジョンの探偵としての手腕には驚かされる。サー・ジョンは盲目で、アンという姪を右腕として、アンが見たものすべてを忠実に語らせることで視力を補っている。自分の目でものを見ることが出来ない、というハンデを、様々なやり方で補っている。それは、鋭敏な聴力だったり、相手に触れることだったり、あるいは驚異的な記憶力で矛盾点を見つけ出したり、ということだ。また、探偵としての能力だけではなく、人間としても信頼がおける。この時代のイギリスでは、国が強い警察組織を持つことを危惧する市民感情が強く、公的な警察組織というのはほとんどなかった。賄賂によって犯罪を見逃すような、そういう不敬の輩が跋扈する時代だった。その状況を変えたのが、サー・ジョンの異母兄であるヘンリー・フィールディングだ。彼は警察組織の改革に乗り出し、賄賂によって犯罪を見逃すような状況を一掃した。ジョンはそんな兄に協力し、今に至っている。サー・ジョンに采配なら信頼が出来ると、市民からも厚い信頼を得ている人物である。
パズルのピースがぴったりと合わないような謎めいた出来事が頻発する事件と、それを追うサー・ジョン。その攻防が本書の大きな魅力の一つだと思います。
また、強く関心を惹かれる題材が、ダニエル主導による解剖だ。ダニエルには、モデルとなる実在の人物がいる。ジョン・ハンターという、本書のダニエルとほぼ同じ境遇(兄が内科医で解剖教室を持ち、それを弟のダニエルが回していて、成果をすべて兄に取られる、というような状況)だった実在の解剖医だ。
本書の巻末に、「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」という本が、参考文献のトップに載っている。僕はこの本を読んだことがあって、本書の冒頭を読んですぐ、あーあの本の人がモデルなんだな、と分かった。それぐらい、本書で描かれるダニエルは、ジョン・ハンターと酷似している。
「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」を読んだのは結構前なので、もう内容を詳細には覚えていないけど、解剖学の祖、どころか、近代医療の祖というような存在だったはず。それまで治療といえば、呪いと同じようなことしかしていなかった。まったく効果がないことが後世証明された瀉血(病気になるのは体内の血の巡りが悪いからだ、という説に立って、体内の血を抜く治療のこと)がメインの治療法としてまかり通り、確かある有名な人(名前は忘れた)も、瀉血をされすぎたせいで死んだ、というようなことが何かの本に書かれていたような気がします(「解剖医〜」だったかなぁ)。
ジョン・ハンターはそんな状況を変える。解剖によって得られた知見を重視し、それまでの学説に一切こだわることなく、自らが辿りついた正しい治療法を広めた。初めの内は、医者の間では、ジョン・ハンターのやり方は異端だと言って相手にされなかったのだけど、その効果が少しずつ広まっていくにつれて、治療法も広まっていった、という感じだった気がします。
本書では、ダニエルの解剖にかける気概みたいなものが随所に描かれます。もっと解剖をしなければ、死因も死亡推定時刻も確定出来ない、そのためにはもっと死体が必要だ、今のロンドンでは死体を確保するのは本当に厳しい、なんとか法律を変えられないかと、ダニエルは何度もサー・ジョンに詰め寄ります。生活のほとんどを解剖に捧げているという感じで、五人の弟子もそんな師を強く尊敬している。ミステリの部分だけでなく、実在の人物をモデルにした、当時の『解剖』に関わる状況を見事に描いて見せている点も素晴らしいと思いました。
また、解剖に限らず本書では、18世紀当時のロンドンの雰囲気というものを細部まで描き出そうとしています。もちろん僕は当時のロンドンのことなんて知らないわけですが、なるほどそんなこともあったのか、と思うような細かなエピソードが、メインのミステリの部分とはさほど関係のない部分についても描写されていて、当時のロンドンの雰囲気を正確に描き出そうとするその意気込みが伝わってきました。
例えば、と言って具体的に書けることは多くないんですけど(ホントに細かい部分での描写が多いので、なかなか読後記憶に残っているものは多くはないんです)、例えば『窓税』というものを僕は初めて知りました。本書で詳しく描かれているわけではないんだけど、恐らく窓を一つ作る毎に税金が掛かるのでしょう。だから、刑務所には窓がないし、ある少年が住んでいた部屋は、窓税を払いたくないがために、レンガをいくつか取り払って窓の代わりにしている、という有様。そういう、ストーリー的には特別必要ではないけど、当時のロンドンの雰囲気を醸し出すのに役に立っている描写がそこかしこでされていて、それが僕は一番凄い点ではないか、と思いました。もちろん、過去のある時点を舞台にした小説(時代・歴史小説なんかはそうですね)では、その当時の風俗や雰囲気なんかをいかに描写するかが作家の腕の見せ所になるんだろうけど、本書はその当時のロンドンのことをまるで知らない人にも、なるほどこんな感じだったんだろうな、と思わせる雰囲気が漂っていて、それがミステリの部分と非常に巧く絡みあって、全体として非常に質の高い作品になっていると思いました。
事件を引き起こした動機や、最終的な着地点なんかも、この当時のロンドンだからこそ、というような部分が含まれていて、ただ単にジョン・ハンターをモデルにしたくて18世紀のロンドンを舞台にしたわけではないということが分かります。本当に細部にまでこだわりのかんじられる作品で、僕は皆川博子の作品を初めて読みましたけど、これはちょっと他の作品も読んでみるべきかもしれないな、と感じました。
ミステリとしての質の高さと、18世紀ロンドンの雰囲気の描写の質の高さ、そして実在の人物を舞台にした『解剖』の状況を取り巻く描写が見事に絡みあった絶妙な作品だと思います。装丁も本当に素敵だと思うし、タイトルもなかなか洒落てますね。出てくるのが外国人ばっかり(当然ですが)なので、外国人作家の作品を苦手とする僕にはちょっとどうかなと思ったんですけど、冒頭でダニエルの弟子五人の名前を覚えるのにちょっと苦労した以外は、スムーズに読むことが出来ました。是非読んでみてください。
皆川博子「開かせていただき光栄です」
2011年09月11日
コミックいわて(岩手県)
内容に入ろうと思います。
本書は岩手県知事が企画し、岩手県が発行した、岩手県出身の漫画家10名によるアンソロジー作品です。本書は今年1月に出版され、既に三刷まで行ってるんですが、三刷の分の収益の一部を災害義援金に充てることになっているそうです。四刷目以降はどうなるのかはわかりません。
普段あんまりマンガは読まないので、収録作家とその作品内容をざっくり紹介しようと思います。
池野恋:代表作「ときめきトゥナイト」
収録作「風のおくりもの」 転校したばかりで友達のいない少年の目の前に、「サブロー」と名乗る謎の存在が現れる
神田♥ジョセフィーヌ:
収録作「ジョセ チャリing」 地元盛岡を自転車でフラフラする旅行記のような感じ
とりのなん子:代表作「とりぱん」
収録作「かもしか温泉」 無人の温泉にやってきたカモシカが見つけてしまったもの、それは…
そのだつくし:
収録作「幸来来」 リストラでUターンした主人公は、同窓会で旧友に、「年に一度はバカになろうぜ」と誘われるが…
吉田戦車:代表作「伝染るんです。」
収録作「0歳児、北へ」 自分のDNAが含まれてなさそうな娘に、故郷・岩手の空気を吸わせるべく地元を回る
佐藤智一:
収録作「メドツ日記」 カッパ淵で捕まえてきたカメ。それは実は…
地下沢中也:
収録作「バンカラの恋」 バンカラが異様なまでにもてはやされるとある高校の話
飛鳥あると:
収録作「キリコ、閉じます!」 霊が見えてしまう高校生の女の子のお話
小田ひで次:
収録作「ひで次くん山へ!」 歳を取ったせいか岩手山が気になる。そこで登ってみることに…
くどうよしと:
収録作:「イーハトーブを歩く男」 岩手で、どうも見たことがあるような人が多数目撃される…
というような話です。
個人的な話なんだけど、ついちょっと前に盛岡に遊びに行ったことがあるんで、ここ行った!っていうところが本当に多くて、そういう意味でも凄く楽しめました。「ジョセ チャリing」で書かれている街並みは知ってるところばっかりだったし、カッパ淵も行ったことあるし、さんさ踊りは行けなかったんだけど、ちょうど僕らが行った一週間後がさんさ踊りで、なんとなく街がさんさに向けて動き出してるみたいな雰囲気があったりしました(岩手を案内してくれた方がさんさで踊るって言ってましたし)。ホント一回しか行ったことのない土地なのに、知ってるところ・話題がホントたくさん出てきたんで、個人的になんか凄く面白かったです。
僕が一番気に入った話は、地下沢中也「バンカラの恋」です。これはホント、ちょっと斬新すぎて感動しました。正直、岩手っぽさは全然ない話なんだけど、伝統的なバンカラ生徒(自分でも書いてて意味がわかりませんが)が校内で異様な人気を獲得している中、その当人はその雰囲気を冷ややかな目線で見ている、というような、やっぱり書いてても意味不明な感じですが、この意味不明さ、僕大好きです。普段マンガ読まないし、本書に収録されているマンガ家さんの作品、たぶんどれも読んだことないと思うんだけど、地下沢中也さんの作品は、ちょっと他のも読んでみたいって気にさせられました。
他にこれはいいなと思ったのは、佐藤智一「メドツ日記」と、飛鳥あると「キリコ、閉じます!」です。「メドツ日記」は、カッパ淵で釣れたのが、どう見てもカメにしか見えないんだけど、実はカッパだった、っていう話で、しかもそいつ喋れる!メドちゃんがいい味出してます。「キリコ、閉じます!」は、結構絵が好きな感じ。黒髪パッツンの女の子、なかなかいいです。
しかしまあなんにしても、地方自治体が先導でマンガを出版しちゃうって面白さが本書の大きな魅力の一つですね。マンガが始まる前に、本書で扱われている岩手にまつわる題材の説明とか、岩手出身の漫画家・岩手を暑かったマンガの紹介なんかもあって、結構力はいってるなぁ、っていう感じがしました。色んな作家から原稿集めてきてただ組んで出版した、ってだけではない、これを出版することで岩手の良さを知ってもらいたい、というような意志を感じました。
普段マンガをほとんど読まないんで、マンガとしてどうなのか、という評価は僕にはなかなかしにくいんですけど、凄く個人的な感想でいえば、ついちょっと前に盛岡に行ったばっかりだったんで、知ってる場所・題材が多くて凄く楽しめました。地下沢中也さんは個人的に注目!一ついうと、表紙はもう少しなにかやりようはあったかなぁ、という気がしなくもないです。
岩手県「コミックいわて」
本書は岩手県知事が企画し、岩手県が発行した、岩手県出身の漫画家10名によるアンソロジー作品です。本書は今年1月に出版され、既に三刷まで行ってるんですが、三刷の分の収益の一部を災害義援金に充てることになっているそうです。四刷目以降はどうなるのかはわかりません。
普段あんまりマンガは読まないので、収録作家とその作品内容をざっくり紹介しようと思います。
池野恋:代表作「ときめきトゥナイト」
収録作「風のおくりもの」 転校したばかりで友達のいない少年の目の前に、「サブロー」と名乗る謎の存在が現れる
神田♥ジョセフィーヌ:
収録作「ジョセ チャリing」 地元盛岡を自転車でフラフラする旅行記のような感じ
とりのなん子:代表作「とりぱん」
収録作「かもしか温泉」 無人の温泉にやってきたカモシカが見つけてしまったもの、それは…
そのだつくし:
収録作「幸来来」 リストラでUターンした主人公は、同窓会で旧友に、「年に一度はバカになろうぜ」と誘われるが…
吉田戦車:代表作「伝染るんです。」
収録作「0歳児、北へ」 自分のDNAが含まれてなさそうな娘に、故郷・岩手の空気を吸わせるべく地元を回る
佐藤智一:
収録作「メドツ日記」 カッパ淵で捕まえてきたカメ。それは実は…
地下沢中也:
収録作「バンカラの恋」 バンカラが異様なまでにもてはやされるとある高校の話
飛鳥あると:
収録作「キリコ、閉じます!」 霊が見えてしまう高校生の女の子のお話
小田ひで次:
収録作「ひで次くん山へ!」 歳を取ったせいか岩手山が気になる。そこで登ってみることに…
くどうよしと:
収録作:「イーハトーブを歩く男」 岩手で、どうも見たことがあるような人が多数目撃される…
というような話です。
個人的な話なんだけど、ついちょっと前に盛岡に遊びに行ったことがあるんで、ここ行った!っていうところが本当に多くて、そういう意味でも凄く楽しめました。「ジョセ チャリing」で書かれている街並みは知ってるところばっかりだったし、カッパ淵も行ったことあるし、さんさ踊りは行けなかったんだけど、ちょうど僕らが行った一週間後がさんさ踊りで、なんとなく街がさんさに向けて動き出してるみたいな雰囲気があったりしました(岩手を案内してくれた方がさんさで踊るって言ってましたし)。ホント一回しか行ったことのない土地なのに、知ってるところ・話題がホントたくさん出てきたんで、個人的になんか凄く面白かったです。
僕が一番気に入った話は、地下沢中也「バンカラの恋」です。これはホント、ちょっと斬新すぎて感動しました。正直、岩手っぽさは全然ない話なんだけど、伝統的なバンカラ生徒(自分でも書いてて意味がわかりませんが)が校内で異様な人気を獲得している中、その当人はその雰囲気を冷ややかな目線で見ている、というような、やっぱり書いてても意味不明な感じですが、この意味不明さ、僕大好きです。普段マンガ読まないし、本書に収録されているマンガ家さんの作品、たぶんどれも読んだことないと思うんだけど、地下沢中也さんの作品は、ちょっと他のも読んでみたいって気にさせられました。
他にこれはいいなと思ったのは、佐藤智一「メドツ日記」と、飛鳥あると「キリコ、閉じます!」です。「メドツ日記」は、カッパ淵で釣れたのが、どう見てもカメにしか見えないんだけど、実はカッパだった、っていう話で、しかもそいつ喋れる!メドちゃんがいい味出してます。「キリコ、閉じます!」は、結構絵が好きな感じ。黒髪パッツンの女の子、なかなかいいです。
しかしまあなんにしても、地方自治体が先導でマンガを出版しちゃうって面白さが本書の大きな魅力の一つですね。マンガが始まる前に、本書で扱われている岩手にまつわる題材の説明とか、岩手出身の漫画家・岩手を暑かったマンガの紹介なんかもあって、結構力はいってるなぁ、っていう感じがしました。色んな作家から原稿集めてきてただ組んで出版した、ってだけではない、これを出版することで岩手の良さを知ってもらいたい、というような意志を感じました。
普段マンガをほとんど読まないんで、マンガとしてどうなのか、という評価は僕にはなかなかしにくいんですけど、凄く個人的な感想でいえば、ついちょっと前に盛岡に行ったばっかりだったんで、知ってる場所・題材が多くて凄く楽しめました。地下沢中也さんは個人的に注目!一ついうと、表紙はもう少しなにかやりようはあったかなぁ、という気がしなくもないです。
岩手県「コミックいわて」
2011年09月08日
死のテレビ実験 人はそこまで服従するのか(クリストフ・ニック+ミシェル・エルチャニノフ)
この作品は、国が全国民分買い上げて、全家庭に配るべき作品ではないかと思う。マジで、テレビが家に一台でもある人は絶対に読んだほうがいい。
まず、2009年、フランスのテレビ局が実際に行った、とある実験の内容を読んで欲しい。
『架空のクイズ番組のパイロット版(実際には放送されないので賞金が出ないと説明される)の収録に、慎重に選んだ一般参加者を集め、彼らに出題者になってもらう。彼らは問題を読み、解答者(実験協力者)が間違える毎に電気ショックを与えるよう指示される。電気ショックは一問間違える毎に電圧が上がり、最高で460ボルトまである。そしてその電圧まで行くと解答者を死に至らしめるかもしれない、と予感させるような状況にある。
さてその状況の中で、果たして参加者の内、何%の人が460ボルトまで電気ショックを与えただろうか。』
正解を書く前に、少し背景的な説明をしようと思います。
まずこの実験は、1960年代にアメリカのイェール大学でミルグラムという心理学者が行った、通称「アイヒマン実験」と呼ばれる、心理学の分野で非常に有名な実験をテレビに応用したものだ。
そのアイヒマン実験とはこうだ。ミルグラムは、記憶力に関する実験と称して被験者を募集し、科学実験という<権威>のもとで、被験者が見ず知らずの相手に対して電気ショックを与える場を設定した。実験内容は、被験者が「先生役」となって問題文を読み、「生徒役(学習者)の人」(実は実験協力者)がそれに答え、もし答えがまちがっていたら電気ショックを与える、というものだ。電気ショックの強さは間違える度に上がり、最高で450ボルトという、死んでもおかしくない強さに設定されている。
このアイヒマン実験は、当時大きな反響を巻き起こした。このアイヒマン実験では、実に60%強の人々が、450ボルトの電機食器を生徒役に与えたのだ。これは何度も追実験が行われ、その度に同様の結果が出ている、信頼できる実験である。
これは、『<権威>から良心に反する命令を受けた時、個人はどれくらいの割合でそれに服従するのか』を調べる目的で行われた実験だ。この実験の名前の元になっている、ナチス・ドイツで上司の命令により数百万人の人々を収容所に送る手配をしたアドルフ・アイヒマンは、当初とんでもない冷酷非常な人間である、と思われていた。しかしこのアイヒマン実験が行われ、その結果が広まるにつれ、善良な人間であっても権威から命令されれば自らの良心に反してでもそれに従ってしまう、という人間の行動が明らかにされたのだ。
冒頭で書いた実験は、そのアイヒマン実験の応用だ。この実験で目的としていることは二つある。一つアイヒマン実験と同じく、『人は服従しやすいのかどうか』である。そして、もう一つの目的の方がより重要である。それは、『テレビは<権威>を持つかどうか』である。
さてこの辺りで冒頭の実験の正解を書こう。アイヒマン実験では、最後まで電気ショックを与え続けた人は、全被験者の60%強だった。2009年に行われたクイズ番組を舞台にした実験では、なんと81%もの人々が最後まで電気ショックを与え続けたのだ。
本書は、この実験を思いついたフランスのテレビマンとその実験に協力した一人であるジャーナリスト兼哲学者による、どうしてこの実験をしようと思ったのかという話から、実験が実際にどう進みどんな結果が出たのか、そしてどうしてそういう結果になったのかまで考察している作品です。この実験の模様は、「死のテレビ実験」というタイトルで実際にフランスで放送され、本書の実験内容に関する部分は、そのドキュメンタリーをベースに書かれています。
本書は、大きく分けて三部構成である。
第一部は、「いかにテレビは過激になり、そしてその現状から、どうして自分たちがこの実験を思いついたのか。そして実験の準備をどれだけ綿密に行い、実際の実験はどう進行していったのか」という内容。
第二部は、「実験で現れた様々な個別の事象について詳しく触れつつ、被験者たちの心の動きや葛藤を分析する」という内容。
そして第三部は、「実験結果を受けて、それぞれについて考察を加えつつ、テレビという権力について総括する」という内容。
まず、第一部の冒頭で、どうしてこの実験を行うことにしたのか、という話が出てくるんだけど、その話は後回しにします。ここでは、『テレビがこれだけ過激であるという具体例』をいくつか挙げ、このままの流れで行けばいずれテレビは番組内で人を殺しかねない、だからこそ今このタイミングで、『テレビが<権威>を持つか否か』を確認する実験を思いついたのだ、という話なんだけど、その、『テレビがこれだけ過激であるという具体例』が本当に酷すぎるのだ。日本のテレビ番組が幼く見えるぐらいの過激さで、先にその話を書いてしまうと、そっちに引きずられて本書のメインの話に焦点が当たらなくなってしまうかもしれない気がしたんで、ちょっと後回しにします。
さてその後で、実験の準備と進行について描かれます。
実験の準備には二年以上の時間を掛けたそう。テレビのクイズ番組という雰囲気を出すために実際の演出家や脚本家に参加してもらい、臨場感のある番組作りを行う。また被験者を集めるのにもかなり慎重だった。アイヒマン実験でもこれは慎重に行われていて、なるべく被験者の層が均質になるように、マーケティング会社二社に依頼して被験者の募集を手伝ってもらった。
実際の実験についても、すべての被験者に条件が同じになるように慎重に進められていった。例えば一例として、タクシーで被験者をテレビ局まで連れて行く際、運転手はラジオのボリュームを上げるように指示されている。これは、被験者が運転手に話しかけないようにするための配慮である。
解答者に電気ショックが流れるというのはもちろんフェイクで、実際には電気ショックは流れない。また、出題者から解答者は見えない&会話が出来ない状況に置かれ、解答者による電気ショックを受けた反応などはすべてあらかじめ録音されたものが流されたのだ。
こうして、細部に渡って慎重な設計を行って、この実験は進められていった。統計学的に言っても、被験者の数は充分だというお墨付きをもらっているらしい。なのでこの実験には、テレビが好きな人だけ、嫌いな人だけ、あるいは水準の高い生活をしている人だけ、低い生活をしている人だけ、というような偏りはほとんどないし、実験手順についてもすべての被験者にまったく同じものが提供されたのだ。
その状況で、被験者たちは様々な反応を見せる。最後まで電気ショックを与え続けたのは81%、というのは確かにその通りだが、その人達も個別には様々な反応を見せたし、もちろん、途中で電気ショックを与えることを止めた19%の人たちも、一括り出来るような行動を取ったわけではない。ある程度のタイプ分けは出来るとはいえ、極限状況に追い込まれた被験者たちは、色んな行動を取る。それらについて、かなり詳細に書かれているのが第二部だ。
本書ではなんどか触れられているが、本書ではとにかく、被験者たちの心のケアが最優先に置かれた。どんな形であれ実験が終了したほぼその瞬間に、これはクイズ番組のパイロット版ではなく心理学の実験だったことが明かされた。実験後、しばらくその事実を伏せていれば、心理学的に得られた知見はもう少し増えただろうと思われる。しかし実験を行った側は、そのデータを捨てて被験者の心のケアを優先したのだ。この実験とアイヒマン実験とでは、細部で若干の相違があるが、この点も一つの相違点である。
第二部では、<変種実験>についても説明される。冒頭の81%というのは、<基本実験>の数字である。実験計画者たちは、微妙に条件を変えた<変種実験>をいくつか行うことで、<権威>の本質がどこにあるのか見極めようとしている。その詳細については本書に書かれているので是非読んで欲しいのだけど、<変種実験>では、服従する率が下がるものが多かった。ほんの僅かな条件の変化で、服従するか否かが決まる、と言ってもいい。本書で繰り返し書かれていることだけど、服従してしまうのはその人が残虐だからでも心が弱いからでもない。「<権威>に命令されたら残酷な行為に走る」というのは、決して他人事ではないのだ。だからこそ、この<変種実験>によって、どういう状況であればより危険なのかが明確になるし、それは知っておくべきだと思う。
第三部では、テレビの持つ<権威>の総括だ。テレビの危険性について様々なことが書かれていて、僕はそのいちいちにすごく納得できるのだけど、一番危険なのは、『面白ければ何をしてもいい』という『テレビ的な価値観』を『無意識の内に刷り込まれてしまっている』ということだろう。目に見える<権威>には対処のしようもある、しかし、テレビという目に見えない<権威>は、それが<権威>であることさえ認識するのが難しいから、余計に危険な存在である、というのは非常にその通りだと思いました。
というわけで、内容についてあれこれ書いてみました。
これは本当に凄い作品だと思います。今まで色んなノンフィクションを読んできましたけど、知的好奇心を刺激する作品(物理とか数学とか)は別として、これは僕の中で相当トップクラスにズドンと心に突き刺さった作品です。
僕は正直、もうほとんどテレビを見ていません。週に最高で3〜4時間、週に30分も見ないということも別に普通です。高校時代ぐらいまでは結構テレビ見てましたけど、大学に入ってから見る時間は極端に減り、結局今ではほとんど見ていません。
どうしても、テレビを面白く感じられなくなってきているな、と思うのです。テレビは、最もマジョリティに対して開かれているはずのメディアなので、きっと今テレビを見ている人たちにとっては、テレビというのは面白いメディアなんでしょう。僕にはもうその感覚がついていけなくなってしまったのです。
そんな僕でも、本書を読んで、自分はどうなるだろう、と考えてしまいました。正直、普段あまりにもテレビを見ないので、テレビ的な価値観に凄く支配されているという実感はありません。ありませんが、恐らく本書で描かれる実験の被験者の中にも、そういう人はいたでしょうし、そういう人でも最後まで電気ショックを与え続けた人はきっといるだろう、と思うのです。
たぶん、僕の文章をここまで読んだ人も、『自分だけは大丈夫だ』と思っているに違いありません。自分はそんなことするはずがない、電気ショックを最後まで与え続けたのはその人が弱いからだ、自分はいつでもそんなゲームからは下りられる、たぶん電気ショックを最後まで与えた人が81%もいるのはフランスだからで、日本人はまた違うだろう等々。きっと色んな形で、『自分だけは大丈夫だ』とみんな思っていることだろうと思います。
でも、本書を読むと、そうは言っていられないと思います。普段テレビをほとんど見ない僕でさえ、ちょっと実際その実験に被験者として参加していたらどうなっているか分からない、と不安になるほどなのです。
自分で書くのもなんですが、僕は昔二回ほど、ちょっとだけテレビに映ったことがあります。カメラを持った人が僕のところに取材に来る、という経験が二度ほどある。その時僕は、テレビってちょっと怖いな、と思いました。
本書でも描かれているけど、『テレビ的な価値観』が広まると、『テレビが求める理想的な出演者』を演じようとしてしまうのです。これは僕も本当にそう感じました。カメラを向けられると、素のままの自分でいるというのはなかなか難しい。もちろん、素のままの自分でカメラの前に立てる人もたくさんいるだろうけど、恐らくそうじゃない人の方が多いだろうと思うんです。僕はそれでも、なるべく自分の意に反することはしたくなかったのですが、それでも、テレビに求められていることをやってしまった部分もある。本書で使われている文章をそのまま抜き出すと、『被験者たちの心の中には、参加すると決めた時点ですでに「自分で決心したからには、言われたことをしっかりやりとげなければならない」という気持ちが芽生えていた。』 本当にそういう気分は強く理解出来ます。
僕は個人的には、<権威>というものが嫌いで仕方ありません。僕のことを個人的に知っている人なら、僕がどれだけ『自分よりも立場が上の人』に反発しながら生きてきたのか、ということを知ってくれているのではないかなぁ、と思います。中学生の頃、担任の先生が勝手に決めたことに反発して決定をやり直すように求めたり、大学時代、委員だった僕は自らの直接の上司的な立ち位置の人に猛反発してとある集まりを欠席したり(恐らくそのサークル史上でも初かそれに近いぐらいの珍事だったんじゃないかなぁ)、バイト先の社員に間違っていると思うことをボロクソに言いまくったり、というような、上の人間が言っていることに素直に従うことが求められる現代社会ではまるで役に立たない社会不適合者なわけです。
誰かに支配されたり、誰かに服従しなくてはいけない状況というのが、性格的に耐えられない人間です。そういう状況になると、どことなく反発心が沸き上がってしまうような、そういう人間です。そんな僕なのだけど、それでも、テレビの取材の時は、このテレビという力に反発するのは難しい、と思わされてしまったわけです。
そういう自分なりの経験があるからこそ、本書はより強い実感を伴って読むことが出来た。この実験では、本当に被験者たちは様々な行動を取る。そのどれが自分であってもおかしくないのかもしれない、と本当に思った。
この実験で、葛藤なくクイズを止めることが出来た被験者はたった一人です。他の被験者と比べ物にならないくらい早い段階でクイズを止めることが出来たのはたった一人だけ。クイズを途中で止めることが出来た19%の内のほとんどは、悩みながらもかなりの電圧まで電気ショックを与え続け、ふとした思いつきやちょっとした状況の変化をうまく掴みとってどうにかクイズを止めることが出来たわけです。19%の人が、強い意思でクイズを止められたわけではない。ひょっとするとそのまま最後まで電気ショックを与えてしまったかもしれないけれども、どうにか必死の思いでそこから抜け出すことが出来た。本書を読むとそういう印象が凄く強いです。
だからこそ、ここまで僕の文章を読んでくれた方、絶対に『自分だけは大丈夫』と思わないでください。本書にもこんな風に書かれています。
『最後に、この実験に深く関わった者として、一言。人は自分で思っているほど強くはない。「自分は自由意志で行動していて、やすやすと権威に従ったりしない」、そう思い込んでいればいるほど、私たちは権威に操られやすすく、服従しやすい存在になるのである。』
さてここで閑話休題。初めの方で、後で書く、と言っていた、諸外国の過激なテレビ番組の話をここで書きましょう。たくさん書きたいんで、短く箇条書きのような感じで行こうと思います。
・アメリカのテレビ番組。賞金を獲得するために、参加者たちはゴキブリを食べたり芋虫がうようよしている水槽に頭を突っ込んだりする。
・イギリスのテレビ番組。マジシャンが銃を使ったロシアンルーレット(弾が一個だけ装弾されている)で、弾がどこにあるか当ててみせるという企画で、実際にそのマジシャンが自分に向けて銃の引き金を引く様を生放送でやった(実際は、5秒遅れで流したらしい)
・ブラジルのテレビ番組。ある犯罪捜査番組の司会者が、自らが関わっている麻薬密売の敵対組織のボスの殺人依頼をギャングに依頼した。そして警察より早く現場に着き、遺体からまだピストルの煙が上がっている死体を撮影する。
・スペインのテレビ番組。プロポーズ番組に呼ばれた女性。あなたにずっと思いを抱いている男性がこれからプロポーズします、と説明されるが、実はその男性はその女性のストーカーであり、女性はそのストーカーから逃れるためシェルターで暮らしていた。番組スタッフはその事実を知りながら女性を騙してスタジオに連れてくる。その女性は数日後に殺害された。
どうでしょうか。他にも様々な具体的なテレビ番組の例が挙げられるのだけど、正直頭おかしいんじゃないか、という気がしました。僕は本書のプロローグで、初めて81%という数字を目にした時、日本のテレビ番組のことを頭に浮かべながら、こんなに高い数字になるだろうか、と半信半疑でした。でもその後、この各国のテレビ番組の状況を読んで、なるほどテレビがこれだけ過激になっているなら、それは81%って高い数字になってもおかしくないか、と思ったのです(本書を読み終えた今では、その国のテレビのレベルがどうであれ、恐らく似たような数字になるだろう、と思っているけれども)。
でもこの部分を読んで、自分の価値観もテレビ的なものに支配されているのかもしれないな、と少し思いました。例えば日本のテレビでは、バラエティとかで食べ物で遊ぶことに対してクレームがくる風潮がここ数年で高まったように思う。本書を読むまでは、いいじゃんそれぐらい目くじらを立てなくたって、と思っていました。でも本書を読んで、もしかしたらそういう発想は、自分がテレビ的な価値観に支配されているだけなんじゃないか、という感じもしてきたのです。
『面白ければ何をしてもいい』という価値観をえいえんと流し続けたテレビ。その価値観に支配されると、『面白さ』を追求するためのあれこれにクレームをつける人たちを、『空気が読めない』と判断しがちだと思います。でも、それって本当にそうなのかな?と、僕は本書を読んでちょっと考えるに至りました。最近あんまり見ていないとはいえ、やっぱり子供の頃はかなりテレビを見てたし、テレビと共に育ってきたという部分は否定できないわけで、自分のあらゆる価値観が、テレビを通じて流れてくる価値観によってどう変質してしまっているのか、自分を見つめ直すことは大事かもしれない、と本当に強く思いました。
本書については書きたいことがまだまだたくさんありすぎるのだけど、細かいところまで書きだすとキリがないし、本書を読む楽しみを減らすことになってしまうかもしれないので、これぐらいに留めておくことにします。
最後に、本書の内容とは直接的には関係のないことを。
本書は、テレビは<権威>を持ちうるか、という実験でした。ここで言う<権威>とは、色んな要素が含まれるでしょうけど、その中の一つには、それに触れる者に容易に価値観を植えつける、という部分もあるのだろうと思います。
そしてその、容易に価値観を植えつける、という部分は、決してテレビだけが持つものではない、と思うのです。生活の中のあらゆる側面の中で、そういう部分は顔を出している。
僕は書店で働いているので、書店の話をします。書店も、『本を売る』という点に関しては、まだまだお客さんに『容易に価値観を植えつけることができる』存在だと思うのです。
だからこそ僕は、自分たちがどんな価値観を植えつけているのか、ということについて、もっと自覚的であるべきだ、と強く思うのです。
一例として、多面展開の例を挙げます。多面展開というのは、一箇所に本を10面とか20面とかとにかくワーっと並べて目立たせて売る、という手法です。
僕はこの多面展開が好きではないんですが、単純にこのやり方を否定したいというわけでもありません。ただこのやり方が、お客さんに対してどういう価値観の植え付けを担っているかという点について、自覚的でなくてはいけない、と思うのです。
あくまでもこれは僕のイメージだけど、お客さんの中には、『多面展開にされている→面白いんだ→買おう』という人はいると思います。これが僕の言う、容易に価値観を植えつける、ということです。それはやがて、『とりあえず多面展開されているものを買えばいい』という思考に繋がっていってしまうと思うのです。
別に、それが良い作品であれば(良い作品であると多面展開をする人間が信じていれば)、全然問題ない手法だと思います。でも、個人的には、『売れているから』『お客さんが求めているから』というだけの理由で多面展開をすることに、どうしても強い違和感を覚えてしまいます(本を読まない書店員が増えているので、そういう書店員は間違いなく存在するはずです)。それは本当に正しいやり方なんだろうか、と思ってしまうのです。もちろんこれには色んな意見があるでしょうし、反論も色々とあるでしょうが、少なくともその行為は、テレビが視聴率のために分かりやすい価値観を押し付けるのと似たような違和感を僕に抱かせます。
別にこの話は書店に限ったことではありません。現代社会では、恐らく様々な場所で、こういう価値観の植えつけ合いが行われているはずです。その流れに逆らうことは本当に難しい。でも、僕は個人的には、自分がどんな価値観の植え付けに加担しているのか、それについて自覚的であるべきではないか、という感じを強く持っています。もちろんこの言葉は、自分にも向けられているわけですが。
さて本当にこれで最後です。僕はつい最近、適菜収「ゲーテの警告」という新書を読みました。「ゲーテの警告」と本書をかなり近い時期に読んだことはただの偶然ですが、この二冊は本当に表裏を成す作品ではないか、と個人的に勝手に思っています。「ゲーテの警告」は、作中でB層と呼ぶ、自分ではあまり考えず、偉い人の意見を鵜呑みにする人たちの存在を明確にした作品です。そこで描かれるB層と、本書の実験で最後まで電気ショックを与え続けてしまった人たちは、僕の中で被る。もちろん多くの違いはあるが(実験の被験者たちは、権威に対して強制的に服従させられたのに対して、B層は強制的に服従させられるような環境にいるわけではないのに服従しているような振る舞いをしてしまう、というのが一番違う)、この二作を読むことで、現代社会の何かが浮き彫りになってくるような、そんな印象がありました。是非両作品を読んで欲しいと思います。
久しぶりに、ここまで衝撃的な作品を読みました。本当に、普段本をまったく読まないという人でも、これだけはとりあえず読んだ方がいいと思います。是非とも読んでみてください。
クリストフ・ニック+ミシェル・エルチャニノフ「死のテレビ実験 人はそこまで服従するのか」
クリストフ・ニック+ミシェル・エルチャニノフ「死のテレビ実験 人はそこまで服従するのか」
まず、2009年、フランスのテレビ局が実際に行った、とある実験の内容を読んで欲しい。
『架空のクイズ番組のパイロット版(実際には放送されないので賞金が出ないと説明される)の収録に、慎重に選んだ一般参加者を集め、彼らに出題者になってもらう。彼らは問題を読み、解答者(実験協力者)が間違える毎に電気ショックを与えるよう指示される。電気ショックは一問間違える毎に電圧が上がり、最高で460ボルトまである。そしてその電圧まで行くと解答者を死に至らしめるかもしれない、と予感させるような状況にある。
さてその状況の中で、果たして参加者の内、何%の人が460ボルトまで電気ショックを与えただろうか。』
正解を書く前に、少し背景的な説明をしようと思います。
まずこの実験は、1960年代にアメリカのイェール大学でミルグラムという心理学者が行った、通称「アイヒマン実験」と呼ばれる、心理学の分野で非常に有名な実験をテレビに応用したものだ。
そのアイヒマン実験とはこうだ。ミルグラムは、記憶力に関する実験と称して被験者を募集し、科学実験という<権威>のもとで、被験者が見ず知らずの相手に対して電気ショックを与える場を設定した。実験内容は、被験者が「先生役」となって問題文を読み、「生徒役(学習者)の人」(実は実験協力者)がそれに答え、もし答えがまちがっていたら電気ショックを与える、というものだ。電気ショックの強さは間違える度に上がり、最高で450ボルトという、死んでもおかしくない強さに設定されている。
このアイヒマン実験は、当時大きな反響を巻き起こした。このアイヒマン実験では、実に60%強の人々が、450ボルトの電機食器を生徒役に与えたのだ。これは何度も追実験が行われ、その度に同様の結果が出ている、信頼できる実験である。
これは、『<権威>から良心に反する命令を受けた時、個人はどれくらいの割合でそれに服従するのか』を調べる目的で行われた実験だ。この実験の名前の元になっている、ナチス・ドイツで上司の命令により数百万人の人々を収容所に送る手配をしたアドルフ・アイヒマンは、当初とんでもない冷酷非常な人間である、と思われていた。しかしこのアイヒマン実験が行われ、その結果が広まるにつれ、善良な人間であっても権威から命令されれば自らの良心に反してでもそれに従ってしまう、という人間の行動が明らかにされたのだ。
冒頭で書いた実験は、そのアイヒマン実験の応用だ。この実験で目的としていることは二つある。一つアイヒマン実験と同じく、『人は服従しやすいのかどうか』である。そして、もう一つの目的の方がより重要である。それは、『テレビは<権威>を持つかどうか』である。
さてこの辺りで冒頭の実験の正解を書こう。アイヒマン実験では、最後まで電気ショックを与え続けた人は、全被験者の60%強だった。2009年に行われたクイズ番組を舞台にした実験では、なんと81%もの人々が最後まで電気ショックを与え続けたのだ。
本書は、この実験を思いついたフランスのテレビマンとその実験に協力した一人であるジャーナリスト兼哲学者による、どうしてこの実験をしようと思ったのかという話から、実験が実際にどう進みどんな結果が出たのか、そしてどうしてそういう結果になったのかまで考察している作品です。この実験の模様は、「死のテレビ実験」というタイトルで実際にフランスで放送され、本書の実験内容に関する部分は、そのドキュメンタリーをベースに書かれています。
本書は、大きく分けて三部構成である。
第一部は、「いかにテレビは過激になり、そしてその現状から、どうして自分たちがこの実験を思いついたのか。そして実験の準備をどれだけ綿密に行い、実際の実験はどう進行していったのか」という内容。
第二部は、「実験で現れた様々な個別の事象について詳しく触れつつ、被験者たちの心の動きや葛藤を分析する」という内容。
そして第三部は、「実験結果を受けて、それぞれについて考察を加えつつ、テレビという権力について総括する」という内容。
まず、第一部の冒頭で、どうしてこの実験を行うことにしたのか、という話が出てくるんだけど、その話は後回しにします。ここでは、『テレビがこれだけ過激であるという具体例』をいくつか挙げ、このままの流れで行けばいずれテレビは番組内で人を殺しかねない、だからこそ今このタイミングで、『テレビが<権威>を持つか否か』を確認する実験を思いついたのだ、という話なんだけど、その、『テレビがこれだけ過激であるという具体例』が本当に酷すぎるのだ。日本のテレビ番組が幼く見えるぐらいの過激さで、先にその話を書いてしまうと、そっちに引きずられて本書のメインの話に焦点が当たらなくなってしまうかもしれない気がしたんで、ちょっと後回しにします。
さてその後で、実験の準備と進行について描かれます。
実験の準備には二年以上の時間を掛けたそう。テレビのクイズ番組という雰囲気を出すために実際の演出家や脚本家に参加してもらい、臨場感のある番組作りを行う。また被験者を集めるのにもかなり慎重だった。アイヒマン実験でもこれは慎重に行われていて、なるべく被験者の層が均質になるように、マーケティング会社二社に依頼して被験者の募集を手伝ってもらった。
実際の実験についても、すべての被験者に条件が同じになるように慎重に進められていった。例えば一例として、タクシーで被験者をテレビ局まで連れて行く際、運転手はラジオのボリュームを上げるように指示されている。これは、被験者が運転手に話しかけないようにするための配慮である。
解答者に電気ショックが流れるというのはもちろんフェイクで、実際には電気ショックは流れない。また、出題者から解答者は見えない&会話が出来ない状況に置かれ、解答者による電気ショックを受けた反応などはすべてあらかじめ録音されたものが流されたのだ。
こうして、細部に渡って慎重な設計を行って、この実験は進められていった。統計学的に言っても、被験者の数は充分だというお墨付きをもらっているらしい。なのでこの実験には、テレビが好きな人だけ、嫌いな人だけ、あるいは水準の高い生活をしている人だけ、低い生活をしている人だけ、というような偏りはほとんどないし、実験手順についてもすべての被験者にまったく同じものが提供されたのだ。
その状況で、被験者たちは様々な反応を見せる。最後まで電気ショックを与え続けたのは81%、というのは確かにその通りだが、その人達も個別には様々な反応を見せたし、もちろん、途中で電気ショックを与えることを止めた19%の人たちも、一括り出来るような行動を取ったわけではない。ある程度のタイプ分けは出来るとはいえ、極限状況に追い込まれた被験者たちは、色んな行動を取る。それらについて、かなり詳細に書かれているのが第二部だ。
本書ではなんどか触れられているが、本書ではとにかく、被験者たちの心のケアが最優先に置かれた。どんな形であれ実験が終了したほぼその瞬間に、これはクイズ番組のパイロット版ではなく心理学の実験だったことが明かされた。実験後、しばらくその事実を伏せていれば、心理学的に得られた知見はもう少し増えただろうと思われる。しかし実験を行った側は、そのデータを捨てて被験者の心のケアを優先したのだ。この実験とアイヒマン実験とでは、細部で若干の相違があるが、この点も一つの相違点である。
第二部では、<変種実験>についても説明される。冒頭の81%というのは、<基本実験>の数字である。実験計画者たちは、微妙に条件を変えた<変種実験>をいくつか行うことで、<権威>の本質がどこにあるのか見極めようとしている。その詳細については本書に書かれているので是非読んで欲しいのだけど、<変種実験>では、服従する率が下がるものが多かった。ほんの僅かな条件の変化で、服従するか否かが決まる、と言ってもいい。本書で繰り返し書かれていることだけど、服従してしまうのはその人が残虐だからでも心が弱いからでもない。「<権威>に命令されたら残酷な行為に走る」というのは、決して他人事ではないのだ。だからこそ、この<変種実験>によって、どういう状況であればより危険なのかが明確になるし、それは知っておくべきだと思う。
第三部では、テレビの持つ<権威>の総括だ。テレビの危険性について様々なことが書かれていて、僕はそのいちいちにすごく納得できるのだけど、一番危険なのは、『面白ければ何をしてもいい』という『テレビ的な価値観』を『無意識の内に刷り込まれてしまっている』ということだろう。目に見える<権威>には対処のしようもある、しかし、テレビという目に見えない<権威>は、それが<権威>であることさえ認識するのが難しいから、余計に危険な存在である、というのは非常にその通りだと思いました。
というわけで、内容についてあれこれ書いてみました。
これは本当に凄い作品だと思います。今まで色んなノンフィクションを読んできましたけど、知的好奇心を刺激する作品(物理とか数学とか)は別として、これは僕の中で相当トップクラスにズドンと心に突き刺さった作品です。
僕は正直、もうほとんどテレビを見ていません。週に最高で3〜4時間、週に30分も見ないということも別に普通です。高校時代ぐらいまでは結構テレビ見てましたけど、大学に入ってから見る時間は極端に減り、結局今ではほとんど見ていません。
どうしても、テレビを面白く感じられなくなってきているな、と思うのです。テレビは、最もマジョリティに対して開かれているはずのメディアなので、きっと今テレビを見ている人たちにとっては、テレビというのは面白いメディアなんでしょう。僕にはもうその感覚がついていけなくなってしまったのです。
そんな僕でも、本書を読んで、自分はどうなるだろう、と考えてしまいました。正直、普段あまりにもテレビを見ないので、テレビ的な価値観に凄く支配されているという実感はありません。ありませんが、恐らく本書で描かれる実験の被験者の中にも、そういう人はいたでしょうし、そういう人でも最後まで電気ショックを与え続けた人はきっといるだろう、と思うのです。
たぶん、僕の文章をここまで読んだ人も、『自分だけは大丈夫だ』と思っているに違いありません。自分はそんなことするはずがない、電気ショックを最後まで与え続けたのはその人が弱いからだ、自分はいつでもそんなゲームからは下りられる、たぶん電気ショックを最後まで与えた人が81%もいるのはフランスだからで、日本人はまた違うだろう等々。きっと色んな形で、『自分だけは大丈夫だ』とみんな思っていることだろうと思います。
でも、本書を読むと、そうは言っていられないと思います。普段テレビをほとんど見ない僕でさえ、ちょっと実際その実験に被験者として参加していたらどうなっているか分からない、と不安になるほどなのです。
自分で書くのもなんですが、僕は昔二回ほど、ちょっとだけテレビに映ったことがあります。カメラを持った人が僕のところに取材に来る、という経験が二度ほどある。その時僕は、テレビってちょっと怖いな、と思いました。
本書でも描かれているけど、『テレビ的な価値観』が広まると、『テレビが求める理想的な出演者』を演じようとしてしまうのです。これは僕も本当にそう感じました。カメラを向けられると、素のままの自分でいるというのはなかなか難しい。もちろん、素のままの自分でカメラの前に立てる人もたくさんいるだろうけど、恐らくそうじゃない人の方が多いだろうと思うんです。僕はそれでも、なるべく自分の意に反することはしたくなかったのですが、それでも、テレビに求められていることをやってしまった部分もある。本書で使われている文章をそのまま抜き出すと、『被験者たちの心の中には、参加すると決めた時点ですでに「自分で決心したからには、言われたことをしっかりやりとげなければならない」という気持ちが芽生えていた。』 本当にそういう気分は強く理解出来ます。
僕は個人的には、<権威>というものが嫌いで仕方ありません。僕のことを個人的に知っている人なら、僕がどれだけ『自分よりも立場が上の人』に反発しながら生きてきたのか、ということを知ってくれているのではないかなぁ、と思います。中学生の頃、担任の先生が勝手に決めたことに反発して決定をやり直すように求めたり、大学時代、委員だった僕は自らの直接の上司的な立ち位置の人に猛反発してとある集まりを欠席したり(恐らくそのサークル史上でも初かそれに近いぐらいの珍事だったんじゃないかなぁ)、バイト先の社員に間違っていると思うことをボロクソに言いまくったり、というような、上の人間が言っていることに素直に従うことが求められる現代社会ではまるで役に立たない社会不適合者なわけです。
誰かに支配されたり、誰かに服従しなくてはいけない状況というのが、性格的に耐えられない人間です。そういう状況になると、どことなく反発心が沸き上がってしまうような、そういう人間です。そんな僕なのだけど、それでも、テレビの取材の時は、このテレビという力に反発するのは難しい、と思わされてしまったわけです。
そういう自分なりの経験があるからこそ、本書はより強い実感を伴って読むことが出来た。この実験では、本当に被験者たちは様々な行動を取る。そのどれが自分であってもおかしくないのかもしれない、と本当に思った。
この実験で、葛藤なくクイズを止めることが出来た被験者はたった一人です。他の被験者と比べ物にならないくらい早い段階でクイズを止めることが出来たのはたった一人だけ。クイズを途中で止めることが出来た19%の内のほとんどは、悩みながらもかなりの電圧まで電気ショックを与え続け、ふとした思いつきやちょっとした状況の変化をうまく掴みとってどうにかクイズを止めることが出来たわけです。19%の人が、強い意思でクイズを止められたわけではない。ひょっとするとそのまま最後まで電気ショックを与えてしまったかもしれないけれども、どうにか必死の思いでそこから抜け出すことが出来た。本書を読むとそういう印象が凄く強いです。
だからこそ、ここまで僕の文章を読んでくれた方、絶対に『自分だけは大丈夫』と思わないでください。本書にもこんな風に書かれています。
『最後に、この実験に深く関わった者として、一言。人は自分で思っているほど強くはない。「自分は自由意志で行動していて、やすやすと権威に従ったりしない」、そう思い込んでいればいるほど、私たちは権威に操られやすすく、服従しやすい存在になるのである。』
さてここで閑話休題。初めの方で、後で書く、と言っていた、諸外国の過激なテレビ番組の話をここで書きましょう。たくさん書きたいんで、短く箇条書きのような感じで行こうと思います。
・アメリカのテレビ番組。賞金を獲得するために、参加者たちはゴキブリを食べたり芋虫がうようよしている水槽に頭を突っ込んだりする。
・イギリスのテレビ番組。マジシャンが銃を使ったロシアンルーレット(弾が一個だけ装弾されている)で、弾がどこにあるか当ててみせるという企画で、実際にそのマジシャンが自分に向けて銃の引き金を引く様を生放送でやった(実際は、5秒遅れで流したらしい)
・ブラジルのテレビ番組。ある犯罪捜査番組の司会者が、自らが関わっている麻薬密売の敵対組織のボスの殺人依頼をギャングに依頼した。そして警察より早く現場に着き、遺体からまだピストルの煙が上がっている死体を撮影する。
・スペインのテレビ番組。プロポーズ番組に呼ばれた女性。あなたにずっと思いを抱いている男性がこれからプロポーズします、と説明されるが、実はその男性はその女性のストーカーであり、女性はそのストーカーから逃れるためシェルターで暮らしていた。番組スタッフはその事実を知りながら女性を騙してスタジオに連れてくる。その女性は数日後に殺害された。
どうでしょうか。他にも様々な具体的なテレビ番組の例が挙げられるのだけど、正直頭おかしいんじゃないか、という気がしました。僕は本書のプロローグで、初めて81%という数字を目にした時、日本のテレビ番組のことを頭に浮かべながら、こんなに高い数字になるだろうか、と半信半疑でした。でもその後、この各国のテレビ番組の状況を読んで、なるほどテレビがこれだけ過激になっているなら、それは81%って高い数字になってもおかしくないか、と思ったのです(本書を読み終えた今では、その国のテレビのレベルがどうであれ、恐らく似たような数字になるだろう、と思っているけれども)。
でもこの部分を読んで、自分の価値観もテレビ的なものに支配されているのかもしれないな、と少し思いました。例えば日本のテレビでは、バラエティとかで食べ物で遊ぶことに対してクレームがくる風潮がここ数年で高まったように思う。本書を読むまでは、いいじゃんそれぐらい目くじらを立てなくたって、と思っていました。でも本書を読んで、もしかしたらそういう発想は、自分がテレビ的な価値観に支配されているだけなんじゃないか、という感じもしてきたのです。
『面白ければ何をしてもいい』という価値観をえいえんと流し続けたテレビ。その価値観に支配されると、『面白さ』を追求するためのあれこれにクレームをつける人たちを、『空気が読めない』と判断しがちだと思います。でも、それって本当にそうなのかな?と、僕は本書を読んでちょっと考えるに至りました。最近あんまり見ていないとはいえ、やっぱり子供の頃はかなりテレビを見てたし、テレビと共に育ってきたという部分は否定できないわけで、自分のあらゆる価値観が、テレビを通じて流れてくる価値観によってどう変質してしまっているのか、自分を見つめ直すことは大事かもしれない、と本当に強く思いました。
本書については書きたいことがまだまだたくさんありすぎるのだけど、細かいところまで書きだすとキリがないし、本書を読む楽しみを減らすことになってしまうかもしれないので、これぐらいに留めておくことにします。
最後に、本書の内容とは直接的には関係のないことを。
本書は、テレビは<権威>を持ちうるか、という実験でした。ここで言う<権威>とは、色んな要素が含まれるでしょうけど、その中の一つには、それに触れる者に容易に価値観を植えつける、という部分もあるのだろうと思います。
そしてその、容易に価値観を植えつける、という部分は、決してテレビだけが持つものではない、と思うのです。生活の中のあらゆる側面の中で、そういう部分は顔を出している。
僕は書店で働いているので、書店の話をします。書店も、『本を売る』という点に関しては、まだまだお客さんに『容易に価値観を植えつけることができる』存在だと思うのです。
だからこそ僕は、自分たちがどんな価値観を植えつけているのか、ということについて、もっと自覚的であるべきだ、と強く思うのです。
一例として、多面展開の例を挙げます。多面展開というのは、一箇所に本を10面とか20面とかとにかくワーっと並べて目立たせて売る、という手法です。
僕はこの多面展開が好きではないんですが、単純にこのやり方を否定したいというわけでもありません。ただこのやり方が、お客さんに対してどういう価値観の植え付けを担っているかという点について、自覚的でなくてはいけない、と思うのです。
あくまでもこれは僕のイメージだけど、お客さんの中には、『多面展開にされている→面白いんだ→買おう』という人はいると思います。これが僕の言う、容易に価値観を植えつける、ということです。それはやがて、『とりあえず多面展開されているものを買えばいい』という思考に繋がっていってしまうと思うのです。
別に、それが良い作品であれば(良い作品であると多面展開をする人間が信じていれば)、全然問題ない手法だと思います。でも、個人的には、『売れているから』『お客さんが求めているから』というだけの理由で多面展開をすることに、どうしても強い違和感を覚えてしまいます(本を読まない書店員が増えているので、そういう書店員は間違いなく存在するはずです)。それは本当に正しいやり方なんだろうか、と思ってしまうのです。もちろんこれには色んな意見があるでしょうし、反論も色々とあるでしょうが、少なくともその行為は、テレビが視聴率のために分かりやすい価値観を押し付けるのと似たような違和感を僕に抱かせます。
別にこの話は書店に限ったことではありません。現代社会では、恐らく様々な場所で、こういう価値観の植えつけ合いが行われているはずです。その流れに逆らうことは本当に難しい。でも、僕は個人的には、自分がどんな価値観の植え付けに加担しているのか、それについて自覚的であるべきではないか、という感じを強く持っています。もちろんこの言葉は、自分にも向けられているわけですが。
さて本当にこれで最後です。僕はつい最近、適菜収「ゲーテの警告」という新書を読みました。「ゲーテの警告」と本書をかなり近い時期に読んだことはただの偶然ですが、この二冊は本当に表裏を成す作品ではないか、と個人的に勝手に思っています。「ゲーテの警告」は、作中でB層と呼ぶ、自分ではあまり考えず、偉い人の意見を鵜呑みにする人たちの存在を明確にした作品です。そこで描かれるB層と、本書の実験で最後まで電気ショックを与え続けてしまった人たちは、僕の中で被る。もちろん多くの違いはあるが(実験の被験者たちは、権威に対して強制的に服従させられたのに対して、B層は強制的に服従させられるような環境にいるわけではないのに服従しているような振る舞いをしてしまう、というのが一番違う)、この二作を読むことで、現代社会の何かが浮き彫りになってくるような、そんな印象がありました。是非両作品を読んで欲しいと思います。
久しぶりに、ここまで衝撃的な作品を読みました。本当に、普段本をまったく読まないという人でも、これだけはとりあえず読んだ方がいいと思います。是非とも読んでみてください。
クリストフ・ニック+ミシェル・エルチャニノフ「死のテレビ実験 人はそこまで服従するのか」
クリストフ・ニック+ミシェル・エルチャニノフ「死のテレビ実験 人はそこまで服従するのか」
2011年09月05日
少女病(吉川トリコ)
内容に入ろうと思います。
本書は、母親と三姉妹を描いた連作短編集。かつて一世を風靡した少女小説家で、今ではノベライズなんかを時々手がけるだけの母親・織子。父親がいなく、母親の織子が家事一切を放棄する家で、家族の面倒を取り仕切ることで人生の大半を過ごしてきた長女・都。売れない漫画家を恋人に持ち、自身は特に働くでもないまま30歳まで生きてきた次女・司。美しい容姿を持ちながらどうしようもなく普通で、一人だけ年の離れた子供である三女・紫。
「長女・都」
病院に行くと、「少女病」に掛かっていますね、と診断される。少女病?そんな病気あったんだっけ?先生曰く、男と付き合うとすぐに治るらしいんだけど。
これまで男性と付き合ったことがない。というか、男の人は苦手だ。都の中では男というのは少女小説の中の登場人物のようでしかなく、現実の男というのはよくわからないのであった。普通三十も超えれば、みんなそういうことは普通に分かるものなのかしら?
ぎっくり腰をやって、たまたま行った治療院で、若い(と言っても自分と同年代)男に触れられ、なんだかその耳障りのいい声に惹かれている自分に気づく。でも、だからって、どうしたらいいんだろう?
「次女・司」
真山のところに行っても、どうにも休まらない。どうも真山はピリピリとしているようだ。うっかりとは近づけない。何かあった?って聞いても、特に答えてくれるわけでもない。でも真山は、司が初めて惚れた男だ。付き合ったことも、セックスしたことも、ないわけじゃない。でもそれまでは、適当にくっついてすぐ分かれるような、そういう恋愛ばかりだった。
周りがどんどん結婚していって、久美子まで結婚するらしい。織子に招待状を隠されていて、返信が欲しいって電話があってそれに気づいた。みぃちゃん(都)も、見合いの日からなんだか変わった。結婚することが女の幸せなんだろうか、本当に。
「三女・紫」
自分がどうしようもなく普通だっていうことには、もうずっと前から気づいている。キレイなのに残念、と言われていることも知っている。自分の容姿に気を遣うことにあまり興味を持てないのだ。
みぃちゃんがお見合いの日以来変わってしまって、なんだか残念。紫は、まだ恋をしたことがない。でも、織子の話を聞いて、なんだかそういうものに強い何かを感じられないでいる。図書館で声を掛けられた丸地のような男はこれまでもたくさんいたけど、なんだかよくわからない。
太郎だけは別だ。
太郎が他の男と違うのは、紫が太郎に会いたいと思っている、ということだ。紫が会いたいと思う時に、何故か太郎はそこにいる。
太郎は、たらしだ。それに気づけない紫ではない。太郎が色んな女性にその笑顔を向けていることも知っている。それでも紫は、太郎のことがずっと気になっている…。
「母・織子」
家事全般を担っていた都が結婚することになって、家を出てしまう都の代わりに、家事をみんなで分担しよう、と言い出したのは紫だ。面倒くさい。それに、学級会みたいに多数決なんて取り出すもんだから、やってられない。
今まで付き合いのなかった出版社の編集者から、自伝風の小説を書いてもらえないか、と依頼がある。確かに織子の人生は、小説に出来るだけのネタに溢れている。それでも、どうにも織子は乗り気になれない。小説を書くことは織子にとって、現実を見ないでいる手段の一つなのだから…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。僕が読みながら連想したのが、江國香織の「思いわずらうことなく愉しく生きよ」です。そっちの内容ははっきりとは覚えていないんだけど、確かそっちも三姉妹の作品だったような記憶があります。しかも本書と同じく、結構トリッキーな三姉妹の。
女って面白いなぁ、と個人的には思ってます(普段僕は、特に文章で書く時は『女性』って単語を使う方が多いんだけど、今回は作品的に『女』って表記の方がしっくりくるんでこっちを使います)。女って、一人でいる時と複数集まった時で全然違う。複数の女が集まることで、なんか男には理解出来ない化学反応が起こるみたいなんですね。だから女は、誰と一緒にいるかで本当に違う姿を見せる。
もちろん女は、男の前でも違った姿を見せるのでしょう。でも、男に見せる面ってのは、ただの一面だと思うんですね。それがどんな男であっても、自分の中の『これが男に見せる面』っていう、ただ一種類の面だけが表に出てくる、というのが僕の印象です。
でも、女同士が集まると違う。意識的なのか無意識的なのかそれは判断できないけど、女はどの女と同じ空間にいるかで、見せる面が全然違う。僕には化学反応としか表現しようのないその変化は、それぞれの個性が強ければ強いほど、余計に大きな変化を見せる。
本書は、そんな個性の強い女同士が同じ空間にいる時、どこでどんな面が現れるのか、そんなカタログのような小説なんじゃないか、と僕は思いました。都・司・紫・織子の組み合わせって11通りあるんだけど(場合の数とか苦手なんだけど合ってるよなぁ)、その11通りそれぞれについて、誰がどんな面を見せるのか。くるくると変わる万華鏡のように移ろうその姿がめまぐるしく描かれているような感じがあって、やっぱりどうしても男の僕には追いつけない部分があるものの、なかなか面白いなぁ、と思いました。
個人的に一番惹かれるのは紫ですね。物凄く整った容姿なのに、図書館に部屋着同然の格好で行き、首に新聞社のロゴが入ったタオルを掛けている、とかマジ最高過ぎますね。そういう、自分がどう見られるのか自覚的でありながらそれを自分の中で無視出来るっていうのは、僕は強く惹かれるんでありますなぁ。
都もなかなかいいですね。恋をしたことがない、男がどういう存在かっていうのは少女小説からのイメージしかない、っていうのはちょっと恐ろしい気もするんだけど(笑)、その状況を特別焦るわけでもなく(まあ、家族の世話があるから、という都なりに強い言い訳があったから焦らずにいられた、ということかもしれないけど)、ゆるりと過ごしているのもいいですね。僕は本作中で一番好きな場面は、紫の章で描かれていた『みぃちゃん、あたし今日徹夜なの』ってシーンなんだけど、あの場面での紫と都は良かったなぁ。
司については、あまり強く何かを感じられる対象ではないんだけど、司の章の冒頭で書かれている、司が編集者に迸出したマンガのネームのうだうだした文章が凄く好きですね。『なんでしあわせになんなきゃいけないの?』っていうのは、僕もホントそうだよなぁ、といつも思っています。『しあわせじゃなきゃ人間じゃないって必死すぎ。悪いけど、ぜんぜんしあわせそうに見えないよあんたたち。』うんうん、その通りだと思うんだよなぁ。
母親の織子については、ちょっとなんともいえないのだけど、まあ織子の存在があったからこそ、これほどまでに謎めいた空間(三姉妹+母親が住む城)が生まれたのだなぁと思うと、まあそれだけで充分かな、という気はします。織子についてじゃ、最後の方に出てきたこのフレーズ、
『でもしょうがないじゃないか、とも思うのだった。居直るわけじゃなけど、最初からなんでもうまくできる人間などいないように、母になるのも妻になるのも――それどころか生きるのも女をやるのも、私たち、これがはじめてなんだもの。うまくできなくてあたりまえなのだ。』
って言い訳は、僕も常に使いたいなぁと思っているところなのでありました。
やっぱりどうしても女性向けの作品だろうとは思います。冒頭の都の章の初めがチェックシートになっていて、それに当てはまると少女病なんだそうですよ。まあ、みんながみんな大人になる必要もないんじゃないかなと、昔から思っていたようなことを再確認出来た作品だなという感じがします。女性のみなさん、是非読んでみてください。
本書は、母親と三姉妹を描いた連作短編集。かつて一世を風靡した少女小説家で、今ではノベライズなんかを時々手がけるだけの母親・織子。父親がいなく、母親の織子が家事一切を放棄する家で、家族の面倒を取り仕切ることで人生の大半を過ごしてきた長女・都。売れない漫画家を恋人に持ち、自身は特に働くでもないまま30歳まで生きてきた次女・司。美しい容姿を持ちながらどうしようもなく普通で、一人だけ年の離れた子供である三女・紫。
「長女・都」
病院に行くと、「少女病」に掛かっていますね、と診断される。少女病?そんな病気あったんだっけ?先生曰く、男と付き合うとすぐに治るらしいんだけど。
これまで男性と付き合ったことがない。というか、男の人は苦手だ。都の中では男というのは少女小説の中の登場人物のようでしかなく、現実の男というのはよくわからないのであった。普通三十も超えれば、みんなそういうことは普通に分かるものなのかしら?
ぎっくり腰をやって、たまたま行った治療院で、若い(と言っても自分と同年代)男に触れられ、なんだかその耳障りのいい声に惹かれている自分に気づく。でも、だからって、どうしたらいいんだろう?
「次女・司」
真山のところに行っても、どうにも休まらない。どうも真山はピリピリとしているようだ。うっかりとは近づけない。何かあった?って聞いても、特に答えてくれるわけでもない。でも真山は、司が初めて惚れた男だ。付き合ったことも、セックスしたことも、ないわけじゃない。でもそれまでは、適当にくっついてすぐ分かれるような、そういう恋愛ばかりだった。
周りがどんどん結婚していって、久美子まで結婚するらしい。織子に招待状を隠されていて、返信が欲しいって電話があってそれに気づいた。みぃちゃん(都)も、見合いの日からなんだか変わった。結婚することが女の幸せなんだろうか、本当に。
「三女・紫」
自分がどうしようもなく普通だっていうことには、もうずっと前から気づいている。キレイなのに残念、と言われていることも知っている。自分の容姿に気を遣うことにあまり興味を持てないのだ。
みぃちゃんがお見合いの日以来変わってしまって、なんだか残念。紫は、まだ恋をしたことがない。でも、織子の話を聞いて、なんだかそういうものに強い何かを感じられないでいる。図書館で声を掛けられた丸地のような男はこれまでもたくさんいたけど、なんだかよくわからない。
太郎だけは別だ。
太郎が他の男と違うのは、紫が太郎に会いたいと思っている、ということだ。紫が会いたいと思う時に、何故か太郎はそこにいる。
太郎は、たらしだ。それに気づけない紫ではない。太郎が色んな女性にその笑顔を向けていることも知っている。それでも紫は、太郎のことがずっと気になっている…。
「母・織子」
家事全般を担っていた都が結婚することになって、家を出てしまう都の代わりに、家事をみんなで分担しよう、と言い出したのは紫だ。面倒くさい。それに、学級会みたいに多数決なんて取り出すもんだから、やってられない。
今まで付き合いのなかった出版社の編集者から、自伝風の小説を書いてもらえないか、と依頼がある。確かに織子の人生は、小説に出来るだけのネタに溢れている。それでも、どうにも織子は乗り気になれない。小説を書くことは織子にとって、現実を見ないでいる手段の一つなのだから…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。僕が読みながら連想したのが、江國香織の「思いわずらうことなく愉しく生きよ」です。そっちの内容ははっきりとは覚えていないんだけど、確かそっちも三姉妹の作品だったような記憶があります。しかも本書と同じく、結構トリッキーな三姉妹の。
女って面白いなぁ、と個人的には思ってます(普段僕は、特に文章で書く時は『女性』って単語を使う方が多いんだけど、今回は作品的に『女』って表記の方がしっくりくるんでこっちを使います)。女って、一人でいる時と複数集まった時で全然違う。複数の女が集まることで、なんか男には理解出来ない化学反応が起こるみたいなんですね。だから女は、誰と一緒にいるかで本当に違う姿を見せる。
もちろん女は、男の前でも違った姿を見せるのでしょう。でも、男に見せる面ってのは、ただの一面だと思うんですね。それがどんな男であっても、自分の中の『これが男に見せる面』っていう、ただ一種類の面だけが表に出てくる、というのが僕の印象です。
でも、女同士が集まると違う。意識的なのか無意識的なのかそれは判断できないけど、女はどの女と同じ空間にいるかで、見せる面が全然違う。僕には化学反応としか表現しようのないその変化は、それぞれの個性が強ければ強いほど、余計に大きな変化を見せる。
本書は、そんな個性の強い女同士が同じ空間にいる時、どこでどんな面が現れるのか、そんなカタログのような小説なんじゃないか、と僕は思いました。都・司・紫・織子の組み合わせって11通りあるんだけど(場合の数とか苦手なんだけど合ってるよなぁ)、その11通りそれぞれについて、誰がどんな面を見せるのか。くるくると変わる万華鏡のように移ろうその姿がめまぐるしく描かれているような感じがあって、やっぱりどうしても男の僕には追いつけない部分があるものの、なかなか面白いなぁ、と思いました。
個人的に一番惹かれるのは紫ですね。物凄く整った容姿なのに、図書館に部屋着同然の格好で行き、首に新聞社のロゴが入ったタオルを掛けている、とかマジ最高過ぎますね。そういう、自分がどう見られるのか自覚的でありながらそれを自分の中で無視出来るっていうのは、僕は強く惹かれるんでありますなぁ。
都もなかなかいいですね。恋をしたことがない、男がどういう存在かっていうのは少女小説からのイメージしかない、っていうのはちょっと恐ろしい気もするんだけど(笑)、その状況を特別焦るわけでもなく(まあ、家族の世話があるから、という都なりに強い言い訳があったから焦らずにいられた、ということかもしれないけど)、ゆるりと過ごしているのもいいですね。僕は本作中で一番好きな場面は、紫の章で描かれていた『みぃちゃん、あたし今日徹夜なの』ってシーンなんだけど、あの場面での紫と都は良かったなぁ。
司については、あまり強く何かを感じられる対象ではないんだけど、司の章の冒頭で書かれている、司が編集者に迸出したマンガのネームのうだうだした文章が凄く好きですね。『なんでしあわせになんなきゃいけないの?』っていうのは、僕もホントそうだよなぁ、といつも思っています。『しあわせじゃなきゃ人間じゃないって必死すぎ。悪いけど、ぜんぜんしあわせそうに見えないよあんたたち。』うんうん、その通りだと思うんだよなぁ。
母親の織子については、ちょっとなんともいえないのだけど、まあ織子の存在があったからこそ、これほどまでに謎めいた空間(三姉妹+母親が住む城)が生まれたのだなぁと思うと、まあそれだけで充分かな、という気はします。織子についてじゃ、最後の方に出てきたこのフレーズ、
『でもしょうがないじゃないか、とも思うのだった。居直るわけじゃなけど、最初からなんでもうまくできる人間などいないように、母になるのも妻になるのも――それどころか生きるのも女をやるのも、私たち、これがはじめてなんだもの。うまくできなくてあたりまえなのだ。』
って言い訳は、僕も常に使いたいなぁと思っているところなのでありました。
やっぱりどうしても女性向けの作品だろうとは思います。冒頭の都の章の初めがチェックシートになっていて、それに当てはまると少女病なんだそうですよ。まあ、みんながみんな大人になる必要もないんじゃないかなと、昔から思っていたようなことを再確認出来た作品だなという感じがします。女性のみなさん、是非読んでみてください。
2011年09月04日
ロボットが日本を救う(岸宣仁)
内容に入ろうと思います。
本書は、徐々に社会的な需要が高まってきており、日本のみならず世界各国で熾烈な開発競争が進んでいる『ロボット』について、日本の現状や大きな課題、今後の展望、また諸外国の動きや日本のからくり人形からの流れなど、様々な方面からアプローチしている作品です。
序盤から中盤に掛けては、ロボット先進国と呼ばれる日本におけるロボット作りの最先端に触れられるような内容になっています。福島原発内で作業をした、階段も50度以上の傾斜も登ることが出来る作業ロボット、避難所で活躍した癒しロボット「パロ」、鉄腕アトムをつくれと言われて開発に着手した「アシモ」、その他、介護や手術、娯楽と言った分野で最先端を走る日本のロボット技術について、どういう部分が日本のオリジナルであり、他国のロボット事情とどう違うのか、また日本のロボットが国内だけではなく海外で(時には日本以上に海外で)評価されているという事実なんかにも触れつつ、からくり人形からの流れを汲む、他国とは違った設計思想を持つロボット事情を追って行きます。
そして中盤以降は、日本のモノづくりがさらされている国際的な脅威、というものが中心になって語られます。
それは、『知能化』と『国際標準』という二つの側面から語ることが出来る。
『知能化』というのは、エアコンが部屋の中の人の存在を能動的に感知して設定温度を変えるとか、美味しいご飯が炊ける炊飯器とか、そういうただの家電ではないプラスアルファの性能を持った機械たち。『知能化』というのはそういうものを指します。
そしてこの『知能化』を実現するのは、ハードではなくソフトです。そして日本は、ハード作りは上手いのだけど、ソフト開発ではまだまだ欧米から(特にアメリカから)大きく立ち遅れてしまっている、というのが現状です。国内のロボット研究者に聞いても、若干の意見の相違はあれど、やはりみな、ロボットはハードの戦いではなくソフトの戦いになっていく、という認識を持っているようです。
そしてもう一つの『国際標準』。こちらの方がより深刻です。
モノづくりがハイテク化していく中で、国際的に規格を合わせようという動きが必然となっていき、モノづくりの現場では今、国際的な規格を勝ち取ることが出来るか、というのが最大の問題になりつつあります。
これは、携帯電話を例に取ると非常に分かりやすい。一時は、世界の携帯電話市場のほとんどを独占していた日本企業は、しかし国際標準の戦いに敗れ、今では市場の3%を占めるばかり。ガラパゴスと呼ばれて久しいけれども、あれは国際標準獲得の失敗による衰退だったのだそうです。
この二つが、モノづくりの根本を変えてしまった。その中で日本はいかにして戦っていくのか。そのモノづくりの最前線について書かれています。
というような内容です。
なかなか面白い作品だなと思いました。日本のロボットといえば「アシモ」ぐらいしか知らなかった僕だけど(欧米では、癒しロボットの「パロ」が凄く高い評価を受けていて、ギネスにも載ったりしているらしいんだけど、ちゃんとは知らなかったなぁ)、本書を一冊読むと、ロボット開発の現状についてかなり詳しく知れるのではないかと思います(あくまで現状だけで、ロボット開発の歴史みたいなものんはほとんど触れられていませんが)。
冒頭でいきなり、福島原発内で作業した「クインス」というロボットの話が出てくるんだけど、この開発にまつわる話は非常に興味深い。クインスは、米国製の作業ロボットより遥かに高性能であるにもかかわらず、米国製の作業ロボットが事故から一ヶ月後から内部での作業を開始したにも関わらず、「クインス」はそれに遅れること三ヶ月後に実戦投入となったのでした。
その最大の理由が、放射線に対する備えがクインスにはなかったからです。日本はたくさんの原発を抱える国であるにも関わらず、放射線に対する備えのあるロボットが作られていなかった。
そしてその背景には、政治的な問題がある。実は日本でも原発用ロボットの開発が検討されたことが二回あったのだけど、企業が超特急で基礎開発を終えた時点で、東京電力らからなる「実用化評価検討会」が、原発は安全だから原発用ロボットを作る必要はない、と言ってこの計画は打ち切りになってしまったんだそうです。ロボット開発に於いても、東京電力の罪は重いのでした。
ホンダが開発した「アシモ」と、江戸時代のからくり人形「弓曳童子」の話は非常に面白いと思いました。弓曳童子は、4本の矢を射るからくり人形だけど、かならず一本は失敗する。欧米で作られてきたからくり人形は、いかに正確に動作するかを競うものが多かったのだけど、日本のからくり人形は、失敗をさせることで大衆に受け入れられるように進化してきた歴史があり、その違いこそが、家庭内でのサービスロボットという分野の開発に関して、日本が最も有利と言えるDNAなのではないかという話が出てきます。アシモの開発者もその弓曳童子の思想からヒントを得て、アシモの開発に活かしているわけです。
ところでアシモ開発についてはこんな話も。ホンダの幹部はなんと、バチカンのローマ教皇庁を訪問し、人型ロボット開発の是非を尋ねたことがあるんだそうです。風の便りに、「ここまで人間に近いロボットを作るのは神への冒涜」という批判が聞こえてきたためらしいけど、凄いですね。結局ローマ教皇庁は、ホンダがそのロボットを作るのは神のご意向に沿うものだ、との回答を得て安心したんだとか。
具体的なロボットについての話を読んでいて僕が感じたことは、
『便利さに慣れてしまうより、不便さに慣れる生活の方が僕は好きだな』
ということです。
例えば本書には、頭の中で考えるだけでロボットを制御出来る、「ブレイン・マシン・インターフェース」という技術についての話が載っています。まだ基礎研究の段階とはいえ、脳内の血流の変化を読み取ることで要望を理解しロボットが動かせるような技術ができはじめているんだそうです。
その開発者が、「エアコンの温度設定をする時、巧く言葉には表現しにくいけどこれぐらいの温度、みたいな微妙な要求が伝わるようなものを作りたい」というようなことを言っている部分を読んで、そう思ってしまいました。
やっぱり、微妙な部分が伝わりにくかったとしても言葉で表現する努力をするべきだと僕は思うし、やろうと思えば出来ることをどんどん便利にして言ってしまう方向性というのは僕はちょっと怖いなと思ってしまうんですね。
僕は、ロボットというのは、人間には出来ないそのロボットにしか出来ないことをやる存在であって欲しいな、と思ってしまいます。例えば福島原発内で作業した「クインス」みたいなものですね。人型ロボットの存在を否定するつもりはまったくないのだけど、人がやれることをロボットに代替させる必要があるとは僕にはどうしても思えないのです。これから日本は少子高齢化で、労働人口が圧倒的に減るから、今の日本の豊かさを維持していくには、外国人の移民を受け入れるかロボットに労働力を肩代わりしてもらうしかない、って話も出てくるんだけど、僕はそもそも、『今の日本の豊かさを維持していくためには』っていう前提を放棄すればいいんじゃないかな、と思ってしまう人間でして、別にロボットで労働力を補填しなくてもいいんじゃないかなぁという気はしてしまいます。まあ僕としては、介護とか娯楽の分野でロボットが活躍してくれたらいいんじゃないかな、と思います。
後半の、『知能化』と『国際標準』の話も非常に興味深かったです。僕は、国際的なモノづくりの現場が、まさかそれほど激変しているとは知らなかったんで、携帯電話なんかも、なんでそんなガラパゴスになっちゃったのかなぁ、と思っていたりしました(まあ携帯電話に関しては、日本企業がひたすら高機能化に特化し続けたというのも大きな原因の一つみたいだけど)。
これについては、国際標準の重要性がまだ日本でそこまで重視されていなかった頃、その重要性を折に触れて力説していたという、当時三菱電機の社長・会長であった野間口有の言葉を引用してみます。
『日本人は戦後、モノづくりで成功した経験があるせいか、QC(品質管理)に自信を持ちすぎる傾向があります。われわれは標準以上のQC力を持っているから、権威あるところが標準規格を決めてくれれば、もう一段上の信頼性をもって製品をつくってみせますと考えがちです。でも、九五年にWTOがTBT協定を結んで以降は、空いてに国際標準を取られたら日本にいくらいい製品があっても市場で勝負できない。ISOなどで合意された国際標準ができると、その分野は国際標準が市場を先導してしまう時代になったのです。』
WTOのTBT協定というのは、ざっくり説明すると、どれだけいい技術・規格があっても、国際標準が決まれば各国その基準に従いなさいねという取り決め、のことで、この存在が、日本のモノづくりの環境をかなり激変させたのだそうです。韓国なんかが国を挙げて色んな分野で国際標準を取りに行こうと全力で動いているのに比べると、まだまだ日本の動きは遅いというのが現状なんだそうです。
また『知能化』の流れによる、ハードよりソフトという動きも、ロボットの分野に限ってみても、グーグルやマイクロソフトなんかがソフト覇権に乗り出してきて、ロボット大国日本という部分にあぐらを書いているとすぐひっくり返されてしまうような、そういう状況だそうです。そういう、大きく変わってしまったモノづくりの現状の話も、非常に面白かったです。
日本がロボット開発においてどれだけ一日の長があるのか、そしてその一方で、国際的なモノづくりの潮流がどうなってしまっているのか、ということについてなかなか面白く描かれている作品だと思いました。是非読んでみてください。
岸宣仁「ロボットが日本を救う」
本書は、徐々に社会的な需要が高まってきており、日本のみならず世界各国で熾烈な開発競争が進んでいる『ロボット』について、日本の現状や大きな課題、今後の展望、また諸外国の動きや日本のからくり人形からの流れなど、様々な方面からアプローチしている作品です。
序盤から中盤に掛けては、ロボット先進国と呼ばれる日本におけるロボット作りの最先端に触れられるような内容になっています。福島原発内で作業をした、階段も50度以上の傾斜も登ることが出来る作業ロボット、避難所で活躍した癒しロボット「パロ」、鉄腕アトムをつくれと言われて開発に着手した「アシモ」、その他、介護や手術、娯楽と言った分野で最先端を走る日本のロボット技術について、どういう部分が日本のオリジナルであり、他国のロボット事情とどう違うのか、また日本のロボットが国内だけではなく海外で(時には日本以上に海外で)評価されているという事実なんかにも触れつつ、からくり人形からの流れを汲む、他国とは違った設計思想を持つロボット事情を追って行きます。
そして中盤以降は、日本のモノづくりがさらされている国際的な脅威、というものが中心になって語られます。
それは、『知能化』と『国際標準』という二つの側面から語ることが出来る。
『知能化』というのは、エアコンが部屋の中の人の存在を能動的に感知して設定温度を変えるとか、美味しいご飯が炊ける炊飯器とか、そういうただの家電ではないプラスアルファの性能を持った機械たち。『知能化』というのはそういうものを指します。
そしてこの『知能化』を実現するのは、ハードではなくソフトです。そして日本は、ハード作りは上手いのだけど、ソフト開発ではまだまだ欧米から(特にアメリカから)大きく立ち遅れてしまっている、というのが現状です。国内のロボット研究者に聞いても、若干の意見の相違はあれど、やはりみな、ロボットはハードの戦いではなくソフトの戦いになっていく、という認識を持っているようです。
そしてもう一つの『国際標準』。こちらの方がより深刻です。
モノづくりがハイテク化していく中で、国際的に規格を合わせようという動きが必然となっていき、モノづくりの現場では今、国際的な規格を勝ち取ることが出来るか、というのが最大の問題になりつつあります。
これは、携帯電話を例に取ると非常に分かりやすい。一時は、世界の携帯電話市場のほとんどを独占していた日本企業は、しかし国際標準の戦いに敗れ、今では市場の3%を占めるばかり。ガラパゴスと呼ばれて久しいけれども、あれは国際標準獲得の失敗による衰退だったのだそうです。
この二つが、モノづくりの根本を変えてしまった。その中で日本はいかにして戦っていくのか。そのモノづくりの最前線について書かれています。
というような内容です。
なかなか面白い作品だなと思いました。日本のロボットといえば「アシモ」ぐらいしか知らなかった僕だけど(欧米では、癒しロボットの「パロ」が凄く高い評価を受けていて、ギネスにも載ったりしているらしいんだけど、ちゃんとは知らなかったなぁ)、本書を一冊読むと、ロボット開発の現状についてかなり詳しく知れるのではないかと思います(あくまで現状だけで、ロボット開発の歴史みたいなものんはほとんど触れられていませんが)。
冒頭でいきなり、福島原発内で作業した「クインス」というロボットの話が出てくるんだけど、この開発にまつわる話は非常に興味深い。クインスは、米国製の作業ロボットより遥かに高性能であるにもかかわらず、米国製の作業ロボットが事故から一ヶ月後から内部での作業を開始したにも関わらず、「クインス」はそれに遅れること三ヶ月後に実戦投入となったのでした。
その最大の理由が、放射線に対する備えがクインスにはなかったからです。日本はたくさんの原発を抱える国であるにも関わらず、放射線に対する備えのあるロボットが作られていなかった。
そしてその背景には、政治的な問題がある。実は日本でも原発用ロボットの開発が検討されたことが二回あったのだけど、企業が超特急で基礎開発を終えた時点で、東京電力らからなる「実用化評価検討会」が、原発は安全だから原発用ロボットを作る必要はない、と言ってこの計画は打ち切りになってしまったんだそうです。ロボット開発に於いても、東京電力の罪は重いのでした。
ホンダが開発した「アシモ」と、江戸時代のからくり人形「弓曳童子」の話は非常に面白いと思いました。弓曳童子は、4本の矢を射るからくり人形だけど、かならず一本は失敗する。欧米で作られてきたからくり人形は、いかに正確に動作するかを競うものが多かったのだけど、日本のからくり人形は、失敗をさせることで大衆に受け入れられるように進化してきた歴史があり、その違いこそが、家庭内でのサービスロボットという分野の開発に関して、日本が最も有利と言えるDNAなのではないかという話が出てきます。アシモの開発者もその弓曳童子の思想からヒントを得て、アシモの開発に活かしているわけです。
ところでアシモ開発についてはこんな話も。ホンダの幹部はなんと、バチカンのローマ教皇庁を訪問し、人型ロボット開発の是非を尋ねたことがあるんだそうです。風の便りに、「ここまで人間に近いロボットを作るのは神への冒涜」という批判が聞こえてきたためらしいけど、凄いですね。結局ローマ教皇庁は、ホンダがそのロボットを作るのは神のご意向に沿うものだ、との回答を得て安心したんだとか。
具体的なロボットについての話を読んでいて僕が感じたことは、
『便利さに慣れてしまうより、不便さに慣れる生活の方が僕は好きだな』
ということです。
例えば本書には、頭の中で考えるだけでロボットを制御出来る、「ブレイン・マシン・インターフェース」という技術についての話が載っています。まだ基礎研究の段階とはいえ、脳内の血流の変化を読み取ることで要望を理解しロボットが動かせるような技術ができはじめているんだそうです。
その開発者が、「エアコンの温度設定をする時、巧く言葉には表現しにくいけどこれぐらいの温度、みたいな微妙な要求が伝わるようなものを作りたい」というようなことを言っている部分を読んで、そう思ってしまいました。
やっぱり、微妙な部分が伝わりにくかったとしても言葉で表現する努力をするべきだと僕は思うし、やろうと思えば出来ることをどんどん便利にして言ってしまう方向性というのは僕はちょっと怖いなと思ってしまうんですね。
僕は、ロボットというのは、人間には出来ないそのロボットにしか出来ないことをやる存在であって欲しいな、と思ってしまいます。例えば福島原発内で作業した「クインス」みたいなものですね。人型ロボットの存在を否定するつもりはまったくないのだけど、人がやれることをロボットに代替させる必要があるとは僕にはどうしても思えないのです。これから日本は少子高齢化で、労働人口が圧倒的に減るから、今の日本の豊かさを維持していくには、外国人の移民を受け入れるかロボットに労働力を肩代わりしてもらうしかない、って話も出てくるんだけど、僕はそもそも、『今の日本の豊かさを維持していくためには』っていう前提を放棄すればいいんじゃないかな、と思ってしまう人間でして、別にロボットで労働力を補填しなくてもいいんじゃないかなぁという気はしてしまいます。まあ僕としては、介護とか娯楽の分野でロボットが活躍してくれたらいいんじゃないかな、と思います。
後半の、『知能化』と『国際標準』の話も非常に興味深かったです。僕は、国際的なモノづくりの現場が、まさかそれほど激変しているとは知らなかったんで、携帯電話なんかも、なんでそんなガラパゴスになっちゃったのかなぁ、と思っていたりしました(まあ携帯電話に関しては、日本企業がひたすら高機能化に特化し続けたというのも大きな原因の一つみたいだけど)。
これについては、国際標準の重要性がまだ日本でそこまで重視されていなかった頃、その重要性を折に触れて力説していたという、当時三菱電機の社長・会長であった野間口有の言葉を引用してみます。
『日本人は戦後、モノづくりで成功した経験があるせいか、QC(品質管理)に自信を持ちすぎる傾向があります。われわれは標準以上のQC力を持っているから、権威あるところが標準規格を決めてくれれば、もう一段上の信頼性をもって製品をつくってみせますと考えがちです。でも、九五年にWTOがTBT協定を結んで以降は、空いてに国際標準を取られたら日本にいくらいい製品があっても市場で勝負できない。ISOなどで合意された国際標準ができると、その分野は国際標準が市場を先導してしまう時代になったのです。』
WTOのTBT協定というのは、ざっくり説明すると、どれだけいい技術・規格があっても、国際標準が決まれば各国その基準に従いなさいねという取り決め、のことで、この存在が、日本のモノづくりの環境をかなり激変させたのだそうです。韓国なんかが国を挙げて色んな分野で国際標準を取りに行こうと全力で動いているのに比べると、まだまだ日本の動きは遅いというのが現状なんだそうです。
また『知能化』の流れによる、ハードよりソフトという動きも、ロボットの分野に限ってみても、グーグルやマイクロソフトなんかがソフト覇権に乗り出してきて、ロボット大国日本という部分にあぐらを書いているとすぐひっくり返されてしまうような、そういう状況だそうです。そういう、大きく変わってしまったモノづくりの現状の話も、非常に面白かったです。
日本がロボット開発においてどれだけ一日の長があるのか、そしてその一方で、国際的なモノづくりの潮流がどうなってしまっているのか、ということについてなかなか面白く描かれている作品だと思いました。是非読んでみてください。
岸宣仁「ロボットが日本を救う」
2011年09月01日
公安は誰をマークしているか(大島真生)
内容に入ろうと思います。
本書は、警察小説などでもよく出てくる「公安」について書かれている本です。公安全体についての話もありますが(各県の警察内での公安組織や、公安組織それぞれを管理している組織など)、基本的には、「公安の中の公安」と呼ばれる、警視庁公安部について、どの課がどんな対象を扱っており、過去にどんな事件に携わったことがあるのか、というようなことについて詳しく書かれています。
公安というのは、特高の流れを汲む組織で、戦後GHQによって、警察組織の中央集権的な仕組みは廃止されたのだけど、公安だけは密かにその名残を残しているんだそうです。基本的に公安は、各県の警察署の「警備部」と呼ばれるところの一つの課として、当然それぞれの県警の管轄下にあるのだけど、公安だけは警察庁警備局から直接司令がきて、その指令系統の中に県警の本部長や各警察署の署長は含まれていないのだそうです。所轄の公安担当者は公安部の忠実な手足であり、時には署長さえも無視させる。そういう、一種の中央集権的な組織が継続されているんだそうです。
さて、「公安の中の公安」である警視庁公安部には、公安総務課・公安一課〜四課、外事一課〜三課、公安機動捜査隊という9つの課が存在する。それぞれ与えられた役割が違い、また最近出来た課などもあり、本書ではそれらについて詳しく書いている。ちょっと今日は時間がないので、ここでは、それぞれの課がどんな組織や事件を扱っているのかをざっと書くだけにしようと思います。
公安総務課:共産党、またオウム真理教や統一教会など、日本の政治体制を脅かすようなカルト(反社会的な宗教団体)が対象
公安一課:「革労協」「中核派」「共産同」などの流れを汲む過激派
公安二課:「革マル」の流れを汲む過激派
公安三課:右翼
公安四課:写真の整理などの後方支援
外事一課:アジア以外のスパイ(主にロシア)
外事二課:アジアのスパイ(主に北朝鮮)
外事三課:アルカイーダ
公安機動捜査隊:ゲリラ事件などで初動捜査に乗り出す研究肌の頭脳集団
公安というのは、小説なんかを読んでいても、「何をやってるんだかよくわからない、蔭で陰湿にコソコソ動いてる連中」という印象が強いです。恐らくそれは、刑事から見た公安の印象を強く反映しているんだろう、と僕は想像しています。刑事と公安の相性は非常に悪い(と本書にも書いてある)。オウム真理教の捜査の際、刑事も公安も、担当の範囲も関係なくすべての警察官があらゆる捜査に駆り出されたのだけど、その中でも公安の秘密主義は異常だった、というようなことも書かれています。
まあそういう意味で、どうしても悪いイメージがつきまとってしまう公安だけど、本書を読むと、やっぱり彼らの存在は大事だよなぁ、と思います。本書は特別公安に肩入れした内容というわけではなく、これまでの公安の活動を淡々と綴っているのですけど、やっぱりこういう存在があってこそ、僕達の日常の平和が保たれているのかもしれないなぁ、と思います。
実際、著者が知る公安関係者は、「誰かがやらなければ」という強い使命感を持っている人が多い、んだそうです。もちろんその一方で、汚れ役を自認するあまり、国と国民を守るためには場合によって手段を選ばなくていいという独善に陥る危険性をはらんでいるようにも思う、と著者自身の感想も書かれています。もちろんやりすぎている面もあるでしょうし、彼らの功績のお陰で何かが守られている部分というのもあるのでしょう。なかなかグレーな存在ですが、個人的には、公安の人たちには頑張って欲しいものだなぁ、という気がします。
ちょっと前に、公安出身の作家の小説、というのが売れたんだけど、僕は正直それを読んで、面白くないなぁ、と思ったんですね。小説、と銘打つならば、小説に徹して欲しいんだけど、リアルさを出したいのか、小説というより報告書みたいな印象が僕には強かったです。それを読むなら僕は、完全にノンフィクションである本書を読む方が、公安について詳しく知ることが出来るんじゃないかなぁ、と思います。普段なかなか知る機会のない、というか、公安警察を経験していない刑事でさえも案外知らないんじゃないか、というような世界の話が描かれているので、警察小説とか特別興味のない人でも面白く読めるんじゃないかな、と思います。ホント、久しぶりに目にしましたしね、「パナウェーブ研究所」って名前。懐かしいです。
しかし本書で僕がとにかく一番驚いたのは、この文章(P29)。
『日本のキャリア官僚制度は廃止が決まっているが』
ホントですか?キャリア官僚ってのは、警察組織の話で書くと、普通に公務員試験を受けて警察官になるのと、国家公務員試験をパスして警察に入るのとで立場が全然違うってやつで、「踊る大捜査線」でいうと、青島はノンキャリアで、室井さんがキャリア、ですね。そのキャリア官僚制度の廃止が決まってる、って本書でさらっと書かれてるんですけど、マジで今まで聞いたことないんだよなぁ。ネットでちょっとだけ調べてみたんだけど、どうもそれらしい情報はヒットしないし。ホントだとしたらどうなるんだろう。これまでかかれてきた警察小説とか刑事ドラマなんかが古臭くなる時代が来る、というような、なかなか衝撃的な変化だと思うんですけど、詳しい方いますか?
というわけで、読み物としてなかなか面白いと思います。日本にこんなことしている人たちがいるのか、と実感できるのではないかと思います。読んでみてください。
大島真生「公安は誰をマークしているか」
本書は、警察小説などでもよく出てくる「公安」について書かれている本です。公安全体についての話もありますが(各県の警察内での公安組織や、公安組織それぞれを管理している組織など)、基本的には、「公安の中の公安」と呼ばれる、警視庁公安部について、どの課がどんな対象を扱っており、過去にどんな事件に携わったことがあるのか、というようなことについて詳しく書かれています。
公安というのは、特高の流れを汲む組織で、戦後GHQによって、警察組織の中央集権的な仕組みは廃止されたのだけど、公安だけは密かにその名残を残しているんだそうです。基本的に公安は、各県の警察署の「警備部」と呼ばれるところの一つの課として、当然それぞれの県警の管轄下にあるのだけど、公安だけは警察庁警備局から直接司令がきて、その指令系統の中に県警の本部長や各警察署の署長は含まれていないのだそうです。所轄の公安担当者は公安部の忠実な手足であり、時には署長さえも無視させる。そういう、一種の中央集権的な組織が継続されているんだそうです。
さて、「公安の中の公安」である警視庁公安部には、公安総務課・公安一課〜四課、外事一課〜三課、公安機動捜査隊という9つの課が存在する。それぞれ与えられた役割が違い、また最近出来た課などもあり、本書ではそれらについて詳しく書いている。ちょっと今日は時間がないので、ここでは、それぞれの課がどんな組織や事件を扱っているのかをざっと書くだけにしようと思います。
公安総務課:共産党、またオウム真理教や統一教会など、日本の政治体制を脅かすようなカルト(反社会的な宗教団体)が対象
公安一課:「革労協」「中核派」「共産同」などの流れを汲む過激派
公安二課:「革マル」の流れを汲む過激派
公安三課:右翼
公安四課:写真の整理などの後方支援
外事一課:アジア以外のスパイ(主にロシア)
外事二課:アジアのスパイ(主に北朝鮮)
外事三課:アルカイーダ
公安機動捜査隊:ゲリラ事件などで初動捜査に乗り出す研究肌の頭脳集団
公安というのは、小説なんかを読んでいても、「何をやってるんだかよくわからない、蔭で陰湿にコソコソ動いてる連中」という印象が強いです。恐らくそれは、刑事から見た公安の印象を強く反映しているんだろう、と僕は想像しています。刑事と公安の相性は非常に悪い(と本書にも書いてある)。オウム真理教の捜査の際、刑事も公安も、担当の範囲も関係なくすべての警察官があらゆる捜査に駆り出されたのだけど、その中でも公安の秘密主義は異常だった、というようなことも書かれています。
まあそういう意味で、どうしても悪いイメージがつきまとってしまう公安だけど、本書を読むと、やっぱり彼らの存在は大事だよなぁ、と思います。本書は特別公安に肩入れした内容というわけではなく、これまでの公安の活動を淡々と綴っているのですけど、やっぱりこういう存在があってこそ、僕達の日常の平和が保たれているのかもしれないなぁ、と思います。
実際、著者が知る公安関係者は、「誰かがやらなければ」という強い使命感を持っている人が多い、んだそうです。もちろんその一方で、汚れ役を自認するあまり、国と国民を守るためには場合によって手段を選ばなくていいという独善に陥る危険性をはらんでいるようにも思う、と著者自身の感想も書かれています。もちろんやりすぎている面もあるでしょうし、彼らの功績のお陰で何かが守られている部分というのもあるのでしょう。なかなかグレーな存在ですが、個人的には、公安の人たちには頑張って欲しいものだなぁ、という気がします。
ちょっと前に、公安出身の作家の小説、というのが売れたんだけど、僕は正直それを読んで、面白くないなぁ、と思ったんですね。小説、と銘打つならば、小説に徹して欲しいんだけど、リアルさを出したいのか、小説というより報告書みたいな印象が僕には強かったです。それを読むなら僕は、完全にノンフィクションである本書を読む方が、公安について詳しく知ることが出来るんじゃないかなぁ、と思います。普段なかなか知る機会のない、というか、公安警察を経験していない刑事でさえも案外知らないんじゃないか、というような世界の話が描かれているので、警察小説とか特別興味のない人でも面白く読めるんじゃないかな、と思います。ホント、久しぶりに目にしましたしね、「パナウェーブ研究所」って名前。懐かしいです。
しかし本書で僕がとにかく一番驚いたのは、この文章(P29)。
『日本のキャリア官僚制度は廃止が決まっているが』
ホントですか?キャリア官僚ってのは、警察組織の話で書くと、普通に公務員試験を受けて警察官になるのと、国家公務員試験をパスして警察に入るのとで立場が全然違うってやつで、「踊る大捜査線」でいうと、青島はノンキャリアで、室井さんがキャリア、ですね。そのキャリア官僚制度の廃止が決まってる、って本書でさらっと書かれてるんですけど、マジで今まで聞いたことないんだよなぁ。ネットでちょっとだけ調べてみたんだけど、どうもそれらしい情報はヒットしないし。ホントだとしたらどうなるんだろう。これまでかかれてきた警察小説とか刑事ドラマなんかが古臭くなる時代が来る、というような、なかなか衝撃的な変化だと思うんですけど、詳しい方いますか?
というわけで、読み物としてなかなか面白いと思います。日本にこんなことしている人たちがいるのか、と実感できるのではないかと思います。読んでみてください。
大島真生「公安は誰をマークしているか」
2011年08月31日
ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体(適菜収)
内容に入ろうと思います。
本書は、現在の日本を動かす最大勢力である「B層」について分析しつつ、そこに、ほらゲーテも昔こんなこと言ってるよ、今の日本もそんな感じでしょう?と、ゲーテの言葉を引用している、と言う内容です。
内容に入る前に絶賛しておきましょう。これ、マジ面白い!!時々新書を読むけど、久々の超超超大ヒットです、僕の中で。
さて、まず「B層」とは何か。
この呼び方の起源は、2004年12月15日に、スリードという広告会社が作成した、「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略(案)」という資料に載っている呼び方をそのまま使っているものです。これは、いわゆる郵政選挙と呼ばれる、小泉純一郎が大勝した選挙において、内閣府が広告会社に依頼したものです。
そこには、郵政民営化に賛成かどうか、IQが高いかどうか、によって、国民を四つに分類し、それぞれにA層〜D層という名前をつけています。
その中で、郵政民営化に賛成でかつIQが高くない人たち、を「B層」と名付けています。
本書では、それをそのまま流用する形で「B層」という呼び方を使っています。本書における「B層」の定義を抜き出してみます。
『B層、とは、知的程度がそれほど高くなく、A層(財界勝ち組奇業・大学教授・マスメディア)から投下されたメッセージをそのまま鵜呑みにしてしまう層です。企画書にあるように、「具体的なことはよくわからないが小泉純一郎のキャラクターを支持する層」ですね。
B層は自分のたまで考えるのではなく、A層から結論を与えられるのを待っている。逆にA層にとって、B層は最大の顧客なので、B層向けコンテンツを中心につくるようになります。
その結果、A層とB層の間で増幅作用が発生し、巨大なB層エネルギーが誕生する。そしてこれが社会全体を飲み込んでしまった状態が我が国の現在です』
本書の冒頭には、こう書かれています。
『今、日本を動かしているのは誰だと思いますか?
内閣総理大臣ですか?
財務官僚ですか?
アメリカですか?
いいえ、ちがいます。
B層です。』
ここを読んだ瞬間にもう、この作品は間違いなく面白いだろうなぁ、と直感しました。
その後にこんな風に続きます。
『誰もがうっすらと気づいていたけれど、表立っては言えなかったこと。それは、今の日本の最大の謙抑者がB層であるということです。』
そう、確かに気づいていた。はっきりと、明確に、ズバッとした言葉で自分の中で表現できていたわけではないけど、確かに僕も気づいていた。いやーな雰囲気とともに、そういう最大勢力の存在には気づいていた。本書はそれを、明快な言葉でズバッと文章にしてくれたので、本当にすっきりしました。
本書の目的を著者はこんな風に書いています。
『本書の目的は、B層を批判したり、からかったりすることではありません。B層を「上から目線」で非難するのは、無意味であり見当違いです。
(中略)
B層が一定の割合で存在するのは必然ですし、B層をなくすことはできません。そうではなくて、わが国におけるB層の急拡大が、歴史上どのような土壌の上に発生したものであるのか、そして、それがわが国の将来にどのような影響を与えるのかについて考える必要があるのです。』
B層が存在することは仕方ない、というのは僕もその通りだなと思うのです。僕の周りにも、あぁこの人はまさにB層だな、というような人がいたりしますけど、そういう人たちの考え方が変わるとはとてもじゃないけど想像出来ないのです。確かに、B層の急拡大はちょっと恐ろしい。僕と同じような恐ろしさを日々実感する人もきっと少なくはないだろうと思います。それでも、結局僕らはB層と共に生きていかなくてはいけない、じゃあどうするのか、というような方向性で考えなくてはいけないんですよね。
と、ここまで色々書いてきましたけど、一つ僕の中で大きな前提があります。僕は本書を、メチャクチャ面白いと感じましたけど、恐らくそれは、『自分はB層ではない』という大きな前提を自分の中に設けている、ということのはずなんですね。でもそれは、過信しすぎるのは怖い。本書を読み続けてずっと感じていたことは、自分がB層だったらどうしよう、という恐怖です。
例えば本書にはこんな文章がある。
『B層の特徴は歴史を知らないことです。そして歴史は趣味の一種であり、それを知らなくても生きていけると、かたくなに信じています。』
僕はそういう人間なんですね。歴史を学ぶことにどれだけの価値があるのか、実感できない。だから、歴史をまったく知らないのです。もちろん、自分が歴史について無知だ、という自覚はあるので、歴史に関わる部分に関しては沈黙する、という程度の節度はあるつもりですが、歴史を学ぶ意志は結局ないわけです。
また僕は、前の民主党が政権をとった選挙の際、少なくともあの瞬間だけは、確実にB層でした。本書を読む限り、あの選挙における民主党のマニュフェストは、詐欺みたいなものだったんだそうです(もちろん、分かっている人には当然の話なんでしょうけど、僕は政治の話も無知でして)。あの時は本当になんとなく、周りの雰囲気に流されるようにして投票をしたのでした。普段はB層ではないかもしれないけど、B層として振舞ってしまう瞬間がある、という可能性はもちろんあります。本書を読んで本当に、B層的な行動だけはすまい、と思ったし、知らないウチにB層的な行動を取ってしまっているかもしれないことを物凄く恐ろしく感じました。
本書は、様々な話が出てくるわけですが、基本的には政治の話が多い。B層が力を持つことで政治がどう変わってしまったのか。
本書にはズバッとこう書かれている。
『B層社会では、政治の低レベル化が進みます。政治家としての能力より、B層に受ける能力のほうが重要になってくるからです。』
それを意識的にやっているのが、小沢一郎であり、小泉純一郎であるんだそうです。小沢一郎は、民主党のマニュフェストが実現不可能であると当然分かっていたし、識者にもそう指摘されていた。しかし、その識者による指摘がB層に届かないことも見抜いていた。そこに小沢一郎の天才性がある。また小泉純一郎は、民間調査会社に世論調査をさせ、政権の支持率が上がることを確認してから参拝を決定した、というような話も本書には出てきます。
B層は、自分に分からないものを徹底的に受け入れない。理解出来ないものを遠ざける。だから、安倍晋三が「戦後レジームからの脱却」と掲げた時、「レジーム」を理解できなかったB層は無視した(と書いてる僕も、レジームの意味は分からない)。一方で、自分の土俵の話には徹底的に食いつく。だからこそ、麻生太郎の漢字の読み間違いには恐ろしい勢いで食いついた。
B層に受けるパフォーマンスが出来るか否か。もはやそれだけが政治家としての評価の対象になってしまっているわけです。
そもそも著者は、『民主主義は最悪の政治形態』と書いています。というかこれは著者だけの意見ではなく、過去様々な知識人が同じ事を言っていたらしいのです。政治に直接民意を反省させてはいけない。これは、ナチス初め、様々な過去の教訓からも明らかなんだそうです。
僕は、『民意を尊重する医者がいたら嫌でしょう』という喩えで凄く納得しました。確かに。医療も政治も、プロがプロによる判断によって動かすべきなのかもしれない、と思いました。
本書には他にも、様々な話が出てくる。章立てとして括られているものとしては、「B層グルメ」と「B層カルチャー」がある。どちらも、B層の存在がいかにグルメやカルチャーに壊滅的な打撃を与えたのか、という話が書かれます。
書店員的に頷けるのは、ベストセラーの話。ここ最近のベストセラーはほとんど、B層が反応することで生み出されている。そしてテレビも本もそうだけど、何故これほどまでに低レベルなコンテンツが溢れているのかというと、頭のいい人間がB層を対象に商品をつくっているからだ、と本書では書かれています。書店の現場にいると、そうだよなぁ、と凄く実感できてしまう話でした。
ちょっと前の話だけど、バイト先のスタッフに話の流れで、『まあ、テレビで言ってることなんて半分以上嘘だからね』って言ったら、「へぇ〜そうなんだ〜、知らなかった。」という反応をされました。テレビで言ってるから正しい、と鵜呑みにしてしまう人が多いんだなぁ、と実感した出来事でした。もちろんテレビにしたって雑誌にしたって正しいことも書いてあるだろうけど、基本的には、A層の言うことを疑問なく受け入れるB層向けの、誰かが儲かったり都合が悪い部分を隠したり何かの流れを作ったり、そういう意図が隠された情報が垂れ流されている、というのが正しい認識だろうなぁ、と思うんですね。まあ、雑誌は元々読まないし、テレビは最近本当に見なくなったからあくまでもイメージですけどね。
僕は自分が一流にはなれないし、一流のものを理解できるわけでもないということはもう知っています。だからこそせめて僕は、三流のものを必要以上には認めない、という立ち位置をなんとか保とうと思っています。
本書は、なかなか過激なことも書かれているので、内容すべてに賛同しているわけではないけど、B層という最大勢力を定義し、B層がいかに危険な存在であるかを明確に文章にしてくれている、という点で、僕の中で本当にしっくりくる作品でした。メチャクチャ面白かったです!「ゲーテの警告」っていうタイトルは、本当に売れなさそうな匂いしかしませんが、本書を読む限り、これはきっと著者の意向なんだろうなぁ、と勝手に想像しました。この内容なら、いくらでもB層が手に取りそうなタイトルをつけて売り出すことは出来ただろうと思います。でも著者はそれを良しとしなかった。敢えて「ゲーテの警告」という、B層がまったく反応しなさそうなタイトルをつけたんだろう、と勝手に想像しました。だからこそ僕は、この作品をB層まで届くように売るのが目標です。
本書は、日本人必読ではないかと思う作品ですが、特に物を作ったり売ったりしたりしている人には読んで欲しいかもしれません。もちろん、そんなこたぁもう随分前から知っとるわ、という人もいるでしょうし、読んだところで明確な解決があるわけでもなく殺伐とするだけです。ですが、それでも、B層という層をきちんと意識し、それとどう向き合っていくのか、ということを考えることは非常に大事だろう、と思います。本書で描かれる桑田佳祐のように。
というわけで、本当に是非読んでみてください。久々に新書で僕の中で大大大ヒット作品です。メチャクチャ面白いです。
自分用のメモで、POPのフレーズを書いておこう。
『日本人必読の書!ゲーテとかマジ関係ねぇから安心して』
『B層が空気を作る。その空気は、日本を滅ぼす』
『自分がもしB層だったら…と思うと恐ろしい!いや、僕はB層じゃない!…たぶん…』
適菜収「ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体」
適菜収「ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体」
本書は、現在の日本を動かす最大勢力である「B層」について分析しつつ、そこに、ほらゲーテも昔こんなこと言ってるよ、今の日本もそんな感じでしょう?と、ゲーテの言葉を引用している、と言う内容です。
内容に入る前に絶賛しておきましょう。これ、マジ面白い!!時々新書を読むけど、久々の超超超大ヒットです、僕の中で。
さて、まず「B層」とは何か。
この呼び方の起源は、2004年12月15日に、スリードという広告会社が作成した、「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略(案)」という資料に載っている呼び方をそのまま使っているものです。これは、いわゆる郵政選挙と呼ばれる、小泉純一郎が大勝した選挙において、内閣府が広告会社に依頼したものです。
そこには、郵政民営化に賛成かどうか、IQが高いかどうか、によって、国民を四つに分類し、それぞれにA層〜D層という名前をつけています。
その中で、郵政民営化に賛成でかつIQが高くない人たち、を「B層」と名付けています。
本書では、それをそのまま流用する形で「B層」という呼び方を使っています。本書における「B層」の定義を抜き出してみます。
『B層、とは、知的程度がそれほど高くなく、A層(財界勝ち組奇業・大学教授・マスメディア)から投下されたメッセージをそのまま鵜呑みにしてしまう層です。企画書にあるように、「具体的なことはよくわからないが小泉純一郎のキャラクターを支持する層」ですね。
B層は自分のたまで考えるのではなく、A層から結論を与えられるのを待っている。逆にA層にとって、B層は最大の顧客なので、B層向けコンテンツを中心につくるようになります。
その結果、A層とB層の間で増幅作用が発生し、巨大なB層エネルギーが誕生する。そしてこれが社会全体を飲み込んでしまった状態が我が国の現在です』
本書の冒頭には、こう書かれています。
『今、日本を動かしているのは誰だと思いますか?
内閣総理大臣ですか?
財務官僚ですか?
アメリカですか?
いいえ、ちがいます。
B層です。』
ここを読んだ瞬間にもう、この作品は間違いなく面白いだろうなぁ、と直感しました。
その後にこんな風に続きます。
『誰もがうっすらと気づいていたけれど、表立っては言えなかったこと。それは、今の日本の最大の謙抑者がB層であるということです。』
そう、確かに気づいていた。はっきりと、明確に、ズバッとした言葉で自分の中で表現できていたわけではないけど、確かに僕も気づいていた。いやーな雰囲気とともに、そういう最大勢力の存在には気づいていた。本書はそれを、明快な言葉でズバッと文章にしてくれたので、本当にすっきりしました。
本書の目的を著者はこんな風に書いています。
『本書の目的は、B層を批判したり、からかったりすることではありません。B層を「上から目線」で非難するのは、無意味であり見当違いです。
(中略)
B層が一定の割合で存在するのは必然ですし、B層をなくすことはできません。そうではなくて、わが国におけるB層の急拡大が、歴史上どのような土壌の上に発生したものであるのか、そして、それがわが国の将来にどのような影響を与えるのかについて考える必要があるのです。』
B層が存在することは仕方ない、というのは僕もその通りだなと思うのです。僕の周りにも、あぁこの人はまさにB層だな、というような人がいたりしますけど、そういう人たちの考え方が変わるとはとてもじゃないけど想像出来ないのです。確かに、B層の急拡大はちょっと恐ろしい。僕と同じような恐ろしさを日々実感する人もきっと少なくはないだろうと思います。それでも、結局僕らはB層と共に生きていかなくてはいけない、じゃあどうするのか、というような方向性で考えなくてはいけないんですよね。
と、ここまで色々書いてきましたけど、一つ僕の中で大きな前提があります。僕は本書を、メチャクチャ面白いと感じましたけど、恐らくそれは、『自分はB層ではない』という大きな前提を自分の中に設けている、ということのはずなんですね。でもそれは、過信しすぎるのは怖い。本書を読み続けてずっと感じていたことは、自分がB層だったらどうしよう、という恐怖です。
例えば本書にはこんな文章がある。
『B層の特徴は歴史を知らないことです。そして歴史は趣味の一種であり、それを知らなくても生きていけると、かたくなに信じています。』
僕はそういう人間なんですね。歴史を学ぶことにどれだけの価値があるのか、実感できない。だから、歴史をまったく知らないのです。もちろん、自分が歴史について無知だ、という自覚はあるので、歴史に関わる部分に関しては沈黙する、という程度の節度はあるつもりですが、歴史を学ぶ意志は結局ないわけです。
また僕は、前の民主党が政権をとった選挙の際、少なくともあの瞬間だけは、確実にB層でした。本書を読む限り、あの選挙における民主党のマニュフェストは、詐欺みたいなものだったんだそうです(もちろん、分かっている人には当然の話なんでしょうけど、僕は政治の話も無知でして)。あの時は本当になんとなく、周りの雰囲気に流されるようにして投票をしたのでした。普段はB層ではないかもしれないけど、B層として振舞ってしまう瞬間がある、という可能性はもちろんあります。本書を読んで本当に、B層的な行動だけはすまい、と思ったし、知らないウチにB層的な行動を取ってしまっているかもしれないことを物凄く恐ろしく感じました。
本書は、様々な話が出てくるわけですが、基本的には政治の話が多い。B層が力を持つことで政治がどう変わってしまったのか。
本書にはズバッとこう書かれている。
『B層社会では、政治の低レベル化が進みます。政治家としての能力より、B層に受ける能力のほうが重要になってくるからです。』
それを意識的にやっているのが、小沢一郎であり、小泉純一郎であるんだそうです。小沢一郎は、民主党のマニュフェストが実現不可能であると当然分かっていたし、識者にもそう指摘されていた。しかし、その識者による指摘がB層に届かないことも見抜いていた。そこに小沢一郎の天才性がある。また小泉純一郎は、民間調査会社に世論調査をさせ、政権の支持率が上がることを確認してから参拝を決定した、というような話も本書には出てきます。
B層は、自分に分からないものを徹底的に受け入れない。理解出来ないものを遠ざける。だから、安倍晋三が「戦後レジームからの脱却」と掲げた時、「レジーム」を理解できなかったB層は無視した(と書いてる僕も、レジームの意味は分からない)。一方で、自分の土俵の話には徹底的に食いつく。だからこそ、麻生太郎の漢字の読み間違いには恐ろしい勢いで食いついた。
B層に受けるパフォーマンスが出来るか否か。もはやそれだけが政治家としての評価の対象になってしまっているわけです。
そもそも著者は、『民主主義は最悪の政治形態』と書いています。というかこれは著者だけの意見ではなく、過去様々な知識人が同じ事を言っていたらしいのです。政治に直接民意を反省させてはいけない。これは、ナチス初め、様々な過去の教訓からも明らかなんだそうです。
僕は、『民意を尊重する医者がいたら嫌でしょう』という喩えで凄く納得しました。確かに。医療も政治も、プロがプロによる判断によって動かすべきなのかもしれない、と思いました。
本書には他にも、様々な話が出てくる。章立てとして括られているものとしては、「B層グルメ」と「B層カルチャー」がある。どちらも、B層の存在がいかにグルメやカルチャーに壊滅的な打撃を与えたのか、という話が書かれます。
書店員的に頷けるのは、ベストセラーの話。ここ最近のベストセラーはほとんど、B層が反応することで生み出されている。そしてテレビも本もそうだけど、何故これほどまでに低レベルなコンテンツが溢れているのかというと、頭のいい人間がB層を対象に商品をつくっているからだ、と本書では書かれています。書店の現場にいると、そうだよなぁ、と凄く実感できてしまう話でした。
ちょっと前の話だけど、バイト先のスタッフに話の流れで、『まあ、テレビで言ってることなんて半分以上嘘だからね』って言ったら、「へぇ〜そうなんだ〜、知らなかった。」という反応をされました。テレビで言ってるから正しい、と鵜呑みにしてしまう人が多いんだなぁ、と実感した出来事でした。もちろんテレビにしたって雑誌にしたって正しいことも書いてあるだろうけど、基本的には、A層の言うことを疑問なく受け入れるB層向けの、誰かが儲かったり都合が悪い部分を隠したり何かの流れを作ったり、そういう意図が隠された情報が垂れ流されている、というのが正しい認識だろうなぁ、と思うんですね。まあ、雑誌は元々読まないし、テレビは最近本当に見なくなったからあくまでもイメージですけどね。
僕は自分が一流にはなれないし、一流のものを理解できるわけでもないということはもう知っています。だからこそせめて僕は、三流のものを必要以上には認めない、という立ち位置をなんとか保とうと思っています。
本書は、なかなか過激なことも書かれているので、内容すべてに賛同しているわけではないけど、B層という最大勢力を定義し、B層がいかに危険な存在であるかを明確に文章にしてくれている、という点で、僕の中で本当にしっくりくる作品でした。メチャクチャ面白かったです!「ゲーテの警告」っていうタイトルは、本当に売れなさそうな匂いしかしませんが、本書を読む限り、これはきっと著者の意向なんだろうなぁ、と勝手に想像しました。この内容なら、いくらでもB層が手に取りそうなタイトルをつけて売り出すことは出来ただろうと思います。でも著者はそれを良しとしなかった。敢えて「ゲーテの警告」という、B層がまったく反応しなさそうなタイトルをつけたんだろう、と勝手に想像しました。だからこそ僕は、この作品をB層まで届くように売るのが目標です。
本書は、日本人必読ではないかと思う作品ですが、特に物を作ったり売ったりしたりしている人には読んで欲しいかもしれません。もちろん、そんなこたぁもう随分前から知っとるわ、という人もいるでしょうし、読んだところで明確な解決があるわけでもなく殺伐とするだけです。ですが、それでも、B層という層をきちんと意識し、それとどう向き合っていくのか、ということを考えることは非常に大事だろう、と思います。本書で描かれる桑田佳祐のように。
というわけで、本当に是非読んでみてください。久々に新書で僕の中で大大大ヒット作品です。メチャクチャ面白いです。
自分用のメモで、POPのフレーズを書いておこう。
『日本人必読の書!ゲーテとかマジ関係ねぇから安心して』
『B層が空気を作る。その空気は、日本を滅ぼす』
『自分がもしB層だったら…と思うと恐ろしい!いや、僕はB層じゃない!…たぶん…』
適菜収「ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体」
適菜収「ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体」
2011年08月30日
さざなみ(沢村凛)
内容に入ろうと思います。
本書は、まったく関係のなさそうな三つの話が同時進行していく構成になっています。
一つ目は、俺(秋庭智和)の話。借金まみれで自己破産寸前、しかし事情があって自己破産も出来ない、という俺は、そんな折、利根という男からある仕事を依頼される。それは、執事になれ、というものだった。
しかしその仕事内容は、実に奇妙なものだった。女主人である「絹子さん」(そう呼ぶように言われている)がベルを鳴らすと、飛んでいかなくてはいけない。そこで用事を言いつけられる。しかしその用事が、雑談の相手であったり、誰かを呼びに行くであったり、というものばかり。しかし、難問が一つある。
それは、絹子さんがなんとなく伝える『願望』を実現させることだ。
例えば、『あの月を取ってきてくれない?』と言われる。もちろん無理だ。俺に求められているのは、いかにその難題に素敵な回答を提示できるか、ということだ。これは実にしんどいが、やりがいがないとも言えなくて…。
二つ目は、サラリーマンの奥山史嗣の話。奥山は、何か厄介なものを抱えているらしい。しばらくの間、ずっとそれがなんなのかは明かされない。しかし奥山は、常にチャンスを伺っているようである。よくは分からないが、どうも何かをしなくてはいけないらしい。しかしそのチャンスがなかなか巡ってこないらしいのだ。別に強制、というわけではない。気にしないことに決めてしまえば、それで済んでしまうはずだ。でも奥山には、それをどうしても捨てることが出来ない…。
三つ目の章は、特定の誰かが主人公というわけではない。様々な人間が出てくる。日常のちょっとした出来事だ。水たまりを踏んで剥がれてしまったネイルを直したい女の子、倒れてしまった自転車を直そうとしたら誰かが手伝ってくれた話、ヒッチハイクで車に載せてくれた話…。
というような話です。
物語の構成は非常に面白いですね。昔読んだ、佐藤友哉の「水没ピアノ」って作品を思い出しました(構成だけの話をしているんで、内容的にはまったく違いますけどね)。三つの話が同時並行で進んでいく。それぞれの話は、どう読んでも、関連性があるようには見えない。しかし、最後にはそれぞれがきちんと絡み合っていく、という構成。この構成はなかなかよく出来ている。
ただ正直なところ、それだけの構成をやるほどのラストか、という気はする。確かに、巧くまとめてはいる。なるほど、そういうことだったのか、という感じもする。んだけど、ちょっと弱いような気がするんだよなぁ。特に僕は、奥山の話が浮いているように感じてしまう。俺(秋庭智和)と、色んな人のオムニバスの話は、構成的に巧くハマる。でも、奥山の話は、オムニバスの話とも若干被るし、何よりも、奥山の抱える苦悩が、どうもしっくりとこない。もちろん、奥山のような人間がいるだろうということは理解出来る。出来るけれども、それを長編の中の一つの章で描いて、果たして読者から共感を得られるような物語になるか、というのは疑問なんだよなぁ。この奥山の章は、もう少し違った形の方向から攻めた方が、全体的にももう少し面白くなったんじゃないかな、という気がします。構成がなかなか良かっただけに、ちょっと残念でしたね。
俺(秋庭智和)の話は、なかなか面白いですね。特に、絹子さんの存在感がなかなかいい。個人的には、最後の最後の付け足しは蛇足なんじゃないかな、という気はします。絹子さんは、まああのままの存在で良かったんじゃないかしらん。
文庫の裏面の内容紹介に書いてある、『波紋のチンギスハンのシマウマ作戦』って、もはやさっぱり意味不明だろうけど、読むと、なるほどこれのことかと。なかなか面白いと思います。
同じような構成の「水没ピアノ」が、ちょっと驚愕的なネタを持った作品だったんで、どうしてもそれと比べちゃうところがありますね。構成の巧さに内容が若干ついていっていない感じがしました。この構成で小説を書くなら、もうちょっと大きなネタを仕込んだ方が巧くいったんじゃないかな、というのが正直な感想です。とはいえ、まあさらっと読むには悪くない小説かもしれません。
沢村凛「さざなみ」
本書は、まったく関係のなさそうな三つの話が同時進行していく構成になっています。
一つ目は、俺(秋庭智和)の話。借金まみれで自己破産寸前、しかし事情があって自己破産も出来ない、という俺は、そんな折、利根という男からある仕事を依頼される。それは、執事になれ、というものだった。
しかしその仕事内容は、実に奇妙なものだった。女主人である「絹子さん」(そう呼ぶように言われている)がベルを鳴らすと、飛んでいかなくてはいけない。そこで用事を言いつけられる。しかしその用事が、雑談の相手であったり、誰かを呼びに行くであったり、というものばかり。しかし、難問が一つある。
それは、絹子さんがなんとなく伝える『願望』を実現させることだ。
例えば、『あの月を取ってきてくれない?』と言われる。もちろん無理だ。俺に求められているのは、いかにその難題に素敵な回答を提示できるか、ということだ。これは実にしんどいが、やりがいがないとも言えなくて…。
二つ目は、サラリーマンの奥山史嗣の話。奥山は、何か厄介なものを抱えているらしい。しばらくの間、ずっとそれがなんなのかは明かされない。しかし奥山は、常にチャンスを伺っているようである。よくは分からないが、どうも何かをしなくてはいけないらしい。しかしそのチャンスがなかなか巡ってこないらしいのだ。別に強制、というわけではない。気にしないことに決めてしまえば、それで済んでしまうはずだ。でも奥山には、それをどうしても捨てることが出来ない…。
三つ目の章は、特定の誰かが主人公というわけではない。様々な人間が出てくる。日常のちょっとした出来事だ。水たまりを踏んで剥がれてしまったネイルを直したい女の子、倒れてしまった自転車を直そうとしたら誰かが手伝ってくれた話、ヒッチハイクで車に載せてくれた話…。
というような話です。
物語の構成は非常に面白いですね。昔読んだ、佐藤友哉の「水没ピアノ」って作品を思い出しました(構成だけの話をしているんで、内容的にはまったく違いますけどね)。三つの話が同時並行で進んでいく。それぞれの話は、どう読んでも、関連性があるようには見えない。しかし、最後にはそれぞれがきちんと絡み合っていく、という構成。この構成はなかなかよく出来ている。
ただ正直なところ、それだけの構成をやるほどのラストか、という気はする。確かに、巧くまとめてはいる。なるほど、そういうことだったのか、という感じもする。んだけど、ちょっと弱いような気がするんだよなぁ。特に僕は、奥山の話が浮いているように感じてしまう。俺(秋庭智和)と、色んな人のオムニバスの話は、構成的に巧くハマる。でも、奥山の話は、オムニバスの話とも若干被るし、何よりも、奥山の抱える苦悩が、どうもしっくりとこない。もちろん、奥山のような人間がいるだろうということは理解出来る。出来るけれども、それを長編の中の一つの章で描いて、果たして読者から共感を得られるような物語になるか、というのは疑問なんだよなぁ。この奥山の章は、もう少し違った形の方向から攻めた方が、全体的にももう少し面白くなったんじゃないかな、という気がします。構成がなかなか良かっただけに、ちょっと残念でしたね。
俺(秋庭智和)の話は、なかなか面白いですね。特に、絹子さんの存在感がなかなかいい。個人的には、最後の最後の付け足しは蛇足なんじゃないかな、という気はします。絹子さんは、まああのままの存在で良かったんじゃないかしらん。
文庫の裏面の内容紹介に書いてある、『波紋のチンギスハンのシマウマ作戦』って、もはやさっぱり意味不明だろうけど、読むと、なるほどこれのことかと。なかなか面白いと思います。
同じような構成の「水没ピアノ」が、ちょっと驚愕的なネタを持った作品だったんで、どうしてもそれと比べちゃうところがありますね。構成の巧さに内容が若干ついていっていない感じがしました。この構成で小説を書くなら、もうちょっと大きなネタを仕込んだ方が巧くいったんじゃないかな、というのが正直な感想です。とはいえ、まあさらっと読むには悪くない小説かもしれません。
沢村凛「さざなみ」


