内容に入ろうと思います。
舞台は18世紀ロンドン。瀉血となど、まだ医学的に正しくない治療法が世に広まっていた時代、解剖によって人体をくまなく観察し、その観察によって医学を前進させようとする男がいた。
その男の名を、ダニエル・バートンという。
まだ解剖が一般的ではなく、そもそも外科医が床屋と同じ程度の扱いをされていた時代、周囲からの悪評をものともせず、墓掘りから死体を買い、防腐剤を開発し、幾多の標本を生み出し、正しい医学的知見を見出してきた。
ダニエルが開いている解剖教室は、実は兄ロバートのものだ。
ロバートは、内科医として上流社会へと喰い込み、ダニエルの後ろ盾となっている。とはいえ、ダニエルの仕事を純粋にサポートしているわけではなく、ダニエルが作る標本や、ダニエルが発見する医学的知見を、すべて自らの名の元に発表することが目的だ。ダニエルもロバートのそんな行いに気づいてはいるが、ロバートの後ろ盾なしには解剖教室を続けることが出来ないもの事実だ。
ロバートのその行いは、ダニエルの弟子たちも苦々しく感じている。
ダニエルには5人の弟子がいる。一番弟子であり、最も業績を上げているエドワード・ターナー(エド)、細密画が得意で、解剖中絵を描くことを任されているナイジェル・ハート、そしてあと三人、お喋りのクラレンス・スプナーと、太っちょのベンジャミン・ビーミス、そして痩せっぽちのアルバート・ウッドの五人だ。彼らはみなダニエルのことを心から尊敬していて、ロバートの悪行に苛立ちながらも、ロバートなしでは解剖教室が成り立たないというジレンマを受け入れている。
ある夏の日、ダニエルの解剖教室には三つの死体が存在した。
一体は、いつものように墓掘りから買った死体だ。妊娠六ヶ月の母体という、極めて珍しい死体で、ダニエルはこの解剖を心待ちにしていた。
しかしそこに、ロンドンの治安を守る存在である犯罪捜査犯人逮捕係(通称 ボウ・ストリート・ランナーズ)がやってきた。妊娠六ヶ月のその死体は、ラフヘッド家という高名な地位のお嬢様であり、それでボウ・ストリート・ランナーズが動いているらしかった。
彼らがやってくる前に死体を暖炉に隠した弟子たち。ボウ・ストリート・ランナーズの二人を追いやって、さて解剖の続きを、と思った時、今度は治安判事の使いの者がやってきた。
アン=シャーリー・モアと名乗ったその女性は、治安判事ジョン・フィールディングの姪であり、女でありながら盲目の治安判事の『目』として動き回っている。解剖をしようと暖炉から引きずりだした<六ヶ月>の死体の包みをアンに開けられてしまったのだが、なんとそれは、四肢のない少年の死体にすり替わっていた。
アンが一旦退いた後で、<六ヶ月>の死体を見つけるために再度暖炉の中に入ったところ、そこで第三の死体を発見した。その死体は、顔を潰され判別できなくなっていた…。
というような話です。
これは凄い作品だったなぁ。ミステリとして、相当よく出来ている、と思いました。
本書で最もメインとなるのは、もちろんミステリ的な部分です。このミステリ的な部分の作り込みはなかなかのものです。この部分については、ちょっとしたことがネタバレになりそうな気がするんで、極力なにも書かないままで終わらせたいところですが、ちょっとは何か書きましょう。
冒頭で現れる三つの死体。一つは解剖教室で買い取ったものだけど、後の二つは謎。しかし、この三つの死体について、少しずつ様々なことが明らかになっていく。初めはそれぞれ、まったく繋がりがないとしか思えない状況だ。たまたま三つの死体が解剖教室に揃ってしまっただけ、という感じがする。しかし、もちろんそんなことはない。謎の二つの死体だけではなく、解剖教室で買い取った<六ヶ月>の死体までも、物語に深く関わっていくことになる。
本書では、様々な人間が、少しずつ嘘をつく。それがさらに状況を謎めいたものにする。嘘をつく人間はそれぞれ、自らの良心に従って嘘をつく。皆それぞれに大切なものがあり、守りたいものがある。そのために些細な嘘が降り積もっていくことになる。盲目の治安判事であるサー・ジョンは、視力を失った代わりに研ぎ澄まされた鋭敏な聴力を持つといわれ、相手の言葉が嘘かどうか分かる、と評判だ。しかしそんなジョンさえも困惑させるような展開が次々とやってくる。
三つの死体以外にも、まだまだ死体は増え、謎めいた状況も積み重なっていく。それらは少しずつ解けていく。しかし、解けていく端から、また絡まっていく。疑わしい人物がはっきりしてきてからも、サー・ジョンは予断を持たない。あらゆる可能性を捨てず、細かな点を決してないがしろにせず、少しずつ真相に迫っていく。
事件そのものの展開も魅力的ながら、このサー・ジョンの探偵としての手腕には驚かされる。サー・ジョンは盲目で、アンという姪を右腕として、アンが見たものすべてを忠実に語らせることで視力を補っている。自分の目でものを見ることが出来ない、というハンデを、様々なやり方で補っている。それは、鋭敏な聴力だったり、相手に触れることだったり、あるいは驚異的な記憶力で矛盾点を見つけ出したり、ということだ。また、探偵としての能力だけではなく、人間としても信頼がおける。この時代のイギリスでは、国が強い警察組織を持つことを危惧する市民感情が強く、公的な警察組織というのはほとんどなかった。賄賂によって犯罪を見逃すような、そういう不敬の輩が跋扈する時代だった。その状況を変えたのが、サー・ジョンの異母兄であるヘンリー・フィールディングだ。彼は警察組織の改革に乗り出し、賄賂によって犯罪を見逃すような状況を一掃した。ジョンはそんな兄に協力し、今に至っている。サー・ジョンに采配なら信頼が出来ると、市民からも厚い信頼を得ている人物である。
パズルのピースがぴったりと合わないような謎めいた出来事が頻発する事件と、それを追うサー・ジョン。その攻防が本書の大きな魅力の一つだと思います。
また、強く関心を惹かれる題材が、ダニエル主導による解剖だ。ダニエルには、モデルとなる実在の人物がいる。ジョン・ハンターという、本書のダニエルとほぼ同じ境遇(兄が内科医で解剖教室を持ち、それを弟のダニエルが回していて、成果をすべて兄に取られる、というような状況)だった実在の解剖医だ。
本書の巻末に、「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」という本が、参考文献のトップに載っている。僕はこの本を読んだことがあって、本書の冒頭を読んですぐ、あーあの本の人がモデルなんだな、と分かった。それぐらい、本書で描かれるダニエルは、ジョン・ハンターと酷似している。
「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」を読んだのは結構前なので、もう内容を詳細には覚えていないけど、解剖学の祖、どころか、近代医療の祖というような存在だったはず。それまで治療といえば、呪いと同じようなことしかしていなかった。まったく効果がないことが後世証明された瀉血(病気になるのは体内の血の巡りが悪いからだ、という説に立って、体内の血を抜く治療のこと)がメインの治療法としてまかり通り、確かある有名な人(名前は忘れた)も、瀉血をされすぎたせいで死んだ、というようなことが何かの本に書かれていたような気がします(「解剖医〜」だったかなぁ)。
ジョン・ハンターはそんな状況を変える。解剖によって得られた知見を重視し、それまでの学説に一切こだわることなく、自らが辿りついた正しい治療法を広めた。初めの内は、医者の間では、ジョン・ハンターのやり方は異端だと言って相手にされなかったのだけど、その効果が少しずつ広まっていくにつれて、治療法も広まっていった、という感じだった気がします。
本書では、ダニエルの解剖にかける気概みたいなものが随所に描かれます。もっと解剖をしなければ、死因も死亡推定時刻も確定出来ない、そのためにはもっと死体が必要だ、今のロンドンでは死体を確保するのは本当に厳しい、なんとか法律を変えられないかと、ダニエルは何度もサー・ジョンに詰め寄ります。生活のほとんどを解剖に捧げているという感じで、五人の弟子もそんな師を強く尊敬している。ミステリの部分だけでなく、実在の人物をモデルにした、当時の『解剖』に関わる状況を見事に描いて見せている点も素晴らしいと思いました。
また、解剖に限らず本書では、18世紀当時のロンドンの雰囲気というものを細部まで描き出そうとしています。もちろん僕は当時のロンドンのことなんて知らないわけですが、なるほどそんなこともあったのか、と思うような細かなエピソードが、メインのミステリの部分とはさほど関係のない部分についても描写されていて、当時のロンドンの雰囲気を正確に描き出そうとするその意気込みが伝わってきました。
例えば、と言って具体的に書けることは多くないんですけど(ホントに細かい部分での描写が多いので、なかなか読後記憶に残っているものは多くはないんです)、例えば『窓税』というものを僕は初めて知りました。本書で詳しく描かれているわけではないんだけど、恐らく窓を一つ作る毎に税金が掛かるのでしょう。だから、刑務所には窓がないし、ある少年が住んでいた部屋は、窓税を払いたくないがために、レンガをいくつか取り払って窓の代わりにしている、という有様。そういう、ストーリー的には特別必要ではないけど、当時のロンドンの雰囲気を醸し出すのに役に立っている描写がそこかしこでされていて、それが僕は一番凄い点ではないか、と思いました。もちろん、過去のある時点を舞台にした小説(時代・歴史小説なんかはそうですね)では、その当時の風俗や雰囲気なんかをいかに描写するかが作家の腕の見せ所になるんだろうけど、本書はその当時のロンドンのことをまるで知らない人にも、なるほどこんな感じだったんだろうな、と思わせる雰囲気が漂っていて、それがミステリの部分と非常に巧く絡みあって、全体として非常に質の高い作品になっていると思いました。
事件を引き起こした動機や、最終的な着地点なんかも、この当時のロンドンだからこそ、というような部分が含まれていて、ただ単にジョン・ハンターをモデルにしたくて18世紀のロンドンを舞台にしたわけではないということが分かります。本当に細部にまでこだわりのかんじられる作品で、僕は皆川博子の作品を初めて読みましたけど、これはちょっと他の作品も読んでみるべきかもしれないな、と感じました。
ミステリとしての質の高さと、18世紀ロンドンの雰囲気の描写の質の高さ、そして実在の人物を舞台にした『解剖』の状況を取り巻く描写が見事に絡みあった絶妙な作品だと思います。装丁も本当に素敵だと思うし、タイトルもなかなか洒落てますね。出てくるのが外国人ばっかり(当然ですが)なので、外国人作家の作品を苦手とする僕にはちょっとどうかなと思ったんですけど、冒頭でダニエルの弟子五人の名前を覚えるのにちょっと苦労した以外は、スムーズに読むことが出来ました。是非読んでみてください。
皆川博子「開かせていただき光栄です」