内容に入ろうと思います。
本書は、森博嗣の100のフレーズに、それぞれ2ページずつの補足が書かれている、という体裁の本です。まえがきで森博嗣はTwitterに触れていて、別に森博嗣自身はTwitterをやる気もないし、たまに見ても大した呟きを見つけられないけど、要するに、100のフレーズはそういう「呟き」のようなものだ、という感じです。
僕はこれまで、森博嗣の小説だけではなく、エッセイもたくさん読んできたの、森博嗣的思考と言うのには結構触れてきた人間だと思う。だからこそ、少なくとも僕には、新鮮だ、という感じの内容ではありませんでした。それは、これまで出版された本と内容が同じだ、というようなことを言いたいわけではありません。似たようなことももちろん書いている部分もあるだろうけど、内容が似通っているというわけではありません。それは、思考の方向性というか、森博嗣の立ち位置というか、視点の置き方とか、そういうものが、やっぱりブレないなぁ、凄いなぁ、という感覚だ、と思ってください。だからこそ、本書に限らず森博嗣のエッセイを初めて読むという人には、こういう思考・立ち位置・視点には驚くだろうなぁ、と思います。
本書で描かれていることも、なるほど、と感じられるものもあれば、そういう見方もあるのか、と感じられるものもあり、あるいは、それについては僕自身は興味がないなぁ、というものももちろんあるわけなんだけど、基本的にやっぱり、森博嗣の思考には共感できる部分が多いし、自分もナチュラルにそういう風に思考出来る人間になりたいものだ、と思うものが多いです。
どの作品(小説を含めてもそうだけど、基本的にエッセイを指しているつもり)でもそうだけど、森博嗣は、常識や慣習にナチュラルに疑問を抱く。何故そうなのか、何故そうしなくてはいけないのか。多くの人は、その疑問を感じることがない。その疑問を抱かない方が、つまり、常識や慣習に唯々諾々と従っている方が、楽だと知っているのだ。
僕はどちらかといえば、疑問を抱いてしまう方だ。もちろん、森博嗣ほどではない。僕も常識や慣習に流されている部分はたくさんあるだろう。とはいえ、そういう感じだから、生きづらさを感じるのだろうと思う。森博嗣ほど能力があれば、常識や慣習に疑問を抱いても、そう強い生きづらさを感じずに済むのかもしれないなぁ、とか思ったり。あるいは、ただ単純に年齢や環境の問題、というのも大きいかもしれないけど。
個人的には、森博嗣のような思考の人が増えてくれると僕は生きやすいのに、と思う。世の中はもっと、森博嗣の思考のような、合理的な判断で回って欲しい、と感じてしまう。世の中は、そうなってはいない。余計なものがたくさんくっついてくる。山とかを歩いていると、服に何か植物がついているようなことがあるけど(なんて植物なのか知らないけど、そういうやつありますよね?)、それに近い。知らぬ間にくっついている。僕は、気づけば取るようにしているけど、たぶん気づいていないものも多いはずだ。森博嗣はきっと、そういう服についてしまうような植物に全部気づき、そして、服についたそれをどうやって取るかという思考よりも、それが服につかないようにするにどうすればいいか、というようなことをずっと考えているような人である(あくまで僕のイメージですけど)。
そういう人が増えてくれれば、つまり、余計なものをそぎ落とすためにどうしたらいいか、というような方向性の人が増えてくれれば、僕自身はきっともっと生きやすくなると思う。余分なものがたくさんある方が、経済はうまく回るんだろうし、それによって恩恵を受けられる人もきっとたくさんいるのだろう。僕は、そういう部分には強く興味を持てないから、もう少し余分なものが世の中から減ってくれたらいいのにな、といつも思っている。
森博嗣の言っていることは、少なくとも僕にとっては、赤道直下の国でコートを着ている人に『何でそんなもの着ているの?』、と聞くようなものに近い。つまり、凄く当たり前のことを言っているように感じられる。もちろん全部ではない。自分がこれまで考えたことがなかったような方向性の思考ももちろんたくさんある。でも、すげぇ当たり前だよな、と感じられるものも非常に多い。
赤道直下の国でコートを着ている人からすれば、『みんなが着てるから』とか『そうするのが普通だから』とか、あるいは『それがルールだから』なんていう答えを返す人もいるかもしれない。赤道直下でコートを着ることが『普通だ』と思えない人には、その人の言っていることは理解出来ない。恐らく森博嗣が世間を眺める視点は、こういう位置にあるのではないだろうか、と思う。恐らく、実に多くの人間がおかしなことをしている、そんな風に見えているんだろうなぁ。僕も、たまにそう思うことはある。森博嗣のように、なんでもかんでもそういう視点から見えてしまうというのも、ある意味では羨ましい。でも、それはそれで相当の『覚悟』みたいなものが必要とされるんじゃないかなぁ、という気もする。僕は、森博嗣は天才だと思っているのだけど、その天才さは、一般の人からすれば『覚悟』が必要としか思えない場所に、飄々と(あるいはそう見えるように)座っているからだったりするのかなぁ、という気もする。わからないけれど。まあ森博嗣からすれば、こうやって森博嗣のことを分析しようとしている人間は、ゴミでしかないんだろうなぁ。いや、僕はそれでいいんですけど。
いつものように、内容を抜書きしてあーだこーだ書こうと思うのだけど、ちょっと躊躇してしまう。それは、本文中に、
『評論家口調で、「これはおすすめできない」と書いている人は、自分がすすめるも
のにどれくらいの自信があるのだろう。どの程度の責任を感じているだろう。おそら
く、なにも考えていないにちがいない。それゆえ、無害といえば無害である。』
『偉い人の話を聞いて、それをそのままブログに引用しても、これっぽっちも偉さには近づけない。』
というような記述があるからだ。
いや、別に、本の内容をブログに書くことについては、以前から森博嗣は不快感(と表現していい感覚なのかは不明だけど)を示していた。僕も、別にそれを知った上でブログで感想を書いているし、抜き書きもしてきた。だから、本書だけ躊躇する、というのは、少なくとも僕も理屈には合わない。だからまあいつも通りやるんだけど、まあでも、先に引用した二つについても、言っていることは非常に共感できてしまうんで厄介なんですよね。
さて、本書には、電子書籍や書店に触れた部分がある。
『いよいよ、印刷された書籍は出る幕がなくなってしまう。こうなることは、二十年もまえから予測されていたことで、今さらそれがどうだ、という議論はしたくないけれど、ようやく大衆が移り始めた感じは見える。書籍が書店で売られるシステムをもっと合理化していれば、まだまだ存続の可能性はあっただろうけれど、残念ながら、時既に遅しとなった。』
『売れない商品、売れ残り商品を沢山並べている店、それが書店である。』
書店で働いている者としては反論したい部分もあったりするのだけど、でもそう見られているということは自覚すべきである。結局のところ、書店がなくなって困るのは、書店で働いている人間だけなのかもしれない。もちろん、書店で働いている者としては、そうではないと信じたいところだけど、でも今のままだと、書店はちょっとどうにもならない。既に王手をかけられている状態、と言ってもいいだろうと思う。森博嗣の予測はきっと当たるのだろう。少なくとも、何かとんでもないパラダイムシフトでも起こらない限りは。そして、そんなパラダイムシフトが起こりそうな予感は、少なくとも僕には感じられない。
僕はこれからも書店で働く者として、自分が信じる方向に精一杯努力をするつもりだけど、しかし悲観的な感覚は決してなくなることはないだろうなと思う。
物を売る立場の人間として、面白い話もあった。
『世の中には、一流よりも二流の方が圧倒的に多い。二流の感性の受け手は、一流よ
りも二流の作品の方に安心する。みんなも良いと言う。だから、それが良いものの典
型にある。』
『近頃の傾向として、易しくて理解できるものを好む、軟らかくて食べやすいものだけを好きになる、というのがある。そんな気がするだけだろうか。』
『良い品物だから売れる、欲しいものだから買う、というメカニズムは
むしろマイナ。』
物を売る立場の人間としては、売れるものは何でも売らなくてはいけない。しかしその一方で、売れていくものが決して質の高いものであるわけではない、という感覚は常にある。
僕個人としては、良い物をたくさん売ることで、より良い物が生まれやすい環境を生み出せたら、あるいは、良い物をたくさん売ることで、良い物を見分ける力を学べる環境を生み出せたら、と思っているのだけど、なかなかそうはいかない。作中で森博嗣も、良い物はそんなに売れない、と書いている。これは、僕の実感とも一致する。なかなか難しい。そこそこのものばかりが売れていく世の中で、どうして良い物を作ろうという人が出てくるだろう。一応断っておくけれども、僕自身が少なくとも本に関しては良い物を見分ける力が普通の人よりはあるよ、なんてことを主張したいわけでは全然ないのですよ。
仕事といえば、こんなフレーズもある。
『作業に取りかかる以前に、ほとんどの仕事のグレードは決まっている。』
このフレーズ自体は、特別新鮮なわけではないけど、でもこれを、ペンキ塗りの話から導き出すという補足の話は非常に面白いと思う。
また、こんな思考もある。
『一般に、自由人と呼ばれるような人は、不自由を我慢する能力がなく、我慢ができないからなんとか自由になろうとする。そのうち、比較的能力がない人は、犯罪者になる。残りの比較的能力のある人は、社会で成功する。』
非常にスマートにまとめるなぁ、という感じがしました。僕は、不自由を我慢する能力がまったくない人間だけど、能力はそう高いわけではないから、いつしか犯罪を犯すかもしれない。これは謙遜とかではなくて、自分が犯罪を犯すかもしれない可能性というのは、考えているのだ。それぐらい、不自由に対する耐性がない。今はたまたまラッキーなことに、不自由さをほとんど感じずにいられる環境なのだけど、それが様々な偶然によって成り立っているということもちゃんと知っている。環境が少しでも変われば、僕はどうなるかわからない。
自由については、こんなフレーズもある。
『「自由なんていらないよ」という人にかぎって、金だけは欲しがる。』
これは、この文章だけだと、どんな状況を説明しているのかちょっとわからないかもしれない(僕は分からなかった)。でも、補足を読むと、なるほど、と思わされる。森博嗣は大学の助教授という職を去って以降、さらに人に会わなくなる生活をしているようなんだけど、個人ブログを見ている、というような記述があった。恐らくそういうところからの観察もあるのだろうな。森博嗣の周囲の観察力は高いよなぁ、といつも思う。
森博嗣と考え方が近くて、嬉しいなぁ、と思うような思考も多い。
『国を愛することは、具体的にどのような心理なのか、僕は今一つ理解できない。僕は、故郷を愛したり、どこかの地域を贔屓にしたりといった経験がない。「先祖」というものが何かも、またそれに縛られる思想も理解できない。人が創り出した文化、つまり伝統は大事だと思うが、それがその「場所」にあるとは思わないのだ。高校野球で、自分の県の高校を応援する気持ちが僕にはまったくわからない。説明してもらったことはあるけれど、まったくこれっぽっちも納得できなかった。』
『僕の場合、眠ることや食べることが人生の目的だとは考えていない。生きるために
は、眠ること食べることが必要だから、ある意味では「しかたなく」寝ているし食べ
ている、という感じがしている。』
『親の死に目にあえないことの何が問題なのだろう?』
『子供は自由だというが、大人ほどではない。』
『死というものが、これほど特別視されるのは、やはり「いつ訪れるか」がわからな
いからだろう。生きられる時間が決まっていれば、死はもっと日常のものになってい
たはずだし、死を迎えるための方法も確立されていたのではないか。最期の日は、少
なくとも誕生日以上のイベントになっていたはずだ。』
こういう思考は、周りの人間に通じることもあるし、通じないこともあるけど、僕にとってはどれも普通のことで、そうではない風に考えられる方が不思議だなぁ、と思うこともある。
まあそろそろ、具体的な引用はやめようかな。
森博嗣の思考に触れると、自分の甘さとか弱さとかに気付かされる。でも、もうそれでもいいか、という感覚も出てきてしまう。森博嗣のようにはなれないよなぁ、と思ってしまうのだ。自分の本分に沿って生きればいいか、と思う。別に森博嗣は、僕に何かを強制させようとはしない。けど、森博嗣のような思考・生き方に触れると、なんとなく自分のダメさ加減が怖くなる。けど、もう諦めよう。速やかに諦めよう。
というわけで、受け取る人次第でしょうけど、僕にとってはやはり森博嗣の思考は、心地いいと同時にざわざわさせられる、そういうものです。森博嗣の思考に触れると、自分がどれだけ多くのものに縛られ、そしてそれが不自由さを生み出しているのか、ということに気づくのではないか、と思います。是非読んでみてください。
森博嗣「つぶやきのクリーム」