2005年06月12日

壷中の天国(倉知淳)

妄想と現実、というものの差は一体なんだろう、と考える。
例えば僕は、こんなことを考えてみたことがある。人が見ている「色」は、それぞれ同じ物なんだろうか、と。人はそれぞれ、違う色に同一の名前を付けて、表面上矛盾していないだけで、例えば僕が見ている信号の色と、僕以外の人が見ている信号の色は、同じ「赤青黄」という言葉で表される色なんだけど、別物なんではないか、なんて風に考えたことがあります。
人の数だけ妄想がある、といってもいいでしょう。
僕の持っている妄想だとどんなものがあるだろう。僕は、世界中の人から嫌われている、という、非常に悲観的な妄想を持っている。僕の場合それは妄想だとわかっていて、現実ではそうはありえないだろう、ともまた思ってはいるんだけど、でもその妄想を手放すことはできない。僕が維持しているような「現実」と「妄想」の関係なら、周囲に特に影響を与えることはないだろうと思う。
オタクと呼ばれる人たちも、妄想を抱えていると言えると思います。自分の好きな人、キャラクター、対象を熱狂的に愛でたり応援したりする、というのも、ある種妄想の成せる技だと思います。
しかし、例えばUFOだ宇宙人だ幽霊だ、とかのたまう人は、妄想と現実の区別がつかなくなっているのだろうと思う。自らの「妄想」を現実であると取り違えて、本来の「現実」を塗り替えよう、とそうした行動をするようになると、もう危ない。
さらに、精神病や、麻薬などの中毒症状であるのが、「あいつが俺を狙っている」「あいつは俺のことを殺そうとしている」というような被害妄想です。こうなってくると、その人の中に「現実」は映っていないのだろうと思います。他者に危害を加えるようになっていくでしょう。
こう見ていくと、やはり妄想と現実というものの差はどんどんわからなくなっていくように思います。どちらがどのくらいの割合を占めているか、という問題であって、誰しもが妄想を抱えていることはきっと間違いないことでしょう。
本作にも、妄想に取り付かれた人が出てきます。こんなこと、あってもおかしくないかもしれないな、と実感できてしまうことが少し恐ろしくもあります。
さて、本作ですが、先に言っておきましょう。素晴らしいです。見事に精緻に出来ていて、恐ろしく奇跡的な作品のように僕には思えます。
内容に触れようと思います。
あるささやかで静かな地方都市。その街で暮らす主婦知子。娘の実歩と、父親の嘉臣の三人暮らし(実歩の父親はいない)。知子は、クリーニング屋の宅配で汗を流し、家では盆栽を愛でる。嘉臣は市役所に勤め、家では新聞やテレビのニュースを見ながら世相に文句を垂れる「義憤の人」となる。実歩は小学生で、知子とはいい親子関係を築いている。そんな、ささやかででも幸せな知子の生活は、街で起こる事件によって少しずつ変わっていく。
街で起きた殺人事件。その殺人事件に呼応するように流布される怪文書。そこには、「自分は、全知全能の存在から電波を受信しているので、妨害しないで欲しい」といった主旨の内容が、果てしなくわかりづらく表現されている。
初めこそ、怪文書と殺人に明確な関連性を見出せなかった人々も、第二第三と続発していく殺人と怪文書に、無関係とは思えなくなっていく。被害者同士の関連性をまったく見出すことができず、無差別の通り魔としか思えない犯行は、次第に街全体に不穏な空気を停滞させていく。
犯人は一体誰なのか?怪文書の目的は?被害者たちは何故殺されたのか?被害者の関連性は?
基本的に事件に対しては傍観者である知子は、最後まで傍観者であり続け、事件とは直接関わらないものの、事件の推移と影響を全身で感じ、その解決を待ち望んでいる…
さて、本作の素晴らしさをどう伝えればいいだろうか。
まずやはり、ミステリらしく、伏線が見事であるということ。解説氏も書いているように、伏線だけで作品の半分は使っているのではないか、というぐらいの内容です。最後まで読むと、面白いけど無関係だろうな、と思っていた部分が実は関係がある、というその見事さに驚愕です。
真相は、それをそのまま受け入れれば、なんだそりゃ、という類のものかもしれません。でも、読み終えたときにそんな感じは特に受けないだろうと思います。それは、作者の伏線の仕掛け方が見事だからだろうと思います。
僕がよく考えるのは、同じような内容を、他の作者が書いたらどうだろうか、ということです。本作のメインの部分を誰か他の作者が思いついて書いたとしても、ここまで見事なものはできないだろうと思います。それは、京極夏彦の「陰摩羅鬼の瑕」を読んだ時にも思いましたが、そういう点で本作は素晴らしい、と思います。
さて、本作の素晴らしいところは、それだけにとどまりません。何より素晴らしいのは、街や人や日常の描き方です。
本作は、基本的に、知子の日常を通して描かれます。事件の被害者が知り合いというわけではなく、また捜査関係者に知り合いがいるというわけでもなく、まして知子自身が探偵であるというわけでもなく、通り魔殺人の起きている街で、その事件を新聞やニュースで知り、家族や近所の人とその話をし、子供の心配をする、というまるきり傍観者としての関わりしかしません。
その知子の視点で語られる日常の変化、というものが素晴らしいです。通り魔殺人というものは、何も被害者や被害者家族だけに影響を与えるわけではないのです。その街に関わる全てのもの、地域や学校や商店や通りや子供たちやマスコミといった、そうしたもの全てが少しずつ奇妙に不本意に変容していき、その僅かな変容を、知子自身が、あるいは知子の周囲の人々の指摘によって、知ることができます。正直事件云々よりも、こうした点の方が面白いかもしれません(興味深さは事件の方が上ですが)。
さらに素晴らしいのは、著者が描くキャラクターたちです。主要な人物はもちろん、そこまで主要でない人物まで丁寧に描かれていて、素晴らしいです。
上で書いた知子、実歩、嘉臣だけでなく、他にも魅力的なキャラクターが豊富に取り揃っている。
知子の同級生であり、今は子供たちを集めて絵画教室なるものを開いている、美術大学を出た正太郎。美術系の大学の臨時講師以外に定職らしい定職は持たず、日がなぼんやりしている。ふにゃりとした印象で、空気の抜けた風船のような男だが、人とは違う視点で物事を見るのが、知子のお気に入りでもある。娘の実歩をその絵画教室に通わせていて、その迎えに行く際に、早めに言ってお茶を飲むような仲である。
同じく同級生である隈田。父から電気屋を受け継いだが大手チェーンに買収され、一応役員待遇だがやることはなく、仕方なく好きなラジコンを河原で飛ばしている。
知子の働くクリーニング屋の店主。発明好きで、いつも珍妙な発明ばかり考えている。知子に自分の発明の説明をしたくていつもうずうずしているのだが、ちゃんとした発明はあまり多くはない。
以前事情があり、知子の家に居候していた水島。常に何かを憂えているような仏頂面を崩すことのない男だが、根は生真面目でちゃんとしている。ある議員の事務所が発行している機関紙のようなものの記者をしており、何故か今街で起きている通り魔の取材をするようになった。
他にも、様々に素晴らしい人々が出てくる。田舎を離れた姉からの電話、というのは僕にとってはなるほどそういうこともあるだろうな、と思ったものだし、被害者たちを描いた部分でもおざなりではなくしっかりと描きこんでいる。素晴らしい。
つまり本作は、ミステリ的で精緻極まる伏線を、愛すべき登場人物や彼らの日常に見事に紛れ込ますことで成立したミステリだと言える。
また、特定の人物内からの犯人の指摘、という王道ではなく、街の中の誰か、という漠然とした範囲の中から犯人を指摘する点など、普通の力量の作家ではできないだろうと思う。
確かに、少し長い。けど、その長さゆえの面白さは間違いなくあります。是非読んで欲しい、と思います。

倉知淳「壷中の天国」


壷中の天国文庫

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