いろんなことで人は悩む。それはそれは様々な悩みがあることだろう。人の数だけ悩みがあると言っても過言ではないだろうと思う。もはや、個性と同じだろう。
そして、人によって解決の仕方もそれぞれだ。原因を見つけられればそれを取り除けばいいし、そのために誰かに協力してもらうかもしれない。原因がわからず誰かに相談したり、誰にも相談できずに死を選んでしまう人だっているだろう。
僕も、少し前まで最低の状態で、本気で死ぬことだって考えたし、それだけが原因でないにしろ大学だって辞めた。考えることに疲れ、でも誰かに相談することはなかなかできなくて、自分の中に閉じこもり、あらゆることから逃げて、現実を直視せずに、ひたすら後ろ向きだった。
そんな僕も、色んな人の協力や、さまざまな出来事を境に徐々に回復し、今ではなんとか正常を取り戻しているとは思うけれども、またいつあんな感じになるかと思うと、少しだけ恐い。
そんな最低の状態の時に、伊良部と出会っていたら…と想像すると、少しおかしい。
本作は、「イン・ザ・プール」の続編で、トンデモ精神科医の伊良部という男の奇行が描かれている作品なのである。
首が見当たらないほどの二重顎で、巨漢。子供のように無邪気で、常識が通じないのはもちろん、会話すらまともに立ち行かない。医学界ではかなり有力な立場にいる父のお陰で、父を院長とする病院の精神科の医師としていられている。患者に注射をするのが大好きで、その様をじっと見ている。とにかく、どんな患者にもとりあえずビタミン注射をする。注射をするのは、ミニスカナース服でFカップの美人看護婦なのだが、この看護婦も、無口でなかなか一筋縄ではいかない曲者である。
とまあ、とにかく変態の精神科医伊良部が、様々な悩みを抱える人々に対して、診療という名の無邪気なじゃれ合いをする物語である。すごいのは、じゃれあっているだけなのに、患者の悩みはいつしか消えている、という点だが。
もし、伊良部のような、ノーテンキで馬鹿な人間に、あの当時出会っていたら、もう少し別の道があったかもしれないな、と思うと少しおかしい。
患者が抱える悩みというのは、ほぼなんらかの強迫症である。何かが気になって気になって仕方なくて、という神経症であり、皆カウンセリングを目的に伊良部の元を訪れるのだが、伊良部は一向にカウンセリングなんかしないのである。
伊良部、という、果てしなく強烈なキャラクターを中心にした、ある意味ギャグ的な作品ではあるけれども、そこには、人間の闇が、笑いに交えてしっかりと描かれている。賞を取ったからどう、とかいうつもりはないけれども、本作は直木賞を受賞している。確かに、ギャグ的でふざけている感じは受けるけれども、一歩間違えれば人ごとではないし、もしかしたら伊良部のような「治療」が、一番有効なのかもしれないとも思う。
僕は思う。きっと、道端で擦れ違う誰もが、外からはわからないけれども、なんらかの闇を抱えているはずだ、と。みんな、それを何らかの形で処理しながら、ちゃんと生きているんだと。こんなことに悩む患者がいて、そんな患者よりもさらに壊れた精神科医がいたって、別におかしくなんかない、となんだかそんな気分にさせられます。
正確な情報ではないかもしれないけど、本作か、あるいは前作「イン・ザ・プール」が、ドラマだか映画になるようです。伊良部役が確か松尾スズキだったような。ちょっとだけ、興味があったりします。
それでは、それぞれの短編を紹介しようと思います。
「空中ブランコ」
サーカス団のエース団員山下は、ある時期を境に空中ブランコに失敗するようになった。それは、キャッチャーである相方が、内田という男に代わってからだ。山下は考える、きっと、内田が嫌がらせをしているんだ。なんてことだ…と。上司や妻に、精神科へ行くことを勧められ渋々行くことにしたが、そこで出会った伊良部が、何故かサーカス団で空中ブランコの練習をすることに…。人間不信の山下と、誰にでもすぐに取り入ることのできる伊良部の物語。
しかしまあ、自分のことは自分が一番わかっている、なんてきっと嘘ですね。
「ハリネズミ」
尖ったものを見るとじわっと汗が滲みでて、気分が悪くなる…そんな先端恐怖症になってしまった、やくざの若頭猪野。つまようじも箸もダメで、同棲している水商売の女にも呆れられている。周りにはなんとしても知られるわけにはいかないが、治さないわけにもいかないと、伊良部の元を訪れる。先端恐怖症なのに注射をされ、やくざの看板が効かない世界に戸惑う猪野。やがて、血判を送るという話になる。それはつまり、親指をナイフで切らなければいけないということ。一体どうすればいいのだろう…
譲れないものを持つことは大事だけれど、それだけが全てではないでしょう。
「義父のヅラ」
学部長の娘と結婚した池山。精神科医である彼は、最近ある衝動にかられるようになる。周囲を困らせたいという衝動で、並んだグラスをなぎ倒したり、非常ベルを鳴らす、といった誘惑といつも戦っている。何よりも一番困るのは、義父である学部長のヅラを、衆人の前で取ってしまいたい、という衝動だ。同業である伊良部の元を訪れると、破壊衝動を代償行為ではらせてやればいい、ということになって…
しかしまあ、伊良部というのは、留まることをしらない。
「ホットコーナー」
一塁への送球がまったく定まらなくなってしまった三塁手坂東。肩の故障ということにして調整をしているが、原因がまったくわからずに途方にくれている。友人には打ち明け、精神科へ行くことを勧められたが、伊良部はキャッチボールをしようというだけで、特に治療らしいことは何もしない。そのうち、キャッチボールも制球が定まらなくなっていき、坂東は焦っていく。アイドル並の人気を得つつある、坂東の代わりの三塁手である鈴木の存在が気になるところだけれども…
「君は一体どうやって歩いているの?」と問われたムカデが、歩けなくなってしまった話を思い出しました。
「女流作家」
締め切りに追われる、恋愛小説作家星山。彼女は、今書いている小説の設定を、過去にも書いているのではないか、という強迫観念に囚われている。そう思い込んだら、かつての著作に目を通さずにはいられない。嘔吐を繰り返すようになり伊良部の元を訪れたのだが、伊良部は作家デビューをしたい、とわけのわからないことをいい、星山に呆れられる。編集者や、同業の作家などとの関係や、彼女がかつて書いた、売れなかった大作の存在が、彼女にのしかかる…
やはり作家というのは大変なんだろう。きっと、奥田氏自身の経験も含まれているのだろうか。
どの作品も、爆笑間違いなしの銘品です。是非読んでみてください。
奥田英朗「空中ブランコ」

空中ブランコハード