2005年10月10日

東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン―(リリー・フランキー)

「家族」というものを考える機会が、今の僕にはそもそもない。大学入学と同時に上京し、人暮らしをするようになったせいもあり、家族に触れることなく生活するようになったからかもしれないが、決してそのせいだけではないことを僕は知っている。
「家族」というものを考える時に僕の中で浮かぶものは、遠い世界で起こっている戦争について考える時のような、圧倒的な距離感である。
人によって、家族のあり方やその意味なんかは違うことだろう。支えあって生きている家族もあれば、反目しあったままの家族もあるだろう。そのあり方の絶対的な正しさの基準など知るよしもなく、誰もが手探りのままで家族を持ち、家庭を作ろうとする。押し付けられたり、当たり前のように存在するそれぞれの価値観が、うまくまとまればいいが、少なくとも僕の場合、そううまくいくことはなかった。
僕は、もう何年も両親と会っていない。声を聞いたこともほぼないだろう。携帯のメールで、極たまに連絡を取るぐらい、しかも事務的な用件ばかりである。そんな状態で、「家族」というものを意識することはほとんどない。
両親にとって、僕がどういう存在なのか、昔も今も知る由はないが、僕にとっての両親の位置付けは、大分昔から固定され、今でもほとんど変化することなく来ている。僕にとって両親というのは、常に手錠のような存在でしかなかった。
僕は正直言って、両親に怒られたり何かを強制させられたりしたことはない。至って真面目な面だけを両親に見せていたせいもあり、その中で両親の中での僕の印象は、よく出来た息子、というわかりやすい評価で固定されていたことだろうと思う。
しかし、僕はある時期を境に、緩やかにではあるが確実に両親を嫌悪するようになった。原因を一つに絞ることはできない。敢えて曖昧に、しかし大局的な表現をするなら、「価値観が合わなかった」とまあそういうことになるだろう。
特に母親とはまったくダメだった。僕は、表面上は母親といい関係を保ちながらも、その一方では常にその関係からの脱却を求めていた。草の根一本残らないようにして、母親との関係性を根こそぎ断ち切りたい、と常々そう考えていた。
いくつかのきっかけと、僕の不器用な訴えと、どうしようもなくなった現状にかこつけて、僕はようやく、ほぼその理想を得ることができた。長いこと夢見ていた状況だ。なんの不自由もない。僕は、今の状況に満足している。
母親の方としては、まったくそうではないだろう。それは充分にわかっているつもりだ。しかし僕は、自分のことをかなりひどい人間だと認識できている。だから、何の問題もない。
本作では、母親のことを「オカン」と呼んでいる。僕は母親のことを、昔は「オカア」と呼んでいた。今だったら、こうして他人に対しては「母親」と、本人に対しては「あのさ」ぐらいになるだろう。とてもではないが、「オカン」とも「オカア」とも呼べない。
もう僕には、そのことを悲しいと感じる神経すら残っていない。もうどこにも。
ただそれでも、母親が死んだとき僕は悲しむのだろうか?もしそうだとするなら、僕にとって母親というのは一体どんな存在だというのだろうか?考えたくないが、本作を読んで、ほんの少しだけ考えさせられた。
本作は、リリーフランキー本人を「ボク」として、そしてその母親と父親をそれぞれ「オカン」「オトン」として描いた、自伝と言っていい内容である。
その人生は、「波乱」という言葉では到底収まりきらないものがある。人の数だけ人生がある、とはいうけれども、リリーは数人分の人生を一気に背負ったような、そんな壮絶な人生を歩んできている。
もちろん、人生をそれぞれ比較することはできないけど、リリーよりも辛い人生を送ったという人だっているだろう。しかし、その人生を、ここまで文章に、しかも素晴らしい文章の中に収めることができる人はなかなかいないと思う。
ボクは九州で生まれた。オトンは何の仕事をしているのかよくわからない人で、時々暴れて帰ってきた。どんな事情があったのかは知らないが、ある時からオトンとオカンは別居するようになり、ボクは以後、オカンと一緒に過ごすことになる。副題の、「オカンとボクと、時々オトン」というのは、そういう背景があってのことだ。
ボクの様々な年代の様子が描かれる。九州での子供時代、高校からの一人暮らし、東京の大学へと行き、その学生時代とその卒業後の人生。そのどの時代にも、ボクはオカンを想い、オカンを見ている。
複雑な家庭環境や、決して裕福とは言えない経済状況。そんな中で、オカンの姿がとても眩しく描かれている。
どんな時でも明るく楽しく生きようとし、自分のことよりも常に息子のことを優先した。我慢強く、まさに九州の女という女性だが、最後の最後で病気にやられてしまう。まさに、オカンとボクの二人三脚とも言うべき二人の長い長い人生を、細かいエピソードをふんだんに盛り込み、またオカンへの感謝を常に描きながらも、淡々とした文章で綴る、リリー・フランキーの初の長編にして究極の自伝である。
本作を読む人は誰もがそうなのかもしれないが、僕は読みながら、自分の母親のことを考えていた。比較していたと言ってもいいかもしれない。
母親というのは、生まれた時から母親なわけではないし、万全の覚悟を持って母親になるわけでもない。不安に潰されそうになりながらも、期待に胸を膨らませるようにして、一人の女性から一人の母親になるその存在に、過剰な期待をするのは酷なのかもしれない。僕は実際に母親に甘えていただけで、過剰な期待ばかりを掛けすぎていたのかもしれない。
それでも、生まれてくる子供は母親を選ぶことはできない。母親にとっては残酷な物言いかもしれないけど、子供にとっては重大な問題だ。どの母親の息子として生まれてくるか。
僕は、自分の母親にものすごく失礼だとは思いながらも、このオカンが母親だったら、とそう思い続けながら本作を読んだ。「隣の芝は青く見える」という言葉もあるし、実際に本作中でボクが苦しんでいたようなことも味わうかもしれないけども、それでもこのオカンは、まさしく生まれた時から母親だったのではないか、とそんな気にさせてくれるような人なのだ。そこには、何かしら強い信念が感じられるし、信じてもいいと思わせる何かがどことなくある。実際どうなのか知らないけど、本作を読んでこう思った。男は、母親によって決まるのだろう、と。
オカンが、様々な事情から、東京へやってきてボクと一緒に住むようになった。オカンは、癌の摘出手術をしたばかりで、体調が万全とは言いがたかったが、それでも東京へやってきた。
東京タワーのある街へ。
本作冒頭にこんな文章がある。
「この話は、かつて、それを目指すために上京し、弾き飛ばされ故郷に戻っていったボクの父親と、同じようにやって来て、帰る場所を失くしてしまったボクと、そして、一度もそんな幻想を抱いたこともなかったのに東京に連れて来られて、戻ることも、帰ることもできず、東京タワーの麓で眠りについた、ボクの母親のちいさな話です。」
三者三様、それぞれに抱いた東京タワーへの想い。天に突き刺さる赤い橋のような東京タワーに導かれるようにしてやってきたオカンの生活は、羨ましいぐらいに楽しそうに思えた。誰からも愛され、家には始終誰かがいて、オカンはだれかれ構わず料理を振舞った。年齢を超えた付き合いの中で、仲間と呼ぶに相応しい関係を沢山持てたオカンの最期は、決して悪いものではなかったことだろう。
そう、オカンは癌で死んでしまう。
葬式にどれだけ来てくれるかで人の価値は決まる、というようなことを聞いたことがあるけど、それは確かにそうだろう。しかしそれ以上に、こうも思った。葬式の準備をどれだけ手伝い、かつ葬式をどれだけ盛り上げてくれる仲間がいるか。オカンは、本当にそうした人に恵まれた人生だった。東京という、まるで見知らぬ土地で出会った、誰もが一度はオカンの料理を食べたことがある仲間に囲まれて、オカンは静かに息を引き取った。
僕は最近、とても大切人を失って、失うまでその大切さに気付かなかったことに自分でも馬鹿だと思う。二度と会えないという関係ではないけど、失って初めてその存在感に気付くということはある。
だから本作の、オカンが死んだシーンには、多少ながら感情移入してしまった。普段小説を読んでも、登場人物に感情移入などしないような僕がである。いくつかのエピソードで泣きそうになったけど、葬式のシーンではもう少しで泣くところだった。
葬式を前にしてリリーに掛かって来た電話に、怒りを感じもした。その瞬間にリリーが味わった、それまでの自分を全否定したくなるような気持ちは、全てとはもちろん言わないが、少しはわかるような気がした。
本作は、ある一人の中年男が、自分の母親を想い描いた回想録とでもいうものであり、家族のあり方を考えさせるようなテーマで描かれた小説ではない。しかし、その実話に基づいて描かれたのだろう様々なエピソードを読むにつれて、「家族とはなんだろう?」という根元的な問い掛けをされているように感じる。もっと隅々まで穴が空くほどに読んで、自分の目から抜け落ちた大事な何かを必死で探さなくては。そんな気にさせる一冊である。
僕にとってリリー・フランキーというのは、バラエティ番組「ミラクルタイプ」に出てくるイメージでしかなかった。得体の知れない存在感と、謎めいたその風貌に、胡散臭い人間だという印象を拭えないでいたけど、本作を読んでその印象が大分変わった。相変わらず、何をしている人なのかはよくわからないけど、注目するに値する存在だ、と思い直している。
五月にある人は言った。
是非本作を読んでみてください、と。

リリー・フランキー「東京タワー」


東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン―ハード

東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン―ハード
 

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東京タワーリリー・フランキー著 amazonでレビューをみる オンライン書店BK1でレビューをみる 読みやすさ、ユーモア、強烈な感動! 同時代の我らが天才リリー・フランキ..
東京タワー オカンとボクと、時々、オトン [リリー・フランキー]【玉葱の本棚】 at 2006年04月17日 02:28
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この記事へのコメント
こんにちは。
私と重なる本があまりないのが残念ですが、貴殿のどの書評も素晴らしいことに驚きます。

>男は、母親によって決まるのだろう、と。

女性として厳しいご意見に考えさせられました。母ひとり息子ひとりという環境から、すべての愛情がリリーさんにそそがれていると思いました。つまり愛情をそそぐ対象が、リリーさんしかいなかったという見方も私はしております。ごく平均的な家庭にいるような夫がいたら、娘もいたら、もう少しリリーさんへの接し方も違っていくような気もします。勿論、愛情深いオカンには変わりはないのですが。

でも娘にとっても、母親というものは複雑でやっかいな存在です。
Posted by 樹衣子 at 2006年02月18日 18:30
初めまして。

樹衣子さんのサイトを、ざっと(本当にざっとですが)見させていただきました。確かに、重なる本は多そうではないですね。ノンフィクション系が多いのでしょうか?「Gackt」というカテゴリがあったのが面白かったです。

>つまり愛情をそそぐ対象が、リリーさんしかいなかったという見方も私はしております。

なるほど、それは正しいように思います。以前にニュースで、長男にしか愛情を感じられずに、次男を殺してしまった母親の事件があったように思いましたが、確かに、愛情の対象というのは、親にしてみればなかなか難しいことなのだろうと思います。リリーさんは、いろんな意味で恵まれていたのですね。

女性にこんなことを書くのはどうかと思いますが、樹衣子さんは年齢がまったくわかりませんね。文章的にはかなり年上の方のような感じですが(本当にそうだとしてもしなくても失礼な発言ですが)、「でも娘にとっても、母親というものは複雑でやっかいな存在です。」という発言だと、まだ若い方なのかなとも思います。でも、貴殿という言葉遣いを考えると…などと考えてしまいました。いや、すいません。

書評は、書き散らしているだけなのでいいのかどうか自分ではなかなかわかりませんが、何か参考になるようなものがあればいいなと思います。
Posted by 通りすがり at 2006年02月18日 20:30
こんばんは。暑い一日でしたね。

今日は、この映画を観てきました。原作を読んだときは、余り感じませんでしたが、映画はやはりリアリティがありますね。
実は原作は半ば強制されて読んだようなものです。同僚が「○○さん、この本絶対泣けるから読んでみて!」と無理矢理私に押しつけ、「○○さんなら読むのが早いから、明日感想を聞かせてね」と有無を言わせぬ迫力で攻められました(泣)。私には私の読書計画があるのに…、それに私は特別泣きたいわけじゃないぞ!という思いもありましたが、そこは年長者をたてないと後が…ということで渋々読んだものです。複雑な家庭で育ち、自由奔放な学生時代を謳歌し、散々母親に迷惑をかけ、、、と自虐的な話が続き、最後は最高の親孝行息子になって親を看取った話と、ちょっとヤッツケ仕事的に読みましたので(今思うと、半ばやけ気味でした)印象が余り好くなかったのです。
翌日、「どう、好かったでしょ。やっぱり泣いた?」なんて訊かれても、素直に「お陰様で。はい、好かったです」と答える以外ありませんでした。本くらい好きな物が読みたいなぁ、趣味の世界は私の聖域じゃあ!…などと内心で呟きましたが、相手は全くの善意で勧めてきましたので、善意には善意で答えるのが大人のマナーということで(笑)。

ところで映画の話題に戻ります。オダギリジョーと樹木希林の熱演が本当にすばらしかったです。東京タワーは日本の産業の象徴のように思えました。そして地方の若者がやみくもに東京を目指した理由も解かるような気がします。立志伝説が、まだ国内にあったのでしょう。そういう日本の発展と庶民の暮らしが、レトロな場面を交えながら目の前に展開し、感慨に耽ることもできました。通りすがりさんのようにお若い方ではなく、私の世代が対象かも知れませんね。観客も私以上に年輩の方が多かったです。私も含め、皆タオル(ハンカチではなく)で目を覆っていました。

そういえば私は昨年、東京タワーに登ってきました。何十年ぶりか自分でも判らないほど昔に家族で登ったことがあります。リニューアルといっても、どこがどう変わったのか分かりませんが、モダンな感じになっていたのは事実です。はとバスが次々に入ってきましたし…。
六本木ヒルズに来るお客とはまた違うタイプのようです。

明日は母の日ということもあり、どこに行ってもカーネーションがやたら目に付きましたが、この映画を観るにはちょうど好い日だったのかも知れません。プレゼントはあれこれ迷わずに現金かも?ですが。
ついでに本屋さんも覗いてきましたが、買ったのは『楡家の人々(上・下)』(北杜夫)と『草の花』(福永武彦)と渋い本です。『朗読者』も読み始めましたが、この世界は私としてはちょっと…と思っています。

では、この辺で。オカンの条件はやはり料理、と反省し日々頑張りたいと思いました。
Posted by dradonworld at 2007年05月12日 20:47
こんばんわです。今日は朝から昼間にかけて仕事だったので、外が暑かったのかどうかよくわからないのです。今は涼しいですね。

本は、人に勝手に勧められると結構困るものですよね。僕も、結構経験があったりします。村上龍の「半島を出よ」を、ほとんど喋ったことのないバイト先の人に借りたんですけど、その時は無理矢理貸された感じでした。まあなかなか面白かったからよかったんですけど、上下合わせて相当のページ数だったんで、まあ大変は大変でしたね。

本は、いくら内容がよくても、それを読もうという自分の気持ちと一致しないとなかなか難しいものですね。よくわかります。だから僕も、なるべく自分では人に本を押し付けないようにしています。誰かに何か読みたいと言われたら考えると言う風にしています。
まあさすがに僕より本を読んでいる人間はいないので、そんな無謀な(?)ことをする人もあんまりいないですけどね(笑)

映画も見たいところですね、ホントに。オダギリジョーというのも気になるところですけど、やっぱり「東京タワー」はどんな媒体であってもいい話ですからね。
どんな映像に仕上がっているのかは分かりませんが、すごくいい映画になっていそうですね。レトロな場面が挟み込まされているというのはいいです。あと、樹木希林の母親っぷりは見てみたいものです。

そういえばオダギリジョーは、この役を半年断ったそうですよ。みんなが原作通りに見るだろうから荷が重い、みたいな理由だったそうです。けど、熱意に押されてやることに決めたようですね。

東京タワーは、僕は小学生の頃の修学旅行で登ってきりかもしれません。あれって、すごい近くにあるように見えても、結構遠いんですよね。東京タワーが見えるところで、ちょっと行ってみるかみたいな話になって歩き始めたんですけど、なかなか遠くて途中で諦めたようなことがあった気がします。

そういえば明日は母の日ですか…。人類最強の親不孝者としては、心が痛む(痛んでいるのか、ホントに?)日ですね。昔から何もしてこなかったからなぁ。まあ、忘れていることにします。いや、忘れました。明日は何の日でしたっけ?

「草の花」は聞いたことはありますね。「楡家の人々」はわからないですけど。そういえば確かですけど、重松清の新しい作品(小説かどうかは不明)が最近出ていたような気が…。いや、嘘かもです。
「朗読者」は一時期メチャクチャ話題になっていたので僕もその当時読みましたが、僕もダメでしたね。

今「トリビアの泉」を見ています。くだらなさ過ぎて最高に面白いですね。ガチャピンは相変わらずすごいなぁ、とか思いました。

ではでは。「東京タワー」のオカンみたいに、料理の元に人々が集まるというのは、やっぱりいいものかもしれませんね。
Posted by 通りすがり at 2007年05月12日 22:31
またまたお邪魔します。

重松氏の新刊って『カシオペアの丘で(上・下)』ですね。6月1日刊行らしいです。

 >北海道を舞台に描く、重松清の最高傑作!  
  余命を告げられた病院の待合室で見たテレビに映った風景が、
  4人の幼なじみを30年ぶりの再会へと導いた。
  人と、町と、「ゆるし」をテーマに描く、感動の物語。

『トワイライト』や『熱球』のような感じがしますが、気になりますね。

浅倉卓弥さんの新刊『ビザール・ラヴ・トライアングル』も出るそうです。ちょっとホラーっぽい短編集のようです。浅倉さんですので、ホラーとファンタジーの中間でしょうね。

本多さんの『正義のミカタ』は5月22日発売、とあります。色々楽しみになってきました。

書店員さんを相手に、全くの素人がこんな新刊の話をするのは、何か厚かましいですが、ひとつお願いがあります。私は歳相応に宮本輝さんも好きなのですが、シリーズで2〜3年おきに出る「流転の海」の第5巻が出版されるときは是非教えて下さいね。

通りすがりさんに限らず、母親との関係は何か微妙ですねぇ。確執かどうか分かりませんが、「よい子」「よい母」を一生演じ続けなければならないというのはかなりキツイことです。勿論、双方にとってですよ。いつか通りすがりさんが歳を重ね、厚顔さを身につけ、この問題をクリアできると好いですね。お察しするところ、通りすがりさんはかなり生一本な方のようですので、(私のようないい加減さを身につけるのは)時間がかかるかも知れませんね。いつか雪も解ける、ということで…。(立ち入ったことまで、ごめんなさい!)

 >男は、母親によって決まるのだろう、と。

私もこの名言を肝に銘じて、何とかやっていくことにします。
いやぁ、この名言、なかなか重いです!!

では、おやすみなさい。



Posted by dradonworld at 2007年05月13日 01:14
おはようございます…とは書きますけど、また寝ます(笑)。なんか昨日は、久しぶりに知らないうちに寝てて、起きたら8時でした。びっくりです。これから惰眠を貪るつもりです。

重松清の新刊は、ちょっと勘違いっぽいです(いや、その「カシオペアの丘」は知らなかったですけども)。なんかバックヤードっていうところに見慣れない重松清の本があったんで、これは新刊だろうか、って思ったんですけど、違ったみたいですね。

浅倉卓弥は、現代小説ならいいですけどね。「北緯43度のなんとか」みたいな本は読んでもいいかなぁ、と思いますけど、あんまり見かけないですね。
本多孝好は、今日から読みますよ〜。

書店員で本も結構読んでいるつもりですけど、それでも新刊の情報というのはなかなかついていけないものがありますね。文庫の新刊ならもちろんいつもチェックしてますけど、文芸書の新刊はやはり自分がかなり興味のある作家のものしかちょっと追いかけるのは難しいものです。是非是非いろいろ教えてくださいね!

「流転の海」って新潮社文庫で出てるやつですよね。あれってまだ完結してなかったんですか…。そんなことも知りませんでした。覚えてらえるかどうかわかりませんが(そして新刊が出ていることに気づかない可能性もありますが。文芸書で出るんですよね?)、出来る限り注意してみようと思います。

「いい子」「いい母」を演じるのは難しい、というのは確かにそうですね。そもそも親子の関係って、なかなかうまくいかないものがありますもんね。僕はまあ母親はかなり苦手だったわけですけど、最近は会ってもいないし話してもいないからもはや存在を忘れかけていると言った感じです。
確かにいろいろと気になってしまう性格ではありますけど、でも大方適当で大雑把な人間だと思うんですけどね。何でしょう。まあ次に会うのは、その本人の死に目だったり…などと縁起でもない想像をしてしまいます。

「男は母親によって決まる」というのは、実感したことはないですけど、でもあるかもですね。まあ男ってのは馬鹿ですからね。息子さんをうまく操ってあげてください!(笑)

ではでは。また寝ます〜。
Posted by 通りすがり at 2007年05月13日 08:16