2005年11月12日

中国行きのスロウ・ボート(村上春樹)

普通の小説は、イメージで言えば地面が先にある、ようなものだと思う。
まず地面があり、そこに芽が生える。根を伸ばし、幹を太くし、枝を蓄える。そういうようにして出来上がる小説が、ごくごく普通の一般的な、平凡にしてでも面白い典型的な小説ではないか、と僕は思う。
全てが繋がっていて、全てに道筋があって、全てが完結する、というような物語。
しかし、村上春樹の小説というのはどうにも違うような気がするのだ。
まず、枝がある。時には、幾本もの枝が存在する。その枝の、先の先から幹の方へと辿っていき、やがて根にたどり着き、そこでようやく地面ができる、時にはもしかしたら地面は出来ない、なんだかそんな小説のような気がするわけだ。
よくわからないかもしれない。それはまあ仕方ない。書いている僕だってちゃんとはわかっていない。
でも、村上春樹の作品の一部はそうして作られているような気がするし、それが生み出す単調さというものが極めて際立っているという風に感じるのだ。
単調であるということ。
村上春樹の作品に漂う雰囲気を正確に現しているのではないかと思う。
その単調さは、単調さ故に派生するさらなる単調さによって増幅され、一層単調さの輪郭を深めていくわけだ。
例えるならば、単調な映画を映画館で見ている時、その単調さが映画館全体を、ひいては観客一人一人の人生をも単調にしてしまうような、そんな雰囲気なのだ。
相変わらず何を言っているのかわからないだろう。もちろん僕にもわかっていないから大丈夫だろうと思う。
その単調さこそが物語である、と村上春樹は主張したいのではないか、という風に感じるのだ。
どこにも行き着くことなく、何にも寄り添うことなく、方向も行き先も、標識も信号も、道路も車もないままに移動し続けているみたいな、そんな感じかもしれない。
何を切り取るわけでもなく、どこを強調するでもなく、ただ世界を、一方では何かで隠しながら、一方では何かで覗き込みながら、右手で文章を書き、左手で消しているような、そんな印象かもしれない。
ますますわからなくなってきた。これは今僕が、果てしなく眠いからだ。眠くてしかたないからで、どうにかして早く寝ようと、一生懸命キーボードを打っているのである。
結論から言えば、本作は僕にはあまり面白くなかった。僕の単調さ理論から言えば、とにかく単調すぎて、もしかしたら俺はそのせいで眠いのか(そんなわけはないが)と疑いたくなるくらいだ。
世界に対して結論や意見を欲しているわけでは決してない。
しかし、結論も道筋も何もない(ように少なくとも見える)物語は、僕にはちょっときつい。
それぞれ、何の誰の物語なのかさっぱりわからなかった。
余りにも殺人的に眠いので、短編それぞれのタイトルだけ書いて終わろうと思います。ちょっと適当すぎて、あとで後悔しそうだけど、まあ今回ばかりは仕方ないですね。

「中国行きのスロウ・ボート」

「貧乏な叔母さんの話」

「ニューヨーク炭鉱の悲劇」

「カンガルー通信」

「午後の最後の芝生」

「土の中の彼女の小さな犬」

「シドニーのグリーン・ストリート」

「カンガルー通信」と「シドニーのグリーン・ストリート」はちょっとよかったかな。「午後の最後の芝生」と「土の中の彼女の小さな犬」は、雰囲気は好きだけど、話が意味不明すぎる。初めの三つは、とにかく意味不明だった。
というわけで。適当すぎる感想もここまで。以上完。

村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」


中国行きのスロウ・ボート文庫

中国行きのスロウ・ボート文庫
 

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