2005年11月26日

舞姫通信(重松清)

酷く寒い夜だった。
12月の中ごろ。僕は、数時間後には始発の電車に乗って、初めてのバイト先に向かわなければならないというその深夜、住んでいた部屋の屋上にいた。
柵などない、無防備な屋上。
寒空の中、僕は無防備にそこに立っていた。
実はそこにはもう、一週間ほど通い続けていた。
何があるわけでもないその屋上へ。
毎晩寒い思いをしながら。
あと一歩、というところまで近づくことは出来た。
その柵のない屋上の縁に僕は立っている。8階建てぐらいの建物だった。下を見ると、人も車も小さく見える。ここから落ちれば、敷地内のこじんまりとした駐車場。僕の体は、そこに投げ出される。
柵のないその屋上の縁に立って、
僕は静かに目を瞑った。
元から暗いはずの世界が、一層に暗くなった。やはり都会の夜はそれなりに明るい。
目を瞑っただけなのに、体が微妙に揺れる。もしかしたら、揺れているような気がしていただけかもしれない。とにかく、寒さのために震える足と、目を瞑ったために訪れた揺れが、不安定な僕を、さらに不安定にする。
それでも目は閉じたままで。
僕は、片足を上げる。
あと一歩、と心の中で叫ぶ。
あと一歩で僕は、死を掴み取ることができる。
上げた足を、一歩前に出せ。
世界をまたぐ一歩を踏み出せ。
僕は、そう強く念じた。なにか偶発的な事故が起こることも望んでいた。
それでも僕は、しばらくして足を下ろす。
それでも僕は、しばらくして目を開ける。
そして、縁から離れる。
あの瞬間。
目を瞑り、片足を上げた瞬間。
僕は確かに、人生の中で一番死に近かったといえるだろう。
自分自身で掴み取った、紛れもない死の感触だったと言えるだろう。
あの時僕は死ねなかった。
あの時僕は死ななかった。
あの時も僕は死ねなかった。
あの時も僕は死ななかった。
どれかが正しくて、
どれかが間違っているのか。
それとも、
すべて正しくて、
すべて間違っているのか。
死ぬことで、すべてを解決・清算・収束させようとしていた僕は、それまで逃げていたものからさらに逃げ、逃げられないところまで行っても道を作り出し、どこまでもどこまでも、追われていようがいまいが、壊れていようがいまいが、とにかく逃げ続けた。
死ねたかもしれない。
死んだほうがよかったのかもしれない。
それはうまく言えない。
ただ、今は悪くない。
今は死のうとは思えない。
とりあえずそれでいい。
僕は、自分では死ねないことを、あの時知ってしまったのだと思う。
これからも、自分では死ねない、という現実に、きっと苦しめられる時が来るだろう。それだけは間違いないように思う。
死にたいと思ったときに死ぬことができるのは素晴らしいかもしれない。
生きたいと願わなくても生きてしまえる世界の中で、
死ぬことに意味を見つけることができる人生があるとしたら、
それもまた羨ましい。
本作では、人はいつでも死ねる、と強く訴える。
そういう権利があるとか、嫌なら死んじゃえとか、そういうことではない。
ただ、
意味も与えられない死ではなく、
自らで意味付けした死を選び取ることも出来るよ、ということ。
生きていることと同じくらい、
死ぬことについても意識して考えてみようということ。
そんな作品だと僕は思う。
内容に移ろうと思います。
本作は、ある女子高で教鞭をとることになった、新米教師・岸田宏海が主人公です。
宏海には一卵性双生児の兄陸男がいましたが、5年前、一切事情がわからないまま、自殺しました。陸男の当時の彼女だった佐智子とは今でも連絡を取り合い会ったりもしている。
宏海が勤める高校では、もはや毎年恒例となった、ある文書の存在があります。
「舞姫通信」
そう名付けられた文書は、不定期の発行で、ある日突然全校生徒の机の中に入れられています。
舞姫というのは、その女子高で10年前に自殺したというある少女を指している。生徒に絶大な人気があり、舞姫が自殺した中庭には、節目ごとに供え物というかプレゼントが置かれる。
一方で、舞姫通信を目の敵にしている教師もいる。原島という生活指導の教師は、舞姫通信が出ると同時に回収させ、すべて焼き捨てる。
一方で、陸男の彼女だった佐智子は、ある計画を持っている。彼女は、業界でも有名なプロダクションの一人娘で、今はタレントのマネジメントをしている。
心中自殺し損なった男の子をデビューさせる。
佐智子は、不幸な境遇を持つ者を、その背景をうまく利用して売り込む、という戦略を常に持っていて、今回の計画もその延長線上にあるものだ。
城真吾。それが若者の名前だ。
やがて佐智子の計略は、日本中を巻き込んでの騒動となる。イベントとしてやっていたはずの佐智子も飲み込まれてしまうほどの力を持って、城真吾は、あらゆるところに普及していく。
人格としてではなく、機能として。
身近にも、世間的にも、自殺で彩られた世界。自殺するということは?あなたは自殺できますか?自殺を許せますか?
自殺という縦糸に、様々な横糸の絡まる、そんな物語です。
本作は、ちょっと危険です。怖いというのではなく、やっぱり危険というのがぴったり来ます。
別に、本作を読んだ若者が共感して自殺しちゃう、みたいなことを言いたいわけではありません。そうじゃあない。
ただ、紙に落としたインクのように、染み込んでいく速度はちょっと速い。それは若者だけではなく誰でも。ちょっとうまくは言えないけど、でも本作を読んだら、自殺を否定できなくなる。もしかしたらそんな気分にさせられるかもしれない。
自殺という方向への誘導をするから危険なのではなく、
自殺を否定する方向への進行を阻止する力があるから危険だ、と言えばわかるだろうか。
そういう意味で、本作は危険だ。
読んだら、絶対に自殺というものについて考えないではいられないだろう。自分でしようとした過去を持つ人、周囲で自殺してしまった誰かを持つ人、将来的に自殺はありえると思っている人。これにあてはまる人は、今の世の中結構いると思うけど、そういう人には読んでほしいと思うし、それよりも何よりも、そういう周囲の人に読んで欲しいと思う。
読んでどう感じるかは、もちろん人それぞれ違うだろう。
ただ、自殺も含めて死というものは、あまりにも大きなテーマで、どこから話をしていいのかわからない。
だから、本作を読んで、本作を通じて自殺について考えたり話し合ってみたりする。そういうことは大事なように思います。
僕はこう考えてしまいます。あの、まさに自殺を考えていた瞬間、あるいはその直前に本作を読んでいたら、僕は何か違っていただろうか、と。答えは一生でないだろうけど、考えることに価値がある問いかもしれないと思います。
話は少し変わって。
舞台とドラマは一体何が違うだろうか?唐突な質問ですが。
僕は、映像というものに対して偏見というかそういうものがあるので、僕の今からいうことはおかしいのかもしれないけど、僕はこう考えます。
ドラマや映画というのは、とにかく「見栄えのする人」「人気な人」「数字の取れそうな人」「綺麗な人」という風に、とにかく人を見せることに重点が置かれているような気がします。
それに対して舞台というのは、場所というか空間全体を見せるものだという風に思います。
さてこれが何だとお思いかもしれませんが、僕は重松清の作品の特徴がこの違いの中に隠されているような気がしています。
大抵の物語は、人、あるいは人の動きを写し取ったストーリー、を描こうとしているように僕には見えます。上記の例では、ドラマや映画です。
しかし、重松清の作品から受ける印象は違って、舞台のような感じです。空間というか世界全体を描き切っている、という感じがするわけです。
もっと変な例えをすれば、大抵の物語は、料理の質はいいけど器が安物、という感じです。ただ、重松清の作品は、料理も器も上物、という感じなのです。
さらにもう一つ。
本作が書かれたのはもう10年も前で、その時よりも格段に若者は変化しているわけですが、本作でもその片鱗というか、若者特有の理解できない一面、というものが窺えます。
僕は、自分もまだギリギリ若者だと言って言えなくもない年齢ですが、本作を読んでこんなことを思いました。
広辞苑に載っている言葉では、若者の世界を構築することはできないだろうな、と。
年代が上がるにつれて、言葉というものは定着してこそ言葉だ、というような考え方があるように思います。最近、「忘れてはならない日本語」的な本がよくでますが、きっとそういう世代の人なのでしょう。
若者というものは、僕が思うに、言葉をそもそも消費物だと認識しているように思います。というか、言葉だけではなく、ありとあらゆるものをそう認識しているのでしょう。
言葉は、その時その時で変化していき、その中にいてその言葉に触れていないと、若者の世界はわからない。外から観察して分かったふりをしていても、絶対に溶け込むことはできない。
広辞苑という存在は、言葉を定着させるというまさにそのものの存在のように思うわけで、まあ冒頭のような印象を持ったわけだけど、僕はそれを決して否定しません。
例えどんなに美しい日本語が消えようとしていても、
停滞の中に発展はないと思うのです。
上の世代が、自分達がついていけないという理由で、様々に別の理由をでっちあげて日本語を守ろうとしているけど、言葉自体は流動的である方が、僕としては全然面白いと思います。この「全然」の後に否定が続かない使い方も、何年も前から間違っていると非難されているけど、でも通じれば何でもいいと思うし、固着させることにあまり意味を感じません。
どうも本作のな内容からかなり脱線したけどそんな感じです。
皆さん、本作を読んで是非とも自殺について考えてみてください。自殺はいけない、と無条件に思い込んでいる人は、本当にいけないことなのか、今一度考えてみてください。ちょっと危険な作品ですが、読む価値はあると思います。

重松清「舞姫通信」


舞姫通信文庫

舞姫通信文庫
 

この記事へのトラックバックURL

http://blogs.dion.ne.jp/white_night/tb.cgi/2377035
この記事へのコメント
こんばんは。『舞姫通信』は「危険」(怖いというより)、という通りすがりさんの感想は、とても好く解ります。重松氏は自殺を擁護している訳ではありませんが、生きていく上でそういう選択肢もありかな?と、ちょっと思ったことを覚えています。そういうギリギリの地点で考えて、やっぱり止そう!という選択肢を選べると理想的ですね。
この本を書かれた重松氏の意図は何かな?と考えましたが、結論は出ないままに読み終わりました。再読は、ちょっと…。何と言っても難しい作品に変わりありません。
生きる意味が見つけられずに、悶々とする時期が若い人にはありそうですね。そんな思いに寄り添うようにして生まれた作品かも知れません。勝手な解釈ですが。
Posted by dradonworld at 2006年06月23日 00:24
これは結構覚えてますね。重松清らしくないな、と思ったのもそうでしたが、必然的な、というか、重松清が書かなくても誰かが書くだろう(普遍的なテーマでしょうけど)というようなストーリーでもありました。

僕個人的な意見ですが、死ぬことを自分で選ぶことが出来る人生って、素敵だと思いますよ。それはつまり裏返せば、死ぬまでは綺麗に生きてみせる、っていう思いだと思うんで。何も考えずにただ漫然と日々を過ごしているよりは、ここまでで死ぬと決めて一生懸命生きた方がいいような気がしますね。僕も、できれば40代くらいで死にたいかな、なんて。

うろ覚えですが、確か巻末のあとがきの中で重松清が、この作品はある時期教師だった頃に思っていたようなことを小説にした、みたいなことを書いていたような気がします。どうだったかな。重松清自身の体験を下敷きにしたと思われる「きよしこ」という作品もありますし、何か印象的な経験の元に書かれた作品かもしれないですね。
Posted by 通りすがり at 2006年06月23日 09:44