実際は、最初の印象を凌駕するほどではなかった。でも、期待はずれという表現には当たらない。なんと言うか、あらゆる点でずば抜けていて、どんな意味でも重厚で、ひたすらに圧倒的で、傑作であることに変わりはない。
作家は二種類に分かれる、と考えていた。つまり、人間を書く作家と、ストーリーを書く作家だ。もちろん、その両方であることが望ましい。しかし、なかなかそれが出来る作家は多くない。大抵は、人物はいいけど物語が…、あるいは、ストーリーはいいけど人間が…、となることが多い。
ただ、もう一種類いることを失念していた。これは、ほとんどそうした作家・作品に出会わないが故なのだが、現実にこうした作家はいし、作品はある。
歴史を描く作家だ。
歴史と言っても、江戸時代が舞台であるとか、戦争を描いているとかそうしたことではなくて、時間を圧倒的に積み重ねることで出来上がる、そうした意味においての歴史である。
大抵小説といえば、時間的にかなり切り取られている。ある限定的な時間における、さらにその中でも省略された流れを追う、それが大抵の小説である。別にそれを批判しているわけでは決してない。小説に形やルールは不要だと思っている。
時々ではあるが、時間を切り取ることをしない作家や作品に出会う。もちろん小説の限界として、飛躍や省略が絶無であることはありえない。それでも読んでいて、その飛躍も省略も経験したような、空白を絶対的な何かで封じ込めたような、ある種のタイムラグを無意識に消去させるような、そんな作品に出会う。
そうした作品は、歴史を顕在させる。
僕が今思い浮かべることのできる、歴史を紡ぐことの出来る作家は、天童荒太と高村薫ぐらいだ。天童荒太の「永遠の仔」「家族狩り」、高村薫の「リヴィエラを撃て」「季欧」「神の火」。ここには歴史がある。作品単位で言えば、東野圭吾の「白夜行」、奥泉光の「グランドミステリー」、村上龍の「半島を出よ」なんかだろうか。あと、少し違うような気もするけど、船戸与一や逢坂剛なんかも、歴史を紡ぐ作家といえるかもしれない。
歴史とは、あるものではなく作るものだ、という風に僕は思っている。歴史は、人や人でないものによって作られる。作られて残される。そこに真実が含まれようとどうだろうと。だとすれば、歴史はすべて、小説だと看破できるかもしれない。
本作には歴史がある。
しかも、残される形ではなく、追う形で。
そこには、真実の欠片もない。
ただ、真実予備軍が詰め込まれている。
歴史という形の未来が。
未来という結果の歴史が。
その重みが、読者を襲う。
さて、内容だが、これが紹介しずらい。どこを切り取って書いてみても、それは世界の一部にとはなれないし、どこも切り取らないとしたらあらすじではなくなってしまう。
物語は無人島から始まる。あらゆる事情から、無人島で生き残ることを余儀なくされた少年と少女。二人は、ほぼ沈黙を保ったままで、数年間無人島で生きる。
この二人が、あるきっかけから保護され、一般と同じ並の生活を手にするようになった。それが、ある意味で未来の東京の運命を変えた、といえるのかもしれない。
世界は、二人を解き放った。
ある意味で、現代のアダムとイブだったのかもしれない。
二人から世界を創るのではなく、
二人だけの世界に戻すために新たな世界を創る、という違いはあったものの。
舞台はいつしか、2009年、近未来の東京へと移る。既にアダムとイブは離れ離れとなり長いこと会っていない。お互いにそれぞれの世界を生きながら、というか寧ろsurviveに近いけれど、そんな中で世界に対峙する。新しい主要人物がぼつぼつと現れる。東京は、温暖化の煽りをもろに受け、最高潮に不快な街へと変わる。熱帯にしか存在し得ない感染症が流行する。また、外国人が地域一つを乗っ取る勢いで日本に大挙し、独自の文化や勢力を築き上げる。
すべてが混沌とする。あらゆるものは混ざり、混ざらないものは排除され、排除されたものは組織する。あらゆる少年/少女が、方向をもたないままに志向し、行動する。
その結果が、東京という街を如実に壊していく。
ルートに括られたダンスや、カラスを魅了した映画や、異端を生きる日本人の結果として。
どこにも行き着くことのない焦燥や困惑をクールに吹き飛ばし、どこにも向かえない人々をルールから弾き飛ばす、少年/少女たちの、ある意味で青春の結実を描く、どことなく黙示録的作品。
さて、このまるであらすじになっていない文章から、本作の何かを感じ取ることは出来るでしょうか?
本作の登場人物には、一貫してある特性がある。それは、どこにも方向を持たない、あるいはそう見える、ということだ。
すべての何故?を吹き飛ばす。意図や目的がまるで明確ではない。標識も道路標示もない道を爆走している車の如く、行き着く先がまったく見えない。カーナビが内蔵されているならば、本人にはわかっているのだろうけど、それすらも怪しい。どこにも向かうつもりもないまま、しかし確実にある一点を目指している、という印象を拭えない。
それは、どの場面でも力強く映る。まるでふらつきがない。絶対的に安定している。寄りかかる支えも、頼るべきルールも、何ももっていないように見えるのに、それでも常に安定しきっている。その強さが、決して若さから出ているわけではないはずだ、という直感が、また読者を恐怖するだろう。
小説内の舞台は、時間とともに加速度的に変化する。圧倒的に悪化の一途を辿る。東京という街が行き着く先は、見るまでもなく明らかだ。
その中で、まさしくsurviveしている少年/少女達は、しかし何も影響されない。まさにsurviveし続けている。そこに恐怖はない。暗澹も憤りもない。ただ、無条件の愛だけがあるように見える。不思議と、見失うべきではないものを、少年/少女達だけは正確に把握している。
方向がないくせに安定し、さらにある同じ一点を目指すそうに疾走する彼等。止まらないし戻らない。東京という街が辿るべき趨勢の、その加速度を一層に上げている。
そこに何故?はない。意図も目的も見出せない。
きっとそこには、揺るがない愛があって、他の誰かにはわからない飛躍した論理があって、だからこそ紛れることも揺らぐこともなく、ただ一身にひたすらに猛進できているのだろう。
きっとそれは、ある意味で青春だ。青春の新しい形を、著者は示したのかもしれない。
本作では、いくつもの芸術が、重要なモチーフとして使われている。音楽も踊りも映像も。
ただ、著者は普通には芸術を描かない。僕の印象で言えば、既存の芸術を解体し、ばらばらにしてしまってから、敢えてそれを同じ形になるように再構成するような、そんな描き方をしている。再構成されたものは、壊す前と同じ形を保っているのだが、そこには、再構成に掛かった手間や時間、つまりは余分に付与された歴史が内蔵されていて、同じ形だけど違う、というそんな微妙な印象を残す。それは、音楽であって音楽ではなく、踊りであって踊りではなく、映像であって映像ではない。余分に内蔵されたそのほんの僅かな歴史によって、芸術の形が歪む。歪んだ形こそが著者の意図したものであるだろうけど、それが奇異に映る。芸術が人間に与える効果を遥かに超越した何かに変貌している。それだけの再構成を著者は、紙の上で神の視点でやってのける。
本作で再構成された形で顕れる芸術は、読者には印象的な形で残ることだろう。音楽の境界を無視した志向、踊りの常識を無視した動きや形、映像の既存の効果を無視した視点。そうした新しい形を示されて、しかもそれが、少年/少女たちにとって武器にすらなっているという事実に当惑することだろう。
だがそれらは、違和感なく作品に溶け込んでいる。それらが不自然ではない世界を著者は作り上げている。どこまでも暴力的で、それでいて神話的な、意味も概念すらも変えてしまった芸術を、その世界に現出させ定着させている。
あらゆる意味で著者は神に近いかもしれない。
視点、という意味でも本作は面白い。
小説において、視点というのは特に重要視されるものだと思う。それは、物語を読者に伝えるという一点において重要なのである。
普通は一人称か三人称という形態である。一人称というのは、ある主人公一人の視点で描かれるもので、これは地の文にも主人公の感想だとか気持ちだとかが描かれる。簡単に言えば、「僕は〜」「わたしは〜」でずっと通すことだ。三人称というのは、例えばABCという三人がいる場面で、「Aは〜。Bは〜。Cは〜。」という形で、つまり神の視点に立って外側から登場人物を描くものだ。大抵の場合地の文では、外面的にわかる記述だけがなされるので、内面の部分は会話に頼ることが多い。
と書いてはみたけど、これは僕が小説を読む中で勝手にそうだと思っただけのことであって、実際は違うかもしれない、また、二人称の小説というのも二作品ぐらい読んだことがあるけど、それはまあかなり特殊だからいいとしよう。
本作は、視点がまったく定まらない。ある意味で三人称の形態なのかもしれないが、しかし地の文で「僕は〜」「私は〜」という文章が普通に出てくる。もちろん登場人物の内面も描かれる。神の視点に立って外面を描いているのに、一人称が混じって内面も描かれる。場面ごとに視点人物もころころと変わり、何も一定しない。
普通こうした作品は敬遠され、書評家と呼ばれる無節操な人々から無遠慮な非難が浴びせられるだろうと思う。僕は、本作における書評家の評価を知らないからなんともいえないけれども。新人賞の選評なんかでも、視点がああだこうだと言うのだから、基本中の基本なわけで、その基本を本作は、かなり大幅に無視して進行する。
でも、僕は問題ないと感じた。少なくとも、視点が定まらないことで不具合を感じない。逆にスピード感が異様に出て、本作の圧倒的な物語の進行に一役買っているようにも思う。
どこまでも突き抜けている作品である。
どこをとっても異様な作品である。
「サウンドトラック」という言葉の正確な意味は知らないけど、まるでありとあらゆる音楽を詰め込んだかのような、喧しさや混沌をはらみながらも、奇妙な一体感を内包する、そんな世界観が現出している。
許容できない読者の方が多いかもしれない。
僕にしても、この作品のすべてを許容できているとは言いがたいかもしれない。
それでも、読む人を圧倒する何かがそこにはある。
それだけで充分ではないだろうか?
是非にとは言わないけれども、読んでみてはいかがだろうか?
古川日出男「サウンドトラック」

サウンドトラックハード