家にはまったく興味がない。僕の中では、屋根があり、我慢できる程度の寒暖が調整でき、本が置けて、横になって寝られる空間ならば、あとの条件はほとんど大したことはないだろうと思っている。実際今僕が住んでいるアパートには風呂がない。毎日銭湯に通っている。そう近くにあるわけではないので、不便といえば不便かもしれないが(望は、究極的にめんどくさがり屋である)、あの風呂の広さはかなり快適でもあるし、想像ではあるけども、部屋に風呂がついていると、シャワーしか浴びなくなるのではないかと思う(僕は、実家以外で、部屋に風呂のついた住宅に住んだ経験がない)。家賃も驚異的に安い。僕は神奈川県の、結構有名な沿線沿いに住んでいるけども、まあありえない数字だろうと思う。
外観も内観も興味がないし、人を呼んで(呼ぶことはほとんどないが)恥ずかしいと感じるようなこともない(ただ冬はとても寒く夏はとても暑い点は人を呼ぶ点で大いに障害ではあるが)。とにかく、自分ひとりが、最低限の欲求を確保できる空間。それが僕にとっての住宅の意味であり、それ以上でもそれ以下でもない。
周りは最近社会人になってる人が多くて(僕はフリーターです)、そのせいかこうした声を聞くことが多くなってきたようにも思う。
「自分の家がほしい」と。
つまりそれは、賃貸でもなく、マンションを買うでもなく、一戸建てを自分で建てて住みたい、ということだろう。
僕だって、一生散在し続けてもまだ余るぐらいの大金を手にしたのならば、まあ家でも建ててみようかな、という発想になるかもしれない。しかし、今の僕には、一戸建てを建てて住みたいなんて欲求はまったくない。
本作でも森博嗣が指摘しているように、人々は住宅というものに間違った価値観というか幻想を抱くようになったのではないか、という気がする。本作は、森博嗣がガレージを作る過程を一冊の本にしたものだが、そのまえがきとして、こんなことを書いている。一部を抜粋しよう。
「少なくとも、僕は窓を南側に開けることは最小限にしたい。明るい部屋がそれほど好きではない。床に座ることはないから畳の部屋は不要だ。コタツも使っていない。収納スペースを作るくらいなら、部屋を広くした方が良いし、どこになにがあるかすぐ見える。部屋は綺麗に片付いているよりも、ごちゃごちゃしている方が落ち着く。階段が沢山ある、段差がある、高低差がある空間が好きだ。段差があると、一番苦労するのは犬だが…。」
どうだろうか?自分の家を建てたい、と想像する人の頭の中には、森博嗣が上記で否定したような、住宅特集に載っているような、そんな家が浮かんではいないだろうか?
これを、森博嗣一人の個人的な特異な価値観だとしてきすることはもちろん可能である。しかし、そう指摘する以前に、続く森博嗣のこの言葉を読んでみてほしい。
「とにかく、お客さんが来たときよりも、自分一人のときのために住宅はある、と考えている。」
この文章を読んで僕はなるほどと思った。普通の一般的な人は、お客さんに見せたいがために、すごいねこんな家建ててセンスがいいねうちもこんな感じにしたいわ云々、と言われたいがために、周囲がそう思ってくれるような家を建てているのではないだろうか、とそう思ったわけある。
なるほど、である。
僕が、家に限らずあらゆることに興味がないのも、人に見せる、という行為をそもそも無視しているからだろう、と感じた。人に見せて評価してもらう対象が、この世の中にそこまで多くあるはずがない、と思っている。
木のぬくもりは「快適」であり、段差が少ないのは「善」である。そうした洗脳を、人々は無意識のうちに受けているといってもいい。何故木のぬくもりを快適だと感じるのか、と言われて説明できるだろうか?それはつまりこういうことだろうと思うのだ。「一般的に、木のぬくもりを快適だと感じる人が多いから、木を使えばそう感じてもらえるだろう」。そういう判断だと思うのだ。全然自分のことを考えていない。自分が、どんな環境ならば快適なのか、という思考を停止し、一般の価値観に合わせることで、その価値観を持つ人々の評価を得ようとする、そうした方向性はあきらかに間違っている、と本作を読んで僕はそう感じた。
本作は、ただのガレージ製作記である。恐らく森博嗣も、それ以上の意図をつけてはいないだろう。しかし、読むと自分が囚われていた因習だの常識だの価値観だのに気付くことだろう。これから家を建てよう、と考えている人は、本作の前半にある、森博嗣が書いた「アンチハウス」という文章を是非とも読んで欲しいと思う。
内容は、紛れもなく100%、森博嗣がガレージを製作する過程を記したものである。というわけで森博嗣がガレージを製作することに決めた過程をまず書こうと思う。
そもそもが、ガレージを作るために、その資金を得るために小説家になろうと決めたようなもので、10年計画だったものが大分早まったのだそうだ。
森博嗣がいうガレージとは、一般的に想像されるものとは違う。ただの「車庫」ではない。森博嗣は、工作が趣味であるのだが、これまでの人生のなかで、工作室というようなスペースを持つことはできなかった。塗装や研磨をするために、自宅のバスルームに籠る、といったような涙ぐましい努力を続けてきたのである。
つまりそれを解消しようという方向であって、車も収納できる、ある程度の生活もできる、なおかつ工作が自由にできる。そうした空間が、森博嗣にとってのガレージである。
某大学の建築学科(という名称は既になくなったらしいが)の助教授であり、設計も自らできるので、当初はそうしようと考えていたのだが、自分で考えると、やりたいことが多すぎて考えがまとまらない。そこで誰かに設計をしてもらおう、ということで、某大学の何期か先輩である、阿竹克人氏に白羽の矢を立てた。そうした経緯を経て、森博嗣のガレージ製作が、そして本作「ANTI HOUSE」が出来上がっていくことになるわけである。
本作は、両人が寄せた、建築に対する「論」とでも言うべき文章も少し掲載されてはいるが、本作のほとんどを占めるのは、森博嗣と阿竹克人の間で交わされたメールをそのまま(もちろん内容的にはかなり手をいれているよう。メールのような形態のまま、という意味)載せているという構成で、さらにそこに、森博嗣が運営しているHP上に載せていた、ガレージ製作レポートなるものを、これもそのままの形で載せる。そうした構成で出来上がっている。
本作は本当にただのガレージ製作記であり、普通に考えればそこまで盛り上がるような内容ではないと思うのだが、しかし本作には、大きく二つの山場がある。
建築における行政の態度と、森博嗣の予算に対する態度である。
前者から書こう。森博嗣がガレージを製作しようとした土地は、森博嗣が住んでいる家の敷地内なわけだけど、そこはどうも、行政が定めた風致地区(周囲の環境に配慮した建築物を建てましょう、というような地域のこと)であるようで、細かな様々な規定がある。その中で問題になったのが、木を植える、という点である。
とにかく一本の木を植えるか植えないかで、白熱したやりとりが交わされるわけだ。
規則で定められている場所に、何でもいいから高さ2.5mの木を一本絶対に植えなさい、というのが行政側の主張である。しかしその場所に木を植えると、車の進入の邪魔になる。そもそも家の周囲は既に木に囲まれているわけで、そんなところに新たに木を一本植えたところでどうなのだろう。植えるならば周囲の環境に合った木を植えたい。しかしそうすると車が入れなくなる。周囲の環境に合わない木を植えることはなんとかできなくもないが、それこそ自然破壊ではないか。これが森博嗣の主張である。
本作を読んだ人すべての人が、森博嗣の主張に理があると判断するだろう。森博嗣の感じる疑問や懸念はすべて妥当であり、それに対する行政の解答や論理は支離滅裂である。
顛末はここには書かないが、そもそもそんなことで行政と争わなくてはいけないということが本当に驚異的なことだった。確かに環境に合わせた住宅を建てるべし、という思想は正しい。しかし、それが役人という人種によって、間違った形で運用されているのである。桂望実の「県庁の星」という小説を読んだ時にも、役所という場所は、普通の論理が通じない摩訶不思議なところなのだな、と感じたものだけれども、本作でのやりとりは、実際の出来事なので、よりそれを強く実感した。役所とはできれば係わり合いになりたくないものである。
後者について書こう。予算の話である。
初めに断っておくが、森博嗣はケチであるが故に予算を渋っているわけではないということである。ガレージ製作に、当初森博嗣が想定していた予算は1000万円。しかし設計が進んで金額の概算が出た段階で、費用は2500万円掛かると出た。もちろん、森博嗣にとって、2500万円は大した金ではないだろう。一作小説を書けば1000万円以上の収入になると書いているのだから間違いない。しかし、ここで繰り広げられる問題は、そういう次元にない。
つまり森博嗣の主張は、自分に恥ずかしいことだけはしたくない、というものなのである。
自分の中で、ガレージというものは1000万円で建てたいものである。ただ、2500万円で建てると、自分の中のガレージというものに対するイメージと釣り合いがとれない。それが、恥ずかしいという感情に繋がるわけだ。わかるだろうか?僕の説明不足の感は否めないが、少なくとも本作を読んだ中で僕は、森博嗣の主張をそれなりに理解できた。つまり、アイスを買おうと思って、普段は100円のカップアイスを買う。ハーゲンダッツは、もちろん美味しいけど、250円もするし少ないから、もらえば食べるけど自分では買わない。そう考えている人が、ふとハーゲンダッツを買おうと考えた時、なんだか恥ずかしいと感じてしまうのではないだろうか?そんな感じである(違うだろうか?)。
とにかくも、森博嗣は1500万円まで予算を許容する。設計者の方でも、業者をせっついて、どうにか安く済ませようとする。
しかし、ぎりぎりまで金額は近づくものの、あと一歩のところで合意が得られない。
そこで阿竹氏がぶつける「ダンナ論」である。もはや建築の話ではなくなっている。文化の話である。ある意味で、二人がメールを介して「ダンナ論」について話している状況はかなり奇妙なものだったが、このやりとりには、一読の価値はあると僕は感じた。
こちらの顛末は、結局ガレージは完成したわけなので、森博嗣が阿竹克人の「ダンナ論」を受け入れる形でゴーサインが出るわけだけど、ある意味でもの凄くスペクタルなやり取りで、緊張感もあって、かなり面白い。
そうして出来上がっていくガレージであるが、まさに「アンチ」であるなと感じられるものになっている。もちろん一部の写真でしか見ることはできないけれども、今の世の中、普通の人はこうした不合理で無駄の多い建築は望まないのだろう。しかし、そこが面白い。表紙に写真が載っているが、なんかいいと感じはしないだろうか?これが、二人のメールのやりとりによって創造されたのである。
ガレージ製作レポートのような部分では、写真が多用されているけれども、後半にいくに従って専門用語が増えていき、なかなかついていくのが大変ではあった。しかし、愛犬であるトーマを「現場監督」と呼ぶ、その愛嬌がいいではないか。
物を作るという行為は、それが何であっても主張のぶつかり合いを避けて通ることはできない。それが、メールという、実際的で直接的な形態で構成されている本作は、異色の作品の多い森博嗣の作品群の中でもかなりの異色作だろうと思う。あらゆる価値観のぶつかり合いが収められている、主張や意見の違いが物を作り出す過程をつぶさに見てとることができる。
本作を古本屋で見つけた時は驚いた。もちろん、定価2800円という点にも驚くが(僕は半額の1400円で買った)、それよりも本作が、建築関係のコーナーにあったことに驚いた。ふと見てみようという気にならなかったら、絶対に見つけられなかっただろうところである。
何にしても、読んでみて欲しいと思う作品である。高いので是非ともにとは言わないけれども。
森博嗣+阿竹克人「ANTI HOUSE」

ANTI HOUSEハード