僕らは、ある意味で日々闘っていると言える。何に対してどんな風に闘っているのか、言葉にできなくても実感できなくても、僕らはこの現実という舞台の上で、何かを相手に必死で闘っている。それが生きている意味だし、価値だとも思う。
ただ、勝負をしているか、と言われると、迷わず頷ける人は多くはないはずだ。
最近僕はこんなことを考えた。『定義する』ということと『削る』ことは、本質的に同じだろうと。
例えば、ある概念がある。それを言葉によって『定義』しようとした時に、どうしても限界が生じる。概念自体をまるごと言葉に置き換えることができない。例えば、『夜道で揺れる白くふわふわとしたもの』という概念は、言葉で定義すると、「幽霊」にも「洗濯物」にもなるかもしれない。極端な例だけど、とにかくそんな風にして、『定義する』ことによって概念が『削られ』ていく。そんな風に考えた。
『勝負する』ということも、同じことではないか、となんとなくだけど思った。
自分という存在を賭けて勝負をする。その時に削られていくものは人によって違うかもしれない。信頼・友情・魂・意志・努力。何かはわからないが、その人にとってはとても大切なものが、『勝負する』ことによって『削られ』ていく。
あるいは、その『削られ』ていくことに耐えることも、『勝負する』ことの一部なのかもしれない。
本作を読んで、勝負するということをちょっと考えた結果だ。
人生を『勝負し』ている人は沢山いるだろう。最近話題だから何度も名前を出すけど、ホリエモンだって人生を『勝負し』てきた男だ。逮捕されたこととは関係なく、『勝負する』人生を選んだ彼が、どうしても失わなければならなかったもの、あれだけの金と名声(こちらは一時だが)を得て、それでも失わなければならなかったものが、必ずあるはずなのだ。
僕は、人生を闘っているとは言えるかもしれないが、勝負しているとは決して言えない。ある意味で、既に放棄した、という方が正しいのかもしれない。削れるものが何も自分の中に残っていない、という言い方もできる。お金がないのにギャンブルはできない、ということだ。ただそれだけではなく、削るものがもし自分の中に残っていたとしても、僕は勝負を諦める人生を選ぶだろうな、とそう思う。
だからこそ、勝負することのできる強さを持てる人に、ある意味で羨ましさを感じることもある。何かを得る快感よりも、何かを失う恐怖の方が僕の中では強い。勝負することで、既に失われてしまったものが、なお失われるようなことになったら、恐ろしいなと思う。
あなたは、勝負のできる強さを持っていますか?勝負することで削られるべきものを持っていますか?削られる覚悟はできていますか?
そもそもあなたの目の前には、勝負するステージが、可能性が、僅かでも用意されていますか?
もう一つ別の話。
好きなことを仕事にする、ということをどう思うだろうか?もちろんこれは、サッカーが好きな少年がサッカーを職業として選択する話だからこその話題なのだけど。
僕は読書が好きで好きで仕方なくて、だからという理由がほとんどで今本屋で働いている。働いていると言ってもただのバイトだけど、仕事自体はとにかく面白くてしかたがない。自分が読んで面白いと思った本を、誰から何も言われることもなく、自由に仕入れて売ることができる。一般には売れてないけど、うちでは売れている僕のお勧めの本、というのが何点かあって、そういう本が売れるたびに一喜一憂している。なんの将来もないただのフリーターだけど、お金を稼いだり使ったりすることに興味の持てない人間に、今の仕事はぴったりだ。
ただもちろん、これとサッカー選手の話を同列にできるとは思っていない。
好きなことを突き詰めることによって、それを職業として選択するまでに、どれほどの決意と覚悟が必要なのか、僕にはわからない。
例えば、また小説の話だけれども、たまに、作家になるために会社を辞めて執筆に専念し、新人賞に応募して受賞する、みたいなケースがある。今年の江戸川乱歩賞受賞作「天使のナイフ」の著者薬丸岳も確かそうで、会社を辞めて小説書きの世界に飛び込んだ人だったはずだ。
どこからそこまでの決意が生まれるのか、僕にはわからない。僕も、作家になれたら御の字、という至って消極的な作家希望を持っているのだけど、今やっている仕事を辞めるという選択肢は、例えそれがバイトであってもちょっと怖いなと思う。
夢は見るものではなく叶えるものだと思うけど、でも見ないことには叶えられない。夢を持つ多くの若者が、それだけ挫折しどれだけ成功しているかわからないけど、そうした人々は絶えることはないだろうし、寧ろ増えていくのではないかな、と勝手に思っている。
夢とは残酷だ。針の穴にラクダを通すような努力、砂漠に雪が降るぐらいの奇跡、誰もが認める飛びぬけた才能。どうした何かがないとどうにもならない。
夢を目指す人々には、常に焦りがあるはずだ。バイト先に、歌手を目指していた人がいて、でも最近その夢を諦めたらしい。そういう話を直接にしないので詳しいことはわからないけど、先の見えない焦りがあったのだろう、と勝手に想像している。偶然にもその人は、今熱烈なサッカーファンである。
自分の好きなことを、夢として持つことはいいことだ。一生のうちのある時期を、闇雲にその夢へと向けてもいいと思う。ただ、夢が持つ残酷さを、刃のような鋭さで何かを壊してくその残酷さを、僕らはどこかで知らなくてはならないのだろう。
内容に入ろうと思う。
主人公のリュウジは、変わった父親に教えられたサッカーに生きてきた。いつしか周囲に認められ、いくつかの幸運もあって、リュウジはU-17のスペイン戦に、無名の高校生ながら出場することになった。
そこでリュウジは、自らのうちに抱えきることのできない違和感を感じてしまう。
自分は、この日本という国で、組織プレーを重んじる保守的なやり方のサッカーで、これから満足できるのか?スペインという、相手に殺意を向けるような、攻撃的でダイナミックなサッカーをやりたいのではないか?
答えの出ない自問を繰り返しているうちに、リュウジの元にある知らせが舞い込んで来る。それは、あのスペイン戦を観戦していたスペインリーグチームのオーナーが、リュウジのプレーに惚れこんで、是非うちに来てくれ、という話だった。
よく考えるように言う指導者の話もろくに聞かずに、リュウジはスペイン行きを決意する。逃げるのはない。新たな自分に、新たなサッカーに挑戦するために、俺はスペインへ行くのだ…。
僕は、サッカーに限らずスポーツというスポーツにまったく興味がない。やる分には、バスケやバトミントンなんかは嫌いではないけど、見る方はまったくお手上げで、見てても退屈してしまう。野球中継が押すせいで、お気に入りの番組の放送が遅くなることに憤慨するタイプの人間である。
だから、本作で描かれているサッカープレーの表現なんかが、どれほどまでにうまいのかちゃんとわからない。サッカーに詳しくないとかそういうレベルではなく、スポーツを見ることによる感動を得ることのできない人間の、スポーツ全体を覆うような緊張感やリアルさってものをまったく知らないというレベルで、僕は本作に描かれたサッカーの場面がわからない。
ただ、サッカーが好きな人ならかなり共感できるような感じなのかもしれないな、という風には思った。戦術や動きやテクニックなんかはもちろんわからないけど、ピッチの上で、一瞬よりもさらに短い時間でいくつもの判断をし体を動かさなければならない選手の、そういう心の動き的なものは、ちゃんと掴めるのかもしれない、と思った。
僕は、これはいろんな感想で書いているけど、『人間が描けている(あるいはいない)』という評価が大嫌いで(もう一つ嫌いなのが、『リアリティがある(あるいはない)』というもの)、僕なんかはそんなものどうでもいいだろう、と思ってしまう。僕の印象では、一般の人や書評家が『人間が描けている』と評価するキャラクターにあまり魅力を感じない。どちらかといえば、『人間が描けていない』と言われるキャラクターの方が好きだったりすることすらある。だから何をもって『人間が描けている』というのかよくわからないのだけど、とにかくそういう評価が嫌いだったりします。
その上で敢えて書くけど、本作では人間がよく描かれている、という風に思います。特徴のあるキャラクターというのがそんなにいるわけではないのだけど、リュウジというキャラクターが、場面場面において丁寧に描かれていて、その描き方に結構好感が持てます。勝負という厳しい世界に身を置くことに決めた主人公が、ありとあらゆる場面で感じることになる様々な感情を、うまく言葉にしているな、という感じがしました。
スポーツ自体にあまり興味がないせいか、素直に面白かったと言えないのだけど、でもかなりレベルの高い作品だと思います。スポーツに(それがサッカーでなくても)少しでも興味のある人はかなり楽しめる作品だと思うし、サッカー好きはかなりツボな作品かな、と思います。
勝負に生きる男の物語の第1部です。続編がありますが、読むかどうかはどうでしょうか。もう一度いいますが、僕の中でそれほど評価が高くないのは、スポーツ自体に興味がないからで、作品のせいではないと思います。amazonなんかのレビューを見ると、やはりサッカー経験者には絶賛の作品のようです。「日本初の本格サッカー小説」とも呼ばれているくらいです。是非読んでみてほしいなと思います。
野沢尚「龍時 01-02」

龍時 01-02文庫