僕は、まあいわば理系の人間で、だからってこともないんだろうけど、そういう超常現象とか幽霊だとかあの世だとか、そういう話をそのまま信じるってことはない。例えば、ポルターガイストを自分が経験したとしても、これは幽霊のしわざだとか思うんじゃなくて、まだ知られてはいないなんらかの物理的な現象によってこういうことが起きてるんだろうな、と考えるだろうと思う。
僕らのような普通の人間は結構、科学は進歩したんだし結構いろんなことが判明してたりするのに、でもポルターガイストがまだ解明されてないなんておかしい。やっぱり霊のしわざだ、とか思うかもしれない(思わないかもしれないけど)。でも、科学で解明できていないことなんて、まだまだ山ほどあるのだ。例えば、人間の脳に何故意識が宿るのか、宇宙の始まりはどうだったのか、全然わかってない。
最近新書で、「99.9%は仮説」っていう本が出たけど、その本の帯には面白いことが書いてあった。
『何故飛行機が飛ぶのか、まだ解明されていない』
不思議に思うことだろう。飛行機がどうして飛ぶのかぐらい、ちゃんと科学は説明してくれているはずだ、と思っていたはずだ(もちろん僕だって)。しかし、恐らくこんな理由で飛行機は飛んでいるんだろう、という仮説はあっても、それが絶対に正しいなんてことはわかってない、ということだ。
まだまだ世の中にはわからないことが山ほどある。超常現象や霊のことが解明されていなくても全然おかしくもなんともないではないか、と思うのである。
そもそもどうして人間は、理屈で説明できないことを霊やなんかのせいにしようとするのか。
やっぱり、人間はわかりやすい説明というもものを常に求めているわけである。わからない、という状態が一番苦手で、矛盾はあっても一応説明になっていればそれを信じるのが楽な生き方というものである。それを否定するつもりはまったくないし、むしろそういう些細なことに頭を使わずに済むわけだから、効率のいい生き方だとも言えるかもしれない。
さて、僕も幽霊の類を『見た』ことがある。大分昔のことなのでちゃんとは覚えていないのだが、幼稚園の肝試しの時に火の玉を見たのと、いつの頃かは覚えてないけどトンネルで全身が緑色に光った女の人を見たことがある。
まあもちろん、火の玉は何らかの方法で幼稚園の先生が仕掛けたものかもしれないし、トンネルの女性は本当にただの女性で、何らかの理由で緑色に見えていただけなのかもしれない。いや、まあ99.9%それで間違いないだろう。
しかし、こういう風にも考えられないこともない。今から僕が説明することで、ありとあらゆる霊現象というものは説明できてしまうだろうと思うのだ。と、何だかすごいことを書くような雰囲気だけど、いやそうじゃなくて、要するにすべて『錯覚』だということである。
その説明をする前に、別の話をしようと思う。色の話である。
例えば今目の前にりんごがあるとしよう。これは『赤色』である。しかし、Aさんには何故か『緑色』に見えている、としよう。しかしAさんは、『緑色』を赤色だと認識している。つまりAさんに、「あそこにあるりんごは何色ですか?」と聞けば、『緑色』に見えているけれどもそれを赤色だと思っているわけで、赤色だと答えるだろう。そうすると質問者も、ああこの人もりんごの色は『赤色』に見えているのだな、と思う。
こういうことを考えたことはないだろうか?
つまり僕が言いたいことは、誰もが同じものを見ているとは限らない、ということである。
僕ら人間は、一人一人違う景色を見ているかもしれない。しかし、言葉は共通しているわけで、会話をしていてもわからない。僕に見えている『赤色』と、僕以外の人が見ている『赤色』が、同じ色だという保証はどこにもないのである。
さてそのことを踏まえると話は簡単である。僕ら人間は、ほぼ『同じ』世界を見ている(ここでの「同じ」の意味は、言葉で会話を交わす限り破綻しない、という意味である)。しかし、ほんの僅かだけ見ているものに違いがある。例えば、道端に落ちている石の数が、僕には100個に見えているけど、Aさんには101個に見えている、というようなそういう差があるかもしれない。とすると、幽霊というのも、そういう見ているものの差なのではないか、という気がするのだ。ある人が、『幽霊を見た』と言っても、それはその人にしか見えない世界であって、他の人は見ることができない。
言っていることはわかるだろうか?
つまりこれが、僕が『幽霊はいるかもしれないけど共有できない』と言った理由です。人間が皆、同じ世界を見ていると考えるからこそ、幽霊だの超常現象だのが不思議なものに見えてしまうわけです。僕ら一人一人は、僅かに違う世界を見ているのだと考えれば、不思議なことは何もなくなるんじゃないか、と思います。
どうでしょうか?納得いかないですかね?
だから、例えばUFOとかも、見えている人には見えているんだと思います。それは別に嘘とかではなく。まあ嘘もあるんだろうけど。でも、映像とかには撮れないわけです。映像ってのはきっと、人間全員が共通して見ることができるものしか映してくれないんです、たぶん。
まあ僕はこんな風に考えているわけです。事実は一つだけかもしれないけど、真実は人の数だけある、ってわけです。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
さて、久しぶりに読んだ、殺人の起きる本格推理小説でした。いや〜、本当に久しぶりだった気がします。
親父がどうもおかしくなった、という母の話を聞いて、10年も戻っていなかった実家に戻ることに決めた成一。祖父が一代で築き上げた財産のお陰で、実家は広く割合豪勢な生活をしているのだけど、成一はそこを出て会社に就職し、普通のサラリーマンになったわけです。
成一が実家に戻ったまさにその日、第一の事件が起こります。
成一が戻ってみると、実家には二組の客がいました。一つは霊媒師、もう一つは超心理学研究の学者。何でも、今まで苦労を掛けっ放しだった亡き妻にどうしても謝罪したい、という祖父の願いを叶えるために霊媒師が呼ばれ、それを胡散臭く思った家族が超心理学の学者を呼んだ、とこういうことらしい。確かに母が言った通り、変なことになっているようだ。
さてその日、事件は夕刻に起きた。離れで隠居生活をしている祖父が、その離れで殺された。玄関以外の場所からの出入りは絶対になく、かつ、玄関の出入りは成一によって偶然にも見張られるという状況だったため、奇妙な密室状態での殺人ということになった。警察もお手上げである。
その数日後。祖父が死んだというのに、叔父の音頭で交霊会が開かれることになった。その交霊会の場で、誰もが自由を制限された状況下で、またも殺人が起きてしまった。本当に幽霊の仕業だとでもいうのだろうか?
成一の学生時代の先輩で、面白そうなことになら何でも首を突っ込みたがる変人である猫丸先輩にこの話をすると、一も二もなく食いついて、推理を巡らすのだけれど…。
という感じですね。
いや、なかなかの作品でした。
まず、猫丸先輩というキャラがなかなかいい。働いている気配はなく、どうやって生計を立てているのか不明。30過ぎなのに童顔で、余計な知識にはめっぽう強い。かつ、厚顔無恥のもほどがあるほどの厚かましさを発揮する、まさしく変人なのである。しかしこの変人は、今まで何度か事件を解決したことがあるという人で、やる時はやる、という感じである。
とにかく僕は変な人が好きで、っていうかまあ普通の人が嫌いなんだけど、変であればあるほどいい。僕の中で『変な人』というのはほとんど最上級に近い誉め言葉なんだけど、まあそれについては理解されないだろうと思うからあまり口にしないようにしているけど。
小説を読んでても、変な人が出てくるとうきうきしてしまう。例えば伊坂幸太郎の作品なんか変な人の世界大会ってぐらい変な人のオンパレードで、読んでいて楽しくなってしまう。あと西尾維新とか森博嗣とか、とにかく変な人がわさわさ出てきてくれると、もうそれだけで楽しくて満足出来てしまう人間なのである。僕としては、事件に関わる部分の話が多くて、猫丸先輩との絡みとかが少ないような気がしてちょっと残念だったけど、とにかく変な人が出てきてくれたのでかなり嬉しかったわけです。
まあ僕は、実は猫丸先輩とは初対面ではないわけで、競作として出版された「五十円玉二十枚の謎」という本の中で、まだデビューする前の倉知淳が別名で書いた短編小説のキャラクターとして登場しているのが、恐らく猫丸先輩のデビューで、それは大分前に読んで知っていたんだけど、久しぶりだということもあって猫丸先輩がどんな人かも忘れてたし、面白かったです。
トリックに関わる部分も、なかなかうまく出来ているな、と思いました。そうくるか!って感じで、なるほどって感じですね(トリックのある作品は、そのトリック自体を書けないので、どうしてもこういう曖昧な表現になってしまうな)。
全体的に『幽霊』をキーワードにしていて、幽霊的な飾りつけがいろいろと出てくるのだけど、それがいちいち合理的に説明されるので、読んでいると、やっぱ幽霊とかが存在してるんじゃなくて、トリックとか錯覚とかなんだろうな、と思います。
結構長い作品なんですけど、スラスラ読めます。特別オススメってこともないし、倉知淳の作品なら「壷中の天国」や「星降り山荘の殺人」なんかの方がオススメなんだけど、でも本作もなかなかアリだと思います。気が向いたらどうぞ。
倉知淳「過ぎ行く風はみどり色」

過ぎ行く風はみどり色文庫