2006年03月22日

コッペリア(加納朋子)

人形は、死なないか?
死ぬだろう、きっと。
人形を殺すのは、人間だ。人間の視線が人形に生を与え、その視線がなくなれば人形は死ぬ。
人形は生命だと言っても間違ってはいないだろう、きっと。
突き詰めれば、『生きているとはどういうことか?』という話になってしまうのでそれは避けようと思うのだけど、例えばこう考えてみるのは面白いかもしれない。
僕らの周りにいる『人間』が、実は『人形』だったとしたら。
そもそも僕らは、外からしか『人間』を見ることができない。逆に言えば、外見さえ整えられれば、『人形』だって『人間』に見えるかもしれない。
話は飛ぶけど、カーナビというのは、軍事衛星のシステムを一般用に質を落としたものである。質を落としている理由は、悪用されることを防ぐためである。
ならば、こう考えるのも不自然ではないかもしれない。つまり、外観だけは人間とそっくりの『人形』を作る技術がどこかに存在する。悪用されないために、その存在は秘密にされているのだ、と。
人間のような質感を持ち、人間のように動き、人間のように喋ったりする、外見だけは『人間』そっくりの『人形』。もしそうだとしたら、会っただけではそうと判断できないかもしれない。
これは、荒唐無稽な話だけど、でも絶対に100%ないとも言えない、否定しきれない話だろうとまあそうも思っている。
何の話だっけ?
えーと話を戻すと、そう、だから『人形』が生きているという風に考えても、全然おかしくはないのではないか、ということ。僕らが普段『人形』として見ているものは、軍事衛星の質を落としたカーナビのように、『人間』の質を落として作られたものだと考えても、まあいいんじゃないか、と思うのだ。
いやまあ、そんな話をしたかったわけではないんだけどな…。閑話休題。
何故人は人形を作るのだろう?
最近は、フィギュアという形で、オタクと呼ばれる人たちを中心に人形が広まっている。また、ぬいぐるみなんかは昔からずっと人気だし、キャラクターの人形のようなものも沢山出ている。
僕は、そういうキャラクターの形を象った人形というのは、ちょっと違うな、という気がする。そういうものを可愛いと思ったりする気持ちはわかるし、売れるから作るというのも全然間違ってないと思う。でも、キャラクターを人形にするということは、あくまでもただキャラクターを身近に置いておきたいというだけのことだと僕は思う。キャラクターの代替品ということである。
しかし、人間を精巧に模した人形というのは、人間の代替品という側面からだけでは語れないだろうと思うのだ。
もちろん、歴史の上で見れば、人間を模した人形というのは、初めは人間の身代わりとして生まれたのだろうと思う。人間に降りかかる不幸を、人間と同じ形をしたものに引き受けてもらおう、という発想だったのだろうと思う。昔はそういう観念が存在したし、有効に機能していただろうとも思う。
しかし、今はそんなことはない。人形はただの愛玩物以上の意味はなく、特別になんらかの記号が与えられるようなことはない。人形に、存在としての価値が与えられるようなこともない。
それでも、人形は生み出されていく。
人間は、自分と同じ形をした存在に、一体何を見出すのだろうか?
僕は思う。人間は、人形の中の『死』を見つけることで、自分自身の『生』を確認しているのだろう、と。動かない、自分とは違う存在としての人形を見て、その違いの一つ一つに、自分が生きているということを確認するのではないか、と思うのだ。
だから、あくまでも僕らは人形に『死』を強要する。自らの意思では動かない、自らの意思では喋らない、自らの意思では考えない。そうしたことを、無意識のうちに人形に強要している。
最近、人形もどんどん進化し、ハイテクロボットがどんどん登場するようになった。近い将来、鉄腕アトムのような、人間に限りなく近い人形(ロボット)が生み出されるかもしれない。しかし人間はそこに、本能的に恐怖を感じるだろう。『死』を体現するべき存在である人形に、『生』が宿っているように感じられるのだから。これを書いていて今、そういえば瀬名秀明の「デカルトの密室」という作品の中で、人間型のロボットが一般に発売されるというような設定があって、似たようなことを書いていたような気がするな、とふと思いました。
冒頭で僕は、人形は生きている、というようなことを書きました。それが、『死』を体現するというのは矛盾ではないか、と思うかもしれません。でも僕にはこう思えるのです。人形たちというのは、生きながらにして時間を止められてしまった存在なのではないか、と。生きていることは生きているのだけど、時間が止まってしまっているから、それはある意味で死でもある。そういう存在なのではないか、と。
僕は、人形を怖いと思う。人間に似ていれば似ているほど怖いと思う。同じように感じる人は多いだろう。
しかしそれはある意味で、人形が生きているかもしれない、ということを認めているのと同じことだと僕は思う。例えば僕らは、テレビを怖がったりはしない。自分から動いたり喋ったりしないし、死んでいることが明らかだからだ。しかし、幽霊を怖いと思う人は多いと思う。それは、生きているかもしれない存在だからだと僕は思う。人間は、生きているかもしれないものに恐怖を感じるし、人間らしければらしいほど、人形にもそうした感情を抱くだろう。
僕はまあ、生きている間に人形を作ることはないだろう。しかし、もし万が一そんな機会がもしあれば、やはりそこには絶対的な死のイメージを込めてしまうだろう。人形とはそうした存在だし、だからこそ人を惹き付けるし、それでいて人を遠ざけるのである。
正直書いていることがよくわからなくなってきたので、この辺で内容に入ろうと思います。そういえば、森博嗣の「人形式モナリザ」でも人形について色々書いたような気がしてきました。なんとなく、そっちの方が出来がよさそうな気がするんだなぁ。
本作は、人形に彩られた物語である。
如月まゆらという女性が生み出すドール。それが、物語の始まりでもあり、物語のすべてでもあり、物語の終わりでもある。
了は、両親を幼くして亡くし、親戚の養父母も不幸な事故で失った。多額の賠償金と遺産で生活をしている大学生である。
了はある日、自宅近くの細い通り沿いの家の窓から、人形が放り投げ出されているのを見つける。その人形は、決して可愛いと言える様なものではなかったが、この世のものとは思えないほどで、彼はその人形に恋をしてしまった。作り手なのだろう家主を訪ねて人形を譲ってもらおうとしたが、欲しかった人形を目の前で叩き壊されてしまう。何とか修復を試みようと日々を過ごす了の前に、なんと人形を同じ顔をした女性が現れる…。
聖はアングラ劇場の舞台女優。本名は聖子だが、父親がつけたその名前が嫌で、聖と名乗っている。
彼女はある日、自分と同じ顔を持つ人形を見つけて驚くことになる。なんでこんなものがあるのだろう、と。
彼女の周りにはストーカーがうろうろし、パトロンである素敵なオジサマが守ってくれている。コッペリアという舞台を成功させるために日々稽古をしているのだけど、いろいろとなんだかおかしなことが起こる…。
まず本作を読んで驚いたことが、加納朋子という作家のこれまでの作風とは明らかに違っている、ということである。
加納朋子と言えば、「ななつのこ」でデビューして以降、日常の謎を優しいふんわりとした文体で綴る作品で評価されてきた作家だけど、本作はこれまでのそんなテイストとはまるで違う。これまでの作品がカスタードクリームだとすれば、本作は氷水というぐりあの違いがある。それぐらい、文章は硬質で冷たく突き放したような感じで、登場人物もクールで冷淡な人間が多い。僕としては、こういう作風やそういう登場人物は好きなのでよかったのだけど、これまでのような作風を期待していた読者にとっては、かなりびっくりするというか、もしかしたら期待外れの作品ということになるのかもしれないです。
結局僕は、人間らしくないというか、冷たいというか冷淡というか、感情が乏しいとか、そういう人間になんとなく惹かれてしまうわけで(これは難しいところで、現実世界で実際にそういう人にあったとしたら、またどうなるかはわかりません。でも、少なくても小説の中では、そういう登場人物は最高です)、考えてみればそれはある意味、人形に近い人間を僕は求めているということなのだろうか、という風にも考えてみました。そういう意味では、僕は了のことをおかしいという風には言えないのかもしれません。
まあ人形に恋をするというのは、ギリシャ神話だかなんだかでそういう話があるそうですが、僕には理解できませんけどね。特に、オタクというような人たちが、お気に入りのキャラクターのフィギュアなんかを愛しているようなのには、ちょっとついていけないですね…。
また、構成がなかなか面白い作品で、多視点で視点があれこれ入れ替わるのに初めは慣れなかったけど、読んでみて、なるほどという感じで、なかなかいい構成だなと思いました。
人形というモチーフも面白いですね。さっきも書いたけど、森博嗣の「人形式モナリザ」という作品でも人形が扱われていて、人形と人間の関係について作中であれこれ考察的なことが書かれていて、本作も同じく、人形という存在についていろいろ考察的なことが書いてあって、そういうのを読むと、人形ってのもなかなか面白い存在だな、と思ったりします。奥が深いな、と。
本作は、ミステリーと言えるのかどうか難しいところで、本当にこれまでの著者の作品とはまったく違うものになっています。本作に一番近いのは、「一番はじめにあった海」でしょうか?ミステリーなんだけどミステリーではない加納朋子の不思議な作品。180度くらいまったく傾向が変わっている、言ってしまえばらしくない作品です。加納朋子のファンという人には、出来れば読んで欲しいなと思います。それで、この変化というか作風の違いをどう感じるのかを知りたいなと思います。加納朋子の作品を一作も読んだことがないという人には、僕はオススメしません。これが加納朋子の普段の作風だと思われてしまうのもなんだかなぁとおもうので。加納朋子の作品を読んだことがない人は、まず「ななつのこ」や「ガラスの麒麟」「沙羅は和子の名を呼ぶ」あたりを読んで欲しいなと思います。
僕としては本作は結構好きです。読んでみてください。

加納朋子「コッペリア」


コッペリアハード

コッペリアハード
 

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Ī????ηΝμjj【ş??īĨć】 at 2006年03月22日 12:33
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??jj×ÂÃ$??Ьjj【??ń??????】 at 2006年03月22日 12:51
この記事へのコメント
これは読んでみたいですね。ガラスの麒麟は読んた当時精神的に衝撃を覚えた記憶があります。
普段はふんわりした、現実の話だけれど、文章の質としてはファンタジーなかんじがありましたよね。
でも、今回は随分違いそうですね。
わたしも小説の中に出てくる人は、笑っているけど中に狂気を隠しているタイプとか、そっけない冷たいタイプとかに惹かれてしまいます。現実にいたら絶対近づきませんけどね。

人形の話で思い出したのですが、自分を自分であると証明することって、意外に難しいのではないかと思ったことがあります。もし自分そっくりで同じ記憶をもち、DNAもおなじ存在が現れたときに、自分こそが、いままでもずっと存在していた自分だ!と証明することってどうやったらできるのかな? と、クローンとかが出始めたときに思いました。 当たり前に今、自分を自分と認識して存在していますが、その意識は危うい均衡の上に成り立っているような気がして、少し怖くなった物です。
そんなこと考えたことありますか?
Posted by さくらみかん at 2006年03月26日 17:39
ガラスの麒麟は、僕も読んだときすごいな、と思いました。確かに、ファンタジー的な、本当に壊れかけのガラスのような文章だったような気がします。文庫担当なので、時々思い出しては平積みするんですが、あんまり売れないので悲しいところです。賞も獲ってるのに。
コッペリアは、加納朋子らしくなくて、しかも長編で、全然違う面を出そうとしてるんだな、と思いました。

冷たいキャラクターはいいですね。残酷とか冷酷とか好きです。現実にいたら、友達ぐらいにはなろうとするかもしれません(笑)。

自分が自分だって証明するのは無理でしょうね。僕ら人間は、記憶に頼っている生き物なんだけど見た目もDNAもまったく同じ存在がいたら、記憶に頼るしかないでしょう。でも、ある個人の記憶が一生連続している、っていうのはどうして無条件に信じられるのか、僕にはわかりません。例えば、今僕の子供の頃の記憶が、何らかの理由で完全に違ったものに入れ替わったとしても、僕は絶対気付かないと思います。記憶が連続していると信じられる根拠はどこにもないと思うし、だとしたら記憶によって個人を判断するのだって、絶対とはいえないでしょう。
まあ、人間の細胞も何年かで完全に入れ替わってしまうわけで、自分が自分であるっていうことも、信じていいか怪しいですけどね。ある個人がある個人であるということの条件ってなんでしょうね。
Posted by 通りすがり at 2006年03月26日 18:46