2006年04月02日

ベルカ、吠えないのか?(古川日出男)

この犬の物語を読むと、人間の歴史がアダムとイブから始まったという物語も、信じてみてもいいかもしれないと思う。
壮大な物語だ。
例えば僕は、東野圭吾の「白夜行」という作品を読んだ。これは、壮大な物語だった。しかし、時間的に壮大であるということだ。
例えば僕は、池上永一の「シャングリ・ラ」という作品を読んだ。これは壮大な物語だった。しかし、設定が壮大であるということだ。
本作は、ありとあらゆる意味において壮大な物語だ。

時間:1943年から199X年まで
空間:世界中(アメリカ・ロシア(ソ連)・日本・アラスカ・ハワイ・ベトナム・メキシコ・アフガニスタン他)
設定:犬の時間を追うことで、戦争の世紀を炙り出す

こんな壮大な物語が、かつてあっただろうか。
既に、『物語』の枠を超えている。本作は、物語でありながら、既に『物語』ではない。
歴史に片足を突っ込んでいる。しかし本作は、『歴史』そのものではない。
それでは一体なんなのか?
名前の付けられない存在。そういうことだ。概念を超えたところに存在する物語/歴史。たし合わせでも掛け合わせでもない法則によって導き出された新たなフィクション。

『フィクション』

冒頭にこんな言葉がある。

『これはフィクションだってあなたたちは言うだろう。
おれもそれは認めるだろう。でも、あなたたち、
この世にフィクション以外のなにがあると思ってるんだ?』

『フィクション以外のなにがあると思ってるんだ?』
何もない。フィクション以外何もない。物語も歴史も、真実も嘘も、記録も記憶も、何もかもがすべてフィクションの産物で、フィクションの結晶だ。
真実も意味も、どこにも『存在しない』。『存在する』という幻想を人間が抱いているだけで、真実も意味も、与えているのはすべて人間だ。誰しもが、フィクションという素材を弄び、都合のいいように解釈/意味を与え、それを真実に捏ね上げる。
物語がなんだ。歴史がなんだ。
古川日出男は、何かを否定する。在り方を、存在を、意味を真実を。
そこにフィクションが生まれる。物語や歴史や真実に塗り変わる/生まれ変わる前の純白のフィクションが。
古川日出男は、それをこそ求める。純白のフィクションを。ナニモノでもないフィクションを。始まりを産むフィクションを。
純白のフィクションには、物語も歴史もない。読む人間が、それを勝手に与えればいい。何をくみとるか、どんな意味を与えるかは、読む人間次第だ。
森博嗣の「アイソパラメトリック」というショートショート集に似ているかもしれないと思う。真っ白な紙を渡されて、読者自らがそこに何らかの絵を書くような、そんな作品だ。
古川日出男は飛翔する。留まらずに飛び抜ける。その地平があらたなフィクションとなり、世界が生まれる。物語も歴史も真実も意味も生まれる。
それこそが、古川日出男の存在であり、紡がれる物語である。
イヌの話も少しだけ書こうかと思う。
忠実な生き物である。これほどまでに、人間と深い係わり合いを持つようになった生き物は、実験動物として広く使い捨てられるラットを除けば、世界で唯一の存在かもしれないと思う。
「南極物語」という物語がある。最近ディズニーがリメイクして話題になっているけども、純粋なイヌの物語だ。
「忠犬ハチ公」というイヌもかつていた。今でも渋谷に居座っている。純粋なイヌの物語だ。
僕は、イヌを飼ったことはない。イヌと過ごした時期というのも特にない。だから、イヌのことはそんなによく知らない。
しかし、イメージの中で、その忠実さに見事だと思う。
イヌは、主人を定めて、その主人の命に従う。階級というものがモノをいう世界だ。
だからこそ、利用される。仕込まれる。統制される。
二十世紀は戦争の世紀だった。しかしそれは、軍用犬の世紀でもあった。著者は本作でそう語る。
軍用犬の世紀。
人殺しの兵器として開発されたイヌたち。
イヌの忠実さが、少しだけ悲しい。
今も軍用犬が生産され続けているのか、それは知らない。知らないけど、そうでなければいいと思う。
イヌを飼ったことはないし、これからも飼うつもりはないけど、でもイヌはなかなかいいと思う。飼うなら手間のかからなそうな猫の方がいいけど、生き方としてのイヌの潔さはすごくいいと思うし好きだ。
イヌが人間の兵器だった時代があった。それだけで、戦争はもういいんじゃないか、と思えてくる。イヌまでも兵器にしてやまない戦争なんて、もういいじゃないか、と。今ではイヌは、人間のいいパートナーとなっているだろう。もちろん、不徳な飼い主というのも多い。それでも、今の方が、イヌにしたらどうかはわからないけど、僕としては断然いいと思う。
そんなわけで、内容に入ろうと思います。
といっても、本作の内容をどんな形かでも紹介することはほぼ不可能だろうと思う。
なんせ、時間は半世紀、舞台は世界中というとんでもない作品なのである。というわけで内容の紹介は、物語の始まりの物語、のみを紹介することにしようと思う。
1942年、日本軍はアメリカのある二つの小島を占領した。アッツ島とキスカ島。それぞれ日本名で、熱田島、鳴神島と名付けられる。
この二つの島の占領は、ミッドウェー攻撃から米軍の目を逸らすための陽動作戦であり、戦略的な価値はあっても実質上の価値はあまりない作品だった。それでも、越冬可能という判断により、長期滞在に方針が切り替わった。
しかし、状況が変わる。
1943年5月、熱田島/アッツ島の守備隊全滅。米軍が大挙してきて、捕虜になることを拒んだ日本兵は殉死覚悟のバンザイアタックを仕掛けたからだ。
一方の鳴神島/キスカ島。熱田島/アッツ島の惨劇を受けて撤退を決める。
しかし、撤収できたのは人間だけだった。
イヌは置き去りにされた。
4頭いた。名前をそれぞれ、「北」「勝」「正勇」「エクスプロージョン」と言った。それぞれに別々の歴史/来歴を持つ軍用犬だった。
人間のいなくなった鳴神島/キスカ島で、その4頭は生きる。主人のいなくなったその島で、4頭は特に寄り添うでもなく、別々に生きる。
そして、1943年8月。日本軍が撤退したとは知らないアメリカ軍が鳴神島/キスカ島へと乗り込んでいく。
4頭のイヌは発見される。しかし、「勝」はその島で死ぬ。
「北」「正勇」「エクスプロージョン」は死なない。アメリカ軍に回収される。
そうして以後、この3頭が、そしてこの3頭の子孫が、物語引っ張っていく。
物語は二つの流れが交互に展開していく形を取っている。ここまでで書いた「イヌの物語」がその一つである。
もう一つ。ある一人の老人を中心とした物語が存在する。
199X年シベリア。極寒のこの地に、一人の老人が住んでいる。そこに、遭難したという客人が現れる。老人はもてなす。話をし、ウォッカを飲ませ、食事を出す。しかし、客人は、老人の命を狙う。老人は、その襲撃を予知しかわす。
そうして老人の、新たな戦いが始まっていく。
そういう、「ある老人の物語」がもう一つの流になる。
構造は、村上春樹の「世界の終わりあるいはハードボイルド・ワンダーランド」に似ている。二つの異なる世界/物語が交互に描かれ、それが一つに収斂していくように見えて、でも収斂しない。重なるようで重ならず、折り合うようで折り合わない。かといって平行というわけではない。
すごい物語である。
もはや、すごいとしか言いようがない。
まずすごいのは、イヌの物語である。4頭(3頭?)のイヌから始まった物語が、次々に展開されていく。描かれるイヌのどれもが、初めの3頭と何らかの関わりがある。
イヌは世界を縦横無尽に繋ぐ。バラバラなはずの物語が、イヌという糸によって一つにまとめ上げられていく。捨てられ、利用され、重宝され、そうしてイヌは時間を空間を駆け抜けていく。
そしてイヌは次第に、その生き方によって戦争を/世界を炙り出していく。戦争の世紀であり軍用犬の世紀でもあった二十世紀。その二十世紀を、イヌは相変わらず駆け抜けていき、その中で、見えなかったはずの何かを炙り揺さぶっていく。
イヌが、だ。
3頭から始まったイヌが、だ。
何にしろ、こんな物語を書けるのは、著者をおいて他にいないだろうと思う。著作の「沈黙」の中で著者は、音楽を軸に歴史を描ききった。本作では、イヌで歴史を描いているのである。
一方で、老人を中心とする物語。
老人の目的が、初めはよくわからない(正直に言えば、今でもよくわかっていないし、こっちの流れの物語がどういう結末で終わったのか、よくわかっていない)。次第に老人は、その手腕を響かせていくことになる。何か大きな画を描いている。何かを目論んでいる。
イヌで、だ。
イヌを使って、何かを成そうとしているのだ。
ある少女が出てくる。日本のヤクザの娘で、老人によって誘拐され人質に取られた少女。
本作中の登場人物の中で一番いいキャラをしている(登場犬物を含めればそうではないかもしれないが)。著作の「サウンドトラック」に出てきた、カラスを操る少女を思い起こさせる。
古川日出男の描く少女は、「サウンドトラック」や「アビシニアン」でもそうだったと思うけど、どこか動物的だ。本能的と言ってもいいかもしれない。人間らしくない。どこか、動物に通ずるところがある。そういう描かれ方をする少女というのはなかなか見たことがない(現実にも小説にも)から、非常に新鮮で面白いと感じる。
とにかく、すごい物語だった。しかし、このミス7位にらんくされているのはよくわからないところだ。
でも、とにかくすごい、すごすぎる作品である。
最近、村上春樹がカフカ賞を受賞した。著作の「海辺のカフカ」とは関係なく、フランスだかどこだかの作家フランツ・カフカにちなんだ賞である。ここ2年、このカフカ賞を受賞した作家はノーベル文学賞も受賞しているとあって、村上春樹のステージはどこまでも広がっている。
僕は、あくまでも僕個人の意見だけども、村上春樹の後を追うことができるのは、舞城王太郎と、そして本作の著者古川日出男だけではないか、と思っている。
三人ともジャンルは違う。だから、純粋に村上春樹の作った道の後を追うという意味ではない。村上春樹のように、常に新しい道を切り開き、独創的で圧倒的な小説を生み出し、かつ世界中で評価されるような、そんなポテンシャルを持った作家は、今の日本では、舞城王太郎と古川日出男だけではないか、とそう思っているのである。
どこまでも飛翔していって欲しいものだ、と思う。物語の枠なんか、あっさり捨ててしまってもいい。読者の誰もがついていけない作品でもいい。大衆に迎合するのではなく、ついてこれるならついてくれば、というスタンスで小説を発表し続けて欲しいと思う。
そして世界よ、舞城と古川を評価してください。
何とかして、「アラビアの夜の種族」をゲットしないとな…。
とにかく、本作は読むべき作品です。合う合わないはもちろんあるでしょうし、完全に理解できる/ついていける人も少数でしょう(もちろん僕はついていけない方です)。それでも、読むべき作品です。これに今触れないで、いつ触れるというのでしょうか。
世界を切り開く作家の、新たな地平。是非とも読んでみてください。

古川日出男「ベルカ、吠えないのか?」


ベルカ、吠えないのか?ハード

ベルカ、吠えないのか?ハード
 

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もっと早く読むべきでした、この本。 世間では大評判であることを知りながら、「早く文庫化されないかな〜」とセコいことを考え、ようやく最近になってハードカバーを買うふんぎりがついた【ベルカ、吠え..
古川日出男【ベルカ、吠えないのか?】【ぱんどら日記】 at 2006年04月28日 11:22
この記事へのコメント
この本は買ってはあるのですが、まだ本棚の中です。
本屋さんに積んであるときから、独特の空気を放っていて、中味もあまり確認しないで買ってきた本でしたね。

母が読んで、よく分からないと言っていたので、後回しになってしまっていましたが、読んでみます。

うちは犬が3匹もいるのですが(ネコ4匹)とても戦争に使うという意識は共有できないものがあります。
それは今が平穏な時代だからであって、有事になれば意識の中の優先順位とは簡単に入れ替わるものなのでしょうか?
戦時中は犬も食料(中国は今でもですね)
人間の根本にある意識とは、いったいなんなのだろうと、考えてしまいます。
Posted by さくらみかん at 2006年04月04日 09:59
パワーだけは、他のどの作品よりも桁違いの作品です。合う合わないはあると思うけど、ちょっと読んで欲しい作品ですね。本棚から引き出してあげましょう。

なんというか、こんな物語を発想/構想/執筆できる作家がいるんだなぁ、という感じです。

さくらみかんさんがどんな世代の人かわかりませんが、それでも戦争を体験している世代ではないでしょう。僕ももちろんそうで、やっぱりその場にいないとわからないものなのだと思います。例えば、飢餓状態で死にそうになった時、目の前に人間の死体があったら、今の僕は絶対に食べないと言い切れるけど、その状況になってみたら自分がどう判断するかわかりません。戦争もそういうものだと思います。

僕のイメージでは、戦争というのは人間の思考を暴力的に停止させる状況だと思っていて、戦争下における人間というのはやはり、人間らしさを喪失してしまうのではないか、と勝手に考えています。
Posted by 通りすがり at 2006年04月04日 10:27