外国人が日本人を見た時に奇妙に思ったこと、という質問で、いい大人が漫画を読んでいる、というのがあった。昔の話だから今はどうか知らないが、その当時(と言いつつどのくらい前かも不明)外国人の大人は漫画を読まないのが普通だったようだ。漫画は子供が読むものだ、という認識があったのだろう。
日本でも同じようなことがある。
遊んでいる大人を非難する傾向にあるように思う。アメリカ人は家族や週末を大事にするし、イタリア人は仕事をほっぽってでも遊ぶ(とこれはイメージで書いています。実際はどうか知りませんが)。しかし日本人は、大人が遊ぶということについて、なにやら否定的な感情があるように思う。「子供みたいに遊んでないで仕事をしなさい」という言葉は、違和感なく通じるだろう。
最近ではさらに行き過ぎたことに、子供が遊ぶことさえも非難しているのでは?と僕には観察される。都会の子供だけかもしれないが、塾だの勉強だのに追われて、遊んでいる暇がない。遊んでいる暇がないのである。驚異的ではないか。子供のうちは確かに勉強に投資する価値があるかもしれない。それにしても、遊ぶ暇がないほど勉強するのはどうかと思う。とはいえ、僕も同じような学生時代をすごしたものだけれども。今振り返れば、多少失敗だったのではないか、と思っているが。
『遊ぶ』という言葉は、本来否定的な意味を持つ言葉ではなかったはずだ。
『遊びがある』という言葉がある。例えば、『このハンドルには遊びがある』という風に使われる。この場合『遊び』とは、『余裕がある』という意味で使われているだろう。確かに『遊ぶ』という行為は、余裕があって初めて成立するものだ。つまり、評価できる状態だと言えないだろうか。
あるいは、『遊び心』といった言葉もある。遊び心のある会社、なんて言ったりもする。この場合、『余裕』や『度量』、あるいは『創意工夫』と言ったような意味になるだろう。これもまた評価としては悪くないものだ。
言葉だけで捉えれば、『遊ぶ』ということは古来、いい状態だと認識されていたはずではないだろうか。
しかし今現在、とにかく『遊び』が失われていると思う。
若者は働きもせずに『遊んで』いるではないか、という人はいるかもしれない。しかし、彼らはただ『暇つぶし』をしているだけであって、決して『遊んで』いるわけではないのである。今の若者は、暇だからという理由だけで、さして興味もないことをとりあえずやってみる、という形で手を出す。『遊ぶ』というのは、もっと創造的で前向きで、暇がなくてもその時間を生み出したいと思う何かであると思うのだ。
『遊べる』環境が、どんどんと少なくなってきている。マンション住まいが増え、庭がなかったり部屋数が少なかったりすることも原因の一つだろう。空き地が減っていったことも、学歴が重視される世の中になったことも、原因の一つだろうとは思う。
しかし、最終的に行き着くのは、大人が遊ばなくなった、その点ではないだろうか。
昔の子供には、場所も時間も仲間もいた。手に入らないものは数多くあったが、創意工夫でなんとかするだけの情熱があった。
今の子供は、場所も時間も仲間もいない。一方で、物だけはいくらでも手に入る。そんな中で、どう『遊んで』いいのか、分からないのである。
『遊び』のプロとして、大人が『遊んで』いる姿を見せるということが、最もいい方法なのではないか、と思う。
著者自身も、こう書いている(この文章は、帯にも載っている)。
『大人は、自分で稼いだ金で遊ぶ。遊ぶために稼いだのだ。子供が勉強しているとき、遊びに熱中している親というものは、非常に自然な好ましい人間の姿だと僕は考えている。』
ここまで言い切ることのできる森博嗣はそれはそれdすごいと思うが、一理あると思う。『遊んで』いない大人の姿を子供が見て、大人になったら『遊べ』ないのだな、と思ったら、将来に対してやる気がなくなってしまう。『遊んで』いる大人を見て、大人になってもあれだけ『遊べる』のか、と思わせる方が、どれだけ健康的だろうか。
僕自身、『遊ぶ』のはかなり苦手である。かなりの『遊び』下手である。本を読んで暇つぶしをするしか能のない人間である。僕も、森博嗣のように、全力で『遊べる』ような人間になれたら、どれだけいいだろうか、と思う。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、雑誌「ラピタ」に連載していた原稿を、2年で区切って書籍化したものです。連載自体はまだ続いているけども、とりあえず一旦の区切り、という出版のようです。
さて内容はと言えば、森博嗣の趣味ワールド全開、と言っていいでしょう。とにかく模型作りを最大の趣味としている森博嗣が、全力で突き進んでいる趣味道について持論を語る、という趣向になっています。
とはいえ、まあ脱線も多いので、趣味道を基本軸とするエッセイ、と思ってくれればいいと思います。
相変わらず、森博嗣独特の考え方が盛りだくさんです。特に、自分が熱中していることなので、様々に独特の思考があるようです。
しかしそれらは、言われてみれば納得するものが多くて、なるほど確かにそうかもしれない、と思うようなことが多いです。
例えば、趣味を共有するという発想が間違っているのではないか、という話。そもそも趣味とは一人で突き進むものだ、と。他人の視点が入ると、あいつを見返してやろう、と言った動機から趣味をやることになりかねない。自分が楽しむための趣味なのに、その方向は間違ってはいないか。
あるいは、物を作るという行為は、完成させることが面白いのではなく、作り始め、そして作っている過程が面白いのだ、という話。これは非常によくわかる。
何度も書いたのであまり長くは書かないが、昔演劇をやっていた際に、小道具を作るセクションにいた。とにかく、木で作れるものは何でも作った。椅子なら今でも簡単に作れるだろう。もちろん、芸術的に美しいもの、は無理だが、実用に耐えるもの、ならば可能だ。
ある時僕は、馬車を作ることになった。というか勝手に作ることに決めた。その設計を始めたのだが、これが面白い。とにかく、たった一枚の写真から、どう木を組み合わせるのかや、サイズをどうするかなど、ありとあらゆることを決めるのだ。かなり長い時間掛かって(パソコンをうまく使えないので、設計はすべて手書きだった)設計を終えた時には、100%作れることを確信していたので、自分的にはもう作らなくても充分満足、という状態ではあった。しかし、やはり作って見せなければならないわけだが。
そうやって作っている時に感じたことは、完成させることが面白いのではないのだな、ということである。実際、馬車を作る作業も面白いことは面白かったし、完成した時は自分でもよく作ったもんだと思ったが、しかし、設計している時ほどの面白さはなかったように思う。
まあそんなわけで、森博嗣の趣味道も、少しは理解できる、というものである。今も、場所と時間さえあれば、何か作りたいなと思うのだが、なかなか実行には移せない(ただのめんどくさがり屋だし、それはつまりそこまでやりたいというわけでもないという表れなのだろうけど)。
大人になってもどんどん『遊ぶ』べきだと思う。そういう意味で、森博嗣は素晴らしく羨ましい。『遊ぶ』資金を得るために小説家になったほど、なのである。ツワモノではないか。ただ、そういう生き方はまた羨ましい。ある意味で理想の一つではあるが、理想というのはなかなか実現しないものだから厄介である。
さて、僕の場合は、森博嗣の著作は何とか手当たり次第読もう、と思っている人間なので、本作ももちろん読んでみた。同じ趣味を持たない人間としては、まあまあと言った内容である。もちろん、つまらないということはない。ただ、お勧めの本かと言われれば、そんなことはない、と答えるしかないだろう。そんな感じの本です。
というわけで最後に、本作の中で少しだけ気になった文章を抜き出してみようと思います。
(前略)
子供が星空を見上げて、「わぁ気持ち悪〜い、蕁麻疹みたい」と言ったら、その自由な発想を讃えよう。そのピュアな感覚に大人は心を洗われるべきだ。知らず知らずのうちに感染している「大人病」にどうかご注意を。
(後略)
(前略)クリエーティブな仕事をしている人間の活動場所は、例外なく散らかっているものだ。もし、きちんと片づいているとしたら、それは、いつも決まったルーチンの仕事をしている場所であって、店か事務所か、それとも展示場のいずれかだ。「創作」していない証拠である。整理をするのは、仕事の効率化のためだが、効率化と正反対の行為こそが創作であり、遊びであり、芸術だ。子供が遊んでいる場所を見よ。いわゆる楽しみとは、間違いなくこのベクトルなのである。
(後略)
森博嗣「悠悠おもちゃライフ」

悠悠おもちゃライフハード