自分ではない誰かのために悩み、
自分ではない誰かのために涙を流し、
自分ではない誰かのために心を砕き、
自分ではない誰かのために言葉を尽くす。
自分ではない誰かの人生を救うために、
自分ではない誰かを後押しするために。
僕は、自分の性格的に、他人を排除してしまう傾向にある。出来うる限り、自分の周りから人を遠ざけたいと思うし、なるべく人に関わりたくないと思う。求められたくないし、依存されたくないし、期待されたくもない。人間は一人では生きられないことは十分に理解しているけど、できる限りあらゆる面で独りでいられるように努力してしまう。自分以外の誰かの存在は、僕にとっては大抵疎ましいものでしかないし、無論、自分以外の誰かの人生に深く関わりたいとも思えない。
冷たい人間だと自分でも思う。でも、それは僕の中では仕方のないことだ。
だから、自分以外の誰かに対して、自分以上に尽くすことが出来る人という存在は、僕にとっては本当に、ある意味で理解不能なのだ。
水谷修という人間は、自分という生き方を捨ててまで、自分以外の誰かのために人生を費やす生き方を選択した。どんなに覚悟があっても、並大抵の努力で出来る生き方ではない。今、水谷修の背中には、どれだけの若者が乗りかかっているのだろうか。今まで救った若者、今救おうとしている若者、そしてこれから出会うかもしれない未知数の若者。そうした若者が、水谷修という一人の男の背中に乗りかかっている。
重さで潰されないようにするだけでも、死ぬほどの努力を必要とするだろう。それでいて、なお若者を乗せようとし、その重い体であちこち駆けずり回るのだ。
尋常ではない、と思う。
水谷修に助けを求める若者は増えていることだろう。時代は、どんどんと殺伐とした方向へと進んで行っている。今までは、病んでいない正常な若者が世の中の大半を占めていただろうので、病んだ若者ははじかれるだけの存在だった。しかし今では、その比は逆転しようとしているのではないか。あるいは、潜在的にはもう逆転しているのかもしれない。病んでいない健康的な若者という方が、もはや希少なのではないだろうか。
閉塞感に支配されているのだ。
境遇や状況にも多分に左右されることだが、多くの若者は、抜け出すことの出来ない閉塞した場所で、足踏みすることを余儀なくされている。前にも進めないし、後ろに進めば状況はさらに悪化する。助けてくれる大人はいないし、永遠と終わることのない不遇の空間が、彼らを取り囲み続ける。
若者は、救いを求めている。状況を打開する救世主の存在を夢に見、夢想しながらも、それはありえないと絶望する。現実を直視することに疲れてリストカットや薬物に手を出し、ますます抜け出せない状況を作り出してしまう。
大人には、若者の現実は見えない。見えても、見えていないフリをする。大人のズルさが、若者を殺していく。
水谷修は、自身をヒーローではない、と言う。確かに彼は、自分で若者の問題に踏み込んで解決してしまうというようなことはしない。
彼がするのは、話を聞き、若者に一歩を踏み出させる勇気を与えることだ。水谷がついているから、勇気を出して一歩を踏み出してみなさい。もしダメなら、水谷のところにくればいい。
命綱のようなものなのだ。例えば崖登りの際、命綱は、それ単体では崖を登る役に立つわけではない。しかし、命綱があるというその存在感が、登攀者に勇気を与え、崖を登る力を与えてくれる。もし失敗しても、命綱が自分の存在を受け止めてくれる。
水谷も同じだ。水谷自身は、なるべく問題解決に割り込まない。出来るだけ自分で手を出さないようにする。その代わり、話を聞く。責任を取る。その存在感によって、若者に勇気を与えることが出来るように努力をする。
誰かがするべきことだっただろう。あるいは、誰もがするべきこと、というべきだろうか。
水谷修という人間は、一人しかいない。彼にも、限界というものが存在する。彼一人にその役割のすべてを押し付け期待するのは虫が良すぎるだろう。
本作は、傷ついた若者を勇気付けるために一冊としてももちろん有効だ。しかしそれ以上に、意識的に、あるいは無意識的に若者を傷つけている現実を知らずに、今も若者を傷つけ続けている無遠慮な大人に、水谷修の役割を少しでも認識させるために一冊としても有効だろうと思うのだ。
誰しもが、若者であった時代があったはずだ。境遇や状況、あるいは時代が違ったとしても、若者としてのあり方がそこまで変わるとは思えない。
水谷はこう言う。腐った若者などいない。腐らせてしまったとしたら、それは完全に大人の責任だ、と。
見て見ぬフリをしてきた夜の世界と、そこに生きる若者たち。そして、水谷修という一人の男に背負わせてきた重いもの。それらを僕らは、一度きちんと見つめてみる必要があるだろうと思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、前作「夜回り先生」の続編です。
まずは、水谷修の経歴的なものを書いてみましょう。
上智大学の文学部を卒業後、普通高校の教師になったが、同僚との意見の食い違いから夜間学校の教師になる。
その食い違いとはこういうものだった。鮨だって、魚を選ぶ。腐った若者のいる夜間学校なんかで教えられない、とその同僚は口にしたらしい。それに反発した水谷は、普通高校を辞め、すぐに夜間学校の教師になったという。これだけでも、普通できることではないだろう。
それから、「夜回り先生」と呼ばれるようになったその夜回りを精力的に続けることになる。繁華街で若者を見つけては、話を聞いたり名刺を渡したり、あるいは暴走族の集会に顔を出したり、怪しいスカウトなどが若者に近づかないようにけん制をしている。
そんなことをいつもやっている。高校の授業や若者の相談と平行してやっているわけで、また最近は講演も多い。熟睡出来た日はない、という。
本作は、内容的には前作と同じようなもので、今までの夜回りの経験や若者との関わりなどから、印象的なエピソードを交えて、若者に、死んではいけない、過去のことはいいから、水谷と明日について考えよう、と訴えかける内容である。
前作と同じような内容、と書いたけど、本作でもまた泣いてしまった。この作品の持つ力はすごい。真実である、というその力もさることながら、水谷修という男の生き方というかあり方というか、そうしたものが自分とかけ離れて素晴らしすぎて、そんな人間がいるのだなぁ、という感動でもある。また、様々な若者とのドラマも、それぞれに違いがあり、辛くもありながら感動もする。
水谷修は、自らの失敗を隠すことがない。本作でも、いくつか失敗した事例について書かれている。冷たい態度を取ったばかりに、薬で朦朧となった状態で車に轢かれた少年、忙しさにかまけて少しの間目を離していたが故に、以前よりも状況が悪化してしまった少女、助けたいと切に願いながらも、その苦痛の深さを理解することができなくて自殺してしまった少女。
どれも、読んでいる限り、水谷修の失敗とは言えないものが多い。かなりたくさんの若者を抱えていて忙しいのだろうし、人間様々にあって一人一人違うのだから、仕方ないことだとは思う。
しかし、水谷修は、自分に妥協をしない。どんな時でも自分の責任を感じ、また二度と同じ過ちを繰り返さないようにと誓う。その強さがどこから出てくるものなのか、本当に素晴らしいものだと思う。
どれも印象的なエピソードなのだが、その中から二つ抜き出してみたいと思う。
一つ目は、リストカットをしているという小学4年生からの相談だ。水谷は、その少年から相談を受けたとき、次のように答えた。
『聖士君、それでいいんだよ。リストカットは心の叫びだから。ただし今度手首を切るときは、人前でやること。こそこそ隠して切ってたら、ずっと今のままだよ。まずは信用できそうな人の前で切ってごらん』
こんなこと、普通は言えないだろう。リストカットを許すというところまでは、なんとかできるかもしれない。しかし、人前で切ってみなさいということは、普通は出来ないだろう。本人も、これは大きな賭けだったと言っているけども、賭けとはいえ、間違った方向へ進んだ時の責任はもちろん取るつもりだったのだろうから、彼自身にとっても大きな不安があっただろう。
結局聖士君は、校長先生の前でリストカットをし、事態は好転したのだという。相手の状況の踏み込んで、相手のすべてを肩代わりしようという気負いがなければこんなことは言えないだろう。素晴らしいと思った。
また、本屋で万引きをした少年のエピソードがある。「夜回り先生」を万引きしてしまったんだけどどうしたらいいですかという相談に、水谷はこう返す。
『君はもう反省している。それでいいんだよ。君がそう感じてくれただけで嬉しいよ。本屋さんの名前と住所を教えてください。本の代金は先生が送っておくから』
水谷は、罪に甘いわけではない。強盗や殺人を犯せば、それがどんなに可愛い若者であろうとも、当然自首させる。ただ、犯罪の程度や状況に応じて対応も変わる。この件では、万引きを許している。社会的には間違っているかもしれないけど、若者を救うという観点からすれば正しいのだろう。
少年はそれから二ヶ月悩み、結局その本屋に足を運び、誤ってお金を返したのだという。初めはすぐに逃げるつもりだったが、店長に呼び止められて観念し、水谷修に相談したことを店長に告げたという。感動した店長は涙を流し、自分のポケットマネーで別の本を買ってプレゼントした、という。
僕が本屋で働いているというのもあるだろうけど、非常にいい話だと思った。若者を守ろうとする大人の輪が自然と広がったことに対して、そして救われた若者が恐らくいい人生を歩むだろうと期待できることが、すごくいいなと思った。
『水谷です。
哀しいです。
もし君に死なれたら、
水谷は哀しいです。
私には君の死を止めることはできません。
それはわかっています。
でも、君にはもっと生きていてほしい。
君の明日には、たくさんの幸せが待っています。
そしてたくさんの心温かい人たちが待っています。
よかったら、水谷を信じてみませんか。
水谷と一緒に、いろんな明日を作っていきませんか。
ずっとそばにいます。
水谷はなにもできないかもしれない。
むしろ君を傷つけてしまうかもしれない。
でも、水谷はずっとそばにいます。
明日も、元気な声を聞かせてね。
おやすみ。またあした。』
僕は、水谷修という人間が、歴史に残ればいいな、と思う。マザーテレサのように、あるいはガンジーのように、日本の水谷修がその名を歴史に残してくれたらいいな、と思う。
そして、自分でも少しは思う。出来るかどうかわからないけど、もう少し人に優しくなろう、と。出来るかどうかわからないけど、水谷修のあり方を少しは見習おう、と。読んですぐだから感化されているだけかもしれない。でもそれでも、そんな風に思ってしまう。
水谷修の言葉は、誰の胸にも素直に届くだろう。届かないとすれば、それは若者を傷つける大人なのだろうと思う。ある意味でこの「夜回り先生」というシリーズは、現代の若者のバイブルと言っても言い過ぎではないかもしれない。それだけ、この作品には、力があり、価値がある。
読めば泣ける作品です。立ち読みでも全然読めてしまう内容だけど、是非買って読んで欲しいという風にも思います。何度も読み返しては、水谷修という生き方を、そして現代に生きる若者の姿を、きちんと知るべきではないかと思えてしまいます。
是非読んでください。素晴らしい作品です。
水谷修「夜回り先生と夜眠れない子どもたち」

夜回り先生と夜眠れない子どもたちハード