不意打ちだったということもあるかもしれない。突然一拍心臓の鼓動が体内に響き、それに押し出されるかのように涙が溜まり溢れ出た。びっくりした。俺も泣くんだ、と思った。しかもその後も二回ほど泣いた。
泣いた場面は言ってしまえばそんなに大した場面ではなかったかもしれない。でも俺はトシ坊に泣き、ボレロに泣き、そして魔球に泣いた。どうしてなのかわからないが、それだけの作品だということだろう。
始まりこそ現代だが、舞台は戦争直前から戦争直後まで。話は大まかに前半後半に分かれる。
前半は野球の話がメイン。
A大野球部。名の知れたわけでもないその野球部に、甲子園で名を馳せた一人の投手が入部する。並木浩二。誰もが期待したその男を不運が襲う。
肘の怪我。リハビリを繰り返し再起を図るが、再度肘を痛め、そのまま最後の年にまで上がってしまった。
そんなある日、女房役の剛原を呼び、久々に投球をした並木。受けている剛原は嫌でもその力のなさを感じ取ってしまう程の衰えよう。絶望。そう感じ取った剛原を困惑させるように並木は笑っていた。
「俺、魔球をつくる」
そう宣言した日、奇しくも太平洋戦争が幕を開けた。真珠湾の奇襲が、並木の人生を狂わせていく。
学生の徴兵がまだ禁止されていた。快進撃を続ける日本を誰もが喜び、それは野球部の面々も変わらなかった。議論し野球し、戦争を背景に彼らの生活はそこまで変わることはない。
だが、戦局が暗くなるにつれ、学生でいることが息苦しくなっていく。そして、学生の徴兵が解禁されると、皆軍隊へと道を進むことになる・・・
後半は戦争へと進む並木の視点を中心に話は展開していく。
海軍を志願する並木。日々訓練に明け暮れ、殴られ、軍人として修正されていく。
そんな中、海軍士にある話がもたらされる。軍最高の秘密兵器で敵を倒す。志願する者はその紙に名前と○を書け。どんな兵器なのかは知らされていない。ただ周りは、秘密兵器で敵をやっつけるという響きに浮かれて○を書く。並木は迷う。どうすべきか。結局は○を書いて紙を出す決断をする。
回天。
神風特攻隊と対をなす海の特攻。爆薬を載せ敵艦に突っ込んで敵艦を沈没させる、まさに秘密兵器。
志願した中から数十人が選抜される。並木もその中に選ばれる。
死を約束された残りの人生。砂時計のようにいつかは尽きる時間。その時間が間近であることを知らされた日々。
訓練の厳しさは尋常ではなく、埋没していく日々のなか、並木は魔球への夢を諦めていない。死ぬことを認めなくてはいけない時間のなか、死ぬことに抵抗するかのようにボールを投げ続ける。戦局はますます悪化し、ついに並木に特攻出陣が命じられる・・・
戦争という、いつの世も小説に据えられる背景。今では戦争を体験している人が戦争を書くことの方が少なくなっていることだろう。戦争体験者から見れば、甘い部分も不自然な部分もきっとあることだろう。
それでも、圧倒される。並木だけでなく、野球部のメンバー、陸上部の北、海軍士仲間、幼なじみ鳴海美奈子、喫茶「ボレロ」のマスター、そうした誰もが端役ではない登場人物達が、本の厚さ以上に作品を厚くしている。登場人物達は、誰もが生きている理由を与えられている。作品の中で役割が与えられているとか、存在する理由があるとかいうのではなく、作品の中で生きている理由がある。誰もが人生を持ち、誰もが誰かと関わり、苦しみ悩み、それでも生きている。
並木が、回天に乗ることに今ってからの逡巡は相当のリアルさがある。生きることとは、死ぬこととは。もはや何も選択することのできない決められた運命の中で、どう自分を納得させるのか。逃げるために、守るために、夢のために、克服するために、そして自分の中で「特攻で死ぬとはどういうことか」を突き詰めていく。
海にはさまざまな死骸がころがっている。海難事故や自殺者もいるだろう。もちろん戦争で命を落とした人もいるだろう。でもその中で、死ぬことに対してこれほど向き合った人間がいたことも忘れてはいけないな、と思った。
あと、前半の野球メインの場面。野球部にもいろんな人間がいるが、もう最高にみんな馬鹿だ。馬鹿、という言葉が誉め言葉になるような集団。ほんとに羨ましい。俺も常にそんな場にいられればいいなと思う。
最後に。「ボレロ」のマスターはかなり最高だ。かっこいい。無口で静かだけど、作品の中で強烈な存在感を放っている。「ボレロ」の行く末もいい。
何故か各種ランキングには入っていないみたいだけど、かなりいい作品です。
横山秀夫「出口のない海」
出口のない海