世界は自分を中心にしている、みたいに思ったことはないだろうか。
僕らは当然のことながら、自分の視点で世界を見ている。自分が見たモノ、聞いたモノを世界のすべてだと感じ、その感じに従って僕らは世界を認識している。
それはすなわち、自分が中心であるという視点をつねに思っているのと変わらないだろうと思う。
自分の世界の中で自分が主人公であるのは、まあ至極当然の話である。自分の視点こそがすべてであり、周りの人間はすべて観客である、というような感覚も、また間違いではないし正しいだろう。
しかし、それはすべて相対的なものでしかない。
僕らは、世界の主人公であると同時に、他人の世界の観客でもあるのである。
自分独りきりであれば、世界は自分のものであるし、その主人公でありつづけることが出来る。独りの世界には観客は想定できないが、しかしもう一人の観客としての自分を設定し、その観客の視線を意識して世界を生きていくことは出来るわけで、独りの世界であれば僕らはいつでも主人公足りえる。
しかし、二人以上の世界であれば、自然と主従が決まってくる。揃った面子によって、誰がその世界の主人公であるかは比較的明確であり、それぞれがそれぞれの世界を保持しその中で主人公であっても、全体の世界の中では一人の主人公が決定され、残りの人間は観客としての視点も持ち合わせることになる。
そうやって世の中は、主人公と観客に分けられていく。
常にどんな場でも主人公でなくては気が済まず、一瞬たりとも観客としての自分を許容することのできない人種、そうした人々が俳優や女優と呼ばれるのだろう。
人に見られるという感覚は、大抵の場合思い込みでしかなく、自分の世界の中で主人公であるが故に、他人の観客としての視線を敢えて創造しているに過ぎないだろう。
例えば、人前で何か失敗をしたとする。道を歩いていて転ぶ、というようなことでいい。本人としては、すごく恥ずかしいものだ。何故恥ずかしいのかと言えば、それは他人の観客としての視線を意識しているからだ。自分は、自分の世界の中では主人公であり、その主人公が転んだのだから観客は注目しているだろう。そんな意識が働き、勝手に恥ずかしくなるのである。
しかし、実際人は他人のことをそこまで観察しているものではない。視界に入ってもすぐに忘れるだろうし、目にも留めていないことの方が多いだろう。その観客が、自分と多少何らかの関係がある時は、多少記憶に残るかもしれないが、しかしそれもそれまでのことである。
昔は僕も、そういう他人の視線を意識しすぎて、無駄に一人で悶々と悩んでいたものだと思う。最近でも、もちろん他人の視線を意識はするが、しかし同時に受け流すことも出来るようになった。どうせ他人は、自分のことなど碌に見ていないだろう。そんな風に思うことが出来るようになった。
これは、自分が観客としての視点を以前より強く獲得したからではないか、と思うのだ。自分から見れば自分は主人公であるが、他人からすれば一人の観客に過ぎない。その観客に過ぎない自分の視点というものが、誰にとってどういう位置に収まるのかということを、なんとなく学んだのだろうと思う。
世の中には、この観客としての視点を獲得出来ていない人が多いように思う。もちろん僕が完璧に出来ていると言いたいわけではないのだけど、他人のそれは余計に目に付く。
やはり誰もが、自分が主人公であるという幻想を信じたいのだろうな、と思うのだ。その幻想は大抵の場合、自分独りの世界の中でしか通用しないのに、人々はその世界を少しでも押し広げようとしているように思う。自分は主人公なのだからこれぐらい許されるとか、自分は主人公なのにどうして周りはもっと尊重しないわけとか、そんな意識が強くありすぎるが故に、それを観察している人間に酷く変な行動として意識されてしまうのである。
大勢の世界の中で主人公になれるのは、本当に一握りの人間でしかない。その他大勢の人間は、その本物の主人公の観客に過ぎず、唯一自分の周囲の狭い世界の中でのみ主人公としていられるのである。僕らはもっと、観客としての視点を身に付け、自分の立っている場所をしっかりと認識し、その位置でしっかりと立ち続けることを意識すべきではないのか、と思う。
誰しもがシンデレラに憧れるだろう。しかし考えてもみれば、全員がシンデレラであれば、観客がいなくなってしまう。観客の一人のいない主人公など、主人公としての価値などないだろう。それよりも、よりよい観客となり、主人公を鋭く見つめる方が、世界にとっても自分にとっても素晴らしい結果をもたらすことになるかもしれない、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
とは言うものの、本作は内容紹介が本当に難しい作品で、内容紹介をすればするほどネタバレになりそうな作品です。ストーリー自体も複雑であって、内容紹介を省略するのがベストなのだろうけど、しかしどれだけ複雑な話なのかを理解してもらうために、多少内容を書いておきましょう。
ストーリーのベースは演劇です。全編演劇がベースになって物語が進んでいきます。
作中劇というのでしょうか、本作の中で台本のように書かれている章があり(女優1:「〜」みたいな表記の章)、その作中劇の内容だけ紹介しましょう。
『「脚本家が不可解な死を遂げ、その容疑が三人の女優に掛かっている」という内容の舞台を製作した脚本家が、その製作を記念して開いたパーティーの席で不可解な死を遂げる。その舞台の主演女優候補として残された三人の女優にその疑いが掛かる。警察は、事情聴取と平行してその三人の女優に、死んだ脚本家が遺したその舞台の脚本を演じさせる』という内容の舞台。
それと平行して、ある大物女優の死、就職活動中の女性の死、霧のたちこめる山奥の劇場を目指す二人の男の物語などが語られる。
どこまでが虚構で、どこまでが真実なのか、その境界が読み進めるにつれて曖昧になっていく物語。
という感じです。
なかなかチャレンジ精神溢れる作品で、僕は結構こういう作品は好きですね。本作は、結構真面目にミステリで、これまでの恩田陸の作風とはちょっと違う感じがするでしょう。だから、既存のファンとしてはあんまり好きになれない作品かもしれないですね。逆に、ミステリが好きなら読んでみたら結構いいと思う作品です。
とにかく構造が複雑で、本当に理解するのが大変です。といって読みにくいわけでは決してなく、複雑なくせに結構スラスラ読めてしまうわけで、その辺りさすがだなと思いました。
とにかく、これは一体どこの『中庭』の話なのかが入り組んでいます。あらゆる事件がある『中庭』を舞台にして起こるのだけど、その『中庭』が現実の中にあるのかそれとも虚構の中にあるのか、虚構の中にあってもそれが一層目なのか二層目なのか、というところが煩雑で、よくもまあこんな話を考えたものだ、と思いました。
最後まで読んで、なるほどこういう話だったのか、と僕なりに構造を理解したつもりではありますが、でも間違っているかもしれません。でも最後の方で、「解釈次第だ」みたいなセリフがあって、それはまあその通りだなと思い、まあ間違っててもいいかな、という風に思ったりします。
いろんな殺人事件が起こるし、それぞれに解決が与えられるのだけど、でもそれぞれのその解決は綺麗だとは思いませんでした。でも、この複雑な構造の物語の中で、どうもそういう部分は些末なものとして僕の中では扱われて、まあいいかという感じになりました。僕としては、個々の事件の解決にとやかく言うのではなく、作品の構造そのものに隠されたミステリを楽しんだ方がいいだろうな、と思いました。
複雑な作品をさらに複雑にしているのが、上記で一応説明したつもりの作中劇ですが、これがなかなかに面白かったです。三人の女優が同じ筋の物語を平行して語るのだけど、女優が女優自身を演じるというなかなか込み入った作品で、劇の大筋はあるけど、細かい部分は女優自身が脚色して自分の話に仕立て上げるという趣向です。しかもそれが、ある事件の取調べという状況であって、なかなかスリルもあります。ほんと、よくもまあこんなことを思いつくものです。
ただ、僕の中でどうしても処理し切れないのが、「旅人たち」と題された章で、一応どこかに収めようと思えば無理矢理収まらなくはないのだけど、でもやっぱりはみ出ます。ジグソーパズルは完成したんだけど、どうも一箇所嵌まり方がおかしくて、これでいいのかなぁ、という感じ。物語がすべて『中庭』で完結してくれていればよかったのだけど、難しいものだ。
しかし本作は、携帯で連載していたものらしいんだけど、よくこんな難しい話を携帯で連載しようと思ったなぁ、と思います。携帯で読んでた人のどれくらいがついてけたのか、疑問ですね。ちょっとそこだけが、本作の失敗ではないかな、と思いました。
そうそう、構造的に似ている作品が思い浮かんだのですけど、ネタバレになりそうなので書くのは止めておきます。メフィスト賞を受賞してデビューしたある作家の作品、とだけ書いておきましょうかね。
僕は基本的に恩田陸は苦手で(でもここ最近読んだ3作は3つともよかった)、でも本作はなかなかいいと思いました。だからというわけではないのだけど、既存の恩田陸ファンには合わなそうな気がします。さっき書いたことの繰り返しだけど、ミステリファンなら結構読めるんではないかと思います。複雑な話がダメという人はちょっと手を出さない方がいいかもしれないけど、僕としては結構オススメです。読んで見てください。
恩田陸「中庭の出来事」

中庭の出来事ハード