2007年03月16日

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか(仲俣暁生)

非常に眠いので適当な感想になることを初めから宣言しておこう。まあこの作品自体特に面白くもなかったわけで。
国語の授業というのがとにかく大嫌いな子供であった。今でもあの授業を受けろと言われれば僕はボイコットするだろうと思うくらい嫌いである。
とにかく、教科書に載っている文章の意味が僕にはさっぱりわからないのである。こうして小説をバリバリ読んでいてなんだけど、ホントにそうなのだ。教科書に載っている文章と言うのは、僕からすれば文章ではなくて、あれはただの言葉の羅列である。そこにどうしても意味を感じ取れないのである。
教科書に載っている小説に関してもまあ文句はあるが、とにかくあの評論という奴が困ったものなのである。教科書には、誰が書いたんだかしれないよくわからないことについて書いたよくわからない評論がたくさん載っているわけだけども、ああいう文章というのは本当に上記を逸していると思うのだ。
だって、文章を読み始めても、本当に意味が分からないのだ。単語それぞれの意味はわかるのに、それらを組み合わせているだけの文章の意味が全然理解できない。いつも教科書を読んでいて思うのは、その評論がどうかというよりも、そもそもこの評論は何が言いたいわけ?ということであった。まあ、ごくたまに面白い評論みたいなものもあったりしたのだけど。
そもそも、評論というものの存在価値がよくわからない。例えば小説の評論にしてもそうだ。ある作家のある作品を分析するのに、時代背景くらいを対象にするならまだわからないでもないのだけど、意味のわからない言葉の定義を繰り返したりだとか、何かと対比させてみたりだとか、この言葉の象徴しているものはなんなのか考えてみたりだとか、そんなことにどれだけの意味があるというのだろうか。
僕は思うのだけど、作家が自身の作品について書かれている評論を読んだら、9割くらいが「いや別にこんなこと考えて書いてないけど」みたいな風に思うのではないかと思っている。国語のテストと同じである。よしもとばなな氏の話を聞いたことがあるが、自身の小説がある問題に採用された際それを解いてみたのだが、作者の意図を問う問題でなんと著者本人が不正解だったという話。それと同じで評論にしても、的外れなことを論じているだけなのだろうな、と思ってしまう。
まあ別に、小説をどう解釈するかは読む側の問題であるし、解釈したものをどう論じようがまあどうでもいいのだけど、しかし何かの拍子にそうしたどうでもいいような評論を目にしてしまうと、なんだかなぁ、と思ってしまうのだ。
小説なんて別に、評論されなくても全然困らないのだ。読んで面白ければいいし、面白くなければダメなのだ。文芸作家の出現の流れであるとか、作者が込めたであろう裏の意図であるとか、別にそんなことはどうでもいいのである。
というわけで僕は、本自体の内容から大きく逸れてよくわからないことを論じている評論をなるべく読まないようにしようと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、まあそんな僕が好きではない評論集なわけです。
じゃあなんでそんな本を買ったかと言えば、舞城王太郎の作品が収録されているからなんですね。ホント、それだけの理由で買いました。
評論の方は、まあ相変わらずよくわからないですね。なんというか、本自体の内容を論じているならいいんですけど、突然9.11とか経済とかそんな話になったりして、いや別にそんなこと関係なくないか?とか思いながら、まあ流し読みみたいな感じで読んでみました。吉本隆明の評論以降のものはめんどくさいので読んでません。
で舞城の作品ですが、こちらも負けじとよく分からない作品で、なんともいえない感じでした。
まあそこそこ面白いなと思ったのは、愛媛川十三(舞城王太郎と同一人物のはず)による文章ですね。「文学」はいやだ、「文楽」がいい、みたいな話でした。もっと作家はたくさん書いて競争するべきだ、みたいな話でした。
まあそんなわけで、実りの少ない作品でした。オススメしません。タイトルはなかなか惹かれますけどね。それだけです。

仲俣暁生「「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか」


「鍵のかかった部屋」をいかに解体するかハード

「鍵のかかった部屋」をいかに解体するかハード
 

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