彼の物語について触れる前に、触れておきたいことがある。それはどうしても言っておかなければならない重大な事柄では決してないのだけれど、書き残される事柄が全て重大でなければならないということも特にないだろうと思う。
「ねじまき島」という島があるのだと思った。
タイトルについての誤解がまずあった。「ねじまき鳥」ではなく、「ねじまき島」。どうしてか説明することはテレビに映し出される料理の臭いを嗅ごうとするぐらい難しいことなのだけど、そうした誤解を抱えていた。
さらに彼の物語を読んだという友人の断片的な感想などを総合して僕は、「ねじまき島」で起こるファンタジー小説なのだろう、と思い込んでいた。
だからというわけではないが、そこまで読もうとは思わなかった。
同じことを、京極夏彦という作家の作品に対しても感じたことがある。それは、彼の物語の感想、という範囲をそろそろ逸脱しかねない話題なので、このぐらいにして彼の物語に触れようかと思う。
ただそこで僕は、文章を書く手が止まってしまう。しかし止まらずにこの文章を書いている、という矛盾を飲み込みながら。
彼の物語のどこかを切り取って繋ぎ合わせ、あらすじの形にすることに、どのくらいの意味があるのか僕にはわからなくなっている。確かに猫は消えた。電話も掛かってきたし、加納マルタが現れた。そしてクミコも消えた・・・そうした、バラバラに砕けたコップを元通りに繋ぎ合わせるかのように、彼の周りで起こった出来事を並べ立てて繋ぎ合わせても、それは「壊れたコップを繋ぎ合わせたもの」以外の何物でもなく、決して「元のコップ」にはならないのである。
そう、まさに僕が書こうとしている文章は、「茶碗蒸しの素」でしかなく、それをレンジに入れたところで「茶碗蒸し」になるかは、経験的にそう信じているだけで、本当はどうなるのかわからないのだ。
だから、僕はなるべく大きく大きく彼の物語を見渡す。ナスカの地上絵のように、それが存在するのと同じ場所にいては見えないことも沢山あるはずなのだ。
僕たちは世界を規定している。僕たちは確かに一つの世界に含まれていながら、巾着袋の中のおはじきのように、それぞれ個人が世界を規定している。
巾着袋そのものに含まれている事象や人や状況を全て理解することは困難でしかないし、現実的ではない。だからこそ人は、自分に理解できる事象や人や状況を寄せ集めて、自分の世界というものを規定する。そうして僕たちは、絶えずその輪郭というものを見定めながら、あるいは多少膨らんだり縮んだりはあるかもしれないが、輪郭がそこに存在していることを確認しながら生きていくことになる。
自分の世界の輪郭を見失った多くの人々と、その輪郭を取り戻そうとする男−僕が彼と呼んでいるその男−の物語である。僕が上空から見た地上絵はそう見えた。
誰もが輪郭を失いつつある。大抵それは理不尽に奪い取られていく。あるものは誰かによって。あるものは状況によって。薄くなっていく輪郭の縁からは、どろどろとしたものがまるで意志を持つかのように流れ出ていき、曇りガラスに映る姿のように存在感が希薄になっていく。それでも生きていかなくてはいかないし、生きていける世界を探すしかなくなってしまう。
彼はクミコの世界の輪郭を取り戻そうと努力する。その過程で、豆腐を作るとおからができるような成り行きで、彼は多くの他の人の世界の輪郭をも取り戻していくことになる。
僕が捕らえた彼の物語は、こういう解釈になる。それが正しいかどうかは僕にはわからない。出来れば著者自身にもわからないのであるならいい、と僕はパンク寸前のタイヤのような期待をしてしまう。
僕は正直に言って、村上春樹の文章を読むと疲れを感じてしまう。集中力が奪われていくような気がして、何度も文章から顔を上げては一瞬だけ別のことを考える。そしてすぐに彼の文章に目を戻す。
最近気づいたのだけれど、それは決して悪いことではないのかもしれないと思う。目を走らせるだけですっと体の中に入ってしまう文章なんか、ろくでもないものなのかもしれない。あくまでそれは、彼の物語を読み終わった今だからの感想であって、根拠のないその感覚をこれからも持てるかどうか、僕には自信がない。
村上春樹の文章というのはやはり独特だと思う。自分の中にはない言葉の繋がりや音感があって、他の村上春樹の作品では馴染めなかったそうした文章が、彼の物語ではざらついた新聞紙程度の違和感を伴いながらも僕の中に入ってきたと思う。
首から上と首から下がまるで別人のものになってしまった。それでも心臓は間違いなく血液を送り出しているし、脳はちゃんとものを考えている。首にあるはずの繋ぎ目はなく、皮膚は自然に連続している。それでもどこか違和感を感じる。村上春樹の文章には、そうした感覚を抱く。
僕は彼と似ている、と勝手に思っている。本質が似ているのかどうか、僕には判断ができない。それでも、彼が遭遇する個々の場面で、ああ僕もこうやって行動するかもしれないな、と思える部分がいくつもあった。
例えば笠原メイとの井戸での会話。例えばナツメグと初めて出会ってからの行動。例えばクミコがいなくなった後の日常。そうした場面で僕は、きっと僕も彼のように行動するのだなと、もはや断定的な思考をしていることに気づく。ある意味で僕はその感覚が好きだったけど、ある意味では好きではなかったのかもしれない。
シナモンという男が僕は一番好きだ。一人で部屋で本を読んでいる時、ふと雨が降っていることに気づくような、ある意味気づかれるまでの雨音のように儚く、そしてある意味気づいてしまった後の雨音のような存在感がある。シナモンを形成した全ての状況を一面では羨ましく思う。シナモンのような人間になれたらもしかしたら幸せかもしれないと、どこかに刺さったトゲを抜くような想いを抱いたりもする。
今回僕が書いた、「ねじまき鳥のクロニクル」の感想のようなもの、は随分と長くなってしまった。出来るだけ村上春樹のような文章で書ければいい、と思って努力はしてみたけど、どう捉えられるかはわからない。雰囲気は伝えられていればいいなと、聞こえるかどうかわからないねじまき鳥の鳴き声ぐらいの期待をしている。
きっとねじまき鳥は、僕の世界のネジを巻くのを忘れてしまったのだろう。あるいは、そんなことにはもう興味を持てなくなって、ネジをまく以外の何かを見つけたのかもしれない。
村上春樹「ねじまき鳥のクロニクル」
ねじまき鳥クロニクル〈第1部...新潮文庫
ねじまき鳥クロニクル〈第2部...新潮文庫
ねじまき鳥クロニクル〈第3部...新潮文庫