教育問題なんかに感心を持つのは結局、学生とその親、そして教育をする側の人間だけである。それ以外の人間は、学生であることから解放(まさに解放という言葉がぴったりだ!)されるや否や、教育などというものについて完全に感心を失ってしまう。自分がかつて教育を受けたことすらもはや幻想の彼方へと追いやってしまい、思い出すこともなかなかなくなるのではないだろうか。
本作の中で、非常になるほどと思った記述があった。それを抜き出してみよう。
『教育のジレンマは、それをする者が、かつてそれをされるものであったというところにある。すなわち、それはやられたものがやり返すという、復讐のような構造になっているのである。』
これは、本作の主人公であり作家であるという設定の蓬原が書いた「教育という名の復讐」というエッセイの一文であるのだが、このエッセイが非常に面白いのである。
上記の文章も、なるほどだと思えないだろうか。このエッセイの中で蓬原はこう看破している。つまり、教師になるような人間はそもそも、学校における支配被支配の構造を許容できる人間であって、そういう人間が教師になってかつての復讐をしているのだ、ということだ。
学校という場はとにかくおかしなところで、教師という絶対的な存在がすべてを握り、明確に支配被支配の関係が存在していた。というのは過去の話で、どうも今は違うらしい。今では、生徒や親の方が教師よりも強いようなのだが、まあとにかく昔はこうだったはずだという話をしよう。
生徒と教師の間にあるそうした支配被支配の関係を許容できない人間は、一刻も早く学校みたいな場所からおさらばしたい、と考える。僕もまあそんな子供であったと思う。どんな形であれ僕は、支配被支配という関係を許容することが出来ない。
必然的に教師というのは、そういう支配被支配の関係を許容できる人間の集まりということになっていく。であれば、学校というものの構造が変わるわけはないだろう。
変わるわけがないはずだったのだが、どうも最近はそうでもなくなったようで、結局その変化がどこからやってきたのかということがよく分からない。なんだろうか。
最近のニュースなんかを見ていると、人々は一体教育というものに何を求めているのだろうな、と思うことがある。
学校で何か問題があると、すぐに教師が悪い学校が悪い教育が悪いということになる。もちろん、行き過ぎた体罰があったり手続き上のミスから生徒に不利益を与えるなどというのは論外である。しかし、いじめによって自殺する生徒がいたり、あるいはある学校の生徒が殺人を犯したからと言って、それがすぐに教育批判になるというのはどう考えてもおかしいと僕には思えてしまう。それはもはや、教育とは関係ないレベルの話である。もちろん、自殺を防いだり犯罪を未然に阻止できたらそれはそれで素晴らしいことである。しかしそれが出来なかったからと言って教育が非難される謂れはまるでないだろう、と感じるのだ。
親というのは、自分の責任を放棄して、学校にあらゆることを押し付けているようなそんなイメージがある。もちろんすべての親がそうではないだろう。しかし、表に出てきて激しく主張するそうした親というのは少なからずいるし、そうした意見が世論として取り上げられてしまう。教育がそれに翻弄されることになる。悪循環である。
しかし、学校という教育の場がそもそも間違っていないかというとそれもないだろう。学校という場は大いに間違っているはずだ。親が学校教育に求めているものは的外れであるという感じがするが、しかし一方で教師が学校養育に求めている理想というのもどこか的外れであるという風に感じてしまうのだ。
その的外れであるという感覚が、本作を読むと非常によく理解できる。本作では、一般の人が学校教育というものに感じているだろう不満を、非常におおげさに分かりやすい形で描いている。誇張しすぎているがゆえに逆に輪郭を捉えやすいのである。なるほど、僕が漠然と教育というものに感じていた不満はこういうことだったのか、と思う。
恐らく学校というのはこれからどんどん壊れていくことだろう。為政者の改革という声も常に虚しく響くだけだ。教育が向かう先に未来があるのかないのか。そもそも教育とは、未来を創り出す手段であったと思うのだが、今では未来を閉ざす足かせになってしまったようなそんな気がする。
そろそろ内容に入ろうと思います。
作家の蓬原一啓は、ある文学賞を受賞し仕事もそこそこ安定したことを機に東京を離れ、家族と共にここ笠島県飯倉市に引っ越してきた。もちろん息子はこちらの中学に転校することになった。息子は、田舎のダッセエ中学なんか行きたくないよとごねたが、有無を言わせず転校させた。
静かな環境で執筆も順調に進み、また妻も息子も特に問題のなさそうな暮らしをしていたのだが、ある日突然蓬原を不幸が襲った。
ことの発端は息子の三者面談だった。息子の三者面談に出かけた妻と息子が夜になっても帰ってこない。一晩経っても帰ってこないのでとりあえず息子の学校に話を聞きに行くのだが…。
とにかく出てくる教師みなおかしい。そもそも学校の校訓がおかしい。
『一、協調と妥協
一、目立たず輝かず
一、自己の埋没』
そういえば妻が変なことを行っていた。息子の学校には、『弁当はおかずの体積がめしの体積を超えてはいけない』なんていうルールがあるらしい。
何なんだこの学校は。そして、妻と息子は一体どこにいるというのだ…。
というような話です。
本作は文庫で560ページくらいある長編なんですが、いやはやこれが面白い。これだけ長い本なのにスラスラ読めてしまいました。
とにかく学校教育というものを批判しまくっている作品です。それも誇張された教師像というものをいくつも出してきてユーモラスに批判を繰り広げています。
まず各教科の先生が次々に出てきて、何だかんだと議論をすることになります。そのそれぞれについて、なかなか痛烈な批判を加えます。
一番面白いのはやはり一番初めの国語への批判ですね。「坊ちゃん」の主題の話や国語を試験するということについてなどいろんな話があったのだけど、中でもなるほどと思ったのが試験問題についてです。
本作の中にこんな文章があります。
『「でも違うのです。実作者の発言なんかどうでもいいんです。国語の問題文というのは、問題文として使用された時に、作者をも離れた別のものになっているんですから」』
これは、時々国語の問題を実作者がやってみて自分は解けなかった、「この時作者はどう思ったか」という問題の答えが違った、などという発言があるという意見についての反論なのだけど、いやはやなかなか面白い意見だな、と思いました。問題文としてしようされた途端実作者をも離れるなんて、じゃあ国語っていう教科は一体なんなんだって思ってしまいますね。ある解釈を押し付けるだけの学問なのだな、とやはり思います。まあ僕も学生時代国語が大嫌いだったのでこんなことを言うんですが。
また英語についても面白いです。
『「はい、そうです。なぜならば、日本の学校の英語教育は、英語を話すことを目的としたところの教育ではないからです。多くの人々はそれを知りません」』
これも、なるほどなぁ、と思いました。日本の英語教育は読解力を実につけさせるためのものであって、端から英会話のことなど考えていない、というのです。確かに喋れないわけです。まあ英会話を目的としたカリキュラムにしたところで喋れるようになるかどうかは怪しいものですが。
他にも学校全体を批判するような文章がいくつかあって、抜き出してみると、
『時として、ある子供にとって、教師の存在そのものが暴力であることがある。』
『一つだけ教師が教師としてやっていける可能性があるとすれば、それは自分が何をしているのかを認識していることなんだよ。自分が、そして学校が、どういうことをしているのかを正しく把握していることだ。そして、そこに批判を持っていることだ。教育という仕事は、その批判を持っている者の手で行われなければ成立しないんだよ。少なくとも疑問をかかえ、その疑問の中で手さぐりでやっていく仕事だろう。だって、人間を形成するというとてつもないことをやってるんだぜ』
こんな具合である。
とにかく全編で教育というものを痛烈に批判していて、しかもかなり論理的で確信を衝いている議論が多いような感じがあって非常に面白いなと思いました。
とにかく本作に出てくる中学校は、漫画でもここまでの教師はいないだろう、漫画でもここまでの設定はないだろうという無茶苦茶な学校で、そういう部分ではなかりSFチックな作品なのだけど、そこで展開されている批判はかなり面白くてまた現実に即しているような感じがあります。
とは言うものの、実は本作が一番初めに出版されたのは1990年で、もう15年も前の教育体制が基盤となっているわけです。だから当然現状とは合わない古臭い部分もたくさんあるわけですけど、それでも今読んでも充分楽しめる作品であると僕は思います。
ちょっと長い話ではありますが、しかし思った以上にすらすらと読めると思います。ユーモアたっぷりで面白く、さらに教育問題についていろいろ考えることの出来る作品です。かなり面白いしかなりオススメです。読んでみてください。
清水義範「虚構市立不条理中学校」

虚構市立不条理中学校文庫