人は生きていく間に、その天秤を釣りあわせようと、もう片方の皿に載せられる様々なものを探していく。金を稼ぎ、友を得、名誉を勝ち取り、権力を手にし、結婚し、子供を持ち、子供に何かを残し、歴史に何かを残し、綺麗だと言ってくれる人を抱きしめ、格好いいと言ってくれる人をはべらせる。死ぬまでにその天秤を釣り合わせることができれば幸せだ。そういう幻想をどこからか誰かに植え付けられ、あるいは創造主に予め与えられた人間は、釣り合わない天秤にいつも不満を抱くことになる。
自分が病気で死ぬ、あなたにはそれがどうしようもなくわかっている。やはりまだ天秤は釣り合っていない。そんな時、その天秤を釣り合わせるだけの重りを手に入れてきてくれる人がいる、そんな話しを耳にしたら、あなたはどうするだろうか?その話を信じたところで、誰があなたを責めることができるだろうか?
本作の紹介に入りましょう。
ある病院で、掃除夫としてアルバイトに励む神田。その病院には昔からある噂が語り継がれてきた。
「死ぬ間際に一つだけ願いをかなえてくれる黒衣の男がいる」
残酷な噂である。死を間際にした人にしか出回らないというその噂は、病院特有の雰囲気から生まれ出たのだろうが、それにしても「願いが叶うかもしれない」という幻想を死の間際に植え付けられるというのは、やはり残酷なことだろう。
いつしか噂は、黒衣の男から掃除夫へとその名前を変えた。
神田はふとしたきっかけからその噂に乗ることになる。公に明かすわけではないが、それとなく願い事を聞き、自分がその噂の主ではないけれども、という雰囲気でしかし願いを叶えていく。一つだけ、死を間近にした人の願い事を。
そんな、死を迎えるだけの患者と、掃除夫にして請負人となった男との、四編の心温まる出会いの物語である。
そう、つまり冒頭の天秤の話なわけだけれども、しかしこの小説は天秤の物語ではなかった。表題作「MOMENT」で明かされる真の物語は、心のどこかに何か表しがたい何かを残すかもしれない。
「FACE」
戦争という場で犯した罪。それを消し去るために与えられるはずの罰が与えられない老人。自分が殺してしまった男の家族に自然に接触して、その様子を報告してほしい。それが老人からの最後の願い。老人は自らに罰を与えるために罪を繰り返す・・・
「WISH」
心臓に障害を持つ14歳の少女。修学旅行先で撮った写真。そこに写っている男の人にこの写真を渡してきてほしい。それが少女からの最後の願い。幼すぎた純粋な想いが無機質な病室で結実する時・・・
「FIREFL」
乳癌の再発で再入院した女性。いくつか頼まれる、あまりに些細な、願い事というよりはお遣いと言ったほうがいいような用事を女性は口にする。世界から取り残された一人の女性の、死ぬ間際に望んだことは・・・一番美しく切ない話です。四編の中で一番好きです。
「MOMENT」
冒頭「FACE」から度々登場する、特別室に入院する老人の物語。しかし、この物語については、詳しく説明することを避けようと思います。
作者本多孝好は、少ない線描で驚くほど似ている似顔絵を書くアーティスト、といった雰囲気がある。相変わらず会話は最小限で、文体もどこか冷淡で突き放したような感じがあるけれども、それが文章という形になると心温まる物語に変わってしまうのだから不思議なものである。
この物語の中で、時折書かれる疑問がある。それは登場人物が登場人物に投げかけたものであるのだが、そこだけ作者から読者へ直接語りかけられているような雰囲気になるのは僕だけだろうか。
「人は死ぬ間際に何を考えて死ぬべきなんだろうか」
あなたは何か答えらしきものを浮かべることは出来ますか?
本多孝好「MOMENT」
MOMENT