その中でも僕は、言葉を介さない表現というものはすごいな、と思ってしまうのだ。
言葉というものは僕は好きである。人間のコミュニケーションの基本だし、様々にバリエーションがある。外国語のことは知らないけど、日本語というのはとにかく表現が豊かなようだ。一つの事象、一つの感情でさえ山ほど表現が存在するし、色の名前や季節の表し方などもたくさんある。世界で初めて小説(文学)が生み出されたのも確か日本だし(違ったっけ?)、俳句などの日本独自の表現形式もある。言葉によるコミュニケーションというのはとにかく無限であるし、果てしない。
ただ、それと同時に感じるのは、言葉による表現というのはどこか断定的であるな、ということだ。
例えば小説を読むでも歌を聴くでも映画を見るでもいいのだけど、情景だの会話だのと言ったものは言葉を通じてやり取りされる。音楽はちょっと別だけど、小説や映画などは言葉なしにはなかなか成立し得ない表現方法だと思う。
言葉が断定的であると僕が感じるのは、表したいものを言葉にとって囲ってしまうからだと思う。
言葉というのは比較的狭い範囲の物事しか指すことができない。だからこそコミュニケーションのツールとしてはかなり有用であると思う。言葉によるコミュニケーションでももちろん誤解は存在するが、しかしある一つの言葉が指す物事というのは限定的だということには変わりない。「リンゴ」という言葉はあの食べ物のリンゴを指すわけで、別の状況では犬のことを指している、なんていうことはない。
何か表現をする時に、自分の表現したいものにぴったりと合う言葉が存在すればいい。しかし、大抵そういうことはないだろう。言葉というものがあまりにも狭い範囲のことしか指さないので、自分の表現したいものからちょっとずれてしまう。そのずれが積み重なっていくと、結局自分が表現したいものとはまったく違うものが出来上がってしまうことになる。その中でいかに表現をするかというのが問われるわけだけど、なかなか難しいだろうと思う。
言葉というものから開放された時、表現というのは少しだけ自由の羽を伸ばすことが出来るのではないかと思っている。自分の表現したいものを一旦言葉に落とし込むのではなく、それそのものをダイレクトに誰かに伝えることが出来れば、それは素晴らしいことだと思う。
本作では、舞踏というものが扱われている。
正直僕は舞踏というのは見たことはない。恐らくこれからも見ることはないだろうと思う。しかし本作で描かれる舞踏というものを考える限り、舞踏というのはまさにそういう表現としてぴったりなのではないかと思うのだ。
舞踏というのは、小道具やセリフなんかをまったく使うことなく、自らの体の動きだけで何かを表現するという芸術である。ストーリーがあるわけでも具体的なシチュエーションがあるわけでもない。だから、その舞踏を見て観客が感じるものは、それこそ一人一人違ったものになるだろう。自分の伝えたいものがきちんと伝わるかという意味では伝わらないのかもしれない。
しかし、限定的ではないイメージを、言葉ではない形で伝えることが出来るというのはすごいではないか、と思うのだ。それが、見る人に届く過程でまったく違ったものに成り代わってしまったとしても、それはもはや問題ではない。表現する者が何かを表現しようとして、見ているものが何かが伝わったと感じれば、それで一つ完結していると言えるだろう。
この文章を書いていて思い出したことがある。
バイト先の女の子がバレエをやっていて、その発表会があったので観にいったのだ。バレエというのも、そういう限定的ではない表現だな、と思ったのだ。
発表会は二部に分かれていて、第一部は白鳥の湖だった。これはセリフはないけどストーリーはあって、まあ限定的ではあったと思うのだけど、第二部はいくつかのグループに分かれてそれぞれがいろんなテーマで踊るというものだった。
この第二部を見ていて、これは面白いぞ、と思ったのだ。もちろん僕はバレエなんか全然知らないし、今まで見たこともなかったのだけど、それでも彼女たちが統一された踊りを舞う度に、なんとなく言葉に還元できない、イメージみたいなものが伝わってくる感じがするのだ。僕が受け取ったものが、相手が表現したかったものかどうかはもちろん分からないのだけど、しかし何となく何かが伝わった気だけはするのだ。言葉を使った表現では、こういうことは出来ないと思う。なんだか少しだけ羨ましいなと思ったのだ。
きっと僕はこれからも小説を読むし、もしかしたらもしかしたらだけど小説を書こうとするかもしれない。結局僕は言葉に縛られたまま生きていくのだと思うのだけど、たまには言葉から開放されて、何でもない、ただの一個の表現として存在してみたいかもしれないな、と思ったりしました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
野宮朔は12歳の小学生。父親は舞踏家で、大道具の仕事をしながら、赤字を出しながらも年に何回か講演を行っている。母親とは離婚した。舞踏のことしか頭にない父親を見限ったらしい。今では家事全般は朔がやっている。また、普段から父親の関係者と会ったりしているせいか、周囲の子供と比較してかなり大人びた性格をしている。
父親の知り合いの佐倉さんという人に出会う。31歳で、父親と同じくやっぱりどことなく変な人なんだけど、一緒にいると妙に気になる。お兄さんという感じだ。時々会うのだけど、会う度によく分からない感情がやってくる。
学校では鹿山さんという女の子とよく話す。というか鹿山さんとぐらいしか話さない。鹿山さんははっきりしていて自分の意見をきちんと言って、そのせいだと思うけどクラスでもちょっと浮いている。でもそんなあり方が朔には羨ましくて、鹿山さんを尊敬している。
また、ちょっとしたきっかけで田島君という男の子が気になる存在になった。好きとかそういうのじゃないと思うけど、なんとなく気になる存在。
朔の日常は緩やかに過ぎていく。その中で起きた、朔にとっては消せないある事件。そして朔は一つの復讐を決意する…。
というような話です。
うーん、どうでしょうか。なんとも言えない作品だなと思います。
島本理生の作品は「ナラタージュ」を読んだことがありますけど、まああっちはそれなりに読めたかなという気がするんですけど、この作品はどうなんでしょうね。なんとも言えない読後感です。
文章は相変わらず巧いという感じがしますが、でもこの作品はなんかダメです。ダメな理由を言葉にしようと思うんですけど、どうも巧くいかないですね。
作中で語られるある事件がダメ、というわけではないと思います。いや、もちろんダメなんだけど、それが作品として浮いているとか違和感があるとかそういうことではないような気がします。もっと別のことに違和感を感じているような気がするんですけど、よくわかりません。全体的にぼんやりとした印象でした。
佐倉さんや父親が関わる大人の部分と、鹿山さんや田島君が関わる子供の部分がどうも巧くかみ合っていないようなそんな感じはしました。ストーリー全体としても、その二つの部分はお互いに影響しあっていないというか、あまり全体として関係ないかなという感じです。朔という少女のあり方が、その二つの領域をどうも巧く生きていない感じで、微妙な齟齬がある、というようなそんな感じでしょうか。
というわけで、僕としてはオススメ出来ない作品ですね。なんとも言えない感じです。ただ、舞踏というのはちょっと面白そうだな、とは思いました。
島本理生「あなたの呼吸が止まるまで」

あなたの呼吸が止まるまでハード