さて、シリーズ二作目。今回もとりあえず内容について触れることにしようと思う。
建築学科の犀川の友人の土木学科の喜多。その研究所である通称<極地研>に見学にいくことになった犀川と萌絵。実験内容はよくわからない萌絵だが、犀川はとても楽しそうだ。
実験内容は、極地(南極・北極)の環境に設定された実験室内で、石油プラントの模型を浮かべ、波や風による影響を調べる、というものだ。だから、実験室にはプールがあり、またマイナス20度以下まで温度を下げることも出来る。
研究所の人間にとっては重要な、犀川にとっては興味深い、萌絵にとってはつまらない実験が終了したあと、その実験室内で打ち上げが開かれることに。犀川と萌絵も参加するが、当の研究所所属の大学院生二人が姿を現さない。研究所内を隈なく探すが見付からない。
萌絵の一言によって、まだ調べていなかった鍵の掛かった準備室に入ってみると、そこで二人が殺されているのが発見される。
状況的に、ほぼ普通のやり方では出入りすることの不可能な完全な密室での殺人。萌絵は張り切って情報を集め仮説を立てるがうまくいかない。犀川も思考するが・・・
という感じの話。
どうも、森ミステリは、あらすじだけ書くとあんまり面白そうではないな。つまり、あらすじに本質がない、という珍しいパターンなんだろうと思う。だから、読んでみないとその面白さは絶対にわからない。
今回の話はパズル的で、いくつか条件付の出入り口(壊れていて開かないシャッター・17時以降は外から開かない非常ドア・二箇所に保管され複製が簡単にできない鍵で施錠できるドア)と、周辺の人間の行動を組み合わせて、動機や何故こんなやり方をしたのかという考察をとりあえず無視したディスカッションの場面は、まさにパズルを解くかのようだった。トリックは素晴らしいし、そこに至る犀川の思考も素晴らしい。当然、登場人物の描き方も素晴らしいし(理系の、しかも大学の人間を見事に描いているという点で評価が高いようだ)、それに犀川と萌絵のやり取りもいい。
実質的な第一作(つまり森博嗣が初めて書いた作品がこの「冷たい密室と博士たち」)なわけだけれど、確かに地味だけど完成度は素晴らしいです。
というわけで今回は、このS&Mシリーズ(犀川と萌絵の頭文字を取ってそう呼ばれる)の基本的なことについて書こうと思います。
犀川創平はN大学建築学科の助教授。遅刻が嫌いで、講義には絶対に遅れない。試験はない。煙草が吸えないと平常心が少し保てなくなる。コーラが好きで酒はあまり飲めない。かつてN大総長だった西之園氏(名前はどうだったかな?)の元で研究していた。
西之園萌絵はN大の建築学科の学部生(とりあえず今のところ。シリーズが進むにつれて院生になった気がする)。学部生でありながら犀川の研究室に出入りしている。両親(父親はN大の元総長)を航空機事故で亡くしてからは、諏訪野という執事(まさにマンガに出てくるような執事たる執事)と愛犬トーマ(寝る時には仰向けになるデブ犬)と、自らがオーナーである高級マンションの21階と22階(22階が最上階)に住む超が何個もつくお嬢様。後見人である伯父は愛知県警の本部長、伯母は県知事夫人、その他政財界に幅広く権力を持つ有数の権力者集団である西之園一族の一員である。
舞台は愛知県那古野市(名古屋市をもじったわけで)。N大もそこにあり、大体の事件はそこで起きる。大抵のシリーズ物のミステリのように、お約束のように犀川と萌絵は事件に巻き込まれ、そして解決する、といった感じかな。
重要なのは、萌絵は犀川のことが好きだ、ということだ。この進展具合もかなり面白い。犀川という、一般からすれば特殊に分類される人間の、恋愛における考え方、というものが面白くていい。
いつも何かしら自分なりのオリジナリティ溢れる魅力的な考察やら文章やらが書ければいいんだけど、そうもいかないのでこのへんで。いつものように、気になったフレーズを書き出してみます。
(前略)問題を解くことがその人間の能力なのではない。人間の本当の能力とは、問題を作ること。何が問題なのかを発見することだ。したがって、試験で問題を出すという行為は、解答者を試すものではない。試験で問われているのは、問題提出者の方である。どれだけの人間が、そのことに気がついているだろう。
(後略)
(前略)
いろいろな意味で、西之園萌絵は、犀川にとって特別な学生だった。何が特別なのか、曖昧であるが、曖昧なままにしているということが、一番、彼にとって特別なところといって良い。
(後略)
(前略)成長とは、この世で最も不気味な運動だ。初めは身近な死への単なる驚きだったそれは、今では解けない数学の問題のような不可解さ、すなわち、鮮明な部分的形態と曖昧な全体認識を併せ持つ暗号文、あるいは、設計図のないプラモデルのようなもの、に成熟しつつある。(後略)
(前略)以前、何故携帯電話を持たないのか、と萌絵に尋ねてみたことがある。西之園家の令嬢なら、それくらい当然だと犀川は思ったからだ。彼女の返答は、実に納得のいくものだった。「いつも電話に出なくちゃいけないほど、私、プア−じゃありませんから」
(後略)
(前略)その鞄のセンスの悪さは何とかしなければいけない、と常々、萌絵は感じていた。本当にどうしたものか、と一晩真剣に考えたこともあったが、結論はまだ出ていない。気の短い彼女が、こんな単純な問題を未解決のままにしている。適切な解決方法も思いつかない。そんな馬鹿みたいな自分は初めてだったし、萌絵には驚異的な経験だった。それが、彼女にとって犀川が特別な人間であるという理由である。
(後略)
(前略)「面白ければ良いんだ。面白ければ、無駄遣いではない。子供の砂遊びと同じだよ。面白くなかったら、誰が研究なんかするもんか」
(後略)
「(前略)単純な境界条件ほど再現が難しいね」
(後略)
(前略)
(散らかっている?)
そんな自動詞は不適当だ。何か猛烈な哲学を感じさせる散らかり方である。おそらく、喜多の頭脳の構造を象徴しているのだろう。どう象徴しているのかといえば、つまり、彼の頭脳はこの部屋と逆なのである。犀川の部屋が片付いているのは、犀川の頭脳が散らかっている証拠だからだ。
(後略)
(前略)
「がいの街ですね。ちょうの町と、どう違うんですか?」船見が質問した。
「街のほうが画数が多い」犀川は自分で口にしたジョークのタイミングに満足する。(後略)
(前略)
「きっと、鈍感なんだね、僕は」犀川は苦い煙を吐く。「それに、生き物には・・・、そう、あまり関心がない」
(後略)
(前略)
「僕は、歴史が専門だからね・・・、実験はもう終わっているんだよ」
萌絵は、犀川の言葉を考えたが、完全には理解できなかった。
(後略)
(前略)彼女は高いところからの眺めが好きだ。深いところよりは恐くない。高いところは何故か安心できる。何も上から落ちてこないのだから。
(後略)
(前略)
「カルピスとコーラスって、どこが違うのか知ってるか?」喜多が尋ねる。
犀川は少し考えてから答えた。
「味が全然違う」
(後略)
(前略)
(しかし、高等動物の人間だけが殺しあうではないか・・・)
犀川は自問する。
(それは、人間だけが、生命に直接関係ない行為に価値を見出すからだ)
(後略)
(前略)
「責任と責任感の違いがわかるかい?」しばらくして、犀川が言う。
「字数が違うわ」萌絵は咄嗟に冗談を言った。
犀川は笑わない。
「押し付けられたものか、そうでないかの違いだ」
(後略)
(前略)
数学の問題がわかって、問題なく解答にたどり着いた、と思ったのに、数値が複素数になってしまったときのような不安感だった。
(後略)
(前略)
(凍死って、一番綺麗な死に方かな)
(後略)
(前略)
「ねえ、先生。もう少し、ここにいて下さらないかしら?」慌てて萌絵は頼んだ
もっと話をしていたかった。
「上品な言い方だね。どうして?ぬり絵でもしたいの?」
「ぬり絵?」萌絵の頭の中は真っ白になる。
(ぬり絵?)
同じ単語が何度もエコーのように繰り返される。意味が全然わからない。
「ごめんごめん、ジョークだよ」犀川は笑った。
「ジョーク?」
「意味はない。意味がないのが高級なんだ。」
(後略)
「(前略)もっとも、問題を解くことに比べて、解答の意味するところを思慮することは格段に困難です。それに、こういった人間の感情を言葉で表現すること自体、円周率の小数点以下を四捨五入するみたいで、気持ちの良いものではありません。」(後略)
(前略)
「プライドが一番大切なものなんですかね」
「そうですね。人間に残されているものは、プライドだけですから」犀川は同意する。
(後略)
(前略)
「犀川先生なら、どう答えますか?」国枝桃子が無表情で尋ねた。「学生が、数学は何の役に立つのか、ときいてきたら」
「何故、役に立たなくちゃあいけないのかって、きき返す」犀川はすぐに答えた。「だいたい、役に立たないものの方が楽しいじゃないか。音楽だって、芸術だって、何の役にも立たない。最も役に立たないということが、数学が一番人間的で純粋な学問である証拠です。人間だけが役に立たないことを考えるんですからね」
(後略)
(前略)
「内緒と沈黙は、どこが違う?」
犀川は独り言を呟く。
「内緒は、人間にしかできない」
(後略)
森博嗣「冷たい密室と博士たち」
冷たい密室と博士たち講談社ノベルス
冷たい密室と博士たち講談社文庫