僕の指す歴史というのは、過去起こったとされるありとあらゆる出来事のことである。つまり、人間の歴史まで否定するつもりは特にないということだ。僕の中では、ある人物がどのように生きたのかという歴史は、まあその真偽についてはまた問わなくてはいけないにしろ、まだ許容できる。実際、アインシュタインや著名な数学者なんかの話を読むのは好きである。織田信長や坂本竜馬といったような人達にはあんまり興味は持てないのだけど、それでも、彼らがどのように生きたのかという形で語られる歴史ならまあいいかな、とは思える。しかし、学校の授業でやるような、起こった出来事の羅列としての歴史、あるいは歴史を学ぶことは大事だと言われる時の歴史、そうしたものにはどうしても興味が持てない。
しかし、伝統であればまた別である。
歴史と伝統というのは、パッとした印象としては近いものがあるかもしれない。しかしそれはまるで違うものであると言えるだろう。
歴史は消化されるだけだが、伝統は守られるものである。
歴史は過去だが、伝統は現在進行形である。
歴史は繰り返さないが、伝統は繰り返すことこそが本質である。
歴史と伝統はまるで違うものである。
伝統というのは僕は結構好きだ。伝統と言ってパッと思い浮かぶのは京都であるが、昔からある建物や祭りが今も残っているというのは素敵だと思う。また、その伝統の周りに人が集い、その伝統を守ろうと一致団結している様もいいではないか。
それに、伝統というのは何も古ければありがたいというものでもないだろう。いろんな地域に、いろんな祭りや行事やなんかが残っていると思うのだけど、それらはどれくらい前から続いているのかということに関係なく、毎年違和感なく続いていけばもはや伝統なのである。
さてそう考えると、いつから伝統は伝統になるのだろうか、と思ったりするのだ。
例えば、初めは習慣だったり日常だったりするのだろうと思うのだ。初めから、これを伝統にしよう!なんて考えて物事が始まることはない。一番初めは何でもない風に始まって、特にどうということもない何でもないものだったに違いない。ある一定の期間で繰り返すのだけど、それは初めの内は習慣だったり日常だったりと言ったようなものだったに違いない。
しかし、ならばそれがいつ伝統に変わるのか。
僕の仮説では、それが起こったそもそもの始まりを実際に見て知っている人がすべて絶えた瞬間から、伝統は伝統になるのではないか、と思うのだ。
例えばあるお祭、なんでもいいのだけど名前だけ知ってる祇園祭りにしてみよう。この祗園祭りにしたって、遡っていけば一番初めというのがあるわけで、それからまあとりあえず続けていこうじゃないか、という形でずっと続いていくわけである。
その初期のうちの原動力というのは結局のところ何かと言えば、それを一番初めにやった人間の思い入れだと僕は思うのだ。祗園祭りを一番初めに計画し実行に移した人々というのは、生きている間ずっと、それがちゃんと行われるか気になるだろう。自分で計画に参加するかもしれないし、そういう役から降りたとしても、外からいろいろと口を出したりするに違いない。だから、初期の頃というのは、そういう発破を掛ける人間がいるからこそ物事というのは続いていくという側面がある。
しかし、その一番初めの祗園祭りを実行に移した人々がすべていなくなってしまったら(死ぬとかだけでなく、その地域からいなくなるとか、何らかの事情で関われなくなるとかなんでもいいのだけど)、さてどうなるだろうか。その時点で、それを続けるかどうかというすべての判断は、一番初めにそれを始めた人ではない人によって決断されることになる。この時初めて、伝統というのは伝統になるのではないかと僕は思うわけです。
つまり、これを始めた人の意思を継続させたい、という思いこそが伝統が伝統であることの本質ではないか、と思うわけです。祗園祭りを始めた人はもういないけど、でもそこに込めた思い、そこに費やした時間を想い、よしそれを受け継いでいこうではないか、となった段階で、ようやく伝統というのは伝統の片鱗を見せ始めるのだろう。
何も伝統というのは、格式の高いところにだけ存在するわけではない。
以前「鴨川ホルモー」の感想の中で、僕は大学時代とんでもなく奇妙なサークルにいたのだ、という話をたぶん書いたと想う。そのサークルだって、立派に伝統を受け継いでいたのである。
僕がいたサークルは、出来てから確か50年以上の歴史のあるサークルだったと思う(正確には覚えていないけど)。とにかくそのサークルで形作られていたありとあらゆることはとにかく奇妙で、いっそ理不尽と言ってしまってもいいぐらいのものが山積みだったのだけど、しかし結局僕らはその伝統を受け継いでいくことになった。僕はそれにそこまで貢献したわけではないけど、しかし伝統を後世に伝える要素の一つではあったと思う。
そのサークルにいて僕が実感したのは、伝統というのは始まってしまったら止めることが出来ないのだな、ということである。先ほども書いた通り、伝統というのはそれを始めた人間がいなくなって初めて伝統になりえる。それを始めた人がいる間であれば、その人の一声でその行事はなくなってもおかしくないかもしれない。しかし、その人がいなくなり、その人の意思を継いでいこうとなり、伝統が伝統として形になってしまうと、もはやそれを停止する装置というのはどこにも存在しない。何かを始めるのは簡単だけど、何かを終わらせるのは酷く難しいというのはまさにその通りで、それがどんなに奇妙でへんてこでおかしくて不気味で醜悪でとんでもないものであっても、一旦伝統になってしまうと、人間の意志でそれを止めることは本当に難しい。続いてきた時間の長さ、そしてその間に関わっただろう多くの人々のことを思い浮かべ、やっぱり自分の代でこれを終わらせることは出来ない、という風に考えてしまうことだろう。
みうらじゅんの著書に「とんまつりJAPAN」というものがある。僕は未読だが、要するに日本中の奇妙な祭りを紹介する本である。奇妙な踊りを踊ったり、奇妙な格好をしたり、中には男性器を模したオブジェがメインとなるような祭りもあるらしい。恐らくやっている人も、どうしてこんなことを続けているのかというその本質の部分を完全に失っていることだろう。
しかしそれでも伝統というのは止まらないのだ。だからいいとも、だから悪いとも言えるが、とにかく僕は、伝統というのはあり続けるだけで価値があるはずだ、と信じている。もちろん、その伝統を維持していくのには莫大な労力が必要なのだけど。
本作は「鴨川ホルモー」の続編であるが、要するに伝統に取り込まれ、そこから抜け出せなくなった人々の話である。しかもその伝統は500年も続いているというのである。そりゃあ止められないわ。ご愁傷様、というしかない。アーメン。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は「鴨川ホルモー」の続編で、「ホルモー」に関わる人々の恋愛模様を描いた短編集になります。というわけでまずは、「鴨川ホルモー」の大雑把な設定だけ書きましょう。
京都にある四つの大学で代々受け継がれてきたある競技がある。それが「ホルモー」である。ホルモーとはなんなのか語るのは難しいが、あっさりと言ってしまえば、普通の人間には見えない「オニ」を使役して戦うスポーツである。
500年も前から代々京都の四つの大学に伝わってきたというこのホルモー。京都の街を跳梁跋扈し、オッサンのえずくような「オニ語」を発しながら、自らの安泰を掛けて必死で戦い抜くのである。
まあそんなホルモーにどっぷりと関わっていた人々がそれぞれ出てくる短編集になります。
「鴨川(小)ホルモー」
ホルモーに参加する大学の一つ、京都産業大学の玄武組。そこに<二人静>と異名を取る、定子と彰子という二人の女性がいた。「黒い嵐」とも称され、しばしば「王者」とも号される京都産業大学の強さの源と言われる二人である。
この二人、共通項がそこまであるわけでもないのだが、妙に気があった。世の男どもを排除し、常に二人の世界を築き上げ、もちろん彼氏など出来るわけもなかった。二人の結束は強く、その結束がそのまま京都産業大学の強さに直結するのである。
しかし、ある日突然二人の結束が崩れた。彼女達に何かあったことは間違いないが、周囲の人間には何がどうなったのかさっぱりである。しかし二人はある事情を前に、もはやホルモーを以って戦わないわけにはいられない状況になってしまったのである…。
「ローマ風の休日」
僕が働いているイタリア料理店に、楠木ふみという、大木凡人に似た女性がアルバイトとして入った。とにかく不思議な人で、とにかく喋らないし仕事がない時でも黙って立っている。しかし仕事を覚えるのは驚異的に早かった。
ある時大変な事態がやってきた。店長がとある個人的な理由から早々と早退してしまったのだ。店長や古参クラスのスタッフにしか出来ない「仕分け」という仕事があるのだが、その日誰もその仕分け作業の出来る人間がいなかった。しかしそれなのに団体客の予約が入っている。どうしたらいいんだ!
そんな時、楠木ふみが僕らに指示を出し始めた。なんだなんだ、まさか楠さんが仕分けをやるっていうのか…。
「もっちゃん」
僕はもっちゃんと鴨川のほとりでボーっとしている。僕は、何故人間は光合成が出来ないのだろうか、などとくだらないことを考えていたのだが、もっちゃんの方はそうでもないようだ。なにしろ、食欲の塊りみたいなもっちゃんが、自分の持っているパンを僕にくれたのだ。これは何かある。恋でもしたのだろうか。いやいや、もっちゃんに限ってそれはなかろう。
「ラヴだ」
もっちゃんはそう呟いた。話を聞くに、どうやら電車の中で一目惚れをしたのだそうだ。よく分からない理屈により振られたと勝手に判断しているので、いやいやラブレターでも書こうぞよと提案してみるのだけど…。
「同志社大学黄竜陣」
どうしても桂先生の講義を受けたくて、浪人してまで同志社大学に入学した私。しかしそんな矢先驚くべき話を耳にする。なんと桂先生は今年限りで退官するのだとか。そりゃないよ〜。
というわけで、上級生の教室に潜りこんででも桂先生の講義を受けてやろうと決意してキャンパスに乗り込むも、よくわからない展開からその桂先生から頼まれ事をされてしまう。
そしてその途中で、なんだか奇妙なものを見つけた。
手紙である。1枚目には「horumo」と聞きなれない単語。そして2枚目からは流暢な筆致の英文が書かれている。「Dear Joe」から始まる、「W・S・Clark」なる人物から送られた手紙と、そしてそれと一緒に入っていた浴衣。何なんだろうか、これは…。
「丸の内サミット」
榊原康と井伊直子は、ともに職場の同僚から合コンに誘われ、まあたまにはいいかという感じで出てみることにした。場所は東京丸の内。丸の内である。
さて合コンの場で顔を合わせた二人はビックリ仰天。なんとお互いに知り合いだったのだ。どんな知り合いなのかとそれぞれ聞かれて、二人は何て答えたらいいのか分からない。京都でホルモーっていう競技をやってた仲です…なんて言えるかぁ!
「長持ちの恋」
珠美はとんでもなく貧乏だった。その日の食事代にも事欠くような、それほどの貧乏だった。
とにかく働かねば。
そう思い立ち、「狐のは」という名の料亭でアルバイトをすることにした。いろんなものをただ持っては運ぶという仕事である。賄い付きというのもよかった。賄いの料理を初めて食べた時は、あまりの美味しさに涙してしまったくらいである。
ある日、蔵まで行って取ってきて欲しいものがあると仕事を仰せつかった。ひょこひょこ向かうと、蔵の中にはなんとも古い長持ちが置いてある。蓋の部分には「なべ丸」と書かれている。
その時珠美は何を思ったか、その蓋にマジックで「珠美」と書いてしまっていた。えっ、何で。どうしよう!
しかしその後、珠美は蔵に行く度に奇妙な文通をやり取りする羽目になるのである…。
というような話です。
いやぁ、最高に面白い話でした!これは無茶苦茶面白いです。最高です。もちろん「鴨川ホルモー」あっての本作ですけど、でもこっちもかなり面白いなぁ。
まず何よりも僕は、「もっちゃん」にやられました。これはホントいいなぁと思いました。「ホルモー」とは正直あんまり関係ないんですけど、なるほどそういう展開ですか!という驚きがあります。詳しくは書けないですけど、この「もっちゃん」を読んで、僕はある本を買ってしまいました。こういう、他の本に興味を向けさせるという意味でもすごくいいですね。
また「長持ちの恋」もよかったです。これなんかはまさに「ホルモー」の設定の幅広さをうまく利用していて、こういう感じでストーリーを書いていけば、このホルモー関係の話なんかいくらでも書けるんじゃないかな、と思ったりしました。長持ちを通じて文通をするという設定も斬新だし、しかも物語の終わらせ方がすごくよかったですね。なるほどなぁ。チョンマゲがまさかあんな風に関わってくるとは…。
「同志社大学黄竜陣」なんかも、パターンとしては「もっちゃん」に近いですけど、なんか馬鹿馬鹿しくて笑ってしまいます。これなんか、中身のなさで言えば本作中トップではないかと思うのですが、その中身がなくて馬鹿馬鹿しいというところが読んでて面白いわけで、やるなぁ、と思いました。
女同士の友情だったり、凡ちゃんの凄さだったり、あるいは舞台を東京に移したりと、とにかくいろんな話が詰まっていて楽しいです。いやホント、この作家はまだまだやりますね。底の見えない作家です。これからもまだまだ期待できることでしょう。ホルモーの続編でもいいし、新作でもなんでもいいので、早く書いてください!ちょっと万城目学からは目が離せないですよ!是非是非読んでみてください。
万城目学「ホルモー六景」

ホルモー六景ハード