敏孝は、錠剤の入った小瓶を持って快哉を叫んでいる。中に入っているのは、毒々しいまでに真っ赤な丸い錠剤が一つ。
「これで俺もやっと透明人間になれる」
そう、その錠剤は透明人間になるための薬なのである。
初めは都市伝説のような形で広まったのだった。どこかの学者が透明人間になる薬を開発したとかなんとか、そんな類の話だった。もちろん誰も信じてはいなかっただろうが、しかしその噂は勝手に尾ひれをつけて広まっていった。曰く、透明人間に痴漢をされただとか、あるいは透明人間に商品を盗まれただとか、そういう主張をする人間が出てきたのだ。都市伝説に乗っかる形で話を面白おかしくしただけだろうと当然周りも考えたから誰も真面目に取り上げなかったのだけど、しかしそういうことがあったという話は人の口を介してどんどん広まっていったのだ。
「しかし、今から考えればあれは本当のことだったんだろうな」
敏孝が透明人間について真剣に考えるようになったのにはわけがある。新聞記者である敏孝は、もちろん透明人間の話は知っていたが、どうもその透明人間の話が出る場所に符合してある事件が頻発することに気がついたのだ。
それが、神隠しだった。まあ要するに失踪事件というわけだが。
失踪というのは事件になりにくい。事件になりにくければ新聞記者の耳にもなかなか入ってこない。しかし、いくつかの偶然と若干の飛躍のお陰で、敏孝の頭の中で透明人間の話と失踪事件が結びついたのだ。
「もしかしたら、透明人間になった人間が失踪しているということなのではないか」
そういう仮説に基づいて取材を続けていくと、ある一人の男に行き当たった。結果的にはそれが当たりで、その男が透明人間になる薬を売っていたというわけだ。
「まあいずれにしても試してみなくてはなるまい」
小瓶には注意書きがある。服用直後に意識の断絶が感じられるでしょうが、特に問題はありません、とある。なるほど。まあ早速飲んでみるか。
………
気づいた時には敏孝は道路に横たわっていた。そこは、自分の部屋のあるマンションの前の道路だ。敏孝の部屋は6階にある。あそこから降りてきたのだとすれば、結構長い時間意識が飛んでいたことになるな。などと考えてみる。
「しかしまあ何にしても、これで俺もようやく透明人間だ」
服を脱いだ記憶はないが、既に自分の身体はまったく見えない。いいじゃないか。これで何でもし放題だぜ。さて何からしようかな。とりあえず銭湯の女風呂でも覗こうかな。やっぱ透明人間になったからには外せないでしょう。まあそんなことを考えて敏孝は銭湯の方へと歩いていく。
しかし体が軽い。透明人間になるというのは、周囲から身体が見えないというだけで、物理的に何か変化が発生するわけでもないだろうに、この身体の軽さはなんだろう。普段、見かけの重さみたいなものにさらされているということなのかもしれない。俺達は、重力から受ける重さ以外に、周囲の人間の存在あるいは視線から受ける見かけの重さのようなものも感じていたのかもしれない。それが、周囲の視線がなくなったことによってなくなり、これだけ身体が軽く感じられるということなのかもしれない。身体が軽すぎて歩きづらいぐらいだ。月面を歩いたらこんな感じだろうか。
周囲の人間は誰も俺の存在に気づかない。これは最高だな。太陽も風も周りの人間の服装も変わり映えはしないのに、自分だけがただ一人ものすごい変化を体感している。この昂揚感は普通ではなかなか味わえないものだろう。
「人に教えてあげたいような教えてあげたくないような」
そんなことを思いながら歩いていた時だった。周囲への注意がかなり薄れていたということもあるだろう。もう避けられないというような場所まで車が突進してきていたのだった。
「これはマズイ」
透明人間になったからと言ってこの状況を回避できるわけがない。むしろ透明人間だからこそ、運転手にこちらの姿を知らしめる手段がない。なんとか逃げようと思うのだけど、身体が全然動かない。もうダメだ…。
思わず閉じていた目を開ける。何故か身体はなんともない。先ほどと同じ場所にずっと立っているのだ。車が俺の身体をすり抜けたとしか思えない。
「すり抜けた?」
ちょっと待て、それはおかしくないか。透明人間だからって、身体がなくなるわけじゃない。じゃあなんで今俺は助かったんだろうか。
そこでふと思いつく。まさか…。
目覚めた時俺は道路に横になっていた。俺の部屋は6階にある。透明人間になってからの異常なまでの身体の軽さ。まるで自分の身体が無くなってしまったかのような。
「まさか俺、透明人間になったんじゃなくて、ただ死んでるだけなんじゃないだろうか…」
一銃「透明人間」
そろそろ内容に入ろうと思います。
放送作家の城田裕一は、「雅」というレストランのマダム・大場雅子の「快楽コンサルタント」である。何か面白いことを仕掛けては雅子を愉しませるという、まあそれだけなのだが。
ある日雅子に透明人間ごっこというのを仕掛けてみた。三津子という知り合いの女の子を使って、三津子が透明人間になってしまったのだけど、薬を飲んだ人間には見えるというような趣向を繰り広げたのだ。その後この透明人間ごっこは別の場所で大きく流行ることになる。
さてその三津子だが、城田の紹介で「紅」というバーでホステスとして働くことになる。混血の美しい少女はしかし、しばらくして失踪してしまう。誰もその行き先を知らない。唯一の手掛かりは、三津子のお尻にあるという月と星の刺青のみ。しかしその刺青の線から、三津子の父親と思われる男を突き止めることになる。しかし、三津子の行方は知らないという。
一方で三津子の行方を追う中で、三津子のものとは別の刺青を目にすることになる。「紅」の他のホステスが、腿の内側に蜂を象ったような刺青を持っているのである。果たしてこれは三津子の刺青と何か関係があるのだろうか…。
というような話です。
さて本作は1966年に雑誌に連載された作品だそうで、だから大分昔の作品になります。まだ古典というには早いかもしれないけど、しかし僕からすれば十分古典と言ってしまっていいくらいの作品です。
そんな古い作品なんですけど、この話は面白かったですねぇ。僕は古典が異常に苦手なんですけど、この話はスイスイ読めました。文章が読みやすいし、ストーリーも面白い。最近新潮文庫が昔の絶版本を復刊するという企画をやっていて、これもその一つなのだけど、なるほど昔の作品にもやっぱり面白いものが結構あるのだろうな、と思いました。本作のお陰で、もう少し昔の作品を頑張って読んでみよう、と思えました。
吉行淳之介という作家は、性を題材にしつつ人間を描くような作風が多いようで、まあ本作も確かに性を扱っている作品ではありますけど、僕なんかはミステリとして結構面白く読めました。ちょっとした知り合いが突然失踪する。手掛かりは刺青だけ。しかし探る内に彼女のものとはまた別の刺青が出てくる。これは一体どういうことなんだろう、というような展開で、女だらけの話の中で、城田が一人奮闘します。まあ奮闘すると言っても、女性とくんずほぐれつという感じなんですけどね。
ミステリ的な展開とは言っても、やっぱりかっちりしたミステリというわけではないので、途中からミステリ的な流ではなくなったりしますが、でも最後まで謎解きの要素は残ってなかなかいいと思います。
本作では「透明人間」と「刺青」というのが重要な要素になってくるわけですが、この使い方が非常に巧いですね。特に透明人間の方は巧いと思いました。忘れた頃にさりげなく出してきたり、物語を展開させたり深めたりするためにもこの透明人間の話が出てきます。この悪戯、子どもがやったらいじめとかになりそうでダメですけど、ほどほどにやったら結構面白いんじゃないかなと思いました。
しかしこの城田という男、羨ましいものです。次々に女性をとっかえひっかえで休まる暇がありません。自分がこんな感じの男に生まれていたらなぁ、とか思ったりしますが、それはそれでめんどくさいかなとか思ったり(笑)
僕としてはかなりオススメ出来る作品です。女性でも男性でも楽しめる作品だと思います。読んでみてください。
吉行淳之介「美少女」

美少女文庫