しかし、東京に住んでいると電車というのはなくてはならない乗り物である。いや、正直に言えば、なくてもさほど困らないかもしれない。現に高村君だって普段そんなに電車に乗る方ではない。ちなみに高村君というのがこの話の主人公であり語り部である。語り部であるのに一人称でないのは、まあそういうものだと思って下さい。そもそも「語り部」の「部」って何だろう?「語り手」の「手」もいまいちよくわからない。「語り主」だったら分かるけど、そんな言葉はあまり聞かない。「語り草」の「草」も、絶対「草」とは関係ないと思う。というわけで脱線してみました。
そんなわけで高村君、普段は乗らない電車に乗ることにしたのである。一応これがメインテーマである。メインテーマが明確に明示される小説なんて珍しいが、しかしこれは「M$S」シリーズの真似をしているだけである。「M&S」シリーズが何か分からない人は、「水柿君と須摩子さんが日常を送る物語」だと思ってください。ちなみに、「S&M」シリーズというのもあるのだけど、こちらは「犀川と萌絵が非日常を送る物語」だと思っていただければ結構です。
高村君には特に行き先があるわけではない。これは高村君の行動としては珍しくはない。高村君の行動原理は90%近くが「なんとなく」に拠っている。後々誰かに説明を求められても、それを果たすことはまず不可能だろう。これまでにも、何となく地下鉄を掘ってみたことがある…、というのは嘘だけど、何となく埴輪を埋めたことならあるのだ。しかも皇居の敷地内に、である。どうやって中に入ることが出来たのかという疑問には、高村君は答える気がまったくないので悪しからず。
高村君は、ウロボロスの蛇のように東京をぐるりと回るあの路線に乗り込んだのである。ウロボロスの蛇というのは、二匹の蛇が互いに互いの尻尾を飲み込んでいるような図形だけど、あれは最終的にはどうなるのだろう。というようなことを高村君はまったく考えていない。
電車に乗った高村君は、折りたたみの椅子を取り出して座った。高村君は、折りたたみ式のものを持ち歩くという癖があり、折りたたみの傘や携帯電話はもちろんのこと、折りたたみのコップやら折りたたみの炊飯器やら、明らかに外出先で使わないだろうというものまで持っている。高村君は、歩いていない時は座るというモットーがあるので、この折りたたみの椅子は非常に重宝しているのである。
高村君は、この路線がどの駅で停まるのかまったく把握していない。そもそも高村君には目的地はなく、ただなんとなく電車に乗っただけなのである。ということは初めの方でも書いた。じゃあ何故また書いたのかと言われても答えようがありません、と高村君は言っている。
高村君は、外の景色を見るわけでもなく、乗客を観察するでもなく、もちろん俳句を詠んだりすることもなく、ただぼーっと座っていた。周りの人達は、突然折りたたみの椅子に座った青年を訝しげに見ているのだけど、高村君はそんなこと気にしない。というか高村君は何も考えていない。
アナウンスが流れる。
「次はぁ〜、函館ぇ〜、函館ぇ〜」
なるほど、この路線は函館にも停まるのか。東京にいながらにして北海道に行けるとは、便利な世の中になったものだ、と高村君は考えている。蟹でも食べようか、と思いはしたが、特に理由もなく止めた。
「次はぁ〜、梅田ぁ〜、梅田ぁ〜」
なるほど、この路線は梅田にも停まるのか。東京にいながらにして大阪に行けるとは、便利な世の中になったものだ、と高村君は考えている。たこやきでも食べようか、と思いはしたけど、特に理由もなく止めた。
「次はぁ〜、那覇ぁ〜、那覇ぁ〜」
なるほど、この路線は(以下略)
というようなことを高村君はつらつらと考えている。
「次はぁ〜、東京ぉ〜、東京ぉ〜」
高村君は、特に理由もなく、東京で降りた。
一銃「仙人・高村君の日常」
今日はちょっと時間がないのでショートショートは短めです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、<工学部>シリーズ、とはきっと誰も読んでない気がするわけで、<M&S>シリーズの最新刊にして完結編となる作品です。
このシリーズの全体的な雰囲気を大雑把に説明すると、工学部の助教授である水柿君とその奥さんである須摩子さんが織り成す日常のストーリーで、大学の助教授だった水柿君がふとしたことから書いた小説が当たりに当たって作家になってしまう、というような話です。
なんて書くとなんとなく分かると思うのだけど、このシリーズは、森博嗣とその奥さんであるスバル氏の日常をベースにしているとしか思えない構成なのである。そういう意味で、非常に斬新な小説である。
まず何が斬新かと言えば、読者がある程度森博嗣の私生活について知っているということが挙げられる。もちろん知らない人はまったく知らないのだけど、森博嗣は現在も過去もWeb上で日記を書いており(もちろん仕事としてである)、それを通じて森家の生活というのが何となく覗けるのである。その他、エッセイなんかを読んで知ることも結構ある。
そういう、読者がある程度森博嗣の生活を知っているというベースがあると、このシリーズはより面白くなる。もちろん、森博嗣についてまったく知らなくてもこのシリーズは十分に面白いのだけど、知っているとより面白いし、森博嗣としてもそういう効果を十分狙ってやっているだろうと僕なんかは思うわけです。
というわけで内容紹介みたいなことはしづらいんですけど、とりあえず本作の特徴の一つである、無茶苦茶長い各章のタイトルを列記しましょうか。
「まだ続きがあったのか 奇跡の器官を遂げるやいなや 子犬ぴょこぴょこみぴょこぴょこ 柴犬になるコーギーの怪」
「親ばか小馬鹿猪鹿蝶馬鹿にも 数々あるけれそ壁を超えて 這い上がってくる本当の馬鹿には金メダルなんて 馬鹿なことを」
「リフォームのビフォア・アフタで 散財へと突き進みますます 社会からボイジャした セレブな二人と一匹」
「いかにして密室に巨大な パスカルを入れたのかという 疑問に対して真摯な態度で 答える箇条書きこもごも」
「壮大なる宇宙と存在の路傍に 夢見る意思の仄かに微小なる屋 さしずめ花弁に落ちる滴の ごとくなりぬ」
まあこんな感じですね。
本作は、水柿君が作家として大成功を収めて、莫大な富が入ってきた辺りから話が始まります。でまあ、二人の生活がいかに変化がないか(家に他人がいるのが我慢できないから人は雇えない、旅行もめんどくさい、特別欲しいものがあるわけでもない。というか、自分達なりにかなり贅沢な生活をしているつもりなんだけど、それでも全然お金が減らない)というようなことや、水柿君の作家としてのありようや、須摩子さんの変化、また彼ら二人の日常会話など、まあ言ってしまえば大したことのない日常が描かれるのである。しかしこれが滅法面白い。
脱線に次ぐ脱線の連続なのは相変わらずで、とにかく話題がコロコロ変わる。僕のショートショートもそんな感じを目指したんですけど、やっぱ難しいですね。自分で書いてみると分かるんだけど、あの脱線だらけの文章を書くのは本当に難しいですね。意図しなくても会話が脱線してしまうような人はたくさんいると思うけど、意図的に脱線を目論む(なんて大げさな言い方だけど)のがいかに難しいか。
そして本作では、新たな仲間(?)であるパスカルが登場します。本シリーズ中では唯一実名での登場となります。
知らない人のために説明をすると、パスカルというのは水柿君と須摩子さんの飼い犬で、森博嗣とスバル氏の飼い犬の名前でもあります。当初猫好きだったはずの須摩子さんがこのパスカルにベタ惚れで、もうメロメロデロデロという状態なわけです。思わず餌を与えすぎてしまい、パスカルはぶくぶくと太っていくことになります。
まあそんな、恐らくは限りなく現実に近いであろう出来事を、脱線に次ぐ脱線の連続の文章で装飾した、限りなくエッセイに近い小説なわけです。脱力っぷりが凄まじくって、かなり楽しめると思います。
それにしても森博嗣は、テレビも新聞も見ないと公言しているのに、世の中の雑多なものに対する知識が広範ですね。芸能関係とかテレビ関係の知識なんて全然ないイメージなのに、そういうネタが結構織り込んであったりするんですよね。まあ、テレビばっかり見てる須摩子さんからの情報なんだろうけど、それにしてもすごいなと思います。
あとこれはこのシリーズを読む度に書いていると思うのだけど、須摩子さんっていうのはいいですね。僕はですね、結婚ってものにほぼまったく関心がなくて、他人と一緒に生活するなんて絶対出来ないんだけど、でももし須摩子さんみたいな女の人とだったら考えてもいいかなとか思ったりします。同じ家にいてもほとんど会わないし、価値観を共有しようとしないし、お互いに好きなことをやってるし、なかなか特異な視点を持ってるし、贅沢をしたいという欲求もないわけで、非常に素晴らしいとわたくし思うわけです。こういう、世間的な常識に迎合しない人というのはいいと思いますです。
まあそんなわけで、このシリーズもついに終わってしまいましたが、考えてみれば森博嗣は既に引退を発表しているわけで、いずれ森博嗣の著作は読めなくなってしまうわけですね。まあ仕方ないですけど、残念です。
まあそんなわけで、この限りなく特異な小説、読んでみてください。「すべてがFになる」や「スカイクロラ」を読んで、森博嗣という作家はどうも難しいし自分にはちょっと合わないぞ、と思った人は、とりあえずこのシリーズを読んでみてください。昔は、森博嗣の作品の中でこのシリーズは先に読まない方がいいと思っていたんですけど、周囲の人の意見を聞いていると、森博嗣の他の作品はダメでもこのシリーズは面白いという意見を聞くことが時々あるので考えを変えてみました。
森博嗣「工学部・水柿助教授の解脱」
工学部・水柿助教授の解脱ハード